伊吹萃香もどきが行く 作:葛城
若いころのネテロをイメージしようとすると、どうしても老人ネテロのイメージに引きずられる……うーん、妄想力が足りないと実感する今日この頃
誰か、こんな感じの憑依系を書いてくれれば……筆が……ねえ?
俺もやったんだからさ、みんなも頼むよ~
――ダメージは皆無であったが、直撃の瞬間すら見えなかった。あまりに突然のことに驚いた彼女は、反射的に身体を起こし……えっ、と目を見開いた。
一言でいえば、クレーターであった。穴の広さは5メートル程度で、深さは3メートル強ぐらいだろうか。気づけば、彼女はそのクレーターの中にいて、砂まみれとなっていた。
いったい何が……いや、違う。何を、されたのだろうか。攻撃されたのは確かだが……たん、と地面を蹴って穴を出た彼女がネテロを見やれば、ネテロは変わらず同じ位置に立っていた。
……やはり、攻撃された? でも、どうやって?
油断なく見据えるが、ネテロに動きはない。これ見よがしに腕を回したり地面を蹴り砕いたりと誘ってみるが、微動すらしない。それを見て、彼女は今しがたの攻撃について思考を巡らせた……のだが。
「んー……分からん」
早々に、彼女は思考を切り上げた。経験値が、あまりに足りなさ過ぎるからだ。そのうえ、こういった駆け引きは『彼』も『伊吹萃香』も苦手なのか、無理に考えようとすると妙な苛立ちすら覚え始めてしまう。
まあ――いいだろう。分からないのであれば、分からないままでいい。
そう決断した彼女は、ネテロへと駆け出す。踏み込みに、地面が割れる。とにかく、一発だ。一発ぶち当てれば勝負がつく……そう思ってネテロへと向かった……のだが。
「んぶっ!」
「うごっ!」
「へぶっ!」
届かない。その一発が、ネテロへは届かない。横へ飛んでも、前へ飛んでも、上へ飛んでも、気付けば跳ね飛ばされている。最初に開かれていた20数メートルより先に、進むことが出来ない。
地面を蹴って加速すれば真横に弾き飛ばされ、空中を蹴って変則的に近づければ地面に叩きつけられ、地面すれすれから近づけば真後ろへと弾かれる。どう頑張っても、最初の立ち位置に戻されてしまう。
これは厄介だぞ、と。早くも地面と数十回目の接吻を終える最中、彼女は思う。
ネテロが何かをしているのは、分かる。何かから弾き飛ばされる刹那の瞬間、ネテロの身体が動いているのが見えていたからだ。だが、その動きがどのような作用を経て結果に至っているのかまでは……さっぱり分からない。
何か術を使っているのかもしれない――直感的ではあったが、彼女はそう理解する。
だが、いったいどんな術かは分からない――同時に、それを理解するにはまだ時間が掛かるだろうとも理解する。
持続的な攻撃というよりは、一発ずつ殴られた感じ……だろうか。鬼の力を持ってしても踏ん張れない威力ではあるが、幸いなことに衝撃によるダメージは皆無。あくまで踏み止まれない、というだけのこと。
こちらの速度を上回る素早い攻撃を重ねられているが、この攻撃で倒れるようなことはないだろう。例え、百万回積み重ねられたとしても……種族として、人と鬼との根本的な耐久力の差が、最初から明確に現れていた。
現時点でネテロは彼女に対して有効打を一発とも浴びせていない。同時に、彼女もネテロに有効打を一発も浴びせていない。言葉だけを見ればどちらも同じだが、中身には雲泥ともいえる差が二つの間には広がっている。
傍目には、ネテロが一方的な優勢を保っているように見えるだろう。そして、彼女が一方的に攻撃を受けているようにも見えただろう。
だが、実際はその逆……ネテロは、攻勢に出る以外の手段がないのだ。
どれだけ肉体を鍛えて鋼のように変えても、どれだけ臓腑を鍛えて息を長く止められるようにしても、人間である事には変わりない。
腕を振るえばいずれは拳を痛め、蹴りを放てばいずれは足を痛め、連打をすれば息も乱れる。出血すれば動きが鈍り、内臓を損傷すれば命を落とす。
手足を落とされてもいずれは再生し、腹に風穴を空けられても短時間で傷が塞がる彼女と違い、ネテロにはそれがない。『~のように』なることは出来ても、結局は……人間なのだ。
故に、ネテロが彼女に対して数百万回繰り返さねばならない事に対し、彼女はネテロに一発でも当てれば良い。
一発でも当てて負傷させれば、それで全てが確定する。それだけで勝負が決する程の隔たりがある以上、最初からこの戦いは
(息切れどころか汗一つ掻いていない……ん~、これはまいったね。思っていた以上に凄い体力だ)
だからこそ、だろう。そんな中、攻撃を受けつつも冷静に観察を続けていた彼女は、チラリとネテロの顔色を見やって……驚嘆の念を抱きつつも、軽くため息を零していた。
一定の距離から近づけさせないネテロには称賛以外の言葉が出て来ないが、要はそれだけ。ネテロの体力が尽きるまでコレを続けるのは簡単だし、続けていれば確実に勝てるだろう。
彼女としては、傷つかずに終わるのが最良の結果である。鬼として、相手が男であれ女であれ、拳を振るうことにそれほど忌避感はない。だが、『彼』の部分によって……極力、傷つけずに終わらせたいとは思っていた。それは、彼女なりの思いやりでもあった。
しかし……そう上手くゆくだろうか。
上下左右に動き回る視界の最中、彼女は悩む。あの様子だと……疲れて攻撃が止まるまで、どれぐらい掛かるか分かったものではない。長々とやり合うこと自体は良いのだが、そうなると援軍……つまり、ネテロの手助けに幾人もの戦士たちが駆け付ける可能性がある。
