伊吹萃香もどきが行く 作:葛城
この大地において、巨体であるのは確かな有利ではある。
だが、全てにおいて有利に働くわけではない。むしろ、巨体であるが故に、多種多様な生物から獲物として狙われやすくなるというデメリットがある。
これが、人類たちが暮らす世界であったならば、それがデメリット(食糧が枯渇するという点を除けば)になることはまずないだろう。
しかし、『暗黒大陸』では違う。
そりゃあ、人類より『暗黒大陸』などと名付けられている場所だ。人類たちが暮らす場所にて繁栄する生き物たちと比べれば、そのほとんどが巨大であると判断されるやつしかいない。
しかし、全てが巨大であるというわけではない。
人類世界においても、極端な巨体を武器にするモノもいれば、逆に極小であることを武器にするやつもいる。小さいが故により多くの子孫を残し、個ではなく群による強さを持って繁栄を遂げる生物はいる。
それと同様に、人類世界では巨大であると判断されるサイズも、この地では小さいと判断されるサイズの生物だったりする。その中には、人類世界の生き物と同じく『質』より『量』でカバーする生物もいるわけだ。
……が、しかし。忘れて行けないのは、ここが『暗黒大陸』であるということだ。
前述した通り、質より量を以て苛酷過ぎる生存競争を勝ち残ろうとする生き物は人類世界においても何ら珍しい存在ではない。だが、人類の常識では推し量れない大地であるここでは、常識的な物差しで捉えてはならない。
例えば、その代表的な存在が昆虫である。
『暗黒大陸』において、昆虫という存在はけして弱者ではない。その肉体的な強度もさることながら、何よりも恐ろしいのは……常識では考えられない速度で行われる、爆発的な繁殖力だ。
仮に、だ。『暗黒大陸』において生息域が広く分布している、一匹のとある蟻(体長、約10センチほど)が、獲物となる相手を襲ったとしよう。相手は体長80メートルにも達する、暗黒大陸生まれの大陸育ちの恐竜のような生物だ。
恐竜の表皮は固く、鋼鉄のように頑丈だ。銃器では歯が立たず、戦車の砲弾を以てしても数十発は撃ち込まねば殺せない。生命力も並はずれていて、飲まず食わずで七日はフルパワーで暴れることが出来る。
そんな恐竜と蟻が戦ったとして、勝敗はどうなるか?
結果は、順当にやれば恐竜が勝って、条件が悪ければ恐竜が負ける、である。
それは恐竜が瀕死の状態であるとか、疲労困憊の状態であるとか、身動きできない状況にあるとか、そんな生易しい話ではない。
恐竜の体内に卵を植え付けることが出来るか否か、ただそれだけである。
ただ、それだけで勝負が付いてしまう。何故なら、たった一個の卵が恐竜の体内に入って、孵化した瞬間。臓腑を栄養源にして増殖し、恐竜を体内から食い殺してしまうからだ。
その勢いたるや、文字通りの『爆発的』というやつだ。
一分後には1匹から400匹に。5分後には400匹から60000匹に。30分も経たないうちに、80メートルにも達する巨体が保持していた肉体の全てが蟻の餌となり、骨すら残らない。
それが、『暗黒大陸』に生息するポピュラーな昆虫の姿なのである。故に、ここでは身体の大きさなどそこまで有利には働かない。
いや、むしろ、ただデカいだけのやつはこの地では二流あるいは三流だ。昆虫の例もそうだが、半端に大きいやつよりも、小さいやつの方が万倍も危険であったりするからだ。
巨体でないからこそ、搦め手を使う。正面では勝てないから、勝つための武器を生み出す。たとえ小さくとも、それらすら跳ね除ける怪物たちを前に絶滅することなく生存できるだけの凶悪さが、小さき者たちにはあるのであった。
……しかし、だ。人類世界では人類に多大な悪影響を及ぼすとされて怖れられている、何もかもが規格外の凶悪過ぎるそんな生物たちも。
「あ~、生き返るわ~」
二本の角を生やした彼女の理不尽さと比べたら、ある意味では可愛いものなのかもしれない。仮に、その光景を目にするモノがいたなら、そう思っても不思議ではない光景が、そこにはあった。
そこは、枝葉から僅かに零れ落ちる日差しによって仄暗い程度に明るい、生い茂る森林のとある場所。地下より湧き出て沸き立つ温泉から立ち昇る湯気の中に身を浸した彼女は、温泉の縁に背を預ける形でリラックスしていた。
当たり前というか何というか、彼女は裸であった。
いや、まあ、服を着たまま入る趣味はないから当然なのだが、ここは人類世界ではない。一滴で大樹を枯らす毒液を排出する蛇が当たり前のように生息する、『暗黒大陸』の一角だ。
そんな場所で、裸になる。あまつさえ、天然の温泉に身を浸す。
自殺願望どころか気が狂っているのかと言われても、仕方がないだろう。それぐらいに、ここは地獄すら生温い苛酷な世界なのだ……が、しかし、だ。
そんな場所をねぐらにして、あるいは罠に利用して、捕食しようとする怪物たちはいないのか、と。
どうして、この温泉周りには怪物たちがおらず、のんびり彼女が温泉を楽しめているのか、と。
その点について……疑問に思う者もいるだろう。
森の中を50メートル進むまでに襲われる確率250%(食われた後、捕食した生物が他の生物に食われ、その生物がまた他の生物に襲われ、致命傷を負うまでの確率)なこの場所で、どうして彼女は気を抜いていられるのか。
答えは……彼女が身を浸す、この温泉にこそあった。
率直に述べれば、この温泉は毒温泉なのだ。だが、それは温泉そのものが毒なのではなく、正確には源泉へと繋がっている水路の途中にて寄生する形となった、とある植物が原因であった。
この植物自体には、大した脅威はない。植物が持つ毒性と旺盛な繁殖力の二つに関しては脅威だが、ここでは有り触れたレベル。対処法さえ分かっていれば、何ら恐れることはない。
しかし、この『毒』が厄介なのだ。
常温(融点が10℃から70℃)では直接触れさえしなければ大丈夫だが、気化した瞬間、鉄すら溶かす腐食性を発揮する。その為、現在、この温泉一帯は戦車すら短時間で溶かしてしまう、猛毒地帯と化してしまっているのだ。
故に、この周辺には怪物たちも近寄れない。近寄らないのではなく、近寄れないのだ。
人間ならば一息吸うだけで肺どころか臓腑のほとんどが溶解してしまうこんな場所に、わざわざ獲物を狩りに来るやつはいない。毒を物ともしない程の怪物も、わざわざこんな辺鄙な場所で罠を張ることはしない。
だから、この場所は平穏であった。
なので、彼女はこの場所で骨を休めていた。肉体的にはノーダメージであるとはいえ、精神的な疲労は蓄積する。酒が一滴も飲めないフラストレーションを沸き立つ湯に溶かしながら、彼女は……そっと、隣を見やった。
「…………」
「……ふむ」
そこには、彼女と同じく湯に浸かる緑頭がいた。
人類世界では『ブリオン』と呼ばれているらしいその男(人間であるかは、彼女には分からない)は、何をするでもなく彼女の方へと目を(目が有るのかは定かではないが)向けていた。
しかし、緑頭……ブリオンは、何もしない。
ただ、彼女と同じく湯に浸かるだけだ。彼女のようにリラックスしているようには見えないが、攻撃に移るであろう仕草は見られない。ただ、黙って肩まで浸かるその姿を見て……彼女は、おもむろにそいつの後方へと目をやった。
温泉の外には、湯に浸かるブリオンと同じ姿をした、緑頭たちが大勢いた。そのほとんどが男だが、中には女もいる。彼ら彼女らは皆屈強な身体をしており、首から上を除けば裸の人間にしか見えない。
そういう生物なのか、それともかつての彼女が船に乗ってここを出た時のように、この地を訪れた男女に寄生しているのか。それは定かではないが、人の心を完全に失っているのはすぐに理解出来た。
「……おいこら、ぶらぶらさせるの止めろ」
何故なら……肉弾戦では勝ち目がないことを悟ったらしい彼ら彼女らの内の何人かが、今度は精神的な嫌がらせを行うようになってきたからだ。
具体的に何をしているかといえば、ぶらぶらさせているのだ。何をって、ナニだ。胸とか、股とか、そう、色々と。
