伊吹萃香もどきが行く   作:葛城

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第八話:ハンター協会会長と鬼娘

 

 

 

 

 ハンター試験における試験の回数に決まりはない。つまり、一回の試験で合格とすることも、百回も試験を行ってふるいに掛けることも出来る。とはいえ、さすがに試験に掛けるお金にも限度というものがある。

 

 

 

 なので、ハンター試験全体において、だいたい5~7回ぐらいかけて行うのが通例となっている。これは、最終的な合格者人数を数人程度に絞るのが目的だと言われている。

 

 その難度は試験官ごとに一任されており、絶対に合格させない(例えば、雑学クイズ1万問を20分以内に全て解け、など)というような試験でさえなければ、基本的には何をしても良い。

 

 

 例えば、ある年の試験では、数が多いという理由で『3分の1になるまで戦い合え』という試験が行われたこともあったし、『○○を期日までに集めて来い』や、『水深数百メートル下の落し物を潜って拾え』というのもあった。

 

 

 何をしても良いからこそ、試験内容には、その時に一任される試験官の趣向が大きく反映される。それ故に、試験内容自体が仰天必至、試験対策というのが非常に立て難く、何回か受験すれば合格……などという甘い可能性は0に等しい。

 

 加えて、合格する最低人数も特に定まっているわけではない。数名程度に絞るというのはあくまで通例であって、受験生がそのレベルに達していないと判断すれば、試験官たちの判断で合格者0人にしても何ら問題はない。

 

 受験生からすれば理不尽ではあるが、数百万人という受験生たちを、試験会場へと辿り着かせるまでに数百人までふるいを掛け、そこからさらに数名に数を減らすまで徹底的にふるいを掛け続ける。それが、ハンター試験なのだ。

 

「――では、第一次の内容を発表します。一次試験は、『次の二次試験会場まで私に付いて来る』こと。二次試験会場まで制限時間内に付いて来られれば、晴れて合格と致します」

 

 だからこそ、試験官に付いてゆくだけという、ただそれだけの試験が発表されたとしても、集まった受験生たちは誰一人楽観視するようなことをしなかった。

 

 

 実際、受験生たちが抱いた漠然とした不安は的中した。

 

 

 何をするでもなく、ただトンネルの向こうへと歩みを進めている試験官。その後に続く、受験生たち。時間にして、だいたい十分程だろうか。それを過ぎた辺りで……受験生の一人が、小走りになった。

 

 その変化がどのタイミングで始まったのかは、それは試験官のサトツ以外には分からない。けれども、変化は確実に忍び寄っていて、姿を見せた時にはもう牙を向けていた。

 

 一人が小走りになれば、二人が小走りになる。数秒後には四人が小走りになって、その後には八人が。そうして、ものの5分も経つ頃には受験生全員がジョギングというには些か速い速度でトンネルを駆け抜けていた。

 

 

 受験生の誰もが、この時点で気づいた。コレが、一次試験なのだということを。

 

 

 ただ、試験官の後に続けば良い。言葉にすればただそれだけのことではあるが、言い換えれば、何が起ころうとも試験官の後に付いて行かなくてはならないということ。

 

 いったい、このトンネルが何処まで続いているのかは分からない。時計はなく、景色も変わらず、音すら自分たちが奏でる煩い足音だけ。その中を走り続けて追いかける……それが、この試験の壁なのだということを理解した。

 

 

 ――不思議な事に。誰も、追い付けない。

 

 

 走る受験生の中には、試験官のすぐ後ろに行こうと加速する者もいる。けれども、歩き続けているサトツとの間に、徐々に距離が生まれる。気づいた他の受験生が幾分か慌てた様子で加速するが、それでも距離は縮まることがない。

 

 加速しても、加速しても、加速しても、サトツとの間にある距離が縮まらない。既に、速度はジョギングなどという軽いものではない。トップレベルのフルマラソン並の速度となっていたが、それでもなお……サトツに追い付けない。

 

 一人、また一人、屈強な受験生たちの頬に汗が伝い、衣服が濡れて、息が切れ始めてゆく。それも、当然だ。受験生たちとて、並の体力ではない。一人ひとりがトップアスリートとして活躍出来る……いや、それ以上の体力を有している者が大半だ。

 

 しかし、それはあくまで平時での話。ハンター試験という名の精神的な緊張に加え、この場にいる誰もが手ぶらではない。何もかもが不明な二次試験、三次試験の為に小道具を持っている者が大半であり……この状況においては、重りでしかない。

 

 それが、10km、20km、30km。受験生の中には、己が速度と所持している時計から、おおよその距離を推測する者もいる。そうして、自分たちが既に40km近い距離を走り続けていることと、未だゴールが見えていないことに気づき……愕然とする。

 

 けれども、試験官の足は止まらない。一定の速度に達した時点から加速しなくはなったが、その歩調に変化はない。何十kmという距離を歩き続けているというのに淀み一つない動きに……一人、また一人、受験生の顔色が変わり始めていた。

 

 

 ……ただし、一人だけ例外がいた。

 

 

 それは、数十kmという距離を走っても息一つ乱れない強靭な体力を持つ……というのとは、少し違う。いや、実際に走ったとしても息一つ乱れたりはしないのだが、それとは違う理由で、ただ一人だけ……平然としている者がいた。

 

 それは、長い長蛇の列となった受験生たちの、はるか先。先頭集団よりさらに20mほど先を進む試験官のサトツ……の、頭の上。傍から見れば娘を肩車する父親のような状態になっている、『二本角』と呼ばれている彼女であった。

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………何故、そうなっているのか。答えは単純明快、加速が始まって受験生が走り始めた辺りで、彼女がサトツの肩に飛び移ったから。そして、それをサトツ自身が許しているから、それに尽きた。

 

 

 当然……そう、当然ながら、サトツの後ろにいた受験生たちは非難の声を上げた。

 

 

 考えてみれば、当たり前だ。これを許せば、一人だけ楽をして合格することが確定してしまうだけでなく、これでは試験の意味がなくなってしまうからだ。

 

 

 ――いえ、これはルール違反ではありません。

 

 

 けれども、当のサトツは彼女を失格とはしなかった。

 

 何故かといえば、サトツが示した試験内容は、『第二次試験会場まで、私に付いて来ること』。試験官に対する明確な妨害行為であるならまだしも、彼女が取った手段は『試験官を利用する』というもの。

 

 一般常識で考えればアウトではあるが、試験の禁止事項には『試験官を利用してはならない』という記載はなく、また、自身もそれを禁止することを明言してはいない。

 

 

 つまり、サトツの基準では明確な違反を犯したわけではない、ということ。

 

 

 アウト寄りのギリギリ灰色、というわけだ。褒められた手段ではないが、一歩間違えれば即失格の方法を躊躇せず取った豪胆さは評価出来る。

 

 だから、最初にそれを行った点を踏まえたうえで、特例で今回に限り許す……それが、サトツの下した結論であった。

 

 

 ――ですので、例外はあくまで彼女だけです。今後、私の身体等を使って試験を進めようとした場合、発覚次第失格と致します。

 

 

 とはいえ、一人許せば、ならば俺も私も……となるのが人の常。当然、それが分かっているサトツから、釘を刺す形で他の受験生たちに『待った』が掛かるわけで。

 

 

 ――それと、途中までは許しますが、貴女もそこから先は降りて他の受験生と同じ条件で試験に臨んでください。これは、試験官からの指示になりますので、異を唱えるのであれば失格と致します。

 

 

 また、さすがに一次試験全部をそれで済ませるつもりはサトツもなかったようで。楽できる分は楽をしようという程度の認識でしかなかった彼女は、特に異論を唱えることはしなかった。

 

 

 それで、この件は終わりとなった。

 

 

 受験生たちも、これ以上の押し問答は体力と気力の無駄であると悟ったのだろう。多少なりとも嫉妬の視線と陰口が受験生たちの口から零れたが、それも十分が経過した頃には鳴りを潜め……誰も彼もが無言のままに、走る事に集中していた。

 

(……楽といえば楽だけど、ただ黙っているのも退屈だなあ)

 

 

 だが、そうなると退屈になるのは他でもない、彼女の方であった。

 

 

 何せ、トンネル内の景色には変化というものがない。いや、もしかしたら変化が起こっているのかもしれないが、少なくとも、彼女が見る限りではほとんど見つけられない。

 

 他の暇潰しを探そうにも、背後にて走り続けている受験生たちの邪魔をするわけにもいかない。こういう時は酒でも飲んでいれば時間を潰せるのだが、あいにく酒瓶の一つも持ち合わせていないし、酒を持ち歩いている受験生も……残念ながら、いない。

 

 やれることといえば、黙って変わりのない景色を眺めるばかり。乗り物代わりにしているサトツと無駄話でも出来ればまだマシなのだが、話しかけても返事をしてくれない。結果、彼女はずーっと手持無沙汰であった。

 

(……おお、ようやく終わりかな?)

