伊吹萃香もどきが行く   作:葛城

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最近、憑依系の数が減ってんよ~
こうやって書いているからみんなも触発されて書いてくれよ~書くのは怖くないぞ~頼むよ~



うちも、やったんだからさ?


第六話:全うする御老人と鬼娘

 

 ――ちっちっちっち。

 

 どこからか聞こえてくる鳥の声。学者が聞けば目を剥くぐらいに貴重で目視すること自体がごく稀な鳥が近くにいることを表していたが、この場においてのそれは耳障りでしかなかった。

 

 大男……ウボォーの放った超破壊拳(ビッグバン・インパクト)によって生まれたクレーターより、距離にして5kmほど。悠然と広がる森林を少しばかり入った先にある湖の(ほとり)にて、老人を背負った女が足を止めた。

 

 女は、町中でもそうは見掛けない立派な体格であった。ただし、それは女性的な意味合いではない。辛うじて、胸元が体格に見合うだけ大きく膨らんでいなければ、女性だとは誰も思わなかっただろうということで、察してほしい。

 

 その顔立ちは、男性として見れば美男子と評して差し支えない。言い換えれば、女性として見るには勇まし過ぎる。衣服から伸びた手足は太く、筋肉に覆われているのが傍目からでも分かった。

 

 加えて、女は恰好が少々変わっていた。約3m近い長身とは不釣り合いな、ゴシックロリータを思わせる衣装。似合っていないわけではないが、似合っているとも言い難い。

 

 そんな女は周囲を警戒するように周囲を見回し、湖を見回し、もう一度辺りを見回し……軽くため息を零すと、背負っていた老人をその場に降ろす。

 

 唇と胸に手を当て、呼吸と心音に異常がないことを確認すると、女はゆっくりと脱力した……その、直後。女に、明確かつ顕著な変化が現れた。

 

 具体的には、女の背丈が縮んだのだ。いや、背丈だけではない。それはまるで、大人から子供に若返るかのように、骨格そのものが小さく細く、頼りないものへとなってゆく。

 

 そうして、時間にして数十秒ほど。縮み続けていた背丈が止まり、細く短くなり続けていた手足の縮小が治まった後。その場に残されたのは……金髪のゴシック少女、ビスケット・クルーガー、その人であった。

 

 大きく息を吐いて、己が肉体の様子を確認する。何ら異常が見られないことを確認し終えたビスケは、次いで、横たわった老人の衣服を脱がす。いや、それはもう脱がすというよりも、破くと言う方が正しい。

 

「うっ、うう、う……」

「下手に喋ろうとするんじゃないわさ」

 

 喘ぐ老人の苦悶の悲鳴を、ビスケは一喝して黙らせる。露わになった老人の腹部は、真っ赤に染まっていた。それは、背中まで貫通した傷であり、あのテント内にて行われた虐殺……死を免れる代わりに刻まれた、切り傷でもあった。

 

(……辛うじてだけど、致命傷は免れている。半数以上が即死しているのに、運の良い……いや、違うわね)

 

 これは、わざとそうされた傷だ。おそらく、殺される同僚(あるいは、友人)の恐怖に怯える様を見せつける為に。それを理解した瞬間、ビスケは思わず舌打ちをし……らしくない己の行動に、苦笑した。

 

(まあ、そのおかげでこいつだけは助かったんだから、良しとしましょう)

 

 この老人は、依頼主である調査団の内の一人であり、調査団のリーダーを務めていた男だ。名は……確か、ボンド、ボンド博士だ。いちいち言動が悟った仙人みたいで気に食わない相手ではあるが、出来るなら死なせたくはない。

 

 それは、支払って貰う予定の報酬金がどうとか、依頼主云々がどうとか、今回の仕事で抱いている疑問の答えとか、そういうのは一切関係がない。

 

 ただ、真っ当に生きた人を、このような形で死なせたくない。自分のような荒事ばかりの世界ではなく、学問の道を進んできた者に対するある種の尊敬への、純粋な善意から来る感情であった。

 

 ――さて、と。

 

 傷口に顔を近づければ、吹き出す鮮血がビスケの頬に当たる。見ていて気分の良いモノではないが、見慣れてはいる。「――うっ、ぐっ!」傷口の傍を触られたことで老人……ボンドは歯を食いしばったが、我慢して貰う他ない。

 

(癪な話だけど、あいつ……殺しの腕は確かなようだわさ)

 

 やはり、鋭い刃物が原因の傷であった。刃物自体がよく手入れがされていたうえに、使い手の腕が色々な意味で良かったのだろう。躊躇いが全くないおかげで、内臓への損傷は最小限に留まっていた。

 

 しかし、言い換えれば最小限に留まっているだけの話であり、最小限とはいえ内臓は損傷している。これがビスケのように鍛え込まれた身体であったならばまだしも、ボンドは老人だ。けして、安堵してよい状態ではない。

 

 続いて、傷口に鼻を近づけ、スンスンと鳴らす。嗅ぎ取れるのは、血液特有の鉄臭さ。激痛によって生じた濃い体臭が交じり合っている。そのまま、ビスケは胸元、首元へと臭いを嗅ぎ、最後に食いしばった顎を無理やり開かせて口臭を確認し……ふう、とため息を零した。

 

(……異臭は無い。この手の類が毒を使うのは拷問に掛ける時ぐらいだから、毒の使用はないとみて間違いないわさ)

 

 とはいえ、無臭の毒なんて掃いて捨てるほどある。どんな毒が使用されているのか分からないうえに、こうも雑菌の溢れた場所では、下手に血を吸い取ることも出来ない。

 

 ……まあ、考え出したらキリがない。

 

 ひとまず、毒は使用されていないという前提でビスケは診察を続ける。横向きにして、背中の状態を確認。分かっていた事だが、貫通した背中部分からも出血していた。

 

 顔色を見れば、青白くはなっているが、まだ精気は残っている。脳内分泌された大量のアドレナリンによって、多少なりとも痛みが軽減しているのだろう。少しばかり呼吸が落ち着いているのを見やったビスケは……さて、困ったぞと目つきを鋭くした。

 

 現状、この場での輸血は不可能なので、兎にも角にも、まずは出血を止めなくてはならない。既に相当な量の血を流し、こうしている今も出血は続いているのだ。黙って見ていれば、いずれは失血死するだろう。

 

 ……だが、どうやって止める?

 

 圧迫による止血にしたって、限度がある。応急処置をするにしても、ここには道具がない。そういった治療設備や道具は全て、あのテントにあった。そして、そのテントは……あいつらによって破壊され、今はどこにあるのかも分からない。

 

 だから、現時点で使えるのは己の両手だけ。しかし、この場においては何の役にも立たない。近隣の村まで担いで戻る……駄目だ。この老体では、そこまでもたない。間違いなく、途中で命を落とす。

 

「……ボンドさん。私の声は、聞こえているわよね?」

「うっ、くっ、くっ……あ、ああ。聞こえているよ」

「単刀直入に言うわよ。今のあなたは死にかけている。そして、放って置けば確実に死ぬわさ」

 

 迷ったビスケは、ボンドに選択権を譲った。皺だらけの顔中に冷や汗と脂汗を浮かべたボンドは、食いしばった歯をわずかに緩ませ……ゆっくりと、目を開けた。

 

「ち、治療は、無理か?」

「設備も道具も、全部あいつらにぶっ壊されたわさ。今の私に出来るのは、一か八かに賭けてあんたを近隣の村へ運ぶか、それとも……ここで楽になるか。この二つよ」

「は、はは……それは何とも……素敵な選択肢、だ……。ちなみに、私が助かる……確率は、どれ……うっ、くっ……どれぐらい、だい……?」

「宝くじの1等を引き当てるぐらいかしら。言っておくけど、その出血量は気力や根性でどうにかなる問題ではないわよ」

「…………」

「楽になりたいなら苦痛一つ感じずに送ってやれるわさ……だから、選びなさい。このまま静かに息を引き取るか、足掻いて死ぬか、楽に終わるか。残された時間は、そう多くないわよ」

「…………」

 

 ボンドは、答えなかった。痛みに気絶した……わけではない。ただ、どう死ぬかの選択肢を前に答えあぐねているだけ。それを察していたビスケは、あえて問おうとはしなかった。

 

 このまま答えられぬまま静かに息を引き取っても、迷いに迷って足掻いてみても、苦痛から解き放たれたいと願っても、それがボンドの選んだ選択肢。それが、死に行く彼が最後に取れる自由である。そう思っていたからこそ、ビスケは黙ってボンドの答えを待った。

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………そして、時の流れのままに結果は訪れた。しかしそれは、ボンドの死ではなかった。ゴトン、と腹奥に響き、一拍遅れて地響きも辺りに広がる……強烈な衝撃であった

 

 地面を伝わる衝撃に、ボンドは呻き声をあげる。反射的に身構えたビスケも、ハッと顔をあげる。視線を向けた先にあったのは、一部が破損したコンテナであった。

 

 次いで、そのコンテナの上に乗っている者を見たビスケは……思わず、息を吐いて脱力した。何故ならば、コンテナの上にいたのは、『伊吹萃香』の身体を持ち、平凡な人間の『彼』を心に宿した……彼女であったからだった。

 

「ん~、そいつまだ生きてる?」

「……まあ、ぎりぎりってところよ」

 

 コンテナの中から取り出したのだろう。彼女は既にビール瓶を傾けており、赤ら顔になっていた。まあ、初対面の時からずっと赤ら顔だが……とにかく、だ。

 

「……ボンドさん、良かったわね」

 

 彼女からコンテナへと、コンテナからボンドへと、ボンドからコンテナへと。視線を行き来させた彼女は、腕まくりするかのように大きく両肩を回すと。

 

「幸運にも、1等宝くじを引き当てたかもしれないわよ」

 

 そう言って、コンテナの中に残っているかもしれない緊急治療用キットを探しに、コンテナの中へと漁りに行った。

 

 

 

 

 

 

 

 緊急治療用キットとは、その名の通り、直ちに医療行為を要する緊急事態において必要となる道具や薬品など一式を差す。主に危険地域などで使用されており、一般的にはあまり知られていない道具の一つだ。

