伊吹萃香もどきが行く   作:葛城

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途中、生理的嫌悪を催すような感じのグロい描写がありますが、気になる方は飛ばしても大丈夫です。いちおう、あとがきに話の流れを書きます

グロ要素 「かたつむり」






第九話:闇のソナタと鬼娘

 

 

 

 

 

 人類が、『暗黒大陸』と名付けた、人類世界を中心にして、外に広がるメビウス湖の、その先にある大地。そこは、一言でいえば神話の世界にしか存在し得ない、人知を超えた超巨大な自然であった。

 

 

 巨大な自然とは、文字通り全てが巨大なのだ。

 

 

 立ち並ぶ木々のどれもが高く、高い物で300メートル近く、低いのでも20メートルにも達している。その太さは大人が30人がかりでも囲えない。人類が暮らす世界であれば国宝にも認定されるサイズが、この世界では若木扱いなのだ。

 

 人知を超えたというのも、文字通り、この大地にある全てが人類の常識の外ということ。そして、人類の如何なる技術と力を持ってしても……この大地では三日と生きてはいられないからである。

 

 例を挙げればキリはないが、まず、この大地においては、『肉食植物』という存在はけして珍しくはない。いや、それどころか、掃いて捨てた先で詰まりが起こるぐらいに、いる。

 

 

 人類世界においてはただ悠然と存在して沈黙し続ける樹木も、ここでは違う。

 

 

 一見すればただぶら下がっているだけの果実も、その中身は麻薬に似た成分がぎっしり。一度でも食べれば致死量に至るまで食べ続け……最後は、ゆっくりと伸ばされた樹木の根に絡め取られ、体液を根こそぎ吸い取られてしまう。

 

 また、樹木の栄養としての罠だけではない。『寄生植物』というのも、この世界では当然のように有り触れた存在である。

 

 

 例えば、鳥に種ごと果実を食べさせ、その糞によって増殖してゆくのは繁殖においてはポピュラーなやり方だが、この大地では違う。こういった木々が実らせる種も同様に、誤って口にすれば最後、待っているのは確実な死だ。

 

 体内に入り込んだことを感知した種が、爆発的な勢いで根を全身に伸ばす。異変に気付いた時にはもう手遅れであり、全身へと根を伸ばされる際の激痛に目を向けた瞬間、皮膚を突き破った根に絡め取られ、墜落し、肥料となる。

 

 

 例えば、人の服や獣などに貼り付いて生息域を広げる、通称『ひっつき虫』と呼ばれる種。これもまた、この大地では『寄生植物』の一種であり、引っ付くなどという生易しいものではない。

 

 大きさこそ2、3センチの小さい物(この大地では、極小といっても過言ではない)だが、獲物に貼り付いた瞬間、牙を向く。引っ付く為の棘が瞬く間に表皮を突き破って体内へと入り込み……体液を根こそぎ吸い上げてしまうのだ。

 

 ものの数分もすれば、その大きさは20センチ近くまでにもなる。それが、数十数百も張り付けば……人間なんぞ、5分と持たず失血死するだろう。

 

 ある意味それは、種の形をしたヒルなのかもしれない。ただ、これは植物。ヒルとは違い、水辺に限らず至る所に生息し、塩を浴びてもビクともしない。寄生……いや、『吸血植物』と言っても過言ではない。

 

 

 では、果実等に手を出さなければ安心かといえば、そうでもない。

 

 言うなればそれは、種のショットガン。人類世界にも種(正確には、種を包む袋)を破裂させることで遠くに飛ばし、増殖してゆく植物もあるが、この大地では違う。

 

 

 勢いよく飛ばされた種で、人の頭が吹っ飛ぶ。

 

 

 いったい何を言っているのかと思われそうだが、この大地ではそう珍しくはない。遠くに飛ばす等という生易しいものではなく、種で獲物を仕留め、それを肥料にして成長する。そんな、『弾丸植物』もいる。

 

 他にも、体内に入り込んだ種が獲物の脳へと根を伸ばし、その身体を操って意図的に遠くへと移動させ、生息範囲を広げるモノもいる。種自らが獲物の体内で分裂し、獲物ごと爆発することで広がることもある。

 

 

 そんな化け物染みた植物が、この大地ではそう珍しくはない存在なのだ。

 

 

 はっきり言えば、この大地に生息する全てが、人類には不適合なのだ。種だけではない。単純に資源として見ても、この大地の植物はだいたいにして非常に頑丈過ぎるが故に、人類には利用することが出来ない。

 

 何気なく生えている雑草の茎が、子供の腕を思わせる程に分厚く、長い。色も黒色を思わせる程に濃く、それが植物だという前提の知識がなければ、まるで黒い帯が転がっていると思ったことだろう。

 

 言うなれば、鋼鉄の植物だ。全てがそうであるというわけではないが、だいたいにして、とにかく硬く、それでいて強い。熱にも寒さにも強く、生命力に優れ過ぎている。

 

 仮に、この大地では有り触れた雑草を一束、人類たちが暮らす世界に植え付けたとしよう。そうしたら、いったいどうなるのか?

 

 

 答えは単純明快。植えられた周辺の植生が、壊滅する。

 

 

 いや、植生だけではない。その植物を食べる動物も壊滅的な被害を受け……結果、人類に対しても無視できないダメージを残すことになるだろう。

 

 

 そして、そんな植物を捕食する、この大地の動物たち。

 

 

 それはもはや、動物で言い表してよい存在ではない。鋼鉄並みに強固な枝葉を容易く噛み砕き、高層ビルすら支えるであろう太い幹すらも、丸のみして消化する……正しく、怪物。

 

 そんなやつらが、この大地……『暗黒大陸』において、激しい生存競争を繰り広げている。昨日の覇者が、今日の覇者の餌。今日の覇者が、明日の覇者の餌。

 

 毎日、それが行われている。それ故に、『暗黒大陸』と人類より名付けられたその大地で暮らす怪物たちは、常識からは考えられないような進化を遂げていた。

 

 大きいやつは、より大きく強く。硬いやつは、より硬く頑丈に。小さいものは、より素早く増えて。動けないやつは、より狡猾かつ残忍に。

 

 姿形の区別なく、その大地で生きるモノたちはみな捕食者として、被捕食者として、太古より続けられている生存競争を、今日も繰り広げていた。

 

 

 

 

 ……そんな、『暗黒大陸』の西側。

 

 

 

 

 人類たちが描いた世界地図の、左側の外。位置的には大陸側というよりメビウス湖の方に近しい場所に、その日……一つの部外者(イレギュラー)が姿を見せていた。

 

 そいつを一言で言い表すとするなら、『全長500メートルにも達する巨大な女の子』であった。だが、ただの女の子(サイズ云々は別として)でもなかった。

 

 というのも、だ。この女の子……彼女は『二本角』と人々より呼ばれているのだが、その見た目も普通の女の子とは異なっていた。

 

 頭部の左右より伸びる、二本の巨大角。上はノースリーブ、下はロングスカート、履物は革靴。幾つものフリルによってふわりと広がるスカートの腰と両手には、鎖と思しき物体が一つずつ繋がっている。

 

 おそらく、何かしらの意味はあるのだろう。じゃらららと木々と擦れる鎖の先端は、それぞれ球体、三角錐、四角い形の分銅へと繋がっており、女の子が動き回るたびに、どかんどかんと周囲を壊していた。

 

 ……だが、壊しているのは何も彼女だけではなかった。むしろ彼女は被害者であり、彼女が暴れることになったのは他でもない……彼女に襲い掛かってきた、この大地に住まう怪物のせいであった。

 

 

 ――しゅるり、と。

 

 

 さっさとこの場を離れようとした彼女の身体に巻きつく、幾本もの何か。彼女自身が巨体故に細長く見えるが、その太さは少なく見積もっても相当に分厚い。直径でも、数メートルはあるだろう。

 

 それが、息つく間もなく地面から飛び出しては、次々彼女に巻きつき、その身体をその場に押さえつけようとする。その勢いは凄まじく、巻き込まれた周辺の木々が一瞬にして地面へと倒され、真っ二つに折れてゆく。

 

 

 しかし、その程度では彼女を拘束することは出来ない。

 

 

 彼女が「――よいしょぉ!」一声あげながら振り払えば、ぶちぶちぶちりと細長い何かは千切れた。その断面から青白い粘液が噴き出し、彼女の身体を青色に染めた……が、まだだ。

 

 千切れた傍から、振り払った傍から、新たな細長いやつが巻きつき、彼女を押さえ付けようとする。ぼこんぼこん、とまるで爆弾が破裂したかのような異音と共に地面から飛び出しては、彼女に襲い掛かってくる。

 

 

 ――まるで、降り注ぐ雨粒を振り払うかのような感覚だと、彼女は思った。

 

 

 おそらく、この細長いのは触手だ。何処から伸ばしているのかは分からないが、コレで相手を絞め殺すのだろう。あいにく、コレで死ぬ可能性は全くないが……非常に鬱陶しい。

 

 何せ、ここにある触手を全て細切れにしたところで、肝心の本体にはほとんどダメージがないからだ。

 

 その証拠に、本体を引きずり出そうと思って掴んだ触手が、片っ端から勝手に千切れてしまう。それはつまり、この触手は相手の手足であると同時に、何時でも切り離せる尻尾でもあるということ。

 

 物理的な消耗はするだろうが、次から次へと自分から切り離すぐらいなのだ。消耗そのものは、微々たるものと見て間違いない。こちらを仕留めて食べれば、十二分にお釣りが出る程度のものなのだろう。

 

 見方を変えれば、相手が諦めて彼女から離れるまで、この攻撃が止むことは有り得ないということで。これ程引き千切ってもまだ余力を残す辺り……並の獲物では、気を逸らすことすら出来ないだろう。

 

 おそらく、この触手の本体は彼女以上に巨体だ。それでいて、食欲旺盛。でなければ、こうまでしつこく彼女に襲い掛かってはこないだろうし、とっくに諦めているはずだ。

 

 

 ――ええい、鬱陶しい!

