暗くなった部屋の中。
少し前なら見慣れていた光景が視界いっぱいに広がる。自分の部屋。天井と部屋と、窓の外を交互に見る時間。一人部屋で、隣の部屋なんか無い。無論、好きだった人も居ない。
住み慣れたはずの自分の家なのに、どこか遠い場所のようにすら感じる。
それはきっと自分の心がそうあるからだ。
彼女を傷つけ、何を言う事も無くこんな所へ逃げてきた。この部屋は独房だ。
それならそれでいい。いっその事ここに閉じ込めてくれた方が有難い。美渡ねぇも、志満ねぇも、Aqoursのメンバーも⋯
散々好きだ何だの言っておいて、俺は千歌を傷つけた。
隣に居ることすら投げ出してしまった。
「⋯⋯何、してんだろ。」
あの日から3日。俺は携帯の電源を切りっぱなしにしていた。メールも、着信も、携帯に表示される名前が怖かった。誰であっても、上手く話をする自身が無かった。
誰であってもだ。
俺の背中を押してくれた善子も、学校で気を使ったり今でもAqoursのメンバーと繋がってくれている宗弥も⋯。
久しぶりに起動した携帯電話。着信履歴は⋯35件。
色んな人から連絡が入っていた。梨子さん、果南ねぇ、ダイヤさんにマリーさん⋯善子⋯宗弥⋯。
分かってはいた。それでも⋯あって欲しかった名前は、そこに無かった。
ははっ⋯自分から距離を取った様なものなのに、なんて身勝手なんだろう。なんて汚いんだろう。
「涼介?どこ行くの〜?」
「ちょっとその辺ブラついてくる。」
「遅くならないようにね〜。」
母さんからの言葉に流し返事で了承し、家を出る。急に帰ってきた母さんは、特に何を話すわけでも無く出張に行く前の日常を過ごしている。
別に気にして欲しいわけじゃないし、この家に帰ってくると言ったのは俺だ。
夕暮れに染まる道を1人で歩く。あちこちで夕飯の支度をしている匂いや、友達と笑いながら家へと帰る子供達。そんな当たり前の光景が広がるこの街で、1人歩く自分が酷く惨めだった。
気を紛らわすためか、はたまた無意識の内にそうしていたのかは分からないが、俺は公園へと来ていた。子供達が帰った後のすっかり静かになってしまった公園。改修も幾らかされているため、所々真新しい所があるが、俺の好きな場所に変わりは無かった。
公園のブランコに腰掛け、何をするわけでもなく時間を浪費していく。そんな俺の足元へやってきたのは、1匹の猫だった。
「⋯どうしたんだお前。もうお家に帰らなきゃ怒られるぞ。」
「みゃあ〜。」
その猫は丸々とした体に、どこかふてぶてしい顔をしている猫だった。手を差し出すと、その体つきからは想像出来ないような動きで、俺の頭の上へと鎮座する。
「⋯重いんだけど。」
「みゃあっ!」
「⋯聞いちゃ、くれないか。」
「ったくもう⋯フーさんってば何処に⋯⋯あれ?フーさん?」
公園の入口に一人の男の人が立っていた。俺より少し背の高いであろうその人は、こっちの方へと歩いてくる。
フーさんという名前に心当たりは無いし、ましてや俺がフーさんなわけ無い。
この人は何を言ってるんだろうか。
「やっと見つけたよフーさん⋯さぁ、家へ帰るよ。」
「にゃあっ。」
「こら、ワガママ言わない!その少年にも迷惑がかかるでしょ!?」
「にゃあ〜っ!!フシャーッ!!」
「いったぁ!!殴ったね!?もうおこだぞ僕は。泣いて謝っても許さないからな??」
「あの⋯。」
「ごめんよ少年!今からコイツを引っぺがすから!ぐぬぬぬぬぬぬぬっ⋯⋯!」
⋯変な人だ。
とりあえず、地味にフーさん?の爪が引っ掛かって痛いから待ってて欲しいんだけどな。
「駄目だぁっ!何で今日はこんなに意固地なんだよ⋯。」
「あの⋯別に大丈夫です。予定とか無いので。」