 

 医療用キットは専用の箱や鞄とセットで販売されており、値段に応じて中身のグレードが変わる。見分ける方法は単純で、箱や鞄の表面にランクを表す数字が刻印されている。

 

 さて、幸運というべきか、それとも向こう見ずというべきか。あるいは、こういう事態を想定していたのか。

 

 それは調査団しか分からないので定かではないが、コンテナの奥にひっそりと納められたそれは、鞄型で……不幸中の幸いにも、上から数えて4番目ぐらいにはグレードの高いキットであった。

 

 ぱちん、ぱちん。手早く鍵を外して鞄を開けたビスケは、思わず苦笑する。最高級になると豪邸が建てられるぐらいに高いと揶揄されるだけあって、4番目でも中に入っている道具等一式は凄かった。

 

 掌大のサイズながら家一軒分の電気5時間分を賄う自家発電装置一式から始まり、小型心電図やレントゲン装置などの機械に、滅菌済み手術道具一式。各種栄養剤に点滴用溶液、麻酔薬、鎮痛薬、解熱剤といった基本的なものから、ヘロインなどの最後の安らぎまである。

 

 パッと目に止まっただけで、それだけの装備が揃っているのだ。もっと細かく探せば、解毒装置を初めとして、ろ過装置なんかも見つけられるかもしれない……が、今はそんなことに目をくれている暇はなかった。

 

「……こいつら、始めから踏み倒すつもりだったわね」

 

 生きていたら、ぶん殴ってやるところだわさ。

 

 そう呟きながら、ビスケはキットの中からスプレー缶を幾つか取り出す。それらは、吹きかけるだけで損傷部位の消毒と保護を行うだけでなく、副作用抜きで組織の修復を劇的に加速させるスプレーであった。

 

 まず、入り込んだ雑菌の消毒だ。スプレーを、一つ。指で傷口を開いてプシューっとした途端、「うっ、ぐう、ううう!」ボンドは激痛に呻き声をあげたが、分かっていたビスケは強引にその身体を押さえ付けた。

 

 このスプレー……効果は申し分ないのだが、とにかく痛い。表面的な傷口ですら、大人が悶絶するぐらいに痛い。ビスケも一度使用したことがあるので、その痛みはよく分かる。

 

 けれども、死ぬよりはマシだ。傷口を洗い流すのを兼ねて、一本分を丸々使い切る。ひとまず内臓の損傷部位からの出血が止まったのを確認すると、続いてビスケは傷口の縫合を行う。

 

 まあ、縫合といったって医者と比べるのも失礼な腕前だが、しないよりはマシだ。雑巾を縫うかのような雑さで縫合を終えると、隙間にもう一度スプレーを噴射する。「――ぎっ、ぐぅ、うううう!」びくんびくんと痙攣する身体を押さえ付けながら、ガーゼと包帯で患部を保護し……応急処置を終えた。

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………その、横で。

 

 ――ぐびり、ぐびり、ぐびり。

 

 流し込まれる酒の味に、喉を鳴らしている彼女がいた。喉を通ってゆくビールは、お世辞にも冷えているとは言い難い。まあ、割れて保冷剤が飛び散ったコンテナから引っ張り出した酒なので、温くなっているのは仕方がない。

 

 反面、景色は最高だ。さんさんと照りつける日差しの下。何処までも広がる大自然の中で飲むビールの、何と美味いことか。出来ることなら御つまみが欲しいところだが、まあいいかと彼女はビール瓶を空にし……大きくゲップを零した。

 

 よし、もう一杯。

 

 そう決めた彼女は、クッション材が敷き詰められた木箱(唯一破損を免れた貴重なやつ)から、新たなビール瓶を取り出す。元々、コンテナの中身の大半は『魔獣の餌』。食料も積んではいたが、酒類の数は多くない。

 

 おまけに、先ほどの大男……ウボォーと呼ばれていた、あの男の放った拳によってコンテナが破損している。保存食を初めとした飲料水は幾らか無事ではあったが、駄目になった量も多い。この場においては、これが唯一のアルコールであった。

 

「――あれ、飲まないの?」

 

 だから、彼女としては、だ。貴重な、彼女にとっては砂金にも等しいアルコールを分けるというのは、断腸の思いであって。嫌がらせでもおふざけでもなく、純粋な親切心から来る優しさであった。

 

「……あいにく、仕事中は飲まないことにしてんの。飲みたきゃ私の分も飲んでいいわさ」

「――マジで!? よっしゃあ! 今度何かあった時に力を貸してあげるよ!」

「まあ、厚意は受け取っておくわさ」

 

 なので、彼女にとっては酒を譲られるというのは、札束よりもよほど嬉しいことである。札束があれば、今しがた飲み干したビールが100本は買えるだろうと言われればそれまでだが、重要なのは酒を譲って貰えるということであるので、彼女にとってはコレで良かった。

 

 そんな、満面の笑みでビールを空にしてゆく彼女を見て、ビスケは思わず苦笑する。けれども、それは一瞬のことで。すぐさま冷静な眼差しで処置を終えたボンドを確認した彼女は……ようやく、息を吐いた。

 

 ――後は、この男の気力と体力だわね。

 

 安静にしていれば、とりあえず明日の朝ぐらいには動かしてもよい状態にはなるだろう。手に付いた血液を、キットの中に入っていた洗浄剤とコンテナの中にあった水で洗い流しつつ、ビスケは……天にこの男の生存を祈るのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 ……日が暮れて、3時間ほどが過ぎた。

 

 文明の明かりがまるで見られない危険地区の中では、夜にもなると文字通り足元すら確認出来ない暗闇に閉ざされる。ここに住まう獣たちであればまだしも、星々の明かりだけでは暗すぎる。

 

 月明かりで手元がどうとかなんて、所詮は漫画や小説の中の話でしかない。静まり返った湖面は確かに光を反射はするものの、元々が微々たるもの。雲一つない夜空の下とはいえ、大自然の中での実際は……全てが、暗黒であった。

 

(……綺麗だなあ)

 

 けれども、そんな闇の中。コンテナの上で仰向けになっていた彼女は、視界一杯に広がる星々の輝きを眺めていた。

 

 彼女が見惚れるのも、まあ無理のないことであった。何せ、彼女の自宅がある『メイドリック』では、こんな星空を見ることは叶わない。都市の明かりが強すぎて、星々の煌めきを跳ね返してしまうからだ。

 

 だからなのか、運び屋として遠出した際は、夜になるとついこうして夜空を眺めてしまう。時には酒を飲みながら、時には今みたいにただただ静かに、気のすむまで夜空を眺めて寝入ったことだって、多々あった。

 

 しかし、こうまで美しい夜空を見るのは初めてだ。大気の風向きの影響なのか、普段なら頼りないそれらの輝きが、まるで小さなスポットライトのように眩しく思える。

 

 ――ある意味、運び屋という仕事を続けている最大の理由が、これなのかもしれない。

 

 幾度となく思う事を、此度でも同じように思った彼女は、大きく息を吸って……濃縮された緑の匂いに混じる炎の臭いに、のそのそと這って……焚き火の前に座っているビスケの背中を見下ろした。

 

 まるで、そこだけが別世界であるかのような光景であった。ぱちぱちと、焚き火によって舞い上がる火の粉が煌めいて、夜の闇へと溶けてゆく。力強くもぼんやりと放射される光によって照らされたビスケの影が、コンテナに細長く映し出されていた。

 

 焚き火には、石とコンテナの一部(彼女が引き千切って作った)を組み合わせて作られた釜戸もどきが設置されている。炎の真上に物が置けるようになっており、今はそこに小さなヤカン(医療用キットの一つであり、本来は器具の消毒等に使用されるもの)が置かれていた。

 

 火に掛けてから、既に十数分。しゅしゅしゅと沸き立ち始めている。それを見て、もそもそもそもそと不味そうに固形総合栄養スティックを齧っていたビスケは、組み立て式のマグカップに湯を注ぐと、ヤカンを火の傍に置いた。

 

「――なんだわさ?」

 

 視線か、あるいは気配か。見られていることを、振り返ることなく察したビスケは、ココアの匂いを漂わせるマグカップの中身をかき混ぜながら、そのままの姿勢で尋ねてきた。

 

「別に、なんも。ただ、さっきはコンテナの中でゴソゴソしていたのに、今度は焚き火の前でしょ。いったい何してんのかなって思ってさ」

「さっきはボンドさんの点滴の取り換えと汗を拭いただけで、今はご飯を食べながら飲み物を用意しているとこだわさ」

「酒ならくれ」

「ザルも大概にしなさいよ、呑兵衛。ココアで良ければここにあるから、好きに使うわさ」

「もう少し美味そうに食べていてくれたら、私も食欲が湧くんだけどなあ」

「もう少しコレが美味かったら、私も演技が出来ていたと思うわさ」

 

 ずずず、とマグカップを啜ったビスケは、実に不味そうに顔を顰めながらも、もそもそとスティックを齧る。上から4番目に高いキットだが、同封してある食糧等は下から4番目といっても過言ではない酷いもので……ああ、だから上から4番目なのか。

 

 一人納得しつつ、ビスケはココアと共に胃袋へと固形栄養スティックを流し込む。ココアが、まだ飲める味で良かった。噛む度に嫌気が差すスティックも、何とか食える。

 

 まあ、そのココアすら平時であれば二度と飲みたくない代物だが……こんな状況だ。食えるだけ、有り難いとビスケは己を強引に納得させて……いるのが、背後の彼女からでも見て取れた。

 

(しかしまあ、この人も大概凄いやつだなあ……傷の応急処置に、点滴などの看護処置。手際よく爺さんの様子を確認しながら自分の食事も済ませ、かつ、周囲の警戒も怠っていない)

 

 向かうところ敵なしの完璧超人か何かだろうか。気の毒な結果にはなったけど、ビスケのような護衛を雇えた調査団……というか、ボンドという名前らしいあの爺さんは幸運だと、彼女は思った。

 