『彼』の基準からみれば御立派としか言い表しようがない男のブツを、ぶらぶーら。『伊吹萃香』の基準からみれば大豊作としか言い表しようがない女のブツを、どたぷーん。
右に左に、前に後ろに。腰に手を当てて、妙にキレの良い動きでぶらぶーら。挑発のつもりか、それとも何かしら頭がおかしくなったからなのか……見ていて、気持ちのよいものではない。
というか、正直にいえば気色悪い。我知らず彼女は、眼前でいきなり航空ショーを始めるトンボの群れを前にしたかのような、そんな顔になっていた。
……気味が悪いと彼女が思うのも、無理はない。
何せ、この者たちには『感情』と呼べるモノがない。それは単純に顔に浮かぶ類のソレだけではなく、所作の全てに意思というものがまるで感じ取れないのだ。
どんな生物にも、意思と呼べるものはある。それを『感情』という言葉で当てはめるには難しいものであっても、それがどれほど些細なモノであっても、意思というものを持ち合わせている。
それは、『暗黒大陸』にて生きる怪物たちとて例外ではない。
一見すれば何を考えているのかがまるで読み取れないやつらでも、傷を負えばそれを跳ね除けようと怒るし、獲物を前にすれば食いたいという欲求を露わにする。あの……『闇のソナタ』からも、そういう何かを彼女は感じ取れた。
だが、こいつらには……ブリオンには、それがない。
まるで、プログラムを施された人形が、プログラム通りに動いているかのようだ。どれだけひょうきんな動きをしても、どれだけ卑猥な仕草をしようとも、マネキンが動いているかのようにしか見えない。
だからこそ、気味が悪い。だからこそ、こいつらは嫌いなんだと、彼女は思う。
ブリオンたちと遭遇してから、かれこれ70時間弱。ここまで執拗に追いかけてくるやつを、彼女はこのブリオン以外には知らない。
この地に住まう怪物たちですら、縄張り(というものがあるかは定かではないが)から出れば、それ以上の追跡を断念するやつらが多いというのに、こいつらは違う。
一旦は追跡を逃れられても、こいつらは何処までも追いかけてくる。ようやく逃げ切ったかと思った数時間後に、追い付いて襲撃を掛けてくるから、もはや驚くこともなくなってしまった。
そのうえ、こいつらはしぶとい。焼き払おうが、踏み潰そうが、猛烈な勢いで身体を再生させてしまう。能力を使って集め砕こうとしても、それ以上の速度で緑頭の一部を周囲に飛ばし、繁殖して新たな身体を作り出してしまう。
単純な戦闘力ならば、彼女の方がはるかに上だ。それこそ、片手間に仕留めることだって可能だし、ブリオンたちが束になって掛かっても彼女の敗北の可能性は万に一つもない。
しかし、それはブリオンたちも同じであった。
ブリオンたちに勝ち目はないが、見方を変えれば、彼女にも勝ち目はない。いや、むしろ、精神的な疲労を微塵も覚えていないであろうブリオンたちと比べたら、分が悪いのは彼女の方だろう。
今だって、そうだ。
とりあえずは振り切った先で、この温泉(というほど穏やかなものではないが)に浸かってから、30分と経たない内にこいつらは来た。そして、何をするでもなく温泉に入り……監視するかのように、彼女の傍を離れない。
その様を例えるなら、正しくストーカーというやつだろう。そういう存在がいることを『彼』の部分は知っていたが、まさか、『暗黒大陸』でそのような存在とまたも遭遇してしまうことになろうとは……ん?
――不意に、湯に浸かっていたブリオンが立ち上がった。ざぱり、と湯気を立ち昇らせている総身から毒液をぽたぽたと滴らせながら、そいつはのそのそと温泉を出た。
「……?」
直後、代わりと言わんばかりに温泉を囲んでいた者たちの内の一人が、湯の中に入って来た。そいつはこの中では数少ない女体であり、遠目からでも要所が豊満なのが見て取れる体型をしていた。
訝しむ彼女を他所に、その女ブリオンは何ら気兼ねした様子もなく、彼女の前に来る。次いで、ゆっくりとその場に腰を下ろす。男から女へと変わっただけの構図を前に、彼女はしばし胡散臭そうに眺める。
女ブリオンは、これまでのやつらと同じく何もしなかった。ただ、湯に浸かるだけ。危害を加えて来ないし、挑発もしてこない。ただ、有るのか無いのかよく分からない視線を、彼女へと向け続けていた
そうして、5分程が過ぎると、女ブリオンは立ち上がった。
先ほどのやつと同じく、女ブリオンは彼女に背を向けると、のそのそと湯を出て行く。すると、これまた直後に新たなブリオン(今度のは、男)が湯の中へ足を突っ込み……また、彼女の眼前にて腰を下ろした。
……。
……。
…………あのさあ、お前ら……いや、違うだろ。
反射的に言い掛けた言葉を、彼女は寸での所で堪える。
ともすれば苛立ちのあまり拳も出そうになったが、それをするとまた延々と続く鬼ごっこ(皮肉)に興じなければならなくなりそうなので、迂闊に手を出すことも出来ない。
歯痒い……心から歯痒いと、彼女は思った。
前述した通り、ブリオン単体の戦闘能力自体は、そう高くはない。彼女の攻撃力を以てしても手こずる再生能力を除けば、『暗黒大陸』の中では、せいぜい中の下といったところだ。
厄介なのは、ブリオンたちが個ではなく群の強さを持つということ。
おそらく、こいつらは縄張りというものを持たない。それ故に、何処にいるのかが分からず、何処でこいつらの索敵網に引っかかるかが全く分からない。
そして、一度でも見つかったら……その情報は、瞬時に他のモノたちに回されてしまう。何処へ逃げてもすぐに追いつかれる理由が、そこなのだろう。
そう、ブリオンたちを横目にしながら、彼女はぐったりと身体の力を抜いた。
(こいつらのことはひとまず置いといて、だ。果てさて、いったいどうしたものかねぇ)
そうしていると、どうしても考えてしまうのは……これからのことであった。
(理想的なのは、海岸沿いをぐるぐる回っている内に船を見付けて……ってところだけど、まあ、まずそうはならんだろうなあ)
それが、目下の懸念であった。
無知というのは、時に恐ろしい。当時は分からなかったが、あの時、船に乗れたのは間違いなく幸運であった。いや、そんな言葉で表現出来るようなものではなく、あれは……正しく、『奇跡』に他ならなかった。
何故なら、ここは人類が住める世界ではないからだ。
ここに来るということ自体が、とてつもない危険を孕んでいる。そうまでしてこの地に来るだけの理由が彼ら彼女らにあったにせよ、行こうと思って行けるような場所ではない。
その証拠に、彼女が、人類が住まうあの世界に暮らし始めてから今日まで、この大地(暗黒大陸)に船を出港させたというニュースを目にしたことは一度としてない。
もしかしたら今も渡航を行っているのかもしれないが、それがニュースにならない程度の規模なのか、それとも極秘裏に行われるようになったのか……それすら分からない現状、この地に船が来る可能性は0と考えていいだろう。
つまり、自力でどうにかしなければならないというわけだ。しかし、そうなると、どうしてもクリアしなければならない問題が、彼女の前に立ち塞がることとなる。
それは、人間たちが暮らすあの場所へ向かう為に、方角を正確に把握する為の道具……コンパスなどが絶対に必要であるということ。
いくら彼女が空を飛べるうえに無尽蔵の体力があるとはいえ、だ。見渡す限りの広大な海、地平線の彼方まで同じ景色が続く場所では、さすがの彼女も自らの方向を見失ってしまう。
大陸内部ですら、あまりに広大過ぎて自分がどの方向へ向かっているのかが分からなくなるのだ。最悪、何年も青空の下を漂流し続けた後で、またこの大地に戻って来てしまった……という事態になりかねない。
だから、絶対に必要なのは方位を知る道具だ。人類世界の位置が分からなくとも、自らの方位さえ分かれば何時か……何時かは、辿りつける。
その為にも、彼女は一刻も早くそれの代わりに成りそうな道具を探しに行きたい……のだけれども。
……そうしたいけど、こいつらが本当に邪魔なんだよなあ。
ちらりと、ブリオンたちを見やった彼女は……深々とため息を零した。
(――考えてみれば、前の時はよくこいつらに再襲撃をされる前に脱出出来たものだ……あ、いや、待てよ?)