 

 そのまま、どれくらいの間、ぼけーっとしていたことだろう。何だか眠気すら覚え始めた頃、ようやく訪れた変化に瞑り掛けていた目を開ける。彼女の眼前には、先が見えないぐらいに続いている……果てしない階段があった。

 

「――そろそろ、ラストスパートです。ペースを上げますので、見失わないよう気を付けてください」

 

 そう、独り言のようにサトツが呟いたかと思えば、ぐんとその身体が加速して階段を登り始める。振り落とされるようなことはなかったが、足を掛けたままかくんと仰け反れば、苦悶と絶望に顔を歪ませた受験生たちと目が合った。

 

 

 ……頑張れ。

 

 

 嫉妬を通り越して殺意すら混じり始める視線を前に彼女が出来るのは、胸中にて応援の言葉を送る。ただそれだけで、ただそれだけのことしか、彼女には出来ないので……と。

 

(……はて、地震か?)

 

 それは、不意に訪れた。と、同時に、試験官であるサトツにとっても想定外のことだったのだろう。試験が始まってから初めて足を止めたサトツは、訝しんだ様子で辺りを見回した。

 

 受験生たちも、同様に辺りを見回す。とはいえ、それを行っているのは体力に多分の余裕を残している、全体の半分程ぐらいであった。

 

 残りの半分は膝に手を当てて大きく息を整え、降って湧いた休憩時間に全力を費やしているようで、異変自体に気付いていない――と、その時であった。

 

 トンネルの壁に、ヒビが入った。「――工事でもしているのか?」気づいた受験生の何人かがそこへ目をやった――次の瞬間、ヒビが砕けて弾け――目が眩む程の光と熱風が、雪崩れ込んで来た。

 

(――こりゃいかん。何人か死ぬぞ)

 

 彼女がそう思うのと、受験生たちの悲鳴が上がるのとは、ほぼ同時であった。

 

 次いで、爆風と破片の幾らかが受験生たちに――位置的に、まともに直撃すれば致命傷になりかねないうえに、疲労で避けることすら出来なくなっている者を瞬時に把握した彼女は、大きく息を吸って――吹いた。

 

 

 彼女が取った行動は、それだけであった。

 

 

 しかし、たったそれだけとはいえ、『伊吹萃香』の肺活量を以ってして放たれた吐息はもはや、空気の砲弾。迫り来る爆風を、ぼふう、と呆気なく相殺して……その奥より数人かが、こちら側に飛び込んできた。

 

 飛び込んできたのは、つい数時間前に別れたっきりとなっていたゴンたちであった。よくよく見やれば、銀髪癖毛の見慣れぬ少年が交じっているが……まあいい。

 

 突然の事態に唖然とする受験生たちを他所に、彼らは互いの無事を確認しあっている……と。いち早く状況を理解したゴンが、「――御免なさい、壁を壊しちゃった」どことなく申し訳なさそうにサトツの下へとやってきて……その視線がサトツの上にいる彼女へと向けられた。

 

「二本角さん、そこで何をしているの?」

「途中までの無料タクシーさ。それよりも、壁を壊したことについての試験官さんの返答は?」

 

 彼女からも返答を促されたサトツの答えは、「ルール上問題はありません」であった。

 

「『壁を壊してはいけない』、等という条件は付けておりません。なので、このまま私に付いて来られれば、それで一次試験合格です」

「本当? やったあ!」

「……それにしても、よくあそこを脱出出来ましたね。壁を壊した手腕もそうですが、中々出来ることではありませんよ」

「あ、うん。俺たちがやったんじゃないよ。全部、キルアが考えてくれたんだ――って、キルア? どうしてそんな離れた所にいるのさ?」

 

 振り返ったゴンの視線が、受験生たちの陰に隠れるようにしてこちらを覗いている銀髪少年を捉える。その少年が、キルアなのだろう。「キルア、いったいどうしたのさ?」不思議そうに小首を傾げたゴンが、キルアの下へ向かっていった。

 

 

 ……それを見送ったサトツは、「それでは、試験を再開致します。みなさん、付いて来てください」そう受験生たちに告げると、再び試験を始めた。途端、受験生たちの間から苦悶の声があがったが、サトツは一瞥すらしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――階段を登り切った先は、外へと通じる出口。久方ぶり(実際は、数時間程度なのだろうが)に感じる外の空気を堪能しようとする受験生たちを待ち受けていたのは、四方全てに広がる広大な湿地帯であった。

 

 

 その名を、『ヌメーレ湿原』。別名、『詐欺師のねぐら』。

 

 

 場所の説明を始めるサトツに、誰も彼もが表情を強張らせる。何故ならその名は、ハンターを志す者のみならず、少しばかり秘境について知識を持ち合わせている者ならば常識といっても過言ではない有名な場所であるからだ。

 

 

 いったい、何が有名なのか……単に、危険であるということで有名なのだ。

 

 

 まず、『ヌメーレ湿原』には人間が立ち寄れる場所がない。見渡す限り全てが自然の大平原であると同時に、この湿原には……人間を捕食する凶悪で狡猾な生物が生息している。

 

 この、生物たちが厄介なのだ。というのも、この湿原に生息している生物はどれも知能が高く、集団で行動するうえに、人間のように人を騙して食糧にしようとするからだ。

 

 人語を真似ておびき寄せるのは、もはや定石。体内にて精製した催眠ガスや麻痺毒を用いたり、景色に溶け込んで捕食するなんてのは当たり前過ぎて注意喚起にすら載らない。

 

 何せ、数か国の言語を習得して集団で騙しに掛かる、にわかには信じ難い方法を取る生物すら確認されている程だ。その危険性たるや言葉で言い表せるものではなく、調査に赴けば必ず一人は命を落とすと言われるぐらいに危険な場所なのだ。

 

 

 しかも、危険なのは生物だけではない。

 

 

 立ち並ぶ木々は短いものでも十数メートルはあり、長いものなら50メートルにも達する巨大なものもある。それ自体は大した問題ではないが、厄介なのはどこからともなく漂ってくる……掴みとれそうな程の、濃霧。

 

 その中に入れば、即座に方向感覚を失ってしまうだろう。また、多種多様に繁茂する草木によって、多分に水分が溜め込まれた大地は、御世辞にも走りやすいとは言えない。一度でも足を止められたら最後、肉食生物たちに……なのは、言うまでもないことであった。

 

 

 ――がらがら、と。

 

 

 地下道……というか、つい数十分前に走り抜けて来た地下トンネルへと通じる出入り口のシャッターが、下り始める。その奥(階段のところ)で、息も絶え絶えに腕を伸ばしている受験生の姿があったが、無情にもシャッターは下り続け……がしゃん、と音を立てて地下と湿原とを隔ててしまった。

 

 ……がらりと、空気が入れ替わるのを受験生たちは実感していた。強いストレスという点ではトンネルの中も同じであったが、文明というものが周囲全てにないからだろうか。

 

 まるで、景色そのものが『餌がのこのこやって来たぞ』と嗤っているかのよう。肉食生物たちの独壇場……彼らのホームグラウンドから漂って来る何とも言えない空気を前に、自然と受験生たちは無言となっていた。

 

(……ん~、これは駄目かも分からんね)

 

 ただし、サトツの肩より降りた彼女は、他の受験生とは異なることを考えていた。それは絶望……ではなく、純粋に周囲の受験生に対する心配であった。

 

(詐欺師ってさあ……よりにもよって、詐欺師と来たか。いやあ、これは……二次試験会場に着くまでに正気を保っていられるのだろうか?)