 実際の話、ボンドはビスケがいなかったら命を落としていたのは確実である。何せ、彼女が出来ることといえば腕力に物を言わせるぐらいで、せいぜい包帯を巻きつける程度しか出来なかっただろう。

 

 というのも、医療という世界において『伊吹萃香』の身体はあまりに不向き過ぎるからだ。辛うじて『彼』の部分のおかげで知識の習得だけなら何とかなるかもしれないが、結局はそれだけ。

 

 そもそもが、『彼』の部分にだってそういう素養はないのだ。注射器を持てば緊張して針を折ってしまうだろうし、包帯だって力を入れすぎて引き千切ってしまう。常に泥酔しているから、手元なんて狂いっぱなし。

 

 とてもではないが、ビスケのような傷口の状態を確認したり、応急処置をしたり、その後の点滴等の看護なんて彼女には無理だ。処置は手荒(なのかは、彼女には分からなかったが)というか容赦がないが、命を拾うためには仕方ないことなのだろうなあ……と彼女は思った。

 

「……あんたさ、どうしてあいつら逃がしたんだわさ」

 

 しばしの間、何をするでもなくぼんやりと小さい背中を眺めていると、ビスケはまた背中を向けたまま尋ねてきた。「あいつらって?」察してはいたが念のため聞いてみれば、「護衛に化けていたやつらだわさ」律儀に答えてくれた。

 

「あんたの実力なら、仕留めるなんて簡単でしょ? わざわざ殺さないでやつらを逃がして……どうして?」

 

 どうして……ふーむ。初めて問い掛けられる類の質問に、彼女は何度か小首を傾げた後……そうだな、と口を開いた。

 

「まあ、色々と理由はあるけど、私自身には殺す理由がないのが一番かな」

「向こうはあんたを殺すつもりだったのに?」

「丸めた新聞紙片手に襲い掛かってくる乳飲み子相手に、ビスケはいちいちナイフで応戦したりするかい?」

「……幻影旅団相手に乳飲み子扱いするやつなんて、世界広しといえどあんたぐらいなもんだわさ」

「げんえー……なにそれ?」

幻影旅団(げんえいりょだん)。構成員やその人数が一切不明、狙った獲物は絶対逃さず、腕利きのハンター(賞金稼ぎ)も返り討ちにする、危険度Aの盗賊団だわさ」

「ふーん……ん? 不明なのに、なんでビスケはあいつらが、その盗賊団だって思ったの?」

「そんなの、決まっているわさ。背中にお荷物があったとはいえ、マジになった私とまともにやり合えるやつらなんて、そう多くはない。手口から、相手がどんなやつらなんてだいたい予想が付くわさ」

 

 ため息と共にそう呟いたビスケは、残っていたココアを一気に胃袋へと流し込み、手を合わせる。そのまま、さっさと後片付けを始めるビスケへと……彼女は、密かに抱いていた疑問を尋ねていた。

 

「その幻影旅団ってさ、どっかのマフィアのお抱えとかじゃないよね?」

「……んー、私も詳しくは知らないから断言は出来ないけど、幻影旅団はそういった組織に属するようなやつらではなかったと思うけど……何でまたそんなこと気にするのよ?」

「私じゃなくて、私以外のやつらがすっごい気にするんだよね」

 

 隠すのも何だし、隠して欲しいとも言われていない。なので、彼女はビスケへと素直にマフィアとの関係や、現在における己の立場(の、ようなもの)を明かした。

 

 その説明を簡単に纏めれば、だ。ぶっちゃけ、彼女の現時点における立場と、マフィア同士の面子の兼ね合いという身も蓋も無い話であった。

 

 有り体にいえば、下手に彼女が他の組織(マフィア・コミュニティに属しているのが前提)の構成員、あるいは助人(スケット)を殺めると、彼女自身が望まない面倒事に発展してしまうのだ。

 

 いくら彼女自身が『気にしていないから』と宥めたとしても、マフィア側は兎にも角にも面子というやつに拘る。御咎め無しには絶対にならず、最悪……上の(その組織の幹部)が出て来て、襲撃した者の首と、幹部の小指を落としたりする話に進んでしまうのだ。

 

 これがまた厄介なことに、末端組織やその構成員ほど、そういうケジメを付けるのが早い。『メイドリック』にいるマフィア・コミュニティなら顔馴染みなのでなあなあで済ませられるが、ここみたいな田舎のマフィアになると、もう本当に面倒なのだ。

 

 例えば昔、運び屋としての仕事中に、色々な勘違いと行き違いから、マフィア・コミュニティに属する、とある組織から襲撃されたことがあった。

 

 彼女としては荷物も傷つかなかったし、襲ってきたやつらを全員拳骨で気絶させたのでそこで終わらせたつもりだったが……思っていたのは、悲しいことに彼女だけだった。

 

 というのも、襲われてから、わずか4時間後。仕事を終え、襲われたこともすっかり忘れて酒を片手にホテルでだらだらしていると……やって来たのは、襲ってきた組織の幹部たち。その手には、リボンの付いた箱。

 

 幹部全員の顔色は、その時飲んでいた白ワインよりも青白かった。まあ、その点については彼女はあえて触れなかった。最初は分からなかったが、雁首揃えてきたということから、何となく察したからだ。

 

 なので、最初は純粋に、コミュニティ上層部からお叱りを受けて菓子折りでも持って来たのかなと彼女は思った。ちょうどツマミが切れかけていた頃だったし、甘い物でワインも洒落ているじゃないかと思って、手渡された箱を満面の笑みで開けた。

 

 ――瞬間、その笑みは凍りついた。

 

 何故ならば、箱の中にあったのは菓子折りではなく……人の首。それも見覚えのある……というか、つい数時間前に彼女へと襲い掛かった、その人であったからだ。

 

 しかも、入っていたのは首だけではない。首の傍には蓋付きの小瓶が一つ。手に取って見やれば、中には指が入っている。小さく細いが、皺やら毛やらがあるのを見ると、おそらく……大人の小指だろうか。

 

 ……正直、ドン引きした。

 

 うわぁ、と顔を顰めながらも確認してみれば、その数は……6本。つまり、最大6人分の指がこの中に納められ……おや、何故だろう。眼前にて土下座する幹部の人数も6人。そして、彼ら全員の手には何やら包帯が巻き付け……いや、止そう。

 

 あまり気持ちの良い話ではないし、十分でしょ。そう言って、これ以上は蛇足だと話を打ち切った彼女は、深々と……それはもう深々とため息を零した。

 

「つまりは、さ。あいつらがどっかのマフィアのお抱えとかだったら、まーた首やら指やら手渡されるのかなあ……って思うと、ねえ?」

「……止めろって言えばいいじゃない。話を聞く限り、それで済む話でしょ」

「そうなると、それはそれで問題になるらしいんだよね。まあ、あっちがあっちなりのケジメをつけているのに、後からぎゃあぎゃあ文句を垂れるのも……ん?」

 

 不意に、ぽつん、と。鼻先に当たった冷たさに、彼女は目を瞬かせる。何気なく夜空を見上げれば、あれだけ輝いていた星々のシアターは一つ残らず消え去っていた。

 

 ――雨かな?

 

 どちらが先に、その言葉を呟いたのかは分からない。ただ、その言葉の直後に、二つ目、三つ目と雨音が聞こえ始める。こりゃいかん、と慌てた彼女たちが慌ててコンテナの中に入ってすぐ、雨音は立て続けにサイクルを早め、大地を濡らし始めたのであった。

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………非常用ライトに照らされたコンテナの中は、そう明るくはない。やろうと思えばもっと明るく出来るが、それはせず、あえてその明るさに留め、コンテナの中を薄暗い状態に保っていた。

 

 何故かといえば、理由は色々とある。例えば、コンテナの奥にて安静しているボンド博士の存在だ。とにかく安静にして貰わなければならないので、眠りを妨げないようにわざと薄暗くしているのだ。

 

 また、コンテナはその構造上、どうしても熱気がこもりやすい。さすがに酸欠に陥ることはないが、ここで昼間のように明るくなんてしたら、コンテナの中は蒸し風呂のような状態になるのは目に見えている。

 

 それ故に、コンテナの中は薄暗くされていた。ただ、その分だけ音はよく通った。

 

 コンテナに当たる雨音もそうだが、ラジオ(医療キットの付属品。救助要請の為の無線機として使うものだが、ラジオとしても使うことが出来るようになっている)のスピーカーから流れる音楽が、不思議と心地よく響いた。

 

 することもなくなった彼女とビスケは、自然と音楽に耳を傾けたまま横になっていた。大して広くはないコンテナの中だが、まあまあ寝心地は悪くなかった。

 

 そうして……そのまま、どれぐらいの時間が経ったのだろうか。時計を全く見ていない彼女には分からなかったが、ラジオ番組が三つほど終わった辺り、既に時刻は深夜に差し掛かる時間なのは間違いなかった。

 

「……誰か、水を貰えないだろうか」

 

 そんな時、不意にラジオの声を遮ったのは、今の今まで眠っていたボンド博士であった。

 

 むくりと身体を起こしたビスケが、ボンドを座位の姿勢へと変えさせる。ゆっくりと、咽ないように一口、二口、三口と喉を鳴らしたボンドは、ありがとう、と頭を下げて水を返した。

 

「……ビスケット君、依頼主として君に頼みたい仕事がある。私を、魔獣の下へ連れていってほしい。私が、そこまで案内する」

「あ、そう。仕事熱心なようだけど、街に戻る以外の仕事を受ける気はないわよ」

「……どうしてだい?」

 

 呆気に取られた。しばし虚空を見つめていたボンドは、意を決したように口を開いた。だが、「料金踏み倒すつもりだったでしょ?」ビスケは一切の迷いなく即座に拒否すると、それに……と話を続けた。

 

「調査機器も研究データも何もかもが無い中で、何を調査しようっていうの。ここにはパソコンはおろか、記録媒体は一つもないわさ」

「それは……」

 

 ビスケの発言は、尤もであった。

 

