今から六年前、奨励会に入ってすぐの頃。あるアマチュア名人の記念対局に記録係として潜り込んだ自分は全てにおいて傲慢未熟に過ぎた。尊敬する一手損の”伯父さん”が不利な盤面でも敗れるとは欠片も思わず何処かで逆転するだろうと予想していた。
僅か三年で師匠や姉弟子に出会った時の衝撃を忘れていた愚か者である。
八一は師匠に呼び出されて清滝邸へ顔を出していた。玄関扉を開けると来客の靴が二足。ただいまの声も小さく静かに居間へ向かう。声をかけて和室に入ると師匠の対面に月光聖一将棋連盟会長と秘書男鹿ささりの姿が目に入り流石の八一も驚いた。
「ご無沙汰しております月光会長、男鹿さん。」
「はいお久しぶりです。崩して構いませんよ。」
「失礼します。」
許しを得て師匠の隣に座る八一。この世で最も尊敬する二人がそろい踏みの状況に困惑する。確かに兄弟弟子の関係で昔は月光がこの家を訪れる度に世話になっていたが最後に会ったのは何時だったか。
「本人が来たところで本題に入りますか。」
「おう。八一が関東の女流棋士を引っかけたことについて…。」
「違います。」
師匠の言葉を月光はバッサリ切った。外でほんの僅かにドタッと音がした気もする。月光会長は見えない目をちらりと外に向けるも此方に戻して言葉を紡いだ。
「稽古仕事の紹介です。」
「レッスン、ですか。」
「はい。将棋界に長く援助をして頂いている実業家の孫娘さんへ指導をお願いしたい。」
「しかし自分はただの四段ですよ?良い先生なんて他に幾らでも。」
暗に他の人へ回せと告げる八一に月光は涼やかな顔で言葉を続ける。
「先方の希望で史上四人目の中学生プロ棋士に教わりたい、と。」
「…ファン、ですか?」
「そうですね。ここは私の顔を立てると思って受けては頂けませんか?」
「ええんやないか八一?稽古の経験は他所と比べて少ないやろ。そんなんじゃ解説とかできひん。」
「分かりました。お受けします。」
「お願いします。」
師匠の言葉に受諾したものの八一の表情は固い。自分が人に物を教える器ではないと分かっていたからだ。男鹿から出先の情報を受け取るもまだ迷っていた。
「何、深く考える必要はありません。八一君にとって教えやすい相手ですよ。」
「どんと行って来い八一。」
月光と師匠の言葉が混乱する八一の耳に届くことは無かった。
数日後、渡された住所メモを手に電車に揺られること小一時間。神戸灘区の高級住宅街に八一の姿はあった。普段の怖い物知らずはどこへやらネクタイの位置を弄っては戻している。
「先方の名前も聞き忘れるとは…。いや、此方から名乗れば問題ない。」
「九頭竜先生でいらっしゃいますね?」
「…はい。」
八一の考えはスーツ姿の女性に崩された。続いて門内に並び立つお辞儀黒服サングラス集団。追い打ちで陣太鼓の迎えに八一の頬は引きつる。
「どうぞ屋敷の中へ。」
「…はい。」
広大な前庭を抜けると豪華な玄関で一人の老人が待っていた。小柄だが風格があり隠しきれない威圧感を感じる。その道の人間と八一は判断する。
「始めまして九頭竜先生。当家の主、夜叉神弘天でございます。」
「夜叉神?…お初にお目にかかります。私九頭竜八一と申します。」
夜叉神の名字に数年前の対局が思い浮かんだ。月光会長がわざわざ稽古を回してきた理由もそれならば納得できる。しかし八一は夜叉神アマ名人と関係があるのかを聞こうとして止めた。前を行く弘天の背中がどこか寂しい物だったからだ。
「月光会長の仰られた通りの御方だ。こちらへどうぞ。」
「お邪魔します。」
「これが孫娘の天衣になります。」
弘天が天女と夜叉の描かれた襖を開けるとそこには黒衣の少女が正座している。彼女の紅玉と赤みがかった黒髪を見てあのアマ名人の娘だと八一には分かった。
「貴方が私のレッスンプロ?来るのが遅いのよ。」
「これ、天衣。先生は時間通りお見えになられておる。」
「いえ、遅れてすまない。九頭竜八一だ。じゃあ、指すか。」