先ほど、ネテロが口にしていたことだ。1対1の現状は、あくまでネテロが望んだことであって、彼らの総意ではない。ネテロが疲れて動きを止める頃になって、武装した軍隊が到着して……ということも、可能性としては0ではない。
それは、彼女としても不本意な話である。何せ、この戦いは彼女からすれば、あくまでネテロに対する敬意の証。丸く収まるならまだしも、人類と血みどろの戦い……などというのを彼女も望んでいなかった。
……こうなれば、仕方ない。あまり時間を掛けさせず、程々に痛めつけたり疲れさせたりしたうえで、適当に姿を眩まそう。
相手側とて好き好んで殺し合いしたいわけではなさそうだし、『どうにもならない』という感じのいいわけでも出来れば……それで終いにしてくれるかもしれない。
(――どうか、避けるなり何なりしてくれよ)
そう結論を出した彼女は、地面を殴りつける。コロコロと回転していた身体が反動で飛ぶ。既に、どこまで近づけば攻撃を受けるのかは見切っていた。故に、彼女は余裕を以て術を発動した。
空中へと飛んだ彼女が腕を上げれば、その腕に周囲の岩石が浮き上がって、二つ三つとくっつく。そのまま彼女が腕を回せば、まるで渦潮に吸い寄せられる木の葉のように周囲の岩石が集まり……瞬く間に、直径十数メートルの巨大な塊となった。
「――戸隠山投げ」
『密と疎を操る力』によって作り出したそれを、ぶん投げる。子供が放り投げるが如き雑な投擲ではあったが、そこは鬼の筋力。剛速球を通り越して弾丸と化したソレは、常人でなくとも即死の破壊力となってネテロへと向かう。
が、ネテロも負けていない。迫り来る、身の丈の数倍にも匹敵する岩石の塊を前に一歩も退くことなく、何かをする。素振りは見えたが、彼女の眼力を持ってしても何をしたのかが捉えられない。
とはいえ、これで何かしらの術を使っているのが確定した。そう確信を得たと同時に、岩石がネテロの間合いに入った途端、塊は真横から殴られたかのように軌道を変え、大地へと散らばった。
その事については、特に彼女は何も思わなかった。この程度の攻撃を防ぐことぐらいは予想していたからだ。けれども、これなら……地面に着地した彼女は再び岩石を集める。今度は、先ほどの倍の大きさで――それを、先ほどと同じ速さでぶん投げる。
すると、再びネテロが何かをした。途端、岩石の塊は再び軌道を変えて辺りに散らばった。そこまでは、先ほどと結果は同じ。だが、それを見ても彼女は何ら気にすることなく、さらに巨大な岩石を――作ろうとして、失敗した。
何故か……それは、それまで迎撃に徹していたネテロが初めて距離を詰めたからであった。
あっ、と目を見開いた時にはもう、遅い。壁と壁とで挟まれたかのような左右から走る衝撃と共に「――ぐぇ」息が詰まる。途端、集中を切らしたことで術が解けて……頭上にて集められていた大小様々な岩石の塊が、彼女へと降りかかった。
……岩石の雨あられの中へと消える小さい影を尻目に、ネテロは素早く脱出をする。油断を突かれた方と、油断を突いた方。明暗を分けるには当然すぎる理由によって、ネテロは外へ、彼女は岩石の山の下へと沈んだ。
岩石同士がぶつかり弾けて砕けて転がる様は、壮観を通り越して凄惨さすら感じられる。ネテロにとっては大したことない光景であったが、常人なら肝が冷える程の惨たらしい有様が、ものの十数秒程で完成となった。
後に残されたのは、大小様々な岩石によって構成された歪な小山。もはや、彼女がどの位置に沈んでいるのかすらも分からない……そんな中、油断なく見据えたまま、ネテロは思う。いや、思うというよりは、思い続けていた。
――かつて、これ程の強敵と拳を交えたことがあっただろうか……いや、ないな。
繰り出す連撃の最中、ネテロは考えていた。幾度となく迫り来る小さい怪物を前にして、どこか心の中で雑念を抱き続けている己が……少しばかり不思議であった。
――己は、強い。少なくとも、人の世界で5本の指に入る程には。
そう、ネテロは自覚し、己の実力を評価していた。己が満足できるだけの相手を探すだけでも年単位の時間を要する。それぐらいに、ネテロは強い。何とも自惚れたやつめと思われそうだが、そう言われない、言わせないだけの実力が、ネテロにはあった。
これまで……ネテロは様々な相手と戦い、勝利してきた。
1対多数は当然のこと、武器防具を身に着け、銃器を構える集団を相手にしても傷一つ負うことなく全員叩きのめすなんて、ネテロにとっては朝飯前。今ではもう、ネテロの名を聞くだけで裏社会の者が道を空けるぐらいに、ネテロの名は知られていた。
――故に、己は強い。いや、おそらく、強いのだろうと、ネテロは己を評価する。
その証拠に、気力漲る全盛期と比べれば僅かばかりの衰えを自覚していた(周囲は認めなかった)が、その実力を疑う者は誰もいない。そして、未だ己は誰にも負けていない。
だからなのか、何時しか己を慕う者が周囲に集まって来ていた。また、その実力に惹かれた幾人もの武道家が彼の下を訪れ、指南を願う。アイザック・ネテロとは、それ程の武道家なのだ……そう、ネテロは己を客観視していた。
(……情けねぇ話だ)
だが、ここにきてネテロは思うのだ。
(たかだか数十年負け知らずが続いた程度で頂点に至ったと……ネテロよ、お前は何時からそんな戯言を受け入れるようになっていたんだ?)