 現在、コンテナ内には研究に必要となる道具は何一つない。持ち込んだ研究データと、此度の調査で得たデータは全て、紛失&粉砕されてしまっている。こんな状態で行う調査に、果たしてどれ程の価値があるのか……ビスケでなくとも、疑問に思うのは当然であった。

 

「今のあなたの発言で確信を得たわ。今回の魔獣の調査……ただ、魔獣を調査していたわけじゃないわね」

「――っ!」

「図星……ね。道理であそこまで固執したわけだわさ。まあ、今はそんなことはどうでもいいわさ」

 

 睨みつけるビスケの視線は、冷たかった。

 

「私がやったのはあくまで応急処置、言うなればスプレー使って傷口にカバーを被せただけよ。縫合したけど、無理に動けば傷口が開いてカバーも外れる。そうなればもう、助からないわよ」

「……構わない。金なら、私自身に掛けた生命保険から支払う。家も車も全部売り払った代金があるから、それを振り込む。だから、私を……」

「くどい、話は終わりだわさ」

 

 そこまで話した辺りで、ビスケは大きくため息をついた。それは、これ以上あなたの話を聞くつもりはないという、明確な意思表示であった。

 

「あのね、何が悲しくて必死に助けた相手が死のうとするのを援助するやつがいるのよ。この際、料金云々はどうでもいい。私は、あんたを死なせる為に生かしたんじゃないわさ」

「……それは、そうだが」

「見ての通り、外は雨で日も暮れている。対して、あんたは死にかけの御老体。例え私があんたを背負ったとしても、あんたは死ぬ。脅しでも何でもなく、それが現実なんだわさ」

 

 それは、ぐうの音もない正論であった。事実、ボンドの身体は老体である。頬や目じりには皺が寄り、全身の皮膚も弛んでいる。手足は細く、傍目からでも筋肉がないのが見て取れる。

 

 加えて、只でさえ年齢的なハンデを抱えているというのに、あの出血量だ。常人ならまともに会話すら出来ない程の血を流しているというのに、こうして対話をするだけの気力を保持しているのは大したものだが……言ってしまえば、それだけ。

 

 多少の出血を物ともしない若さが、彼にはない。激痛を堪えて動き回れるだけの体力が、彼にはない。傍まですり寄って来た死を跳ね除ける力がもう、彼の身体にはないのだ。

 

 起き上がって会話をするだけの気力がまだ残っているだけで、それ以上は出来ない。ビスケの手を借りねば体一つ起こせなかったように、直後に容体を急変させて命を落としても……何ら不思議ではない状態なのだ。

 

 ビスケは、ボンドを生かす為に必死になったのであって、死なせる為に助けたわけではない。だからこそ、ボンドがやろうとしていることをビスケは許容出来なかった。

 

「気持ちは分かるけど、死ねばそれまで。ここで無理して命を落としても、何にも――」

「――今しか、今しかないのだ! あれだけの数が一度に姿を見せたのは、今だけなんだ!」

 

 だが、しかし。ボンドは納得しなかった。これにはビスケの目じりも吊り上ったが、「次の機会が訪れる保証が、どこにあるというのだ!」続けられた言葉に、吊り上った目じりが元に戻った。

 

「確かに、君の言う通り。私は老体で、無理をすれば命を落とす。だが、ここで生き長らえてどうなる。はっきりいって、次の調査を行う頃にはもう、私はとっくに墓の下だ。そうでなくとも、もう私は独りで出歩けない身体になっているだろう」

「…………」

「もし君が私の立場なら、君は諦めるのか? 後悔を抱えて余生を過ごすことになるけど、死なないよりマシだと君は言ってのけるのか?」

「……それは、そうだけど、さ」

「図々しい話だとは分かっている。君には何の得もなく、不利益しか生じないのも分かっている。それでも、お願いする。どうか、どうか、どうか……どうか……」

 

 その言葉と共に、ボンドは頭を下げた。頭を下げるという動作だけで、相当な苦痛が生じているはずなのに、ボンドは深々と頭を下げた。痛みを堪えて震えている拳と……その姿に……ビスケは、ボンドの願いを無下に出来なかった。

 

 ……気持ちは、分かるのだ。

 

 ビスケとて、目指すモノがあったからハンターになった。夢を追い求めて苦労したこともあるし、骨折り損もあった。だから、ボンド博士が命を捨ててでも追い縋る気持ちは……よく、分かる。

 

 しかし、全ては命あっての物種だ。死んでしまえば、そこで終わり。どんなに小さい願いであっても、死ねば叶わない。夢は、生きている者の特権なのだ。

 

 だからこそ、ボンドを生かすことに尽力を注いだ。例え強引に連れ帰ったとしても、ビスケは己の選択が間違いであるとは思わないだろう。

 

 ――だが、後悔はなくとも納得も出来ないことだろう。そう、ビスケは思う。この場で命を繋いだとしても、その後はどうなる?

 

 生き長らえはするが、結局はそれだけだ。ボンドが若ければ発破も掛けるが、見ての通りボンドは御老体。悔いなく夢に破れたならまだしも、彼はまだ……諦めきれていない。

 

 どちらを選べばよいのだろうか。正直、ビスケは迷った。

 

 心情としては気の済むまでやらせてやりたいという気持ちはある。だが、護衛として雇われた以上、ボンド博士の命を守るのが最優先。本人が望んだこととはいえ、護衛中に死ねば今後の評価にも関わってくる。

 

 行けば確実な死が待っているが、戻ったところで待っているのは虚無の日々。一瞬に命を費やすか、間延びした余生を過ごさせるべきか。噛み締めた唇を開くことが出来ないまま、ビスケは迷い、迷って、そして。

 

「――いいんじゃない、命と引き換えに手に入れたい物があってもさ」

 

 その迷いを、それまで静観していた彼女が晴らした。ポツリと呟かれたその声は、雨音が跳ねまわるコンテナの中でも、不思議なぐらいに良く響いた。ハッと、振り返った二人が目にしたのは、寝転がったままの、相も変わらず赤ら顔の彼女であった。

 

 ……率直に、彼女はボンド博士を称賛していた。

 

 例え死ぬと分かっていても、それでもなお目指すモノがある。その、なんと素晴らしき事か。対して、己は何だ。『彼』として生きていた時は惰性のままに生き、訳も分からぬまま『伊吹萃香』の器を得て、今になった。

 

 比べるべくもない。彼女は、純粋にボンド博士を美しいと思った。

 

『彼』の部分ですら、ボンド博士が見せる覚悟に胸を打たれたのだ。そういった『人間だけが持つ強さ』に惹かれる彼女にとって、眼前の老人は大衆を魅了するアイドルにも等しい輝きに映った。

 

「爺さんは、懸けているんだよ。この先5年10年の寿命を全部、この一瞬に懸けている。もう、死を覚悟しているんだ。私は好きだよ、そういうやつ」

「…………」

「いいじゃないか、死んだって。この爺さんは、自ら選んだんだ。何をしたいのかは知らないけど、そうまでしたい何かがあるってことでしょ……うんうん、いいね、燃えてきたよ」

 

 むくりと身体を起こした彼女は、ぱきぱきと身体を鳴らす。次いで、大きく伸びをしてから大欠伸を零すと……ビスケに言った。

 

「さっきの酒の借りは、これでチャラ。さて、ビスケ……あんたはどうしたい?」

 

 ビスケは、しばしの間無言であった。けれども、その顔に浮かんでいた表情はどこか晴れ晴れとしたもので……何かを吹っ切るかのように、大きくため息を零すと。

 

「――雨合羽(あまがっぱ)と、保温用の……そうね、緩衝材に使われている綿でもいいわ。後、痛み止めと増血剤の点滴、各種ビタミン溶液の点滴をして、そうね……簡易だけどオムツも付けてもらうわよ」

 

 この先、まともに排泄すら出来ないだろうし。そう言って、ボンド博士の死を選んだのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 猛獣やら魔獣やらが跋扈する危険地区の中とはいえ、彼女がいればだいたいのやつは色々と察して離れて行く。しかし、そんな彼女であっても、天候そのものを変えることは出来ない。

 

 時刻は深夜を回り、雨は絶えず降り続けている。豪雨という程ではないが、雨具なしでは5分も居れば水浸しになるであろうぐらいの、水量。その中を、明かりで道を照らす彼女と、その後にボンドを背負ったビスケが進む。

 

 その手にはコンテナ内を照らしていた非常用ライトと、医療用キットから取り外した発電機がある。その光はコンテナ内にて使われていた時よりもはるかに明るかった。

 

 持ち手の部分が高熱となり手袋越しでも火傷する程であったが、彼女の掌を焼くには……温すぎる。天候は悪く、足元の状態も悪い。まともに舗装されていない自然の中を歩くうえで、この明かりは非常に役に立った。

 

 ……この明かりのせいで『魔獣』が逃げるのではないかという懸念はあるが、ボンドたち調査団が追っていた魔獣は、視力が非常に弱いらしい。蝙蝠のように、超音波を用いて位置を確認するらしく、光そのものは問題がないのだという。

 

 それならば大丈夫だと先へ進むと、辺りの景色が徐々に変わってくる。鬱蒼と生い茂る森を抜け、平原へ。そこは、テントなどが設置されていた野営地からは幾ばくか離れた場所であり、ボンドを含めた調査団(ビスケたち護衛も含む)が幾度となく足を踏み入れた場所であった。

 

 そこから、さらに歩くこと幾しばらく。夜の闇に出てから、かれこれ三時間強。後一、二時間もすれば、夜が明ける。ぬかるんだ地面を踏みしめながら歩く彼女とビスケの二人は、ボンドの昔語りを聞きながら、ボンドが示した地点へと歩みを進めていた。

 

 どうしてボンドが昔語りをしているのかといえば、単にボンドの意識を保つためだ。無言のままに時間が過ぎれば、人は嫌でも思考が内側へと向く。

 

 痛み止めを使用したとはいえ、痛みが完全に消えるわけではない。おそらく、ボンドの身を襲っている痛みは相当なもの。気力で何とか持ちこたえてはいるが、何時意識を失っても不思議ではない。

 

