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女かコーヒーカップを置く「カチャン」という音が耳障りに響くと、カップの中の珈琲も波紋が広がった。
その波をただ意味もなくと眺めていると次第に水面には顔が映ってきた。
それはあまりにも可愛げのない表情で、生気も感じられないような、眺めている本人ですら不満を覚えるものだった。
そんな自分を水面越しに見て女は小さくため息を吐いた。
精神的にも身体的にもどこか閉塞感を感じた女は脚を伸ばして首を少し回すと、身体を伸ばして椅子に掛け直した。
だが、それでも居心地の悪さは変わらなかった。頭もどこか回らずに、女は少し暗めの天井から吊り下がる照明を焦点が定まらない眺めていた。
女はしばらくの間そうしていたが、不意に自分の前で「キキッ」と床と何かが擦れた様な音を聞いた。直後に「カチャ」っとプラスチックの安っぽい音が鳴った。天井を仰いでいた顔を鬱陶しげな表情のまま戻すと、テーブルを挟んだ目の前の座席に一人の少年がいた。
女は目の前に座る少年を見て一瞬、硬直し、石になったかのように呼吸も止まった。虚ろな目も見開き、身体に瞬間的な緊張が走る。
そんな反応を他所に目の前に座った少年は、小さめの茶色いトレーに乗ったコーヒーカップの中に次々に砂糖やミルクを入れていた。一般的に珈琲を嗜む人間なら彼の入れる砂糖やミルクの量にあっと驚くだろうが、彼はいたって真面目な表情で黙々とその作業を続けている。
女とは違う男らしいその手がコーヒーカップの上を往復する度に彼の頭から伸びるアホ毛がふわふわと揺れていた。
そんな様相にただ黙って呆気にとられたような表情で女は眺めていたが、その一連の作業を終えた彼がカップを手に取り一口その珈琲を口付けた時、初めてこちらを向いた彼が少し眉を下げて声をかけた。
「どうかしたんですか?」
その問いに女が気付くには少しのタイムラグがあった。呆然としていた女がその問いが自分に向けられたものだと気づかなかったのだ。
「え、あ…… ううん、」
そんなたどたどしい解答しか女はできなかった。そんな様子の女に少年はさらには疑問を見事に表した表情で「それ本当に大丈夫なんですか…」と再び問いかけてきた。
女は内心戸惑っていた。そこには3通りの理由があり、1つは率直な驚きであり、2つ目は自分の今の態度に対する後悔、そして最後は幸福であった。
心中で交錯する感情に女は表情が定まらなかったが、自分らしくないと思いながらも最後は少しぎこち無い笑みを浮かべて「ホントに大丈夫だよ」と小さく言った。
もっとも、こんな調子で本当に目の前にいる少年が納得してくれるとは当人も思ってなどいなかったが、少年は何かを察したかのようにそれ以上の追求はしなかった。
女もそんな少年の配慮に気付いていた。そして、そんなことをさせている自分にに激しく嫌悪感を抱いていた。しかし、女は結局はそれに甘えた。
女は、どうして目の前にその少年がいるのか分からなかった。これはきっと人違いか、何かの幻想ではないかと疑ったが、目の前にいる少年は紛れもなく女が以前に事前になんの言葉もなく離れた人であった。
よって女はもう会うことは無いだろうと思っていた相手を目の前にして言葉を紡ぎ出すことはかなわず、ただ俯き静かなカップの水面を見ることしか出来なかった。女は初めて彼との静寂が気まずかったのだった。
「隠すの下手になりましたね…」
最初に口を開いたのは意外にも少年だった。
女は余裕を装い、あくまでしらを切った様子で「どうしたの急に?」と返した。
すると彼は「わかってるくせに」といった不満気な表情を一瞬だけ見せたが、すぐに表情を戻してみせた。
