ハリー・ポッターとスリザリンの代理人 作:Farben.AG
そう聞かれて振り返ると、歳をとった紳士が立っていた。
「ええ」
実にいいことです。と彼は言った。
「そして、実に幸運でいらっしゃる」
「それはなぜです?」
彼はいたずらっぽい笑みを浮かべて私を見た。
「今日はヴェネツィアきっての劇団による喜劇だからですよ。第一幕のバランゾーネはなかなか見事でした」
去年にはない名演ですよ。そう言って彼は私にワインを勧めた。ありがたく受け取って席に私たちはつく。
目の前に、拍手とともに、老人の仮面をつけた男が現れた。”イル・ドットーレ”だ。
彼は一礼をする。私たちは万感の念をもって拍手をする。
「紳士淑女の皆様……」
さあ、第二幕の始まりだ。
悲しむ人々は幸いである、その悲しみは癒されることであろう。 山上の垂訓
1998.7.9
“コメディア・デッラルテ 第二幕”
“『イル・ドットーレは診察をする』”
泣き声が聞こえる。音は広い部屋に広がった。靴が石畳をたたいて、息を吸い込む音と混ざってさらに広がる。
しばらくすると声には発作を起こした時のようにヒステリックな息を吸い込む音が断続的に聞こえる。やがて、少し過呼吸気味であるが、
「……誰かいるの?」
そんな声がトイレの中にこだました。まだ、本当に「疲れてしまう」ところまで入っていない。一時的な悲しみによるものだ。
声の聞こえるほうに驚かせないように、音を立てず立って、できるだけ小さく、けれども、はっきりと優しく声をかける。
「私です。アドルフです。覚えておいでですか?」
向こうからは返事はなかった。しかし、どことなく私のことを覚えている。そんな雰囲気があった。
「汽車で一緒だった……」
しばらくしてそんな声が聞こえる。気持ちを整理しているようだ。
「そう、そのアドルフです」
そして、少しばかりの沈黙を挟んで、彼女は返事をする。
「あなたも私のことを笑いに来たの?」
口調は落ち着いているが、幾分かパニックを含んでおり、ある程度 -しかし、一時的な過呼吸に陥っている息遣いである。
私は心の中に安息を取り戻す。なんと幸いなることか。彼女はまだ大丈夫だ。
初期の初期症状だ、少しばかりの言葉と慰め、助言によって回復する。私は彼女に話しやすい環境を作るようにする。
「いいえ」
出だしが重要だ。いかに警戒を解くかだ。
「じゃあ、なぜ、い、いるの?」
「大広間に行く途中で、迷ってしまいまして。ご存知の通り、ここは広い。それで、戻っている間、泣き声を耳にしまして、気になって参りました。お邪魔でしたか?」
やはり、出ていくそぶりを見せるべしだ。私は後ろに下がっていく足音を演出する。むろん、彼女が望むのであれば本当に出ていくべきだ。
「待って」
私は歩みを止める。これを彼女の話を聞くべき機会と受け取るべきか測りかねているのもある。黙ったままカバンを持ってその場に立つ。
「そ、そこにいて」
ハーマイオニーは涙をぬぐって、扉を一枚隔てた向こうにいる少年を思い出す。汽車の中で何回か話し、会釈をした程度の存在。これと言って特徴はなく、スリザリンにいるというだけの少年。
もはや友達と呼べるのかすら、わからないが例えばラベンダーと話したことを整理するのであれば、おそらくはおとなしいのであろう。というのもだがあのネビルと一緒によく歩いて勉強しているのがうわさに上るからだ。あるいは、魔法薬学などをはじめとしたころに見せる姿は特徴がつかみにくいものの、親切そうなそぶりを見せるのをおぼろげだが覚えている。
何よりも、私と似ているとも思う。主観的なもので、図書館によくいる、あるいは本が好きそうといった、客観的な証拠を欠いていて、普段の彼女らしくもない冷静さを欠いた考えだったが、妙に腑に落ちた。
だから、ハーマイオニーはこう言った。
「ね、ねえ。話を聞いて、は、くれませんか?私の話を……」
と。
言ってしまって、彼女はしまったと思った。しかし、薄々こう思ってもいた。
ふしぎなことに、どうせ終わるのであれば、話を聞いてもらったほうがよいではないか、と。
もう自暴自棄になっていたのもあるかもしれないが、彼女は、ほとんど会ったことのないアドルフを信用し、話すことを選んだ。
何か、すがることのできるものを期待しつつ、ハーマイオニーは深呼吸をすると、彼の答えを持った。
フォン・ピュックラー=ブルクハウスの手記
彼女は怯えが見えつつも、話を選んだ。素早くではなく、ただし程よい速さで私は答える。
「ええ」
畳みかけないように注意を払って言葉を紡ぐ。少し間があったがゆっくりと声が壁を通して耳に入ってくる。
彼女の話はこう始まる。
いつもと同じはずだった。普段と同じように彼女はホグワーツの日々を過ごした。
そして、授業の際にいつも通り、彼女はウィーズリーに指摘をした。それは間違っているよ。と。するとウィーズリーは言い返し、そのあとで彼女のことをものの見事にあざ笑って見せた。