 そうなればもう、ボンドは二度と目を覚まさない。言い換えれば、一度でも意識を失えば、そこで彼の夢は途絶える。だから、ボンドは話した。己の半生を、思い出す限りを絞り出し、意識を保つために話し続けた。

 

 例えば、幼い頃に学者を目指した切っ掛け。例えば、両親が己にプレゼントしてくれた高額な図鑑の話。例えば、入試に落ちて1年間鬱々とした日々を送り、当時の彼女にもフラれたどん底の話。

 

 ボンドは、とにかく喋った。好きな食べ物の話から、好みの女性。初体験での失敗などの赤裸々な話から、実はこっそり行った悪事に至るまで、とにかく話した。そうしていると、少しばかり痛みが紛れる気がして……気づけば、自分から次々に話題をひり出しては口から出していた。

 

 そうして、話し続ける事、幾しばらく。

 

 ついに、彼女たちは『魔獣』の姿を捉えた。その時、「……はぇ~、すっごい」彼女は素直に呆気に取られた。護衛がてら事前に何度か拝見しているビスケと、見慣れているボンドは無反応であったが、彼女が驚くのも無理はなかった。

 

 一言でいえば、人の頭部を持つダチョウであった。

 

 まるで、首から上を人のそれをくっ付けたかのような外観。羽毛に覆われた身体は分厚く、全長は1m超。長い首から下はダチョウのそれと何ら変わりないそいつらは、彼女たちの出現に気付いた様子も無く……うろうろと歩き回っては、地面の水たまりを突いていた。

 

 何とも気色の悪い外見だ。魔獣と分類されるだけある。普段なら近寄りたくもないが、今回ばかりはコイツ等が目当て。「――で、どうすんの?」なので、彼女はボンドへと尋ねた。

 

「……私たちが調査していたのは、あの魔獣たちの住処だ。生態調査も、結局のところは住処を見付ける為に行っていたことだ」

「住処? 巣を見付けろってこと? まだ見つけていないの?」

 

 ビスケの言葉に、「ああ、だが、それが問題だ」痛みに喘ぎながらもボンドの視線は魔獣たちを見つめていた。

 

「元々、あの魔獣は人前はおろか、こうして生きている個体を目撃することすら稀なやつだ。幾度となくその生態について調査は行われたが……原形をとどめている死骸を見付けるだけでも、相当な日数を要していた」

「それで?」

「そういう隠れるのが上手いやつが表に出てくる理由は二つ。繁殖の為と、住処を追われたかの二つ。後者なら傷ついた個体がいるはずだが、それがいないとなると……おそらくは繁殖の為だろう」

 

 ――見てみなさい。

 

 その言葉と共に、ボンドは魔獣を指し示す。促されるがままその魔獣を見やった彼女たちは……「――あっ」ほぼ同時に、呆気に取られた。

 

 何故かといえば、消えたのだ。二人の視線の先にいた魔獣が、突然、前触れもなく、影も形も残さずに消えたのだ。彼女は当然の事、ビスケも思わず注意深く凝視したが……その痕跡すら、見つけられなかった。

 

 ……これこそが、専門家であるボンドたちの調査が難航した理由であった。

 

 突然、前触れもなく消えるのだ。そして、消えた後には痕跡一つ残らない。当然、肉眼による確認や、直接的な接触も不可能。サーモグラフィによる熱源探知はおろか、音波探知によるレーダーでも分からない。文字通り、消えたとしか言い表しようがなかった。

 

 しかも、この『消える』という現象。昼間は起きず、夜にだけ見られる現象なのである。その原理は分からず、何故消えるのか、その目的が何なのか、調査団は未だ分かっていなかった。

 

 というのも、発信器を取り付けても姿が消えた瞬間に信号が途絶えてしまうのだ。加えて、信号が途絶える(つまり、消える)場所には規則性はなく、出現する場所はランダム。糞の位置から探ろうにも、これでは見つけることは不可能。

 

 なるほど、『特定の時期にしか姿を見せない』とされるわけだ。瞬間的に別空間へと移動しているという仮説が、一時期は冗談抜きで信じられかけたことがあるぐらいで、ボンドが今しかチャンスがないと断言するだけはあった。

 

 ……これには、持っているライトを向けながら、彼女は何度も目を瞬かせた。彼女の動体視力を持ってしても、どこへ行ったのかが分からない。その気になれば飛んでくる弾丸を掴むことも出来る彼女にとって、それは新鮮な驚きでもあった……だが、しかし。

 

「――『念』だわさ。あいつら、念を習得しているわよ」

 

 この場において、ビスケだけは。他の二人とは異なる方向性の驚愕を見せていた。「……あん?」ポツリと呟かれたその言葉に彼女は振り返り、背負われているボンドはビスケを見やった。

 

 ……二人の視線を受けて、しまった、とビスケは顔色を変えた。

 

『念』とは、言うなれば生物が持つ超常的な力のこと。習得するには(常人ならば命を落とす)厳しい修行と先天的な素質が必要だが、その力は絶大。それ故に、『念』は表世界からは秘匿され、ごく一部の者だけが知り得ている代物であった。

 

「……言うなれば、超能力みたいなものよ」

 

 けれども、この場において知らないフリをしても致し方ない。まあ、知ったところでどうというわけではないが……そう判断したビスケは『念』については詳細を避けつつも、魔獣が念を使ったということを説明した。

 

 念能力を習得している者は、大なり小なり他人が念を習得しているかどうかを察知することが出来る。だから、ビスケは消えた魔獣だけでなく、その周辺にいる他の魔獣も念を習得していることを察知していた。

 

 ――ビスケ曰く、動物が念を使う実例は過去にもあった、らしい。

 

 しかし、動物自身はそれが念であることはおろか、それがどういうものなのかすら理解していなかった。そのほとんどは過度のストレスから寿命を迎える前に死亡しており、辛うじて長生きした個体も己の能力に生涯怯えていたらしいとビスケは語った。

 

 けれども――あの魔獣は違う。

 

 おそらく、あの魔獣たちは生まれつき共通する念能力を習得している。それがどのような能力なのかは分からないが、何十年の月日を掛けても住処が見つからないのは、その能力のせいだろうとビスケは語った。

 

「……にわかには信じ難い話だが、君が有るというのなら、有るのだろう。それで、その念とやらを解析して、魔獣が何処にいるのか……それは分かるのか?」

「残念だけど、分からないわ。念っていうのはね、そう単純なものじゃないのよ。それこそ、人の数だけ異なる能力があるぐらいなんだわさ」

 

 苦痛と驚愕に脂汗を滲ませているボンドの質問を、ビスケは一言で切って捨てた。

 

「姿が消えた辺り、おそらくは転移系の能力だとは推測出来るけど……それだけだわさ」

「転移……どこからどこまでの範囲の見当は、付けられるか?」

「無理だわさ。特殊な空間に逃げ込むタイプの転移系なら尚更。まず、見つけられないわよ」

 

 ビスケの断言は、本当である。念能力というのは非常に奥が深く、また多彩で、時には物理法則すら凌駕する。数は少ないが、特殊な空間を作り出すことを可能とする念能力者まで存在するのだ。

 

 そして、ビスケの経験上、そういった能力を使用する場合は、中に入るには幾つかのルールが課せられている場合が多く、そのほとんどは『術者の許可』が大前提としたルールであった。

 

 せめて、物理的に特定の場所へ移動するタイプの能力なら可能性はある。少なくとも、術者の許可無しでは絶対に入れないよりも、場所さえ見付ければ入ることが出来る方が、まだ可能性はあるからだ。

 

 ……だが、それはあくまで、可能性があるというだけのこと。

 

 0%が、0.00……1%になった程度のこと。さすがに星の裏側とまではいかないが、ボンドが存命しているうちに見つけ出すのは……はっきりいって不可能であった。

 

 

 

(……小山の半ばに地下深くまで続く洞窟があるんだけど……あれって、何の洞窟かな?)

 

 

 

 ただし、それは人間の力では……が、前提の話であって。どうしたもんかなあ、と小首を傾げる彼女の前では、全ての前提は崩れ去るのであった。

 

 どうしようもない現実に打ちひしがれているビスケとボンドを尻目に、彼女は見つけていた。この地点より、さらに北へ2kmほど進んだ先。彼女の目は、そこにある小山を捉えていた。

 

 ……実は彼女、あーだこーだと話しこんでいる二人を他所に、魔獣が姿を消した直後から、『密と疎を操る程度の能力』を使って己が身体の一部を霧状に分散させ、周辺一帯を探し回っていたのである。

 

 彼女は、念能力という力は使えない。また、そういった知識も皆無だ。故に、彼女は難しいことは考えない。手掛かりがどうとか、生態がどうのとかも考えない。

 

 見つからないのであれば、見つかるまで探せばいい。人手が足らないのであれば、自らを分ければいい。目が届かないのであれば、目を広げればいい。結局の所、彼女にとってはその程度の話でしかなかった。

 

(あ~……いるね、似たようなやつ。ということは、やっぱりあの中にいるってわけか)

 

 一見するばかりでは、夜の闇にひっそりと隠れているその小山は、何の変哲もない小山であった。

 

 高さにすれば数百メートルといったところで、雑草やら小さい木々が伸びているだけ。よほど注意を払っていなければ、何事もなく見過ごされている程度の、小さい山だ。

 

 だが、他の者には分からなかったが……今、その山は淡い霧によって包み込まれている。当然、自然発生した霧ではない。その正体は、彼女の目であり耳でもある、常人では目視することすら叶わない微小サイズにまで分散させた、彼女自身であった。

 

 

 

 

 

 

 ……彼女に案内されるがまま、歩くこと幾しばらく。彼女が見つけたという入口にビスケ達が到着した頃には、朝まで続くかと思われていた雨も止んでいた。

 

 ここだよ、と彼女が示したのは、何の変哲もない土の壁であった。

 

 ちょうど、木々の根と岩とが複雑に絡み合うことで出来たスポット。山の頂より滴り落ちてくる水滴が、その壁に伝って浸みこんでいるのが見て取れた。

 

 ……外から見る限りでは、本当にただの土砂の壁だ。

 