 

 いったい誰がって、そんなのは決まっている。言うまでもなく、『二本角』と呼ばれている、己に対してであった。

 

 どんな理由であれ、彼女は嘘を嫌う。しかし、『人間以外からの嘘』を体感した覚えはない。おそらくは……もしかしたら……万が一……人間以外だからセーフ……う~ん、とてもではないが、そうは思えない。

 

 彼女自身が想起してしまったのは、狡猾な肉食生物たちの『嘘』に怒髪天をついて、暴れ回る己自身。トンパのことで堪忍袋は既に傷だらけ……我慢出来る未来を、彼女は全く予想できなかった……と。

 

「――さて、それではこれから二次試験会場へと向かいます。既に説明した通り、この湿原には危険な肉食生物がうようよしております」

 

 そんな中で、サトツの声はよく響いた。遠くの方より届く怪鳥や猛獣の声など気にも留めていない様子のサトツは、「退くのも勇気、退くのも勇気です」そう言葉を続けた。

 

「言っておきますが、ここから先は私たち試験官側が助けに入ることは一切ありません。一定期間内に二次試験会場に辿り着けなかった者は、ここのやつらに食われて骨すら無くなった……そう、私共は考え、捜索隊も出しません」

 

「その意味が、分かりますね?」

 

「だからこそ、無理だと判断した者はこの場で待機してください。おおよそ30分後、ここに職員が訪れます。その時点で今試験をリタイアしたとみなし、失格となります……ここまでで、何かご質問はありませんか?」

 

 サトツの言葉に、受験生たちは押し黙った。それは単純に質問がないのも理由の一つだが、何よりも目の前の光景に圧倒されるばかりで、何も思いつかなかったからだった――その時。

 

「――嘘だ、そいつは嘘を吐いている! 本当の試験官は、俺だ!」

 

 今にも試験を再開しようとするサトツの気を遮るように、怒声が響いた。何だ何だと振り返るサトツと受験生たちが見たのは……今にも倒れそうなほどに全身を負傷した男であった。

 

 その男の手には、袋に収められた人の顔をした猿がいた。白目を剥いて舌を出してだらりと脱力している……おそらく、息絶えているのだろう。動物園で見掛けるような猿とは、根本的に異なる生物であるのが窺えた。

 

 声高に、それでいて怒りを露わに。負傷した身体を辛そうに庇いながら話す男の言い分は『お前たちを騙して食う為に、偽物の試験官として罠に誘導しようとしている』というものであった。

 

 放り捨てるように投げられた袋が解け、包まれていた猿が露わになる。男は、白日の下に晒された『人面猿』という名の魔獣を、言葉巧みに人を騙す厄介なやつだと説明した。

 

 

 本物と、偽物。ここまで連れてきた試験官が偽物で、本物は……負傷した、この男?

 

 

 降って湧いた疑念に、受験生たちは動揺を見せる。無理もないことだ。トンネルを抜けて空の下に出られたことで、ある種の興奮状態が持続してしまっている。普段なら下せる冷静な判断も、この場においては難しい。

 

 もちろん、場の空気に流されることなく冷静に思考を巡らせ、振る舞っている者もいた。だが、そんな者たちも、どちらが本物の試験官かを見分ける術がない。必然と、場の成り行きを静観する以外の手段を取れなかった。

 

「――本物なら、ライセンスカードを持っているはずだ」

 

 だからこそ、ポツリと呟かれたその言葉に、全員が目を向けた。確かに、そうだ。本物の試験官であるならば、プロハンターの証明であるライセンスカードを所持している……はず、だったのだが。

 

「……それも、そいつに盗まれた。着ている服も、何もかも、俺の物を盗みやがったんだ!」

 

 そう、本物と名乗る男が吐き捨てるように答えれば、話は振り出しに戻ってしまった。何故なら、ハンターライセンスには顔写真などはなく、データとしてカードの中に保存されているからだ。

 

 近くに、ハンター協会が運営する施設が有れば。いや、施設でなくとも良い。カードを読み取る機械さえあれば、問答など必要ない。軽くカードを読み取り機に滑らせるだけで、どちらが本物かが分かる。

 

 

 だが……この場には、そのどちらもない。

 

 

 もしかして、これもハンター試験なのだろうか。あるいは、試験官すら予期出来なかった本当のトラブルなのだろうか。疑念が疑念を呼び、必然的に受験生たちの視線がサトツと、傷だらけの男へと向けられていた。

 

 

 ……その中で、やっぱり一人だけ。

 

 

(猿の言う事……猿の言う事……猿の言う事……猿の、いう事……お、おお、おおお……!)

 

 彼女だけが、他の受験生とは異なっていた。

 

 言い争う者たちから離れて背を向け、耳を塞ぎ、唇を噛み締め、顔中に冷や汗が浮かび、じゃらりと両手や腰に巻き付いた鎖が音を立てる。それもこれも、胸中より沸々と湧き起こってくる……憤怒を、必死になって堪えているからだ。

 

 

 いったい、どうしてか。答えは、一つ。

 

 

 猿の言う事と内心にて呟いたのは、他でもない。他の受験生とは違い、彼女は初見で……正確には、傷だらけの男の方が嘘つきであるということを、最初の発言を聞いて瞬時に見破っていたのだ。

 

 付け加えるなら、彼女は傷だらけの男が、袋に包まれた猿の同族……すなわち、人面猿であることも分かっていた。気づいた理由は、死んでいるという嘘をわざわざ猿が吐いているのが分かったからだった。

 

(あ~、もう! どっちでもいいから、さっさとしておくれ! こっちにも我慢の限界ってものがあるんだからさ!)

 

 深呼吸をして、気を静めることに全力を注ぐ。トンパの時もそうだが、『伊吹萃香』の身体は嘘を根本から拒絶する。『彼』の部分があるからこそ、空気を読んで我慢出来ているが……それでも、限度というものがある。

 

 理由なんて、必要ない。とにかく、嫌なのだ。鬼としての性質が、嘘を拒絶する。例えそれが、弱肉強食のうえでは当たり前の嘘であったとしても……どうしても、嫌悪が前に出てしまう。

 

 

 とにかく……とにかくだ。まずは、この怒りを鎮めなくては……まともに、身動きすることすら出来ない。

 

 

 それを一身に、彼女は何度も深呼吸をする。何度も、何度も、何度も、胸中の怒りを全て吐き出すかのように、大きく深呼吸を繰り返す。

 

 そうして、幾ばくかの時間が流れた後。胸中にて沸き立とうとしていた怒りも静まり、ようやく波が過ぎ去ったのを感じ取った彼女は、瞑っていた目を開けて、振り返った。

 

「……あれ?」

 

 直後、彼女は思わず目を瞬かせた。何故かと言えば、彼女の眼前には誰もいなかったからだ。三百名近く居たはずの受験生だけでなく、あれだけ騒いでいた偽物試験官の姿も……ない。

 

 

 ……はて、いったい何処へ行ったのだろうか?

 

 

 小首を傾げながらも辺りを見回すが、やはり、どこにもいない……と。何気なく足元を見やった彼女は、再び小首を傾げる。そこに散らばっているのは、数枚のトランプカードであった。

 

 

 トランプ……うん、トランプだよね、これって。

 

 

 泥の付いたそれを拾って見やれば、確かにトランプだ。特に何かが有るわけでもなく、軽く力を入れれば容易く折れ曲がった。それがどうして、こんな場所に散らばって……いや、待て。それは今、気にすることではない。

 

 とにかく、他の受験生……というか、試験官を探さねばどうにもならない。

 

 そう判断した彼女は、とん、と軽く地を蹴る。と、同時に、彼女の身体は風船のようにふわりと浮いたかと思えば……その身体は青空高くへと飛び上がり、瞬く間に地上百メートル近くにまで浮上した。

 

 

 ――忘れている者も多いと思うが、『伊吹萃香』の身体を持つ彼女は、空を飛べるのだ。

 

 

 今までそれをしなかったのは、言うなれば不便を楽しんでいたからだ。基本的に移動は車か交通機関を使ったりするのだって、のんびりだらだら行きたいからそうしている……ただ、それだけのことなのだ。

 

 なので、特に拘りがあってしなかったわけではない。今みたいに、必要となれば空を飛んで受験生たちを探すことだって、ワケはないのであった……あ、いた。

 

 彼女の視線が、湿原の向こう……ぽつんと見える倉庫にて止まる。アレが二次試験会場なのだろうかは分からないが、多数の受験生の他に……試験官のサトツが立っているのが見えた。

 

 ……ちなみに、これもまた肉体の頑強さ等に隠れて分かり難いが、彼女の動体視力も常人のソレではない。目を凝らせば、望遠鏡並みに彼方の人間を識別することだって、ワケはないのだ。

 

(ん~、なんかズルをしているようで申し訳ない気も……まあいいか)

 

 これで反則負けだったら、それでいいや。

 

 考えることが面倒になった彼女は、えいやと空を飛んでソコへ向かう。弾丸にまでは至らないが、その速度は百数十キロは出ている。小さな身体は風を切って進み、ぐんぐんと二次試験会場と思わしき場所へ……あっ。

 

(いかん、久しぶり過ぎて勝手が――)

 

 このままでは地面に激突する。そう思った時にはもう、遅かった。視界全てが地面に埋め尽くされたかと思えば、どごん、と鈍い音が脳天に響いたのであった。

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………どうやら、頭では酒が抜けたと思っていても、身体にはしっかりアルコールが残っていたようだ。何とも言い表し難い羞恥心を覚えずにはいられなかった彼女は、内心を誤魔化すように身体を……身体を……ん?

