月光花   作:八咫倭

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遅くなりましたが続きです


季節は巡り、森は染まり、風邪は奏で、思いは溢れる

「今日も暑いですねぇ」

 

「そうだな」

 

「早く涼しいところ行きたいですねぇ」

 

「そうだな」

 

「今日は冷たいうどんとか蕎麦が食べたいですねぇ」

 

「そうだな…」

 

「明日もきっと暑いんでしょうねぇ」

 

「そうだな」

 

「こういう日は海にいきたいですねぇ」

 

「それは嫌だ」

 

「もー!なんでそこは『そうだな』じゃないんですか!」

 

そう言って、大学までの道のりを隣で歩く女子学生は俺の肩を小さく殴った。

 

「痛てぇな… こんな暑くて人が多いところなんて行きたくねぇよ」

 

「海に入るから涼しいじゃないですかー」

 

「じゃないですかー、じゃねぇよ。そもそも海行くのも疲れるし、泳ぐのも疲れるんだよ。おまけに塩水で身体ベトベトだし却下だ」

 

「えー。いいじゃないですかーー大学生っぽくてー」

 

「何、そのいかにも頭の悪そうな大学生像…。俺は別にそんな大学生っぽさなんて必要じゃねぇんだよ。行くなら俺じゃなくて他の大学の友達と行けばいいだろ…」

 

 

そんな俺の言葉を待ってましたかとでも言うようにその女学生は自慢げに「それはもう行きました」と言った。

 

「ならいいじゃねぇか…。もう行ったんならもう行く必要ねぇだろ。この話はナシだ。」

 

言って俺は歩調を早めた。

 

「もー!先輩のケチー!」

 

その女学生はそう叫びながら、離れた距離を小走りで詰めてきた。

 

「あんま、近づくなよ…」

 

「さすがにそれは酷くないですか?」

 

「いや、だって暑いじゃん」

 

「それ、彼女にも言うんですか?」

 

「さぁな…」

 

「先輩なら言いそうですね…」

 

「否定はしきれないな…。まぁ彼女いたことなんてないからよくわからんけど…」

 

俺は自虐を交えて彼女の言葉をいなした。

俺はまた一歩ギアを上げた。それでも、隣の女の子はまたカツカツとハイヒールを鳴らしながら、まるで親鳥を追いかけるヒヨコのようについてきた。そしてその度に、彼女の高校時代のほとんど変わらぬ長さの髪は揺れ、甘い香りがほんのりと俺の鼻腔をくすぐった。

 

いつもどうして女の子の香りというものはこんなにも甘い香りなのだろうと思う。その答えは大学2年になった今も分からないままだった。でもその分からぬ匂いに男はつられ、きっと女に食べられてしまうのだ。だから俺はもうそんなものにつられはしない。高校時代と変わらずに、自分を戒めて過去の過ちを繰り返さぬようにこの空虚な毎日を歩んでいくしかないのだ。

 

 

 

俺達は地下鉄から降りたあと、これから向かう目的地に向けて坂を昇っていた。

場所は東京の新宿の北、豊島区を目の前に、乱立する雑居ビルやマンションに囲まれるように俺達の目的地の大学はある。名を早稲田大学。慶應と双璧を成す私立の雄。起源は明治時代の大隈重信が作り出した東京専門学校に始まる。そこから100年以上の時を経て、現在もなお名門として名を馳せる大学である。

そんな早稲田に通うのももう2年半が経とうとしていた。俺も無事に3年生へ進級し、周りは就活をし始めてバタバタとし始めていた。

 

そんな俺は、未だ進路が見えぬまま講義を消化し、適当なインターンシップに参加するような毎日を送っていた。もうすぐ8月も終わろうとしているのに、どこか気持ちの入り切らない日々だった。

 

「先輩、なんで夏休みなのに今日学校なんて行くですか?」

 

「サークル」

 

「先輩のサークルってそんなにガチだったんですか」

 

「いや、活動自体は特にはない。ただ顧問に少し用があるだけだ。まぁ、多分サークルの部員の誰かしらは来てるとは思うが」

 

「へぇ…。顧問てあの、なんか人当たり悪そうな人ですよね」

 

「分からんけど、まぁ多分あってる」

 

「私あの先生苦手なんですよねぇ…。口悪いし、たまに威圧的だし、何考えてるか分からないし。」

 

「ほとんど関わりなけりゃそういう印象で当然だろうな。それに実際間違っちゃいない」

 

そんな俺の言葉を聞くと一色はクスクスと笑いながら「そんな先生のところに入る先輩ってやっぱり変わり者ですね」と言った。

俺はその言葉に反論する理由もなかったから「そうだな」と呟いた。

 

そんなやり取りをしていると、校門が見えてきた。早稲田に似合わぬコンクリートの門を抜けると早稲田のイメージと離れた近代的な建築物が並ぶ。それもそのはず、ここは早稲田大学でありながら早稲田キャンパスではないのだ。ここは戸山キャンパスと言う、メインキャンパスである早稲田キャンパスから歩いてほど近い場所に位置する、文学部と文化構想学部の拠点となるキャンパスである。だからここには大隈講堂も大隈重信像もない。早稲田文学と呼ばれるものがあるほどに歴史と実績のある早稲田大学の文学部が、本キャンパスではなくこんな少し外れたところにあることを知れば、驚く人も少なくはない。

 

「思ったけど、お前こそなんで学校来てんの?」

 

「それはもう、先輩が行くとなれば私も行かないわけにはいかないじゃないですかー」

 

「いや、そういうのいらんから…」

 

「もー本当にジョークが通じませんねぇ…。そんなんじゃ、彼女できませんよ?」

 

「ほっとけ」

 

言うと、一色はまたクスクスと笑ってみせた。

 

「で、本当の理由は?」

 

「サークルの友達と会うんですよ〜」

 

「ほー」

 

「男友達じゃないのか?って聞かないんですか?」

 

「聞かねぇよ」

 

「もーなんですかー!可愛い後輩が他の男に取られてもいいっていうんですか!」

 

「知らねーよ」

 