女はその彼の行動を見ては自分の心中は見透かされてると気付たが、それでも余計な言葉で空気を汚さずに配慮を行動だけで示してみせた彼が嬉しかった。
「やっぱり優しいね…」
女はカップの水面を眺めながら呟いた。
すると少年は「どこがですか」と、直ぐに鼻で笑ったように答えた。
「そういう分かってるくせに、わざとらしくとぼけるところとかかな」
「なら、きっとあなたは意地悪ですね」
「どうして?」
「そうやって人の厚意を無下にするからです」
「別にそんなことないよ」
「本当にそう思ってますか?」
言って少年の視線が突き刺してきた。
「何?そんな顔して。」
「じゃあ、どうして俺の前から何も言わないでいなくなったんですか…」
その瞬間、世界は静寂に染った。
女はその彼の問いにすぐに回答できる答えを持ち合わせていなかったのだ。だから、その苦痛の静寂を紛らわせるようにカップを手にとり、ほとんど残っていないコーヒーを啜った。
そして、その味は想像以上に苦かった。
「あぁ、別に責めるわけじゃないですよ」
「ただ、まぁ、でも、何か一言言って欲しかったです、ね…。」
彼の声は至って落ち着いていながら、少し照れくさそうに、気まずそうに言った。
「ごめんね…」
「別に、謝らなくていいですよ」
「どうして?」
「謝ったって、何にもならないからです。むしろ謝るべきは俺の方ですよ」
「君が謝る必要がどこにあるの?」
「ありますよ…。そんなの、俺がもっと早く動いていれば、もっと何とかなったかもしれないですし…」
言って目の前の少年は顔を俯かせた。
ああ、まただ。と女は思った。
その少年の言葉は、いつの日か女が聞いた言葉と似ていたからだった。
「君は、本当に優しい…」
「だからそんなことは…」と少年はまた否定を試みるが女はそれを遮るように言葉を続けた。
「ううん。やっぱりそうだよ…。だって君はそうやっていつも君以外の人の分まで背負い込もうとする……。それはきっと私達にとっては悪いことなの、自分が背負うべきものを君に背負わせちゃってる……」
「そんなことはないですよ…」
「そんなことあるよ。だから、これ以上はダメなの。これ以上君に背負わせることはできないの。」
「仮にそうだったとしても、俺はもうこんなの慣れきってるんですよ…。これでいいんです。これが俺のやり方なんですよ」
「違うよ比企谷くん…」
女は直ぐに否定した。
「私が嫌なの。君に余計な重荷を背負って欲しくはないの。だからいいのよ…」
女は手に持っていたちり紙を強く握り潰していた。手は震え、悲痛の叫びを堪えながら言葉を紡いだ。だが、選び出された言の葉の数々は鋭い刃のように女の心に突き刺さった。
苦しくて仕方がなかった。
そのせいもあってか、女は常に目線はテーブルの食器に落ちていた。目の前の少年にその視線を向けることはどうしてもできなかった。
「なら、いいです…。俺も、強要するつもりは無いです…」
彼はトーンの落ちた声色で女の言葉に同意を示したかに見えた。
「でも、まぁ、何かあれば、言ってください…。一応、奉仕部なんで……」
その瞬間、女はさらに強く手の中にあったちり紙を強く握った。もう片方の手は強くスカートを握りしめ、肩から手の先まで力が入り緊張して微かに震わしながら、歯を食いしばった。
それでも、涙は止まらなかった…。
そんな顔を少しでも見せないように、女は俯き続けた。そしてそのまま熱くなる身体と声を殺しながら、いつの間にか頭の上に置かれていた温もりを感じていた……。
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ジリジリと窓から降りそそぐ光に当てられ
その熱と共に女は目が覚めた。
