Wild Arms Backward 3   作:あるトカないトカ

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Spread Your Wings

――Three weeks before the fateful encounter.

 

「アメリアちゃん……わたしのラジオ、直った?」

 

 身じろぎをするたびに軋みをあげて、もっと体重を減らせと文句を垂れる安楽椅子に腰を下ろし、古めかしいクルミ材でできたカウンターに頬杖をついていたら、不意に聞こえた声にびくりと背筋が強張った。寝入っていたわけではないが、心ここにあらずであったことは認めざるをえない。慌てて視線を上げてカウンターの向こうを見やるものの、そこに人の姿は見当たらない。思わず首を傾げそうになった瞬間、胸を過ぎった心当たりに従ってカウンターに両手をついて身を乗り出す。覗き込むように下を見ると、果たして、人の姿は確かにあった。小柄なその身体は、カウンター越しでは見えないのだ。

 

「こんにちは、レイミー。ウィグナーズリペアの技術力を甘く見ちゃ駄目だよ。壊れたラジオも、たった一晩で……ほら、元通りッ!」

 

 艶やかな金髪を項の辺りで緩く結った、白いワンピースを着た子ども――レイミーの髪をくしゃくしゃと撫でてやった後、棚から取り出したラジオを手に取り、ぐるりとカウンターを回り込んでレイミーの眼前で膝を屈める。視線の高さをレイミーと揃えたなら、少しだけ勿体つけてラジオの電源を入れてみせた。スピーカーが奏で始めるのは、小粋なトランペットの音色。ぱぁっと花がほころぶような笑みを浮かべたレイミーに、ゆっくりとラジオを手渡す。

 

「ありがとう、アメリアちゃん! これでジョリーロジャーの船乗りさんたちのラジオが聴けるよ。お代……本当にこれでいいの?」

「もっちろん! というか……わっ、たくさん!? こんなに貰っていいの?」

「うん、甘くておいしいから、ハンナさんと一緒に食べてね」

 

 ラジオと引換えに、レイミーは麻の袋をアタシに差し出した。ずっしりと重い袋の中には、大玉のリンゴが一杯に詰められていた。熟したリンゴの甘い香りに早速食欲を煽られる。

 

「……アメリアちゃん、旅に出ちゃうって本当?」

「うん――。本当だよ」

「もう帰ってこないの?」

「そんなことないよ。世界を旅して、いろんなことを勉強して、お婆ちゃんよりももっとすごい修理屋さんになったら、またここに帰ってくるから、ね」

 

 ラジオを大切そうに両手で抱えつつ、唇を尖らせるレイミーの頭をもう一度くしゃくしゃと撫でてやる。隠していたつもりはないが、さすがに旅立ちの前日ともなれば五歳の子どもの耳にも入るのだろう。絶対に帰ってきてほしい、と繰り返し告げて去っていくレイミーの背中をしばらく見つめた後、アタシは室内に視線を向ける。記憶に焼き付けるため、といえば大げさに過ぎるかもしれないが。

 ブーツヒルとサウスファーム駅の中間地点にある、名前もない小さな集落。極めて単純に”ホーム”と呼ばれているここでアタシは生まれ育った。大陸のほとんどを荒れた大地が占めるなか、この辺りは比較的地味が肥えていて、少ない住民が生きていけるくらいには作物が育つ。だから、幸いにして飢えを味わった記憶はない。加えて、この集落にはアタシの生家にして職場である”ウィグナーズリペア”がある。子どものおもちゃから農業機械まで、およそ形あるものならなんだって直してみせる修理屋だ。この店の存在が、多少なりとも”ホーム”の生活を豊かにしていると自負してしまうのは、手前味噌が過ぎるだろうか。

 慣れ親しんだクルミ材のカウンターには”Wigner’s Repair”と刻まれたブリキ製の看板が打ち込まれている。なんとなく触れてみると、ホコリと錆が混じったちりが指先についた。少しだけ尖らせた唇から息を吹いて、指先から粉を飛ばす。窓から差し込む日差しをうけて、きらきらと輝くちりが、修理品を並べる棚や、簡単な修理を行う作業台へと舞っていく。生まれてから今日まで、十八年もの月日を過ごした店の内装を改めて見渡せば、胸の奥がちくりと痛むのを自覚する。アタシもいっぱしに多感な少女をしているじゃないか、と唇をほんの少し緩めた。