 臭いはおろか、質感すら本物同然。剥き出しになった壁から飛び出る岩石にはコケが広がっており、相当な年月を想像させた……そして。

 

「――凄いわね。外からでは『凝』を持ってしても確認出来ないなんて、そりゃあ何十年掛かっても見つけられないわけだわさ」

 

 止まっていた時間が、動き出した。促されるがまま壁へと進んだ二人の身体は、壁にぶつかることなくすり抜けて……内部へと入り込んだのであった。

 

 そう、外に見えていた土壁は擬態。つまり、偽物の壁だ。年月を感じさせるコケが生した岩も、滴る水滴も、全てが偽物。

 

 見付けた彼女ですら改めて、やっぱすげぇと思ったぐらいなのだ。念を知らないボンドにとっては、一時的に痛みを忘れてしまう程の驚愕であった。

 

 何せ、洞窟の中はボンドが知る洞窟とは根本から異なっていた。

 

 まず、外部から雨水や土砂が入って来ない。全員が何事もなくすり抜けたはずなのに、この二つだけは見えない壁に阻まれているかのようにそこで止まってしまう。

 

 また、音もそうだ。雨が止んでいたとはいえ、遮るものが何もない小山の半ば。通り過ぎる夜風は相当に煩く、声を張り上げなければまともに会話が出来ないほどなのだが……洞窟の中は、耳鳴りがするほどに静まり返っている。

 

 いったい、どういう形で『念』が作用してこのようになっているのか。他にも数え上げたらキリがないが、強いて新たに挙げるとすれば……明るい、この一言に尽きた。

 

 洞窟の内部そのものが、淡く光っているのだ。それはまるで土の中に蛍が埋め込まれているかのようで、ともすれば幻想的と称されてもおかしくない光景だ。

 

 ぽっかりと開かれた空洞は、緩やかな傾斜を伴って下方へと続いている。けれども、道具なしで降りられないほど厳しくはない。視線を下げれば、所々に踏み固められた段差が見て取れた。

 

 おそらく、長い年月を掛けて魔獣が行き交いしていたせいだろう。階段状にも見て取れる段差は足の置き場にはちょうどよく、雨で濡れた靴でも滑らずに下まで降りられそうであった。

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………そうして、どれほど歩いたのか。

 

 明かりを片手に先導する彼女はもちろんのこと、その後ろを付いてくるビスケも、背負われたボンドも時計を見ていなかったので、正確な時間は分からなかった。

 

 けれども、感覚としては十数分下りっぱなしなのは確かで。外の音が一切届かない洞窟内部には彼女たちの足音が僅かばかり反響し、どこまでも変わらない景色が続いていた。

 

「……君たちは、どうして調査団があそこまで頑なに調査を続行しようとしたか、その理由が分かるかね?」

 

 その中で、ぽつり、と。沈黙を破ったのは、脂汗を滲ませたボンドであった。

 

 ……言われてみれば、知らないなあ。

 

 振り返った彼女の視線を前に、「まるで、自分だけが違うかのような言い草ね」ビスケも気になっていたのか、続きを話せと言わんばかりに促せば、ボンドはしばし息を整えた後……語り出した。

 

「言ってしまえば、金さ。あの魔獣は、莫大な金を生み出すのだよ」

「お世辞にも可愛いとは思えない外見だけど?」

「価値があるのは外見ではないよ。調査団が求めていたのは、あの魔獣が生み出す……とある宝石さ」

「――宝石?」

 

 宝石、その言葉にビスケが反応した。ストーン・ハンターの血が騒いだのだろう。しかし、ビスケが彼に問い質すことは出来なかった。何故なら、「あ、そろそろ一番奥だよ」それをする前に、行き止まりへと到着したビスケとボンドは……眼前の光景に言葉を失くしたからであった。

 

 一言でいえば、そこに広がっていたのは……七色に輝く世界であった。

 

 広さにして、だいたい大き目の体育館といったところだろうか。高さは十数メートル近くあり、壁際には例の魔獣が連なるようにして座り込み、こちらを見つめている。

 

 警戒心が薄いのか、それとも敵と判断されていないのか。あるいはまた別の理由なのかは分からないが、襲ってくる様子はない。だが、問題なのはそこではなかった。

 

 お世辞にも気色悪いとしか言い表しようがない魔獣の背後、足元、頭上……広場全てを覆っている、七色のクリスタル。洞窟そのものが発している淡い光が重なることで、それらはまるでミラーボールのように広場全体を輝かせていた。

 

 呆然と……荘厳かつ幻想的としか言い表しようがない光景を前に、ビスケは知らず知らずの内にボンドを支えている手を外していた。けれども、床に尻を打ち付けたボンドは悲鳴一つ上げなかった。彼もまた、いや、ビスケ以上に言葉を失くしていたからであった。

 

 驚愕のあまり、痛みが吹っ飛んでいるのだろう。へこへこと四つん這いのまま、床を這って進む。そうして、床に落ちているクリスタルの欠片を幾つか拾い……直後、震えに震え切ったボンドの溜め息が零れた。

 

「ああ……『エレメンタル・ジュエリー』だ」

「――『エレメンタル・ジュエリー』ですって!? ちょ、ちょと、ちょっと寄越すんだわさ!」

 

 対して、ボンドとは別の理由で震えていたビスケは、ボンドの呟いた言葉に目を剥いた。相手が依頼主であることも忘れ、ぽろぽろと涙を零しているボンドの手から欠片を一つ奪い取って、目を凝らし……思わず、といった調子で声を震わせた。

 

「ほ……本物だわさ。本物の、エレメンタル・ジュエリーだわさ……!」

「何それ、高いの?」

 

 酒以外に関して(酒の名前にも興味はないけど)は欠片も興味がない彼女が何気なく尋ねれば、「値段の問題じゃないわさ!」ビスケは鼻息荒く彼女を怒鳴りつけた。平静であったなら顔色の一つは青ざめるところだが、まあ、今のビスケには仕方ないことであった。

 

 というのも、この『エレメンタル・ジュエリー』。値段自体も相当な代物だが、何よりもこの宝石がどのような経緯で形成され、どのような形で誕生したのかが全くの謎に包まれた物質だったからだ。

 

 例えるなら、様々な宝石が混ざり合って出来た(ぎょく)である。

 

 ダイヤ、サファイア、ルビー、エメラルド、ゴールド、シルバー、おおよそジュエリーとして加工されたり転用されたりする物質全てを液状にした後、それを固めて作り上げたかのようだと言われれば、想像しやすいだろう。

 

 鉛や錫といった繋ぎは一つもない。そこには不純物一つなく、混ざり合う成分の違いによって生まれる異なる屈折率によって、まるで宝石そのものが七色に輝いて見える。

 

 故に、エレメンタル・ジュエリー。ビスケが興奮するのも当然であり、それは世界三大宝石に数えられる、至高といっても過言ではない評価を得ている宝石なのであった。

 

(……なるほど、これが狙いか。道理で、あそこまで躍起になって調査を続行しようとするわけだわさ)

 

 大きく息をついて気を落ち着けたビスケは、そうしてからようやく、調査団の真の目的に思い至った。

 

(……幻影旅団のやつらはそれを横から掻っ攫おうとしていたってわけか。二本角を狙ったのは……もしかすると、あいつら。魔獣が『念』を使っていることに気付いて、自分たちで見付けようとしたのかしら?)

 

 と、同時に、幻影旅団がどうしてこんな辺鄙(へんぴ)な場所まで来たのか……その狙いも分かった。

 

 エレメンタル・ジュエリー。たかが宝石と言われればそれまでだが、その価値は一個で数億……いや、数十億にも達する。

 

 宝石そのものに価値があるが、何よりもこの宝石の価値を引き上げているのは、この宝石の総数が……ビスケが記憶している限りでは、現存しているその数、わずか11個のみ。

 

 現在まで、どのような経緯からその宝石が市場に出て来たのかは誰も分からず、現在の技術では人工的に作り出すことも出来ず、天然物以外は存在しない。それ故に、その価値は絶大。

 

 名のある富豪の大半はこの宝石をステータスの一つとして探しており、金に糸目を付けない者ばかり。1個で数億なら、10個売れば数十億。小国なら……数年分の予算を賄う事が出来る金額だ。独占すれば、それこそ億万長者として名を馳せることだって、難しくはない。

 

 加えて、この洞窟内にあるエレメンタル・ジュエリーの量は半端ではない。掘削して回収し、その幾つかが破損したとしても……おそらく、数千……いや、数兆にも達する、莫大な利益を生み出すだろう。

 

(ここを手にすれば、宝石市場の独占も夢ではない……だが、それは……)

 

 思わず、ビスケは目じりを吊り上げる。

 

 そうなれば待っているのは……宝石市場の確実な価格崩壊だ。ストーン・ハンターであるビスケには、それがすぐに想像出来た。宝石の価値を知るからこそ、その可能性をビスケは無視できなかった……と。

 

 ――うっ、ご、ごほっ。

 

 不意に、涙を流して座り込んでいたボンドが血を吐いた。「ボンドさん!?」我に返ったビスケが急いで状態を確認しようとするが、「いや、気が抜けただけだよ」当のボンドが止めると、そのままビスケの手を借りて……静かに、横になった。

 

 ……ボンドは、何も言わなかった。

 

 薄らと漂う、血の臭い。顔色は先ほどよりも目に見えて悪く、呼吸も不規則だ。額に浮かぶ汗は大粒で、痛みにしかめた唇から鮮血が滲み出ている。今にも死んでしまいそう……だが、不思議とボンドの顔には笑みが浮かんでいた。

 

「……妻と息子に、約束していたんだ」

 

 ポツリと零れた、呟き。ため息交じりのそれはか細いものであったが、静まり返ったここではよく響いた。

 

「研究者としては優秀でも、夫としても父としても不甲斐なかった。何時か見つけ出して送ろうと思っていたが……ふふ、気付けば私が、私だけがこうして残された」

「妻に似て気が利く聡明なあいつは、流行病であっさり逝ってしまった。妻はあいつの死を嘆き、私をなじり、最後に私に謝って……病の果てに逝ってしまった」

「……どうして、私だけが残されたのだろうなあ」

「社交性があって、人から好かれたあいつは皆の人気者だった。料理が上手く、近所でも評判だった妻は子供たちから頼りにされていた。私は、そんな妻と息子を持てて幸せだった」