 

 

 跳ねるようにして触手の網から顔を出した彼女は、直後に舌打ちした。何故なら、地平線の彼方にて巨大怪物の姿を見つけたが、彼女の周辺にはその姿が全くなかったからだ。

 

(――くっそ! こういう時に限って何もいねぇ!)

 

 下手に巨大化したのが、仇となってしまった。巨体であるというのは、それだけで武器にもなり、威圧にもなる。おかげで有象無象の雑魚が勝手に怯えて離れてゆくから楽なのだが……こういう時だけは、逆だ。

 

 身体が大きい分、食べる量も相当に多いということなのだろう。今の彼女は、相応に大きい。より大量の獲物を捕らえなければならない存在からすれば、彼女は……降って湧いた餌、というわけだ。

 

 

 ……腹を空かせた巨大怪物の触手から、逃げ切ることは不可能であった。

 

 

 普段は空を飛べる彼女も、巨大化した今の状態では無理。同様に、霧状になるのも今は無理。どちらをするにも、一度は小さくならなくてはならない。

 

 しかし、だからといって小さくなれば……触手に呑み込まれ、何処ぞへと繋がっている本体から脱出するという面倒なことをしなければならない。

 

(ああもう、あんまりやりたくないけど――そうも言っていられないか!)

 

 このままでは埒が明かないし、どちらを選んでも結局は面倒な状況に陥ってしまうことを察した彼女は、めきめきと腕に血管が浮き出る程にまで力を込めると……それを、地面へと振り下ろした。

 

 

 ――せ~の……いち!

 

 

 どん、と。衝撃と共に、地面がたわむ。その光景を遠くより見ていた有象無象の小さき怪物たちが理解した、その瞬間。堪え切れなくなった破壊の力が逆流し、大噴火が如き勢いで大地を空の彼方へと弾き出した。

 

 その光景を例えるなら、核爆発であった。

 

 人類が暮らすあの場所では絶対に出せない、渾身の一撃。周囲の被害を全く考慮せず、本気で殺すつもりで放ったその拳は正しく必殺の一撃で、彼女もまた怪物であることの証左であった。

 

 その、一発目。あまりの威力に大地が隆起し、周辺の木々がその下の土砂ごと吹っ飛ばされる。衝撃波となった力は隠れ潜んでいた小さき者たちを圧殺し、爆音と共に『暗黒大陸』の一部にされていった……と。

 

 

 ――にぃ!

 

 

 爆心地(クレーター)の中心に降り立った彼女は、再び振り上げた拳を力いっぱい振り下ろした。どん、と大地が揺れた直後、二度目の衝撃と共に大地が削り取られる。

 

 その一撃は、先ほどよりもはっきりと、地中を破壊の力が放射状に広がってゆく。それは地下百数十メートルにて隠れ潜んでいた数多の怪物を瞬時に即死させる威力が有った。

 

 3秒、4秒、5秒。衝撃の波が離れてゆくに合わせて、彼女は三発目の充填を終える。

 

 既に逃げたか、これで死んだか、あるいは動けなくなっただけか。そのどれかは分からないが、そのどれでも構わないと彼女は思って――そして。

 

 

 遠いのに……近い。そんな、何か。

 

 

 地響きが如き激しさと力強さを持って響き渡る、よく分からない生物の怒声。文字にすれば、ぎょああ、とも、げえああ、とも、表すことが出来るのかもしれない。

 

 その声を耳にした彼女は、ゆっくりとそちらへ目を向ける。その視線の先にいたのは、間欠泉が如き勢いで地面より飛び出した……超巨大ミミズであった。

 

 おそらく、アレが触手の本体だ。

 

 反射的に、彼女はそう判断した。正確な長さは分からないが、もしかしたらキロメートルに達しているかもしれない……そんな馬鹿げたミミズの頭部と思わしき部分が、こちらを向いた。

 

 ――瞬間、ミミズの身体が彼女へと飛んだ。

 ――いや、違う。飛んだのではない、引き寄せられているのだ。

 

 ミミズは、確かに苛立ってはいた。何時までも抵抗を続ける獲物から、思わぬ反撃を受けてダメージも受けた。追撃されたことで堪らず地表へも姿を見せてしまった。

 

 だが、ミミズとて馬鹿ではない。伊達に、これほどの巨体になるまで生存競争を生き延びたわけではない。手痛い結果しか残らなくとも、足掻いても敵わぬ相手を見定めるだけの知性と理性を有していた。

 

 故に、ミミズは逃げようとした。しかし、どうしたことか……逃げられない。

 

 まるで、巨大な重力源に引き寄せられているかのように、そこへと引っ張られてしまう。踏ん張ろうと努力はするが、ミミズは呆気なく彼女の下へと引き寄せられると。

 

 

 ――さん!

 

 

 そんな、掛け声と共に放たれた渾身の右ストレートパンチ。構えも糞もないそれは、信じ難い破壊力を伴ってミミズの頭部を砕き……その尻尾に至るまで衝撃を伝え、その全てを肉片に変えたのであった。

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………奥義『三歩壊廃(さんぽかいはい)』。

 

 それは、東方Projectではなくその派生作品にて登場する『伊吹萃香』の技の一つ。正式名称は、四天王奥義『三歩壊廃』。

 

 何時ぞやにて披露した『三歩必殺』が、鬼の脚力を持って行う本気の足踏み三連発であるなら、今しがた行ったのは、鬼の腕力を持って放つ本気のパンチ三連打。

 

 直撃すれば、ほらこの通り。『暗黒大陸』の怪物とて、死を免れない。いや、この場合は『伊吹萃香』の腕力を以ってしなければどうにもならない点に目を向け……まあいい。

 

 とにかく、完全にミミズが死んだのを見やった彼女は、大きく息を吐いて脱力した。

 

 直後、呆けている場合ではないことを思い出し、その場を離れようと――した、その瞬間、前後左右の四方の地面から柱が飛び出した。

 

「――え?」

 

 あまりに想定外のことに呆気に取られる彼女を他所に、柱は瞬く間に空へと伸びてゆく。合わせて、大きく太くなって……気付いた彼女が逃げ出そうと思った時にはもう、遅かった。

 

 柱と思ったそれは、四つのクチバシであった。今しがた仕留めたミミズすら小さく思えてしまう程の、超巨大な怪物のクチバシ。傘を閉じるかのように狭まるそれらは……彼女ごと、その下の地面をも包んでしまった。

 

 

 直後、ごくん、と。

 

 

 地面そのものが脈動したかのような、異音。間を置いてから、大地が揺れる。地響きと共に、一つとなった柱がせり上がって地中より姿を見せたのは……例えるなら、殻に覆われたイカであった。

 

 

 ……そう、イカだ。

 

 

 あくまで近しい姿がソレであって、イカの見た目をしているわけではないが、とにかくイカだ。直視すれば精神を病んでしまいそうな外観のそいつは、悠々自適な様子で体格に見合う巨大な眼孔で辺りを見回すと、ゆっくりと……ゆっくり、と?

 

 不意に、イカの動きが止まった。イカの巨大な眼孔も、何かを確かめるかのように再び辺りを見回した。しかし、周囲にはその他の怪物の姿も気配もない。だからなのか、イカはしばし目を瞬かせた後、今度こそと言わんばかりにその身を地中へ――あっ!?

 

 

 仮にイカが人語を理解して話すことが出来たなら、そんな驚きの声を上げたことだろう。

 

 

 だが、イカは人語を理解していなかった。イカに出来たのは、せいぜいが生物とは思えない、名状しがたき野太い悲鳴をあげるぐらいであり……辛うじて呻き声だと認識出来る異音を発した後、静かに動きを止めた。

 

 ……イカに何が起こったのか。答えは、ただ一つ……息絶えたのだ。

 ……では、いったい何が原因でこれ程の巨大生物が突然息絶えたのか。

 

 事前に摂取してしまった毒か、あるいは事前に受けた傷か、それとも偶発的に寿命を迎えてしまったのか。考えられる要因はこの3つだろうが……正解は、このどれでもない。

 

 

 ……答えは、すぐに出た。

 

 

 変化の始まりは、空へと向かって閉じられていたイカの口から漏れだした、黒煙であった。目を凝らさなければ分からないぐらいの僅かな変化は、ものの30秒も過ぎた頃には、遠目からでもはっきり分かる程になっていた。

 

 黒煙には、近づくことすら出来ない程の熱気が伴っていた。と、同時に、辺りに漂いだす、泥と硫黄とが混じり合って溶けて、それが焦げ付いたかのような刺激臭……と。

 

 次の瞬間、イカの口が内側から弾けた。その様は、まるで花開いた(恐ろしく汚い光景だが)かのようで。遠目からでも分かる程の熱量と共に噴き出した赤い溶液が、じゅう、と辺りに落ちて黒煙を立ち昇らせた。

 

 

 ――火山口を思わせる状態となったイカの口部より、一つの巨大な塊が飛び出した。言うまでもなく、少し前に呑み込まれた彼女であった。

 

 

 何をしたのか……その答えが、コレ。超高熱の炎を吹いて、一緒に呑み込まれていた土砂ごとイカを体内から焼き尽くし、食われたままイカを仕留めたのである。

 

 なので、彼女は無傷であった。何事も無かったかのようにイカから離れた場所にて着地をすると、ぶるぶると身体を振って……身体に纏わりついた溶岩を落とすと、改めてため息を零した。

 

「ほん――とうに、こいつら血に飢え過ぎだろ……いいかげん、気分が滅入ってきたよ……」

 

 やれやれ……そういってその場に腰を下ろした彼女は、「あー、酒が飲みたいなあー」ごろりと横になった。こんな場所で大人しくしていたらまた襲われそうだが、今だけは……もう少しこうしていたいと思った。

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………あっちに帰りたいなあ。

 