 両手を軽くはたいて、気持ちを切り替える。今日までは、この修理屋の自称看板娘兼エンジニア見習いの仕事はきちんとこなしたい。アタシは店の奥の作業場へと続く鉄扉をそろりと開ける。

 

「お婆ちゃん、レイミーにラジオ渡したよ」

「そう……ありがとう」

「それ、グレンさんの脱穀機のエンジンでしょ。どう……?」

 

 作業場へと足を踏み入れた途端、油と金属の匂いが嗅覚を刺激する。苦手な人も多いようだが、アタシこの匂いが好きだ。なにせ、この匂いに包まれて育ったようなものなのだから、安心感がある。未だになにに用いられるのかがわからないような小さな部品から、大きな金属の塊まで、いろいろなモノが所狭しと、しかし極めて整然と並ぶ部屋の中央――。顎元に指を添えて長身の女性が立っていた。油汚れがところどころに目立つ作業着を身にまといながらも、怜悧さと気品を感じさせる佇まいの彼女こそ、アタシの祖母でありこの店の店主兼技師長のハンナ・ウィグナーである。祖母の視線の先――。大人三人くらいが余裕を持って横になれそうな樫材製の作業台の上には、剥き出しのエンジンが置かれている。

 

「タイミングベルトが寿命のようね。幸い換えの在庫はあるから、交換と動作確認、慣らし運転を含めても一両日中にはお返しできるでしょう」

「よかった。グレンさん家の小麦がなくなったら、コーディーのパンが食べられなくなっちゃう」

「”ホーム”の食事環境の危機……だったかしら?」

 

 背中の辺りで結った長い白髪をふわりと解いて、祖母は得意げに笑みを浮かべる。我が祖母ながら、御年六十一歳には見えない艶やかさがあるのだ。アタシも四十数年後にはこうなれるのだろうか、という微かなコンプレックスを覚えつつ、親指をぐいと立てた。

 

「その通りッ! でも、お婆ちゃんのおかげで危機は回避されたよ。と、いうわけで……今日のお昼ごはんも遠慮なくパンが食べられるね」

「今日のメニューはなに?」

「ふふん……メンチカツサンド、ですッ!」

 腕を組みながらに、アタシは少々胸を張って応じた。祖母があまり料理をしないこともあって、食事の用意は自然とアタシの役目になっていた。特に、揚げ物全般は得意料理である。

 

「あら、嬉しいわ。最後の日だから私の好物にしてくれたのかしら……。それとも、願掛け?」

「どっちも……かな」

「なら、お昼ごはんの前に始めましょう? 私は先に行くわ。準備をしてからおいでなさい。お弁当箱も忘れずにね」

 

 アタシの眼前まで歩み寄り、穏やかな声色で問う祖母。その榛色の瞳が湛えるのは言葉に尽くしがたい圧力。思わず一歩後ずさりしそうになるのをぎりぎりで堪えた自分を褒めてやりたい。絡まった視線から逃れるように、ブーツの先を見るともなしに見る。そんなアタシの肩を緩く叩いた祖母は、整った足取りで作業場の裏口から外へと出ていった。重い吐息をゆっくりと漏らす。無意識の内に肩へと力が入っていたようだ。

 店先に”Lunch Break”と書かれた木製の札を引っ掛けた後、作業用のエプロンを外したアタシは、身支度をしてから店を出た。目的地は”ホーム”の端に位置する小高い丘。歩いて五分足らずの道のりであるが、この五分はアタシにとってとても長い五分なのだ。お弁当箱を入れた籠を片手に持ったまま、気合を入れるために軽く唇を噛み締める。丁度その時、背後から聞き慣れた声が聞こえた。

 

「アミー! 今日も例の日課……か?」

「もちろん。っていうか、最後こそ頑張りたいじゃん。ワットこそ、今から仕事?」

「おう、サウスファーム駅まで野菜の出荷さ。一週間くらいは帰れないだろうな」

 

