あぁ、これは駄目なやつだ、と思った。
相手陣はもうラスト1枚、右下段に置かれた一字札だけしか無いのに、自陣にはまだ9枚もある。おまけについさっき、敵陣で抜けそうだった、抜かないといけなかった二字札を守られている。
むしろよく頑張った方だよ、束差あったのをここまで粘ったんだから、なんて考えが暗記を回し疲れた頭をよぎる。
そんな考えを振り払うように、暗記に集中する。『かく』は他の『か』札は全部出たからもう一字決まり、『よも』は『よを』がまだ出ていないから気をつけて、『たち』は……あれ、何字決まりだろう。『たか』って出たっけ?そういえばこの『なにわえ』ってもしかしてもう一字決まり?
混乱してきたところで、下の句が詠まれ始めてしまった。分からない決まり字を考えても仕方ない、分かってる他の札を取ろう。そう決意して詠みに意識を向けたけれど。
『たちわかれ---』
詠まれたのがついさっき狙いから外した『たち』であると認識した時にはもう札は払われていて、相手陣のラスト一枚がこちらに送られてきていた。
ありがとうございました、と相手と読手に礼をしながら、やっぱりあれはもう一字決まりになってたのかなー、なんて考えていた。
それが私の、最後の試合だった。
最後の試合に、する筈だった。
彼女に出会うまでは。
4月、年度の始め、出会いの季節。1年の中できっと1番出会いの多いこのタイミングで、私も新しい出会いをする身になった。
東京の学校に転校。
親の仕事の都合、なんていう珍しくもない理由だ。大阪に未練がない訳ではないが、元々大学は東京の方のものを受ける予定だったので、時期が早まっただけというくらいの認識だった。
学校の最寄り駅で乗っていた電車から降りる。快速電車は停まらない駅にしては栄えてるな、というのが下見に来た時の印象だった。
駅からは徒歩で10分。ずっと真っ直ぐ行くだけなので迷う事もない。歩いている間、色んな事が頭をよぎった。
友達はちゃんとできるかな。勉強はついていけるかな。
そんなことを考えていたら、いつのまにか校門へ辿り着いていた。
都立美城高校。
そう書かれた校門をくぐり、玄関へ向かう。下見に来た時言われていた通り、職員室へ。
「失礼します」
ノックをして入ると、私を待っていたらしい先生がこちらにやって来た。
「おはよう、前川さん」
「おはようございます」
「昨日はよく眠れた?」
「いえ、あまり……」
「まぁ、無理もないわよね。でもきっと大丈夫よ、みんないい子達だから。それじゃあ行きましょうか、みんな待ってるわ」
先生に続いて教室へと向かう。その間もずっと緊張しっぱなしだった。
教室の前に着いた。先生がドアを開けて入って行く。私もそれに続いて入り、教卓の前に立った先生の後ろに立つ。教室中の視線が飛んできているのが分かる。
「おはようございます。まずはみなさんに転校生を紹介します。それじゃあ前川さん、自己紹介を」
先生に促され、私は一歩前に出た。
「大阪から転校してきました、前川みくです!よろしくお願いします!」
ちょっと声が震えた気がするけど、なんとか言えた。
「はい、ありがとう。みなさん、前川さんをよろしくね。前川さん、席は1番後ろの空いているところね」
こうして、私の新しい学校生活が始まった。
転校生というのは未知の存在だ。なので最初に質問責めに遭うのは予想していた。しかし。
「みくちゃん、私の部活に入ってくれない?!」
第一声で部活動に勧誘されるとは思ってもみなかった。突っ込みどころ満載だけど、まずは。
「ええと……。……なんて名前だっけ?」
「あ、そっか、まだ言ってなかった。私、多田李衣菜!よろしく!」
いきなり声を掛けてきた隣の席の彼女は、元気にそう名乗った。
「うん、よろしく、李衣菜ちゃん。……じゃなくて」
名前を知ったところで話を戻す。
「……部活?」
「そう!厳密にはまだ同好会なんだけどね!今年新入部員を増やして部にする予定なんだ!というわけで、まだ入る部活決まってないなら、どう?」
部活かぁ。時期が時期なので考えていなかったけど、新設の部なら入ってもいいかもしれない。
そこまで考えたところで、肝心の何部なのかを聞いていないことに気づいた。
「というか、何部なのかにゃ?」
「あれ、言ってなかったっけ?」
「競技かるた部だよ!」
一瞬、思考が止まった。
競技かるた部。
それは、大阪で私が所属していた部活だった。
そしてそれは、もう2度と私が関わることのない筈の部活だった。
私が高校でかるた部に入ったのは、憧れからだった。
部活動紹介で模範試合を見た。競技かるたなんてものはその時初めて知ったレベルだったけど。
かっこいいな。