 

(ぬ、抜けないぞ、これ)

 

 ぐい、ぐい、と身体を捻ってようやく、膝のあたりまで地面の中へ埋没してしまっている己に気付く。外の様子が分からないので強引に出るわけにもいかず、ばたばたと両足を振る。けれども、一向に身体が抜け出る気配がしない。

 

 地面に突き刺さった頭部……正確には、横に伸びる二本の角が返しとなって引っ掛かっているようだ。いや、感触から考えて、身体の鎖も同様に地面の中に……お、おお?

 

 何かが、両足を掴んだ。と、思った瞬間、グイッと身体が引っ張られ、地面から抜け出られた。その際、勢い余って三回転ほど地面を転がって……仰向けになった。

 

 

 誰かが、引っ張ってくれたのか。

 

 

 身体中に纏わりついた泥に辟易しつつも、泥だらけの手で何とか目元を拭う。そうしてから彼女の視界に映ったのは、こちらを心配そうに……それでいて、興味深そうに見やるゴンとクラピカの両名であった。

 

「あ~、まずはありがとう。それで、ここが二次試験会場で合っているかい?」

「うん、そうだよ。ねえ、凄い勢いで地面にぶつかったけど、大丈夫なの?」

「大丈夫、大丈夫。ちょいと加減を間違えただけだから」

「……色々と言いたいことはあるが、本当に大丈夫と思っていいんだな?」

 

 身体を起こして、軽く腰を捻る。合わせて、ほんの僅か……傍目にはほとんど分からない程度に身体を霧化させて、身体に付着した泥を落とす。

 

 心配そうに見やるゴンとクラピカに、「安心しなよ、私はこう見えてけっこう頑丈なのさ」彼女は泥に塗れた赤ら顔に笑みを浮かべた後……んん、と耳を澄ませた。

 

 

 ……何だろうか。気のせいじゃなければ、さっきから……妙な音が聞こえる。

 

 

 最初は獣の声かと思っていたが、どうも違う。辺りを見回した彼女は、小首を傾げる。どうしてかといえば、彼女が探知できる範囲に……それらしい獣の気配がなかったからだ。

 

 強いて気配の出所を挙げるとするならば……彼女の視線が、この場に置いては唯一の人工物である倉庫へと向けられる。聞き間違いでなければ、音の出所はあそこだ。

 

(もしかして、次の試験は獣か何かをぶっ飛ばせって感じなのかな? それなら私としては物凄く分かり易くて嬉しいんだけどなあ~)

 

 まあ、何であれやれそうならやればいいし、無理だったら無理なりにやればいいや。

 

 そう結論を出した彼女は、倉庫からゴンたちに視線を戻し……おや、と目を瞬かせた。今更になって気付いたが、一人足りな……いや、二人か、どっちでもいいや。

 

 とにかく、顔ぶれが足りていないことに気付いた彼女は、二人はどうしたとゴンたちに尋ねた。「キルアなら、何かまた向こうに行っちゃった。レオリオは……」すると、ゴンは苦笑しながら背後を指差し、彼女はその先へと視線を向け……あらまあ、と目を瞬かせた。

 

「レオリオ……だったかな? あんた、その顔はどうしたんだい? ずいぶんと男を増した面構えになっているね」

「いちっ、ちち、しら()ーよ。目が()めたら、こんらか()ら」

 

 彼女の視線は、ゴンたちより少しばかり離れた所で、真っ赤に腫れあがった頬の治療を行っているレオリオをばっちり捉えた。何かアクシデントでもあったのか、涙目になって頬に薬を塗っているその様は、実に痛そうであった。

 

 ……虫やら何やらに刺されて腫れた……というより、殴られた痕のように見える。あれはどうしたのかと二人に視線を戻せば、二人は困った様子で苦笑を浮かべると、首を横に振った。

 

 

 ――聞くなって、ことかな?

 

 

 言わんとしていることを察した彼女は、まあいいかなと、それ以上を尋ねるようなことはしなかった……ちょうど、その時。

 

 倉庫の入口(シャッター)に取り付けられている時計の針が、12時を差した。合わせて、ぼーん、と。特に真新しくもない、時刻を知らせるアラームが辺りに鳴り響いた。

 

 

 それは……二次試験開始を知らせるものであった。

 

 

 そして、アラームが鳴り終わるや否や、キリキリキリとシャッターが開き始める。途端、倉庫内より響いていた異音がさらに激しく、大きくなる。

 

 

 怪物か、猛獣か!

 

 

 思わず身構える受験生たち。今すぐにでも対処できるよう、誰も彼もが固唾を呑んで見つめていた。その中には、何が出るのやらと興味深そうにしている彼女の姿があった……けれども。

 

 シャッターが上がり切った、その瞬間。彼女のみならず、その場に集まった者たち全員の緊張が……少しばかり緩んだ。

 

 何故ならば、倉庫の中にいたのは怪物でもなければ猛獣でもなかったからだ。けして大柄とは言い難い桃色髪の女が一人と、三メートル半近い体格になるであろう大男が一人。

 

 女は足を組んだ状態でソファーに座り、その後ろから両足を投げ出した大男がソファーを囲うように座っている。あまりに、見た目が対照的過ぎるからだろうか。その光景はまるで、小人と巨人であった。

 

「――お待たせ!」

 

 想像していたモノとは異なる光景を前に、思わず面食らう受験生たち……を他所に、最初に声を上げたのは女の方であった。

 

「私の名は『メンチ』。そんで、こっちのデカいのが『ブハラ』。私たち美食ハンターの二人が、二次試験の審査員を務めさせてもらうわ」

「美食ハンター……それに、二人? というと、もしかして二次試験は……?」

「察しの通り、私とブハラで一つずつ『料理』の試験を出すわ。この二つをクリアして、初めて二次試験合格よ」

「料理って、おい! ここまで来てソレかよ! 俺たちは料理人になる為に試験を受けているんじゃねえんだぞ!」

「そんなの知ったこっちゃないわよ。い~い? 私たちが一つずつ提示する『料理』を作り、それを私たちが美味しいと認める。それで、晴れて合格……いいわね?」

 

 ポツリと呟かれた受験生の問い掛けに、「言っておくけど、文句があるやつは帰ってもらっていいわよ」メンチはそう反論を押さえつけた。

 

 それでもなお、不満の声は上がったが、ココまで来て帰ってもいいかなと考えている受験生は、おそらく一人を除いて誰もいなかった。ちなみに、その一人は考えるまでもなく、彼女であった。

 

(……ん~、大丈夫なのかねえ?)

 

 そうして、彼女のみならず、受験生の誰もが内心に思うところを抱えたまま、

 

 何処となく不穏な気配と一抹の不安と共に……二次試験が、始まった。

 

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………そうして、案の定というべきか、何というか。薄らと漂っていた不安が的中したのは、それから二時間も経たない内のことであった。

 

 ――と、いっても、二次試験全てがそうなったわけではない。

 

 二次試験の内の前半部分、大男のブハラが出した試験では問題なかった。彼が出した試験内容(メニュー)は、『豚の丸焼き』。二次試験会場がある周辺の森に生息する、世界一凶暴な豚と言われるグレイト・スタンプの丸焼きを注文(オーダー)された。

 

 このグレイト・スタンプはその巨体や凶暴性もそうだが、何よりも厄介なのは強固な鼻から繰り出されるタックルである。前面全てを覆う程に発達した鼻骨は鋼鉄と間違う程に硬く、まともに直撃すれば常人なら即死する威力を誇る。

 

 

 なので、ここで十数名近い受験生が負傷し、リタイアとなった。

 

 

 だが、これに関しては、何の問題もなかった。何故なら、ブハラはあくまでグレイト・スタンプを捕獲して調理するに至る身体能力や度胸等を評価し、味に関しては特に問題にはしていなかったからだ。

 

 その証拠に、ブハラは一部黒焦げになってお世辞にも美味いとは言い難いやつも、「――美味い!」とあっさり平らげ、調理技術の拙さには全く触れなかった。

 

 これにより、ブハラが提示した豚の丸焼き、二次試験前半の試験においては、総勢71名が合格することとなった。

 

 

 ……が、しかし。

 

 