「もーいいですー!先輩のばーか。もー顔見たくないですー! それじゃあ私はここで失礼します!」

 

そう言って一色は俺から離れて学生会館の方へズカズカと歩いていった。その背後姿は厚かましい程に俺への怒りを大袈裟に表していた。

 

俺はそんな彼女の少し大人びた後ろ姿をほんの数秒眺めてから、また歩き始めた。

 

どこか蝉の声が少し強くなった気がした。

 

俺はシャツで首元の汗を少し拭って、空を仰いだ。目を細めて痛いくらいの光を放ち続ける太陽を睨む。本当に日本の夏は苦しいとつくづく思う。 空とアスファルトから発する熱は人間を生かすつもりなんて微塵もないようだ。俺はそんな熱に板挟みになりながら、目的の校舎に向かった。

 

 

その時、スマートフォンのバイブが鳴った。俺はポケットからスマートフォンを取り出し通知を確認した。通知はLINEで、送り主は一色いろはだった。そして画面を開くとそこには「13時に校門の前で!」という文章に最後はあっかんべーの絵文字がズラズラと並べられていた。

 

「顔も見たくないんじゃなかったのかよ…」

 

俺はとりあえずは分かったと一言送ってスマホを閉じた。

 

どうやら俺も、随分とあの後輩に甘いらしい…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

俺が歩みを進めた先に、この早稲田らしくない随分と近代的で洒落たコンクリートの校舎の中に俺の目的地があった。

 

その部屋は少し日差しの入りにくい、電気をつけないと薄暗くて入ろうとも思わぬ部屋であった。俺はその部屋の前までたどり着くとドアをノックしてドアを開けた。

部屋の中は俗世間を忘れたかのように静まり返り、部屋中に乱雑に積み上げられた書籍と、ごちゃごちゃになった本棚が壁を覆い隠していた。

 

俺は少し埃っぽい空気を手で扇ぎながら電気をつけた。

 

白い蛍光灯が部屋を照らし出すが、どこか暗い空気感は拭えなかった。

 

小綺麗な校舎に似つかわしくないこの部屋の空気に浸りながら、俺は近くの席に腰を下ろした。瞬間、身体の力は一気に抜け落ちて身体はだらしなく椅子にもたれかかった。

 

そうしてそのまま目を少し瞑り、しばらくしてからゆっくりと目を開けこの部屋をゆっくりと認識する。天井近くまで伸びた本棚と目の前の長机の上に乗せられた本の山は俺を取り囲むようにして聳え立っていた。

 

俺はこの時間が好きだった。

誰もいない、都会の喧騒から離れ、紙の匂いだけを残した静謐の中に身を委ねると、俺は全てを忘れられるような気がしたのだ。本という一つ一つの現実とは違う世界に囲まれることは俺だけの孤立した小宇宙にいれた気がした。

 

俺はしばしばこんな時間をこの場所で過ごしていた。何かに悩んだり、不安になった時はいつもこの部屋でこうしていた。そして今日も、その状態のまま数十分を過ごした。

 

ただ茫然と、頭を動かすこともなくこの小さな宇宙に身を委ね、己の感覚が曖昧になってきた頃、背後にあるドアが開く音が聞こえた。

 

「また、ここにいたのか」と低く少し掠れた男の声が聞こえた。

 

「別に、ダメなわけじゃないでしょう。ここ部室ですし」

 

と俺が言うとその声主は鼻を鳴らして「好きにしろ」と言いいながらこの部屋の本棚を物色し始めた。

 

「お前、今日は何しに来たんだ。そうやって不貞寝しにきたわけじゃないんだろ」

 

彼は変わらず低い声で言った。

この男は名を村上莞爾と言い、この部屋の主であり、俺のゼミの担任でもある。彼は二十代後半にして助教授まで登り、現在30代中盤にしてこの早稲田大学文学部の教授を務めていた。彼の専門は近代の日本文学であり、うちの学部ではある種の堅物の教授として有名であった。そして先程、一色が言及していた先生こそこの男であった。

 

「まぁ、そうですね」

 

「俺に用件があるなら、早く言えよ。久しぶりに今は少し気分がいい。今ならお前のその腐った目を見ながらでも話を聞いてやらんでもない」

 

彼は俺の方を一切見ることもなく、30代にしては多い白髪を揺らしながら言った。

「先生なのに、学生の話を聞かないってどうなんですかねぇ…」

 

「そんなこと知るか。俺はそもそもガキに教えるなんてしたくねぇんだよ」

 

「ならなんで教授なんてやってるんですか」

 

「自分の好きなことがやれるからだ」

 

「やっぱりそうなんですか」

 

「でも俺みたいな奴は今では随分と減ったな。昔はもっと多かったが」

 

「今の時代、今先生が言ったようなこと言ったら絶対批判されますよね」

 

「だろうな」

 

「いいんですか、俺に言って」

 

「お前みたいな発信力の無い人間なら、何の問題もない」

 

「あぁ確かに…」

 

「で、なんだ。お前の用は」

 

「あー、あの今度書く小説のことなんですけど」

 

「なんだもう書けたのか」

 

「いや、まだ何も…。正直、まだ何をどう書こうか迷っていて…だから先生のアドバイスをと…」

 

「はぁ?そんなの知るかよ。お前の小説だろ俺に聞くな」

 

「いや、でもなんか、うーん」

 

俺はうまく自分の悩みを言葉に出来ず、ただ頭を掻くしかできない。

 

「なら書かなくていいだろ。お前は別に作家じゃねぇんだから、無理して書く必要なんてねぇだろ」

 

「書きたいっていう気持ちはあるんですよ」

 

「じゃあ書けばいいだろ」

 

「まぁ…」

 

「そんなんじゃ、いつまでたっても小説なんて書けやしねぇな」

 

「まぁそうですけど…」

 

先生の言うことは全くもって正しい。だから俺は反論することなんてできるわけがない。だが、それでも今俺の中にあるその小説を書くという問題は、ただ何を書けばいいかという単純なものではなく、書きたいという意思と朧気なストーリーが頭の中にあるにもかかわらず、それを書く勇気が持てないということだった。俺はそれを先生に上手く伝えられずにいたのだ。だから俺は、はっきりとしてない声でただ先生の言葉に「はい…」と小さく呟くしかなかった。