「そうかい⋯?ごめんよ本当に。はぁ⋯こりゃあまた怒られるなぁ⋯。大体顔も知らない子を名前だけで探してくれってのが無理あるって⋯。」
「誰か探してるんですか?」
「あっはは⋯まぁ、ね。この辺にいるらしいんだけど、『滝沢 涼介』君って知ってるかな?」
その名前が出た瞬間、思わず体がビクついてしまった。
この人は、俺を知っている。俺は初めて見るってのに、何で⋯。
「⋯⋯そっか。フーさん、知ってたんだね。」
「⋯何の用ですか?」
「か───えっと⋯幼馴染みに言われてね。君が悩んでるだろうから、同じ男同士で話を聞いて欲しいってさ。」
「そう、なんですか⋯⋯。」
「言わなくても大丈夫だよ。」
「へ?」
この人は今なんて?言わなくていい⋯って言ったか?えっ、あれ⋯じゃあ何で⋯。
「⋯何で俺を探してたんですか?」
「どんな子か気になってね!かな───幼馴染みも随分と心配してたと言うか可愛がってたと言うか⋯まぁそんな感じだったし。」
「なら尚更このまま帰ると不味いんじゃ⋯。」
「君は聞いて欲しいのかい?」
「それは⋯。」
すぐに答えられなかった。答えなんかとうの昔に出てる癖に、また1回、強がった。
「⋯滝沢 涼介君。感受性豊かで、泣き虫で、良い意味でも悪い意味でも真っ直ぐな少年!」
「な、何ですか急に⋯?」
「これ、全部僕の幼馴染みから聞いたことなんだ。合ってる?」
「⋯分かりません。」
「まぁそうだよね。でもさ、君の事幼馴染みから聞いて、自分で君と会って、話をして、分かったよ。本当、その通りの子だなって。」
「⋯馬鹿にしてます?」
「まさか!でもさ、君の性格も⋯良い所も悪い所も、全部こんな風に流れてるって、ちょっと不公平だと思わない?」
悪巧みを企んだ子供のような笑顔で、この人はそう口にした。確かに俺はこの人の事を知らないのに、この人はその幼馴染みさんから色々と聞いているらしい。
「だから、ここで僕達が会った事はお互い秘密にしておこう!」
「え⋯いや、でも⋯。」
「君の気持ちを僕が無神経に聞いていい理由も無いしね。その代わり君がもし僕に聞きたいことがあるのなら、何でも答えてあげるよ。」
「⋯それこそ不公平じゃないですか。」
「あっ、それもそうか。はははっ!じゃあ君が前を向けたら、その時は僕も聞きたい事聞くからそれでチャラって事で!♪」
「⋯⋯じゃあ⋯一つだけ、聞かせて欲しいです。」
「良いとも!」
「───大切な人を傷つけた事、ありますか?」
分かってる⋯こんなのはただの八つ当たりだ。この人の笑い顔が羨ましくて、今の自分を見たくなくて、皮肉めいた言葉しか出てこない。
「無いよ。」
「⋯ですよね。」
「じゃあ君の悩みはその大切な誰かに対するものなんだね。」
「⋯⋯俺は傷つけました。好きな人を。背中を押してくれた親友を。謝ることも、向き合う事も出来ない⋯こんな意気地無し、そばに居ない方が良いって思うのに、まだ期待してる自分がどこかに居て⋯もう、分かんないんです⋯。でも、俺は皆のそばにいる資格なんか無いって事だけは分かる。俺は居ちゃいけないんだ⋯だから───。」
「恋愛ドラマを見て毎回思うんだけどさ。」
俺の言葉を遮るように、彼は口を開いた。その顔にさっきまでの笑顔は無く、どこか遠くを見つめるように、ただ前を向いていた。
「喧嘩した時とかシリアスな場面でよく言うよね。『資格が無い』って言葉。僕はずっと不思議だったんだ⋯誰がそんな事決めるんだろう、何を根拠にそんな風に思うんだろうって。」
「⋯自分以外居ないんじゃないですか?」
「そうだろうね。でもさ⋯相手がその人の事を『資格が無い』って思っていなかったら⋯それは只の被害妄想だ。」
「っ⋯!」
