伊吹萃香もどきが行く   作:葛城

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おいおいおい、東方キャラ憑依転生系がぜんぜん増えてないじゃないか……俺もやったんだからさ、(みんなも)頼むよ~流行ってくれよ~頼むよ~


第二話:世界最強と鬼娘

 

 

 

 

 

 その性質上、機密性の高い部屋が数多く作られている気球船の中でも、その部屋は特に機密性が高かった。

 

 いや、それはもう高いという生易しい言葉ではなく、扉一つを挟んだ別世界だと揶揄されるぐらいの対策が施されている……言うなれば、凄いシークレットルームであった。

 

 コンソールと端末機器とが一体となった台が一つと、壁一面全部を使って埋め込まれた薄型のディスプレイが一つ。椅子は一つもなく、窓もない。何とも、殺風景な内装をしている。

 

 通常、その部屋は原則立ち入り禁止とされていた。まあ、当然である。定期的な点検ぐらいはするが、日常的に使うような代物ではないからだ。なので、誰も好き好んで中に入ろうとはしなかった。

 

 しかし、その日……そういう特殊な作りをしているシークレットルームには、大勢の人間が集まっていた。

 

 部屋には、様々な男女がいた。厳つい顔立ちの者、筋肉質の男、麗しい女性、小柄で可愛らしい女性、初老の男性に、立派な髭を生やした男。実に、様々な人々がそこにいた。

 

 見た目や年齢性別に規則性が見当たらないその者たちだが、二つ、共通していることがある。まず一つ、それは目の色だ。物理的な色ではなく、気迫……迫力というやつなのだろう。

 

 老若男女の区別なく、誰一人の例外もなく、その部屋に居た者たちの目は強い力を帯びていた。強者だけが持てる力強い眼差しが四方八方へと向けられる中……もう一つ、共通しているのは、彼ら彼女らの肩書であった。

 

 ――ハンター協会所属の、プロハンター。

 

 ハンター……それは、怪物・財宝・賞金首・美食・遺跡・幻獣など、希少な物事を追及することに生涯をかける人々の総称である。世界一儲かるとも、世界一気高い職業ともされており、その肩書きはあらゆる者たちから一目置かれている。

 

 まあ、無理もない。何せ、プロハンターが持つ富と名声は莫大な力を持ち、伴って、ありとあらゆる特権を有しているだけでなく、世界の長者番付の上位10名の内、6名がプロハンターなのだ。イメージ一つとっても、『ハンター』は特別な意味を持っている。

 

 加えて、ハンターが他の職業から一目置かれるのは、ハンターという仕事が実に多岐に渡るから……というだけではない。その職業が持つ過酷さと、危険性故でもあったからだ。

 

 というのも、ハンターとは言うなれば様々な物事の探究者だ。当然な話だが、探究には危険が伴う事がある。

 

 例えば、遺跡発掘の際に野生動物に襲われる。例えば、未知の病原菌の調査の為に、自らの命を危険に晒す。例えば、人々を苦しめる凶悪犯罪者を捕らえる賞金稼ぎとして、時には賞金首から命を狙われる。

 

 そういった、幾千幾万にも及ぶ荒事や死の危険にも臆することなく物事を探究する者たち。それが、ハンターなのだ。

 

 故にハンターは、その仕事柄武術等を修めることが多い。なので、そんな者たちの迫力が他と異なるのも、当然で。そして、この場に集まっている者たちは誰一人の例外なくその肩書きを有しており、ハンターたちが集まって作り上げた協会に属する者たちであった。

 

 しかも、ただ協会に属しているハンターではない。この場にいる誰しもが、そのハンターの中でも上位に位置する、頂点のそのまた頂点に坐する者たちであった。

 

 その中でもひと際強い輝きを持つ、無精ひげの男。その男が代表するかのように、一つ咳を零した。その男は、あの時彼女から……伊吹萃香から、只者ではないと真っ先に評された、あの男であった。

 

 そう、実際、只者ではなかった。無精ひげをそのままにしているこの男の名は、アイザック・ネテロ。長者番付上位6名が所属する協会の、第12代会長を務める、世界最強とも呼ばれている武道家であった。

 

「あー、諸君。急な呼び出しに集まっていただき、御苦労。まず、お主たちに現状を正確に把握していただきたい」

 

「暗黒大陸から来た、あの子のことですね……ネテロ会長」

 

 ネテロ会長と呼んだのは、あの時ネテロの背後から飛び出して彼女に攻撃をした、男女の内の一人であった。「うむ、そうだ」既に、話が通じているのを察したネテロは、傍にある唯一の端末機器を操作した。すると室内の照明が緩やかに落とされ、ディスプレイに光が灯り……映し出された光景に、集まった全員が息を止めた。

 

 ――全員の視線を集めるディスプレイには、一人の少女が映し出されていた。

 

 そこは、せいぜいが10平方メートル程度の一室であった。置いてある道具はベッドが一つ、テレビが一つ、小さな冷蔵庫が一つ。窓はなく、ビジネスホテルの一室と言われても違和感のない、こぢんまりとした内装であった。

 

 そこのベッドにて、少女は横になっていた。枕元に置いた袋から掴んだチップスをばりばりと咀嚼しながら、ぐびぐびとビールを流し込んでいる。ベッド下には空き瓶やら空き缶やらが散乱しており、一見するばかりでは酔っ払っているただの少女……という他ない姿であった。