心のどこかで、己はもう挑戦者ではなくなったのだと自惚れていたのではないか、と。
その証拠に、見ろ。今の己が心の沸き立ち具合ときたら、なんだ。好敵手……否、己を何時でも殺せる程の相手が存在していることに、隠しようがない喜びを抱いている。
ああ……度し難い。お前はどこまでも武人であって、人の上に立つなんてしたくない挑戦者でいたかったのか。本当にどうしようもないやつだと……そう、ネテロは己に告げる。
そして、同時に気付いたことがある。
もしかしたら、こうして拳を振るう言い訳すら、体の良い言い訳なのかもしれない、と。
己が本当に望んでいたのは、周囲から尊敬の眼差しを向けられる環境ではない。今、この場におけるような……死力を尽くしても勝てないであろう相手に全力を出す、この瞬間なのではないか、と。
……否定は出来ない。だが、未曽有の混乱を防ごうという思いもまた、否定出来ない。
そう、ネテロは己を納得させた。
……。
……。
…………言っておくが、此度の戦いの当初、ネテロはそんなことを微塵も考えていなかった。当初のネテロの中に有ったのは、懺悔の気持ち。そして、後悔の二文字、ただそれだけであった。
なぜ、そう思っていたのか。それは、ネテロが彼女へと吐露した内心の通り。今回の件もそうだが、元を正せば全ては己の短慮が招いた結果であると考えていたからであった。
彼を知る誰もが、それは違うと口を揃えた。誰もが、自己責任だと彼の罪悪感を否定した。だが、ネテロ自身はそう思っていないし、自己責任などという簡単な言い訳で己を許すことはなかった。
以前、『他人も自分も無理難題を強いて、苦慮しつつも突破してゆくことに喜びを抱く困った性格』だと、ネテロは知り合いに評されていた。ネテロ自身、それは的を射ていると考えていたし、否定もしなかった。
だが、ネテロにとって、その中にある『他人』とはずばり、『実力を評価した他人』だ。間違っても堅気の相手……己のように武(裏)の世界を生きるわけではない、ただの一般人を巻き込むつもりは毛頭なかった。
――なのに、気付けばこの有様だ。
思わず、ネテロは己自身に苦笑する。
あの大地に足を踏み入れた、それ自体に後悔はない。だが、己の不用意な発言によって、いったいどれだけの命が失われたのか、どれだけの未来を奪ってしまったのか。
思い上がりと言われれば、それまでだろう。おこがましいと言われれば、それまでだろう。そう、ネテロは思う。
しかし、ただ足を踏み入れること。それすらも、過ちだったのだろうか。堂々巡りの葛藤は、何時になっても消えやしない。
――それを考えるたび、苦々しい思いに胸が痛むのは……所詮は、偽善なのか。
あるいは、もっと別の、ネテロ自身でも分かっていない何かなのか。今に至ってもまだ、その答えを出せては……いや、止めよう。今はまだ、そんなことを考える時ではない。
己が頬を叩いたネテロは、雑念を振り払う。
此度の相手は、それこそ決死の覚悟を以て挑まねばならない難敵なのだ。余計な雑念は、ただただ不利にしかならない。相手がこちらを殺す気がないとはいえ……そう、あの怪物は、こちらを殺そうとしていないのに、だ。
悲しいことだが、ネテロ程の実力者ともなれば分かってしまうのだ。
相手の攻撃に敵意がないということが。攻撃をぶつけるたびに感じ取れる、こちらを気遣おうとする意志。出来ることなら傷つけたくないのだという、優しさが……嫌なほどに伝わって来てしまう。
……はるか高みから見下ろされている。
言われずとも察せられる事実に内心、屈辱感を覚えていなかった……というのは、嘘になる。武に心血を注ぎ続けてきたネテロからすれば、手加減をされているというのは……堪え難い侮蔑に他ならなかった。
(やり難い相手だ……せめて、殺意なり敵意なりをぶつけてくれればまだ、良かったんだけどな)
だが、ネテロはそれを相手に……小さき怪物に向けようとは思わなかった。
何せ、此度の件はネテロが一方的に吹っかけたモノだ。1から10までこちらの都合であって、相手には何ら落ち度はない。むしろ、争いを避けようとしていた言動を考えれば……と。
――岩石の小山が、爆発した。
いや、そうではない。爆発したのではなく、内側から跳ね除けられたのだ。大小様々な岩石を避け、時には払い除けつつ、ピンピンしている小さな怪物がのそのそと出て来るのを見やったネテロは……構える。
角を生やしたその怪物はネテロを見やるが、気に留めた様子はない。警戒か、それとも別の思惑か。油断することなく、ぺっぺっと唾を吐いているその姿を観察し続けたネテロは、心の中で舌打ちをした。