 問題が起こったのは、後半の試験。すなわち、メンチの出題(オーダー)である『寿司』(とある島国に伝わる民俗料理であり、一般的には全く知られていない)の難度もそうだが、試験官という立場に対するメンチの姿勢であった。

 

 切っ掛けは、とある受験生の料理を軽んじる言葉ではあった。

 

 だが、事の本質はそこではない。有り体にいえば、メンチが試験官としてではなく、一人の料理人として試験官を務めようとしていたのがそもそもの原因であった。

 

 何故なら、メンチは美食を探究するハンターであると同時に、料理人としても広く名の知られた女でもある。加えて、一度口にした味は忘れないと言われる程に優れた舌を持つ、文字通りの生粋の美食家だ。

 

 そんな女が、試験官としてではなく、料理人として、美食家として、純粋に味の評価をすればどうなるか……それは、考えるまでもなく明らかなことで。

 

「――わりぃ、腹いっぱいだわ。よって、二次試験合格者は0! 現時刻にてハンター試験は終了!」

 

 と、なってしまったわけであった。

 

 

 ……当たり前だが、受験生たちは誰一人納得しなかった。彼ら彼女らが目指しているのはハンターであって、料理人ではないからだ。

 

 

 いくら試験官の裁量に任されているとはいえ、世界有数の美食家であるメンチの舌を満足させるだけの腕前なんて……世界中の料理人を探しても、50人にも満たないだろう。

 

 故に、これに関しては同じ試験官であるブハラも「それはいくら何でもあんまりだよ、メンチ……」困った様子で異を唱え、実はこっそり遠くより成り行きを見守っていたサトツも、それは如何なものかと口を挟んだ。

 

 

 事実、客観的に見ればメンチの出した試験には問題が有った。

 

 

 『味』という点についてはブハラも評価はしていたが、ブハラの評価点はそれよりも、凶暴なグレイト・スタンプを時間内に捕獲し調理してくるという過程に重点を置いていた。

 

 

 しかし、メンチの場合は違う。メンチは過程ではなく、結果に全てを置いた。

 

 

 つまり、『メンチが満足出来るレベルの寿司』という、歴代受験生全員合わせても一人合格者が出るか否かという試験を行ったのだ。結果的に0人にするのではなく、始めから0人になるようなことをしたのである。

 

 さすがに、同じ試験官からも異を唱えられて当然であった。

 

「――るっさいわね! 私が不合格っていったら不合格! 試験官である私に逆らうなら、来年からの試験参加の権利を剥奪してやってもいいのよ!」

 

 けれども、メンチも一歩も引かなかった。いや、それどころかさらに激昂した様子で、受験生たちを睨みつける有様であった。

 

 これには……あくまで低姿勢であった受験生たちも、怒りを露わにした。これもまた、当然だ。意に介さないメンチを他所に、少しずつ……確実に、受験生たちの怒気が増してゆく。

 

 それを見て、あくまで静観に徹していたブハラが立ち上がり、メンチの傍にたった。「ブハラ、余計な真似はしないで」途端、不機嫌そうに眉根をしかめたメンチだったが。

 

「――だってさ、俺なら腕をへし折る程度に済ませるけど……メンチがやると、それだけじゃあ済まないだろ?」

 

 ……メンチは答えなかった。しかし、舌打ちだけは返すと、これ以上は問答すらしないと言わんばかりに受験生たちから顔を背けた。

 

 それを見て、受験生たちの中には武器を構える者すらいた。到底、納得出来るものではないと言わんばかりに、正しく一触即発の空気となった……けれども。

 

「ん~、さっきから話を聞いていると、どうもあんたの出した試験はハンターとしてのそれじゃなくて、料理人に対するそれ……だよね?」

 

 妙に間延びした女の子の声が、今にも破裂しようとしていた緊張感を緩めた。自然と、その場にいた誰もが声の出所へ……酒瓶をラッパ飲みする、二本の角を生やした彼女へと向けられた。

 

 

 

 

 

 

 ――ぐびり、ぐびり、ぐびり。

 

 料理酒ではなく本物の清酒(意外と上物)を、喉を鳴らして飲んでゆく。呆気に取られる受験生たちの視線を感じながら、彼女は……静かに、メンチを見つめていた。

 

(ふっつうに試験に落ちるならまだしも、これはねえ……いくら何でも、こいつらが気の毒ってものさ)

 

 げふう、と吐かれたため息はあまりに酒臭く、傍にいた受験生が嫌そうに顔をしかめた。

 

 ……ちなみに、この酒は倉庫の中に用意された調理台(寿司を作る為に用意された仮設のもの)の下より見つけ出した物である。

 

 おそらくは受験生を惑わすフェイクとして用意されたものだろうが、彼女は構うことなく一本を空にすると、小脇に抱えた二本目に手を付けながら……改めて、メンチに問うた。

 

「この試験は、ハンターとしての資質を確かめる試験である。あんたは、誰に対しても胸を張ってそれを言えるのかい?」

「……なに、あんた? 文句なら受け付けないわよ」

「話を逸らすな。あんたは、試験官として正しく試験を行った……そう、胸を張れるかと聞いているんだ」

 

 二本目を半ばまで飲んだ彼女がそう尋ねれば、「――だったら何よ」メンチは苛立ちを隠そうともせず彼女を睨みつけた――のだが。

 

「『嘘』を、つくなよ」

 

 ポツリと、ともすれば聞き逃してしまいそうなぐらいの、静かに放たれた彼女の言葉に……メンチの肩が、ぴくんと震えた。そのうえで、「私はね、『嘘』が嫌いなのさ」彼女はさらに彼女に問うた。

 

「あんたも本当は分かっているんだろ? 自分が行った試験に問題が有ったってさ」

「…………」

「そこの試験官の御二人様も同意見みたいだし、試験のやり直しをしてもいいんじゃないかい?」

「…………」

 

 メンチの返答は、沈黙であった。肯定もせず、否定もしない。けれどもその沈黙が、万の言葉よりもはるかにメンチの内心を語っていた。

 

「……メンチぃ、その子の味方をするわけじゃないけど、俺もそうした方がいいと思う。だって、これじゃあ受験生たちがあんまりだよ。こいつらは、料理人を目指しているわけじゃあないんだよ」

「…………」

「メンチさん、もういいでしょう。料理人としてのあなたの実力も、ハンターとしての純粋な実力も、誰もが認めるところ。ですが、その矜持を受験生たちに押し付けるのは間違いです」

「…………」

「サトツさんの言う通りだよ。寿司の作り方だって漏れちゃったわけだし、改めて試験をやり直した方が皆も納得すると思うよ」

「…………」

「その方がいいと、私も思います。さすがに、料理が出来なかったから試験不合格では後々、試験委員会の方から言われてしまいますよ」

 

 それを好機と思ったのか、ブハラとサトツも説得に加わった。

 

 彼女の言葉通り、この試験そのものに問題があった。それに、試験官としてではなく料理人として参加した点も間違っていたし、そもそもこれでは何の資質を見極めるテストなのかすら、分からない。

 

 だからこそ、試験官を変えるのではなく、再試験。やり方に問題があっただけで、メンチ自身には問題はない。ただ、不慣れであったから……そういう逃げ道を用意したうえで、二人は再試験を行う事を促した。

 

「……再試験は、しない」

「メンチ、でもそれは」

「――私は、再試験はしないって言っているのよ!」

 

 けれども、メンチはそれでも首を縦には振らなかった。半ば、意地になってしまっているのだろう。心底困った様子で顔を見合わせるブハラとサトツを他所に、メンチの眼光が……二本の角を生やした彼女へと向けられた。

 

「あんた、さっきから何様のつもり?」

「何様って、何が?」

「あんたは受験生、私は試験官。何で受験生のあんたが偉そうに私に物を申しているのって聞いてんの」

「そりゃあ、今のあんたは試験官じゃなくて、試験官のフリをした料理人だからね。試験官相手なら言葉を選ぶけど、何処ぞとも知れない料理人にわざわざ敬意を払えってのも、変な話だろう?」

「……は?」

 

 ――試験官のフリをした、料理人。

 

 その言葉が切っ掛けか、あるいは意にも介さない彼女の態度が原因だったのかは、定かではない。確かなのは、彼女が言い放った言葉によって、メンチの堪忍袋の緒がブチリと切れてしまったということ……と、もう一つ。

 

「セコイ手を使って一次試験を突破してきた卑怯者の癖に、ずいぶんとデカい口を叩くじゃないの」

「……卑怯者とは人聞きの悪い。私は何一つルールってやつを破ったりはしていないよ」

 