さて、ここからが重要だ。普段ならば、普段ならばこうしたことはどうといったこともないはずだった。自分に友達が少ないことも知っていたし、ロナルド・ウィーズリーの言葉を借りるのであれば、彼女は「悪夢みたいなやつ」とのことだが、これもまた自覚していたことだった。けれども、R・ウィーズリーがハリー・ポッターにそう言った瞬間になぜだろうか、彼女は胃に冷たいものが走り抜ける感覚と、悲しみにあふれ、いつものように制御できなくなった。そして、どこか隠れる場所を探そうとして走り回り、そしてトイレにたどり着いた。ドアを閉めると、涙がとどめなくあふれてきた。息ができなくなり、深い悲しみと絶望で目の前が真っ暗になり、気が付けば夜になっていた。けれども、悲しみは尽きることがなく、息が詰まるようだった。何かに彼女は謝っている気分になった。
「私が、私が悪かったのです。些細なことなんて言わなければよかったのです。ごめんなさい、ごめんなさい、許して……」
結論から言えば、彼女は確かにおせっかいではあるが、間違ったことはしていない。
「あなたは間違ったことをしていらっしゃいませんよ。大丈夫です」
だから私は慰める。そして、痛感する。言葉とはかくも、単純でとても強いのだということを。何かの始まりを作ってしまうのだということを。ロナルド・ウィーズリーを含めた人々はその強さを、恐ろしさを知っていたのだろうか。そのうえで口にしたのだろうか。
『悪夢みたいなやつだよ』
と。その冷たさを知っていたのだろうか?どうにもそうは思えない。
しかし、一番恐ろしいのは誰にも悪意はなかったということだ。ロナルド・ウィーズリーはまったくもって「普通」に言ったのだろうし、ただの「日常」としてこの言葉を取り扱ったはずである。それだけのことだ。そして、学校という世界ではしばしこうした言葉を放つことは日常茶飯事だし、こうしたことが起きるのもまた普通のことなのだ。
だから、私は落ち着いて、そばにいる人を装い、安心させる。これこそ、重要なことだ。
泣いている人間というのは、人によるが多かれ少なかれ、何らかの恨み言やこうなった原因を語るものだ。私がすべきなのはそれをすべて肯定し、なおかつ、いくつかの助言を与えることだ。むろん、一つの狂いも許されない。私の祖父のように、穏やかに相手の話を聞くのだ。
案の定、彼女はこの場には書ききれないほどの苦しみを語った。もちろん、これは巨大なパニックという膿のほんの一部分にすぎない。その膿をゆっくりと取り出すのだ。
彼女は語った。
幼いころからすべてのことに魅力と興味を覚えていたことを。そして、そのことを調べ共有する喜びを。もしくは、面白さを。あるいはすべてのことを知った時に、彼女はその面白さを伝えようと必死になって友人たちと話し、その世界を共有しようとしたことを。
私はそういった話を聞きながら実感する。グレンジャーは、ハーマイオニー・グレンジャーは頭のいい少女ではない。どこにでもいる普通の興味があったら調べて喜ぶ、純粋な子供なのだと。たくさんの知識で武装している要塞のように見えるが、その実は、そう言った知識は武器ではなく、私たちと喜び合うための彼女なりの心遣いなのだ。と。
とすれば、こうだ。わたしたちが浜辺で何かきれいな貝を見つけて楽しむのと同じように、あるいは花火を見てわくわくするように、彼女はその楽しさを本で見つける。
さてさて、彼女の話の続きを書くとしよう。
しかし、こうした彼女の意見に共感してくれるものはあまりにも少なく、むしろ彼女は孤立を深めていった。学校は次第に息の詰まる場所になっていった。とても苦しくて、話の合う人間はめったにいなかった。やや10歳と幼いが、彼女は冷静に自分の未来が人間関係のみにおいては明るくはないと悟ってはいた。彼女がやや賢かったのが最大の悲劇だったのかもしれない。実際、家族の間でもそういったことは話し合われていた模様で、彼女はこのままであればマルボロ・カレッジに入学できるまでの段取りが組まれていた(これは相当な根回しとコネクションを必要とするので、彼女は語らなかったが、おそらくは家族内では少なからず問題にされていたと推察可能である)。
しかし、ここである転機が訪れる、ホグワーツからの招待状である。この招待状は劇的な変化を彼女に与えた。それまで一般の理論だけからなる彼女の世界観は逆転した。新しい世界が彼女の日常に現れた。けれども、ここでも彼女を再び例の問題が襲う。知識は喜びであるとみることができないのは残念なことに魔法界も同等だったし、それ以前にいわゆる一般人の生まれであることはこの学校でしばし彼女を困難に直面させた。スリザリンのみならずある種のこの“宗教”は彼女をすさまじいストレスの海に投げ込み、翻弄した。そして、忍耐に次ぐ忍耐にも限界がきて今に至る。
「……変わると、変わると思ったの、ここに来れば私の性格は変わる、ってそう思った……でも、何も、変わらなかった。ロ、ロンがい、言っていたのが正しかったのよ」
こうした話が終わると、扉の向こうの泣き声は少しばかり、弱まった。
「あなたは、いや、君は間違いなく立派だ。困っている人を見れば助けようとするなど普通の人にはできない。でも、君はやった。それはとても勇気がいることですし。何気ないことではない。とても勇気のある、素晴らしい人にしかできないのです」