手応えから想定していた事ではあるが、やはりダメージは無さそうだ。ある程度分散されたとしても、その身に圧し掛かった重量は軽く見て数百トンに達していたというのに、まるで堪えた様子が見られない。
(こりゃあ軍事レベルでの兵器をぶつけても殺しきれんかもな)
心の中で、ネテロは眼前の怪物の強さを、そう評価した。全てにおいて、ネテロの知る生物のソレではない。さすがは暗黒大陸出身なだけはある、ということなのだろう。
……暗黒大陸出身じゃなければなあ。
一瞬、そんな思いを抱いたネテロは、反射的に己が頬を両手で張った。きょとん、としている小さき怪物の視線を他所に、ネテロはそのまま二度、三度と己が頬を叩き……揺れるなと、己を叱咤する。けれども、どうしてもネテロは思ってしまう。
この小さき怪物が、暗黒大陸出身でさえなければ。
出会えた場所がここではない、あの大陸の中であったなら。
人に危害を加え、食欲のままに捕食する怪物であったなら。
おそらく、己は何の憂いもなく全力を出していただろう。この小さき怪物は迷惑そうな顔をするだろうが、それでもなお……清々しい思いで拳を振るっていただろう。
しかし、悲しい事だが現実は全てがネテロの願いとは逆を行ってしまった。
この小さき怪物は暗黒大陸出身で、出会えた場所がよりにもよって人類の生息圏で、人に危害を加える気も悪意もない。ただ、迷い込んできただけ……ただ、それだけ。
(やれやれ、何事も思うように動かないのが人生……というやつか)
けれども、やらねばならない。それが、ネテロなりのケジメであるから。
(奥の手を使うか、否か。伸るか反るかの一発勝負、通じる可能性は万に一つ以下だが、直撃すれば、あるいは……)
胸中より湧き起こる久方ぶりの闘争心に目を向けつつも、ネテロは改めて……小さき怪物を前に構えたのであった。
……。
……。
…………そんな、世界最強と一目置かれているネテロの葛藤を他所に、ぴんぴんした様子で岩石の山から出てきた彼女はというと。
(ん~、やっぱりどう攻撃されたのかが見えないなあ)
相も変わらず、余裕綽々であった。
いやまあ、自ら集めた岩に押し潰された時は多少なりとも驚きはしたが、そこは鬼の頑強さ。こんなもんかと圧し掛かる岩石を跳ね飛ばし、口内に入った砂埃を吐き捨てると、改めてネテロを見やった。
……油断なく構えるその姿は、まさしく武人であった。
シャツの胸元に描かれた『心』の文字が、実に似合っている。たぶん、本人にとっては譲れない信念のようなものなんだろうなあ……と思いつつ、さてどうしたものかと彼女は思案する。
(私を近づけさせないようとする辺り、頑丈さはそうでもないってのは確定かな?)
『伊吹萃香』の部分が、何となくではあるが理解する。と、同時に、これまでの攻防(というには、些か一方的ではあるが)から、あの見えない攻撃に対して推測出来たことが一つある。
それは、攻撃の威力。『伊吹萃香』の目を以てしても捉えられない何かであると同時に、その威力を加減することが出来ないのではないか……ということ。
まだ確信を得たわけではないが、何となくそう思う。角度や方向の違いから分かり難いが、どうも……威力が一定しているというか、同じ力加減な気がする。
しかし、そんなこと有り得るのだろうか。というか、そんなことをする意味があるのだろうか。ほとんどダメージを与えられていないというのは、ネテロも分かっているはず。それを続けた所で事態が悪化することはあっても、好転しないのも……分かっているはずだ。
(ん~、何かを企んでいる……ようには見えないなあ)
奥の手があるのか、それともたまたまなのか。それは彼女にも分からない……というかまあ、考えた所で意味の無いことだ。
(どちらにしても、下手に当てて死なせるのは忍びないなあ……)
それよりも、と。予想はしていたが改めて直面する問題に目を向けた彼女は、はてさてどうしたものかと頭を悩ませる。
今の岩石もそうだが、生半可な攻撃ではダメージは与えられないのは分かった。しかし『溜め』を作れば、その一瞬の隙を突かれて……先ほどのようになってしまう。
ならば他の技を……と考えてみる。けれども、すぐに彼女は首を横に振る。
繰り出す拳の風圧すら致命傷になりかねない、この腕力のせいだ。どれもこれも、人間を相手に使うには威力が強すぎる。かといって、腕力を必要としない術ならばと考えてみるも、そっちの方もヤバいことに思い至って軽く頭を抱えたくなる。
色々な技を持つ彼女(というか、『伊吹萃香』)だが、山のように積まれた鋼鉄を瞬時に熔解させる吐息や、地中奥深くより引っ張り上げたマグマをぶつける術なんて、その最たるモノだ。