 

先生は、俺のその返事を聞いたのかは分からないが何も言わぬまましばらくは本棚の本を手にとってはパラパラとめくり、そしてそれを戻し、また他の本を手に取って眺めるという作業を繰り返した。

 

俺はそこからは何も口を開くことはできず、この部屋には紙が捲れる音だけが静かに鳴り響いた。

 

「なんだよ、言いたいことがあるんなら早く言え」

 

先生は何かを察したのか、相変わらずこちらに見向きもしないで言った。

 

「説明が、難しいんです…。ただ頭の中で書きたいものはほぼ定まってるのに、なぜか書けないんです…」

 

 

「……ジャンルはなんだ」

 

「恋愛です」

 

そう言うと先生も頭を掻き、俺から背を向けた。

 

「やっぱ、ダメですかね…」

 

「いや……別にダメじゃねぇよ」

 

「でも、何かあるんですか」

 

「別に書くこと自体は問題じゃねぇんだ。小説は一種の自己表現だ。だから、何を書こうがそれは当人の自由だ。だが、ジャンルが恋愛っつーのはまた難しくなるんだよ」

 

「それは理解はしてるつもりです…」

 

「お前、これまで恋愛小説は書いたことあるのか」

 

「人に見せるようなちゃんとしたのはないです…」

 

「なら、お前は交際経験はあるのか」

 

「……ないです」

 

「そうか……」

 

言って、先生はまた黙り込んでしまった。そして何か思案気な表情を見せた。

 

「やっぱ何かあるんですか」

 

「いや、恋愛小説を書くのは悪くねぇんだ。ただ、恋愛といってもいろいろあるんだ。純愛だったり、悲劇だったり、もしくはドロドロの不倫だったりな。つまり恋愛小説はお前もわかってるはいるだろうが、一側面で語ることは不可能だ。お前が恋愛小説を書くことを俺は止めるつもりはねぇ。だが、もしそれを書くならお前がどんな視点でその物語を書くのかが重要になってくる。まさかとは思うが、お前はその辺のチンケなラブコメ作品を書こうとしてるわけじゃねぇだろうな?それならわざわざ書く必要なんてねぇぞ?そんなの馬鹿でも書けるんだ。その辺の投稿サイトにでもだしとけ」

 

「まさか、そんなの書くつもりはないですよ。それに書こうとしたって書けません」

 

「分かってるならいい。本当にすげぇ恋愛小説は自分の経験したことでしか書けねぇんだ。他人から聞いたこととか、テンプレを繰り返すラブコメから引っ張ってきたことを書いたところで、内容としてチープになるだけだ」

 

「…となると、俺みたいな人間にはやっぱり書くべきじゃないんじゃないですか」

 

「だから違ぇつってんだろ。言っただろ、身の丈に合わないのが問題なんだよ。ろくに彼女もできたことのない奴が、ろくに経験のない奴が、どうして複雑な女心を描いた恋愛小説が書けるんだ? 恋っつーもんは、人間の心理の中で最も複雑で崇高で曖昧なもんなんだ。その心理は経験した人間にしかわからねぇ。」

 

「めちゃくちゃ言いますね…」

 

「それだけ、世に溢れてるラブコメはクソだってことだよ。まぁ話を戻せば、自分に合ったものを書けってことだ。ちゃんとした作品を作りたいならな。念押ししておくが、恋愛経験がないから書くのを諦める必要はねぇ。経験がない人間だからこそ書ける恋愛小説だってある。それはお前が見つけるしかねぇがな」

 

「…はい」

 

この人の言葉はいつも荒っぽい。こういうタイプの人を嫌う人は実に多いが、彼が放つ言葉はいつだって説得性があって的を得ていた。粗暴な人ではあるが、彼から学ぶことは本当に多い。それはまるで高校時代の恩師に似ていた。

 

「他に何かあるのか?」

 

「いえ、今の先生の言葉でなんとなくですけど、整理がつきました」

 

「そうか」

 

「はい。最初から悩む必要なんてありませんでした」

 

「お前の場合いつもそうだろ」

 

「そうですね…」

 

「少しは自分の裁量で決めたらどうだ?」

 

「善処します」

 

「……その言い方生意気だな」

 

「昔の先生の方がきっともっと酷かったでしょう」

 

「それはねぇな。俺はお前と違って優等生だったからな」

 

「それはなさそうですね」

 

「お前に何が分かるってんだ」

 

「先生のこの感じを見れば、誰だって察しがつくと思いますけどね」

 

「うるせぇガキだな本当に」

 

「本当に先生も言い方が酷いですね」

 

「今更矯正なんてできねぇよ」

 

「それはそうですね。それに酷くない先生は先生じゃないです」

 

「お前もなかなか失礼な奴だな」

 

「この俺の性格も今更矯正なんてできませんよ」

 

「本当に生意気な奴だ」

 

そう言って先生は本をいくつか棚から取り出して部屋を出て行った。

 

 

 

 

 

一年とすこしまえ

 

 

 

 

 

 

 

 

むさ苦しい地下鉄を降りて、すでに見慣れきってしまったコンクリートの階段を上がると、高い湿度が俺を襲った。空を見上げても雨は降っていなかったが、雲と俺の距離は近く今にも雨が降りそうな雰囲気をチラつかせていた。

俺は陰鬱な天気の下を、行き交う人混みの中を、汚く薄汚れた舗道の上を、一人歩き始めた。

 

すれ違う人達の顔はどれもが鬱陶し気であった。しばしば、朝という言葉は楽曲の歌詞においては前向きな意味合いで謳われるが、実際の朝の人々の表情のほとんどはそれとは真逆だ。これは日本だけなのであろうか?

