痴漢冤罪の恐ろしさを訴えかける番組を見ていた妻が言った。
「でも気になるわよねー」
テレビ画面には、痴漢冤罪で捕まると面会時に恋人や妻でさえ「本当のところはどうなの……?」と言ってくるので絶望した、という場面が今まさに映されているところだった。
夫は途端に、怒りと恐れの入り混じった様子で顔を歪めた。
「もし僕が痴漢冤罪で捕まったら、君もそう言うのか」
「え?」
「本当のところはどうなんだって、無罪を主張する僕に言うのか」
妻は取り繕うように、または、はぐらかすように笑って答える。
「ちょっと、怖い顔しないでよ。あなたを疑うってわけじゃないのよ。けど、それとは別にやっぱり気になるでしょう? でも、もしあなたが痴漢の容疑で捕まったのなら、実際のところが白でも黒でも、わたしはあなたの無罪を主張するから安心して」
「それを疑っていると言うんだ!!」
「えっ……。でも、だって、気になるものは気になるのよ。仕方がないじゃない」
彼女は夫が痴漢の容疑で取り押さえられた場合、彼が犯罪を犯したのか否かに関してはさして興味がないらしかった。その程度のことならば、何があっても彼女は夫の味方をするつもりなのだ。
だが、それと好奇心については別だった。夫が法を犯したってそれが人命に関わらない限り気にはしないけれど、本当に罪に手を染めてしまったのかどうかは純粋な興味として気になるらしい。
「わかった。気になるというなら、もし僕が…………もし僕に不運が重なりストレスを抱えていた時に何かしらの気の迷いや魔が差したことで、仮に痴漢行為に及んでしまったとしたら。そうしたらその時は、必ず君に白状すると誓う。これは絶対だ。だから君も俺が「やっていない」と言ったら、一切疑わずに信じてくれ」
痴漢冤罪は他人事じゃないんだよ。最後に夫はそう付け加えた。
毎日の通勤に電車を使っている彼にとって痴漢冤罪の話は、次こそは我が身かと思わざるを得ないほど身近な問題だ。普段から自分に降りかかるかもわからない冤罪にびくびく怯えて暮らすほど彼も弱くはなかったが、妻が何気なくこぼした言葉に不安を煽られてしまったようだ。
彼にとっては、世間から白い目で見られることより何を失うことより、妻に疑われることが一番怖かったのだ。
「もし魔が差したら、必ず教えてくれるのね? わかった、ならわたしもあなたを本気で信じるわ。やっていないと言ったならやっていないんだって思う、それ以上何も言わない」
「ありがとう」
自分を信じると言ってくれた妻を前にして、なんだか急に自分がくだらないことで頭に血を上らせていたような気がしてきて、夫はそれを恥じながら笑って誤魔化した。
翌日。仕事から帰ってきた夫は青ざめた顔をしていた。彼はただいまの一言も言わずに独り言のようにつぶやき始める。
「……昨日の痴漢の話だけど」
さすがの妻も少し身構えた。まさか、昨日の今日で「白状」が来るのかと、いくらなんでも驚かずにはいられなかった。
「痴漢がどうしたの……?」
「……………………れた」
「え?」
「されたんだよ!」
つっかえていた物が取れたかのように、「痴漢被害者」の「彼」はその場で脱力した。
まだすべてを理解して飲み込めたわけではない妻も、夫の身になにがあったのかをある程度は察した。そして、幼い子どもをなぐさめるような声で言う。
「教えてくれてありがとう。……警察いく?」
夫はぶんぶんと首を横に振った。彼がか細い声で、泣き寝入りしてしまう人の気持ちがわかった……と言ったのを最後に、今後二人がこの件について話すことはなかった。