直撃すれば、同族の鬼ですら即死させる威力を持つ『伊吹萃香』の術。いくら鍛えているとはいえ、人間の脆い身体なんぞ……一瞬で炭と化してしまうだろう。
(弾幕……いや、これは駄目か。普通の人間ならこれでいいけど、こいつみたいな相手には何万発ぶつけてもダメージ無さそうだものなあ……)
――『弾幕』。
それは、『伊吹萃香』を含めた東方Projectキャラには、ごく標準的に備わっているというか、使用されていた能力の一つ。『スペルカードルール』と呼ばれる特殊な決闘法の際に用いられた、非殺傷の攻撃技であった。
非殺傷と呼ばれるだけあって、この弾幕には大した威力はない。元々が『淑女同士の遊び』と呼ばれ、『より美しく華やかな弾幕を張った者が勝つ』と揶揄されたぐらいなのだから……威力の程はお察しである。
まあ、中には触れるだけで死を招く蝶だとか、山一つ焦がしかねない炎の不死鳥だとか、晴天を貫いて彼方まで届く光の砲撃だとか、大地震を起こしかねない要石だとか、非殺傷とはいったい、と首を傾げそうなモノも……話を戻そう。
(……やっぱり、時間は掛かるけど余計なことはせず、程々に疲れさせたところを気絶させてトンズラする……しかないかな)
結局の所、彼女は消極的な決断を己に下すと、それに従ってネテロへと飛び掛かる。当然、ネテロも先ほどと同じように不可視の何かによって迎撃し、彼女の身体は再び真後ろに……戻されたが、そこからが違った。
彼女は、回転する己を、地面に足を打ち込むことでその場に制止した。けれども、今度は向かわない。ピクリと、これまでと違う動きにネテロが身構えたが……その時にはもう、彼女は準備を終えていた。
――『百鬼禿童』!
使い方は、もう分かっている。意思に応じて術が発動すると同時に、彼女を中心にして霧が立ち込める。と、同時に、霧から飛び出したのは伊吹萃香……彼女であった。
正式名……鬼群『百鬼禿童』。
百鬼と名付けられた通り、彼女をそのまま百体まで分身させる術である。この術は伊吹萃香を象徴する術の一つであり、その一体一体が本体と同等という、恐るべき代物であった。
つまり、分身である彼女たちには分身に有りがちな、攻撃されたら消えるとか、本体よりも弱いといった弱点はない。言い換えれば、伊吹萃香がいきなり増えたと同じであり、霧の中から飛び出すその数は瞬く間に30へと達した。
「なんとっ!?」
これには、百戦錬磨のネテロも驚きに手を止めた。ネテロは、気付いたのだ。眼前にて分身した彼女が……文字通り、そのままに彼女自身がそのまま分身したのだということを。
「殺さないようにしてあげるから、あんまり抵抗しないでよ」
そう言うと、彼女は……いや、彼女たちは一斉に走り出した。向かう先は……世界最強と名高い武道家。
「――上から物を言ってんじゃねえぞ! ガキがっ!」
狼狽したネテロであったが、さすがというべきか。瞬時に我を取り戻すと、再び彼女の目を持ってしても確認出来ない……不可視の攻撃を繰り出し始めた。
それは、何とも凄まじい光景であった。弾き飛ばされた彼女たちが四方八方へと飛んでゆく。ある者は地面を数十メートルと転がり、ある者は地面の中へと陥没し、ある者は空高くへと。
その勢い、破壊力、連打はこれまでの比ではない。どうやら、様子見していたのは彼女だけではなかったようだ。凄まじい爆裂音と共に四方八方へと跳ね飛ばされる彼女たち。一見すると、ネテロが優勢に見えるだろう。
――だが、傍目には分からなかったが、状況はあまりにネテロに不利であった。ネテロもそれを認識しており、早くも現状がジリ貧に成り掛けているということも、はっきりと認識していた。
というのも、現在、ネテロが使用している念能力は、
この百式観音の姿は、その名の通り観音様であり、大きさはおおよそ20数メートル。発動と同時にネテロの背後に出現し、決められたパターンに応じて相手を打撃するという単純なもの。
その威力は、ネテロが持つ幾つかの念能力の中でも最大級である。加えて、弾丸のように迫り来る彼女の初動を上回る速さで迎撃出来るという強みのおかげで、ネテロは傍目からは優勢を保っているように見えている……というわけであった。
だが、言い換えればそれは、これ以外ではネテロを以てしても、彼女に対抗できないということ。今、ここで僅かでも手を緩めて別の能力を発動させようとしたら最後、彼女の接近をネテロは許してしまうだろう。
――そうなれば、負ける。
悔しい。とても悔しいが、互いの実力を考慮したうえで判断したそれが、客観的な結論であると同時に、ネテロの正直な結論でもあった。