落ち着きが戻ってきたようだった。しかし、しばらくたつと、また泣き声が始まった。次の段階だ。よしよし。よく泣きなさい、グレンジャー。
また、嗚咽と泣き声が聞こえる。幸いなことに時間はまだある。
「私は笑われているのよ」
「私はあざ笑わられているの。この前、調べ物をしていた時も、何かしているときもどこからか悪口が聞こえたような気がして振り返るの。そのたびに、そのたびに、誰かが後ろを通ったわ、み、みんな、私を嫌っているか、笑いものにしたがっているのよ」
「私を笑うことで、私にこの学校から出ていってほしいと伝えているのよ、もうわかっているの、お、終わりってことが」
力のない笑い声とすすり泣きが始まった。
これはいけない。いくつかの言葉を与えるべきだ。
「誰も、誰も笑ってなどいません。しかし、そう見えて仕方のないことではあります。君は常に勇気にあふれるグリフィンドール生の姿を私たちに見せ続けた。あのスネイプ教授の授業においても、ヒスを起こすクィレル教授の授業においても常に、常に前を向いていらっしゃった」
ムーサよ、私に故を語れ。ひとえに、何が彼女をかくもひどい悲しみに駆り立てたのか、彼女の怒り、無念はいかばかりなのか。
「あんなの飾りよ」
意外ではあるが予想してはいた答えだった。あの手を挙げるのは彼女なりの儀式なのであり、彼女は心のうちに要塞をつくりあげていたのだ。認められるための小さな、けれどもとても重要な要塞を心のうちに彼女はつくりあげていた。
「私は、私は、認められたかったのよ……。スネイプに意見するのも、知っていることだったし、それに、それに、寮の得点は日増しに周りと水をあけられていたの。だから、だから……私は…………いいえ私たちは得点を稼ぐしかなかった……でも誰もそうしようとはしなかった。してはいても少数。私だけだったの、私だけが一人で気が付けば点数を稼いでいた。なんか、もう馬鹿らしく、なってきちゃった……。なんのために頑張っているのかもうわからない」
そして、それは壊れた。
さて、重要な点だ。言葉を織り込むとしよう。
「とても、疲れていたんですね。ずっと、一人でやらないといけないことに」
「そう、そう……そう」
すすり泣きが始まった。泣き止むのを待つ。しかし、わずか数分で(実のところ20秒)それは止まる。なんと彼女は強いことか。
神父たちが相手の話に乗るように涙にくれる彼女に寄り添うようにして、それから始まるであろう、彼女の怒りと後悔の念の混じった言葉をゆっくりと時間をかけ、時折相槌を打つ。
そして、少し、自分の意見を述べる。人の心はかくももろいのだから、慎重にせねばならない。
「本当に、本当に、よく頑張りましたね。とてもすばらしい」
嗚咽がゆっくりと、息遣いもゆっくりとなったのが聞こえた。
「でも……みんな私を高慢ちきだと。わ、わ、私……私、もうこの学校にいることができない。みんな、私のこと嫌いなのよ。だって、私は嫌がるロンに無理やりノートを押し付けて、だから嫌われたのよ。ごめんなさい。ごめんなさい」
いかん、発作を起こす。少し介入せねば。
「君は高慢ちきなどではないのですよ」
言葉を選べ、アドルフ。ゆっくりと、短い文章で話すのだ。否定するときにはゆっくりと、強くなく。これはとても重要なことだ。そう念じつつ、彼女に話をさせる。
しかし、本当に幸運なことだ。彼女が泣いている場所がトイレというのは。さらにこのトイレにはめったに人はやってこない。彼女は迷惑をかけないためにここに来たのであろうが、それはとても賢明な判断だ。というのもだが、もしも、このある種の「爆発」が人の大勢いる場所、例えば、教室や、大広間、寮などで起きたらおそらく、今の何倍も、いやはるかに取り返しの利かないことになっていたであろう。そして、いまドアが目の前にある。これを開けるのは彼女自身だ。これは、最後の彼女の砦だ。心の壁を守る偉大な壁であり、彼女にしか開けられない。
私ができるのは彼女にとってイエスマンであり(かつ絶対的ではなく、相槌を打ち沈黙を守ること)、そばにいること。ただ、これのみ。
私は思う。この少女がまた、汽車で見せたようにもう一度、笑顔を、勇気を出して。
彼女が、友を求めるためにグリフィンドールに入ったのであれば、彼女は友を見つけることができるに決まっている。
グレンジャーいやハーマイオニー。奴らに虐げられるな。奴らに負けるな。それこそが、君をあざ笑った奴を、ばかにした人々への最大の復讐なのだ。と。
無論、これを口にしてはならない。繊細に糸をつむごう。
鼻をすすり、また泣き声が響いた。
彼女はまた、もう一つの話をしてくれた。
その話についてはここに記すのはよそう。だが、実に興味深く、この一連のことを妙実に物語っている。どう人とふれあえばいいのかわからない一人の少女の姿が、頭をよぎる。そんなお話。知識を友達にして、すべてと友達になろうとしたある少女の物語である。そして、すべての努力が報われることがついぞなかったというある種の悲劇であり、疲れてしまった物語。