 

 そう、ポツリと呟いた彼女の言葉に、返事はない。それは分かっているが、分かっていても……少しばかり寂しく思う気持ちを抑えられない。

 

「……どうやって、帰ればいいのかねえ」

 

 気付けば、彼女は内心を口に出していた。

 

 彼女は、つい数時間前までは『暗黒大陸』にはいなかった。人類世界にて酒を食らい、のんびり運び屋の仕事に精を出していた……その彼女が、どうしてこんな場所に居るのか。

 

 それを語るには……かれこれ数時間前のことを説明する必要があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 マフィアの影響力は強いが、夜の世界に足を踏み入れなければ何もしてこない程度には、昼と夜の境がしっかりと区別された街。田舎者がまず一旗揚げる為に来るとも言われるその街の名は、『メイドリック』。

 

 

 ――その街にある、とあるマンションの一室に彼女の寝床がある。そして、その日、彼女は朝から何とも言えない胸騒ぎを覚えていた。

 

 

 別に、何か不穏な前兆が起こったわけではない。黒猫が前を過ることはなかったし、靴ひもが千切れることもなか……あ、いや、靴ひものある靴を履いていないから関係ないが、とにかくそういった事は何も起こらなかった。

 

 だが、彼女は朝から言葉には言い表せない、直感にも似た何かを確かに抱いていた。

 

 だから、なのか。彼女はその日、何処にも出かけようとはしなかった。当然、仕事も受けようとは思わず、部屋の一室に溜め込んでいる大量の酒瓶を、朝から片っ端に空けていった。

 

 

 ……けれども、不思議な事に。この日の彼女は、どうしてか全く酒に酔えなかった。

 

 

 アルコールの作用は、しっかり働いてはいる。思考が霞み、ぼんやりと身体が熱を持つ。一定量を摂取してから現れる酒の初期症状は、彼女も確かに覚えていた……が、それだけであった。

 

 どうしても、そこから先に行けないのだ。

 

 何時もなら起きるはずのほろ酔い特有の昂揚感が、全く起こらない。飲んでも飲んでも、まるでストッパーが掛かったかのようにそこで止まってしまう。終いには酒を飲むことすら嫌気が差し、飲むことを中断するになるまでなってしまった。

 

 

 こんなことは、初めてである。

 

 

 食べ物に関しては摂取量に限界を覚えるが、酒に関しては一度として限界を覚えたことはない。その自分が、まさか酒を飲むのが嫌になる日が来るとは……欠片も考えていなかった。

 

 それ故に、彼女は何とも言えない不安を覚えずにはいられなかった。朝から落ち着かない気持ちを抱えたまま、ただただ時を浪費し続けることしか出来なかった。

 

(……喧しいばかりで、つまらん)

 

 ぎゃあぎゃあ、と。ベッドに寝転がったまま、点けっぱなしのテレビを眺めていた彼女は、内心にて率直な感想を吐き捨てた。

 

 何時もならそれなりに笑っていられた番組ではあるが、素面(飲んではいたが、その程度では酔っている内には入らない)で見るとこうも退屈なものなのだろうか。

 

 いや、あるいは、精神的な部分の影響から退屈に思えてしまうのだろうか。どちらもありえそうだなと思った彼女は、ポチポチとチャンネルを変えた後……元のチャンネルに戻し、仰向けになった。

 

(……風邪でも引いたのかねえ?)

 

 ぼんやりと天井を眺めていると、余計に鬱々とした気分になってくる。かといって、退屈な番組を眺め続けるのも苦痛だ。

 

 病は気からというが、言い得て妙であると彼女は思う。こういう時は気分転換に外出する方が良いのかもしれないが、今はその気力すら――ん?

 

 

 ――ぴんぽん、と。

 

 

 寝入るにも目が冴えてしまっているし、飲む気にもなれない。何をするでもなくぼんやりしていると、不意にチャイムが鳴った。

 

(……あ、うちか)

 

 しばしの間を置いてから、それがようやく自宅のモノであることに気付いた彼女は、(いや、うちなのか?)はてな、と横になったまま小首を傾げた。

 

 というのも、だ。彼女が暮らすこのマンションは、その築年数の長さもさることながら、住民の質がお世辞にも良いわけではないからだ。

 

 ぶっちゃけ、全体の7割が表の人間ではない。アル中にヤク中は当たり前、多種多様な売人に男女問わずの娼婦、一部は特殊なプレイ(意味深)の場として利用されているぐらいだ。

 

 そんな場所なのだから、残りの3割の質だってお察し。当然、そんな場所に来る郵便物だってまともじゃない物ばかりであり、一般的な運送会社がここへ配達に来るということは、まずない。

 

 何せ、ピンクチラシ(いわゆる、風俗関係のチラシ)すらこのマンションには投函されないのだ。どれだけこのマンションのどうしようもなさが知れ渡っているかが、そこだけでも分かる。

 

 

 しかも……ここには彼女がいる。

 

 

 マフィアという組織に属している者であれば、大なり小なり理解する『不用意に触れることなかれ(アンタッチャブル)』。それに、わざわざ接触を図ろうとするやつなんて……間違いなく、まともなやつじゃない。

 

 ……どうせ、ラリッたヤク中やら何やらが来たのだろう。

 

 しばし思考を巡らせた彼女は、そう結論を出すと身体の力を抜いた。ずっと前にも似たようなことはあったし、どうせ今回もそうだろうと思った彼女は、再びアンニュイな気分へと。

 

 

 ――ぴん、ぽん。

 

 

 浸ろうとした、が。二度目となるチャイムによって、中断させられた。ヤク中はしつこいと思いつつ、彼女は目を瞑ったまま静かに……していたが、三度目となるチャイムに、さすがに目を開けた。

 

「……?」

 

 そうこうしているうちに、四度目のチャイムが鳴る。ヤク中にしてはしつこいし、押すまでの時間が一定だ。仮に禁断症状に見舞われているヤク中なら、チャイムなんてお上品なものは使わないだろう。

 

 

 もしかして……客人か?

 

 

 それなら、無視し続けるのは可哀想だ。よっこらせとベッドから降りた彼女は、「はいはい、今開けるから」五度目のチャイムに返事をしながら玄関へと向かった。

 

 果たして、こんな場所に来る客人(物好き)なんているのだろうか。

 

 訝しみつつも、このまま憂鬱に過ごすよりはマシだろうと思いつつ、「どちら様?」彼女は玄関を開けた――瞬間、彼女は尋ねてきた人物……男の姿に面食らった。

 

 そいつは、老年に差し掛かろうとしている男であった。だが、彼女が驚いたのはそこではなく、その男が身に纏う風貌というか、雰囲気であった。

 

 

 一言でいえば、その見た目は上流階級(セレブ)の老人である。

 

 

 そういった方面に疎い彼女でも一目でわかる、お高そうな黒のスーツ。手首に巻かれた時計や革靴も相応に高そうで。前に何度か会食したマフィアのお偉方とは根本から方向が異なるセレブであるのは明白であった……けれども。

 

 目が……違った。いや、正確には、目の奥から滲み出る光が、あまりに違い過ぎた。

 

 ……これはあくまで彼女の持論だが、マフィアのお偉方もそうだったが、社会的に(表であれ裏であれ、どんな分野であれ)成功した者は、総じて目の奥の光が強い。

 

 程度の差こそあるが、基本的には一般人よりも強い。だからこそ成功するのか、成功したからこそそうなるのかは分からないが、今まで彼女が出会ってきた成功者たちは、総じて目の奥に強い光を持っていた。

 

 

 だが……眼前の老人は、どうだ?

 

 

 セレブだからなのか、その目の奥の光は強い。しかし、強いが……あまりに仄暗い。何といえばいいのか、今にも消え入りそうでありながら、これでもかと強く主張してくるような……そんな感じだ。

 

 マフィアのお偉方も似たような仄暗さを持ってはいたが、この男は桁が違う。

 

 いったい、どのような状態になればそんな目の光を持つ事が出来るのか……興味が、むくむくと湧いて来るのを彼女は感じた。

 

「――『二本角』さん、ですか?」

 

 尋ねられた声色も、目の奥の光を帯びたかのような仄暗いものであった。「ああ、そうだけど、あんたは?」今にも銃を向けてきそうだなと思いつつ、彼女は率直に名を尋ねた。

 

「失礼、名乗るのが遅れました。わたくしの名は『ドレイク』。とある楽団にてバイオリニストを務めさせていただいておりました、しがない演奏家です」

「……務めさせて、いただいた?」

「先日、辞めて来ました。今日は、どうしてもあなたに頼みたいことがあって参りました。差し支えなければ、話だけでも聞いていただきたいのですが……」

「それは構わないけど……あ~、ん~……」

 

 チラリと、己が自室を見やった彼女は、どうしたもんかと頭を掻いた。

 

 時々は掃除をしているが、あくまで時々。基本的には物臭が故に、部屋の有様はお世辞にも清潔とは言い難い。特に、台所周辺なんて今や魔境だ。

 

 別に見られたって何ら問題はない。とはいえ、位置的にベランダを見ることは出来なくとも、そこには下着だって干されている。

 

「……ん~、悪いんだけどさ、ちょいと今は部屋も汚れているから、とりあえず続きは何処か別の場所にしない?」

「分かりました。それでしたら、ちょうどお連れしたい場所がありますので、そこで宜しいでしょうか?」

 

 いいよ、と頷いた彼女はそのまま外に出る。何時もの衣服、着の身着のまま。「――宜しいのですか?」気を使わせているとでも思ったのか、彼は言い辛そうに視線をさ迷わせた。

 

「私はコレでいいよ。そっちこそ、私がこんなナリで出て行って大丈夫な所にちゃんとエスコートしてくれるのかい?」

「……ご期待に添えれば、幸いです」

 

 苦笑する彼に案内されるがままマンションを下りれば、エントランスを出てすぐの所に車が止まっていた。高級車という程ではないが、中の上にランクされるレベルの車であった。