温泉の縁に背中を預け、だらりと脱力したままの姿勢で、ある種のこう着状態に置かれていた彼女は、ふと、思いついた疑問に目を向ける。
(何で、こいつらはあの船を襲わなかったんだ?)
今まで気にも留めていなかったが、思い返してみたら不自然な点があることに気付いた。
あの時は今よりも幾らかマシではあったが、その執拗な追撃はうんざりしていた。何処へ逃げても、何処へ隠れていても、まるで頭上から見下ろされているかのように居場所を特定されてしまう。
それなのに、どうしてあの船は無事だったのだろうか。
巨大化しようが焦熱の吐息を吹きつけようが全く怯まずに襲い掛かってくるというのに、あの船にはその痕跡は全く見られなかった。
何かしらの対策をしていたにしても、あれだけの巨大船……こいつらなら、真っ先に襲撃を仕掛けるはずだが……記憶にある光景には、それがない。
……と、なると、だ。考えられる理由は、おおよそ三つ。
一つは、ブリオンたちが船を見付けられなかった。
だが、これは有り得ない。それよりもはるかに小さい彼女を森の中から見付け出せるのに、あの船に気付かないわけがない。
二つ目は、知ってはいたが、後回しにしていた。
これも、変だ。この野生溢れる大地において、『船』などというのは好奇心の対象にしかならない。少なくとも、放置しておく理由がない。
となると、三つ目。
あれが『船』であることを知っていて、かつ、それは放っておいても問題ないと判断出来て――あっ!
気付いた瞬間、彼女は無意識の内に立ち上がっていた。ぽたぽたと滴り落ちる湯と広がる波紋に、ブリオンたちの間に不穏な気配が流れた……ような感じであったが、彼女は気にした様子もなく見開いた眼差しを彼ら彼女らに向けた。
「遺跡……そうだ、遺跡だ! お前ら、そういえば遺跡みたいなところにいたじゃん!」
「…………」
「遺跡っていうことは、アレだろ!? それを作れるだけの文明があったってことだろ!?」
「…………」
「こんな場所で遺跡が作れたんだから、当然、コンパスぐらい作れる技術があったってことだよな!?」
「…………」
「おっしゃっしゃ! 元気出てきたぜぇ! 方角さえ分かれば、こんな場所なんてオサラバだ!」
ブリオンは、何も言わない。けれども、彼女にはそんなこと、どうでもよかった。ざぱりと湯から飛び出した彼女の身体に張り付いていた毒液が、すぱんと周囲に飛び散った。
構わず、彼女は空高く飛ぶ。合わせて、術によって構成した衣服を身に纏った彼女は、はるか足元のブリオンたちが騒ぎ始めたのを尻目に、轟音と共に……空を駆けた。
鴉天狗(東方Projectに登場する種族で、空を飛ばせたら鬼よりも速い)には負けるが、その速度は時速百数十キロにも及ぶ。広大であるが故に加減の必要がないから、彼女は一切合財を気にすることなく全速を出す。
……当然、空を飛ぶ彼女は、同じく空を飛ぶ怪物たちにとっては恰好の獲物でもあった。
時速百数十キロとはいえ、この地ではそれほど速くはない。加えて、彼女自身も飛行はそれほど上手ではないし、ブリオンたちも翼を形成して追いかけてくるから、あの時も空を飛んで行くといったことはあまりしなかった。
しかし、今は別だ。
空を駆け抜ける彼女の眼前より迫る、巨大な怪鳥。開かれたクチバシから覗く十数本の巨大な舌は、さしずめ蛸の足を想像させる。それが、彼女の身体を呆気なく捕まえた。
――だけれども、それが怪鳥の体内に飲み込まれることはなかった。
何故なら、彼女は止まらなかった。舌で押さえられようが、歯で押さえられようが、彼女は止まらない。時速百数十キロの速くはない弾丸と化した彼女は、全く減速することなく……怪鳥の喉を突き破ったのだ。
いや、怪鳥だけではない。巨大なトンボや、長く首を伸ばした蛇、巨大な獣の張り手を受けてもなお、彼女は止まらない。
数十の人間を瞬時に磨り潰してミンチにするトンボの口内を逆に磨り潰し、蛇の胴体を途中で分断し、獣の片腕を粉微塵にしてやった。それでもなお、彼女は全く減速しない。
それは、もはやロンギヌスの槍であった。
彼女は、一刻も早く
遺跡の場所は分からないが、時間はある。幸いなことに、飲まず食わずでも彼女は平気だ。だから、彼女はひたすら飛び続けた。時折追い付いたブリオンたちが邪魔をしてきても、構わず飛び続けた。
朝が来ても、夜が来ても、また朝が来ても、また夜が来ても、彼女は飛び続けた。
その間、幾つの怪物たちを轢き殺したのか分からない。幾つの怪物たちを貫いたのかも分からない。そんなこと、彼女は気にしなかった。何時も以上に、彼女は気にも留めなかった。
そして……遺跡を求めて飛行を開始してから、16日目の朝。
「――アレか!?」
ついに、彼女は見つけた。それはかつて、彼女が初めてブリオンたちと遭遇した時、ブリオンたちが背にしていた……遺跡の数々であった。
まだ、距離にして数十キロメートルは先のこと。それ故にその正確な外観は分からないし、その光景も記憶の彼方だが……何となく、石と砂とで構成されている、古代の遺跡を思わせる外観だったような覚えがある。
実際、遠目からではあるが、記憶の彼方に放り捨てていた景色と何処となく合致するような気がしてならない。加えて、他に、それらしい遺跡は見当たらない。
違うのなら違うで、そこで目当ての物が見つかれば良い。
そう判断した彼女は、方向転換をしてその遺跡へと向かう。その最中、追跡を続けてきたブリオンたちが邪魔をしてきた。これで75度目となる妨害に、彼女は――数えることすらしなくなった反撃で、ブリオンたちを蹴散らす……と。
遺跡の方から、何かが飛び立ったのが見えた。それは瞬く間に高度を上げてゆくと同時に、こちらへと向かって来る。徐々にはっきりと見えて来る……翼を生やしたブリオンたちを見やった彼女は、思わず笑みを浮かべた。
ブリオンたちは、確かに厄介だ。
空を飛び、地上を駆け抜け、おそらくは水中まで追いかけてくる。その再生能力は驚異的で、人類が持つ銃器ではまず殺せないだろう。もしかしたら、戦術核を用いなければ殺しきれないかもしれない相手だ。
けれども、彼女の侵攻を食い止めるには弱い。
多少の減速は出来たものの、確実に彼女と遺跡との距離が縮まってゆく。
それに合わせてブリオンたちの抵抗も激しくなってゆくが、それでもなお彼女の侵攻を止めることは叶わず、もう後10km程にまで彼女の接近を許した……そんな時であった。
……なんだ?
彼女は目を瞬かせた。何故なら、ブリオンたちが唐突に彼女から離れ始めたからだ。それはこれまでに一度として見せることがなかった行動の為か、分かってはいても彼女はその場に静止した。
しかし、それでもブリオンたちは何もしない。遠巻きに見つめてくるばかりで、攻撃はおろか妨害すらしてこない。けれども、逃がすつもりはないのだろう。彼女を中心にして、包囲するようにしてその場に留まっている。
……正直、不気味だと彼女は思った。
ここは、これまでの彼女の常識が微塵も通じない世界だ。『闇のソナタ』の件もある。いったい、何を仕出かそうとしているのかが読めず、自然と彼女は身構え、待ちの姿勢を取った。
……。
……。
…………いや、待てよ。もしかして、これは攻撃ではなく、自身をこの場に留め――ヤバい!?
(避け――っ!?)