「まぁドラマと現実は違うから一概には言えないだろうけどね。それでも、好きな人に1回距離を置かれて諦めるくらいなら⋯『それで終わり』ってことじゃないかな。」
「じゃあっ!!」
今ので確信した。
この人は、俺の⋯俺が犯した事について言っている。
そんなのは独り善がりだと。
単なる妄想だと。
自分でも分かるぐらい、頭に来ていた。
この人の言う事が正しい事だから。的を射られて、何も言い返せなくて、もう八つ当たりする事しか残されていないから。
「俺はどうしろって言うんですか⋯!人を傷つけた事の無い貴方は、このクソみたいな俺にどうしろって言うんですかっ!!」
「⋯⋯僕がああしろこうしろ言ったら、君はしてくれるのかい?それはそれで良いけど、それで君が変わるわけじゃない。君の根底にある芯は変わったりしない。涼介君は、もう少し自分の事信用してあげた方が───。」
「もううんざりなんですよっ!!こんな性格じゃなかったら、彼女を傷つけることもなかった!俺が変われていたら、あんなこと言わせずに済んだっ!!あんな⋯泣かせる事も、無かったんだ⋯。」
心が苦しい。縄で縛りつけられたかのように、ギリギリと胸を締めつけてくる。さっき出会ったばかりの人に本当の事を言われ、ただ八つ当たりして⋯何で⋯何で俺は、こんな事しか⋯。
「今の涼介君は、僕の幼馴染みそっくりだ。」
「⋯え?」
「その子には2人の親友が居てね。子供の頃から毎日の様に一緒に過ごしてた。でも、その内の1人が海外へ留学する事になって離れ離れになったんだ。当の本人は嫌だと言ったんだけど、僕の幼馴染みはその親友を突き放した。友達の将来を願って、今の君のように『これで良かった』と思ってね。」
「⋯⋯⋯。」
「けど、それからの彼女は見てられなかった。平気なフリして、笑って過ごして⋯本当は寂しがり屋な癖に。誰も居ない所でたった1人で泣いていた癖に⋯だから、そばに居てあげたかった。親に説明して、彼女の爺ちゃんに頭を下げて居候させてもらって⋯。今の君は、その時の彼女に本当にそっくりだよ。」
「俺は⋯⋯。」
「⋯別に自分のした事が彼女を救っただなんて押しつけがましいことは思わない。けど、支える為に変わろうとは思った。助ける為に、笑っていようって思った。」
いつの間にか俺の頭から彼の膝の上に座っていたフーさんを撫でながら、彼は静かにそう言った。
それは、大切な誰かに向ける目だ。今の俺には真似出来ない目。
この人は⋯その幼馴染みの事⋯⋯。
「自分を変えるって、きっと気持ちを我慢することじゃないと思う。『人を傷つけるワガママだ』って自分じゃ思うかもしれないけれど、それで前を向ける人もいる。それを望んでる人もいる。だから伝えるんだ。一緒に泣こう。一緒に喧嘩しよう。一緒に笑い合おう───『君は、1人じゃないよ。』って。誰かとそうして過ごしたら、なりたい自分に変われるんじゃないかな?」
何の迷いもなく、彼はそう答えた。元々迷いとかそういうのは無かったのかもしれない⋯でも、この人の言ってる事が、不思議と自分の中でハマった感じがした。
前を向く勇気は、まだ無い。彼女と⋯千歌と向き合う気持ちの整理は、まだ出来てない。
それでも、自分が何をするべきなのかは分かった気がした。
「⋯俺、伝えたいです。大切な人に。」
「そっか⋯じゃあちゃんと言わなくちゃだね。じゃあ僕はそろそろ帰るよ。帰りが遅くなると幼馴染みに怒られるからね。」
「あの!名前⋯聞いてもいいですか?」
「
「淡島⋯?パシリ?」
『だってこの間、嬉しそうに男の人と歩いてたじゃん。』
『や、ちがっ!!///あれ⋯は〜⋯パシリだからっ!///』
果南ねぇと遊んだ日の記憶。果南ねぇの反応⋯パシリ⋯まさか、昂太さんの幼馴染って⋯!