いきなり知覚される陽の光は寝起きの彼女にとってはあまりにも眩し過ぎたため、彼女はその光から逃げるように目を細め布団の中に入り込む。外気から遮断されたその布団の中は暖かく心地が良くそのまま、また眠りに落ちてしまいそうだったが彼女はすぐに正気に戻り布団から顔を出した。
眠気の取れない目ですぐ隣に置いてあったスマートフォンで今の時刻を確認する。
そこには14時27分と表示されていた。
それを見て彼女は寝過ごしたと少し後悔を滲ませながらため息を吐いた。本心としてはもっと寝たかったが、さすがにこの時間でこれ以上寝るのはまずいと、彼女はベッドから起き上がった。
この日は4月の初旬。既に春の陽気に包まれ、多少の肌寒さに加えて陽のぬくもりを感じられる眠るにも日中過ごすのも気持ちの良い日々が続いていた。
「春眠暁を覚えず」とはまさにこのことかと、少し皮肉に自分を嘲笑った。
そして、そのまま立ち上がり冷蔵庫から少しだけ残ったミネラルウォーターを取り出して一気に飲み干す。
そして「ハァー」っと一息をつき、飲んでいた空のペットボトルを近くのゴミ箱に投げ込んだ。
ペットボトルはそのまま綺麗に放物線を描きながらクシャっとビニール袋と擦れる音を立てながらゴミ箱に入った。
それを見て彼女は少し満足感を覚えた。
しかし、その気持ちはすぐに風に飛ばされたビニール袋のように飛んで行った。
ゴミ箱のすぐ後ろの壁ににある鏡の自分と目が合ったからだ。
その鏡には、外では絶対に見せられない姿の自分がいた。
ぐしゃりと跳ね上がった寝癖のある髪に、完全に覚醒しきれていない朧気な目元、ボタンが外れて胸元が大きく空き、豊満なバストが露わになっただらしのない上半身姿に、下着しかはいていない白く細い素足の見えた下半身。
彼女はこんな姿が他人の思い描く綺麗な彼女とは違うことであることは理解していた。それでもこれこそがありのままの自分だとも理解していた。彼女にとっては他人に思われる自分は煩わしさの何ものでもなかった。
だから彼女は他人に描かれた自分から開放されるために日本を離れこの地に来たのだった。
彼女は日本から大海を渡り、大陸に辿り着いた。そこは自由の国と呼ばれ、世界最大の経済力を持ち、世界最高の夢があると言われる場所だった。
日本とは違った大きな国土に北も南も、西も東も大きく広がっている大地は彼女にとってはあまりにも大きな新天地であった。
けれども、彼女は自分の母国での生活を捨て新たな生き方を始めるには相応しい場所だった。
もうこの場所にいる時だけは彼女を知っている人間も縛り付ける家族もいない。自分にとって自由な自分でいられると、そう思っていた。
こんなだらしのない姿を鏡を通して見れることは彼女に満足感を感じていたのだが、後ろ髪を引かれるような思いも心の中にあった。
それでも、そんなことは考えたくないと彼女はそのどっちつかずの思いを心の中に無理やり押し込み、この異国の地で生きていた。
彼女は暫く自分の姿を呆然と見たあとに、何事もなかったかのように振り返り、窓辺に置いてある椅子に腰をかけ窓から見える青い穹を意味もなく見上げていた。
この部屋からはいつもそんな青い穹と緑豊かな街並みが見えていて、それをただ呆然と窓から眺めることが彼女の日課であった。そんなことが日課になるほどにこの街は彼女に合っていた。
この場所はこの国の北東部にある都心から郊外にある街で、大学や研究機関がいくつも立ち並んでいた。そして日本の都心とは違い、騒がしさもなく人も多過ぎるわけでもなく、言ってしまえば穏やかそのものだった。つまりそれは学生街と言うべきであろうか、そんな穏やかさの中に垣間見える若者達の内に秘めたる情熱はこの街に日本にはない雰囲気を醸し出していたのだった。