それは、直感であった。何の根拠もなかったが、考えるよりも前に、彼女は何かから逃れるかのように仰け反った――その、判断は正しかった。
最初に感じたのは、右肩より広がった強い熱と衝撃であった。次に感じたのは、きりもみ状に回転してゆく視界。己が落下してゆく……そのことを理解して自覚した、その直後。
「――ってぇぇぇぇええええ!!!」
イナズマが脳天を突き抜けた。そう錯覚してしまった程の激痛を、彼女は認識した。それは、彼女が『彼女』となってから初めて覚えた、耐え難き激痛であった――あっ。
ずどん、と。
衝撃が、全身を走った。地面に激突したのだと理解するよりも前に、彼女の身体が二度、三度、四度と跳ねて地面を転がる。暗転する視界の中で、ぐるんぐるんと回転を続けた彼女は……7度目のバウンドを経て、立ち止まった。
……辺りは、静かであった。
より強いモノが狙われるこの大地には、あまりに似つかわしくない静けさだ。けれども、平穏ではない。耳を澄ませれば、常人でも、怪物たちの息遣いが徐々に近づいて来るのが分かっただろう。
……かはぁ、と。
その中で、溜めに溜め込んでいた呻き声が吐息となって零れる。硬直していた四肢から緩やかに力を抜いていきながら、彼女はこれまたゆっくりと……顔を上げた。
「――っ!」
直後、彼女は激痛に歯を食いしばった。反射的に宛がった左手が、ぬるりと滑る。「……ははっ」涙で滲む視界に映る、鮮血に濡れる左手を見やった彼女は……その手を、再び傷口へと押し込んだ。
目の奥で火花が散るとは、この事を言うのだろう。真新しい裂傷をさらに広げてゆくたびに、鮮血が噴き出してゆく。それはむせ返る程の臭いとなって立ち昇り、彼女の身体を真っ赤に染め上げていった……と。
……指先が、何かに触れた。
骨ではないソレを人指し指と中指で器用に挟むと、一息に抜き取る。その際にも激痛が全身を痺れさせたが、構うことなくそれを眼前に持ってくる。血濡れとなったそれは、直径2センチほどの……硬い、何かであった。
それが、何なのかは分からない。しかし、自然物でないのは確かだろう。
いったい、どういうことなのか。彼女の握力を以てしても『硬い』と判断されるソレを、無言のままに握り締めた彼女は……無言のままに、笑みを浮かべた。
――負傷した。それも、重傷と呼べる傷だ。
だが、彼女は全く不安を覚えなかった。いや、『彼』の部分は恐慌を起こしているといっても過言ではないぐらいに動揺していたが、『伊吹萃香』の部分は全く違っていた。
一言でいえば、『歓喜』であった。僅かな不純物すら混じっていない、純粋な喜びであった。
それは、『鬼』としての性質のせいである。より強い相手を、真正面から叩きのめす。小細工は使わず、持てる全てを用いて戦い、負ければ己の全てを以て勝者の願いを叶えてやる。
度し難い話だが、正しくそれは鬼としての矜持。鬼としての、生き甲斐。
彼女が彼女となって初めてとなるかもしれない、己を負かすかもしれない存在の予感。ネテロにも成し得なかった、己に敗北をもたらす存在を感じ取った彼女は……気付けば、笑っていた。
彼女が仮に『伊吹萃香』であったならば、彼女はもう止まれなかっただろう。鬼の本能ともいうべき衝動に突き動かされるがまま、彼女は突っ走っていた。たとえ、それが原因で己が死ぬことになろうとも、だ。
(……ふう、落ち着け、落ち着け。優先順位を間違えちゃあ、駄目だよなあ)
けれども、彼女は……辛うじて、その場に留まっていた。それが出来たのは、彼女の中に『彼』がいるからであった。
戦いにおいて、『彼』の部分が役に立つことはほとんどない。しかし、こういった部分では『彼』の部分が大いに彼女を助けてくれる。
限度はあるが、『伊吹萃香』だけでは激怒する場面でも、『彼』が防波堤となり、あるいは感情の緩衝材の役割を果たしてくれる。
――今回も、『彼』に助けられた。
それを実感すると同時に、大きく腕を振り被った彼女は――眼前へと迫って来ていたブリオンを、粉微塵に殴り飛ばした。衝撃波を伴ったその一撃は、直撃した一体の周囲にいた数体をも巻き込んで、ミンチに変えた。
負傷した肩口など、もう治っていた。普段の彼女であれば、もうしばらくは掛かっただろうが、興奮した彼女の身体は、そんな傷すら瞬時に完治させてしまった。
ある意味、ブリオン以上の再生能力を見せた彼女の、二発目。
轟音を伴う拳の衝撃波が、鋼鉄並みの強度を持つ樹木をバター菓子のように粉々にしてしまうと……開けたその先へ、彼女は駆け出す。
直後、ブリオンたちの攻撃がその場所へと突き刺さり、そのままの勢いで追いかけてくるのを背後より感じながら……彼女は、全力で遺跡へと走る。
(空から行くのは、ちょいと不味いな。これを飛ばしたのは間違いないだろうが、何処から飛ばして来たのかが全く見えなかった)
途中、たまたま立ち塞がる形となったトカゲみたいな怪物を殴り飛ばして、先へ進む。脳裏を過るのは、己を負傷させた攻撃についてであった。
彼女の、『伊吹萃香』の肉体を負傷させた貫通力は、驚異的だ。しかし、それよりも脅威なのは、今しがたの攻撃が……どのような形で行われたのかが全く分からないという点だ。
これが、戦車の砲弾のように連発出来ないのであれば、やり方は幾らでもある。要は、その一発を避け続ければ良いだけなのだから、それにさえ気を付ければ良い。
だが、単発ではなく連発であるならば。ハンドガンではなく、マシンガンであるならば、近づくにも相応に注意を払わなければ――っ!?
「うぉりゃあ!」
前触れは、無かった。今回も、彼女は気付かなかった。けれども、鬼の優れた戦闘能力によって生み出された戦いの直感が、彼女の拳を無意識に動かしていた。
どごん、と。放った右拳が衝撃によって跳ねた。引きずられそうになる身体を無理やり押し留め、続けて左拳を放つ。と、同時に、左拳も跳ねた――その瞬間、「どりゃああああ!!!」彼女は両拳の連打を放っていた。
達人すら残像を捉えるだけでも難しい速度で行われる連続パンチ。一発でも食らえば戦車が粉微塵になる破壊力ではあるが……それを以てしても、飛来する『何か』を食い止めるので精一杯であった。
それはまるで、固い岩盤にぶち当たった削岩機のようであった。
音にすればそんな打突音と共に、削られた拳の破片が周囲へと飛び散る。足跡だと言わんばかりに残されるそれらによって釣られた怪物が、幾らか姿を見せる。
その内の半分は、追いかけるブリオンに始末された。そして、もう半分は……拳より跳弾した『何か』を受けて、消滅した。肉片すら残さず、まるでそこだけくり抜かれてしまったかのような痕を残して、絶命していった。
(――ただ、固くて貫通するってだけの弾じゃないね、これは)
その姿を、はっきりと目視したわけではない。しかし、眼前にて立ち塞がる樹木の一部が、そのような消え方をしているのを見て……彼女は、己の予感が正しかったことを悟った。
(……削られた拳の治りが遅い。でも、『霊力』の類じゃない。いったい、どういう攻撃なんだい?)
飛来する『何か』が何なのかを知りたいのだが、弾道が見えない。何かが飛ばされているのは分かるが、着弾するまで認識出来な――っと!?
がつん、と。乱打する拳の合間を抜けた『何か』が、脳天にぶち当たった。顔の半分が弾け飛んだ感覚と共に意識が一瞬ばかりぼやけたが、その次にはもう修復を終えた彼女は、転ぶことなく前へと進み――遂に。
「――今度こそ、捉えた!」
森を抜けた彼女は、遺跡をはっきりと目視出来る距離まで接近した。そうして分かったのは、待ち構えている大勢のブリオンたち。そして、その手に……いや、その腕に抱えた物体であった。
それは、『彼』にも『伊吹萃香』にも見覚えのない物体であった。
だが、記憶にある造形とは根本から異なっていても、おおよその見当は付く。アレは、銃器だ。弾は、己に向かって打ち出された『何か』。それさえ分かれば、もうこっちのものだ。
ブリオンたちがソレを構えるのと、彼女が己を霧に変えるのとは、ほぼ同時であった。右に左に銃口を向けているであろうブリオンたちを尻目に、霧となった彼女はブリオンたちを抜けて……遺跡へと入った。
(――何が大事なのかは知らないけれど、下手に外してここを壊したくないものな。そりゃあ、撃ちたくとも撃てんよな)
……思った通りであった。
ブリオンたちにとって、この遺跡は重要なのだろう。初めて遭遇した時もそうであったが、侵入者への攻撃を執拗に繰り返す辺り、察しはついていた。
それまで向けていた武器を下ろし、次々に霧となった彼女へと向かってきたが……その動きは、これまでとは雲泥の差であった。
(……さて、地上に見える遺跡は、本当にただの遺跡だね。こいつら以外に生き物はいないし、文字通り猫一匹通さないようにしていたみたいだ)
でもね、言い換えればそれは。
(地上ではなく――本命が地下に有るってことを、自分から教えてくれているような――もんさ!)