 

 だが、しかし。よくよく見れば少女の姿は、『ただの』と安易に判断出来なくなる異質な点が幾つか見受けられた。

 

 まず一つは、少女の頭部に生えている二本の角だ。その少女が両手を伸ばしてもまだ先端に届かない立派な角が、頭部の毛を突き抜けるようにして直接生えていた。

 

 次に不思議なのが、少女の両手や腰に巻き付いた枷だ。先端に三角や丸型などの分銅が鎖によって繋がっていて、映像越しからでもそれがプラスチックのような軽い物質でないのが分かる。なのに、少女は重さなどまるで感じていないかのような振る舞いだ。

 

 そして、何よりも異質なのが……酒を飲み干す少女の摂取速度であった。

 

 酒が強いとか、そういうレベルではない。急性アルコール中毒以前に、胃袋が破裂してもおかしくない速度で飲み続けている。辛うじてそうならなくとも、腹部が膨張して当然の量を短時間で摂取しているというのに、だ。

 

 ……そんな映像が、ネテロたちが集まる部屋のディスプレイに、映し出されている。単純に見れば角を生やした少女がチップス片手に酒を飲んでいるだけの光景だが、この場に集まった誰もが……映像の向こうにいる少女へと真剣な眼差しを向けていた。

 

「……諸君も御存じの通り、現在、この気球船には人と同程度の知性を持つ未知の生命体が搭乗している。あの、『暗黒大陸』からの来訪者だ」

 

 ――暗黒大陸。改めて強調されたその言葉によって、室内の空気が張り詰めるのを……この場にいる誰もが察していた。

 

 それは、ネテロたちが暮らすこの世界の外、どこまでも広大に広がっている海の向こうにある大陸の事である。『現在分かっている世界地図の外』、あるいは、『人類の生存圏の外』という方が、分かり易いのかもしれない。

 

 生存圏の外と称するだけあって、そこは人類が住める世界ではない。人類最強と称されるネテロを代表として、その実力を認められた者たちが束になって掛かっても、『ワシらですら入口を跨いだだけで引き返したお化け屋敷』として逃げ出す程の危険に満ちた世界。

 

 人類は未だ、そこに何があるのかほとんど分かっていない。それが、暗黒大陸なのであって、それ故にネテロたちは警戒していた。何もかもが未知の世界からやってきた、未知数の酔っ払いを前に対応を迫られている……というわけであった。

 

「この際だから、はっきり伝えておこう。アレは、ワシでは勝てぬ。少なくとも、アレを殺すのはワシの力では無理だ」

 

 そして、この場における代表的立場になっているネテロが結論を述べれば、どよめきが一時ばかりあがった。

 

 幸いにも構造上防音も完璧なので、それが外に漏れるようなことはなかったが……室内にいる誰もが、驚いた様子でネテロを見つめていた。

 

「……それ程ですか、会長? 報告を聞いた限りでは頑強さこそ見て取れますが、実際に感じ取れるオーラは赤子程でしたし、それほどにはどうも……」

 

「みてくれに騙されるな。おそらく、あいつの力量はワシの数十倍……そう、最低、数十倍はあると見た」

 

「数十っ!? 御冗談……ではないですよね?」

 

「阿呆、この期に及んで冗談なんぞ零すか。お前らは気付かなかったのだろうが、アレは生命体という範疇に収まるものではない。いや、もはやアレを生命体と定めてよいのかすら、ワシには分からぬぐらいだ」

 

 訝しんで疑問を呈した一人に、ネテロは素直に己の力不足を告げた。途端、室内にいる誰もが苦しそうに唸り声をあげた。何故なら、ネテロが勝てないのであれば……この場にいる誰がやっても、彼女に勝てないからだ。

 

「生命体ではないとすると、会長はアレを何と?」

 

「……あくまでワシの予想に過ぎぬが、アレは言うなれば……巨大なオーラそのものが自我を持って形を取っている、といったところだな」

 

 オーラとは、言うなれば体内に宿る生命エネルギーのこと。人々の間では超能力とも揶揄されるその力を、ネテロを含めた彼ら彼女らは……『(ねん)能力』と呼んでいた。

 

 一流のハンターは、この念と呼ばれる力を使いこなして初めて一人前とされている。ネテロはハンターの中でもその扱いにおいては超一流であり、伊達に世界最強と称されてはいない……のだが。

 

「さて、困ったことになったぞ。暗黒大陸出身の知性あるものが現れたとなれば、各国のお偉方が黙ってはおらんだろう。まず間違いなく、アレを巡った争いが発生するだろうな」

 

 そんな世界最強も、この時ばかりは涙を堪えた幼児を前にして途方に暮れる大人のような、情けない顔をしていた。悲しい事に、その場にいる全員が、似たような顔となっていた。

 

 何故、ネテロたちは困っているのか。それは単に、彼女……伊吹萃香が暗黒大陸出身であるという、ただそれ一点に尽きた。

 

 というのも、恐ろしさだけが強調される暗黒大陸だが……全てにおいて悪いというわけではない。むしろ『資源』という面から考えれば、暗黒大陸は巨万の富を生む可能性を秘めた、黄金郷でもあるのだ。

 

 寿命を延ばす究極の食材に、あらゆる液体の原料となる水。ビーズ一個分のサイズで小さな町一つを賄う電力を生み出す石に、万病を癒す香草。

 

