人が、人が水に浮いていた。
溺れるような大きな噴水ではない。遊んでいるのかと思ったが周りに友人がいる様子もない。誰もいない噴水広場で人が、水に浮いている。
「だ、大丈夫ですか!!」
考えてる暇などなかった。助けなければ、まだ息があるなら一分一秒が命取りになる。荷物を置いて水に入り駆け寄る。
「今助けます!俺が来たからにはもう大丈夫!大丈夫です、俺の名前は守沢千秋!夢ノ咲大学健康科学部の守沢千秋です!救急処置なら履修済みです!安心してください!大丈夫ですか!返事を……!」
話しかけながら身体を抱えようとしたその時だった。
「なんですか〜、うるさいです。じゃましないでください」
俺の手をすり抜けて、浮いていた人物が突然顔を上げる。
「え、あ、良かった…!無事ですか!」
「ぶじ…?ぼくは『みずあび』をしていただけです。きょうは、『そら』も『うみ』みたいですね〜」
綺麗な水色の髪の毛から落ちる水滴が光る。優しげでどこか遠くを見ているような緑色の瞳を細め、それはそれは美しく笑った。何を言ってるのかは全くわからなかったが。
「いっしょにみずあびをしにきたわけじゃなさそうですね……。もしかして、ぼくはまたひとに『めいわく』をかけてしまいましたか……?」
首をかしげて少し悲しそうな顔でこちらを見る。よく見れば同い年くらいのようだ。
「あ、いや、俺は特に迷惑ではないぞ!何事も無かったようで何よりだ!早く上がって服を乾かそう。まだ暑さが残る時期とはいえ、風邪をひいてしまっては困るからな!」
「そうですね〜、『おさかな』がよんでいますから、かえりましょ〜」
やはりまったく話が噛み合わない。とにもかくにも、10月はとてもじゃないが水浴びなんてする季節ではなかった。さすがに寒い。水を含んで重くなった服が肌にまとわりついて熱を奪う。
「ちょうど良かった。次は体育の授業だからな、大きめのタオルと着替えを持っているんだ。お前は着替えなどは持っているか?む、どこへ行く?待て、タオルなら俺が、あれ?」
噴水から出て荷物の方に歩き出すと彼は全く別の方向へとフラフラ歩きだした。慌てて荷物の中からタオルを探し出し、振り返るともうそこに人影はなく、噴水の前でびしょびしょに濡れた自分だけが残っていた。
そうだ。あれは、1年の秋の頃だった。あれ以来特に会うこともなくすっかり忘れていた不思議な彼と、俺はもう1度出会うことになる。
「お前多分忘れてると思うから優しい先生が一応忠告しておくけど、レポートの提出期限は明日17時までです。明日17時以降に提出した場合は無効とし、単位はあげられませーん。あと守沢だけだからちゃんと出せよ〜。さがみ」
バスケ部の練習を終え、至福のポテトタイムを楽しんでいた彼の元に届いた突然のメール。大学生ならわかるだろう、単位を落とすことがどれほど危険なことか。余裕を持って履修しているならばともかく、部活とアルバイトのためにギリギリしか取っていない人間には死活問題だ。ポテトをかき込んで、大急ぎで図書館に走る。閉館時間まで残り2時間を切っていた。
夢ノ咲大学健康科学部三年、守沢千秋。健康科学部などというとわかりにくいが、いわゆるスポーツ学部に所属している。野球やラグビーなどの特待生も多く、千秋はスポーツドクターの佐賀美ゼミで学びながら、バスケ部で汗を流し、スタントマンのアルバイトに励む毎日を送っていた。
昨夜例のメールが届いてから必死に書き上げ、なんとか1、2限にも出席し、昼休み。本来ならば学食に走ってゆっくりと昼ごはん食べたいところだが、そうはいかない。なんと言っても最難関、佐賀美先生を探すという作業が残っているのだから。タイムリミットはあと5時間。それまでに必ずこのレポートを提出しなければならないのだ。
「佐賀美先生ーーー!!佐賀美先生はいませんかーーーー!!!」
まずは教授室、サボり魔の先生がいる確率は低く思った通り不在だった。喫煙所もひと通り見て回ったが、見つけることは出来ない。昼休みも少し前に終わった。さすがに学校に来ていないなんてことはないはずなのだが…、と少し不安になる。
「だが、ここで諦める俺ではない!佐賀美先生ーー!!!」
「うーるーっさいよ!ちーちゃん先輩!」
「その声は明星?明星か!どこだ!?」