 

 よくもまあ、不用心に。新品というほどではないが、よく手入れされて光沢が残る車を前に、彼女は内心にてため息を零す。

 

 やはり、セレブだ。こんな場所にこんな目立つ車を停めておいて、部品一つ盗まれていないのが奇跡だ。自然と、彼女の視線が車から彼へと向けられ……ああ、と納得した。

 

 

 ――こいつだから、無事だったのだ。

 

 

 おそらく、車を奪おうとした者たちはみな、こいつが車を降りた瞬間に気付いたのだろう。こいつは下手に手を出してはいけない、得体の知れない相手だと。

 

 彼女ですら興味を引かれたぐらいなのだ。チンピラたちからすれば、どこぞのヒットマン……あるいは、重要人物と思われて距離を取られても、何ら不自然ではない。

 

 そんなふうに思われているなどと知る由もない彼は、どうぞ、とドアを開けてくれた。素直に後部座席に入り込み、横になる。身体が小さいと、こういう事が出来るから楽だ。

 

「大丈夫ですか?」

「大丈夫、吐いたりしないよ」

 

 そうとも知らずに心配する彼に手を振ってやると、彼は幾分か視線をさ迷わせた後……車を発進させた。雰囲気とは裏腹に運転は実に緩やかで、彼の性格を表しているかのようであった。

 

 ――カチリ、と。

 

 沈黙を嫌ったのか、彼は……いや、ドレイクはラジオのスイッチを点けた。流れてきたのは流行のポップソングではなく、クラシックなメロディーであった。

 

 ラジオを使用する年代は比較的高めとはいえ、クラシックを流している局はそう多くはない。操作をせずとも流れた辺り、初めからそこに波数を合わせているのだろう。

 

 演奏家というだけあって、普段からそういったものが好みなのか……はて?

 

 そういえば、まだ聞いていなかった。今更なことを思い出した彼女は、「そういえばさ、あんたは何の楽器を弾いていたんだい?」むくりと身体を起こした。

 

「ヴァイオリンです。こう、首に楽器の……そうですね、根元を押し当てて弦を引くやつですが、分かりますか?」

「何となくは……でも、どうして楽団を辞めたんだい? そういうクラシックな楽器の奏者になるのって、けっこう金が掛かるんだろ?」

 

 この世界において、現存する楽器の種類は三桁に達すると言われている。その中で、『彼』がいた世界でもそうではあったが、この世界においても楽器のプロ奏者になろうと思ったら、とにかく金を必要とする。

 

 特に、ヴァイオリン等のクラシック楽器の奏者になろうと思ったら、金額の桁が一つは上がる。最低でも中流より上程度の資産なり何なりがなければ、その入り口にすら立てない職種であると、彼女は記憶していた。

 

「ええ、まあ……お詳しいですね」

 

 意外だと言わんばかりに目を瞬かせるドレイクの様子を、「何となく、さ」ルームミラー越しに見やった彼女は、ジッとそこに映る瞳を見つめた。

 

「後で話すならそれでもいいけどさ、わざわざ楽団を辞めてまで私に頼みたいことってなんだい?」

 

 別に、隠したってここで帰ったりはしないよ。そう言葉を付け足した彼女の視線に、ドレイクは……しばし、沈黙を保った。

 

 まるで、空気を読んだかのように車も赤信号で止まった。そこは、開かずの信号と言われるぐらいに長く待たされる曰くつきの場所。

 

 合わせて、ラジオから流れていたクラシックも終わり、CMが流れる。穏やかなBGMからは打って変わって、軽快な音楽が車内に響いた。

 

「……貴女に、殺してほしい相手がいるのです」

 

 その中で、ポツリと。まるで自らに言い聞かせるかのように、ドレイクは答えた。直後、青信号になったことで車が動き出した……のを横目に、「――あのさ」彼女は目を細めた。

 

「あんた、頼む相手を間違えていないかい?」

「……間違えては、おりません」

「いいや、間違えている。私のことを知っている辺り、私が『運び屋』だってことも知っているんだろ? どうして、私に殺しの依頼をするんだい?」

「…………」

「個人的に何かを運んで欲しいというのなら、分かる。純粋に力を貸して欲しいとかなら、まだ分かる。でも、殺しの依頼は別だ」

「…………」

「マフィアのお偉方とも繋がりがあるって分かっている相手を、わざわざ訪ねた。明確なルール違反であることを理解したうえで来たから、私はあんたの話を聞こうと思ったんだ」

「…………」

 

 ドレイクは、何も答えなかった。しばし、その沈黙を見やっていた彼女は……深々とため息を吐くと、もういい、と苛立ちを吐き捨てた。

 

「興醒めした。気も変わった。帰るから、ここで降ろせ。降ろさないというのなら、力づくで降りる」

「――待ってください!」

「いいや、待たない。もういい、壊して降りる」

 

 そう言い切らない内に、彼女はドアを蹴破ろうと――した、その瞬間。

 

「――殺して欲しいのは、私なのです!」

 

 車外にまで響くほどの大声で、ドレイクが叫んだ。その言葉に、隣を走っていた車の運転手が、ギョッとこちらを見やった……のを尻目に、ドレイクはアクセルを踏みしめて加速した。

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………しばしの間、車内には沈黙が流れた。呆気に取られる彼女と、僅かではあるが息を乱すドレイク。お互いに平静ではなかったが、ハンドルを握るその手が震えていることに気付いた彼女の方が……落ち着くのが早かった。

 

「……話を聞いてから、考えるよ」

 

 そう言うと、彼女は再び横になった。それを聞いて、ようやく我を取り戻したドレイクは、パトカーに見つからないうちに、緩やかに速度を落としたのであった。

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………見慣れた景色が過ぎ去り、見慣れない景色へと移り変わる。スーッと、周辺を気にして速度を落とすドレイクの顔をミラー越しに見やりながら、彼女は何気なく外を見やる。

 

 そこはもう、彼女の知らない街並み。いわゆる、金持ちたち(ブルジョワジー)の世界。かれこれ数十年は暮らした街だが、常日頃から街中を遊び歩いているわけではない。

 

 飲み屋ならまだしも、それ以外の店となると未だにうろ覚えなことばかり。特に、比較的ブルジョワジーな者たちばかりが住まう居住区となれば、ほぼおのぼりさんに等しかった。

 

 

 だから、なのか。

 

 

 窓越しに見える通行人たちも、どこか品が良さそうというか、物腰が柔らかそうに見える。いや、ただの偏見でしかないのかもしれないが、何となく彼女はそう思った。

 

 視線を変えれば、他の区域とは納めている税金の量が桁違いなだけあって、車道が綺麗に整備されているのが目に留まる。アスファルトの標識に欠けている部分はなく、だいたいが真新しい。

 

 彼女の寝床があるあの辺りは時々(1週間に3回・各1時間ほど)水道が止まったり電気が止まったりすることもあるが、この辺りはそういうことはなさそうだ……そうそう、電気といえば、建物だ。

 

 パッと見た限りでは、建物にも落書きがほとんど見当たらない。おそらく……いや、確実に、落書きされた傍から消しているのだろう。基本的に公共施設以外は放置されっぱなしの向こう側とは、大違いだ。

 

 

 同じ街に住んでいるのに、こうも変わっているものなのだなあ……。

 

 

 そう思いつつぼんやり通り過ぎる景色を眺めていると、とある一軒家の前で車が止まった。豪邸というには些か小さいが、その家の前後左右には住宅がなく、ドーナツ状に緑が植えられていた。

 

 促されるがまま車を降りた彼女は、ドレイクの後に続いて家の中に入る。途中、他の車は見当たらず、ガレージらしきスペースは全くの空洞で、何も私物が置かれていなかった。

 

(……独身、なのかな?)

 

 そんな気がして中に入った彼女は、それが事実であることを察した。何故なら、室内には異性(伴侶)の私物と思わしき痕跡は何もなく、一人暮らし特有の一つの色しかそこに見受けられなかったからだ。

 

 演奏家だけあって、リビングには様々な楽器や楽器の本が置かれている。

 

 その中でもパッと目に留まるのは、音楽に関する雑誌だろうか。ガラス扉の本棚にてきっちりサイズ順に纏められているようだが、たぶん、年号別なんかも分けているのだろう。その辺り、ドレイクの性格が窺える。

 

 

 しかし……よくよく目を凝らしてみれば、だ。

 

 

 本棚もそうだが、その本棚の傍にて鎮座している楽器ケースにはずいぶんと埃が溜まっている。どれぐらいかは分からないが、少なくとも二ヶ月……いや、三ヶ月以上は動かすことすらしていないようだ。

 

 ……まあ、演奏家に限らず音楽に情熱を捧げる人は気難しい人が多いとは、誰の言葉だったか。

 

 あえてその事に触れるようなことはせず、彼女はそのまま……ドレイクの後に続いて階段を下りて、地下へと向かう。おそらく、周辺への騒音を考慮してのことなのだろう。

 

 その証拠に、だいたい12畳分は有りそうな地下室の壁には、小さい穴が等間隔で開けられていた。音楽室などで見られる、あの穴だ。それが四方の壁だけでなく、天井にも穴が開けられていた。

 

 以前はここに楽器なり何なりが置かれ、演奏を行っていたのだろう。上のリビングにはあった埃が、ここではほとんど見られない。場合によっては、リビングにいるよりもここにいる方が長いのだろうか。

 

 照明によって明るくなったそこには、テーブルが一つに、椅子が二つ。そして、その横に……ヴァイオリンケースと思われる物が立て掛けられていた。

 

 

 何とも、殺風景な場所だと彼女は思った。

 

 

 必要でない物は置かない主義なのか、この場にあるのはそれだけだ。椅子に座って話をするだけの部屋。ヴァイオリンケースがなければ、もう長年使用されていないと思ったぐらいに、この空間からは熱を感じなかった。

 