 現時点で存在が確認されているそれらですら、まだ誰も持ち帰ることに成功していない。この世界の経済を根底から覆す魔法のような物質が……あの大陸には確かに存在している。

 

 そんな、巨万の富が眠る宝庫を知る可能性を秘めた者が――この地に現れた。

 

 非常に、不味い事態だ。誰もその言葉を口にはしなかったが、ネテロを含めたこの場にいる誰もが、同じ結論に至っていた。何故ならば、全てが未知数であるからだ。

 

 確かに、彼女が持つ暗黒大陸に関する知識は貴重だ。札束の山を築いてもまだ足りぬぐらいの、有益な情報が彼女の中にはある。しかし、それ自体は喜ばしいことだとしても……周囲が大人しく座してはいないだろうからだ。

 

 今はまだネテロたちによって情報封鎖が行われているので、彼女の存在は露見していない。しかし、完全ではない。その道のプロが探せば目撃情報は至る所から見付けられるし、いずれは……各国へと情報が渡るだろう。

 

 そうなればもう、泥沼だ。経済を根底からひっくり返す巨万の富を知るやもしれない彼女を巡って、争いが起こるだろう。いや、それはもう争いを通り越した……奪い合いとなる。

 

 悪意を持って害を成そうとする者は危険だが、無関心によって害を呼び寄せてしまう者もまた、危険だ。最悪、前者の場合はそのものを殺せば終いだが、後者の場合は……そのものを殺したとて歯止めが利かなくなってしまうから。

 

「改めて言葉にせんでも、お主らならアレの危険性と有用性は想像が付いているのは想像するまでもない。どちらに転んだとしても、おおよそ平穏な結末には至らぬだろう……というのが、現時点でのワシの予測だ」

 

「その点については俺も同じですよ。まあ、下手したら何時間か前に最悪の結末に至っていた可能性もありましたけれど……ねえ?」

 

 ポツリと零された、その言葉。ジロリと、誰がというわけではなく、集まっている幾人かの視線が……あの時、彼女に攻撃した男女たちへと向けられる。

 

 その言い分は、至極真っ当であった。何せ、相手は正体不明。何事もなく今は大人しく酒を飲んでいるが、最悪……あの場で殺し合いになってもおかしくなかったところなのだ。

 

 そうならなかったのは、単に彼女……伊吹萃香が許した、ただそれだけ。

 

 その件に関しては、思うところがあるのだろう。暗に責められた男女たちは皆、居心地悪そうに肩身を竦めていた。だが、「過ぎたことを、何時までもほじくり返すでない」ネテロが仲裁を入れた。

 

「それに、あの時のアレが絶対に間違っていたとは誰も分からんだろう。将来的な影響を考えれば、あの場で仕留めておこうと考えるのは何も、不思議な事ではない……そうだろう?」

 

 ……誰に言うでもなく放たれたネテロの問い掛けに、その場にいる誰もが即答出来なかった。

 

 それすなわち、ネテロの言葉は、この場にいる誰もが考えたことだからだ。

 

 実際、あの場で彼女を仕留めていれば、色々と揉めはするだろうが最悪には至らなかっただろう。

 

 100かマイナス100かの二択ではなく、選択肢そのものを失くして0にする。それもまた、結局のところは取るべき手段の一つに過ぎないのだ。

 

 本人にその気が有ろうが無かろうが、彼女の存在は必ず争いの火種となる。最悪、血みどろの世界大戦に発展しかねないのは、言うまでも無く誰もが想定していることであった。

 

「――とはいえ、それはあくまで手段の一つ。幸いにも、アレは人の言葉を解し、対話を可能とすることが出来る知性を持っている。ワシらの前には今、二つの選択肢があるというわけだ」

 

 しかし、だからこそ……ネテロは、改めて集まっている全員に告げた。

 

「――手合せと称して、仕留める機会を得ることも出来た。あやつが『災厄(リスク)』か『希望(リターン)』か……さて、ワシらは選ばねばならん」

 

「……え、あれってそんなつもりで言ったんですか? わたくし、会長のことですから本気で手合せしたいだけなのかと思っていましたが」

 

「お前がワシをどう思っているのか、よく分かった」

 

 思わず、といった様子で目を瞬かせた一人に、「ただまあ、純粋に手合せしたいのも本音だ」ネテロは再度ため息を零した。

 

「だが、その為に億が一のチャンスをふいにするわけにはいかん。ワシとて、己の我が儘で人類を絶滅の危機にさせるような勝手はせんよ」

 

「人類絶滅……はは、そうなりますかね?」

 

 さあな、と。ネテロは知らん知らんと肩をすくめた。

 

「ワシらの手に余る程度であれば、犠牲は伴うが何とでもなる。だが、人類の手に余る程度であったなら……」

 

 それ以上、ネテロは何も言わなかった。室内は静まり返っていて、誰も彼もが緊張感を孕んだ様子で立ち尽くす。事態を好転させる案が何も出ないまま、ただただ沈黙だけがネテロたちの間に居座っていた。

 

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………そんな、重苦しい空気の中で会議を続けている室内の外。気球船内のとある一室に案内された、監視されっぱなしの件の暗黒大陸出身の生命体はというと、だ。

 

(うわぁ……やっぱあそこってどえらい場所だったんだな~)

 

 自らの能力を駆使した、盗み聞き。そう、ネテロたちは知る由もなかったが、『密と疎を操る程度の能力』を持つ彼女にとって、盗み聞きはある意味において専売特許であった。

 