そんな景色を眺めながら彼女は適当な服を着て、もう半日が終わった今日をどう過ごそうかと考えていると、部屋のインターホンが鳴った。
「はーい」と声をかけてドアを開けるとそこには1人の男がいた。
「おはよ!」彼は顔を合わせると爽やかな笑顔を作ってそう言った。
それを見て彼女も自然と笑顔を作って
「おはよう」と返した。
「って言っても、もう昼過ぎだけどね」
彼は冗談めかしに笑って言うと、
陽乃もまた笑顔で「そうだね」と返した。
こんな一見して何の変哲もないやり取りをしてる彼は陽乃と同じ日本からの留学生であった。名前を藤原健吾と言い、身長は約175以上cmもある高身長で今時のファッションに身を包み顔立ちの整ったいかにも好青年と呼べる人間であった。そんな彼の家は代議士の家系であり、平安期から続く由緒正しき家柄であった。そしてここでは陽乃と同じ経営学を専攻していた。よって彼と陽乃はここではお互い最も交流のある関係であった。
「それより、起こしちゃったかな?」
「ううん、大丈夫だよ。どうして?」
「陽乃、朝も食堂に来てなかったし午前中は1度も見かけなかったからもしかして寝てるのかなってね」
「あーバレちゃってた?休日だから寝過ぎちゃったんだよね」
陽乃は言って少し決まりの悪そうな笑顔を作る。
「まぁ、つい最近までテストとかでいろいろ忙しかったし疲れてたんだろうね」
「そうかもー でも沢山寝たから今は元気一杯だよ!」
「それなら良かった。それはそうと、お昼まだでしょ?どう一緒にランチでも?」
「あ!いいね!私もうお腹ペコペコだよ〜」
「なら丁度いいね!近くにいいカフェを見つけたんだ。そこは出てくるメニューも結構いい感じなんだよね」
「本当に?それは楽しみ!」
「うん、絶対気に入ってくれると思うよ」
「なら期待してるね!私、準備してくるね」
「OK、じゃあ俺はエントランスで待ってるよ」
「うん、じゃあまた後で!」
そう言って彼女は笑顔で手を振りながら部屋に戻った。
ここでいうエントランスは陽乃や数原を初めとした多くの学生が入居している寮のエントランスのことである。大学にほど近い少し時代を感じさせるこの寮は陽乃や藤原などの日本人を初めとする多くの海外留学生が下宿していた。
そして今こうして陽乃がいる部屋もその寮の一室であった。
陽乃は手早く服を外出用のものに着替え、化粧をして部屋を出てエントランスで数原と合流をした。
「ごめん、お待たせ」
「そんなことないよ。むしろ思ってたより早かったね」
「本当に?なら良かった〜」
「でも着替えて化粧もしてきたんだね」
「まぁ、一応外に出るからねー。健吾くんもいるし最低限のマナー的な?」
「でも陽乃は別にお化粧とかしなくても大丈夫じゃない?元が綺麗だし」
「えーそんなことないよ〜。スッピンとメイクしてるのじゃ全然違うんだからー」
寮の自室での彼女とは裏腹に、彼女の返答は実に軽快で朗らかなものだった。真横を歩く男子学生の言葉に笑顔を見せながら傍から見ればまるで恋人同士のように仲睦まじそうに歩いていた。
この光景は彼女達を知るこの大学の人達からすれば珍しいことではなかった。雪ノ下陽乃と藤原健吾はこうして大学の合間をぬっては2人で寮近辺の飲食店や娯楽施設に出ていた。基本的にいつも誘うのは健吾の方からで、陽乃もそれを断ることはほとんどなかった。
健吾は陽乃より一年早くこの大学に通っていたため、陽乃がこの大学に来た当時、この街のことや大学のことをほとんど知らない彼女にとって、この街で生きてくためには一年先輩である健吾の存在は大きかったのだ。
だから彼の誘いを断ることはほとんどなかったし、こうして今日までその関係が続いていたのだ。