 いくら、頭に血が昇っていたとはいえ、だ。

 

「黙りなさい、この嘘つき女。本音はただ合格したいだけのくせに、ぐだぐだ能書き垂れたところで、あんたが合格になったりはしないわよ」

 

 喧嘩を売る相手の力量を見落としてしまったのは、どう擁護しても擁護しきれないぐらいの、メンチの落ち度であって。

 

「……はっはっは。そうかい、そうかい……言うに事欠いて、この私を嘘つき呼ばわりと……きたかい」

 

 そして、よりにもよって。ああ、よりにもよって、この世界の誰よりも『嘘』を嫌う彼女に対して、万の罵倒よりも、万の行動よりも、彼女を心底激怒させる『嘘つき』呼ばわりするのは。

 

「――覚悟は、出来ているんだろうね?」

 

 自殺同意書にサインしたも、同じでしかなかった。

 

 ……彼女が『伊吹萃香』としてでもなく、『彼』としてでもなく、彼女としてこの世界にて生活し始めてから、どれ程の月日が流れたのか。それは、彼女自身も覚えていない。

 

 それは彼女が彼女となった、あの大陸での生活があまりに忙しなかったのもあるが、何よりもこの世界……人間たちが暮らすこの地に来てから、刺激的で退屈しない日々を送って来たからだ。

 

 

 その中で、彼女はこれまで……心底激怒しかけたことが二度あった。

 

 

 一度目は、この地に来てすぐのこと。かつての……ネテロとの交戦の前に行われた、攻撃。あの時はその後があまりに良かったから怒りも吹っ飛んだが、何もかもが『嘘』に囲まれたあの車の中は……正直、思い出したくもない。

 

 二度目は……数年ぐらい前だろうか。運び屋として荷物を運んだ先で遭遇した、盗賊団。命の灯火を燃やし尽くした御老人の最後を穢した子供(というには、少し育ってはいたが)に行った、ちょいと本気の仕置き。

 

 

 そして……この日、時刻にして14時19分23秒。

 

 彼女にとっては三度目の怒髪天を衝かせたのは、まだ二十歳そこそこの女。美食ハンターとして名声を得ている、試験官のメンチであった。

 

 

「――っ!?」

 

 故に、いや、皮肉にも、だからこそ最初に行動出来たのは、メンチであった。

 

 目にも留まらぬ一瞬の間に、腰に掛けた鞘から二丁の包丁を抜き取る。次いで、瞬きよりも早く繰り出される白刃の連撃。それは傍にいた二人の試験官の静止が間に合わないほどの速さで、彼女の全身へと降り注いだ……が。

 

 その瞬間、メンチはギョッと目を見開いた。

 

 何故かといえば、刃が一閃も通らなかったからだ。いや、それはもはや通る通らないの話ではない。繰り出した刃が、欠けたのだ。その気になれば鋼鉄にだって傷を付ける自慢の包丁が、文字通り負けたのだ。

 

 僅かばかり動揺を見せたメンチに、彼女が一歩踏み込む――瞬間。彼女の視界が光で埋め尽くされた。アッと思う間もなく目が眩んだ彼女の眼前から、するりとサトツが抜けた――直後。

 

 横合いより放たれた張り手が、彼女の身体を弾き飛ばした。見た目相応に軽い彼女の身体は弾丸のように倉庫の壁をぶち抜き、その向こうへと転がって見えなくなった。

 

 やったのは、ブハラであった。それまで浮かべていた温和な表情はそこにはなく、険しい面持ちで彼女を叩いた手を見やってから、外へと消えたその先へと視線を向けた。

 

「メンチ……油断しちゃ駄目だよ」

「油断なんか、しちゃいないわよ」

 

 素早く体勢を立て直したメンチを守る形で、サトツとブハラが前に出た。突然のことに呆然とするしかない受験生たちを他所に、メンチは調理台の一つから包丁を二本拝借すると、それを構えて二人の横に並び立ち……思い出したように受験生たちへと振り返った。

 

「あんた達、ちょっとアイツを取り押さえるまで試験は一旦中止よ」

「――ちょっと待て、まさか殺すつもりじゃ……」

「そうならないようにはするわよ。危ないから、あんたらは散った散った。いるだけ邪魔なのよ」

 

 誰よりも早く声を荒げたのは、頬を大きく腫らした男、レオリオ。けれども、メンチは気にも留めずに野良犬を追い払うが如く手を振って追いやると、改めて……彼女が消えた先へと目を向けた。

 

「――言い忘れていたわ。二人とも、ありがとう。おかげで助かったわ」

「どういたしまして……と、言いたいところだけど、悪い知らせが一つある」

「なによ?」

「たぶん、俺たちではあの子は倒せない。ぶっ叩いて分かったけど、肉体の頑強さが普通じゃないよ。かなり本気で叩いたけど、あそこまで物凄い手応えなのは初めてだよ」

「――マジで? あんたでも無理なの?」

「無理かな。とてもじゃないけど、あれを壊せる自信がないよ。何をやっているかは知らないけど、全力を出しても……たぶん、傷一つ与えられない」

「ブハラさんで無理なら、私でも無理ですね。ちなみにメンチさん、あなたは?」

「……愛用の包丁でも無理だったから、私も無理。道具を差別する気は毛頭ないけど、さすがにこの包丁では……っ!?」

 

 そこまでメンチが話した辺りで、会話が止んだ。それは、彼女が戻ってきた……からではない。ぼこん、と異音がした途端、倉庫の壁がみるみる崩れ始めたからであった。

 

 その様は、まるで毛虫に食われた葉っぱであった。壁が、屋根が、ガラスが、シャッターが、物凄い勢いで砕け、飛び散ってゆく。だが、四方へと飛び散ったわけではない。

 

 理解の及ばない事態に悲鳴を上げる受験生たちの視線が、飛び散る瓦礫の行方に集まる。そこは、倉庫から数十メートル離れた場所。ボールのように丸まって集められてゆく瓦礫を片手で支えている、彼女へと向けられた。

 

 

 ――彼女は、笑みを浮かべていた。

 

 

 けれども、その笑みはけして友好的なものではなかった。笑みを形作っているのは、表だけ。遠目からでも、その内心が憤怒に満ちているのが明白であった。

 

 

 ――事実、彼女は激怒していた。

 

 

 ただ、『嘘つき』と言われただけ。だが、彼女にとってはそれだけで十分であった。マグマが如く噴き出した怒りが、『彼』の制止を焼き尽くす。ふう、と吐いた溜め息に溢れてしまった内心が、ごおぅ、と炎となって地面を焦がした。

 

(ん~、困った。あの女だけでいいのに、他のやつらもやる気みたいだね)

 

 ある意味『穏健派』である『彼』の制止が、機能していないせいだろう。瓦礫の塊を後ろに放り捨てた彼女の頭にはもう、この場を穏やかに収めようという考えはなくなっていた。

 

(……まあ、いいか。加勢するならまとめて蹴散らせばいいものな)

 

 故に、彼女はさっさと駆け出した。地面が砕けて弾けるほどの踏み込みによって生み出される、突進。その初速は、もはや等身大の弾丸で……瞬きの暇すら与えさせない速度でもって、メンチのすぐ前まで接近――した、その瞬間。

 

 ひゅん、と。

 

 何かが煌めいて、顔に当たった。思わず、彼女はコンクリートの床ごと地面に足を突き刺してその場に静止する。「はやっ――くっ!?」あまりに早すぎて反応が遅れたメンチたちを他所に、そちらへ振り返った。

 

 途端――光が、立て続けに煌めいた。

 

 こつこつこつ、と。硬い何かが顔に当たる。的確に、目元や喉や鼻の下といった急所を中心に何かが当たる。痛みは全くないが、いちいちチカチカと光が瞬いて非常に――ええい、鬱陶しい!