 確かに、ネテロたちが居る場所は正しくシークレットルームだ。何重にも対応された壁やらフィルターやらによって、外部からは細菌一つ意図的に入り込むことは出来ない。

 

 しかし、どれだけ堅牢な場所であろうと、彼女の前では無意味。例えるなら、一つ一つが意思を持つ粒子だ。何十にもフィルターが掛けられたとはいえ、完全な密封でない以上は隙間が存在する。

 

 彼女は、その隙間に己を侵入させたのだ。自らが持つ能力によって霧状にまで細分化させた己を入れることで、ネテロを含めた誰もが気付かぬ内に盗み聞きを完了させていた……というわけである。

 

 なので、極秘裏に行われている会議だが、実の所それは筒抜けで。今にも決死の覚悟を固めようとしているネテロたちとは裏腹に、彼女は正直、ゆる~い感想しか抱いていなかった。

 

 というのも、彼女はなんとなくだが察していたのだ。おそらく、己は彼ら彼女らに受け入れられないだろうということを。いや、それはもはや察するというよりは、『伊吹萃香』の部分が抱いた……確信にも似た予感であった。

 

 何故なら、彼ら彼女らは己と比べてあまりに脆すぎる。直感的な部分で、それが分かる。あの……そう、『ネテロ会長』と呼ばれている、己に手合せを申し出たあの男ばかりであったなら、もしかしたら……いや、止そう。

 

(でもま~どうしたもんかな~。別に、あいつらは悪者でもなさそうだしなあ~。どっちかといえば、悪者はこっちになるんだものなあ~)

 

 空になったビール瓶を放り捨てた彼女は、ふらつく足取りで冷蔵庫から新たなビール瓶を取り出す。サッと指で撫でれば、レーザーで切ったかのように瓶の口が斜めに切れて、ことん、と瓶の口が床を転がった。

 

 ……命を狙われているというのに、彼女は全くネテロたちのことを気にも留めていなかった。肝が据わっているのか、能天気なのかはさておき、彼女はぐびりぐびりと喉を鳴らしつつ、再びベッドに横になる。

 

 そうして再び、ネテロたちの会話に耳を澄ませる。『彼』の部分で行儀が悪いと考えつつも、上手い具合に酔いしれた彼女は、冷静に今の状況について思考を働かせ始める……が、しかし。

 

(対話を選ぶか~、処分を選ぶか~。こっちとしては穏便に終わればそれに越したことはないんだけどなあ~、ああ~この酒うめぇなあ~)

 

 核となっている『彼』もそうであったが、彼女はそういう難しいことを考えるのが苦手であった。

 

 気づけば、ネテロのことよりも新しい酒の味にばかり気が向くようになり……このまま彼女が酒気から来る寝息を立てるのも時間の問題であ――っと。

 

「――んぇ? あ、くっそ零れた……」

 

 がくん、と。唐突に室内を襲う揺れに、ビールを零した彼女はむくりと身体を起こした。また巨大生物かとも思ったが、すぐに違うかと頭を掻いた。

 

 仮に巨大生物であったなら、もっと外が騒がしくなっているはずだ。それがないということは……ぐびり、と残ったビールを飲み干した彼女は、千鳥足のまま部屋の外へと出た。

 

「――っ! き、緊急報告! 対象Aが、部屋の外に出ました! お、応援求む! 応援求む!」

 

「あー、そんな怯えなくていいから、何もしないから……さっきの揺れはコレか」

 

 途端、部屋の外を挟むようにして立っていた警備員が、血相を変えてトランシーバーに声を張り上げていた。それを見て、そんな怯えなくてもなあ……と、彼女は困ったように頭を掻きつつ、眼下に広がる小さい景色に目を瞬かせた。

 

 どうやら、酒に夢中になっている間に出航したようだ。もしかしたら飛ぶ前に戦うかもと思っていたが、気球船そのものが浮上して何処ぞへと向かっているのを見て、どうやら違うことを彼女は悟った。

 

 というのも、気球船の中はそれなりに広いが、戦うには些か狭い。さすがに港に乗りつけたあの船よりは小さいが、百人や二百人が入っても余裕があるぐらいには広い。が、それでも彼女にとっては狭い。

 

 まあ……よくよく考えてみれば、こんな場所でやり合うわけもないだろう。加減するつもりだとはいえ、鬼の拳は分厚い鉄板に軽々と穴を開ける。下手に壁やら床に穴を開ければ最悪、墜落しかねない。

 

 というか、こんな場所では彼女が持つ『伊吹萃香』の術の大半は使えないだろう。その一つ一つの威力が高すぎて、とてもではないが……ここは全てが脆すぎる。

 

 彼女ならまだしも、そうなれば……この船に乗る大半が命を落とす結果になるだろう。そうならなくとも、相当な被害が出てしまう可能性がある以上、ここでやらないというのは彼女からしても賛成であった。

 

 ……とりあえず、目的地に着くまでは何もすることはない。はて、そういえば目的地が何処なのかを聞いては……まあ、いいか。

 

 そう判断した彼女は、今にも泣きそうな程に緊張している警備員に手を振って部屋に戻る。そして、ベッドに飛び込んでから大きく欠伸を零すと……静かに、寝息を立て始めたのであった。

 

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………?

