月光花   作:八咫倭

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遅くなりました。続きです。
陽乃さんは次回からでてきます。
今回はいろはすが中心です。


季節は巡り、森は染められ、風は奏でて、思いは溢れて②

残暑残る9月の下旬、この早稲田大学も秋学期が始まった。

秋学期と言えど、その名とはかけ離れた茹だる暑さに、汗を流しながら日に焼かれたアスファルトの上を学生達は歩いていく。そんな季節も今年で3度目だ。

 

もちろん俺も学生の1人として照りつく太陽を憎たらしげに睨みながら登校してきた。3度目の大学生としての夏休みを終えたわけだから残る夏休みは1回きり。そして正真正銘の人生最後の夏休みである。

 

そう思うと本当に気が萎えるのだが、止まることを知らぬ時間の流れを前にはどうすることもできない。

 

さて、本日は9月の24日。秋学期が始まり数日が経ったのだが、俺を含めた文芸サークルも数ヶ月ぶりに本格的に再開した。

 

 活動は戸山キャンパスの一つの教室を借りて行われる。まぁ活動とは言っても文芸サークルであるために、活動内容は各々のが執筆活動を進めたり、本を読んだり文学について各々が研究を行うというもので、いわゆるスポーツ系のサークルのような大人数でワイワイとするようなサークルではない。

それに加え、このサークルの人数は約30名程度のサークルであり常に活動参加しているメンバーは10名程度であるため、サークルとしてはあまり目立つような団体ではなかった。

 しかるに今日も、小さな教室に長机をいくつか組み合わせてそれを囲うように8人の学生が座り各々と作業に取り組んでいた。

 

 

 

「比企谷、そこの紙取って」

 

「どれだよ」

 

俺は目の前に座る声の主に目を向けた。

 

「その長方形のやつだよ」

 

「これか?」

 

 俺は彼が指差した1枚の紙を手に取った

 

「そうそう」

 

「これ他サークルのビラだろ、なんに使うんだよ」

 

「メモがわりに使うんだよ」

 

 言って彼は受け取ったそのビラを丁寧に半分に折り、何やら書き始めた。

 

「ビラなんかにメモらずに、ケータイとかそのパソコンにメモればいいだろ」

 

俺は自分の開いているパソコン越しに言った。

 

すると彼は、いちいち他の画面を開くのは面倒だからと言って、右手でキーボードを打ち、左手でメモるというなかなかに器用な姿で作業を続けた。

 

彼の名は湯河原喜重郎、俺と同じ文学部の同級生でありこのサークルのメンバーでもある。湯河原が小説を書き始めたのは中学生の頃で、このサークル内では最も物書きとしてのキャリアは長い。だからこそ、このサークル内で最も完成度の高い小説を書き、作品賞にも何度か選ばれている。つまるところの彼はこのサークルのいわゆるエース的存在であった。

だが、そんな彼は一つ問題もあった。

 

「おい、比企谷」

 

「なんだよ」

 

「水曜の心理のやつのレポート課題見してくれよ」

 

「は?なんでだよ」

 

「俺まだやってねぇんだよ」

 

「レポートの盗作はダメだってあれだけ言われただろ」

 

「べつに丸パクリするわけじゃねぇよ 参考にするだけだって」

 

「自分の力でやれよ」

 

「いいだろ、一昨日と昨日は執筆で出来なかったんだよ。今度なんか奢るからよ」

 

「お前、前にもそんなこと言って結局なんも奢ってもらってねぇんだけど」

 

「今回はちゃんとやるから!金曜に武蔵家のラーメン奢ってやるって!」

 

そう言いながら、湯河原は手を合わせて頭を下げて自分の誠意を大袈裟に表現して見せた。

 

その姿に結局俺は負けてため息をつきながら、湯河原のメールにレポートのデータを添付して送信した。

 これで分かったと思うが、こいつの問題というのは趣味でもある執筆活動を優先して学業を疎かにするというところだった。

 

「もーダメだよ比企谷くん甘やかしたら」

 

そんな俺たちの体たらくを見て、声をかけてきた人物がいた。身長は小柄でショートカットに薄い茶色の髪がトレードマークである愛川梅子だ。学年は俺達と同じ3年生で、このサークルのメンバーである。

 彼女の性格は至って真面目で、まさしく優等生を絵に描いたような女子学生であった。だからこそ、時として俺や湯河原に向けて甲斐甲斐しく世話を焼く(主に説教)存在で、言うなればサークルのオカン的な人物である。しかしそんな彼女もまた、文学の世界に魅せられてこのサークルに入った人間であった。

 