正確な攻撃力は不明だが、先ほどクレーターを作った光景から考えれば、相当な破壊力を持つ攻撃が可能なのは明白だ。避けられるかも不明だが、少なくとも直撃すれば致命傷になりかねない威力だ。
故に、ジリ貧なのだ。しかし、それでもネテロの気力は微塵も損なわれなかった。
百式観音による、マシンガンのように放たれる不可視の連打。これによって、辛うじて戦況は均衡している。事実、彼女たちは誰一人ネテロへの接近は許されず、未だ20メートルの境目を越えられないままに留まっていた。
だが……それも時間の問題であった。
少しずつ、ほんの少しずつではあるが、時間の経過と共に、徐々にその距離は縮まりつつあった。それは何故か……ネテロの息があがった……いや、違う。百式観音が放つ返し手を間違えた……それも違う。
答えは、一つ。それは、人知れず彼女が、己が分身の数を増やしているから、であった。
そう、彼女が分身出来る総数は最大100体。様子見していたのは、お互い様。一体、また一体とその数が足される度に、少しずつ……少しずつ、ネテロの防御は崩され、包囲網が狭まり始めていたのだ。
例えるなら、今のネテロが陥っているのは鍔迫り合いだ。それも、負けることが確定している、分の悪い我慢比べ。一度でも最善手を外せば窮地に至るという、凄まじい状況であった。
――だが、しかし。
(……へえ、ここで笑うのか)
そんな危機的状況においてもなお……気づけば、ネテロは笑っていた。緊張のあまりではない、不敵な色合いを帯びているその笑みを前に、彼女は鼻を鳴らした。
何というやつだ。本心から、彼女は思った。
何という男だ。本心から、彼女はネテロという男を改めて尊敬した。
やけになっているわけではない。かといって、諦めて気が触れているというわけでもない。この男は、何一つ攻撃が通用していないというこの状況においても……勝つと、本気で思っているのだ。
その命が燃え尽きる瞬間まで足掻いて足掻いて足掻き続けることを良しと決めた……武に全てを捧げている者だけが見せるモノ。それは正しく不退転の笑み。『伊吹萃香』としての部分が、その笑みの意味を正確に汲み取っていた。
――だからこそ、彼女は改めた。そして、己を戒める。
疲れさせるなんていう消極的な決着は、彼の決意と覚悟に対する不義であると。この場合において彼に見せられる敬意は『傷つけない』のではなく、全てを受け止めるべきなのだということを……彼女は悟った。
ネテロもまた、複雑な胸中であるのは彼女も察していた。だが、それでもなお全力でぶつかって来ているのだ。一方的に売られた戦いであるとはいえ、生半可な気持ちで返すのを……彼女は、良しとしなかった。
――だからこそ、彼女は術を止めた。
目線一つで、50にも達していた分身が一斉に消える。まるで蜃気楼のようにゆらりと溶け込んで見えなくなれば、後に残されたのは訝しむネテロと、仁王立ちする彼女だけであった。
ほんのりと、ネテロの顔が汗ばんでいるのが彼女の目に映る。まあ、無理もない。一発でも当たれば即死の攻撃を、数十分にも渡って耐え続けたのだ。むしろ、それでも息が切れていないことに何度目かになる称賛の念を抱く。
直後――彼女は、力いっぱい踏み込んだ。
それは、これまで彼女が見せていた手加減など一切ない、全力の踏み出し。地面を陥没させて迫る彼女を前に、ネテロは再び不可視の攻撃……『百式観音』による迎撃を試みた……が。
――止まらなかった。
それまで、ダメージこそないものの、木の葉のように飛ばされていた小さな身体が、ビクともしない。まるで、見えない鉄鋲を大地に打ちつけているかのよう。
これまでとは違うのだと瞬時に悟ったネテロは、畳み掛けるように攻撃を連続する。だが、それでもなお彼女は止まらない。その歩調を僅かなりとも遅らせることすら、叶わない……と。
その歩みが、唐突に止まった。
止まった場所は、『百式観音』の射程内……で、あると同時にそこは、余裕を以てネテロを仕留められる彼女の射程内でもあった。
「…………」
「…………」
無言のままに、ネテロと彼女の視線が交差する。常人ならば、その場に張り詰めている闘気に触れただけで気絶する程の緊張感。気づけば、風すら固唾を呑んで動きを止めている。
そんな……中で。最初に動いたのは、彼女で。
どんな攻撃をされても倍返しにしてやろうと、それまで以上の闘気を反射的に漲らせたネテロを他所に、彼女は悠然と……あくまで穏やかに、そっと……ネテロへと、手招きをした。
――その瞬間、ネテロは動いた。