「……本当は、こんなものなんぞどうでもよかった」

「ただ、これを探している間だけは二人の顔を忘れられた。妻と息子の笑顔と怒った顔と呆れた顔を、忘れられた。二人が残してくれた約束に縋っている間は……私は、私として振る舞うことが出来た」

 

 ――でも、これで終わりだ。

 

 その呟きと共に、ボンドは握り締めた破片を眼前に持ってくる。けれども、その瞳は何も映していなかった。焦点の合わぬ視線は欠片の向こうへと……彼方を揺蕩う思い出へと向けられていた。

 

 ……死ぬ。この男は、この老人は、もう間もなく息を引き取る。

 

 徐々に静かになりゆくボンドの姿を前にして、その事実をビスケは当然の事と、彼女も理解していた。だが、ビスケも彼女も、その事を嘆きはしなかった。そうなると分かっていたからだ。

 

 この男は、文字通り最後の命を振り絞ったのだ。燃えカス寸前だった蝋燭の、最後のともし火。大人しくしていれば後10年は続いたかもしれない余生の全てを、この一瞬に費やした。

 

 誰が決めたのではない。彼が、自らの意思でそうしたのだ。だから、ビスケも彼女も、そう悲しむことはなかった。ただ、死に逝く者の唇をハンカチで拭う程度のことをビスケはしてやっ――っ!?

 

 

 

 それは、不意の襲撃であった。

 

 

 

 おそらく、ビスケ程の達人でなければ負傷していたぐらいの、意識の隙を突いた攻撃。弾丸が如き速度で飛んできた針を飛んで避けたビスケは、難なく着地すると同時に、素早く構えた。

 

 ――途端、ぐぎゃあ、と。

 

 人のモノとは思えない悲鳴が、背後より上がる。けれども、ビスケは振り返らなかった。振り返らなくても、分かるのだ。放たれた攻撃は己だけでなく、後ろにいた魔獣たちにも放たれたものだということが、だ。

 

 故に、ビスケは油断なく……眼前にて佇む三人の男を見やった。

 

 一人は……銀髪の、初老に差し掛かっている年頃の男だ。体格は良く(筋肉隆々となったビスケよりは小さいが)、衣服の上からでも分かる程に筋肉が発達しているのが見て取れた。

 

 一人は……黒髪の、青年というよりは少年と称しても良い年頃の男であった。銀髪の男よりも二回りぐらい小柄ではあるが、直立しているその姿には一切のブレがなく、ただの少年でないのは見て取れた。

 

 そして、最後の一人は……白髪の老人であった。だが、こいつも只者ではない。だぼっとした出で立ちの胸には、『生涯現役』の四文字。三人の中では一番の小柄でありながら、その眼光は鋭かった。

 

「あれ、避けた。意外とやるね、君」

「……あいにく、不意を突かれるほど腑抜けた覚えはないわさ」

 

 小首を傾げながらポツリと呟いた少年を、ビスケは睨みつけた。だが、それは少年だけではない。ビスケの視線は、その両隣にて佇む二人の男へも向けられていた。

 

「……ゾルディックの者が、こんな場所に何の用?」

「ほう、俺たちのことを知っているのか?」

「ハンターやってりゃあ、自ずとね。それにあんたら、顔も身元も全く隠していないでしょ」

 

 銀髪の男の言葉に、ビスケは吐き捨てるように言い返した。

 

 そう、ビスケの言葉は真実であった。ハンター……いや、ハンターだけではない。こういった荒事に就いていれば、一度は耳にする名称。伝説の暗殺一家、『ゾルディック』。

 

 依頼金こそ相当なものだが、達成率は100%と言われている。金さえ払えば国家当主の暗殺さえやってのけるという、凄腕の殺し屋一家。その顔写真を目にしたことがあったビスケは、こぉ、と闘気を漲らせながら三人を順々に見やった。

 

 白髪の老人……先代当主、ゼノ・ゾルディック。

 銀髪の男……現当主、シルバ・ゾルディック。

 黒髪の少年……長兄、イルミ・ゾルディック。

 

 一人頼むだけでも億単位の金が必要だというのに、それが3人分。「揃いも揃ってよくもまあ……私を殺しに来たのかしら?」はてさて、誰の恨みが原因かしらとビスケが思っていると、「少し違うかな」長兄のイルミが首を横に振った。

 

「俺たちの狙いは、君たち2人。まあ、悪く思わないでね。せめて痛くないように殺してあげるから」

 

 そういうと、イルミは前に出た。いつの間にか、その手には長さ十センチ程度の針が数本握られている。それを見て、ビスケは大きく息を吐くと……ゆらりと、構えた。

 

「――はっ、ひよっ子風情が中々大きく出たわね。見た所相当な腕前みたいだけど、まだまだ未熟ね。そういうデカい口は、後ろの保護者無しで掛かって来られるようになってから吐きなさい」

「挑発のつもり? それなら無駄だよ。これはビジネスだからね。俺もそうだけど、仕事の上で効率的に殺せるのなら、いくらでも手を――ん?」

 

 そこまで話した辺りで、イルミは足を止めた。フェイント……ではない。「どうしたの?」振り返ったイルミは……己が腕を掴んで止めている、シルバ(父親)を見やった。

 

 けれども、シルバは何も答えなかった。ただ、黙ってビスケとイルミを見やり、静かに首を横に振る。「――親父、一つ聞きたい」次いで、代わりにと言わんばかりに、隣に立つ己の父……つまり、ゼノへと視線を向けた。

 

「アレが……子供の頃に話してくれた、『絶対に手を出してはならないやつ』か?」

「……そうじゃ。やれやれ、あの姿をまた目にする日が来ようとな。かれこれ数十年も前のことじゃというのに」

 

 そう、ゼノがため息を零すと、一歩前に――出ようとした、その瞬間。

 

 

 

 ――どうして、待たなかった?

 

 

 

 その声が、呟かれた彼女の、その声が、その足を、その場に縫い止めた。そして、その場にいる全員の視線が、絶命しているボンドを見下ろしたままでいる彼女へと向けられた。それは、油断なく構えていたビスケも同様で、微動だすらしない彼女に、思わず目を瞬かせていた。

 

「――答えなよ、そこのやつ」

 

 だが、当の彼女はそんなビスケ達の視線に気づいているのか、いないのか。緩やかに上げられた顔は、何時もの赤ら顔のままで。「あ、俺のこと?」視線を向けられたイルミは、小首を傾げながら答えた。

 

「何が言いたいのか分からないけど、どういうこと?」

「見て、分からないかい?」

 

 ちらりと、彼女は横たわっているボンドを見やる。その胸元には三本の針が、根元まで刺さっている。滲み出た出血が、巻きつけた包帯を通り越しているのが雨具越しに分かる。素人の目から見ても、致命傷であろうことが伺えた。

 

 しかし、致命傷とはいっても、ボンドは死ぬ寸前であった。例えこの針が刺さらなかったとしても、ものの数分で命を落としていただろう。だが……彼女にとって、そこが問題なのではなかった。

 

「何で、命を全うしようとした爺さんまで狙ったんだい? あんたの腕前なら、ビスケだけを狙えたはずだろ?」

「何でって、それは……」 

 

 しばしの間、イルミは彼女と、その傍で横たわっているボンドの亡骸を交互に見やった。そして、ゼノとシルバへと振り返り……また、小首を傾げると、心底不思議そうにイルミは答えた。

 

「理由なんてないよ」

「へえ、ないのかい?」

「強いて理由を挙げるとするなら、傍にいたから、ついでに狙っただけかな。何が知りたいのかは知らないけど、これで満足?」

「……ああ、分かった」

 

 一つ、彼女はため息を零した。がりがりと、赤ら顔のまま頭を掻いた後。

 

「それじゃあ――遠慮はいらないね」

 

 そう呟いたと同時に、地面が割れた。鬼の脚力を持って踏み込まれることで生まれた初速は、イルミの動体視力を優に上回った。「――っ!?」反射的に後方へと飛び退いたイルミの反射神経は称賛に価するものであったが……彼女の前では、遅いの一言に尽きた。

 

 おりゃあ、という軽い調子と共に無造作に繰り出された、拳の一撃。音速にも達するその一撃を、イルミは寸での所でガードした。だが、戦車の砲弾にも等しいその拳圧は、鍛え抜いたイルミの両腕を破壊してもなお、身体をくの字にへし曲げるほどの威力であった。

 

 ――どぐぉん。文字にすれば、そんな感じだろうか。

 

 形容し難い打突音と共にイルミの身体は真横に飛んで、壁にぶち当たった。様々な鉱石によって覆われていた洞窟の壁にヒビが入る。胃液と鮮血が入り混じる吐瀉物が、飛び散る。ずるり、と、反動によって、地面に広がった己の吐瀉物へと倒れ……る、前に。

 

 それよりも速く、彼女の小さな手がイルミの後頭部を掴んでいた。

 

 そして、既に意識を失っているイルミは、何の抵抗も出来ないまま……(伊吹萃香)の腕力をもって、顔面を大地に叩きつけられた。ばきん、と地面が陥没し、イルミはそのまま大の字となって……ぱたりと、動きを止めた。

 

 ……瞬きすれば見逃してしまう程の、一瞬の出来事であった。

 

 あまりに速く、あまりに呆気なく終わった戦いに、手を貸す暇もなかったビスケは思わず呆然としていた。そんなビスケを他所に、彼女はこきこきと首を鳴らすと……手を、高く掲げた。

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………そのまま、彼女は手を掲げたまま動かなかった。

 

 攻撃をするわけでもなければ、『念』を使っている(彼女は『念』を知らないので、使えないのだが)わけでもない。傍目からみれば意図の読めない行動に、ビスケも、ゼノたち親子も、訝しんだ様子で彼女を見つめていた……と。

 

 ……どん……どん……どん、と。

 