ハーマイオニー、あなたは一度、地獄に落ちたようなものだ。落ちたのだ。落ちたのであれば、這い上がれ。足掻け。足掻いて、もう一度周りを見なさい。君の今が君のすべてではないのだ。何度でもやり直すことなど簡単だ。そして起きてしまったことをいかに受け取ろうとも、それは君の自由なのだ。むろん、難しい。あまりにも難しい。しかし、君はもう一度、生まれるのだ。
私は心のうちでしか、励ますことができない。なぜなら、こういった言葉はむしろ、彼女を追い詰めるのだから。
繰り返すが、そばにいること。ただ、それのみだ。それだけが、今できる最善の策だ。さあ、泣いて、そして、疲れて(そしてあなたは、とても不思議なことに)、またよみがえるのだ。あなたの涙と憂いは賛美といけにえの祈りだ。
それは何と聖なることか。あなたが、いや君が持つ最も美しいものの一つ。
そして君は涙を経て、また、あの丘を登っていった「あの子供」のようによみがえる。
だから泣きなさい。
そしてよみがえるのだ。
どれほど時間がたったのか。彼女の声が再び聞こえてきた。少しだけ芯の強い声だった。
「ね、ねえ、もしも、私が外に出たら、どうなるの?」
私はやや目を開いた。とても難しい話だ。大丈夫とうかつに言うこともできないし、美辞麗句を並べ立てることは彼女のためではない。結論は知っている。
どうにもならないのだ。
残念だが、これが本当のところだ。世界は変わらない。結局は、心の持ちようだ。
「また、あなたの一日が始まります。“いつも通り”の日々が」
私は何というべきだったのだろうか。勇気を出してというべきではないのは確かだ。だって、それはあまりにもひどい言葉だから。
「そう、だね」
そう、ぽつりと独り言のようにして壁の向こうから声が聞こえた。
木の擦れる音がして、ゆっくりと扉が開けられた。そこにはハーマイオニーがしっかりとした足取りで立っていた。私は真っ先に彼女の目を見た
泣きはらしてはいたが、その眼には今日、ぶつかったときに憂いはなかった。代わりに明るさを持っていた。いいことだ。
「見送りましょうか?」
無言だが、ゆっくりと、頷いた。自信は戻ってきてはいなかったが、少しだけ前を向けたようではある。
「寮は違いますが」
そこで私は気が付いた。
「そうだ。君のカバンをネビルが持っています。あとで彼が君に渡すでしょう。ですから、荷物などは心配しないでください」
「ありがとう。ありがとう」
ここで彼女は私に向かってそうつぶやくようにして、震えつつ礼を言った。
私は肩をさすってやるべきだったかもしれないが、そうすべきではなかった。
というのもだが、私は女性ではないから。だから見守ることしかできない。いずれにしてもだ。その前に問題が一つある。
「申し訳ないのですが、グリフィンドールはどこです?」
私が方向に疎いことだ。
彼女は笑った。弱々しかったが、確かに笑みが浮かんでいた。
それでいい。あとは、時間が心を治す。その後の対応はすべての人々が納得するやり方で、多くの人々が謝り、それを受け入れるように、教授たちがなすこと。私は君の話を聞くことしかできなかったが、それが、私にできるすべてだ。いずれにしても長居は無用だ。ここは女子トイレだ。男性である私が入っているべきではない。
そこで、出ようとした時すえたにおいが鼻を突いた。
「水が漏れている?」
ハーマイオニーがそうつぶやいた。いや、そんなはずは……。
“『イル・ドットーレは慌てる』”
「うわあ……」
私は思わず悲鳴を上げた。
地響きと公衆トイレの甘く腐った糞尿のにおいとともにトロールが視界に映った。なぜここに?ハーマイオニーはすっかりおびえている。
幸い向こうはこちらに気が付いていないようなので、ゆっくりと彼女に行くように伝え、出口へと向かう。
ところが、出口までゆっくりといくと鍵の閉められる音がして、私たちは完全に逃げ場を失った。それどころか、その音はトイレに響き渡り、トロールは私たちのいるほうをじっと見た後、こちらへとゆっくりと向かってきた。
「申し訳ないが開けてくれませんか!このままでは死にます!」
私は必死に扉の向こうに叫んだ。しかし、なにも音沙汰がない。繰り返しても、聞こえないのでついに私はなりふり構わずドイツ語で
「ドアを開けろ!私たちを殺したいのか!」
と叫ぶ。
力がないので開けることはできないが、この声は届いたようだ。向こうで慌てる声が聞こえた。そして、鍵が開けられる。
ポッターが鍵を開けたのだ。
「こっちだよ!」
そう言って手を取ってくれる。私はグレンジャーを先に入れて後から外に出た。扉の向こうには先ほどまで歓声をあげていたグリフィンドール生ウィーズリーが立っていた。彼は、驚いた表情をしていたが、すぐにその顔はおびえに変わった。
「後ろ!」
瞬間的に私は二人(記憶ではウィーズリーとグレンジャーであった)を持っていたカバンで突き飛ばすと前のめりに倒れた。正確に言えば、扉が棍棒で破壊され(つまりはそれほどの怪力であったということだ)、私が破片で吹き飛ばされたのだった。左肩に木片が刺さったらしく、生ぬるく、しかし程よく温かいものが私の左腕をつたっていた。振り向くと、トロールは私に照準を合わせたらしい。その目は完全に私を殺すという、野生の生物が持つあの恐ろしさが宿っていた。震えが体を駆け巡った。