 振り返る先、見慣れた顔に軽く手を振れば、小走り気味に一人の青年――ワットが駆け寄ってくる。アタシよりも随分長身の彼と視線を重ねようと思えば、首を反らして見上げざるをえない。彼が羽織る厚手の外套は、”ホーム”の外、荒野を渡ることを意味していた。

 

「ん、気をつけて行ってきてね。アタシも、頑張ってくるから」

「それなんだけど……やっぱり決意は固いのか? 俺、もう少し金を貯めたら店を持とうと思うんだ。ここの作物だけじゃなく、もっといろんなモノをやり取りして、さ。だから、俺と一緒に……」

 

 不意に、神妙な面持ちを浮かべる彼に首を傾げる。その眉間に微かな皺を刻んだまま、力強い声色で向けられたワットの問いに、アタシは言葉を選ぶ時間を稼ぐかのように瞳を伏せた。数度の瞬きの後、再び彼を見上げる。

 

「そういってもらえるの、すっごい嬉しい。アタシ、アンタのこと愛してるよ。でも……なんていうかな、家族みたいな感情というか。だから、一緒に暮らして、赤ちゃん産んで、ってのは考えられない、ごめん」

「……そうか。いや、悪かった。三度目の正直ってのがあるかと思ったんだけど。そう甘くはないな」

「ワットなら、アタシなんかよりもっといいお嫁さん見つけられるってば! だから、お互い笑って見送りたいな、ダメ?」

 

 これを一回とカウントするなら、彼の言葉通りプロポーズを受けたのは三度目だ。子どもが少ない”ホーム”において、年齢の近いアタシとワットはきょうだいのように育てられた。いつからか、彼がアタシを見つめる視線に幼いころとは異なる意味が混じったことには気づいていたし、それに嫌悪感なんて抱いてはいない。しかし、アタシのほうは彼に家族愛以上の感情は持てなかった。あるいは、アタシの決意が無意識の内に、恋心を覚える機能を封じてしまったのだろうか。

 

「――ったく。敵わないよ、アミーには。でも、そうだな……。気をつけて行ってこいよ。いつか、無事に帰ってきてくれ」

「うん。ワットも、ね。お店、成功することを祈ってるから」

 

 アタシは緩く右手を上げる。その意味に気づいた彼が、アタシの手の平を軽く叩いた。互いに不敵な笑みを見せて、視線を交差させる。彼の綺麗な翠色の瞳も、しばらくは見納めだ。アタシとワットはそれぞれ反対の方向へと歩み出す。一日早い別れ、アタシが肩越しに振り向いたとき、彼も同じことをしていたものだから、冗談半分にウィンクとキスを投げることにした。多少の恥ずかしさに耐えての精一杯のアタシのジョークを、彼ときたら肩をすくめて受け流すものだから、中々に図太い男であると思う。

 明日の旅立ちを知っていた住民たちとの挨拶もそこそこに、丘の上にたどり着いた。それほど高い丘ではないが、集落とその周辺以外は、見渡す限りに荒野が広がっている。空気は風に巻き上げられた大量の土ぼこりを含んでいて、大きく吸い込めばむせ返ってしまいそうだ。

 歴史の教科書で最初の頁に書かれるくらいの遥かな昔、巨大な戦争があったらしい。激化する戦いは戦火を際限なく拡大させ、やがてこの世界――ファイルガイアをこんな姿にまで焼き切ってしまったのだといわれている。

 吹き抜ける乾いた風がアタシの髪を揺らす。まぶたに被さった前髪を片手で整えながらに丘の中央へと向かって進むことにする。荒れた大地とよく似た赤銅色の髪は、アタシの密かなコンプレックスだ。さっさと祖母のように、綺麗な白髪になってしまいたいとすら思う。一本だけ残った朽ちた巨木の正面、憧れである白髪を風に遊ばせながら、こちらをまっすぐに見据える祖母へと距離を詰めていく。

 

「思ったより遅かったわね。何かあったの?」

「告白されたり、修理品の納期を聞かれたり、旦那さんの愚痴を聞かされたり……かな」

「まぁ、大変だったわね」

 