「……わざわざ用意したのかい?」

「いえ、以前はここで作曲も行っていたのですが……すみません、飲み物を用意してきます」

 

 ――いや、別にいいよ。

 

 

 そう言おうとするよりも早く、ドレイクは小走りで階段を登って行った。結果、一人残される形になった彼女はやれやれとため息を吐くと……ふと、ヴァイオリンケースに目が留まった。

 

 ……聞く分にはいいが、弾く方には欠片も興味はない。けれども、暇の圧力には勝てない。特に何かを思うわけでもなく、彼女はケースを開けた。

 

(……何だ、普通にヴァイオリンしか入っていないじゃないか)

 

 直後、彼女はがっかりした気持ちでヴァイオリンを手に取った。もしかしたら何かあるのかもと期待したが、期待は期待でしかなかった……と。

 

「――楽器に、興味がお有りで?」

「いや、全く。ただ、どうしてコレだけここに置いているのかが気になってね」

「ああ、それは……これからお話しすることに必要だからです」

 

 ヴァイオリンをケースに戻した辺りで、ドレイクが地下室に戻ってきた。その両手には湯気の立つカップがあって、コーヒーの匂いがほんのりと彼女の鼻腔をくすぐった。

 

 

 ……酒じゃないのか。

 

 

 反射的にそう考えてしまった彼女は、思わず苦笑する。少し前は呑みたくないとすら思っていたのに、もうコレだ。自分で言うのも何だが、鬼の身体とは自重というものを知らない。

 

 いきなり笑い出した彼女を見て不思議そうに首を傾げるドレイクから、コーヒーを受け取る。湯気の立つそこに鼻を近づければ、特有の香ばしさが臓腑に沁み渡るような気がした。

 

(そういえば、まともな珈琲を飲んだのなんて何十年ぶりだろうか)

 

 何処の店だったか。以前、珈琲にリキュールを入れたやつを飲んだことを思い出す。確か、『マスターの気紛れ度胸試し』とかいう名目で飲みきったら一杯無料という景品が付いていたような気がする。

 

 御世辞にも、美味いとは言い難い味だった。それは淹れ方どうこうの問題ではなく、純粋に不味かった。阿鼻叫喚の地獄絵図と化した他の客と同じく、己もあまりの不味さに悲鳴をあげたぐらいだ。

 

 元々、『彼』も珈琲はあまり好きではなかった。『伊吹萃香』も、似たようなものだ。付き合いで飲むぐらいはしたが、それよりも酒の方がずっと舌に合っていた。

 

(……美味い。へえ、珈琲も悪くな……いや、あのマスターの淹れ方が下手くそ過ぎただけか。豆もやっすいのを使っていそうだったしなあ)

 

 だからこそ、彼女は初めて体感する『美味い珈琲』に感銘を覚えた。まあ、アレに比べたら大概の珈琲は美味いに分類されるが、「――とっておきを淹れてくれたのかい?」とにかく美味いのだと正直に告げた。

 

 それが、正解だったのだろう。

 

 何がどう美味いのかを一切言葉に表してはいないが、ドレイクは嬉しそうに……それでいて、どこか得意げな様子で空いている椅子に腰を下ろすと……静かに、カップに口づけた。

 

 

 ……そのまま、しばしの沈黙が流れた。

 

 

 彼女は、あえてその沈黙を破ろうとはしなかった。ドレイクも、いきなり話し出そうともしなかった。どこか寒々しさすら覚える程に静まり返った地下室にて、珈琲を啜る音が二つ……響いていた。

 

「――二本角さんは、『闇のソナタ』という独奏曲を知っていますか?」

 

 そして、ちょうど互いのカップに残された珈琲が三分の一ぐらいになった頃。タイミングを見計らっていたかのように、ドレイクから沈黙は破られた。

 

「いや、知らん。有名な曲なのかい?」

「いえ、全く。知る人ぞ知ると言っても過言ではないぐらいの、マイナーな曲です。ですが、この曲はとある理由から、私のような音楽に携わる仕事に就いている者たちの間では有名な曲なのです」

「ふ~ん、どうして?」

「真偽は定かではありませんが、『闇のソナタ』は魔王が作曲したと言われているからです」

 

 ……魔王?

 

 思わず、彼女はカップをテーブルに置いてドレイクを見やった。まっすぐに見返してくるその視線には……微細な嘘もない。

 

「……信じられませんか?」

 

 探る様な問い掛けに、彼女はニヤリと笑った。

 

「あんたが信じているから、私も信じるよ。それに、私みたいなやつもいるんだ。魔王が作曲したものが有ったって、何ら不思議な話じゃない……で?」

「『闇のソナタ』には、ピアノ・ヴァイオリン、フルート、ハープの各4つがあります。いずれも人間が演奏をしたり聞いたりすると、恐ろしい災いが降りかかるとされている……曰く付きの曲です」

「なるほど、魔王だったらやりそうな事だ……で?」

「私は、その内の一つであるヴァイオリンの曲を知っております。二本角さん、私はこれから、その曲を弾こうと思います。そして、もし私の身に災いが起こったら――」

「苦しむ前に、あんたを殺せ、と?」

 

 ドレイクは、何も言わなかった。ただ、小さくもはっきりと頷いただけ。それを見た彼女は手元のカップに残された珈琲を一息に飲み干すと、「幾つか、聞きたいことがある」改めてドレイクに問うた。

 

「聞くだけで災いが降りかかるのなら、どうして私にそれを頼む? お前さんの中では、私は災いが降りかかっても良い相手だと考えているのかい?」

「――違います。不審を抱くのは尤もですが、私が貴女にお願いした理由は、貴女があの『十老頭』ですら一目置いて手出しをしないという、底知れぬ強さを持つという話を耳にしたからです」

「……つまり?」

「貴女なら、災いが降りかかっても跳ね除けることが出来る人物であると思ったからです。そして、もう一つ理由を付け足すのならば……貴女しか、頼める相手が思いつかなかったからです」

 

 その言葉と共に、ドレイクはスーツの内ポケットから一枚の名刺を取り出し、それをテーブルに置いた。促されるがまま手に取った彼女は、「シルバ・ゾルディック……?」ほとんど無意識に、そこに記されている文字を声に出していた。

 

「そこに記されている人物は、伝説の暗殺一家としても有名な当主の名前です。当初は私もそこへ頼もうとしたのですが……その……断られました」

 

 当時の事を思い出しているのか、ドレイクはどこか気恥ずかしそうに視線を落とした。何となく、その時の状況を察した彼女は、ははは、と慰めの意味も込めて笑ってやった。

 

「まあ、そうだろうね。あいつらにとって殺しはビジネスらしいから、こういう胡散臭そうな話を持って行っても門前払いされるだけだよ」

「――お知り合いで?」

 

 驚いたように目を見開くドレイクに、「いや、別に」彼女は首を横に振った。

 

「何度かちょっかいを掛けられた程度の仲だよ。引退しているだろうけど、このシルバっていうやつの先代をぶっ飛ばした覚えが……あれ、そういえばあの黒髪の坊主は死なずに済んだのかな?」

 

 生きていれば、もう二十歳を過ぎていると思うんだけどなあ。そう呟く彼女を、ドレイクは呆然と眺めた後。一つ咳払いをすると、「とにかく、彼らには断られてしまいました」強引に話を戻した。

 

「他の者に頼もうにも、実力のある著名な者たちは人気が有りまして、相談するだけでも何か月も待たされます。その相談をするにもコネがなければならないうえに、話を持ち出した途端に追い返されたこともありまして……」

「あ~、それで巡り巡って私のところに来たってわけね。よしよし、経緯はだいたい分かった。それじゃあ二つ目の質問……どうして、そこまでソレを弾こうとするの?」

 

 嘘は微塵も許さない。そう言わんばかりに、彼女はねめつけるようにドレイクの瞳を見やった。

 

「この家からも分かるけどさ、あんたは社会的には成功した部類の人間だ。私の住まいを見付けるだけの表裏問わずな顔の広さもそうだし、その気になれば初潮を迎えていないやつを嫁にする権力だってある……違うかい?」

「……どうして、そう思うのですか?」

「目の色がそこらのやつとは違うからさ。大なり小なり、そういうやつは精力も凄い。枯れ果てているならまだしも、あんたはまだそこまでじゃない。以前は、それなりに非合法な楽しみも嗜んできた……違うかい?」

「……貴女が、考えている通りです。軽蔑、しましたか?」

「いや、別に。それをどうこう言えるほど、私は偉くなった覚えはないよ……で、話は戻すけど、そんなやつがどうしてそこまで『闇のソナタ』とかいうやつに御執心なのか……私が知りたいのは、そこだよ」

 

 そう、彼女が知りたいと思っているのは、その部分であった。

 

 

 彼女の言う通り、一般的な目線からみれば、ドレイクは社会的に成功した部類の人間だ。

 

 

 一人で住むには大き過ぎる自宅を構え、セレブたちが住まう地区を堂々と車で走り、クラシック楽器の演奏家でもある。ドレイクの両親も相当な資産家だったのだろうことも、その立ち居振る舞いから察せられる。

 

 彼女の目から見ても、ドレイクは成功者だ。表の顔は知らないが、裏の世界にいる『二本角』の住居を探し当てただけでなく、どういった人物なのかも把握していた。

 

 それすなわち、ドレイクは裏稼業の者たちとも相応の付き合いがあるということ。

 

 今しがたの彼女の発言を否定しなかった(つまり、全て本当だということ)ことからも、後ろめたい楽しみも経験済みなのだろう。それこそ、酒や煙草や賭博を始めとして年齢性別人種を問わないお相手も……まあ、そこはいい。

 

 

 とにかく、重要なのはドレイクが成功者であるということ。そして、その積み重ねた成功者としての立場を……どうして、投げ出そうとするのか?

 

 

 それが、彼女には全く分からない。自由気ままに生きる方が巨万の富に囲まれるよりも好きと思っている彼女ならまだしも、ドレイクはそういう性質ではなさそうなのだが……ん?

