未だ正月の雰囲気が抜けない通りにできた人だかり。一様にごつい仕事道具を手に持った彼等は獲物を待っていた。
「女流二冠が来たぞ!」
彼等の狩りは簡単だ。何しろ目的の人物は防寒着に身を包んでも分かる別世界の登場人物。それが駅から一直線に目的のビルへ向かって来るのだから。
「現在の心境はいかがですか?」
「元奨励会三段を相手に勝算は?」
「朝ご飯は何を食べましたか?」
無数に寄せられる質問への返事は奨励会員として恥ずかしくない将棋を指すという台詞のみ。彼女は歩みを止めることもなく会館の自動ドアへと入って行った。
「相変わらず愛想がない」
「画を撮れればいいんだよ。何処で聞いても同じ答えだからな」
「あの様子じゃ今日も快勝かね。っとと」
「勝った方が三段。連盟も美味いとこを分かってらっしゃる」
寒空の下歩道で駄弁る彼等はこの後ハンドルに日傘を固定したおばちゃんの自転車に突っ込まれてたたらを踏むことになる。
エレベーターで三階まで上がり棋士室に向かいロッカーにスマホを仕舞おうとして点滅するランプに気づく。慎重にアプリを開いて短い返事を書き込んだ。強張っていた頬が少しだけ緩む。姉の大事を前に小童共と初詣に行く八一なんて知らない。そう、少しメッセージを送って来たからといって知らないのだ。
「おや~。何かいいことでもありましたか空二段」
「…別に何もありません」
落ち着くまでドアノブを握ってから外に出た用心が働く。廊下には今日の観戦記者が待っていた。ニタニタと此方を見てくる彼女を無視して対局室へ向かう。ふと窓から階下を見ると報道陣の塊が散っていた。少し気分が上向く。
「あ!おはようございます!!」
「失礼します」
お陰で盤を磨く彼に大声で挨拶されても心を揺らすことはない。空いている上座に座りじっとその時を待つ。ざわざわと騒がしくなったかと思えば盤を報道陣が囲んでいた。無遠慮に突き付けられるマイクブームもいつものことだ。
改めて今日の対局相手を見やる。アマ三冠の辛香将司。かつて僅か14歳で奨励会三段まで昇った人(もちろん抜けた以上八一の方が上手だ)。ニコニコと人の好さそうな顔をしているがプロ入りを目の前に退会を告げられた場に誰がまともな精神をして戻ってくるだろうか。
その答えは辛香がお願いと称して取り出した駒袋の中に入っていた。
「いいかな?そんなに悪い駒じゃあないと思うんだけどな」
「…どうぞ」
退会駒。磨きこまれたその駒からは辛香の執念が感じられる。恐らくこの人はアマチュアの世界で1人奨励会員として戦ってきたのだ。
まあ”知っていた”。この試験が私の昇段にこれ以上なく関わる以上辛香さんのことを調べない道理もない。少しアマ棋戦の棋譜を見ればその泥臭い匂いがすぐわかった。勝ちが見える盤面でも守りを固め相手の心を折る将棋は派手な殴り合いと比べてネット上での評判があまりよろしくない。あれは奨励会員の将棋だ。
「ありがとう!」
私はニッコリ笑う辛香さんを睨み返した。
私が駒を投じると同時に対局室が騒がしくなる。一段二段三段とカメラが並びフラッシュが焚かれる中辛香さんはハンカチで涙を拭った。視線の向け所がない私は俯くしかない。どうせまともな感想戦は見込めないのだから雑音を無視して1人盤に潜ることにした。
「42年振りの機会を見事ものにされた今の心境は…」
「うれしいです…ホンマに、うれしい…」
「空二冠との対局を振り返って…」
「ホンマ、ギリギリの戦いでした…何度追い込まれたか分かりません。彼女は間違いなく三段になる」
そう、決して今日の私のコンディションは悪くなかった。本当に盤面は拮抗していたしあと少しで押し切れた場面すらある。だからこそ私は今日の白星を逃した自分を許せない。
「必死でした。指運の勝利やったと思います…今でも勝てたことが信じられへん…」
終盤で徐々に熱を失っていく自分の指が、盤面を読み切れない頭が、激しくなる動悸が、今日に限ってたった一局で息を切らす自分が許せない。
「次は三段リーグで戦いましょう!」
「…はい」