 くすりと笑い声を漏らす祖母。彼女はただ自然と立っているだけなのに、一歩分距離を詰める都度に足取りが重くなる。八年前からまったく克服できていない感覚だ。まずはお弁当箱を巨木の後ろに置いてから、祖母の正面5メートル辺りの場所に立つ。

 

「今日で何度目だったかしら?」

「2,922回目だよ。最後の1回くらいは合格点狙うからッ!」

「いいわ。始めましょう」

「よろしくお願いします――ッ!」

 

 ゆっくりとお辞儀をしてから、姿勢を正す。呼吸を整えて、左手を静かに背中側に回した。革製のホルスターに収められた、ひんやりと冷たい金属の塊を握り締める。力いっぱいに地面を蹴って祖母との距離を詰めながら、素早く抜いて構えるのは、アタシの手には少々余る大振りな銃、ARM――Artifacts from Ruins Memories(遺跡の想い出よりもたらされし技術)――と呼ばれる武器である。弓の射よりも早く、剣の一閃よりも重い一撃を放ちうるARMの存在は、荒野を旅する渡り鳥たちにとっては不可欠なものだ。それに、なにを隠そうアタシはARMを取り扱う技術者――ARMマイスターの見習いである。だからこそ、アタシはもっと近づかねばならない。

 現役のARMマイスターにして、世界に名を馳せた渡り鳥でもあった祖母に、である。力いっぱい踏み込んで、互いの距離を詰めながらに彼女の足に銃口を定める。引き金を引く左手に、緩く右手を重ねて、奥歯を噛み締める。引き金を――引く。鼓膜を貫くような発射音と強い衝撃をともなって弾丸が放たれたときには、既に祖母の姿はそこにはなかった。心臓が早鐘を打つ。視界のどこにも彼女の姿がないからだ。ただし、からくりはわかっている。アタシがどう視線を動かすかを、祖母は完璧に把握し先読みしているのだ。だから、きっともうこの瞬間には――。

 

「……ッ!!」

 

 考えるよりも早く、全力で砂の大地に飛び込む。それと同時、一瞬前までアタシが立っていた地面が爆ぜたのを、音だけで理解した。どうにか受け身を取って、前転する勢いのままに姿勢を整える。すぐさま片膝を地面につけて、祖母がいるであろう方向に銃身を向けた。

 

「相変わらず、ね。ためらう時間が長すぎるわ」

「ごめんなさい……」

 

 呆れたように肩をすくめる祖母の声に、アタシは乾いた笑い声を零す。互いのARMには、今だけ特殊な付属品が装着されている。柔らかく軽い樹脂製の非殺傷性の弾を発射するための装置であり、実際に撃たれたところでそれほど痛くはない。それはそれとしても――だ。アタシは引き金を引くのを躊躇してしまう節がある。時間にして数回の瞬きができる程度の一瞬ではあるが、祖母にとってはアタシを翻弄するのに十分な時間であるらしい。

 

「ほら、足を止めては駄目よ」

 

 銃口が再びアタシに向けられる。ぞわりと背筋を駆け上がる恐怖を理性で抑え込む。安易に駆け出したところで、あっさり撃ち抜かれるだけだ。ぎりぎりまで引きつけてからの、紙一重での回避を狙う。背後側に飛び退く要領で立ち上がり、緩く腰を落とす。瞬きする間も惜しんで凝視するのは、ARMを水平に構える祖母の手。撃鉄が落ちるタイミングを正確に予測しなければならない。西風になびくブラウスの袖口から覗く、その細い手首の筋がわずかに脈動したのを理解する。

 反射的に左足で地面を蹴りつけて、右方向へと跳躍する。次の瞬間、アタシの左肩を弾丸がかすめた。地面に足が着くよりも早く、祖母へと銃口を定める。奥歯を噛みしめて、引き金を引く。発射の反動とブローバックによって逸れる照準を強引に戻して、もう一発。当てられなくても構わない。着地までの間、祖母の追撃の手を止められれば十分だからだ。案の定、放った弾丸はその二発ともがかわされた。それも、ダンスでも踊るかのように緩やかに半身を後ろに引くだけで、である。とはいえ、まずはそれで十分。再び両足が地面に触れたなら、着地の反動を膝の力で強引に削いで、すぐさま走り出す。