 

「……私の気のせいかもしれないけど、さっきと比べて顔色が悪くなってない? これでお別れにしたりはしないから、具合が悪いのなら少し横になるかい?」

 

 ふと、彼女はドレイクの顔色に目を止めた。気のせい、と予防線を張ったが、改めて見ると気のせいどころではない。もはやその顔色は血の気が引いたという生易しいものではなく、肩を震わせるその姿は今にも倒れそうなほどであった。

 

「いえ、大丈夫です。これは、そう……私が此処に至るまでの経緯を思い浮かべていたからで、持病がどうとかそういうことではありません」

 

 だが、ドレイクは彼女の手を振り払った。「お気遣い、感謝します」訝しむ彼女を他所に、ドレイクは震えを止めるかのように忙しなくカップの珈琲を飲むと……冷や汗が滲んだ顔を、彼女へと向けた。

 

「『闇のソナタ』は、普通の曲ではありません。先ほどもお話しした通り、弾いたり聞いたりするだけで災いが降りかかるといわれている曲です」

「それは、さっきも聞いたよ」

「考えてもみてください。仮に、本当に災いが降りかかる曲が……どうして、今も残っているのですか? どうして、忌むべきモノとして破棄されることもなく残されているのか……その理由が、分かりますか?」

「……あいにく、そういうのは私の専門外だよ。まあ、知っている誰かがそれを誰かに教え続けているんじゃないの?」

 

 欠片もそうだとは思っていない、ただの当てずっぽう。パッと思いついたことだったので、特に気負うことなく口にした仮説なのだが。

 

「――そう、そうなのです! 誰かが、私たちの理解の外にいる何者かが、『闇のソナタ』を伝え続けているのです!」

 

 まさか、それがドレイクの琴線に触れるワードであるとは思わなかった。突然の反応に面食らう彼女を前に、我に返ったのだろう。「す、すみません……」幾分か気まずそうに、ほとんど空のカップに口づけ……それを、テーブルに置いた。

 

「二本角さん……先ほど、私はヴァイオリンの曲を知っていると話しました。ですが、実は……誰にそれを教えられたのか、どこでそれを知ったのかが、私自身にも分からないのです」

「分からない? 分からないのに、何でお前が知っているのさ?」

「そうです、そこなのです。私は最初、この曲を『とある知人から教えられた』と記憶していました。ですが……私の友人に、その知人はいないのです」

 

 友人に、その知人はいない……言葉だけを聞くとこんがらがりそうだ。

 

「どうして私がそこに気付いたのか、それは分かりません。ただ、ある日突然気づいたのです。私にこの曲を教えた知人が何者なのか……それが、誰か分からないのです」

「……つまり?」

「私は、その人とは友人関係にあったと記憶しています。ですが、私はその人の名前や顔立ちだけでなく性別すら思い出せないのです。もちろん、映像等にも残っていない……私には、その人と幼馴染であったという記憶すらあるというのに」

 

 そこまで言い終えた辺りで、ドレイクは大きく息を吐いた。「……しかし、恐ろしいのは、ここからです」顔中に浮き出た冷や汗を気にする余裕すら、ないのだろう。

 

「それまで、私は『闇のソナタ』の曲を知ってはいました。けれども、それを弾こうとも思わなかったし、そういえばと、思い出すまでは名前すら忘れていました」

 

 ぶるぶる、と。恐怖を堪えるかのように組み合わせたドレイクの両手が、目に見えて痙攣し始めた。

 

「しかし、『闇のソナタ』を教えてくれた知人が存在しないということに気付いた、その瞬間。その時から……私の中に欲求が湧き始めたのです。『闇のソナタ』を弾きたいという、強烈な欲求が!」

 

 はあ、はあ、はあ……ドレイクの荒い呼吸音が、室内に溶けて消える。

 

「当然、私はその欲求に抗いました。当時、携わっていた仕事が大口のモノが多かったこともあって、しばらくはそちらに集中することで気を紛らわすことが出来ました」

 

「ですが、それも長くは続きませんでした。欲求は日を追うごとに増大し、無視出来ないものとなっていき……気付けば、寝ても覚めても『闇のソナタ』を弾きたいと考えている自分がいました」

 

「何とか……何とか、この欲求から遠ざかろうとしました」

 

「美食などの娯楽に始まり、あまり呑まなかった煙草や酒にも手を出しました。金はありましたので若すぎる女から老女に至るまで手を出しましたし、自らを痛めつけ……薬にも、手を出しました」

 

 そういうと、ドレイクはスーツの裾を捲って腕を見せた。そこには、丸く青白くなった痕が幾つもあった。言うまでもなく、薬物使用の痕跡であった。

 

「だが、欲求は消えてくれない。腕を縛って弾けないようにしても、結果は変わらなかった。無意識の内に、眠っている間の私が縛った腕を解いて、すぐに弾ける状態にしてしまう。おかげで、私は……ここしばらく、まともに眠ることも出来ていない」

 

「ヴァイオリンを処分しても、無駄だった。気づけば、私自身の手で注文して新しいのを用意したことになっている。金を処分して無一文になっても、目覚めた時には私の前に札束が転がっていて、私から弾けない環境を常に奪い取ってしまう」

 

「自殺を図ろうとしても、無理でした。そう思って行動した瞬間、気付けば自殺する為の手段の全てが私の前から消えている。飛び降り等をしようと思った途端、気付けば自室のベッドで目が覚める。何をしても、何を考えても、私はこの曲から逃れられない」

 

 だから――お願いします。その言葉と共に、ドレイクは彼女へ頭を下げた。

 

「今も、私の中にある何かが囁くのです。もっと人の多い場所で弾けと、より遠くへ演奏が届く場所へ向かえと、より響き渡るように演奏しろと、寝ても覚めても囁いて来るのです」

 

「私だけに災いが降りかかるのであれば、それでいい。けれども、私には分かる。この曲は、そんな生易しいものじゃない。演奏を耳にした者、その全てに災いをもたらす悪魔の曲に他ならない」

 

「どうか、お願いします! 金なら、この家の権利全てと預金の全てを渡します! だから、演奏を始めて災いが降りかかった瞬間、私を殺してください! 災いが他の誰かに伝わる前に、私を殺してください!」

 

「私には分かるのです! おそらく、それなら止められる! この災いを、私にだけ留めておくことが出来る……これしか、もう方法がないのです!」

 

 

 どうか……どうか……!

 

 

 転げ落ちるように椅子から降りたドレイクは、その場で土下座をした。その体勢のまま微動すらせず静止するその様は、とてもではないが言葉に表せるものではなかった。

 

 ドレイクは、額を床に擦り付けたままであった。それを、彼女は黙って見ていた。時間にして、5分ほどが過ぎた頃だろうか。一つ、深々とため息を零した彼女は「いいよ、やってあげる」そういってドレイクの頭を上げさせた。

 

「言っておくけど、加減はしないよ。演奏が始まってあんたの身体に何かが起こればあんたを殺す。程度は考慮しない、異変が起これば殺す……それで、いいね?」

「――構いません。ありがとう……本当に、ありがとう」

「お礼なんていらないよ。私は、お前の覚悟を気に入っただけさ。金もいらない、ただ、お前の覚悟に報いてやりたいだけだよ」

 

 顔を上げたドレイクの目には、大粒の涙が浮かんでいた。けれども、ドレイクはそれを見せたくなかったのだろう。スーツの袖で些か乱雑に目元を拭うと、早速準備をするといって……テーブル傍のヴァイオリンケースを開けた。

 

 先ほど見た通り、中にあるのは何の変哲もないヴァイオリンだ。「入門用の、5万ジェニーぐらいの安いやつです」ドレイクの口からも、彼女が抱いた感想そのままの評価が成された……と。

 

「――ありがとう、二本角さん」

「ん~?」

「貴女に会えて、良かった。出来るなら、こういう形以外で会いたかったものですが……」

「う~ん、無理じゃないかな。こういう形でないと、あんたは私のことすら耳にはしなかっただろ?」

「ははは、言われてみればそうですね……ふふふ、何だか……ここまで清々しい思いで弾くのは、何時以来でしょうかね」

 

 その言葉が、切っ掛けだった。ドレイクが黙れば、彼女も黙る。訪れた、幾度目かとなる沈黙の最中……首にヴァイオリンを当てて準備を終えたドレイクは、これまでで一番となる溜め息を零した後。

 

 

 ――緩やかに笑みを浮かべながら、『闇のソナタ』の演奏を始めた。

 

 

 災いが降りかかるとされている『闇のソナタ』の出だし。それは意外にも、とても落ち着いた調子から始まる、淡い風に揺れる草原のような、穏やかな調べであった。

 

 これが……演奏者だけでなく、聞く者にすら災いが降りかかるとされている、『闇のソナタ』なのだろうか。奏でられる旋律に耳を傾けながら、彼女は内心小首を傾げていた。

 

 事前にドレイクより話を聞いているからこそ彼女は身構えているが、それがなかったら気に留めることなく聞き流していただろう。それぐらい、ドレイクの演奏する音楽は静かで穏やかだった。

 

 彼女には、演奏の上手い下手は分からない。ヴァイオリンに限らず、クラシック楽器の演奏を耳にするのは、これが初めてであるからだ。それは、『彼』の部分でも『伊吹萃香』の部分でも同様であった。

 

 まあ、分かる事といえば、聞いていて不快なところがないという点か。彼女自身の好み云々は別として、それだけ長く愛されるだけの理由がそこにあるのだろう……が、今はそれよりも、だ。

 

 

 災いが、いったいどのような形で訪れるのか。そして、何時頃にそれが姿を見せるのか……それが、彼女にとっては気掛かりである。

 

 

 例えば、トラックやら何やらが突っ込んで来るといった物理的な災いならば、幾らでも対処が出来る。また、突如天井が落ちてくるといった場合でも、同様に対処は可能だ。

 

 しかし、仮にその災いが、だ。演奏者が死ぬまでそれが繰り返されるといったモノであるならば、彼女はもうドレイクを助けない。また、突如病を発症するといったモノだとしても、同様だ。

 

 その場合は苦しみを与えぬよう痛みなく首を落としてやるつもりだが……果たして、どうなることやら。

 

(今のところは、特に変な事は起こっていないようだね)

 

 特に異変らしい異変が起こることもなく、演奏は続いている。目を瞑って演奏に集中しているドレイクの周囲にも変化はなく、四方の壁や天井、床に至る部分にも、不穏な気配は何も感じない。

 

 『闇のソナタ』がどれぐらいの長さになるかは分からないが、このまま行くと演奏が終了するまで何も起こらな……ん?