少なくとも今の日本において、未来は希望でなく、絶望なのだ。明るい未来を思い描くことは単に楽観的だと一蹴される。実にいい社会じゃないか。実に現実的で、夢がなくて。

 

大人は様々なことを諦めてなっていくものだという表現は実に的を射ていると最近つくづく思う。俺も今こうしている間に少しずつ人生の選択肢を失っているのだと思うと、この世界の無常さを感じる。

 

季節は梅雨に入った。学生になって約数ヵ月が経ち、多くの一年生が、現在の生活に慣れ始めてきた頃だろう。もうこの時期になると教室のあちこちから聞こえる会話は、誰と遊んだだの、どこに行ったのだの、誰がカッコいいとか可愛いだの、どのサークルが楽しいだの、話題に枚挙に暇がない。一方の俺はあいもかわらずに、一人の学生生活を送っていた。もちろん、必要とあれば誰かと話すことはあるが、昔からのスタンスや行動はほとんど変わることはなかった。

 

だから今日も、一人学校に行き、一人授業を受け、一人で家に帰るのだ。

寂しい奴だと笑うか?冗談じゃない。俺にとってこれは不幸なんかじゃない。ずっとそうしてきたんだ。どうしてそれを哀れまなきゃいけないんだ。

俺はそんな世間の認識に不満を思いながら、雑踏を通り抜けていった。

 

 

今日の授業は一限が空き、二限からの授業で始まった。場所は大講義室中の一室で、部屋に入れば我先に各々が自分にとって都合の良い席を占拠していった。特に、既に多くの知り合いを作った集団は大人数で講義室後方の席を何席も陣取り、あたかも自分達は大学生であるということを声高らかに叫ぶかのような雰囲気で会話をしていた。

俺はそんな彼等を横目にスルスルと階段を降り右斜め前方、前から三番目の端の列に席を置くことにした。

 

この授業はもうすぐ10回目だ。おそらく、授業をサボっている人間でなければほとんどの学生がこの授業の形式に一応は慣れてきた頃合いだろう。

座る席も大体は固定され、暗黙の了解のように皆が先週と同じ席に座る。その言葉を介さずに同調する日本人の習慣を俺はまたこうして実感していた。

 

チャイムが鳴ると、教室の中に舞う学生達の話し声も多少は沈静化し、視線は教室の中央に移される。前の扉から現れた男に視線が集中した。彼は鬱陶げな表情を浮かべて、着崩したワイシャツの袖をまくって教壇の前に立つと、そのまま授業のレジュメを乱雑に最前列の机に置いて「取りに来い」と言った。その合図と共に学生達が一斉に動き出す。

 

俺もその集団に紛れ込むようにして、学生の列に並んだ。前の人間から順番に複数枚あるレジュメを取っては自分の席に戻っていった。もう見慣れたこの光景を繰り返しながら、俺がレジュメのを取る番になった時、「おい」と声をかけられた。

 

その声の主はレジュメを置いた机の目の前にいた男、つまりは教授だった。

 

「お前、比企谷だな?」

 

「はい…」と俺が返事をすると

「この授業が終わったら、お前は残れ」と教授は言った。その瞬間周りが、ざわつき始めた。無論、俺も混乱するしかなかった。

そもそも俺は、この教授と話したことなど一度もない。俺とこの人の関係はこの大教室で彼の話を一方的に聞くという、典型的な日本の授業形態の中での先生と学生でしかないはずだった。

にもかかわらず、教授は俺を呼び、俺に命令をした。その状況は、この授業を聞く学生の常識からは間違いなく異常で奇妙だった。

 

 

俺は彼の言葉に「はぁ」と返事とも言えぬ返事をして席に戻った。

 

俺はその後の授業はほとんど頭に入らなかった。起きて板書を取るのだが、その作業は常に機械的で、俺の頭の中は教授が俺を呼び出す理由について考えることしかできなかった。

 

授業が終わると、学生達は各々の荷物を鞄に詰め込み講義室を後にした。俺はそんな彼らを横目にただ教授が言った通り席について残っていた。俺の近くを通り過ぎる学生の一部は俺を見てひそひそと何かを話しているが、その内容を聞き取るまでには至らなかった。だが、どうせその内容がロクなもんじゃないことくらい容易に想像がついた。

 

一通り学生が講義室が出払うと、教授は黒板を消しながら俺の方を見向きもせずに「こっちに来い」と言った。

 

俺は言われた通り、教壇の前まで歩いて行った。俺が教壇の前まで辿り着くと、教授はしばらくそのまま無言のまま黒板を消し続けた。そして、そのまま黒板の端の文字まで綺麗に消し去った後、彼は一切俺の方を向かずに黒板消しを掃除しながら「サークルは?」と聞いてきた。

突然の問いに俺はその質問の意味を理解するのに少々の時間を要したが、なんとか言葉を理解して「入っていない」と言った。

 

すると彼は、初めて俺の方を睨むように見て「そうか」と言った。

 

正直、この男の質問の意図がわからなかった。そもそも授業でしか関わりのない教員とサークルについて話すこと自体が稀有なことであるため、彼の俺に対する言葉の全てが俺を困惑させた。

 

「お前、サークルに入る気はないか?」

 

「はい?」

 

「だから、サークルだよ」

 

「いえ、あ、まぁ、あんまり考えてないです」

 

「そうか、ならサークルに入れ」

 

「は?」

 

「サークルに入れと言っている」

 

「いや、待ってください。俺の話聞いてました?」

 

「馬鹿にしてるのか?」

 

「それはこっちのセリフですよ。俺の言ってること聞いてました?俺は入ることは考えてないと言ったはずなんですが?」

 

「俺は、お前の文章を見てすぐ分かった。お前はこちら側の人間だってな」

 

「待ってください、勝手に話を進めないでください。そして意味がわからないです」

 

「先週、中間レポートを出させただろ」

 

「はい」

 

「そのお前のレポートの文章を読んでの話だ」

 

「いや、それでも全然分からないんですけど…」

 

 

「レポートを精査してみて、お前にサークルに入る素質があると思ったからだ」

 

「は?レポートで?」

 

「文章の内容ってのは、その個人の心情や価値観、主義思想によって変わる。お前の文章を読んで、お前は俺と似たタイプの人間だと判断したってことだ」

 