 

「――あッ!」

 

 走り出した、はずなのだが――。何かにつまずいて派手に転んでしまった。駆け出そうと全力で踏み込んだ勢いがそのままあらぬ方向へと向いたせいで、受け身すらも取れずに強かに顔を地面に擦りつけた。口に入った砂が気持ち悪い。

 

「あ、くぁッ! ッ……ふっ、く――」

 

 なにがなんだか理解できていないうちに、けたたましい音が鼓膜を揺らす。同時に、腰の辺りに重い衝撃が加わった。混乱したアタシの呼吸器系はまともな酸素供給を放棄して、意味もなく喘がせるばかり。膝を抱きかかえるようにくの字に身体を丸めて、深呼吸に努める。この辺りでようやく理解が及ぶ。祖母に転ばされたうえで、背中を撃たれたのだ、と。前述したように弾丸は非殺傷性であり、”それほど痛くはない。”あくまで、それほどではないというだけで、痛いものは痛いのだ。生理的に零れ落ちてくる涙を手の甲で拭いながら、ゆっくりと身体を起こす。

 

「うぅ……最後だっていうのに、とびきり格好悪い終わりかただよ」

「いいえ、悪くはなかったわ。最後に手心を加えてあげようと思っていたのだけれど、つい熱くなってしまったくらいには、ね」

 

 差し伸べられた祖母の手を取り、緩慢に立ち上がる。

 

「よくここまで弱音を吐かずに頑張ったわ」

「ううん、今日まで毎日、すっごく楽しかったから。嫌だなんて思ったことないもん」

「そう……師匠冥利に尽きる、なんて言うべきかしら?」

 

 祖母は鈴が鳴るような穏やかな笑い声をあげながら、私の頬についた泥を優しく払ってくれた。厳しいようで、その実とても優しい彼女とは今日を最後にしばらくの別れとなる。そんな単純な事実を今更ながらに意識してしまうのは、祖母と二人っきりでの生活がアタシにとって当たり前だったからだろう。

 

「よしッ! お昼にしようよ」

「そうね。アミーの作るメンチカツ……しばらくお預けになるわね。そう思うと少し寂しいわ」

「だったら、晩ごはんと明日の朝ごはんもメンチにする?」

「胃もたれが酷そうね」

 

 二人笑い合いながら、朽ちた巨木を背にして昼食にする。別れを前にした祖母との時間を、しっかりと想い出に焼き付けておくことにしよう。

 

 翌朝、朝日が登るよりも早い時間に旅の準備を整えることにした。お気に入りの白いブラウスの上から、厚手の綿で編まれたストールを羽織る。膝までの濃紺のスカートに目の細かいタイツを合わせて、膝から下は丈夫な編上げブーツを穿く。少々気恥ずかしさを覚えながらも、姿見の前に立ってみる。見慣れた自分の姿だが、なかなかどうして渡り鳥らしく様になっていると思う。緩く波打つ赤銅色の髪だけが玉に瑕、なんて自賛も今なら許されそうだ。一通り服装を確かめた後、自室を出る。

 

「お婆ちゃん、おはよう。ちょっと早いけど、朝ごはん準備するね」

「おはよう、アミー。あら、いいじゃない。可愛いけれど実用的な格好ね」

「でしょ? 旅立つ前のお母さんってこんな感じだった?」

「そうね……むしろ、若い頃の私に似ているかしら」

 

 母よりも祖母に似ている、と言われたことが妙に嬉しくて、頬を緩めながらキッチンに立つ。母が嫌いなわけではない。ただ、母との想い出はあまりにも希薄だった。ただそれだけの話だ。

 旅立つアタシへの選別として、つい先ほど頂いたばかりの一斤丸ごとの食パンを厚めに切る。油を多めにして焼いた焼きそばを、切り分けた食パンにざばーっと盛りつけたなら、食パンで焼きそばを挟み込む。パンと麺、そして少々の野菜とたっぷりの油が調和した、焼きそばサンドの完成である。無論、糖質と脂肪分の塊であるわけなので、朝から食べるには相当に重い。しかし、今日に限っては多めに見てもいいだろう。濃いめに淹れたコーヒーを祖母とアタシのマグカップへ注ぎ、簡単ながらに今朝の朝食とする。旅立ち前に二人で食べる最後の食事だ。