2人は寮から5分ほど離れた大通りから少しそれたカフェに入った。そこは、髭を蓄えた少し大柄の男性と白髪の交じった鼻の高い優しげな老夫婦が経営している店であった。店の外装も内装も一昔前のアンティークを基調とした落ち着いた装いで、店のあちこちに古めかしい雑貨が散りばめられていた。
藤原は慣れた手つきで店のドアを開けて陽乃をエスコートすると、陽乃も「ありがとう」と小さく笑顔で言って中に入った。店内は芳ばしい珈琲の香りで包まれ、その中に空腹を刺激するような煮物の匂いも立ち込めていた。
店内には年齢層の広い5、6人の客がいて、本を読んだりパソコンをいじったりとそれぞれが思い思いに過ごしていた。
藤原は窓際の二人掛けの席を見つけて陽乃を引き続きその席までエスコートした。
2人は席に着くと藤原はメニューを取り、1つを陽乃に手渡しながら聞いてきた。
「どう?いい感じの雰囲気じゃない?」
「うん。すごく落ち着いていて好きかも」
陽乃は笑顔を絶やすことなくそう答えた。
「ならよかった。気に入ってくれると思ってたんだよね」
「へー私の好みなんてよく分かったね」
「まぁ、半年陽乃と一緒にいて好みが何となく分かってきたんだよ。それに女性の好みを理解してエスコートするのはマナーでしょ?」
「おー、さすが紳士だね〜」
そう言って2人はクスクスと笑い合った。
藤原の振る舞いは陽乃が見る限りにおいては、常に紳士的であった。彼の生い立ちについてはある程度は聞いていたものの、異性をエスコートする振る舞いやテーブルマナー、知識や容量の良さを見ても彼の育ちの良さは明白であった。
これまでに陽乃に言い寄って来た男は何人もいた。そんな連中の様相は十人十色であったが、多くの男達が陽乃には優しく紳士的に振舞おうとした。だが、所詮は付け焼きの刃でしかない。真に紳士的な振る舞いなど庶民の学生如きに出来るわけがなく、必ずどこかでボロが出るのだ。一方で、この藤原に関しては現時点においてそういったものは一切見受けられなかった。そういった面において、陽乃は藤原のことを信頼していた。
2人はメニューをしばらく眺め、注文を決めると藤原は慣れた雰囲気で店員を呼び、2人の品を流暢な英語で注文していった。2人が食事に行く時はいつもこうして藤原が注文をしていた。そうした陽乃への紳士さへの徹底ぶりは改めて彼を見直すことになった。
しばらくして、テーブルに2つの珈琲がやってきた。
白いカップに満たされた黒く美しい珈琲は芳しい香りを立ち上げながら静かに踊っていた。2人はそのコーヒーをブラックのままひとくち口に含んだ。苦くも芳醇な香りが口元に広がり、その味をじっくりと堪能するように目を閉じた。その珈琲を飲み込むと「はぁ」っと声を出して陽乃は窓の外を見た。
こうして一息をつくと窓の外を見てしまうのはここ最近の彼女の癖で、何かから逃げるように、何かを求めるように彼女はどんな場所であっても暇があれば外を眺めていた。何を考えるでもなく、何をするでもなく、ただいたずらに時の流れに身をまかせて悠然と外の景色を眺めるその瞬間は、彼女は自由でいられた気がしていた。
そして今も、昼過ぎの少し日が傾き始めた初春の街並みがどこか眩しく陽乃の目に映っていた。そのどこか暖かく感じる景色は彼女に改めて季節の移ろいを実感させると共に、時の無常を想起させた。
少し目線をずらすと彼女は窓際の棚に飾られたアンティークのガラス細工を見つけた。
途端、彼女は自分の心臓が一気に拍動するのを感じた。はっと我に帰るような感覚に陥ったが、すぐに何かに惹かれるようにそのガラス細工をただ呆然と見つめていた。
その光景に彼女はデジャブを感じていた。
しかしすぐにそれはデジャブでないことが分かった。
こうしてカフェの席に座りながら、珈琲を啜り、ただ呆然と窓際のガラス細工を眺める自分の姿が以前の自分の記憶の中にあったのだ。