「俺のことが分かるんですか」

 

「お前の考えのベースはな」

 

「ベース?」

 

「人間の書く文章ってのは本当に面白いもんで、その時のその人の心理状況で大きく変わるんだよ。今を楽しんでる奴の文章はポジティブな文章が多い一方、絶望したり悲しんでる奴の文章は重たくネガティヴだ」

 

「はぁ…」

 

「ここまで俺は授業で何度かレポートや課題を要求してきたが、お前の文章内容の傾向は後者だ」

 

「それってネガティヴだから、レポートの出来が悪いから罰としてサークルに入れってことですか」

 

「は?そんなアホみたいなこと誰がするかよ」

 

「いや、あなたサークルに無理やり入れさせようとしてるじゃないですか、それも十分アホなことじゃないですか」

 

「アホじゃねぇよ。むしろこれはお前にとってメリットになる」

 

「例えば?というか、そもそもそのサークルって何のサークルなんですか」

 

「何だと思う」

 

「サークルに入るメリットってことは…就職に役立つとかですか、なら体育会系のサークルとか? それなら嫌ですよ俺。疲れますし」

 

「違うな。俺のサークルは体育会系じゃない。それに就職もそこまで関係ない」

 

「ならなんなんですか、まさか自己啓発セミナーとかカルト団体みたいなやつですか?それも御断りしますよ」

 

「バカちげぇよ。そんなわけねーだろアホか」

 

めちゃくちゃ暴言いうじゃねぇかこの人…。

 

「降参です。分かりません」

 

「分かりませんじゃねぇだろ。考えを放棄しただけだ」

 

「放棄するくらいに興味ないんですよ。サークルなんか入らなくても俺は十分今の生活に満足してるんですよ」

 

「その満足を超えるものがそのサークルにあるとしてもそう言えるか?」

 

「今を超えるものがサークル活動の向こうにあるとは俺は思えないですね」

 

「やる前から決めつけるのか」

 

「第一、俺は他人との関わりを持つことが苦手なんで苦痛でしかないと思うんですよ」

 

「それなら安心しろ、俺のサークルには他人と関わる必要はほとんどない」

 

「それ、サークルなんですかホントに」

 

「あぁ。ちゃんと部員もいるぞ」

 

そう彼は満足気な表情をして言った。

 

「それってどうせ1人や2人でしょう」

 

俺はそう疑いの目を向けながら問うた。その瞬間、俺の脳裏に高校時代の自分が頭をよぎった。たった3人だけの小さな部活。その人数には勿体ない大きさの教室の中央に集まって、穏やかで、哀しくて、安らかで、刹那的な時間を過ごしたあの時間と光景だ。

 

 

「話を戻そう。俺がお前にしてるのは勧誘だ」

 

「はい、それはわかってます」

 

「そして、お前の質問に答えるなら俺のサークルは文芸サークルだ」

 

「文芸?あの文章書くやつですか」

 

「ああ、一般的なイメージの文芸サークルと考えてもらって構わない」

 

「俺別にそんな経験ないですけど…」

 

「それでも構わない。むしろ物書きを始めるのに経験なんて必要ない。センスと思考力がこそ重要だ」

 

「俺にそんなセンスがあるとは思わないですけどね」

 

「まぁ、プロの物書きと比較したら一般的な学生のレベルなんてたかが知れてる。が、ある程度の才能があるかは読めば分かる」

 

「まさか、それが俺のレポートを読んでの判断ってことですか」

 

「その通りだ」

 

「レポートの文章と小説の書く文章は違うはずですけど?」

 

「あぁ、その通りだ。その通りだが、レポートの考察、言葉選び、文章の組み立て方、それを見れば大体 この書いてる人間にどれほどの基本的な文章力があって、そしてどれだけ思考力を持ってるかが分かる。確かにレポートと小説は違う。けど使うのは同じ言葉であることは変わりない。小説に必要なのは言葉とそして卓越した思考だ。俺はお前にはその能力が少なくとも学生の中ではそれなりにあると見込んでいる」

 

 

「だからって、サークルに入れる必要ありますか?」

 

「俺はお前のためになると思って言っているんだぞ?」

 

「俺は先生の提案が俺のためになるとは思えないんですけど」

 

「なら、それはまず試してからだ。ついてこい」

 

そう言って彼は教室から出て行った。

このまま逃げ出したいという気持ちはは山々だが、どうやら逃してはくれないらしい…と俺は悟り、ため息をついてバッグを背負った。

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 

 

 

 

 

 

その後、しばらく部室でダラダラとした後俺は校舎を後にした。

 

外に出ればまた蒸し暑い空気が俺にまとわりついた。そして容赦ない強い日差しを避けるように俺は俯きスマホをいじりながら正門までの道を歩いた。

時刻は午後1時を少し過ぎていた。つまり、一色との待ち合わせ予定時刻を少し過ぎていたのだ。我ながら少し時間にルーズ過ぎたとは思うが、毎日のようにアイツに振り回されてるんだからこれくらい許してほしいと自己完結して俺は急ぐそぶりなんて微塵も感じさせないようなノロノロとした足取りで歩調を進めた。

 

坂の下に校門が見えてくると

 

 

「あ、せんぱーい!」

 

大きな声で叫ぶ女の子の声が聞こえた。その声は俺に向けられたものだとすぐにわかった。まったくこんな公衆の面前で俺まで目立つようなことやめてくれよと心底思うのだが、俺がいくら言ったところでアイツは聞かないだろう。

俺は小さくため息をつき、少しでも目立たぬように、あんな女の子知らないという体を装いながらスマホの画面を見ながら歩いて行った。

 

俺が正門のところにたどり着くと、案の定一色は俺の方を小突いてきた。いてぇなとスマホから目を離して一色の方を初めて向くと、その隣には随分と見慣れた男の姿があった。

 

「帰る」

 

「え、ちょ、ちょっと待ってくださいよぉ!」

 

歩き出した俺の袖を一色はガッチリと掴んで慌てたように止めた。

 

「なんで帰るんですか⁉︎」

 

「なんで葉山がいるんですか」

 