手加減を、する気はない。さあ、まずは――いちぃ!
分散させていた己が身体を一か所に集めた彼女は、大きく腕を振り被って……打ち下ろした。どん、と大地がたわみ……その次の瞬間、衝撃が土砂を空高く舞い上がらせた。
「にぃ!」
巨大なクレーターの、中心。そこへ降り立った彼女は、二発目を打ち込む。直後、更に土砂は舞い上がる。止めようとするブリオンたちも、広がる衝撃波に押されて彼方へと流されてゆく――と。
(――よし、やっぱり有った)
拳より伝わって来る感触が、変わった。見やれば、巻き上がった土砂の下……そこには、岩盤ではない銀色の地面が広がっている。どう見てもそれは、天然のモノではなく、何者かが意図して作ったであろう物体であった。
例えるなら、鏡のように磨かれた鋼鉄の床といったところだろうか。
何処まで大きいのかは定かではないが、露わになった床の端が未だ土砂の中にある辺り、この遺跡全体の敷地面積よりも広いのかもしれない。そう判断した彼女は、それならば遠慮はいらぬと、腕を振り上げ――放った。
「さ――んっ!?」
が、しかし。その拳が、銀色の大地に当たることはなかった。何故ならば、彼女の拳がそこへ直撃する、寸前。かしゅん、と音を立てて、床が円形に開かれたからだ。
床の直径は、せいぜい3メートルほど。見たまんまを表現するなら、倍ぐらいに大きなマンホールの穴、といったところだろうか。奥底が見えない暗闇の中へと盛大に空ぶった彼女は、幾分か慌てながらも穴の横へ着地しようと……したが、無理だった。
その光景は、掃除機に吸い込まれた糸屑であった。
あっ、と思った時にはもう、彼女の身体はすぽんと穴の奥へと吸い込まれていた。反射的に伸ばされた彼女の手は、瞬きよりも短い一瞬の間に暗闇の向こうへと消えて……かしゅん、と、穴は閉じられた。
……沈黙が、その場には残された。
しかし、全てが静止をしているわけではなかった。彼女の拳によって作られた、どでかいクレーター。四方八方に飛び散っていた土砂が……独りでに、元の位置へと戻り始めたのだ。
押された波が引いていくように、ざらざらと土砂がクレーターを埋め始める。剥き出しとなっていた銀の床が見えなくなり、日の当たらない茶褐色の大地も見えなくなる。
それは、地上の遺跡も例外ではなかった。
余波によって粉々になっていた遺跡が、次々に元の姿へと戻されてゆく。継ぎ目一つ残さず、破壊の痕跡一つ残さず、5分と経たないうちに、何百年も前からそうであったかのように……何もかもが元通りになった。
「…………」
後に残されたのは、無言で佇むブリオンたち。その手に抱える武器を下ろした彼ら彼女らは、のそのそとその場より散らばってゆく。彼女を追い掛けていた時からは想像出来ない程の、緩慢な動作であった。
……自販機のジュースが見る光景とは、こういう感じなのだろうか。
暗闇の中をひたすら落下し続けている彼女は、ふと、そう思った。
落下……そう、彼女は落下していた。等間隔で通過する光点がなければ、自分が落下しているのかすら分からないほどの、長い通路。その中を、ただひたすら……まっすぐ落ち続けていた。
このまま落下を続ければいずれは激突するのに、何故、空を飛んで止まろうとしないのか。
その理由は、止まろうとすると、それ以上の力で下へ引っ張られるからである。
彼女の能力を封じているわけではない。自然の重力でも、ない。それだけなら、幾らでも彼女は抗う事が出来る。それが出来ないということは、それ以外の……あるいは、重力に助力を足した何かを行っているのだろう。
その証拠に、上ではなく下へ加速しようとすると、逆方向へと身体が引っ張られる。右にも左にも同様で、実質、彼女は落下しているというよりは、何処かへ運ばれていると表現した方が正しいのかもしれない。
抵抗さえしなければ、落下の速度は一定を保ったまま加速も減速も起こらない。故に、彼女はされるがまま。この後どうなるのかという好奇心もあってか、彼女は黙って結果を待っていた……と。
前触れもなく、減速が始まった。
何もしないで起こった初めての変化に、「お~……」彼女は思わず目を瞬かせる。ぐん、ぐん、ぐん、と、軽い衝撃を足裏に覚えるたび、目に見えて速度は落ちてゆく。
何処へ落ちるのかと下を見やれば、目に留まるのは……ヘリポートを思わせるHマーク。それ以外は、真っ暗で何も見えない。発光するそのマークへと彼女の足が……降りた。
瞬間、眼前の闇が開かれた。「うぉ、眩しっ!」その奥より零れた光に、彼女は思わず腕で顔を隠す。そのまま、時間にして十秒ほど……光に目が慣れた彼女は、恐る恐るその先へと進んで……目を瞬かせた。
何故かといえば、答えは一つ。その先に広がっていた光景と、彼女が想像していた光景とが、掠りもしなかったからである。
一言でいえば、そこは『SF』であった。
彼女の眼前にある巨大ガラスの向こう。縦横高さが数千メートルにも達しているであろう巨大なガラスケースのそこには、光り輝く……何だろうか、クリスタルのような何かが浮遊していた。
そう、浮遊している。何かに繋がれているわけでもなければ、吊るされているわけでもない。光の強弱を繰り返す以外に何の動きも見せないそれは、まるで脈動しているかのような力強さすら感じ取れた。
「…………」
あまりといえばあまりな光景に、彼女はしばし呆然とする他出来なかった。原始時代から、SF時代へと。あまりに落差のある光景のせいか、タイムスリップを果たしたかのような気分であった。
実際、そうとしか表現出来ない光景でもあった。
クリスタルの足元には……何だろうか。床を這うようにして幾千もの光線が伸びているのが見えるが、アレはケーブルか何かなのだろうか。いまいち、見当が付けられない。
彼女がいる現在位置的には、だ。そのクリスタルを収めた巨大なガラスケースをぐるりと囲う通路の一角に彼女が立っている、といったところだろうか。
左右を見やれば、白や銀を基調としたメタリックな通路が続いている。突き当りの曲がり角に至るまで、他者の気配はない。ガラス越しに向こうの通路を見るが、そこにも他者は見られない。
……何気なく振り返れば、そこには継ぎ目一つ見当たらない壁しかなかった。
今しがた通って来た入口が、そこにはない。「あ~……うん、こうきたか」しばし呆気に取られていた彼女は、入口があったと思われる場所を軽く叩く。へこみすらしないそこを見やった彼女は……力を込めて、殴りつける。
――どかん、と。
鋼鉄すら容易く貫通する彼女の拳の直撃を受けても、壁に傷はない。本気でやれば壊せそうな手応えではあったが、壊すのはまだ早い。ひとまず後回しと判断した彼女は、改めて辺りを見回した。
……『無人』。そんな言葉が、彼女の脳裏を過った。
いや、というか、そもそもここを作り上げたモノを『人間』に分類してよいものなのだろうか。
目が大きくて頭がデカいグレイ的なやつを想像した彼女は、もしかして宇宙人と戦うことになるのかと思いながら、とてとてとその場を離れ……たのだが、はて、と彼女は小首を傾げた。
どうしてかといえば、長く続く通路の何処にも、他所へと通じる出入り口が見当たらないのだ。
階段も、エレベーターも、扉もない。継ぎ目一つない平らな廊下だけが、ずーっと続いている。その内どこか一つくらい見つかるだろうと思って歩き続け……気付けば、一巡してしまった。
「……ふむ」
ならば、仕方がない。
そう思った彼女は傍のガラスへと歩み寄ると、遠慮なしの右ストレートパンチを叩き込んだ――けれども。彼女の拳はガラスを突き破るようなことはなく、ばうん、とたわんだだけで……傷一つ付かなかった。
……予想は出来ていたから驚きはしなかったが、ただのガラスではないようだ。
くわん、くわん、とプラスチックの下敷きが如きしなりを見せるガラスを見やった彼女は、やれやれとため息を零す。このまま彼女を閉じ込めるにしては頼りないモノばかりだ……ん?