 

 どれぐらい、眠っていたのか。酒の臭いをぷんぷんと漂わせながら、彼女は目を覚ました。一瞬ばかり己がどこに居るのかが分からず目を瞬かせたが、気球船の中であることを思い出し……ああ、とため息を吐いて枕に顔を埋めた。

 

 途端、扉がノックされた。何だと寝ぼけ眼を向ければ、「伊吹様、御到着致しました。扉を開けてもよろしいでしょうか」とのこと。声色からして……誰だろう、男の声だが聞き覚えはない。

 

 さっきの警備員ではない。ていうか、あの警備員、結局仕事を続けられたのだろうか。今にも気絶しそうな様子であったが……まあいい。

 

 分かった、今行くよ。

 

 大きな欠伸と共にそう告げた彼女はのそりとベッドを降りると、冷蔵庫へ。中からよく冷えたワインを取り出すと、迎え酒かと言わんばかりにそれを一気飲みした。

 

 コルク……そんなものは指先一つで瓶の口ごと切断だ。アル中であろうと半日で命を落としそうな勢いでボトル一本を飲み終えた彼女は軽くゲップを零すと、ふらふらとした足取りで扉を開けて外に出た。

 

 すると、そこには値の張りそうなスーツに身を包んだ男が立っていた。髪をオールバックにしているその男は、「大変長らくお待たせ致しました」彼女が出てくると同時に深々と頭を下げ……上げた。

 

「私どもの上司たちが、食事会を開いて待っております。御都合がよろしければ、是非とも出席していただきたいのですが……」

 

 ん~……右に左にゆらゆらと頭を揺らしながら、彼女は考え……いいよ、と気楽に了承した。

 

「あ、酒は出るの?」

 

「もちろんでございます。伊吹様の為に、世界中から取り寄せた各種銘柄の美酒をご用意致しました」

 

 それでは、ご案内致します。その言葉と共に緩やかに歩き出した男に、彼女は従った。男の足取りは実に滑らかで、相応の訓練を積んでいるのが一目で分かった。

 

 コツコツ、と。二人の足音が、静まり返った気球船内を反響する。既に、ほとんどが下りたのだろうか。乗り込んだ時は遠目からではあるが乗組員らしき人が確認出来たが、今は見掛けない。

 

 まるで、事前に人払いしているかのようだ。けれども、彼女は特にそのことを男に尋ねるようなことはしなかった。それは男の思惑を読んだ……というよりも、酔いどれ気分から来るいい加減なだけであった。

 

 ふらふら、ふらふら、と。はた目からでも酔っ払いだと分かる怪しい足運びであったが、彼女は一度として躓くことなく……気球船の外に出る。

 

 降りた先には一台の車がエンジンを掛けられた状態で止まっていたが……自然と、彼女の視線はそれ以外へと向けられた。

 

 気球船の外は、当然ながら彼女の記憶にもない、見覚えのない景色だ。『彼』の記憶から考えるなら、そこは空港というやつが近しいのだろう。しかし、記憶にあるような空港の忙しなさはなく……あるのは、寂れた、の二文字だけであった。

 

 そう、雑草が生えた滑走路もそうだが、空の玄関となる空港そのものが酷く寂れていた。窓は黄ばみ、一部は割れ、外壁は軒並み砂埃を纏っており、その向こうには職員の影すらない。遠目からでも、人の手が離れてそれなりの年月が経過しているのが分かった。

 

 空港内ですらそうなのだから、敷地の外に目をやればもっと酷い。辛うじて名残が見て取れる道路は雑草だらけのひび割れだらけ。錆びてボロボロのフェンスの向こうには車一台見当たらず、羊に似た獣が我が物顔で闊歩しているのが見えた。

 

 ――さあ、どうぞ。

 

 その言葉と共に開かれた後部座席に乗り込めば、優しく扉は閉められて。運転席へと滑り込む様に男が座れば、車は静まり返った空港に倣うかのように緩やかに発進し……速度を増してゆく。

 

 合わせて、カチリ、と。男が何かのボタンを押した途端、彼女の耳には聞き慣れない音楽が流れた。「――到着まで退屈でしょう。お嫌ならば、何時でも仰ってください」それが何の歌なのかは分からなかったが、特に彼女は何も言わなかった。

 

 ……窓越しに、徐々に小さくなってゆく空港と気球船を見やる。やはり、人の影はない。横を見やっても、映るのは彼方まで続く長閑な光景と、野生動物がぽつぽつと確認出来るぐらいで……他に、何もない。

 

 果たして、こんな場所に食事会などという洒落た事が出来る場所があるのだろうか。少なくとも、このまま後1時間……いや、2時間走らせたとしても、そんな場所はないだろうなあ、と、彼女は思った。

 

 そうして、車が走り続けること幾しばらく。最初よりも変わってきてはいるが、全体的に見れば大して変わり映えのない景色をぼんやりと眺めたまま、かれこれ……どれぐらい走り続けただろうか。

 

 相変わらず、スピーカーから響くのは聞き覚えのない音楽。そして、DJによる妙な口調の口上。彼女の好みからも、『彼』の好みからも外れたそれらがピーピーと騒ぎ立てている……その、最中。CMが流れる合間に訪れた、一瞬の静寂。

 

「――私はさあ、嘘が嫌いなんだ」

 

 その静寂の隙間を縫うかのように放たれた、言葉。

 

「それで、結論はどっちになったの?」

 