「さっきたまたま会ったんですよ」

 

「嘘つけ、こいつは法学部なんだから戸山キャンパスじゃなくて早稲田キャンパスだろうが」

 

「ほんとですってー!信じてくださいー!」

 

言って一色は距離を一気に詰めてきた。そんな光景がさらに周囲の人間の視線を集めるのだが、何も知らない人からすれば、まるで彼女が彼氏以外の男と浮気をして、その現場を見た彼氏と彼女みたいな絵面だなこれ…。

そう思い、居心地の悪さをさらに感じていると、

 

「いろはの言ってることは本当だよ。俺もサークルの文化構想学部知り合いでこっちのキャンパスに用があったんだよ。そうしたら本当にたまたま会ったんだよ」

 

と、場を納めるように葉山は口を開いた。

そんな彼の助太刀を聞いて一色は一気に勝ち誇った表情に変わりうんうんと頷き始めた。

 

全く生意気な奴め…

 

俺は小さくため息をついて歩き始めた。

 

それに続いて一色と葉山も駆け足で俺の横に並び歩き始めた。

 

「そんで、何すんの」

 

「とりあえずお昼にしましょう!葉山先輩はもう何か食べました?」

 

「いや、俺もまだだよ。朝から何も食べてないからお腹がかなり空いてるよ」

 

「普通に大学の食堂でいいんじゃね?その方が安いだろ」

 

「えー夏休みなのに学校の食堂なんですかー 休みなんだから他のところ行きましょうよ」

 

「んなこと言われても俺はアテなんてないぞ」

 

「先輩が探さないだけですよねそれ」

 

「探すの面倒なんだよ… それに学校の食堂とか周りにある安い店で事足りるだろ。わざわざ探す必要なんてない」

 

「少し冒険してみたいとは思わないんですか?」

 

「まぁないこともないが、やっぱり面倒くささが勝っちまうなぁ…」

 

「はぁ… 先輩に聞いた私がバカでした」

 

言って、一色は小石を蹴って一歩前に出て歩いた。

その動作のいちいちが不満を表していたということは言うまでもない。

だが、こうしたやりとりは彼女とはいつものことなのでいつも適当に流してしまう。

だからこういう時こそ、すぐ隣にいる男に頼るべきだ。俺は葉山に目線を向けてアイコンタクトを取った。

その視線にすぐ気づいた葉山は少し苦笑してみせた。

 

「ならこの前比企谷と俺が行ったカフェに行かないか」

 

そう葉山が言うと、「え!?」一色は驚いた様子でこちらを振り向いた。

 

「先輩と葉山先輩が2人でカフェに行ったんですか!?」

 

「アホか、語弊のある言い方はやめろ葉山。違うぞ一色、たまたま会っただけだ」

 

「でもすぐ横に並んで食べたじゃないか」

 

「お前が勝手に座ったんだろうが」

 

「でも君は逃げなかったじゃないか」

 

「席を移動するのは迷惑になるだろ」

 

「そういうことにしておいてあげるよ」

 

「てめぇ…」

 

俺は葉山を睨んだが、奴はそんなのどこ吹く風で笑っていた。やっぱりコイツは嫌いだ。

 

「そのカフェってどんな店なんですか?」

 

「そうだな。カフェ兼レストランみたいな感じかな?昔の洋食屋みたいな雰囲気なんだけど、すごくレトロな感じですごくいい場所だったよ。何より比企谷は行きつけの店らしいからね」

 

「へぇー そんな店を知ってるのに私が聞いても何も教えてくれないんですねー」

 

「うるせーお気に入りのところだからあんま知られたくなかったんだよ」

 

「でも今こうして、バレちゃいましたね?」

 

一色はニヤニヤとした表情で俺の顔を覗き込んできた。

俺は小さく舌打ちをして視線を逸らした。

そんな俺を見て、一色はクスっと笑ってクルリと踵を返した。

 

「じゃあ、そこにしましょう葉山先輩。先輩が気に入ったお店、すごく興味ありますし」

 

そう、一色は落ち着いた声で言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

早稲田と言えば高田馬場である。

その理由は単純に早稲田大学のJRの最寄駅は高田馬場駅であるからだ。

駅の周辺には学生にも優しい居酒屋やカラオケ等の娯楽施設が充実し、昼夜問わず早大生が多くいる。夜も眠らぬ街東京とはよく言うが、その例に漏れずこの高田馬場も昼夜問わず人が溢れかえっている。

 

そんなどこか人々の熱が入り混じり、少し危なっかしさを孕んだこの街に身を潜めるように俺が行きつけの店があった。

その店は、雑居ビルの3階にあり決して人々の目に付きやすいところにあるわけではなかった。俺自身もこの店を知ったのはうちのあの教授に教えられたからだ。

それでも店内は少し小汚いビルの外装とは違い、年季の入った様相すらも店の魅力としているほどの独特のお洒落さを醸し出していた。

店内はいつも満席になるようなことはない。

程よい感じに客が入り、そして皆がこの店のレトロな雰囲気を楽しむようにここでの時間を過ごす。

 

俺たちは、葉山の後に着いて行くようにその店に入った。

店のドアを開けると、チャリンチャリーンと心地の良いベルがなり主人の落ち着いたいらっしゃいませという声が聞こえた。

 

葉山は笑顔で指で3人ですと言った後に、窓側の4人がけのテーブルを指差すと、主人は笑顔で頷いた。

何その常連感…。俺結構来てるけどそんなこと一回もしたことないんですけど…。

 

俺と葉山の圧倒的スマート差に俺は絶望しながら席に着いた。

 

若い女性ウェイターがおしぼりとお冷やとメニューを持ってくると、俺は夏の暑さで火照った身体を冷ますように水を飲んだ。

 

そんな俺とは対照的に隣に座る一色はお冷やなんて目もくれずにメニューを開き始めた。

 

「先輩方のおすすめってなんなんですか?」

 

「そうだな。やっぱりパスタはオススメだね。どれも本格的だしハズレはないよ。ピザも前に食べた時はすごく美味しかったね」

 

「なるほどー。先輩はどうですか?」

 