 

「……?」

 

 不意に、彼女は腹部にチクリと違和感を覚えた。あまりに一瞬のことで、それが痛みであったかすら分からない……と、思った瞬間。違和感は異物感に変わった。

 

 

 まさか、こんなタイミングで腹を壊してしまった……いや、待て。

 

 

 背筋を走る予感に、彼女は己が腹部に手を当てる。異物感のある辺りを摩ってみると……ある。強く押さなければはっきりとは分からないが、硬い何かが皮膚の下にある。

 

 それを認識した瞬間、彼女は己が体内を霧に変えた。と同時に、体内の霧を使って異物を口へと動かしてやる。

 

 ……東方Projectにおいて、妖怪(当然、鬼も含む)という存在は、人間とは違い、存在維持の為にそこまで臓器は重要ではない。あくまでそう見せかけているだけであり、中には心臓を抜き取られても平気な妖怪だっている。

 

 それは、彼女にとっても同じである。いや、数多の妖怪の中でもトップクラスの生命力を誇る『伊吹萃香』ならば、それこそ全身が破裂しても霧になって復活することだって可能である。

 

 だからこそ、彼女は自らの内臓を霧に変えても顔色一つ変えることはない。そうして、かみ合わせた歯車が如き作業で異物を運び終えると……それを、ベッと掌に吐き出した――瞬間、彼女の目が大きく見開かれた。

 

 

 そこに在ったのは――殻が砕けた、かたつむりであった。

 

 

 彼女の体内環境に、耐えられなかったのだろう。既に息絶えているそれは、何処から見てもかたつむりで……あまりに想定外の現実を前に、彼女は唖然とする他出来なかった。

 

 

 ――時間にして、7秒後。

 

 

 我に返った彼女は、ほとんど反射的に――ドレイクの頭に張り手を見舞っていた。鬼の腕力でもって放たれたその一撃は、人間の首を容易く千切り飛ばし、サッカーボールのようにドレイクの頭は床を転がった。

 

 

 ……だが、しかし。

 

 

 ドレイクの演奏は、止まらなかった。失った首元から血の一滴も出ないこともそうだが、首から下はまるで何事も無かったかのように繊細な演奏を続けていた。それを見て、彼女は手刀をもってドレイクの両肩ごと腕を落とした。

 

 

 それでも――演奏は止まらない。

 

 

 それはいったいどうしてか――答えは、落とした両腕にある。何と、地面を転がった腕は瞬時にかたつむりのような形に変形すると、器用にもそれが演奏を続行させたのだ。

 

 かたつむりで言えば、目のように飛び出した触角の部分。それが、まるで人の指先のように五つに別れて、楽器を巧みに演奏している。初めからそうであったかのように、演奏は欠片も乱れない。

 

「――ふん!」

 

 ならば、楽器そのものを壊すまで。

 

 その決断と共に、彼女の蹴りが楽器を砕いた。さすがに楽器が無くなれば演奏も止まり、室内には沈黙が訪れた……が、それもすぐに破られた。何故ならば、ドレイクの身体が新たな楽器を作り出したからだ。

 

 ヴァイオリンに当たる部分は分厚く加工された表皮。弦は体内より取り出された血管で、それを止めるナットや駒や弓などは、ろっ骨などが変形して代わりとなって……再び、演奏を再開したのだ。

 

「……おいおい、こいつは何の冗談だい?」

 

 異様……そう、異様だ。

 

 おぞましさしか覚えない異様な光景を前に、彼女は思わず攻撃の手を止めた。そうしている間にも、首と両腕を失った胴体からは、大小様々なかたつむりが蠢きながら排出され続けていた――と。

 

「――二本角さん!」

 

 背後から掛けられた声に、彼女の肩がビクンと跳ねた。と、同時に、その声に聞き覚えがあった彼女は反射的に振り返り……信じ難い光景を前に、絶句した。

 

 何故なら、声をかけてきたのはかたつむりの胴体に首を乗せた形になっている、ドレイクであったからだ。例えるなら、殻の部分がそのまま人の頭になった感じが近いだろうか。

 

 見ているだけで正気を失ってしまいそうだ。実際、そこにドレイクの頭部がなかったら、その頭部がドレイクでなかったら、彼女は考えるよりも前に粉砕していたであろうぐらいに、おぞましい姿であった。

 

「二本角さん、聞いてください! 分かったのです! 『闇のソナタ』がいったいどのようなものなのかが、分かったのです!」

 

 言葉を失くしている彼女を尻目に、かたつむりとなったドレイクは血走った目で……ぬめぬめと粘液の跡を残しながら、彼女の下へと近づいてくる。

 

「アレは、生物なのです! アレを生物と分類してよいかは分かりませんが、とにかくアレは生きているのです! 音と音の狭間の中を潜んで生きる、ウイルスのような生命体なのです! 四つの独奏曲というのは、ただ4体のアレがいるというだけなのです!」

 

「『闇のソナタ』は、釣り餌です! 演奏を始めた瞬間、アレに感染します! いえ、もしかしたら『闇のソナタ』の曲を教えられたあの瞬間から、感染していたのかもしれない! いや、それはどちらでもいい! あれは、あの演奏の中にアレは潜んでいて、演奏を聞いた者の体内に侵入し、感染者の感情を餌にして爆発的に増殖します!」

 

「ああ、そうだ! こいつらは人間の感情を食うんだ! 私たちが恐怖に震え、欲望に逃避し、神に命乞いをする様を楽しみながら食うんだ! アレは、恐怖や欲望といった感情を好む! 表に出てきたかたつむりは、言うなればアレの触手みたいなものなんだ!」

 

「思い出してください、私の過去を! そのうえで、私の身体を見てください! これも、同じことなのです! より強い欲望を、より強い恐怖を、私から引き出す為にやっていることなのです! その為だけに、私をこのような姿に作り変えてしま――ぐ、ぐああ、ああああああ!!!????」

 

 それまで絶叫して己の状態を伝えていたドレイクが、突如それまでにない悲鳴をあげた。嫌悪感をそのまま形にした姿で床を這っていた、その彼の目玉が……前触れもなく、どろりと零れ落ちた。

 

 途端、空洞となったその奥から飛び出したのは……小さい、かたつむりであった。だが、一匹だけではない。まるで卵から孵った子蜘蛛のように、夥しい数のかたつむりが噴き出した……しかも、それだけではなかった。

 

 その小さいかたつむりの殻は……小さいが、紛れもなくドレイクの顔をしていた。そう、かたつむりとなったドレイクの赤ちゃんといっても過言ではない、小さいそいつらが……ドレイクの眼孔から湧き続けていた。

 

「「「――二本角さん、私を殺してください!」」」

 

 そして、それらの視線が一斉に彼女を捉え、ほぼ同時に同じ言葉を発した。もはや、子かたつむりを生み出す存在と成り果てたドレイクは、声すら発せられないようであった。

 

「「「あなたは、感染しない! 感染しても、ウイルスがあなたの身体に耐えられない! だから、貴女は感染しない! 貴女なら私を殺せる! お願いです、私を殺してください!」」」

 

「「「コレは、他の『闇のソナタ』よりも食欲が旺盛だ! 腹が満たされるまで、数万という人間が私と同じ目にあってしまう! そうなる前に、私を殺して、殺してください!」」」

 

「「「殺して! 殺して! 殺して! 殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せころせころせころせせせせここここここせせせせせせおろろろろろろろ――!!!!」」」

 

 

 ――そこまで聞いた辺りで、限界であった。

 

 

 気づけば、彼女は焦熱の吐息をもってドレイクの成れの果てを焼き払っていた。ピュウゥゥゥゥ、と笛のような甲高い音と共に、赤色を通り越して白色にまで高温となった吐息が地下室の全てを舐めてゆく。

 

「あつい!」「ありがとう!」「いたい!」「ありがとう!」「いやだ、死にたくない!」「あつい、あついー!」「ありがとう!」「ありがとう!」「もっとだ、もっと!」「ありがとう!」「もっと燃やせ!」「ありがとう!」

 

 瞬く間に炭化を通り越して灰へと還ってゆくかたつむりたちの断末魔が、燃え盛る地下室に木霊する。そして、その断末魔の向こうで演奏すらも消え去ったのを確認した彼女は――片手を、溶けた床に打ち込んだ。

 

 

 ――鬼火『超高密度燐禍術』

 

 

 それは、『伊吹萃香』が持つ術の一つ。己が妖力を地中に打ち込み、高熱にしたうえでそれを凝縮して地上へと打ち出す術である。

 

 一拍の間を置いてから、拳を打ち込んだ所より噴き出したのは……真っ赤なマグマであった。どろどろのペースト状になるまでとろけたその様は、まるでバターのようにとろけて床全てを覆った――と。

 

「――逃がさん!」

 

 その時、彼女は気付いた。不可視であり不接触の、音の中を生きる存在。鬼の五感を持ってしてようやく認識出来るソレが、この場より遠ざかってゆくのを感知した。

 

 これが、人間であったならば逃げ切れただろう。だが、相手が悪かった。『密と疎を操る程度の能力』で干渉出来るのは、何も物理的な存在ばかりではない。

 

 東方Projectにおいて、『伊吹萃香』が人間や妖怪の心に干渉し、宴会を連日開催するよう意識を誘導したように。目に見えず、触れることすら出来ぬモノであろうとも、彼女は……集めることが出来るのだ。

 

 ぐん、と。頭上高くに上げた彼女の手が、何かを掴むかのように大きく広げられる。傍目からは、ただ手を上げているようにしか見えない……その手が、ぎゅう、と虚空を掴んだ。

 

「うっ、おぅ!?」

 

 瞬間、予想外のことが起きた。おそらく、ソレは初めての経験だったのだろう。己が掴まれるという未曽有の危機に直面したソレは、彼女の身体ごと逃げたのだ。

 

 

 いったい、何処へ逃げたのか?