「あの!」
「ん?」
「松浦果南を⋯果南ねぇを、知ってますか?」
「───知ってるよ⋯大切な人だもん。バイバイ、涼介君♪」
どこか寂しげな顔をした昂太さんは公園を後にし、俺は1人、夕暮れの公園に立ち尽くしていた。
◇
昂太さんに話を聞き、考える時間は出来た。俺がしなければならない事も、分かった気はする。それでも、前に進む一歩だけが出なかった。
誰かに連絡をしようかと思った。怒られるのは分かってるし、それが当然だとも思った。
なのに、何故手の震えが止まらないのだろう。
何故俺はこの期に及んで躊躇っているのだろう。
1人で出来る事なんて、もう───。
『〜〜〜♪』
「っ!!着信⋯⋯曜、さん?」
いきなり鳴り出した携帯電話にビクついたものの、画面に表示された着信相手の名前を確認する。
渡辺 曜さん⋯果南ねぇと一緒に、ずっと千歌ねぇと過ごしていた幼馴染みの人⋯。
「出なきゃ⋯電話⋯⋯。」
スマホの画面をスライドするだけ。それだけでいいんだ。なのに指は震えたまま、動いてくれない。
10秒ほど、コールは鳴り続け、部屋の中は再び静寂に包まれる。
電話に出られなかった。
違うだろ⋯出なかったんだ。
また逃げた。
いつだってこうじゃないか。泣き虫で、強がりで、口先ばっかりで、何も出来ないクソガキのままじゃないか。昂太さんに教えて貰って前を向こうとした。なのにこれじゃあ、意味が無いじゃないか。
胸の痛みが増し、誤魔化すかのように携帯を部屋で投げ捨てる。そんな臆病者。ははっ⋯百も承知だ。
だけど⋯
「どうしたら⋯いいんだよ⋯⋯。」
もう、分からなかった。彼女が来るまでは。
「───じゃあ、いい加減電話に出て欲しいな。」
汗をかき、肩で息を切らしながら彼女は立っていた。疲れ果てた顔は、彼女がどれだけ走って来たのかを物語っている。
「曜、さん⋯?」
「居るなら返事してくれないと、曜ちゃん寂しいぞー?
「⋯ごめん。なんでこんな所に⋯」
「涼介君のお母さんが入れてくれてね。隣、良いかな。」
こちらが了承する前に、私服姿の彼女は隣に腰掛けた。何を聞かれるのか、何の用があって来たのか、彼女は何も口にしない。
ただ一言───。
「お腹空いた。」
「自由ですか。」
「しょうがないじゃーん。誰かさんが音信不通で、今日もずーーーっと走りっぱなしだったんだよ?」
「⋯⋯すみません。」
「⋯ねぇ⋯私、珍しく怒ってるんだ。」
静かにそう言う彼女に、少しだけ肩が震える。
大切な幼馴染みを傷つけられて、その本人が逃げ出して⋯考えるまでもない。彼女は俺に怒りの言葉をぶつけに来た。
絶対許さないと。
もう、千歌には関わるなと。
それを言いに来たんだ。
「涼介君さぁ⋯ダメじゃん、千歌ちゃんをあのままにしちゃ。ああなった千歌ちゃんは大変なんだよ?ちゃーんと2人でごめんなさいしてね。」
「⋯⋯えっ?」
「何?まさか謝れないとか⋯」
「ち、違うよ!その⋯関わるなって⋯言いに来たんじゃないの?」
「へ?あっははははっ!考え過ぎだよ!!そんなわけないじゃん!!」
お腹を抱えながら、曜さんは俺の布団で転げ回っていた。
どうして。
どうしてそんなに笑ってられるのか。
どうして罵声をぶつけてくれないのか。
俺は、曜さんに取っても大切な人をあんなに泣かせたのに。
距離を取られたのが怖くて、それが正しいって強がって彼女から距離を置いたのに⋯どうして⋯。
「あ〜笑った笑った⋯。泣き虫小僧は随分被害妄想が激しいね♪幾ら親友で幼馴染みでも、2人の話にどうこう言う権利なんて無いよ。」
「じゃあ⋯何で、来たんですか?」