そう言って横の一色が俺の見てるメニューを覗き込んできた。その瞬間、いつもの甘い香りが鼻腔をくすぐった。

 

本当にあざといなぁ…

 

「葉山の言ったことは全部当たってるから、パスタでいいと思うぞ」

 

「先輩もいつもパスタ食べてるんですか?」

 

「いや、最近は食べてないな」

 

「じゃあその先輩が何食べてるか教えてくださいよ!」

 

「別に葉山のオススメだって間違いねぇしそれでいいじゃねぇか」

 

「でも気になるんですよー。あの先輩が普段何を食べてるのか」

 

何なのこいつ。親なの?ママはすなの?そのまま栄養管理されちゃうの?何それ怖い。

俺は多分、かなり怪訝な顔をしたと思うが一色はそんなの気にもせずに「早く答えろ」と言うかのように俺を見つめていた。このままでは埒があかないので俺はトマト煮込みハンバーグと答えた。

 

 

「トマト煮込みハンバーグ?そんなのメニューにありましたっけ?」

 

「いや、このメニューには載ってない」

 

「え!じゃあ裏メニューってやつですか!」

 

「いや、そういうわけじゃねぇよ」

 

俺は店の出入り口の壁に立てかけられている黒板を指差してみせた

 

「ほら、あそこに書いてあるだろ」

 

一色は目を凝らしてそちらを見た。

 

「あ、ほんとですね。確かに書いてあります」

 

「まぁ初見なら気づかない人の方が多いだろうけどな」

 

「なんでこっちのメニューに書かないんですかね」

 

「さぁな。俺も最初頼んだ時は店員に注文できるかどうか聞いたよ」

 

「注文して欲しくないんですかね」

 

「それはねぇだろ。注文して欲しくないならあの黒板に書かなければいいだろ」

 

「確かにそうですね」

 

そう一色が言うと、俺たちの会話は止まった。その沈黙を紛らわせるように俺は冷水をまた口に運んだ。すると一色も後に続くようにゆっくりと冷水を飲んだ。

 

葉山はそんな俺たちを見ていた。

その視線が俺にはくすぐったかったから、口ではなく同じ視線で不満を葉山に突きつけた。すると葉山はまたさっきのように小さく笑ってみせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何人かの客の入れ替えがあった。

太陽の高さはさっきと変わったようには思えないが、随分と長い食事を摂った気がした。

 

結局俺と一色は煮込みハンバーグを注文し、葉山はランチメニューのパスタとバケットのセットを注文した。

 

注文した料理が来てからは、俺たちは学生らしからぬ、随分と口数の少ない静かな食事を摂った。それはまるで高級レストランで食事を摂っているかのように、食器類のメロディーだけを奏でて、時に外の景色や店の雑貨を眺めながら食事をした。

 

今こうして食事を終えて、食後のコーヒーを楽しんでいるわけなのだが、相変わらず俺たちの口数は少ない。

だが、意外にもそこに気まずさは感じなかった。少し不思議な感覚だったが、それはきっとここにいる人間がこの2人だからだろうと俺は思っていた。

良くも悪くも、この2人とは高校時代から随分と重苦しい話をしてきた間柄ではある。葉山は相変わらず好きにはなれないが、それでも比較的に心の内を知り合っている仲ではある。だからこそ、葉山がこの空間に対して何かしらの気まずさを感じていないということが少なからず分かるのだ。

 

まぁ、葉山に対してこんなことを考えている自分が少し気持ち悪いし、きっと海老名さんが知ったら大変なことになっていただろう。

 

そういえば、高校を卒業してからこの2人以外の同級生と顔を合わせていないな。成人式も行かなかったし。まぁ行ったとしても今更合わせる顔もないのだが。

そんなことに思いを馳せていると、葉山が立ち上がった。

 

「悪い、俺はこの後少し用があるんだ。だから俺はここでお暇させてもらうよ」

 

葉山はそういうと、5000円札を1枚置いた。

 

「あれ、なんです?」

 

「今日は俺の奢りだ。2人の時間を邪魔させちゃったしね」

 

「別にそんなんじゃねぇよ。余計な気をつかう必要ねぇよ」

 

「そうなのか?それでも、2人と久し振りにこうして話せたのは嬉しかったんだ。これはそのお礼だよ」

 

「確かに3人で話すのは本当に久しぶりですね」

 

「ああ、だからまた機会があれば3人で飲みにでも行こう」

 

「あ、いいですね!いつでも誘ってください!」

 

「分かった。じゃあ、俺はこれで」

 

葉山はそうはにかんで店を出て行った。そしてそれは相変わらず様になっていた。そんな葉山の後ろ姿を眺めていたら、なんだかこの空間が一気に気まずくなってきた。

そんな空気感を察したのか、意外にも一色が店を出ることを提案してきた。

 

 

 

 

店を出ると俺達は来た道とは違い、高田馬場駅に向かった。まだ仕事終わりの時間ではないが、舗道には多くの人が往来していた。俺達はそんな道行く人達をスルスルと躱しながら、熱く焼けたアスファルトの上を歩いた。

 

「美味しかったですね」

 

「まぁな」

 

「あの店にはどれくらいの頻度で行くんですか」

 

「多い時は週3だな。平均でも2週間に1回は行く」

 

「それはなかなかの頻度ですね」

 

「安いし美味いからな。それに落ち着いてる」

 

「先輩にはピッタリってことですね」

 

「まぁな」

 

「でもあんな店を知ってるって少し意外です。どうやって見つけたんですか」

 

「ああ、あれは俺が見つけたわけじゃなくて、人から教えてもらったんだよ」

 

「へー。先輩が人から何かを教えてもらうってのもまた意外ですね」

 

「失礼だろそれは。それに大学に入ってからは普通に他人とも話すぞ」

 

「あー確かに言われてみれば、先輩は高校時代とは違って何人かの人達と一緒にいるところ見ることありますね」

 

 

「まぁ…な。」

 