突然、距離にして30メートル程先に壁が下りてきた。壁が下りる速度は自由落下よりも速く、あっと思った時にはもう前方の通路は塞がれてしまった。
……前が塞がったということは、だ。
当然、後ろ側もと思うと同時に、がこん、と背後より音がした。結果は薄々分かっていたが、振り返った彼女は案の定だと言わんばかりにため息を――いや、待て。
前方の壁の両側。つまり、左右の壁を繋ぐようにして光の帯が現れた。それはまるで左右の壁を引っ張り合うかのように右に左に光が強まると……突如、帯は彼女の方へと動き出した。
……あれ、これってどっかで見たような?
訝しんでいる彼女を他所に、光の帯は瞬く間に距離を詰める。そして、彼女の衣服を両断して通り過ぎ……後ろの壁に触れるか触れないかの辺りで消えた。服は、数秒で元に戻した。
(…………?)
いったい、今のは何だろうか?
光が触れたところが何となく温かい感じはしたが……小首を傾げる彼女を無視して、前方にて再び光の帯が作られる。今度は一本ではなく、文字通りの網目状になって彼女へと迫って来た。
(…………?)
しかし、結果は同じであった。服は切られてしまうが、皮膚を切るには温すぎる。いったい何がしたいのかが分からず、どうなるかを見つめていると……前後の扉が音もなく開かれた。
……あ、終わり?
始まったのが唐突なら、終わったのも唐突であった……と。彼女から見て、右斜め前方。それまでただの壁でしかなかったその部分に、長方形の亀裂が唐突に走った。
今度は何だと、思わずそちらを見やった彼女の視線に気づいたのか、亀裂は音もなく横へスライドする。人ひとりが通れるサイズの出入り口から、小さく白い何かが這うようにして出てきた。
そいつの大きさは、幼稚園児並しかなかった。だが、その姿形は幼稚園児のような可愛らしいものではなく、おぞましいと評してもおかしくはない姿であった。
具体的にいえば、そいつの外見は色素が薄い『餓鬼』であった。あるいは、蛙に成り損ねた人間といった方が近しいのかもしれない。
妊婦かと見間違うほどにぼっこりと膨れた腹を除けば、どこもかしこも枯れ枝のように細い。大きく飛び出した眼球は血の色をしたボールのようで、不揃いな歯を涎まみれにしている。
それが、数にして……10体。
キーっ、キーっ。サルを思わせる声を発しながら、最後の10体目が通路へと出てくると、開かれた扉が音もなく閉まった。なるほど……外からでは分からないわけだ。
……と、なれば、適当に壁を打っ叩いて探るほかあるまい。
継ぎ目一つ残さず壁になったそこを見やっていた彼女は――無言のままに、己へと飛び掛かってきた餓鬼の頭を殴り潰した。悲鳴一つ上げる間を与えず、そいつは首から上が弾けた。
レンジにて爆発させた卵以上に悲惨なそいつが、床を転がる。次いで、横から飛び込んできた別の餓鬼の頭を掴んで、そのまま床に叩きつける。瞬く間に2体を殺されたことで、多少は怖気づいたのだろう。
餓鬼たちの動きが、目に見えて遅くなった。けれども、怯えているわけではない。ギィー、と幾らか低い声色の雄叫びで威嚇する餓鬼たちを見やりながら……彼女は、小首を傾げた。
(何だこいつら、本当にここの生き物なのかい?)
ここの生き物にしては、あまりに弱いし脆すぎる。
そう、彼女は率直に思った。強いて擁護するのであれば、人類世界での基準で評価するならば、まあまあ危険な生き物だなと判断するレベルではある、といったところだろうか。
しかし、ここは『暗黒大陸』である。
そりゃあ、脆い生物はいる。しかし、それはあくまで『暗黒大陸の基準では脆い』というだけの話であって、人類世界の基準に当てはめれば、『悪夢のような頑丈さ』と評価されるレベルなのが大半である――ん?
睨んでくる残りの8体をどうするかと考えていると、唐突に右足に違和感を覚えた。見下ろせば、首回りに鮮血やら肉片やらをこびり付かせた餓鬼が、足首の辺りに噛み付いていた。
「……ああ、そっちか」
攻撃ではなく、再生能力で戦うタイプか。まあ、上の緑頭たちもどちらかといえばそっちの方が……納得した彼女は、軽く息を吸って――足首に噛み付いたそいつに焦熱を吹き付けてやった。
彼女が放つ焦熱の吐息は、鋼鉄を瞬時に溶解させる。火炎放射器など足元にも及ばない熱量をまともに浴びれば、『暗黒大陸』育ちの怪物とて瞬く間に(サイズの問題はあるけど)絶命する。
当然、幼稚園児並のサイズの餓鬼が浴びれば、ひとたまりもないだろう。
切り傷等の裂傷とは違い、火傷による負傷は組織の再生に時間が掛かる。ブリオンとの戦いでそれを学んだ彼女は、欠片一つ残すことなく足元の餓鬼を灰にかえしてやった。
――が、しかし。
驚いたことに、餓鬼はそれでもなお攻撃を止めなかった。焦熱の吐息によって臓腑の大半が炭へと変わり、怪物であっても絶命するだけのダメージを受けているはずなのに、だ。
加えて、炎が切っ掛けになってしまったようだ。いつの間にか再生して復活した餓鬼と、様子見を続けていた餓鬼たちが一斉に飛び掛かってきた。なので、彼女は仕方なく全員を相手にすることにした。
ほぼ炭になっている餓鬼を強引に踏み潰し、向かってきた餓鬼を横殴りの裏拳で爆散する。眼前に来たやつを頭突きで粉砕し、足元から飛び掛かってきたやつを膝蹴りで返り討つ。
ばらけて向かって来るやつは一か所に集め、焦熱の吐息で一気に焼き尽くす。二体を両手に掴んで、ヌンチャクのように振り回して下半身を分離させ……何だ、こいつら?
(本当に、どういう生き物なんだい? 何をしたら、こいつらは死ぬんだ?)
切っても砕いても瞬時に傷を治癒させて襲い掛かる怪物は掃いて捨てるほどいるが、これはしぶとい等というどころのものではない。彼女を以てしても、どうやれば死ぬのかがまるで見当がつかない。
上で戦ったブリオンたちですら、一体ずつであれば仕留めることは出来た。ただ、殺しきる前に分裂してしまうから殺しきれないだけで、ある一定以上のダメージを受ければブリオンたちもちゃんと絶命はしていた。
けれども……こいつには、それがない。
手足をもいでも、臓腑を焼いても、全身を踏み潰しても、再生速度に衰えが見られない。ブリオンのように地面に根差して瞬時に緑頭を増やす……つまり、地面から栄養等を一切吸収していないのに、だ。
戦いが始まって、20分ほど。既に、彼女の周囲は餓鬼どもの血肉と臓腑と鮮血とが入り混じる、真っ赤な地獄絵図と化している。
壁や床に叩きつけられたその血の量たるや、風呂釜を軽く20個は満たすほどにも達している。それなのに、餓鬼どもに弱る気配が全く見られない。
(あ~もう、キリが無い!)
いいかげん、焦れた彼女は身体に纏わりついてきた餓鬼どもを焼き払って振り払うと、背を向けてその場を離れた。「何時までも構っていられるか!」背後よりギィーギィーと雄叫びが聞こえたが、構うことなく彼女は走る。
幸いにも餓鬼どもの頭は悪いようで、逆回りをして迎え撃つといった行動はとらず、ただひたすら彼女の後を追いかけてくる。
それを察した彼女は、ぐるりと長い廊下を一周し……血だまりの現場より少し離れた位置にあった、餓鬼どもが出てきた辺りの壁の前に立ち止まると。
「――どっせい!」
幾らか本気で、壁をぶん殴った。少しばかり位置はずれていたが、拳の威力に耐えられなかったようだ。めきりと変形した壁の一部が歪んで出来た隙間に、彼女は両手を差し込むと。
「んん~~っ!!!!」
渾身の力を込めて、開く。彼女の力を持ってしても固いと判断する強固な壁が、べきべきと剥かれてゆく。ばちばちと飛び散った火花が、彼女の額に浮かんだ汗に触れてじゅうと張り付く。
追いついた餓鬼どもが彼女に飛び掛かってくるも構わず、彼女は広がった隙間へと身体を強引に押し込み、全身の力を使ってさらに広げる。圧力によって一部が真っ赤になり始めた辺りで、彼女は中へと身体を滑り込ませた。
……。
……。
…………あれ?