ところが、恐れることはない。
右手で杖を取り出して構える。距離は十分にある。なおかつ、ゆっくりと動いている。おそらくは大丈夫だ。しかし、ここで私は思い出すべきであったのだ。私の魔法の腕はあまりにもお粗末なものであることを。
―――よくぞまあ、昔の人は“傲慢は崩落の前に来る”といったものだ。まさに私も慢心、もしくは警戒を怠っていた。私は最初の日記に書いたように呪文を当てることができないのだ―――
まあ、話を元に戻すとしよう。
最初に私はフリペンドを放ったのだが、壊滅的な命中精度のせいで呪文は松明に衝突。松明はトロールの右肩に命中し、奴はすっかり、頭にきたようで。さっきよりも早く前進した。残り20m。息をゆっくりと吸う。エクスパルソを使うが、慌てていたせいで呪文はトロールの頭をかすめ、シャンデリアに命中。たぶん三人がいる場所に粉みじんに砕け散った。悲鳴と怒号がこだまする。
「どこに当ててるんだあいつは!?」
そんな声がトロールの後ろからした。
ふと、頭の中でトロールがあちらに注意をひかれないものかとも思うが(そのすきに呪文を当てるのだ)、その気配は全くない。
後ろに一歩、また一歩と下がりながら道を模索するが、いかんせん子供なので途中で転んでしまい、したたか頭を打ち付ける。生ぬるい液体が頬を伝って、ローブにしみこむのが分かった。
ついには隅っこに追い詰められた。
もうだめだ。いかなる呪文も尽きた。こんな、こんなところでこの留学生は一生を終えてしまうのか?それは絶対に嫌だ。多分ネビル・ロングボトムあたりが証人になるのだろうが(彼のことだから「勇気にあふれる~」などといって泣き出すだろう)、彼のため、何よりも私という存在のためにもそれは認めたくない。
いや、まて、一つ確かな呪文がある。
――もうトロールは目と鼻の先に来ていた。こん棒が私の頭に向かって振り上げられた――
成功することはまずないが何もしないよりはましだ。
初めに、ゆっくりと息を吸って杖を構える。
――どこかで読んだことの走馬燈が頭の中を駆け抜ける。まずスチュワートが私に語り掛ける。あの昼食の時の台詞のまま――
“アドルフ、ここはどこだ?”
そうだ。ここは魔法の世界だ。ならば、ありえないことにすがるのだ。私たちが奇跡と呼ぶことを、神の御業をなす場所だ。
恐れはすっかりと消えていた。そして、ある文章が、頭を駆け抜ける。
語れ、我が舌よ。
杖をゆっくりとトロールに向ける。目の前の景色にはトロールが棍棒を振り上げるのがゆっくりとだが見えていた。
さあ、心を落ち着かせて、やるべきことはただ一つ。
「『インペリオ』」
青い閃光が杖から弧を描いて飛んでいく。そして、トロールの頭に命中する。その瞬間、呪文を食らったトロールは棍棒を振り上げたまま固まり、酩酊した顔になった。
確かこの呪文は……そうだ、ウンベルトがこう言っていた。『これは命令を出すことのできる呪文だ』と。唖然と回りが見つめる中私は咳払いをする。音が壊れた蛇口から出る水の音よりもよくトイレの中に響く。
「すぐさま、棍棒を下ろしなさい」
トロールは棍棒を丁寧にその場に置いた。
その瞬間、ハーマイオニー・グレンジャーにはアドルフ・フォン・ピュックラーが杖を持ったまま、ゆっくりと両手を広げる姿が見えていた。その姿はまるで教皇が怒りに震える民衆たちを諭す姿のように見えていた。あのまま“親愛なる皆様”とでも言いそうだった。壊れた蛇口が水をスプリンクラーのように水をまき散らし虹を作っていた。フォン・ピュックラー=ブルクハウスの姿はあたかも聖人のように見えていた。ハーマイオニーにはその光に照らされた姿に覚えがあった。歴史の教科書で何度も見た絵。
「鳥たちに説教をする聖フランチェスコ……」
両手を広げたまま、アドルフは口を開いた。
「かしずきなさい。それがあなたのためです」
トロールは腰を折ってフォン・ピュックラー=ブルクハウスの前にひざまずいた。
アドルフは微笑んだ。慈愛に満ちた神父のように。
そこに先生たちが駆けてきた。誰もが杖を抜いていたが、この異常な「劇場」のような光景を見ると一斉にフォン・ピュックラー=ブルクハウスを見た。その時の彼の顔は説教者のように威厳に満ちていた。
真っ先に動いたのはスネイプ教授だった。教授と同じ黒い杖を持っているフォン・ピュックラー=ブルクハウスのほうに歩いていく。
「アドルフ・フォン・ピュックラー=ブルクハウス」
「はい」
アドルフ・フォン・ピュックラー=ブルクハウスの手記にて
トロールをひざまずかせ、杖をしまったところで私ははたと気が付いた。やってしまったという感情。ただただそれのみである。頭の中にはこの学校を退学になること、もしくは厳重注意を受け奨学金を減らされることが占めていた。いや、奨学金を減らされるだけならばまだいいに決まっている。*2