 外へと繋がっている唯一の通路から、異音が聞こえてくる。固い何かが、壁やら何やらにぶつかって、跳ねている音。

 

 彼女を除いた誰もがその異音に目をやった……その、直後。黒い影が通路から飛び出してきて――あっという間もなく、彼女の手がそいつを掴んだ。

 

「――ぐっ!」

 

 黒い影の正体は、人間の男であった。もっと正確に言い直すのであれば、彼女を襲った黒髪の男。あの時とは恰好が異なり、髪もオールバックにしているその男は、己の足を掴む彼女の腕を蹴りつけていた。

 

 だが、その程度では彼女の腕はビクともしない。「……ふーん、あんたらに依頼したやつは、お前か」加えて、『疎』と『密』を操る程度の能力によって絶えず引き寄せられている以上……男が、彼女の拘束から逃れるのは不可能であった。

 

「まあ、いいや――それじゃあ、ばいばい」

 

 しばし、男の様子を観察していた彼女は……緩やかな動きで、掴んだ男ごと腕を振り被った。何をされるのかに気付いた男は、慌てて何かをしようとしたが……もう、遅かった。

 

 轟音と共に振り下ろされた男の身体が、地面へと叩きつけられた。その威力、イルミに行ったものの比ではない。あまりの威力に、突風が洞窟内を駆け巡る。それによって、男の身体はミンチよりも酷い有様となって周囲に飛び散った。

 

 その惨状、爆散という言葉以外に言い表しようがなかった。彼女の角に、頬に、胸元に、鎖に、足に、男を構成していたありとあらゆる有機物が付着し、辺りには血飛沫が舞った。

 

「――ん?」

 

 はず、だったのだが。思わず目を瞬かせた彼女は……男を掴んでいたはずの手を、見やった。

 

 ……鮮血が、消えたのだ。いや、鮮血だけではない。

 

 四方八方へと飛び散った男の臓物、骨、衣服といったもの全てが、煙のように溶けて消えた。まるで、始めから存在していなかったかのように跡形すらなくなったのを見て……ああ、と彼女は納得した。

 

 ――これはアレだ、偽物……見えない、例のやつだ。

 

 前にも似たようなことがあったから、彼女は特に驚かなかった。原理は分からないが、あの男はそういうことが出来るやつだった。そう、己を納得させた彼女は……おもむろに、ゼノとシルバを見やった。

 

 未だ動きを見せない二人を警戒した……というわけではない。ただ、『次はお前たちだ』というだけの意味合いでしかなく、むしろ、『さっさと掛かって来い』という意味合いが大きい……まあ、誘いであった。

 

 ぶっちゃけてしまえば、今の彼女は内心……かなり腹を立てていた。

 

 だがそれは、己が攻撃されたからではない。彼女の怒りの原因は、冥途に旅立とうとしていたボンドへの、攻撃。今死ぬか、一分後に死ぬかの違いでしかないが、彼女にとってあの一瞬は……天と地にも等しい隔たりがあったのだ。

 

 言うなれば、そう……穢されたと彼女は思った。敬意を抱いたボンドの最後に泥を塗られたと、思った。

 

 ボンドはあの時、使命を果たしたのだ。経緯は色々あったとしても、彼は天寿を全うした。己に課した使命を生涯かけて追いかけ、己の命を燃やしながら痛みに耐え、最後に……夢を掴んだ。

 

 そこで、終わらせるべきだったのだ。例えその夢を奪い取るのだとしても、ボンドはすぐに死ぬ。死した彼から奪うのであれば、彼女は何もしなかった。それもまた仕方なしと、彼女はあえてその夢を守ろうとはしなかっただろう。

 

 だが、生きている彼から奪うのであれば、話は変わる。

 

 あと数分。たったあと数分待てば、ボンドは満足感を抱いて黄泉へと旅立てるのだ。そのたった数分を、どうして待たない。何故、絶望を与えてから死なせる。

 

 敬意を抱いていたからこそ、彼女は怒った。『彼』もそうだが、『伊吹萃香』の部分も、それを許すことは出来なかった。故に、彼女は怒りのままに拳を振るった。

 

 だから、彼女はシルバとゼノの二人に向き直った。イルミのことに怒りを見せて向かってくるのであれば、全力を持って迎え撃つ、と。だが……二人は、黙って首を横に振った。それを見て、おや、と彼女は目を瞬かせた。

 

「いいのかい? 運が良ければ生き残る程度の力加減にはしたつもりだけど……それでも、あんたらの息子を痛めつけたんだよ?」

「一度は痛い目を見た方が、こいつには良い薬じゃ。腕前は申し分なしじゃが、どうも無駄に殺しを楽しむ節があるからのう」

「それって、あんたらの教育が悪いからじゃないかい?」

「あいにく、ワシらは暗殺者としての心構えと生き方は教えるが、イルミのあれは生来のものじゃ。ワシらがどうこうしてそうなったわけではないわい」

 

 ふう、とゼノはため息を零した。

 

「お主、ワシらを殺人快楽者か何かと勘違いしとらんか? ワシらにとって殺しはビジネス。ワシにしたって、ターゲット以外は殺さない主義じゃ」

「へえ……でも、そのターゲットってのは私なんでしょ? その私を放って、どこへ行こうというのさ」

 

 ずいっと、彼女は一歩前に出る。それを後ろ目で見やったゼノは、やれやれと言わんばかりに大きなため息を吐いた。

 

「正当な契約を経たのであれば、ワシも命を賭したじゃろう。しかし、此度の仕事に関しては、明らかな契約違反が見られたのでのう。もう、ワシらにとってお主はターゲットではない」

「契約、違反?」

「まあ、そういうわけじゃ。じゃあの、『二本角』。出来ることなら、もう三度目はあってほしくないのう」

 

 その言葉を言い終えると、ゼノは今度こそ彼女に背を向け、歩き出した。「ふーん……で、父親のあんたも同意見なの?」ゼノからシルバへと視線を向ければ、「ほぼ、同意見だ」シルバは顔色一つ変えずにそう言い切ると、僅かに痙攣しているイルミを無造作に肩に担ぎ……ゼノに続いた。

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………後に残されたのは、彼女と、ビスケと、亡骸となったボンド。そして、イルミによって仕留められた魔獣の亡骸と、それらを照らすエレメンタル・ジュエリーの輝きだけであった。

 

「……で、どうする?」

 

 しばしの間、沈黙が続いた後。それまで佇んでいたビスケが、ため息と共に彼女に尋ねてきた。「どうするって、何が?」振り返った彼女の問い掛けに、「どうもこうもないわさ」ビスケはぐるりと肩を回し、もう一度ため息を零した。

 

「幻影旅団……まだ諦めてなければ、ここに来るかもしれないわよ」

「んー、好きにすればいいよ。手段は色々あれど、一度は私の手から逃げたんだ。それで、諸々の件はチャラさ……んで、そっちは?」

「依頼人が死亡した以上、もう私にすることはないわさ。せいぜい、私がやれるのは、この御遺体を埋葬してやるぐらいだわさ」

 

 ちらりと、ボンドの亡骸を見やったビスケに釣られて、彼女も視線を下ろした。確かに、このまま放っておくわけにもいかない。いくら本人が望んだこととはいえ、野ざらしにするのは……だ。

 

「――その役目、私に譲ってくれないかい?」

「へ? まあ、あんたがやりたいなら私は構わないけど……でも、この人の口ぶりから察するに、身内はいないかもしれないわよ」

「構わないさ。私は運び屋だもの。この爺さんも、こんな場所で朽ち果てるより、奥さんと息子さんの傍で眠る方が良いさ」

 

 にへら、と笑う彼女の顔は相変わらず酒気が漂っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………そんな彼女たちがいる洞窟より、遠く離れた場所。保護区を出て、少しばかり車を走らせたその場所にて。

 

「――間一髪だったみたいだな、団長」

「ああ……だが、おかげでしばらくはまともに念が使えなくなったがな」

「時間は掛かるけど、いずれ回復するんだし、降って湧いたバカンスだと思って遊んでいればいいんじゃないかな?」

「それにしても、マチ。突然、ヤバいだの逃げろだの叫び出したから、どうしたのかと思ったぞ」

「仕方ないだろ。気づいたら、そう叫んでいたんだから……私にだって、なんでそうしたのかは分からないよ」

「まあ、結果的には団長の命が助かったんだし、いいじゃねえか」

「そういうことだ……だが、相手にしなくて正解だったな。偽物とはいえ、俺の分身をあそこまで容易く葬られるのは……少し、ショックだ」

「ウボォーのパンチでも無傷な辺り、まともにやり合うのは避けた方が無難だな。少なくとも、俺のパンチじゃああいつは殺せねえ」

「ウボォーが無理なら、全員無理ね。ところで団長、お宝どうするね? 今なら、あいつもいなくなてると思うね」

「そうだぜ団長。ここまできて骨折り損とか、盗賊の名折れになっちまうぜ」

「あたしは反対。正直、もうあいつとは関わり合いたくない」

「私も、かな。ウボォーで駄目なら、私も駄目だし……今回は諦めた方がいいと思う」

「……今回は撤退しよう。おそらく、あいつが俺たちを逃がしたのは、ただの気紛れか、あるいは、あいつなりの基準をクリアしたから見逃した……と考えて間違いないだろう」

「つまり、一度だけってこと?」

「そうだ。おそらく、二度目はない。今度まともに遭遇したら、あいつは手加減なんてせずに来るだろう。残念だが、今回は運が悪かったと思って諦めるべきだな」

「ああ、チクショウ。団長がそうまで言うんじゃあ、手を出さない方が無難か……あ~、もったいねえなあ~」

 

 そんな会話が成されているなんて……彼女には知る由も無いことであった。

 

 

 

 

 

 




彼女をキレさせたら大したもんですよ(長州力)

ガチでキレさせたら、その時点でデスノートにサインした状態になるSCPみたいな存在。私が彼女を知っていたら、もう関わらない方が一番って思います


あ、そうだ(唐突)
ちょっと今、東方の方を書いているので続きが遅くなります
その間に皆もこういう憑依系を書いてくれよな~

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