俺は大学でサークルに入り何人かの男女とつるむようになった。元々、俺以外の部員も生きる価値観だとか見方考え方が近い連中ではあったのでお互いに変な気苦労をすることもなく、比較的多くの時間を同じ文芸サークルのメンバーと過ごしていたのは事実だった。

 

「友達ですか?」

 

「そんなもんだ」

 

「高校時代とは違うんですね…」

 

「そんなことねぇよ」

 

「そんなことありますよ」

 

「自分ではそこまで変わったとは思わないんだけどなぁ」

 

「私からすればすごい変化ですよ。先輩が誰かと一緒にいるなんて。高校生の時には考えられない光景ですよ」

 

一色は声の少しトーンの落として困ったような笑みを浮かべて言った。

 

「ダメなのか」

 

「いいえ。そんなことないですよ。ただ、少し嫉妬しちゃいますね」

 

「はぁ?どういうこだよ」

 

「先輩を独り占めできないってことですよ」

 

「アホか、俺はお前のものじゃねぇよ」

 

「先輩顔赤いですよ?」

 

一色はまた俺をからかうように笑った。

そういうところは昔と何も変わらない。というより、一色自体が昔と何も変わらないように見える。変わったといえば、髪の長さと少し大人びた顔つきくらいだ。

俺も先日21になった。周囲の人間も環境も色々なものが変わってきた。そんな中で、この一色いろはという存在は俺の中で高校時代と変わらぬ存在であり続けているということは、意外にも安心感を感じるものであった。

 

 

 

 

そんな一色と俺が再会したのは俺が二年生の時の春の大学の食堂であった。俺は高校の卒業以来、彼女とは顔を合わせていなかった。そんな中で約一年ぶりに見た一色は髪を伸ばし、高校時代よりも少し濃くなった化粧が大人びた装いを醸し出していた。と同時にどこか大人になりきれない幼さも孕んだ曖昧で繊細でどこかか弱いようなそんな雰囲気も併せ持っていた。

 

とはいえ、まさか早稲田大学に葉山以外の知り合いが入学するだなんて思ってなかったから最初はかなり驚いた。一色はそんな俺を笑ったが、そんな姿は高校時代と変わらず今でも鮮明に覚えている。結局その日は少し話した程度であったのだが、その翌日から何かと彼女は俺に絡むようになってきた。いや、その状況としてはあまり高校時代とは変わらないのだが、昼食や放課後は一色といる時間が多くなっていたことは高校時代にはなかったことだった。

 

一色は文化構想学部に入学し、俺の所属する文学部と同じ戸山キャンパスを使用している。戸山キャンパスは早稲田キャンパスに比べると敷地も小さく人も少ないので一色と遭遇する機会はそれなりにあった。

おまけに文学部と文化構想学部は源流は同じ学部であるために、カリキュラムも似ているために授業がかぶることもしばしばあった。

そんな時、一色はいつも決まって俺の隣に座る。

最初、俺は他に行くように言ったがなんだかんだ言って聞かずに結局は俺の隣にずっと座り続けた。最終的に俺ももういちいち言うのが面倒になり、何も言わなくなった。

 

授業中に声を少しかけてくることはあるものの、基本的には一色も真面目に授業を聞いているようだった。そんな一面が少し意外にも感じられた。

 

 

勿論、一色には友人がいる。

元々容姿に優れているし、コミュニケーション能力も人並み以上であるから、一色の周りに人が集まるのは何ら疑問を抱くことはない。だからこそ、俺は彼女が俺の近くにいることが少し懸念材料ではあった。

人間関係というのは実に繊細だ。

一色の周りには異性の友人も相当数いた。

彼女自身スポーツ系のサークルに所属しているのもあり異性との交流もある程度あるだろうからそこから恋愛感情が芽生えるのも当然である。そんな状況下で一色が俺の隣にいるのは実に心臓に悪いのだ。

俺が知る限りにおいて、一色にある程度の好意を抱いているような男子は数人いる。彼等は一色のサークル仲間であったり、授業でしりあった友人であるというのだが、一色が頻繁に俺のところに来る姿を見てやはり彼等はいい表情をしない。

 

一色や彼等と違って俺は人種が違うし、友人関係も広くはない。だからこそ、彼等はきっと一色が俺といることに納得はしていないだろうし「なんであんな奴と一緒に」と思っているに違いない。

 

そんな彼等の気持ちを俺は理解できる。

当たり前だ。自分が好意を持ち、自分と同じ、もしくは似たような人種の女の子が、自分より魅力的とは言えない人間と仲良さげなのだから。そんなこと納得できるわけがない。俺が彼等の立場だったら同じことを考えると思う。

 

だから俺は一色との関係に彼等に対して優越感など全く感じていない。むしろ彼等に対する気まずさしかないのだ。

きっと昔の俺ならこんなこと気にも留めなかっただろう。しかし、最近はそういったことにやけに敏感になってきてしまった。

 

俺もたまには「他の友達のところに行け」とか「あんま俺とばかりいるな」と言うのだが、言うたびに彼女は一瞬悲しげな表情をするのだ。その表情は罪悪感として俺の胸を何度も締め付ける。

 

結局、そんな関係を俺は一色と今日まで引き伸ばしていた。彼女自身は俺との関係をどう思っているのだろうか。そんなことをたまに思うが、怖くて聞くこともできない。

 

だから今日も、俺は一色とこんなよく分からない関係を演じ続けるしかないのだ…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Interlude

 

 

 

私がこの大学に入った理由はきっともう言うまでもない

 

私のことをよく知る人には分かりきってることだ

 

私は彼が好き

 

けど、それがどういう意味で好きなのがあまりしっくりこなかった

 

考えようともしなかった

 

だって彼とその周りの人達といるだけで

私は十分に幸せだったからだ

 

でも、大学に入って再開した彼は

もう私の知ってる彼ではなかった

 

昔と交わす言葉はほとんど変わらないのに

 

その言葉はどこか哀しげで白々しい

 

彼はそんなことないと言うけれど

 

女の子にはそういうのわかっちゃうんですよ

 

だからもう、そんな嘘つかないでください

 

その嘘をつく度に私は胸が苦しいんですから

 

 

 

 

 


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