この場合、最もあり得る手段は強制送還(Zwangsdeportation)である。つまりは学位から何から何まで身ぐるみをはがされ、ドイツに「犯罪者」のレッテルをつけて帰国するのである。せめて帰国する際には「模範生」としてありたかった。
しかし、しばし待ちたまえ、ここで終わるわけにはいかない。貴族以前に人間としての名折れだ。これはイチかバチかで教授たちと交渉するほかあるまい。正当防衛と言い張るとしよう。
そして、待ちかねていたかのようなスネイプ教授の穏やかな声。
「フォン・ピュックラー=ブルクハウス。これはどういうことだね?説明していただけると嬉しいのだが」
頭が干上がっていく感覚にとらわれながら私は答える。
「事故です」
「事故か……そうか」
ふと考えるような表情をしてから教授はまた答える。
「完全に操られた状態にあるトロールを見てもなお、我輩が事故と断定することができると思うのかね?」
冷静に答えるべきだと私は悟る。当たり障りのない言葉を使いつつ、状況がいかに困難極まりないものであるかを言うべきなのだが、緊張しきった私の口はただ一つの言葉を言うだけだった。
「事故です」
「よろしい、ミスター・ピュックラー=ブルクハウス」
一瞬だけ、彼は私の目をとらえた。光がなく、生気のない黒い目が私を覗き込むようにしてとらえた。その瞬間、震えが、恐れが体を駆け巡った。
「後で聞くとしよう。それでは、お任せします。ミネルバ」
そう言って教授は再びトロールの見分を始めた。スネイプ教授と入れ替わるようにして、マクゴナガル教授が私たちの前に立った。
「あなた方はいったいどういうおつもりなのです?」
教授は開口一番にそういった。
私たちはしばらく押し黙った。どうすべきなのか測りかねていた。というのもだが、私は杖が暴発して頭がすっかりものを考えることができなかったし、ハーマイオニーはシャンデリアの落下、トロールの襲撃、そのほかもろもろで混乱し、ポッターたちはここにいるべきではないスリザリン生の外国人という人種、つまり私がいること、先ほどまで追いつめていた(その後の経過を見るに、ポッターには少なくとも謝罪の気持ちはあったのだ)ハーマイオニーがいること等々で口をすっかりと閉ざしていた。
耐え難いが、何も生まれない沈黙が長く流れる。
今のうちには私はゆっくりと杖をカバンにねじ込む。
証拠隠滅を図るというわけだ。無駄なのは知っている。
杖をしまいつつ、私は形式的であっても、何らかの慰めを与えるべきなのだと悟る。つまりは彼女の心を改善する上でのいけにえが必要なのだ。むろん、いまではない。しかし、語るべきだ。かつ、語るときは彼らには聞こえず。そのうえで教授たちが緩やかに問題を解決するであろう。つまりはこうしたいじめにあるいは事故にかかわった人々を自発的に謝罪させる気持ちをもって誤らせるということである。
私の左目には酩酊したかのようなトロールが映っている。ここからどうするべきなのかは、重要なことだ。すぐ言葉を継いでもよいのだが、しかし心せよ。ショックを被害者には少なく、加害者たちもしかり。さあ。
「ミスター・フォン・ピュックラー=ブルクハウス。何か隠していらっしゃることがおありで?」
一瞬固まった。
「あるようですね」
些細な変化を彼女は見逃さなかった。言わなければならないのか。
「内密に願えますか?」
「言いなさい」
「しかし、このあとでも」
「いいえ、いまです」
腹をくくって私は語る。
「……あったのです」
マクゴナガル教授は目を細めた。
「失礼、なんと?」
私は彼女に近づくそして、声を潜めて経過を語る。みるみる、彼女の顔にこわばりと怒りによるけいれんが広がった。
「いったい、な、なんという、なんということを」
そこからは推して知るべしだ。彼女は『爆発』した。
彼女はグリフィンドールから減点した。20点も。これは、これは実にまずい。
「落ち着いてください。それはあまりにも……」
あまりにもひどい。
「お黙りなさい。フォン・ピュックラー=ブルクハウス。これは私の寮の問題です。私でかたをつけねばならない」
確かにそうです。親愛なるマクゴナガル教授。あなたの寮の問題だ。しかし、性急すぎる。このいじめの問題を、あるいは心の問題はとてももろいのだ。だから、すぐに謝らせてはならない。あなたは心得ているはずです。感情に身を任せたものが語ればどうなるのかを。
あなたはそれを言ってはならない。時間が必要なのだ。早急に解決してはならない。しかし、その声が届くことはない。
私は後悔の念に襲われた。私は意地でも黙っているべきだったのだ!これほどの対応をするのであれば、私は、私は口をつぐむべきだったのだ。
しかし、もはやそれは遅すぎる。
目の前ではハーマイオニーに対して彼らが謝罪をすべきであるということを教授が言っていた。私はどうするべきだったのか。しかし、こうなったのであれば、彼らに謝罪を促そう。そして、そののちに彼らに関係を修復させることを求めよう。
「恐れながら、お二方とも。謝罪をなさってください」
こういえばよかったのだろうか?