「ふん。」
駒を並べ終えると八一は鞄から対局時計を取り出し将棋盤の横に置いた。そして自陣から飛車を駒箱に仕舞う。
「まあ妥当ね。」
「一番手直り、持ち時間は40分、その後は60秒。」
「ふうん。負けても知らないわよ。」
「何、指せば分かる。」
「「…お願いします。」」
飛車が無い八一に対して定跡通り4筋を攻める天衣。対して八一は脳内に眠る膨大な棋譜から攻撃の隙間に金と桂馬で逆襲し116手で一局目は終了。
二、三、四局目と攻めては痛い反撃で連敗した天衣は六枚落ちの第五局を目尻に涙を貯めて開始した。
「殺す。殺す。」
「天衣!」
「構いません。」
「…後で頭を下げさせます。」
天衣が定跡通りの綺麗な将棋を崩したのは終盤。逆襲の一手を指した八一に対し天衣は自陣に持ち駒を打ちつけ守りを補強し始めたのだ。
構わず更なる杭を撃ち込む八一に天衣は守りを固め逆にカウンターすら狙って見せた。
「ここまでだな。」
「くぅぅうう。ううううぅぅ!」
しかし数手の後八一は天衣の王を詰ませる。連敗し追い詰められ最後の最後に垣間見せた彼女のスタイルに八一は興味を持ちつつも。
「挨拶をしろ。」
「今度は負けない!!」
ボロボロと涙を流しながらこちらを睨みつけ叫ぶ天衣。ドタドタと部屋を出ていく彼女に長い間観戦していた弘天氏が溜息をつく。
「天衣には厳しく言い聞かせておきます。数々の非礼申し訳ありません。両親が揃って事故死してあれは誰も近くに寄せ付けなくなりまして。両親と指した将棋が唯一開いた戸なのです。」
「っ!…こちらこそすみません。強く当たりすぎました。」
「あれくらいで良いのです。孫相手ではどうしても甘やかしてしまいます。」
弘天氏は下げた頭をゆっくり上げると口を開いた。そこに対局前までの風格は無く一気に老けて見える。
「…彼女の父はさぞ将棋がお強かったのでしょう。」
「アマチュア名人でした。ところで天衣は勝てなかった様ですが…。」
「本人が次を望んでいますし続けますよ。」
「ありがとうございます先生。…あれは去年の夏頃から先生を希望してましてな。ありがとうございます。」
その言葉を聞いた八一は借りを返す時が来たと決心する。
「帰ります。彼女に声をかけていってもいいですか?」
「勿論です。晶君案内しなさい。」
豪華な扉の前に彼女のお付だという女性に案内される。ノックしたが押し殺した泣き声以上の返事がない部屋に八一は宣言した。
「夜叉神アマ名人との約束を守るに俺はまだ力不足だ。自分自身が満足出来る実績を獲って来る。それまでは稽古で待ってくれないか。」
少しすると泣き声は止み布切れ音の後扉越しに小さく反応がある。
「私が棋士を目指した時点で師匠になる約束よ。そっちの年齢は関係ない。」
「すまん。俺が納得できない。」
「このクズ。一年で顔も知らない奴の弟子になるから。そのままプロになってボコボコにしてやる。」
「それは…それで楽しみだな。」
「この…手を抜くんじゃないわよ。先生!」
盤面は月光名人の一手で攻勢逆転した。しかし夜叉神アマ名人は光速の寄せに入った名人の10手連続王手を防ぎきり勝利する。後の感想戦で名人の変化手に感心していた夜叉神アマ名人は最後に記録係の少年が示した23手の月光玉詰みに驚いた。
そして”やはり自分にプロは無理だ。将来この小さな奨励会員に娘の師匠になって欲しい”と奨励会編入試験の薦めを断る。
その少年は劣勢状態で勝ちを拾った夜叉神の手こそ対局中見えていなかった。感想戦で詰みに気づいた自分の負けなのに目の前の男はプロにもならず娘を任せると言う。勝ち逃げの様で無性に腹が立って対局室を去る男を追いかけた。
「なら勝者のお願い、いやごめん。これは押し付けがま…。」
「分かった。」
少年は敗北と共に約束を一片一句違わず記憶に刻み込んだ。
姉弟子…?
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