こんな調子で三段リーグを戦えるのか。ましてなれるのか疑う自分を許せない。玉虫色の回答で取材を振り切り人気のない三階でやっと一息つけた。だがそのドアノブを回す前に気を引き締めなければならない。
「…」
駒音の響く棋士室。盤を覗き込み入室した私を一顧だにしないライバル達。さっさとロッカーに預けた荷物を取り出し彼等のパイプ椅子を巻き込まないよう注意しながら狭い通路を抜ける。下手したらここも辛香さんが来るかもしれない。いや、あのタイプならニコニコ
外に出ると今にも雨が降りそうな曇天。逃げるように大通りから路地へ入り会館近くにある公園で足を止める。どうせ今行っても誰もいない。扉の前で待つことも考えたが負けた姿を小童に見られるのは癪。つくづく邪魔な奴だ。
「あと1つ…あと1つだったのに」
二段になってからずっとそうだ。今まで躓かなかったことはないし過去には今以上に酷い成績も取った。だけどここ一番の勝負にはそこそこ勝ってきた自負がある。それが初段になってからは11勝の時も13勝の時もチャンスを逃し今や15勝7敗。1ヵ月4局でまだ半年?違う。もう半年経ったのだ。私がここから昇段するにはまた3連勝が必要になる。
テレビの向こうの知識人は私の勝率を見て三段入りも近いとか無責任なことを言うがとんでもない。今の二段にはバケモノが混じっているのだ。ただでさえ粘着質な奨励会の有段者相手に詰めろで勝てるところを即詰みで斬る異物。
「だめ。どうせ椚に勝たなきゃ私のプロ入りはない」
今の私の成績は所詮白星が偏った一過性のもの。まだマークの緩い今を逃せば退会まで勝ちを献上し続ける宝箱になってしまうだろう。男所帯の段位者達が私を女だと侮るなり意識している内に、本格的に研究のリソースを割かれる前に三段へ昇らなければ。
「おばさん?」
顔を上げるまでもなく生意気な顔が視界に入る。いけない。コイツがいるってことは隣の足の持ち主は?
「姉弟子」
私は今の情けない表情を見られたくなくて首に巻いたマフラーをひき上げた。恐る恐る視線を上に上げるとベージュのコートをしっかり着こなした八一の姿がある。
初詣の帰りだったのか小童は着物を着て目一杯着飾っている。そして傘を持つ八一へ必要以上にくっ付く小童は挑発するようにこちらを見てきた。どうせ下駄で足元が不安だとか言ったのだろう。絶対着慣れている癖に。
「…」
今ばかりはその手を離せと突っかかる気も起きない。小童が肩を透かされたように首を傾げている。これ以上疑問を持たれる前に一刻も早くここを去るべきだ。
「帰る」
「送って行きます。一端家に上がってください」
「1人で帰れる」
素直に甘えればいいのに意思に反して口が動く。それでいて私の足は根を張ったかのようにこの場を動かない。頭は沸騰、手足は冷え切りそこら中で相反する指令を受けた私の身体は固まってしまった。
「このまま帰そうものなら自分が桂香さんに折檻されてしまうのですが」
「…ふんっ」
芯から温かいなにかが湧いてきてじんわり感覚を取り戻した自分の手足に安堵した。小童のじとっと見てくる視線が腹立たしいがそれ以上の安堵感が身を包む。
「足元だけ地面が乾いてるってドベタすぎです。態とに決まってます」
「あい!」
無言で不自然に乾いた砂地を蹴り飛ばし誤魔化すしかなかった。
握りを直すまでもなくするりと私の手にフィットする。並み居る棋士達を圧倒する竜王の手も今だけは私のもの。師匠の小っさい手が理想で自分の手が綺麗だと称されることに納得してないこと。それでいてケアは怠らないことも私だけが知っている。
十数分の歩きの間私達の間に会話はない。まだ今日の敗北は気になるし眠気を消し飛ばすほどの熱い悔しさもある。だが幼い頃よく感じたこの暖かさは私の心を落ち着かせた。
今だけは弟の声なき言葉に従って休もうと思えるあたり私は簡単なのだろう。
男性の少ないりゅうおうのおしごと!世界を考えたけど八一君の周りは元々そんな感じだった。それでも誰かが書くのを待ってます(毎度遅くなり申し訳ない