“『ペドリーノは物語をまとめにかかる』”
アドルフの口調はいつも通り、冷静さを装ったことが透けて見えるものだったが、ハリーはその言葉遣いの以前に何か不気味なものを彼から感じ取った。
さあ、謝罪を。とつぶやくようにして促す声は平たんで、個性のない声。顔つきも普通だが、普通過ぎてその場に溶け込んでしまい、まるでその場に顔がないような、そんな気分になる(顔から血が流れているにもかかわらず、その顔はあまり個性がなかった)。普通過ぎるせいで誰もその場におらず、ただ、彼の声だけが、時折聞こえる水音とともにハリーの頭の中に反響していた。
しかし、その場にあって、青い目は彼を凝視していた。ガラスのように無機質で、義眼と見まがうぐらいに白すぎる白目。異様なほど、際立って青い目は有無を言わせない何かを主張していた。
そんな目がハリーをとらえていた。“僕は謝らないといけない”。無個性の顔にあって、その青い目だけは強烈な個性を放ち、ぽっかりとその場に目が浮かんでいる気がした。
そうだ、僕は、 “僕は謝らないといけない!”
「ごめんなさい。ハーマイオニー」
自然と、謝罪の言葉がハリーを飲み込んだ。心の底から謝罪と惨めな気持ちがせりあがってくる。続いてロンも謝った。より、丁重に。
結果として、グリフィンドールはこれらのいじめにおける顛末を受け15点近く減点された。ただし、駆け付けた勇気をたたえるものとして15点が与えられ、減点は相殺された。アドルフについては5点が授与され、その場に残された。話を聞くべき必要があるといったのはフィリウス・フリットウィックだったとハーマイオニーは記憶している。いずれにしても三人は寮に帰された。
翌日にはどの生徒たちもハーマイオニーには謝る予定である。
アドルフ・フォン・ピュックラー=ブルクハウスの手記
フリットウィック教授は微笑みながら私に何が起きたのかを語るようにといった。私は最初、ハーマイオニーを助けようとしたことを語ろうとしたが、ああ、そのことではないと少し高い声で否定された。
「呪文の話です。実に興味深いお話です」
一方の私はすっかりパニックを起こし、口が乾ききっていた。
想像していただきたい。例えばカフェで相談に乗っているさなかにトラックが突っ込み、何の因果かわからないが、あなたがトラックを素手で止めることができたというようなことを。むろん、あなたは普通の人だ。だから、突然強力な力を出せたことに呆然とするだろう。そのまま途方に暮れていると、警察に捕まって尋問されるような状況を。
今の私はまさにそれだ。
スネイプ教授はすぐに私の状態に気が付いたらしい。どこからかグラスを取り出し、水で満たすと私にぐいと突き出した。私はいささか過呼吸気味になりながらも飲み干した。
「フォン・ピュックラー=ブルクハウス。まずは、落ち着きたまえ」
そう言って彼は優しく私の肩に手を置いた。不思議と焦りが消えていくのが分かった。
スネイプ教授はうかがい知れない目つきのまま私を取り囲む教授たちを見回した。
「よろしい。それでは、ミスター・ピュックラー=ブルクハウス。続けてくれたまえ――」
ここで彼は人差し指をぴんと立てた。
「ただし、皆様。もしも、彼がひどい緊張状態に置かれたままでずっとこの場におらねばならない場合でありましたら、吾輩は即刻、彼をスリザリンに帰しましょうぞ。寮監として、彼の一時的な親権代理人としての義務としてですな。よろしいですな?」
そう言って彼は私からグラスをゆっくりととると、落ち着くようにといった。
「では、今夜は遅いですし、ミスター・ピュックラー=ブルクハウス。あなたには伺いたいこともあるが、まずは心が重要ですし、何よりもけがをなさっているではありませんか」
そうフリットウィック教授がキーキーとただし私の顔色を教師として伺いながら言葉をつづけた。
「まずは医務室に行くべきです。マダム・ポンフリーがあなたを直してくれますよ。それで、完治したのであれば、できるだけ早めに、私のオフィスまで来てください。では、あとはお願いしますよ、セヴルス(彼はセブルスではなくこう発音した)」
「無論ですとも。ヘア・ピュックラー=ブルクハウス。こちらへ 《Herr Pückler-Burghauß, kommen Sie bitte hier. Keine Sorgen.》」
ドイツ語で彼は私に来るようにといった。
私はカバンをぶら下げたまま歩こうとした。
「待ちたまえ。私が持とう。君はけがをしているではないかね?けが人はけが人らしくふるまいたまえ。貴族として、いやスリザリン生としての義務と心得なさい」
「失礼しました」
「謝ることはない。ともかく無事でいたほうが吾輩としても喜ばしい」
先輩方にも顔向けできないしな、と教授はつぶやきつつ、カバンを持ってくれたので、私はこのまま手ぶらで歩くことができるようになった。