 

「焼きそばサンド……これもしばらく食べられないわね」

「コーディがお店のメニューに加えるって言ってたよ」

「あら、本当?」

「うん、アタシの味には及ばないだろうけど、食べに行ってあげてよ」

「それもいいわね……でも、アミーの味をしっかりと覚えておきたいから、アナタが返ってくるまで我慢しておくわ」

 

 分厚い焼きそばサンドにかぶりつきながらも、上品さを失わない祖母の言葉に深々と頷く。今日の出来はといえば、会心といってもいいくらいだった。焼きそばの油とソースが適度になじんだパン生地は、本来の甘みがより強調されて焼きそばの味の濃さとうまく調和している。主張の強い後味も、濃いめのコーヒーのおかげでくどさを残すこともない。祖母と二人、他愛のない会話をこそ楽しみながら、ゆっくりとした朝食を終えた。

 

「じゃあ、お婆ちゃん。行ってくるね」

「えぇ、思うがままに、その翼を広げていらっしゃい。そうね……一つお願いがあるとしたら」

 

 コーヒー片手に祖母と話を続けて、東の空に太陽が姿を現し始めた頃、アタシは出発することにした。見慣れたカウンターの天板を指先で撫でてから、祖母へと視線を向ける。彼女はすでに作業着へと着替えていた、今日もいつも通り仕事をするのだろう。そんな祖母が、唇に人差し指を添えて、少々口ごもりながらも言葉を続けるものだから、アタシは思わず首を傾げた。

 

「ティナが生きている……なんて期待はしていないわ。でも、旅の途中……もしもあの子の足跡を辿れたなら、いつか私に教えて頂戴。あの子が、どんな旅をしていたのか」

「お母さんの……うん、任せて」

 

 祖母と同じく、渡り鳥にしてARMマイスターであった母――ティナは、私を産んでその五年後には再び旅に出たという。それから十三年、なんの便りも届いていない。母との想い出が少ないのはそのためだ。とはいっても、母に対して恨みなんてこれっぽっちも抱いていない。アタシを心から愛してくれていたのを覚えている。幼い頃のアタシをあやしてくれた、母の優しい声色はとても大切な想い出だ。そもそも、アタシの旅の理由の一つには、どこかで母と会えるかもしれないという淡い期待すらある。ただ、十三年という年月の意味くらい、アタシにもわかっていた。だから、祖母の瞳をまっすぐ見つめてゆっくりと頷いた。

 

「絶対に、帰ってくるから」

「当然よ。このハンナの薫陶を受けた渡り鳥が、旅の途中で倒れるなんて許さないわ」

「お婆ちゃん……帰ってきたら、また一緒に仕事させてね」

「旅を通して見聞を広めたARMマイスターなんて、とても貴重な人材だもの。存分に力を貸して頂戴」

 

 少しだけ身をかがめて、祖母の胸に顔を押し付ける。金属や油の匂いが少しだけ混じる、優しい祖母の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。この温もりを忘れないように、胸に刻み込む。同時に、瞳から溢れる水分を彼女の服でこっそり拭ってしまおう。

 

「ん、じゃあ……行ってきますッ!」

「行ってらっしゃい。アミーにとって、素晴らしい旅になることを祈っているわ」

 

 緩やかに、万感の思いを込めた一歩を踏み出す。後はもう、止まることなく歩き続けるだけだ。肩越しに振り返り、祖母に向けて両手を大きく振る。肩の高さに上げた手を振る彼女の穏やかな笑みが、どこか寂しそうに見えたのはアタシのうぬぼれだろうか。考えれば、また目頭が熱を持ち始めたから、祖母の姿と、”Wigner’s Repair”の店構えをしっかりと両目に焼き付けて、前を向くことにした。まだ静けさに包まれたままの”ホーム”から、アタシはゆっくりと遠ざかっていく。

 

 人生の目標である祖母へと追いつくための、いわば修行の旅。

 アタシ――アメリア・ウィグナーにとって、この旅はそういうものであるはずだった。


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