室内に入った彼女は、何時まで経っても餓鬼どもの追撃が行われないことに、内心にて小首を傾げた。むくりと身体を起こして振り返れば、こじ開けた穴の向こうに餓鬼どもの姿が見える。
けれども、室内に入ってくる様子はない。ギィーギィーと喚くばかりで、それ以上をして来ない。先ほど、この部屋から出てきたのに何故……いや、止めよう。
考えた所で、意味はない。『暗黒大陸』において考えるというのは重要ではあるが、何よりも重要なのは『そういうものだ』と有りのままを受け入れる、諦めの境地。
「……SFっていえば、こういうのは定番なのかな?」
幾度目かとなる結論に至った彼女は、ひとまず背後の餓鬼どもを思考の隅に追いやってから……眼前の、カプセルケースの群れを見やった。
彼女が入った部屋は、パッと見ただけでも直線にして百メートル四方以上はある、広い部屋であった。
その室内には、金属の装置に繋がったカプセルケースが等間隔で並べられており、何ともSFチック(あるいは、バイオちっくか?)な雰囲気を醸し出している。
ケースの大きさは、体格の良い男性が胸を張っても余裕を残す程度のサイズだ。中には、様々な生物が薄らと青色掛かった溶液に浸されており、どいつもこいつも死んだように目を閉じている。
……ホルマリン漬けされた標本か何かかな?
ここはいったい、どういう部屋なのだろうか。医学の知識があれば多少なりとも分かったかもしれないが、彼女にはそれがない。趣味の悪いオブジェだと思いつつ、彼女は何気なしにカプセルを眺めて行く。
カプセル内の生物には、これといった共通点は見当たらない。
巨大な虫もいれば、猿(さっきの餓鬼とは違う)を思わせる生物もいて、中にはシャチのようなやつもいる。カプセルの足元部分より繋がっている機械は床下へと続いているようだ。
……並べられた試験管のように見えてしまうのは、ひねくれた見方なのだろうか。
試しにカプセルに触れてみれば、思いのほか冷たい。常人が触れば、一発でガラスに皮膚が張り付いて大惨事になる冷たさだが……不思議と、結露の痕跡は見られない。
さすがに、これを壊そうとは思わない。というか、こんなもんを壊した所で何がどうってわけでもない。それ故に、自然と彼女の興味は次のカプセル、その次のカプセルへと向けられていった。
(……標本とか、本来は冷やしておくものなんかな?)
並べられたカプセルを横目にしながら、ふと思う。『彼』の知識の中にあるホルマリン漬けは、理科室とか化学室とかの棚に(いわゆる、暗所)保管されて……ん?
だいたい、部屋の真ん中ぐらいに来た辺りだろうか。
何気なくカプセルを見やっていた彼女の視線が、ぽつんと姿を見せた金属台に止まる。「……何だこれ?」これまでには見られなかった異物の登場に、彼女は小走りに歩み寄り……はて、と小首を傾げた。
近寄ってから気付いたのだが、金属台と思ったそれは機械的な何かであった。
大きさにして、縦横50センチ、高さはちょうど彼女の目線の位置ぐらい。横面には継ぎ目が一つもないが、上面部分は……何だろうか。色は黒く、ガラスなのかプラスチックなのか、ほんのりと熱を持っている。まるで銀の豆腐にカラメルを塗ったかのような外観で――おっ?
何気なく手を置いた瞬間、カラメル面に変化が現れた。具体的には淡い光によって色が変わり、「……あ、これってもしかしてタッチパネルかい?」そのおかげか、彼女はすぐにこれが何なのかに気付いた。
仮に、この場に他人がいたら、困惑に警戒心を露わにしていただろう。
何故なら、タッチパネルというモノ自体は『彼』にとっては馴染みが深いものだが、この世界(人類世界)においては未だ存在していない、未知の技術であるからだ。
いや……もしかしたら、彼女が知らないだけで、この世界にだってタッチパネルはあるのかもしれない。
しかし、少なくとも彼女は見たことがない。都市部に仕事で行った時ですら、見たことがない。なので、有ったとしても実用化はまだされていないのだろうなあ……と、思いつつ画面を眺め……んんん!?
「……?」
淡い光も治まり、パネル画面に映し出された映像を見やっていた彼女は、しばしの間……眼前の光景を理解出来なかった。
「ええ……?」
何故かと言えば、画面に映し出されたのが、『彼女が知る日本語』であったから。そして、この『彼女が知る日本語』というやつは、この世界には存在していないからこそ、彼女は驚いたのであった。
……厳密にいえば、この世界にも日本語と呼ばれている(日本語以外も、幾つかあった)らしい言語は存在している。
しかし、それはあくまで彼女の知るそれに近しいというだけであって、かなりの部分が異なっている。何処が違うのかといえば、最も当てはまるのが……漢字だ。
例えば、彼女が知っている漢字が無くて、彼女の知らない漢字がある。同じ日本語でも、『彼女が知っている漢字』と『実際に使われている漢字』とで意味が異なっていたりする。
初めて彼女がその事に気付いた時、彼女は、この世界には日本語はなく、あるのは中国語っぽい日本語か何かだと思っていた。
実際、本屋にて確認した際も、彼女の知る日本語は見つけられなかった。だから、この世界には中国語っぽい日本語しかなくて、『彼女の知る日本語は存在しない』と思っていた。
「いったい、これはどういうことだ?」
けれども……今、この瞬間。彼女は、その仮説が間違っている可能性があることを知ってしまった。
「もしかして、ここって私の知る世界のはるか未来……いや、パラレルワールドってやつか? それなら、とりあえずの説明は……ん~、さっぱり分からん」
考えるだけ無駄だと思ってはいても、思考を巡らせてしまうのは、致し方ない。ひとまず眼前に現れた諸々の疑念やら何やらから目を逸らしつつ、彼女はパネル操作を始めようと――手を伸ばした、その瞬間。
『――No Warning Goodbye For Ever The Foolish 』
頭上より……というか、四方八方から叩きつけられたかのような制止の声に、「うぉ!?」思わず彼女は肩をびくつかせた。反射的に辺りを見回した――瞬間、異変が起こる。
等間隔で設置されていたカプセルが、一斉に動き出したのだ。それはまるでレールに運ばれるピンのように、運ばれてゆく。右に左に前に後ろに動いたかと思えば、次々に床下へと運ばれる。
時間にして、ものの十数秒後。夥しい数のカプセルの全てが、床下へと消えた。何も無くなった景色に目を瞬かせる彼女の背後で、パネル画面も床下へと……後に残されたのは、彼女ただ一人だけであった。
……。
……。
…………少しばかり身構える彼女の眼前に、一つのカプセルが床下よりせり上がってきた。だが、それは元々ここにあったカプセルとは違い、表面には霜がびっしりと張り付いていて、遠目からでも冷気を放っているのが分かる。
中に何がいるのかは、見えない。シューッと、ガスらしき何かが注入される音がしたかと思えば、中の溶液の水位が下がり始め……パリパリと氷が剥がれ落ちた後、音もなくカプセルは開かれる。
……中より姿を見せたのは、人型の異形であった。
そいつは、他の怪物にしてはサイズが小さく、上でやりあったブリオンとそう変わらない。けれども、その見た目はブリオンとは違い、全身全てが大きく異なっている。
一言でいえば、そいつは人の形をした昆虫であった。
合わせて顔の半分にも匹敵する巨大な複眼は赤く、跳び出した顎はカマキリのように尖っている。全身を覆っている外骨格は光沢があって黒く、まるで分厚い鎧を身に纏っているかのようであった。
そいつは、言葉を発しなかった。
電源を入れられた玩具のように愚鈍な動きで、カプセルから降り立つ。合わせて、空になったカプセルは床下へと消える。キチキチキチと口を鳴らしている様は生理的嫌悪を誘発させるものであった……が。