「後ろにいるのに声だけで当てないでくれマセンカ、気持ち悪いんデスケド。ちーちゃん先輩が学内で騒いでるっていうからバスケ部の俺が行かされたんだよ〜」
振り向けば口を尖らせ、わかりやすく不機嫌そうな明星の姿があった。一つ下のバスケ部の後輩、明星スバル。特待生で入ってきたわけではなく、途中入部にもかかわらず、その天性の才能でレギュラーの座に座る期待のルーキーだ。いや、2年生だとルーキーでは無いのだろうか?ともあれ、どうも俺を探しに来てくれたらしい。
「ありがとう明星!わざわざ会いに来てくれるとは、感動した!抱き締めてやろう☆」
「はーなーしーて!佐賀美ちゃん探してるんでしょ?今日は理学部棟の方にいるって聞いたよ。なんでかは知らないけど。早く行かなきゃまたいなくなっちゃうんじゃない?」
「む、そうなのか!しかし何故理学部棟に…?とにかくありがとう!愛しているぞ明星!このお礼は必ずしよう!」
はいはい、と追い払うような仕草をする明星にもう1度お礼のハグをして理学部棟へ急ぐ。理学部棟なら探せなかったのも無理はない。メインとなる校舎から少し外れた位置にあり、授業用の教室よりも主に理学部生の実験や研究のための専門の部屋が用意されている。理学部のみの特例として、教授室以外にも実験のために各ゼミ専用の部屋を何年も連続で持つことができる。そのせいか構内図も存在はしているものの曖昧で、他学部の生徒にとっては近寄り難い場所なのだ。
「さて、やってきては見たが、どうしたものか。」
理学部棟の前でギリギリまで張っていてもいいが、期限までに佐賀美先生が出てくるとも限らない。そもそもここにいるかどうか確証もない。仕方がない、片っ端からノックをして聞いてみるしかない。授業ではなく実験が多いため、休み時間等は特にないと聞いている。佐賀美先生が理学部棟にいるとすれば、どこかの部屋でだべっているに違いない。
1階の端から順にノックをしては「失礼します!佐賀美先生はいらっしゃいますか!」とドアの外から声をかける。実験中の部屋には立ち入り禁止等の札がたっているためそれ以外の部屋だ。いませーんと返事が来た部屋は、失礼しました!と次に行き、返事がなければ開けて中の様子を見る。佐賀美先生の姿が見つけられなければ次の部屋へ、とそれを繰り返していく。
もう本当にいないのではないかと半ば諦め始めた頃には、もう1番上の階の端、最後の部屋になっていた。ここにいなければまた校内を探し回らなければ…、そう思いながら、ドアをノックする。
「失礼します!佐賀美先生はいらっしゃいますか!」
返事はない。鍵もかかっていないようだ。もう一度小さく失礼しますと声をかけ、ドアを開ける。
そこは、まるで海の底のような部屋だった。
青白い照明に大量の水槽、その中には様々な海の生き物が思い思いに泳いでいた。そっと足を踏み入れる。静かで、穏やかで、ときおりちゃぷんと跳ねる水の音だけが世界を揺らす。
「綺麗だな…」
思わず口から感嘆の声が漏れる。誘われるように奥へ奥へと進んでいくと、突然人の姿が現れた。どこか愛おしそうに水槽を眺める美しい横顔に、俺は1年の秋を思い出す。
「君は…」
「だれ、ですか…?おさかなのけんがくでしょうか…?」
千秋に気がついて、振り向く顔はやはりあの時の水浴びの人だった。
「同じ大学だったのか…」
「ぼくたちは、おさかなのけんきゅうをしています。そういえば、ひとがきたら、『あんない』しなくちゃいけませんね…?」
そういえば、理学部生物学科海洋生物学ゼミ、と書かれていたような気がする。
「こっちです。とっておきがあります」
「お、俺は守沢千秋というのだが、名前を聞いても?」
「おなまえですか?このおさかなは…」
「いや、そうではなく!お前のだな」
「ぼくですか…?しんかいかなた、といいます。それではあれをみてください。ぼくたちの」
彼が指さした先には、壁一面にもなる大きな大きな水槽、そしてその中には、いやなんだあれは。
「ひ、人…?」
「…?」
指さした彼が首を傾げている。
よく見れば見るほどネクタイ、スーツ、あれは…。
うっ…吐き気が喉の奥からわき上がってくる。膨張した頭部と目が合った気がした。
それは、明らかに人間の遺体だったのだ。