そう思わされた。そしてその勢いだけで、入部届けを出した。
この学校は、県内でも有数の強豪校だった。近江神宮で行われる全国高校選手権、通称『近江』にも出場経験があった。当然新入生の中にも経験者が何人もいた。初心者の私は、追いつけるように必死で練習についていった。
その甲斐あってか、夏が終わる頃にC級、春が来る頃にはB級になれた。経験者のみんなに追いついた気がしていた。けれど、そこまでだった。
勝てない。練習でも、大会でも。同級のみんなが大会で結果を出していく中で、私だけが取り残されていた。夏が過ぎ、秋になり、冬を越えた時には、後輩にも追い抜かれていた。自分の限界を感じていた。
そんな折に、転校の話が決まった。転校先はかるた部の無い学校らしい。それを知って、部活動を離れることに、競争から離れることに、ほっとしている自分が居た。
かるたとはこれまでにするつもりだった。
「前の学校でかるた部に入ってたって言ってたよね?だからぜひ……」
「嫌にゃ」
「え?」
「みくはもうかるたから足を洗ったの。かるたはもうやらない」
キッパリと、そう言い切った。
「そんなぁ……。」
落ち込む李衣菜ちゃんを見て、罪悪感を感じてしまうが仕方ない。もう決めたことだから。
「どうしても?」
「どうしてもにゃ」
「……じゃあさ!」
突然李衣菜ちゃんが顔を上げて、こう言ってきた。
「入らなくてもいいから、私と試合して!お願い!」
「もうかるたなんかやらない筈だったのになぁ」
結局あの後、押し切られてしまい試合を断れなかった。部活の勧誘を断った手前、入らなくてもいいから、と言われると弱い。
今居るのは作法室だ。なんでも茶道部と共同で使っているらしい。今日は茶道部の活動がないので、放課後にこうして使っている。
私が嘆いていると、準備を終えた李衣菜ちゃんが札を持って私の前に座った。
「お待たせ!それじゃあやろっか!」
よろしくお願いします、とお互いに礼をして札を開く。札を混ぜながら李衣菜ちゃんに言う。
「……何度も言うようだけど、みくと試合しても別に楽しくないと思うよ?私はしばらく練習してないし」
「いいのいいの!これも何かの縁ってことで!」
明るくそう言って、李衣菜ちゃんは札を並べていく。
「李衣菜ちゃんがいいならいいけど」
私も同じように自陣を並べていく。かるたからはもう離れたつもりだったのに、身体に染み込ませた定位置は覚えていた。でも、それもこの1試合で終わりだ。
「それじゃあ暗記時間取り始めまーす」
暗記時間中のルーティーンも、自然にできた。まず場全体にある札を確認してから、相手陣を覚えていく。それができたら一旦席を立って、軽くストレッチ。そして戻ってきて、もう一度全体から見直す。もう何度となく繰り返した作業だ。
「それでは時間になったので試合始めます」
その合図で、もう取ることのない筈だった試合が始まった。
「「ありがとうございました」」
×15。
それが結果だった。やっぱりこうなるんだ。李衣菜ちゃんは確かにかなり耳がいい。でもその分お手つきも多かった。結局、その弱さを突けない自分の実力が無いということだ。
やっぱりこんなもんだよねー。そう言おうとして、言えなかった。李衣菜ちゃんが、怒った顔でこちらを見ていた。
「……みくちゃん」
「何にゃ。これがみくの実力だにゃ。分かったでしょ?」
「わかんないよ!」
李衣菜ちゃんが怒鳴る。
「なんでかるたなんか、なんて言うの?本当はそんなこと思ってないじゃん!」
「何を根拠にそんな、」
言い返そうとした私の言葉はかき消された。
「試合してればわかるよ!本当にかるたを捨てて、どうでもいいと思ってたら、もっと雑な取りになるよ。みくちゃんの取りは、全部丁寧だった。……それにさ」
李衣菜ちゃんは、優しい口調で続けた。
「ホントは、みくちゃん自身が1番よくわかってるんじゃない?かるたが好きかどうか」
「そんなこと、」
そんなことない、かるたなんかどうでもいい、そう言おうとした。けれど、言えなかった。だって、気づいてしまったから。
札を取った瞬間の、あのかっこよさに近づいた瞬間の楽しさを。自分はやっぱり、捨てられていなかったことを。
「ねぇ、みくちゃん。私、今試合を取って思ったんだけどね」
混ざり合った感情に戸惑う私に、李衣菜ちゃんが笑顔で言った。
「私、みくちゃんと近江に行きたい」
それを見て、私は。
「私と……なんかで、近江行けると思ってるの」
「行けるとか行けないとかじゃなくて、行きたい。そう思ったんだ。……ねぇ、一緒に行こう?」
「……わかった。行こう、近江」
もう少しだけ、青春を賭けることにした。
これが、一夏の青春の始まりだった。