 ポツリと零された彼女の問い掛け。それは、まさしく不意打ちであった。

 

「……どっち、とは? 申し訳ないのですが、私には伊吹様が何を仰っているのかが分かり」

 

「私はね、嘘がとにかく嫌いなんだ」

 

 表情一つ、仕草一つ変えることなく、訝しそうに首を傾げる男の返答を、彼女は最後まで言わせなかった。

 

 この時……彼女ははっきりと自覚していなかった。己が、脳髄が茹で上がると錯覚してしまうぐらいの激しい怒りと苛立ちを覚えているということを。

 

 何故、そうなのか。それは鬼だからという以外の理由が、彼女にも分からない。当然、『彼』にも分からない。

 

 けれども、鬼である『伊吹萃香』の器が訴えるのだ。四天王と恐れられた誇り高き酒呑童子の器が、だ。

 

 ……一つだけ擁護するのであれば、彼女だって我慢はしたのだ。

 

 食事会があると嘘を吐かれても、美酒を用意していると嘘を吐かれても、案内すると嘘を吐かれても……たった今、知らないと嘘を吐かれても。彼女は、笑顔の中で我慢し続けていた。

 

 男は、まだ幸運であった。何故なら、彼女の中には『彼』があるから。一般人としての、何の変哲もない『彼』があるからこそ、男はまだ無事でいられるのだ。

 

 本来の『伊吹萃香』であるならば、彼はとっくの昔にひき肉にされてもおかしくない……それほどの挑発を重ねているも同じ。それが、鬼に嘘を吐くということなのだ。

 

 なので、今はもうアレだ。何もかもが嘘の中で、今まで我慢出来ただけでも、彼女からすれば自画自賛してしまう状態。それが、今の彼女の内心であった。

 

 けれども、まだ、彼女は堪えていた。ギリギリ踏み出す半歩手前の辺りで、何とか踏みとどまっていた。故に、彼女の声色はあくまでほわほわとしたもので。「私も、嘘は嫌いですよ」男から放たれる気配もまた、柔らかいものであった……だが、しかし。

 

「三度目、これで最後だ。私は、嘘が嫌いだ」

 

 再び流れ始めるラジオの音楽の中で……その声は静かに、それでいてよく響いた。

 

「そのうえで、もう一度問うよ。私としては、あんたらがどちらを選んでも同じさ……結論は、どっちになったの?」

 

「…………」

 

 男は、何も言わなかった。微笑をそのままに前を向いたまま汗一つ掻くことなく、視線一つ寄越さない。ただただ運転を。

 

「――もしかして、さあ」

 

 続けようとした、その肩を掴んだ。と、同時に、彼女は我知らず力を込めていた。

 

「私が……ただただ大人しくしているだけの小娘か何かだと軽く考えていないかい?」

 

 あの大陸に居た時は一度として見せなかった……『伊吹萃香』の本気の怒気を!

 

 それは、死をも錯覚する程の凄まじい覇気であった。常人ならば、その身に浴びただけで失禁する程の圧力――いや、待て。

 

「……?」

 

 唐突に覚えた違和感に、彼女は目を瞬かせた。最初、それが何なのか彼女は分からなかった。だが、理解するにはそう時間は掛からなかった。

 

 指が……動かないのだ。いや、指だけではない。手が、腕が、全身が、動かない。まるで突如全身を見えない針金で固定されてしまったかのように、ピクリとも動かせなくなっていた。

 

 いったい、何が起こったのか。いや、何をされているのか。想定外の事態に、一瞬ばかり彼女は怒りを忘れた。と、同時に、がくんと車体が揺れた――その、瞬間。

 

 ――フロントガラスの向こう。今しがたまで続いていた地平線が、途切れた。

 

 あっ、と思った時にはもう、遅かった。ふわりと全身を襲う、浮遊感。と、思えば、ゆらりと身体が傾き、ガラスの向こうは……見える限り全てが森林の大地で。

 

 落ちている。どこから……崖から?

 

 そう、彼女が理解した直後。浮遊感は落下へと移り変わる。瞬く間に近づいてくる大地を前に、彼女は己を縛り付ける何かを強引に振り払い、男を守ろうと運転席へと――回った瞬間、彼女は初めて気づいた。

 

 男は――人間ではなかった。いや、人間どころの話ではない。男は、おおよそ生物ですらなかった。

 

 例えるなら、ソフトが一切入っていないパソコンといったところだろうか。

 

 生者としての臭いこそするものの、その中身が存在していないことに気付いた彼女は、呆然と微笑を浮かべ続けている男の横顔を見やり――瞬間、彼女を乗せた車は大地へと叩きつけられ、爆音と共に四散し炎上した。

 

 

 

 

 

 ……上からみれば、その窪みはまるで、巨大な長靴の形で切り抜いたかのようになっている。名は、『長靴壁(ながぐつへき)』。そこはかつて炭鉱所として賑わっていた土地より幾ばくか離れた地点にある、巨大な窪みであった。

 

 窪みの深さは、おおよそ800メートル近く。もはや断崖絶壁と言っても間違いではない、その窪みの縁に立っているのは、武装している幾人かの男女。具体的に言い直せば、ネテロたちであった。

 

 彼ら彼女らの視線は、崖下へと落ちて行った車の向こう。正確にいえば、黒煙と炎を噴き上げている、その中へと注がれていた。800メートル先のことだが、この場にいる誰もが当たり前のようにそれを見続けている。