「……か、仮面的な……ライダー?」
正直、彼女にとってはそんなモノよりも気になる部分があったから、それについては気にならなかった。
そして、彼女よりライダーと呼ばれたソイツも、気にしていないようであった。
呆気に取られる彼女を他所に、そいつはキチリとひと際大きく口を鳴らした――瞬間、数十メートルの距離を一気に詰めた。
その速度たるや、彼女の反応が遅れる程で。「――っ!」攻撃されると彼女が認識するのと、その彼女の横顔にソイツの拳が直撃するのとは、ほぼ同時であった。
――だが、彼女も負けてはいなかった。
反射的に繰り出した拳が、ソイツの腹部をぶっ叩いたのだ。防御を完全に捨てたが故の反撃。たたらを踏む彼女の反射神経を凌駕したソイツも、衝撃を逃しきれず身体をくの字にして数メートルほど跳ねた……だが。
「……へえ、けっこう固いんだな」
倒れることなく止まったソイツを見て、彼女は驚きに目を瞬かせた。
反射的に殴りつけたとはいえ、彼女の腕力は『暗黒大陸』の怪物すら仕留める。少なくとも、かつて殴りつけた現像……幻影だったか、そいつらの内の一人である原始人みたいなやつを即死させるだけの力は込めていた。
「――っと」
まるで堪えた様子もなく飛び掛かってきたソイツと、手を組み合う。体重差があるが故に、能力を応用して自らを重くさせた状態で怪物との力比べに持ち込ませた彼女は……やはり、と頬を緩める。
見た目からは想像すら出来ないパワーだ。彼女よりは劣るが、人間では足元にも及べない。一瞬とはいえ、己が反射を上回る速度で動いた点も考えれば、単純なパワーやタフネスは、上のやつ(ブリオン)よりも数段は上だろう。
けれども……それだけでは、無駄だ。
手首を返し、捻る。抵抗を強引にねじ伏せ、バックドロップの要領でソイツの顔面を床に叩きつける。当然、その程度でどうにかなる相手ではなく、見た目相応の動きで離れようとするが、無駄だ。
構うことなく、起き上がった彼女はソイツの身体を振り回す。一度や二度ではない。子供が玩具を無造作に振り回すように、濡れたタオルの水気を取るように、ソイツの身体は風を切る。
そのまま、人間ならば最初の一振りで原形を留めていられないほどのGを掛けられ続けること、十数秒……ぶつり、と重さが途絶えたのを感じたのと、ソイツの身体が壁に叩きつけられたのは、ほぼ同時であった。
「……痛みは、感じていないようだね」
どうやら、ソイツの体液は赤色ではなく青色に近い緑色のようだ。道標のように伸びている体液の先にいるソイツは、遠目からでも分かるぐらいに派手にぶつかったようだが……堪えた様子はない。
辛うじて人の形をしているが、やはり昆虫の要素が強いのだろう。「ライダー的なアレとは、逆なんだな」指に絡み付いた異形の指を取り外しながら、彼女は……内心、安堵していた。
……いや、だって、さあ。
(私が言うのもなんだけど、アレってどうやったら殺せるんだ? どれか思い出せないけど、完全に殺しても復活するようなやつがいなかったっけ?)
彼女の中にある『伊吹萃香』にはないが、『彼』の知識の一つにある。それ自体は『彼の子供の頃』の記憶のうえに、その『彼』が見ていた空想上のキャラクターというややこしいものではあるが……話を戻そう。
――とにかく、だ。
見た目がライダー的なやつなら取るに足らない相手ではあるが、中身までライダー的なアレだったら。締まらない話ではあるが、命がけの戦いになることが確実となってしまう。
それも望むところだと思ってしまう『伊吹萃香』の想いから目を逸らしつつ、彼女は――壁を蹴った反動で放たれたソイツのジャンプキックを、真正面から受け止める。
さすがに、彼女もその勢いを押し止められず床を削って滑る。だが、それだけ。彼女を倒すには威力が弱すぎる。逃げようとしたソイツの両足を掴んだ彼女は、大きく振りかぶって――床に叩きつけた。
かつて、同じことをした人間は粉々になった。そいつは偽物ではあったが、それ程の威力を持つ攻撃も……ソイツは、ダメージを負ったようには見られない。
ならばと言わんばかりに、能力で強引に引き寄せたソイツの腹部に、拳を叩き込む。全力ではないが、ミサイルが直撃するよりも威力のあるそれを受けてソイツの身体が跳ねた……が、ソイツは構うことなく彼女の頭部を両の掌で押さえ込んだ。
ぎりぎりぎり、と。戦車すら容易くねじ曲がるほどの圧力が、彼女の頭部を押し潰そうとする。何時ぞやの原始人なら瞬時に潰されるであろう抵抗を受けながら……二度目の拳がソイツの腹部にぶち当てられた。
ずどん、ずどん、ずどん。衝撃が背中を通り抜け、床を伝わってソイツの全身を震わせる。
最初は堪えた様子を見せなかったソイツも、回数が三十を超えた辺りで限界を迎える。青緑の体液が飛び散り、表皮が四方八方へと砕けて飛び散り、ガードに使った両腕がへし折られる。
そうして、45回目の拳を放った時。限界を迎えたソイツの身体は上下に分かれ、上半身がごろりと床を転がった……うわ、まだ動くぞこいつ。
「何か見た目がゴキブリみたいで気色悪い……」
これで腹を見せていたら、完全にゴキブリだ。おまけに両腕は千切れかかっていて、首もほとんど取れ掛かっているせいで、余計に見た目が悪い。
放っておいても死ぬだろうが、ここは『暗黒大陸』。このまま一ヵ月ぐらい平気で生きていそうな気もする……苦しませるよりは、楽にしてやろう。
そう判断した彼女は、びくびくと痙攣を続けている下半身を放り捨て、ソイツの頭へと向かう。文字通りの虫の息となった頭に足を置くと、「――せえの、よいしょ」一息で踏み潰してやった。
……。
……。
…………ふむ。
「誰かは分かんないけど、見てんだろ?」
何時まで経っても変化が起こらないので、彼女から声を掛けてやった。まあ、声を掛けるといっても天井に向かって話しかけるだけなのだが……意図は、伝わったようだ。
パネル画面があった辺りで、またカプセルが床からせり上がってきた。「……第二ラウンドでもすんの?」まさかこの部屋にあったカプセルの数だけ相手に?
思わず、彼女は嫌そうに顔をしかめた。
戦う事自体はまだ良いが、こういうやり方は嫌いだ。というか、そもそもここにはコンパスを探しに来ただけなのに……とりあえず、三度目も同じことをしてきたら、ここら全部ぶっ壊してやろう。
そう思って見ていると、準備を終えたカプセルが開く。途端、内部よりは放たれた冷気が外へと零れ……間を置いてから、ゆっくりと中のやつが出て――え?
「……え?」
その姿を認識した瞬間、彼女は数秒程……目の前の光景を記憶出来なかった。
何故なら、そいつは裸の彼女であったからだ。両手と腰に巻き付いた鎖等はないが、頭部に生えた立派な二本角。いや、彼女が二人になったわけではない。正確にいえば、彼女と瓜二つの姿をした何かが……そこに、いた。
……彼女は、言葉を失くした。
鏡から抜け出て来たのかと錯覚してしまう。そいつが近づいて来るのは分かっているが、頭が動いてくれない。まるで夢を見ているかのような気分で、眼前に立ったそいつを眺めている……と。
「――やはり、失敗する。どう操作しても、貴女のような個体にはならない」
そいつは不意に、言葉を発した。その声色は彼女と全く同じで、彼女自身が口走ってしまったのかと困惑してしまいそうになるぐらいに、よく似ていた。
「初めまして、不遜な侵入者。貴女の目的は私たちには分からないが、貴女の来訪については歓迎しよう」
呆然とするしかない彼女を他所に、彼女の姿をした『彼女』は、にっこりと……文字通り、機械的に取り繕った笑みを浮かべると。
「ようこそ、
そう言って……彼女へと、手を差し出したのであった。