その記憶は決して古ぼけたものではなかった。約半年と少し前の暑い日の記憶であった。
そんな最近の記憶であるのに彼女にとってそれはずっと昔の懐かしい記憶に思えてならなかった。
埃を払うように、心の片隅に追いやった記憶の紐を解いていくと、そこには一人の男が座っていた。彼は陽乃よりも若かった。彼は見慣れた制服に身を包み、少し鬱陶し気な表情をしながら、ミルクと砂糖のゴミ屑が散らばったトレーに乗せられたカップを手にとり、その変色した珈琲を啜っている。
その男は常に無愛想で猫背気味で臆病であった。しかし、非常に愛のある人でもあった。
陽乃はよく彼を揶揄っていた。
人より優秀でありながら不器用な彼は陽乃にとって興味の対象であった。
彼を見かければ陽乃はいつも声をかけていた。
声をかけられた時はいつも嫌そうな顔をしていた。そんな表情を他人にされたことは陽乃自信の人生においてほとんどなかったことだったが、何故かそれさえも陽乃にとっては愛しかった。
妹と比べらればずっと短い時間だったが、陽乃はそんな彼との記憶を辿った…正確には辿ってしまった。
陽乃はこの半年間彼のことを考えることをやめていたのだ。現状の通り、今彼女は異国にいる。新たな人生の歩みに彼の存在は足枷でしかないのだ。だから彼女は自分の人生の歩みを進めるために彼もろとも過去を捨てた。
全てを捨てた
自分のために
決意のために
生きるために────
「陽乃?おーい」
ふと声をかけられた拍子に陽乃ははっとした。
「え、あ、ごめん」とぎこちのない返答をするが、目の前に座る人の表情は変わらず心配の色を含んでいた。
「どうした?大丈夫?」
「うん。大丈夫だよ。ごめんね。」
「本当に?」
「うん。本当に。少し考え事してただけだから」
「それにしては難しい表情してたよ?何か悩み事?」
「そんなに表情変だった?」
「普段の表情ではなかったかな」
「本当に?もー私ったらせっかく藤原くんといるのに悪いことしたなー」
「俺は大丈夫だよ」
彼は笑顔でそう言った。その表情はまさに爽やかさを体現したかのような笑みだった。
「まぁ、何か悩み事とああるなら俺が聞くよ?」
「ううん。大丈夫大丈夫。そこまでのことじゃないから!」
言って陽乃は顔に笑顔を作った。
「そう?ならいいんだけどね。ま、思い悩む時は美味しいもの食べて綺麗さっぱり忘れた方がいいよ」
そう藤原は言うと、陽乃が気付かぬうちに届いたパスタを差し出した。
「ありがとう……そうだね…。もう、忘れるようにするね。」
「そうそう、忘れた方がいいよ 変に悩んでも何もなんないしさ」
藤原はそう笑顔を崩さずに言った。
陽乃は静かに「うん」と頷いた。
また小さく金属音が鳴り響き始めた。
2人は歩調を合わせるように食事を進めた。時折、藤原が陽乃に話題を振りそれに陽乃が答えるようにして時間が過ぎていった。
だが、陽乃が残った珈琲に手をつけることは最後までなかった。
Interlude
もう笑えないよ
夢の中でさえも 君は同じ事を言うんだね
この窓のずっと向こうの本当の君は
何をしているんだろう
今日も会えないから
ベットの中 目を閉じて
また君に会えるように祈っているよ
でも
叶わぬ想いなら せめて枯れたい…
お読みいただきありがとうございます。
性格上、雑なところも多いですが楽しんでいただけたのならば幸いです。
今回の話に戸惑った方ももしかしたらいるかもしれません。ただ、今回は陽乃中心の話なのに語り手が陽乃自身ではなくあえて第三者視点にしてるのがある意味のキーポイントです。
いろいろと考えながら読んでいただければと思います。
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