 

 と、思えば。その内の数名が、黒煙へと向かって……爆弾を投げる。800メートル下にいる相手に無駄なことをと専門家からは言われそうだが、誰も彼もが剣呑な眼差しで行動に移っていた。

 

 一つ、二つ、三つ……燃え盛る車体の黒煙をかき消す程の幾つもの爆音が、窪みの中を反響し、ネテロたちの下に届く。さすがにネテロたちの位置から正確に爆弾を落とすのは難しかったが、それでもなお攻撃を止めることはしなかった。

 

 ぎゃあぎゃあ、と。爆発音に驚いた野鳥やら何やらが、奇声をあげて空へと逃げてゆく。それはまるで火中から飛び出した栗のように慌ただしく、広がる黒煙と砂埃とが相まって、凄惨な光景となっていた……と。

 

「――えほっ!? えほ、えほ!」

 

 その中で、一人。ネテロたちの後ろで座り込んでいた一人の男が、咳き込んだ。すぐさま、周囲の者たちが彼の介抱を始める最中、「ね、ネテロ会長……!」その男は、顔中に脂汗を浮かべつつもネテロへと報告する。

 

「駄目です……おそらく、アレは生きております」

 

 瞬間、その言葉を聞くことが出来た全員が、驚愕に身を固くした。けれども、「それは、ダメージを負った上でのことか?」ネテロだけは冷静に続きを促した。

 

「それは、分かりません。ただ、地表へと激突する寸前に……俺の念を破りました……!」

 

 そういうと、彼は苦しげに顔をしかめて……ネテロを除いた誰もが、緊張に総身を強張らせた。

 

 彼はいったい、何をしたのか。どうして、彼の言葉を聞いた誰もが顔を強張らせたのか。前者は、彼は己の能力……すなわち、念能力と呼ばれる超能力を使っていたから。後者は、彼の能力の有用性を……この場にいる誰もが認めていたからであった。

 

 というのも、彼が持つ念能力は、『対象となる相手(人、物、問わず)を移送する』というもの。

 

 対象となる相手が何者であっても絶対にその場へと連れてゆくことが可能であり、一度でも能力に囚われた者は移送が完了するまでけして逃れることが出来ないという能力だ。

 

 攻撃用の能力ではないが、その拘束力は非常に強い。世界最強と名高いネテロですら、そう易々と逃れることは出来ない。だが、その能力が……造作もなく破られたと彼は口にした。

 

 すなわちそれは、アレが……暗黒大陸からの来訪者が、ネテロをも上回る何かを持っているということ。それが念能力なのか、全く異質な何かなのかは不明だが、人類滅亡の危険性があるとネテロが断ずるだけの――その時であった。

 

 とてつもない衝撃が、ネテロたちを襲った。「――地震!?」そう声を荒げたのは、誰であったか。思わず身構えるネテロたちは辺りを見回し――眼下の光景に、一同は言葉を失くした。

 

 先ほどまでそこには、地獄があった。黒煙と炎と砂埃と、野鳥たちの悲鳴と爆発音とが木霊する凄惨な光景が広がっていた……はずであった。

 

 それが今や、爆心地かと見紛う程の巨大なクレーターが生まれていた。隙間無く繁茂していた森林も、周囲を飛び交っていた野鳥も、軒並み消えて。何もかもが晴れて無くなったその中心に……彼女が、いた。

 

 何をしたのかは、分からない。だが、誰もが理解していた。彼女が……やったのだということを。呆然としつつも状況を呑み込もうとしている中、中心にて佇んでいる彼女が……跳んだ。いや、それは跳ぶというよりも、飛ぶという方が正しかった。

 

「――来るぞ!」

 

 誰よりも早く状況を理解したネテロが叫んだ時にはもう、遅かった。羽もないのに空を飛行して800メートルという高さを乗り越えた彼女……伊吹萃香が、地響きを立ててネテロたちの後方に着地した。

 

「……全員、下がっていろ」

 

「ネテロ会長!?」

 

「やれやれ、こうなるのであればもっと破壊力のある爆弾を持ってくるべきだったな」

 

 小さなクレーターの中から立ち上がった彼女を前に、ネテロが歩み出る。「会長、私たちに逃げろと?」我に返った者たちがその後に続こうとしたが、「足手まといだ」当のネテロから止められた。

 

 実際、言い方は悪いが、この場に限れば彼ら彼女らは足手まといであった。

 

 言っておくが、彼ら彼女はけして弱くはない。いや、それどころか、一人ひとりが世界に名を知らしめている実力者である。しかし、その実力者であっても……ネテロと比べたら格下なのは誤魔化しようがない事実でもあった。

 

「お主たちの気持ちは嬉しいが、頼む、ここは引いてくれ。ここから先はワシの我が儘で、お主たちが付き合う必要はない」

 

「私たちに、あなたを見捨てて逃げろと仰るのですか!?」

 

「そうだ」

 

「――会長!」

 

「ハンターたるもの、引き際を見誤るな!」

 

 その怒声は、ネテロより放たれる圧気となって彼ら彼女らを押し退けた。敬愛するネテロよりそうまで言われて、彼ら彼女らもようやく諦めたのだろう。

 

 誰一人納得してはいなかったが、こうと決めた彼ら彼女らの行動は早かった。ものの数秒という時間であっという間にその場より離れてゆく最中……一人残ったネテロは「……ありがとうよ、待ってくれて」、彼女に礼を述べた。