ぶちり、と。己の中で何かが切れる音を、ネテロは聞いた。早まってはならないと頭では理解していたが、もう遅かった。気づいた時にはもう、ネテロは己が奥義を……奥の手を発動させていた。
――あと、50年。
それだけ齢を重ねていたら、ネテロはこの時点で踏み止まっていただろう。いや、それどころか逆に挑発の一つはやってのけただろう。だが、ネテロはまだ若かった。
それは齢が、という意味ではない。武道家としての性根が、ある意味では純真なままだったのが悪かった。と、同時に、挑発をした相手というか、タイミングというやつがあまりに悪かった。
こと、ネテロは武に関しては幼子のように純真で有り過ぎたのだ。己をここまで導いた武に対し、正気を疑うような恩返しに没頭し続けていたぐらいに、ネテロは武というやつに骨の髄まで浸っていた。
だからこそ、ネテロは我慢出来なかった。全力を以てしても敵わない相手から、子ども扱いされるということが……いや、むしろ子ども扱いされているならまだ、マシであった。
ネテロは海千山千という言葉では到底収まらない、様々な経験を積み重ねてきた武道家だ。格下扱いされたとて、それも当然だと笑い飛ばすだけの器は持ち合わせている。
だが、それ以下とされてはさすがに武道家としての矜持が許せない。しかも、相手が意図的にそうしたのならともかく、無自覚なのが余計に腹立たせた。
己の考え過ぎだというのは、分かっていた。だが、己が生涯を掛けて打ち込んできた『武』を虚仮にされたように思えたネテロは、我慢ならなかった。
――音速を超えた光速にも近しい速度でネテロが行ったのは……合掌であった。
それは、『百式観音』を発現し、発動する為の所作。己をここまで導いた全てに対する祈りを受けた『百式観音』が、その姿を見せたのは……小さい怪物の背後。
ふわり、と。
それまで大地を砕き、岩石を削り、数十体にも至る彼女を蹴散らし続けた観音の両手が、彼女の身体を包み込む。その手はまるで幼子を撫でるかのような、慈愛に満ちていた。
見えなくとも、何かをされたのは彼女も分かっていた。だが、気付いた時にはもう、遅い。光が……視界全てを覆い尽くす。あっ、と彼女が思った時にはもう、彼女の姿は光の中へと消えた。
――轟音が、大地を叩いた。
サングラス越しでも目が眩むほどの光が、滝のように降り注いで大地を削ってゆく。その光の中に取り残されている彼女がどうなったのか、誰もが確認出来ないまま、光の放流は十秒、二十秒、三十秒と続いてゆく。
光の正体……それは、慈愛溢れる両手によって身動きを封じられた彼女の頭上より降り注いだ、『百式観音』による無慈悲の放光。すなわち、ネテロの生命力を凝縮して放たれる、渾身のエネルギー弾であった。
その威力は、これまで続けていた攻撃とは根本から異なっている。地面を融かす高熱に、鉄をも凝縮する圧力に、戦車すら粉々にする破壊力。
それらがまるで洗濯機の中のハンカチのように縦横無尽に跳ね回り、その中に取り残された相手を塵一つ残さず消滅させる。当然、中に残された彼女とて例外ではない。
この技を知る者ならば、誰もがそう思ったことだろう。
ネテロも、同様だった。手応えから彼女が、無防備なまま己の必殺の一撃を受けたのが分かっていたからで……仕留め損ねたとしても、相当なダメージを負うとネテロは想定していた。
「……っ」
体力、精力、活力。ありとあらゆる全ての力を『百式観音』に送り込み、それを一点に集中して解き放つ、文字通りの奥の手。放光はまだ続いていたが、それよりも前にネテロの膝が崩れ落ちるのが早かった。
生命力を一気に注ぎ込んだ反動だろう。鍛え込まれ丸太のように太かった手足は一回り細くなり、年齢と比べて若々しかった顔立ちは年相応……いや、それ以上に年老いたものへと変貌していた。
もはや、ネテロはまともに立ち上がることすら出来ない程に疲労困憊となっていた。普通ならそのまま気絶したとて不思議ではないが、そこは世界最強。平時とほとんど変わらないぐらいの意識を保ち、結果がどうなるのかを固唾を呑んで見つめていた。
……徐々に光が収まってゆくまで、数十秒。
放光が収まり、再び辺りに静けさが戻り始める。彼女を包み込んでいた両腕を消滅させている『百式観音』が、緩やかにその姿を消してゆく、その傍で。座り込んだネテロの目に映ったのは……ほとんど無傷のままでいる彼女であった。
さすがに身に纏っていた衣服は無くなっていて全裸となっていたが、その身には火傷一つ、傷痕一つなかった。両手と腰に巻かれた鎖(と、その先のやつ)も無事で、身体と同じく傷一つ付いていなかった。
(零すら、駄目か……っ!)