 

 それは、彼女にも分からなかった。

 

 

 強く身体を引っ張られたと思った瞬間、気付けば彼女の眼前に広がる光景が一変していた。

 

 それを、何と表現すればいいのか、彼女の語彙では上手く表せなかった。

 

 

 螺旋を描く石畳の中を、彼女は飛んでいる。けれども、空を飛ぶのとは違って、浮遊感は全くない。まるで、吸い込まれるかのように身体が勝手にそこへ向かっている。

 

 螺旋の向こうには、仄暗い暗闇が広がっていた。だが、真っ暗というわけでもない。目を凝らせば、脈動する臓器のような何か、何かの形を模した石像のようなもの、そんなよく分からないモノが、音もなく浮遊しているのが見える。

 

 音もない、風もない。ここには、命すらない。けれども、死した世界ではない。矛盾が矛盾のままに成立した……そう、異空間だ。言葉にすれば、正しくそこは異空間としか言い表せない世界であった。

 

 

 ――ここに居ては、いけない!

 

 

 それは、直感でしかなかった。だが、かつてない程に激しく背筋を走った直感に従った彼女は――くるりと体勢を変えると、『捕まえたソレごと』渾身の力をもって……石畳に拳を叩き込んだ。

 

 

 ――瞬間、バキリ、と。

 

 

 何かが砕ける音を、彼女は聞いた。目の前の石畳にはヒビ一つ入っていないが、彼女は確かに何かが砕けたのを感じ取った―─その、直後。内臓がひっくり返るような浮遊感と共に、またもや景色が一変した。

 

 

 黒色から、緑色へ。

 

 

 気色悪い世界から、自然溢れる世界へと。ふわりと、あるいは、ぺい、と。ゴミ箱に投げ入れられるような感じで投げ飛ばされた彼女が振り返れば、そこに広がっているのは何処までも広がる青空と、緑の世界であった。

 

 

 いったい、此処は何処なのか。

 

 

 そう思うと同時に、彼女は遠ざかってゆく気配を集めようとした。仕留め損なった獲物をみすみす逃すつもりはない。せめて、後一発は殴らなければ気が済まない……そう思ったのだが、無理だった。

 

 引き寄せようとした時にはもう、ソレは彼女の能力が及ぶ範囲を超えてしまっていたからだ。「――っ!」思わず舌打ちを零した彼女は、くるりと反転して……ずどん、と地面を陥没させて着地した。

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………むせ返りそうになるぐらいに濃厚な、緑の臭い。一歩間違えれば悪臭と取られかねないぐらいのそれに包まれた彼女は、陥没跡からのそのそと出て来ると、深く……息を吸って、吐いた。

 

 途端、ぼぉう、と炎が彼女の唇から零れる。無意識に、内心が籠ってしまったのだろう。自らを落ち着かせるつもりで、ぱんと頬を張った彼女は……さて、と辺りを見回した。

 

(……見覚えがないな)

 

 運び屋として生活を始めてから、数十年。単純に遊びに行ったこともそうだが、仕事の関係から様々な場所に行った経験がある。その、経験をもってしても、初めてとなる景色であった。

 

 一瞬だけとはいえ先ほど空から見下ろした時には、町と呼べるような場所が見られなかった。すなわちそれは、此処がよほどの秘境であることを示唆している。

 

 

 あるいは、何処ぞの国が意図的に残した保護区か何かだろうか。

 

 

 それだったら色々と面倒(そういうところは、だいたい保護区の境界線に監視員を置いているため)だが、まあ、空を飛んで行けば大丈夫だろう。今は目立つが、夜に飛べばまず見つからないだろうし……仕方がない。

 

 本当は一刻も早くドレイクが本当に死ねたのかが知りたかったのだが……まあ、余計なことをして余計に時間が掛かったら本末転倒だ。

 

 

 とりあえず、この場を離れよう。

 

 

 散歩がてら、周囲の散策もしてみたいし、それで現在地が分かれば儲け物だ。そう決めた彼女は、早速その場を離れようとした……のだが、その足はすぐに止まった。

 

「……何か用かい?」

 

 どうしてかといえば、彼女の眼前に……一人の男が立ち塞がったからだ。加えて、その男は……彼女の目から見ても普通じゃなかった。

 

 具体的に何が普通じゃないって、裸なのだ。

 

 大自然の中で、すっぱだか。ネクタイも靴下もない、文字通りの全裸だ。そのうえ、その男の首から上は緑色の球体に覆われている。まるで、緑色のボールをすっぽり被っているかのような姿であった。

 

 

 うわあ……変態がいる。

 

 

 表には出さなかったが、内心、彼女はドン引きした。いや、裸族そのものは否定しない。こういう場所で生まれたままの姿になることに意味を見出す者たちがいることは、彼女も知っている。

 

 だが、頭部の被り物は違う。裸になるのならなるで、どうして被り物などするのか。そういう中途半端なことをするのなら、むしろしない方が良いと彼女は……あれ、ちょいと待て。

 

(ん~変だな、どっかで見た覚えがあるような、ないような……)

 

 奇妙な違和感を覚えた彼女は、沈黙を保ったままの男へと歩み寄る。男は、何の反応も示さない。特に嫌がる素振りを見せないようなので、彼女は遠慮することなく男の全身を見回し……見回し……あっ。

 

(思い出したぞ、こいつって、あの遺跡の前にいた無茶苦茶しつこかったやつじゃないか)

 

 

 あれ、ということは、ここってもしかして私が最初にいた、『暗黒大陸』とかいうあの場所では――?

 

 

 そう、続けようとした彼女の視界から、男が消えた――いや、違う。消えたのではなく、彼女が顔を逸らしたのだ。前触れもなく男が放った拳によって、彼女の顔が真横へ動かされたのだ。

 

 続けて、男はそのまま彼女を殴りつけた。ごがん、と生物が立てるには些か不味い打突音と共に、彼女はふらりと仰向けになって倒れ――るよりも前に、踏ん張って堪えた。

 

 

 直後、男の身体が飛び出した――これも、違う。

 

 

 飛び出したのではなく、引き寄せられたのだ。彼女の眼前に集められてしまった男は、その勢いのまま拳を放った――が、無駄だった。反対に、彼女が放つ拳によって、その肩ごとぐしゃぐしゃに破壊されてしまったからだ。

 

 姿勢の不利など、関係ない。『伊吹萃香』の腕力は、鋼鉄を容易く引き千切る。衝撃によって片腕が粉々になった男は、悲鳴一つあげることもなく地面を転がった。

 

 傷は、肩口の動脈をも粉砕した。普通なら、即死とまではいかなくとも致命傷である。しかし、男の身体からは血の一滴も出なかった。それどころか、使い物にならない片腕をそのままに、あっさり立ち上がってしまった……と。

 

 めきめき、と。

 

 突然、肩の傷口から何かが伸びた。それは、植物の根を思わせる何かであった。一本一本が太さ数ミリ程度のその根は、絡み合う糸のように束を形成し、太さを増してゆき……あっという間に、代わりの腕を作り出してしまった。

 

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

 

 沈黙が、二人の間を流れた。

 

 負った傷など無意味と言わんばかりに佇む緑頭の男と、その程度の攻撃では攻撃にはならないと仁王立ちする彼女。傍目から見れば、裸の男と少女(下手すれば、幼女)が睨み合うという凄まじい構図。ここが街中であったなら、警察官の一人か二人は呼ばれているところだが。

 

 がさり、と。

 

 傍の草木をかき分けて姿を見せたのは、警察官ではなかった。現れたのは、緑頭の男。それも、一人や二人ではない。軽く見積もっても10を超える数が、のそのそと彼女の前に現れた。

 

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

 

 彼女は、何も言わなかった。緑頭の男たちも、何も言わなかった。ただ、無言のままに彼女が男たちに背を向けるのと、男たちが一斉に駆け出したのは、ほぼ同時で。

 

「――お前ら本当にしつこいから嫌いなんだよ――っ!!」

 

 悲哀のこもった雄叫びをあげながら、彼女は走った。途中、何度か追い付かれ、その度に蹴散らすのを繰り返しながら、彼女は走った……そして、改めて理解してしまった。

 

 

 ここは、『暗黒大陸』。

 

 

 かつて、己が己となった、その地であるということを……彼女は、嫌でも認識させられてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

  




この話のだいたいの流れ


鬼娘、朝から何だか調子が悪くてやる気が全くでない

演奏家の男が来て、闇のソナタを弾きたいから、災いが起こったら自分を殺してくれ

闇のソナタによって男に災いが起こる。その際、闇のソナタの大本であるやつを捕まえる

しかし、取り逃がす。その際、なんだかワープ的な逃げ方をしたらしく、巻き込まれて鬼娘はワープ

さてどうやって帰ろうかと思っていると、なんだか懐かしいやつがいる。

植物兵器「ドーモ=二ホンヅノ=サン ブリオン、デス」 鬼娘「アイエエエ!」

本人が微塵も望んでもいない里帰り編、スタート








十話以降は来年、ヨークシン編までは続けたい所存です




あ、ちなみに蜘蛛はヨークシンで何人か死なせるからね、嫌な人はヨークシン編は見ないようにね
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