 

 一歩、また一歩。距離を詰めれば、ふらりふらりと彼女もクレーターより出てくる。そうして、向かい合った二人は……何を言うでもなく、向かい合った。

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………そのまま、どれぐらいの間そうしていたのか。沈黙だけが二人の間に佇んでいたが、最初にその沈黙を退かしたのは……彼女の方であった。

 

「私はさあ、別にあんたたちに何かしようとは思っちゃいないよ」

 

「お主がそう思っていても、周りがそれを許さん。まあ、人間以外には理解出来んことだ」

 

 はっきりと。それでいて嘘偽りなくネテロは答えた。「分かるさ、私には」それが分かった彼女は、ここに来て初めて……笑顔を浮かべた。

 

「それで、どうするつもり? 私が言うのも何だけど、勝てないって分かっているはずだけど?」

 

 事実であった。悲しい事に、彼女には分かるのだ。目の前の男……ネテロは確かに強い。人としての、個としての極致に至った類稀な存在であるということが。

 

 けれども、それでも弱い。彼女を……『伊吹萃香』を相手取るには、力不足だ。例え、その命を賭したとしても己に届かないというのが彼女には分かってしまった……でも、それでも。

 

「知れた事を。敗色濃い難敵に全身全霊を以て臨む……それ以外の何を望む?」

 

 ――退くことなくネテロが吼えた、その瞬間。『伊吹萃香』の器を持つ彼女は、背筋が震えるのを自覚した。

 

 それは、怯えではない。己が全力をぶつけようとしている相手を前に、彼女は……筆舌に尽くし難い喜びを感じた。ともすれば、彼女はこの時初めて……『濡れる』という感覚を体感していた。

 

 ……ああ、駄目だ、駄目駄目。この人は、死んでは駄目な人なんだ。

 

 冷静な『彼』の部分が、戦わずに姿をくらませと訴えてくる。そのおかげで、心の全てが鬼ではない彼女は、こうまでされてもまだネテロを傷つけたくないと思っていて。

 

「それが本音? それなら、どうして人々の為になんて尤もらしい理由を付けたんだい?」

 

 だからこそ、あえて彼女は尋ねた。どうしても、ネテロの口から……その本心を知りたかった。

 

「……ワシはただ、この海の外に何があるのか、ただそれを見たかっただけだった」

 

 それを、ネテロも察したのだろう。しばし意外そうに眼を瞬かせたネテロは……深々とため息を零すと、苦笑しつつ無精ひげを撫でた。

 

「ほんの、土産話のつもりだった。不用意にあそこに行くべきではないあの世界は、まだワシらには早すぎる……ただ、それだけのつもりだった」

 

「だが、ワシは人の業というものを見誤ってしまった。誰よりもそれを分かっていると自負しておきながら、ワシは安易にあの世界の事を話してしまった」

 

「人類にはまだ、あそこは早すぎる。後150……いや、100年。人類があそこに向かうには、最低でも後100年の時間が必要だとワシは思っている」

 

「今はまだ、その時ではない。しかし、人が持つ業が、底知れぬ悪意(欲望)が、あの世界を求めるだろう……ワシは、それを止めねばならん」

 

 そこまで告げると、ネテロは着ていた衣服……ジャンパーを脱ぎ捨てる。露わになったのは、シャツの胸一面に大きく描かれた『心』の一文字であった。

 

「それが……ワシなりのケジメというやつだ」

 

 その言葉と共に、ネテロは構える。傍目から見ればその構えは、ただ脱力して立っているようにしか見えなかったが……彼女には、それが本気になったネテロの型であるのが分かった。

 

 ――説得も和解も、無理か。

 

 力強く輝くネテロの瞳を見て、彼女は困ったように苦笑する。まあ、それ自体は薄々予想出来ていたので驚きはしなかったが……ネテロの言わんとしていることが分かってしまい、彼女は悲しみと寂しさを覚えた。

 

 ……ネテロの言う通りだ。人間としての『彼』があるからこそ、それがよく分かる。

 

 始めから、彼女が何を言おうが、何をしようが関係ないのだ。世界が、人類が求めるのは、彼女が知っている情報。そして、戦力と成り得る彼女自身……そこに、彼女の意思は含まれていない。

 

 それ程の可能性が、暗黒大陸にある。手に入れた者が次代の王者として君臨出来るだけのモノが、そこにある。泥沼の奪い合いを経て、夥しい死体の山を積み上げてもなお手に入れようとするだけの宝が……いや、もう止そう。

 

 心の中で、彼女は首を横に振った。考えた所で、もう意味はないのだ。

 

 諦めと共に覚悟を決めた彼女は、てくてくとネテロへと歩き出した。とりあえず、ネテロが何かしてきてもいいようにと心構えをしつつ、何時でも反撃出来るよう――そう思った時にはもう。

 

「――そりゃあ悪手だろう、ガキめが」

 

 ――ネテロが、何かをやった。何かを己に叩きつけた。それを彼女が理解した時点で、衝撃が脳天から圧し掛かり全身を走って視界全部が真っ暗になったのを……彼女は知覚した。

 

 

 

 




幻想郷においても人と妖怪が本当の意味で共存出来ないように、ハンター&ハンター世界においてもまた、人と妖怪とが共存なんて出来るわけがないんだよなあ・・・

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