心の中で、ネテロは悔しさに臓腑が焼かれる思いであった。『百式観音・零ノ掌』。今しがた放った奥義の名であり、一発撃てば身動き出来なくなるほどに消耗する。それ故に、この技は文字通りの必殺技。さしものネテロも、まさか無傷で終わるとは思っていなかった。
「ああ、吃驚した」
呆然としているネテロを他所に、当の彼女は気楽な様子であった。己が受けた攻撃を、攻撃とすら認識しないまま、のそのそぺたぺたと素足のまま放光によって出来た穴から出て来て……ネテロの眼前にて立ち止まった。
……ネテロも、彼女も、何も言わなかった。
だが、その意味合いは全くと言っていいほど異なっていた。ネテロの方は、死を想起したのか、あるいは過去を振り返ったのか。敗者となったネテロは何も言わず、黙って勝者が成すことを受け入れていた。
……きっちり白黒つけないと駄目だよね。
それが、ネテロに対する礼儀である。そう思った彼女は、ゆるやかに振り上げた手でネテロの頬を張った。ばん、と鈍い音を立てて、ネテロの身体が数メートル程転がる。起き上がることすら出来ないが、それでも鋭く睨みつけて来るその姿を見やった彼女は……心から、ネテロを称えた。
「あんたは、凄いやつだ」
「……はっ、嫌味か?」
「違う、私は本心から思っている」
べっ、と。鮮血混じりの唾を吐き捨てたネテロに、彼女は首を横に振って答えた。
「鬼の中でも最上位に位置する酒呑童子こと、この『伊吹萃香』を前に、一歩も退くことなく戦い続けた……私は、心からあんたを凄いと思っている」
だからこそ……彼女は屈んで、ネテロと目線を合わせてから告げた。
「私は、あんたの難敵にはなれない。何故なら、お前は優しいやつだからだ」
「なに?」
「『伊吹萃香』である私には分かる。お前の攻撃の一手から伝わって来たのは……敵意じゃない。お前は、命がけの戦いの中でも、自らに問い掛け続けていたのだろう?」
「…………」
「それが何なのか、私は聞かない。それはきっと、お前が自分の中でケリをつけなくては駄目なやつなんだと思う。だから、私は聞かない。私だけは、聞いちゃ駄目なんだ」
――そのうえで、私は言おう。そう続けた彼女は、屈んでいた目線を戻し……ネテロを見下ろした。
「お前は――まだ、死んでは駄目だ。お前の死に場所は、ここじゃない」
「……お情けで生かさせてもらったうえで、後始末をしろってか?」
「そうだ、惨めでも何でもいい、お前は生きろ。数多の人々と出会いに導かれてこの場にお前がいるように、お前の存在がまた、数多の人々の出会いとなるんだ」
「……ワシが、出会い、と?」
「こうして私とお前が出会ったのもまた、その結果だよ」
そう言い終えた辺りで、唐突に彼女の輪郭がぶれた。いや、ぶれたのではない。彼女は、自らを霧に変えたのだ。それはまるで水に溶ける砂糖のようで、瞬く間に彼女の身体は白い靄へと形を変え、風に流れる様に散らばってゆく。
――私に名はない。だが、私に名があるとしたら、『伊吹萃香』という名が一番近しいのだと思う。だから、私のことは『
既に、彼女の全ては霧となって見えなくなっていた。だが、声だけは聞こえる。ネテロの耳に、彼女の声ははっきりと聞こえていた。
「――ネテロ。アイザック・ネテロだ」
だからこそ、ネテロは名乗り返した。
――アイザック・ネテロ……覚えておくよ。
――何時かまた、この世界の何処かで出会えた時。その時、もしもお前が答えを見つけたうえで、私に挑むというのなら。
――その時は、お前の望む通りに……全力で相手になるよ。
――でも、先に言っておくが私は戦うのは嫌いじゃないが、好きってわけでもない。出来ることなら、のんびり平穏に過ごしていたいんだ。
「負けたのはこっちだ。こっちとしても出来る限り、お前が平穏に過ごせるようにはしておく。だが、お前が不必要に目立つようなことをすれば……」
――その辺は分かっているさ。まあ、世界征服とか金銀財宝とか全く興味ないし、私は酒飲んでのんびりしているだけで十分さ。
……。
……。
…………その言葉が、最後であった。
既にこの場を離れたのだとネテロが気付いた時にはもう、彼女の気配は欠片も感じ取れなくなっていて。後にはもう、己だけが残ったのだという事に思い至ったネテロは……ぱたり、と。投げやりな感じで、その場に大の字になると。
「世界は広いなあ……ワシが、まるで手も足も出せぬとはなあ」
久しぶりに、基礎からやり直すか。そう、誰に言うでもなく呟くと。
「……まあ、人もそこまで馬鹿じゃああるまい」
成るように成るさ。そう言い残すと、ネテロは静かに……意識を手放したのであった。
……この日、暗黒大陸より来訪したとされる知的生命体は彼らの前から姿を消した。表向きは『搬送途中にて突如凶暴化したので鎮圧しようとしたが、その最中に自爆して消滅した』という理由であった。
当然、後日になって方々より抗議やら何やらの声は上がった。特に大きかったのは、通称『V5』と呼ばれている五つの国家からのものであったが、その声もすぐに鎮静化することとなった。
各国は消耗した(全力を放出したことで、一時的に見た目が年老いた)ネテロの姿と、現地の戦いの跡を見て、ハンター協会が隠したのではないと判断したからだ。
各国は、ネテロがどれ程の存在であるのかも熟知していた。そのネテロがそうまでなったのだから、不用意な接触なり何なりは危険。最悪、災厄がこちらに向かいかねない。強引に探っても、余計ないざこざを生み出すだけでなく、他国に借りを作りかねない。
外交的な意味での後々の影響を考慮した結果、各国は『暗黒大陸より来訪した知的生命体は死亡し、その亡骸も消滅した』と足並み揃えた結論を出し、その存在をなかったことにして蓋をする。この間、わずか3か月の出来事であった。
――首の皮一枚。ワシが思うよりも、人類は聡明だったのだろう。
それからさらに、数年が経った後。ハンター協会の会長室にて、そう愚痴を零したネテロが居たとか居なかったとか……それを知る者は、ごく限られた者だけであった。
強引なオチ、嫌いじゃない。次は年数飛ぶよ