 

「余計な茶々を――」

 

 握り締めた拳が、ぎりぎりと軋む。その間にも、煌めき……その正体は、トランプだ。顔に星やら滴やらのメイクを施した男が、ナイフのように鋭いトランプを投げつけて来ている。

 

 常人ならその一枚一枚が即死の切れ味だろうが、彼女の前ではティッシュよりも頼りない。その証拠に、男が放ったトランプはただの一枚も、彼女の肌に傷を付けていない。

 

 いったい、何がしたいのか。試験官たちに加勢したという割には、気色の悪い笑みからは善意を一切感じない。面白そうだから加勢した……と、いったところなのか……まあ、どっちでもいい。

 

「――入れるんじゃないよ!」

 

 邪魔をするなら、蹴散らすまで。

 

 握り締めた拳を、男に向かって繰り出す。たった、それだけ。しかし、たったそれだけの動作によって押し出された風圧が、ソニックムーブが如き風の刃となって男へと放たれた。

 

「――っ!」

 

 気付いた男は、それをギリギリのところで飛んで避けた。珍妙なメイクをしているが、その身のこなしは常人のソレではなかった。

 

 しかし、それでは彼女から逃げられない。『疎と密を操る程度の能力』によって、彼女は男を引き寄せようとした――が、またもや邪魔が入った。

 

 

 横合いより放たれた、ブハラの張り手であった。

 

 

 今度の張り手は、最初の張り手よりも幾らか強力であった。そう、彼女が認識出来る程度に威力を増した一撃に、彼女は再び弾かれ――たのだが、直角に曲がって地面に着地した。

 

「うっ、おぉ?」

 

 と、同時に、くん、と両足が跳ねた。まるで、見えない何かに引っ張られたかのようで反応出来なかった彼女は、べたん、と床に顔面を打ち付けた。

 

 その背中に降り注ぐ、十数本もの包丁。そして、トランプ。

 

 一つ一つがコンクリートを突き抜けて見えなくなるほどの切れ味であったが、その程度では彼女に傷を付けるなど不可能でしかなく――逆に、彼女を苛立たせるだけであった。

 

 前触れもなく、ぐん、と。空を舞っていたメイク男の身体が、彼女の下へと引き寄せられる。「――っ★!?」男はあらぬ方向へと腕を伸ばし、その結果からなのか僅かばかり引き寄せられる速度が落ちたが……無駄だった。

 

 抵抗空しく、むくりと身体を起こした彼女の足元に男は転がる。と、同時に、男の両足が彼女の身体を何度も蹴りつけたが――彼女の体勢すら、逸らすことは出来ず。

 

「――ふん!」

 

 小さくも、金剛よりも強固な拳が男の腹部にぶち当たった。その威力は凄まじく、鮮血と胃液が入り混じる粘液を、げほぉ、と噴水のように飛び散らし……動かなくなった。

 

 ……辛うじて、貫通しない程度に威力を留めたのは、優しさではない。彼女にとって、この男は喧嘩相手ではなく横入りしてきた邪魔者でしかなかったからだ。

 

 正直、腹立たしい気持ちはある。しかし、邪魔をしてきただけだ。彼女の怒りの矛先を向ける相手では、ない。この怒りは、あの女にだけ向けるべきものであって、この男は違う。

 

 だから、これ以上はしない。これで死ぬのならそれでいいし、手を出した時点でこいつの自業自得。起き上がってまだ戦おうとするのなら、もう手加減などしない。

 

 ただ、それだけでしかなかった。次いで、彼女は受験生たちの顔を見やる。他に余計な邪魔者が手を出して来ないのを見て取った彼女は……構えた。

 

 

 ――鬼符『ミッシングパワー』

 

 

 そう、彼女が内心にて叫んだ瞬間、彼女の身体が巨大化する。その勢いは凄まじく、メキメキと地面を陥没させながら、倉庫の屋根があった位置を越えて数十メートルにまで瞬く間に巨大化した。

 

 只でさえ距離を取っていた受験生たちの中には、「うわああ――っ!?」悲鳴をあげて腰を抜かす者もいたが……メンチを含めた試験官たちは、誰一人彼ら彼女らに注意を払うことが出来なかった。

 

 

 ――何故か?

 

 

 答えは、決まっている。

 

 

 ――只でさえ勝ち目のない相手が、さらに強大になったからだ。

 

 

 メンチたちは、プロだ。専門分野こそ違えど武術の心得は有って、受験生たちが束になっても黙らせるだけの実力を有している。

 

 だからこそ、嫌でも分かってしまう。眼前の怪物は、ただデカくなったわけではないということに。

 

 桁が違うどころの話ではない。例えるなら、単位が変わったのだ。メンチたちの実力を数値化して『千』や『万』で表せるとしたら、彼女の単位は……『億』だ。

 

 もはや、この戦いは鼠と巨象だ。駆け引きだとか経験だとかでは、絶対に覆せない。どうしようもない圧倒的な力量の差に……メンチたちは、動くことすら出来なかった。

 

「ははは……冗談でしょ?」

 

 乾いた笑いが、メンチから零れる。辛うじて笑えたのは、眼前の現実を認識することを、脳が拒否しているからだった。それは、両隣のサトツやブハラも同様で、彼らもまた逃げることすら出来なくなっていた。

 

 

 ――だからといって、彼女は止まらなかった。

 

 

 緩やかに掲げた拳が赤く輝き始めた……と、思ったら、その拳に炎が灯った。

 

 炎は瞬く間に大きく激しく燃え上がりながら成長し、ものの十数秒後には……倉庫(もう、床ぐらいしか残っていないが)全てを覆い尽くせるだけの、巨大な火球へと姿を変えた。

 

 まるで、小さな太陽だ。橙色の光と共に零れる放熱は凄まじく、直視することすら難しい。その余波を受けた彼女の足元に繁茂していた草木は煙を立ち昇らせ、辺りには焦げ臭さすら漂い始めている。

 

 

 直撃すれば、即死は必至。直撃しなくとも、その熱気でほぼ即死。

 

 

 だが、誰もその場を動かない。いや、正確には、動けない。気付いた受験生たちもそうだが、メンチたち試験官も同様に……彼女の下へ引き寄せられているのだ。

 

 逃げることも出来ず、かといって、挑んだ所で勝機はない。

 

 故に、誰も彼もが動けない。試験官たちは、自分たちの死を。受験生たちも、自分たちの死を。もうすぐ訪れるであろう『死』を前に……誰もが、無意識の内に覚悟を決めるしか出来なかった。

 

「――ゴン!?」

「――おい待て、ゴン!」

 

 ……だが、たった一人だけ。誰もが動けない最中、一人だけ彼女の許へと飛び出した少年は、浴びせられる熱気を堪え、髪をぷすぷすと焦がしながらも……彼女の前へと来ると。

 

「――ストップ!! 止まって!! ちょっとタンマぁぁぁあああ!」

 

 両腕を広げ、制止の雄叫びを上げたのであった。

 

 

 ――へぁ!?

 

 

 これには、思わず彼女も面食らった。と、同時に、彼女の中にある『彼』が、この機を逃さんと言わんばかりに『落ち着け』と精神に働きかけてくる。

 

 

 ……そのおかげか、だいたい4秒ほどだろうか。

 

 

 自覚出来るぐらいに、怒りが静まって行くのが分かった。次いで、呆然とゴンを見下ろしていた彼女は、辛そうにするゴンの様子に気づき、慌てて頭上に掲げていた高熱球を散らして消した。

 

 途端、ゴンはその場に膝をついて大きく息を荒げた。それを見て、幾分か居心地悪そうに視線をさ迷わせた彼女は……その場に屈んで、グイッと顔を近づけた。

 

『どうして、飛び出して来たんだい? まさか、自分ならどうにか出来ると思っていたのかい?』

 

 ゴンは、すぐには答えなかった。はあはあ、と、少しの間ゴンは息を整えると……汗に塗れた顔で見上げた。

 

「どうにか出来るなんて、思ってないよ」

『じゃあ、どうして?』

「だって、二本角さんがあのまま暴れたら試験が中止になっちゃうから」

『……あっ』

 

 言われて、彼女はほぼ更地となった二次試験会場と、今しがた団子にしてしまった瓦礫の塊を交互に見やり……申し訳なさそうに頭を掻いた。

 

 

 

 

 

 ――そうじゃな。あのまま暴れておったら、今年の試験は中止にせざるを得なかったじゃろうな。

 

 

 

 

 

 すると、まるでそれを待っていたかのように辺りに響いたのは、老人の男の声だった。突然のことに面食らった彼女とゴンは周囲を見回し……頭上を見やった。

 

 二人の視線の先に有ったのは、一台の飛行船であった。

 

 ガス袋に印字された、ハンター協会を表すマーク。それはつまり、ハンター試験の運営委員が出張って来たということで。呆気に取られる二人を他所に、飛行船より影が一つ飛び出し……轟音を立てて、二人の眼前にて着地した。

 

 そいつは、ちょんまげを生やした老人であった。

 

 百数十メートル上空から、パラシュートも使わずに。常人でなくとも即死の高さだというのに、怪我一つ負った様子もなくトストスと下駄で地面を踏みしめ……膝を付くゴンへ、手を伸ばした。

 

「少年、立てるか? 無理そうなら治療してやるぞい?」

「う、うん、ありがとう。でも俺、試験に合格したいから気持ちだけでいいよ」

「ほっほっほ、結構。元気とやせ我慢は若者の特権じゃて」

 

 自力で立ち上がったゴンを見て、老人は感慨深そうに笑った。「あの、お爺さんは誰なの?」初対面であるゴンは不思議そうに小首を傾げ、率直に尋ねた。

 

「んん? 何じゃ、このハンサムなワシの顔を知らんのか?」

「うん、知らない……もしかして、これも試験になるの?」

「ほほほ、ならんならん。ワシはハンター協会の会長を務めておる、アイザック・ネテロじゃ」

 

 ……アイザック……ネテロ?