「電話も繋がらないし、友達君に聞いても『今はそっとしておいて下さい』って言われるし⋯もうそろそろ泣いちゃってる頃かなーって思ってさ。」
「⋯⋯泣いてなんか、いないです。あの日からずっと⋯涙が出てこなくて⋯。」
「嘘。今だって泣いてる癖に。」
「そんなわけ───。」
彼女がこよなく愛する海のように。どこまでも深い群青の瞳が、じっと俺の顔を見つめてくる。心の中まで見透かされそうなその眼に耐えきれず、顔を逸らすことしか出来ない。
それでも、彼女は言葉を続けた。
「ずっとずっと泣いてる⋯涼介君の心が、悲鳴を上げてる。」
「ち、違⋯。」
「どうしてそんな顔をしてるの?何がそんなに怖いの??」
「俺はっ⋯。」
「君の考えてる事、全然分かんないよ。だから───ぶっちゃけトーーークッ!!しよっか♪」
頬に両手を添えられ、子供のような笑顔で彼女はそう言ってきた。曇りも、憤りも、何一つ無い純粋な眼で。それから俺の顔を見ないように気を使ってくれたのか、彼女はそのまま俺の後ろに背中を預けるようにして座ってきた。
「ぶっちゃけ⋯?」
「そう!ここには千歌ちゃんも、果南ちゃんも居ないから⋯言えない事、あるんじゃないかな?」
「⋯でも⋯また、迷惑かけるから⋯。」
「そんな事考えなくていいんだよ。君はあんまり思ってないかもだけど⋯私だって千歌ちゃんと同い年なんだから、もっと頼って欲しいの。じゃなきゃ⋯寂しいじゃん⋯⋯。」
顔が見えないから、今曜さんがどんな顔をしてるかは分からない。でも、悲しげな声だった。
また繰り返すのか?
何も出来ない癖に強がって、1人で来てくれたこの人を傷つけて追い返す。
本当に、それで───。
「⋯曜さん。」
「⋯⋯何?」
「俺、怖いんだ⋯千歌ねぇに会うのが。」
「⋯うん。」
「千歌ねぇがさ⋯言ってくれたんだよ。付き合ったんだから呼び方を変えようって。死ぬほど嬉しかった。恥ずかしかったけど、同時に幸せだって思えたんだ。でも、あの時───」
『気づけなくて⋯ごめんね⋯⋯りょーちゃん。』
「あの時思ったよ。もう、隣には居られないって⋯千歌ねぇは⋯距離を、置こうとしてるんだって⋯。」
「⋯うん。」
自分の手に、涙が落ちた。
あんなに出てこなかった涙は、俺の言葉と、本心と一緒に、ようやく流れる事が許されたかのように溢れ出てくる。
「それから、俺は逃げたんだ。逃げて、逃げて、逃げて⋯でも逃げれなかった。今でも、あの人の泣き声が聞こえるんだ⋯隣に居るって⋯約束、したのにっ⋯!」
「⋯涼介君は、どうしたい?」
「⋯謝りたい⋯また、あの人の隣に居たい⋯!また、隣に居て欲しいっ⋯!けど、進めないんだよっ!震えが、止まらないんだよ⋯。」
両手で目を押さえても、擦っても、涙が止まることは無い。元々泣き虫な性格なのに、ここ最近は全く涙が出なかったんだ。どれほど出るんだろう。どれほど強がっていたんだろう。
もう、全部流れてしまえばいい。そうすれば、俺はきっと空っぽになる。空っぽになったら、きっと気が楽になる。新しい何かが埋めてくれる。
「涼介君、変わってないね。昔っから泣き虫で、怖がりで、1人だと前を向けない。前に進めない。」
そうだよ、曜さん。俺はあの頃のままだ。そんな事は自分が一番良く分かってるんだよ。だから変わらなくちゃいけないんじゃないか⋯。
「涼介君、変わっちゃ駄目だよ。」
「え⋯?」
彼女が口にした言葉は、俺がなりたかったものを否定する言葉だった。
理解が追いつかない。追いつく筈がない。
自分がこんな性格だから、色んな人を巻き込んだんじゃないのか?