夜の場内は月明かりに照らされるか、松明のわずかな明かりしかなく、ケガしているのもあってことさらに不気味だった。どこかでオオカミの遠吠えが聞こえた。
「安心したまえ」
「ええ、むろんです」
それから、ぱったりと言葉が切れ無言で歩いているうちに、医務室に到着した。扉が開けられると、マダム・ポンフリーが血相を変えてやってきた。
「連絡は受けています。まったく、かわいそうに」
彼女は早口でスネイプ教授に英語でそういうと私にはドイツ語で傷口を見せるようにとそのほかもろもろのことをするようにといい、私は慌てて右手をまくり上げ、激しい痛みに顔をしかめた。先程までは注意を払わなかったし、そもそも頭がいっぱいなこともあって痛みはやってこなかった。
しかし、今はあたかも細かい針が左腕に打ち付けられているような鋭い痛みが腕を走り抜け、頭はさっきよりも血を流しているようで、ずきずきと痛んだ。
「マダム・ポンフリー、すぐに手当てをしていただけますかな?彼はトロールに、ほかの寮の人間を助けた英雄ですぞ」
「もちろんですとも、セブルス」
それは絶対に買いかぶりだと思いつつも話せない状態でいると、マダム・ポンフリーは私にいくつかの術と薬を口に入れた。痛みで吐きたくなるのをこらえつつどうにか飲み込む。
そんな様子を見つつ、スネイプ教授は私をじっと見た後、
「その勇気と忍耐をたたえてスリザリンに15点。休んでいたまえ。あしたの朝、フェルプスを迎えに行かせる。幸いなことに休日ですからな、貴殿は何も心配する必要はない」
そう言い終わると、彼は外へと出ていった。私はここで糸が切れたようにして眼鏡をつけたまま眠り込んだ。
「アドルフ、アドルフ」
そんな声が聞こえて目を見開くと、私はいつの間にか、ベッドにローブを着たまま眠っており、司会は歪み、ぼやけていた。妙だと思って顔を右に動かすと、眼鏡は右隣りの机にきれいに掃除されて置いてあった。手を伸ばそうとすると、優しく声の主は私を押しとどめ、体を起こすのを手伝ってくれた。
「眼鏡を渡してやれよ、フリードリヒ」
「おお、そうだった」
眼鏡が渡され私はより明確に見えるようになった。
「これは、フェルプス」
腕時計に目を落とすと、朝の四時だった。
「こんな朝早くに……」
「後輩がこのようなことになっていて駆け付けない監督生がいるかね?少なくとも、パース(パーシー・ウィーズリー)は、ケガをした人を監督生としてしばし見舞っている。さて、移動するとしよう。立てるか?」
少し性急すぎはしないか?そう思いつつベッドから降りようとする。
「フリードリヒ、君の熱意はわかるが、相手はけが人だぞ」
「そうだな、エミー」
「そのあだ名はやめなさい」
顔を上げると、渋面を作ってフレデリックが私のカバンを持って立っていた。
「水はいかがだね?替えのシャツも持ってきた」
ありがたく受け取って飲む。
「大丈夫です。行きましょう」
二人を安心させる言葉を言うと、立ち上がって、スリザリン寮へと向かおうとした。
「待ちたまえ、シャツを着替えるべきだ。血まみれだ」
そうだった。シャツを受け取ってとりあえず着替える。脱いでみてぞっとしたのだが、襟と左腕の部分は茶色に染まっており、だいぶ出血していたようだ。アンダーシャツまではしみていなかったのでそのままノリの香りのするシャツをつける。
「よし、では行くとしようか」
カバンを持ってもらいながらスリザリン寮を目指し、そのまま寮へと入る。
「まあまあ、かけて」
談話室にはジェマ・ファーレイとマグヌセン、ワトソンが座っており、三人は教科書をしきりに読み返しているようだった。
彼らは私が入ってきたことに驚いたが、すぐにいつも通りの作業に戻った。
「お帰りアドルフ、さて何はともあれだ。君はもう一度寝るべきだ。僕たちはまだ起きているがね」
「失礼ですからいつから?」
「昨日の夜中からさ」
「それまた、私のせいですか?だとしたら……」
「いや、そうではない。ここ数日間そうなのだ」
「残念なことに、スネイプ教授は僕らにイモリでの好成績をも期待しておいでだ」
フレデリックが微笑みながら言葉を継ぐ。眼鏡のレンズに炎が反射して、赤いレンズをつけているようだった。
「そうともエミール。僕らはまだ戦わねばならん。それではお休みアドルフ」
今日、いやもはや昨日のことを私は思い返しながら、シャワーを浴び、寝間着をつける。
ベッドに入りつつ思考を整理する。
いろいろあったが、結論から言えば、私は非常に重大なことを学んだといえる。
老婆心は身を亡ぼすということだ。まぎれもなく、昨日の事例がそれを証明している。近日中に、私はフリットウィック教授のオフィスを訪ねなければならない。ため息をついて、寝静まった部屋へと入っていく。
これにて喜劇は終わりです。拍手喝采のほどを。
イル・ドットーレはそう言って一礼をする。私たちは立ち上がって拍手をする。
外に出ると、きれいな星が夜空に瞬いていた。