 

 その名を耳にした、瞬間。彼女の目が、大きく見開かれた。

 

 合わせて、巨大化していた彼女の身体が散ってゆく。あっ、と傍にいるゴンが声を上げた間にも縮み続け……ものの数秒後には、元のサイズに戻っていた。

 

「…………」

 

 彼女は、何も言わなかった。忘れている……そんなわけが、ない。ただ、彼女はネテロを見つめた。ただ、透明な眼差しをネテロへと向けた。

 

「…………」

 

 ネテロも、何も言わなかった。忘れている……そんなわけも、ない。その証拠に、ネテロは彼女の眼差しを真っ向から見返した。透明な眼差しを、黙って受け入れた。

 

 互いの出会いは、偶然の産物でしかなかった。お互いが名を知らず、お互いが名乗らず、お互いがお互いの為だけに拳を振るい……彼女が、立っていた。

 

 

 あの時の出会いが偶然であったのなら、此度の再会もまた、偶然であった。

 

 彼女が、試験が行われる町に仕事へ行かなければ。試験会場に、彼女の気を引くゴンという名の少年がいなければ。メンチという、騒動の発端となる相手がいなければ。

 

 もしかしたら、この再会はなかったのかもしれない。気紛れで試験を止めていれば、メンチの試験がこのような形でなければ、あるいは彼女が試験に落ちれば……この瞬間は、訪れなかっただろう。

 

 ……あの時から、どれ程の月日が経っただろうか。

 

 

 彼女は、変わらない。髪の色は変わらず、頬の張りは変わらず、手足の瑞々しさはそのままに……何もかもがあの時のまま、彼女はネテロの前に立っている。

 

 対して、ネテロは年老いた。内より漲る精力こそあの頃のままだが、その身体は目に見えて小さくなっている。けれども変わらぬ瞳の色で、彼女の前に立っている。

 

 

 二人は……いや、違う。一人の人間と、一人の鬼は、ただ静かに沈黙を以って互いを見つめ、そして――。

 

 

「お前は、変わらんな」

「そういうあんたは、老いたね」

 

 

 ――交わした最初の言葉は、そんなありきたりなもので。

 

 

「人はいずれ老いる。賢人であろうと愚者であろうと、それは等しく平等。老いるからこそ、人は全力を注ぐ」

「そうだね、人は老いる。だからこそ、例え迷いの霧中を突き進むが如き苦難であろうと、どこまでも実直に突き進むやつもいる」

「ふふふふ、そうじゃな。この仕事に就いておると、つくづく痛感させられる。己の進んだ道もまた、数多に広がる道の、ただの一つに過ぎないということにのう」

「――羨ましいね。心から妬ましくて、それでいて清々しい。私にはない、どこにもない。器も、中身も、全てがちぐはぐな私にとって、あんたは……本当に眩しく映る」

「ほっほ、お前さんから羨ましがられるなんぞ、世界広しといえどワシぐらいじゃろうな。幾千の黄金よりも、値打ちがあるというものよな」

 

 

 ともすれば、世間話のように。あるいは、互いの想いを擦り合わせるかのように、幾つかの言葉を重ねた後。

 

 

「……本当に、やらないのかい? 天がもたらした、二度とない機会かもしれないよ?」

「今日のワシは、トラブル処理係みたいなものじゃ。あの時のワシも、今のワシも、どうやらお前とは縁がないようじゃ。おそらく、それが天命なのじゃろうな」

「ふ~ん……あんたがそう決めたのであれば、私はもう言わない。でも、あの時のあんたも、今のあんたも、ままならないやつだね」

「なあに、ままならないなりに、相応の楽しみもあるというものじゃ。それに、あの時はあの時で意味はあったぞい……ほれ、この通り、な」

 

 そう、互いの何かを確かめ合うかのように、互いに笑みを向けた後……ネテロの皺だらけの手が、成り行きを見守っているゴンの頭に置かれた。

 

「え、あの、なに?」

「研鑽を止めた覚えはないし、あの時と志は何も変わってはおらぬ。じゃが、こうして芽吹こうとする可能性を眺める楽しみに気付けたのは、あの戦いのおかげじゃな」

「あの、ちょっと恥ずかしいよ……」

「敗色濃い難敵に己が培った全てを出し切って敗れて力尽きる。なんと、幸せな最期か。じゃが、大木への片鱗を覗かせる若葉に囲まれ、畳の上で死ぬのも、悪くはない」

 

 恥ずかしがるゴンから手を離したネテロは、そうして初めて……二カッと、彼女に向かって歯を見せて笑った。

 

「――受験番号406番!」

「……あ、私か」

 

 一拍置いて、自分が呼ばれていることに気付いた彼女は、居住まいを正した。

 

「既に分かっておるじゃろうが、試験官への暴行並びに試験そのものへの著しい妨害行為。結果、二次試験会場壊滅に留まらず、試験そのものを中止に追い込みかねない事態にまで発展しかけた……異論は、ないな?」

「全くないよ。理由は何であれ、手を出したのは事実さ」

「気持ちは分からんでもない。しかし、やり過ぎじゃ。多少の揉め事なら許容はするが、もはや多少では収まらん。故に、ワシはお主を罰せねばならん……異論は、ないな?」

「それも――ゴン、あんたは黙ってな。これは、お前が口出しするところじゃないよ」

 

 今にも口を挟みそうだったゴンを、ギリギリのところで制する。これっぽっちも納得出来ていないと言わんばかりの不服そうな顔を見て、「ケジメは、ケジメさ」彼女は笑みを浮かべると……改めて、ネテロを見上げ。

 

「――よって、現時刻をもって、お主は二次試験失格とする。異論は、ないな?」

「もちろん、異論なんてないさ」

 

 静かに、沙汰を受け入れた彼女は、胸元より外したプレートをネテロへと差し出した。こうして、彼女のハンター試験はあっけなく終わったのであった。

 

 

 

 




はい、ハンター試験編終わり! 撤収!



以下、一人語り



いや、まあ、正直なところアレですよ。原作見ていると、彼女が最終試験まで残れる気がしないんですよね。実力不足云々ではなく、途中でキレて何もかもぶち壊してしまう意味で

漫画版ですら騙される方が悪いってスタンスなのに、仮にアニメ版の話を入れたら……たぶん、みんな死ぬ。

トンパは死ななかったですけど、アレですよ。仮に3次試験でゴンたちと一緒に行動することになったら、確実にトンパを殺します
ゴンたちがいくら止めようが、彼女は止まりません。それこそ、塔そのものをぶっ壊してしまう可能性すらあるでしょう

元々やる気はないし、メンチのような一方的なやり方には真っ向から皮肉を混ぜて言い返すので、仮に落ちるとしたら二次試験かな……ていう感じで、二次試験敗退です、はい

また、ネテロとは対決はしません
いや、機会に恵まれていたなら対決はしていたでしょう

でも、最初の時もそうですけど、結局はしがらみやタイミングの悪さから心残りを払拭できないままの戦いになってしまう → じゃあ、そういうめぐりあわせじゃなかった

みたいな感じでネテロは納得するような気がするんですよ。心のどこかで「惜しかったかな?」みたいなことを考えながらも、そういう天運だったと素直に諦める感じですかね

強い相手と戦うことに喜びを見出す爺ちゃんですけど、だからといって、嫌がる相手を無理やり戦うような戦闘狂ってわけではないし、原作ではフラストレーションを溜めていたけど、出された両手に淀みなく握手を返すようになっていたし、困った性格ではあるけど根は善人……それが、私が抱くネテロ像です


なので、メルエムと出会って感謝したのは、その強さもそうですけど、思う存分戦って(殺しても)もよい、人類を明確に食料とみなしている悪者だったから……なのだと思います
戦い前の問答にて「蟻が~上から~」というのも、中途半端な善性を出し始めたことに対する苛立ち(明確な敵ではなくなってしまう)が混じっていたのかな~、と思っています



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