俺が変われないから、大切な人を傷つけたんじゃないのか?
「小さい時から、涼介君は誰かの為に泣いてた。私が君と同じくらい泣き虫だった時も、私より泣いちゃって⋯気付いたら、涙なんか止まってた。逆に涼介君の事泣き止ませようと必死になっちゃったりね。」
「それは⋯。」
「優しいんだよ、涼介君は。言葉を掛ける前に気持ちを共感してくれて⋯自覚は無いかもしれないけど、私も善子ちゃんも、千歌ちゃんも⋯助けられてるんだよ?だから、君はそのままの君でいて欲しいな。」
初めて言われた。
自分が泣いて助けられる誰かが本当に居ただなんて。
泣き虫で、怖がりで⋯そんな自分でいてくれだなんて。
「自分を変えるってね⋯?良い事ばっかりじゃ無いんだ。泣き虫が治っても、大事な何かを無くしちゃうことだってある。無理に変えようとして、強がって、1人で全部出来るんだって思って⋯それが空回りして、失敗しちゃう事もあるし。」
「でもっ⋯!でも⋯⋯。」
「⋯⋯涼介君には、こうなって欲しくないから。」
「曜、さん⋯?」
こうなって欲しくない。
その一言だけ、彼女の声色が確かに低くなった。まるで、誰かに言い聞かせているみたいに⋯。
「変わるのが悪いって言ってるわけじゃないよ。でも、変わることで自分の中の大切な物を無くさないで。」
「俺⋯本当に、このままで良いの?」
「うん。」
「迷惑、かけるよ⋯?」
「私も、果南ちゃんも、皆も⋯そんな事気にしないよ。多分千歌ちゃんが誰よりも気にしないと思うけどね♪」
「うぐっ⋯ひっく⋯ごめんっ⋯心配かけて、ごめんっ曜姉ちゃん⋯!」
「⋯⋯あっはは⋯久しぶりに聞いたな、それ。良いよ。目一杯泣いちゃえ。泣いて、泣いて、もう涙が出なくなってちゃんと前を向けたら、明日千歌ちゃんの所に行こう。」
お互い背中合わせのはずなのに、暖かった。
涙を流すって、こんなに簡単な事だったんだな。昂太さんに曜姉ちゃん⋯連絡をくれた、関わってきた人達。ただ言えば良かった。言えれば良かった。
『助けて』って。
泣いた。思いっきり泣いた。我慢してた分も、貯めてきた分も、全部、全部、流した。
きっと、あの人の前に立ったらまた泣いてしまうのかもしれない。でも⋯それならそれでいいと思えたんだ。強がらなくて良いなら。そのままの俺で居ていいなら。
泣き虫小僧のまま、彼女と向き合おう。
もう二度と、離すもんか。
歯車が止まったのなら動かせばいい。
彼女が止まったなら俺が動けばいい。
俺が止まったならもう1度動く為の力を借りればいい。
曜姉ちゃんに。果南ねぇに。ダイヤさん、マリーさん、善子に宗弥に昂太さん。それから⋯千歌。
君はもう1人じゃない。
俺はもう1人じゃない。
次回、『ふたりミカン』