「すまん。でも断ってもコイツしつこいし」

 

「そうだけど、比企谷くんがそんなんだとますます湯河原くんが自分でやらなくなるじゃない」

 

「あぁ…すまん…」

 

俺はそんな情けない返事を繰り返した。

そんな俺たちを見て下級生は笑っていた。

きっと、このような光景はもはや他のサークルのメンバーからすれば見慣れたものだろう。だが、俺や湯河原のような自分本位な人間が多いこのサークルが上手くまとまっているのは彼女の存在がいるからこそである。彼女の甲斐甲斐しい世話は言い方を変えれば面倒見の良さでもある。毎年このサークルにも数人から十数人はいる新入生の世話をするのはいつのまにか彼女の役割になっていた。

 

 

「湯河原、原稿持ってこい」

 

 

そういう声と共にいきなり部室のドアが空いた。入って来たのはこのサークルの顧問である村上莞爾だった。

 

その声を聞くと湯河原は「はい」と慌てて返事をしながら原稿を書いていたノートパソコンを持って行った。

先生は受け取ったパソコンを持ったまま、彼の定位置である窓側の一番端の席に着くと、湯河原の書いた原稿をじろじろと見始めた。数分の後、先生は「うん」と言ってノートパソコンを湯河原に返した。

すると湯河原はありがとうございますと言ってまた席に戻ってきた。

 

席に着くと湯河原は一息ついて「良かったぁ」と言いながら伸びをした。

 

これはうちのよくある風景だ。

文芸サークルは全国的に数多くあれどこのサークルの特徴はなんといっても顧問の圧倒的参加率である。元々このサークルは学生によって立ち上げられたものではなく、ここの顧問である村上莞爾(かんじ)によって創設された異色のサークルであるため、先生は活動日のほとんどに顔を出す。

 よってこのサークルに参加するメンバーは彼から直接的な指導を受けることができるという最大のメリットがあった。そして今のような先生が「うん」と言った場合は一応は及第点ということだ。つまりは大きな訂正点はないということである。仮に訂正点があったとしても先生はあまり多くは語らず、ヒントやポイントを散らして学生自身に考えさせるという指導方法をするのが彼の特徴である。

 

この村上莞爾は30代前半にして教授まで登り詰めたいわゆる教員のエリートでありながら、群像新人文学賞、文學界新人賞本屋大賞、日本芸術院賞、谷崎潤一郎賞などの数々の権威ある賞を取ってきた有名作家としての一面を持つ人物である。

 しかし名の知れた教授であるが、その堅物さから多くの学生から敬遠されがちな人物でもあった。繊細で芸術性の高い文章を書くにもかかわらず、言葉遣いは荒く、愛想がない。

 現代の対人への耐性の低い若者にはどうしても苦手意識を持たれて仕方ない人物であった。もちろん我々このサークルの多くの人間だってその例外ではない。初めは彼のその人となりに動揺したし、何よりどう接するべきなのか困ったものだ。

 しかし人間というのは慣れる生き物で、こうして何度も先生と関わっているうちに苦手意識なんてものは綺麗さっぱりなくなり、この愛想の悪さも今では魅力の一つにまで感じてしまうほどだ。だから今では先生に対して多少の冗談を言うメンバーもいる。本当に人間のこういう部分はすごいとつくづく思う。そんなことを思っていると、先生は俺の方に顔を向けた」

 

「それと、比企谷」

 

「はい」

 

「お前はどうなんだ?」

 

「まぁ、ボチボチですね」

 

「そうか、」

 

先生はそう言うと、ポケットから飴玉を取り出して口に入れた。

 

「ならお前の中で見せてもいい段階に入ったなら俺に見せてみろ。 それじゃあ、俺は早いがここで失礼する。愛川、後頼んだぞ」

 

「え、早くないですか?」

まだ来て数分しか経っていないのに突如の退室宣言に愛川が突っ込む。

 

「この後会議なんだよ。だから最後は戸締りしとけよ」

 

そう言って先生はそそくさと部屋を後にした。愛川が「はい!」と答える頃には部屋のドアは閉まっていた。

 

「相変わらず忙しそうな人ね」

と愛川が閉まったドアを見つめながら呟いた。

 

それに対して湯河原が噛み付くように

「当たり前だろ。あの人を誰だと思ってるんだ」と言った。

 

「それはそうだけど。最近特にそうじゃない?」

 

「教授だからな。教員としての仕事もあれば、作家の仕事もある。二足の草鞋なんだから仕事量は普通の人間よりずっと多いだろ」

 

「優秀な人は大変ね」

 

「そうだな。でも憧れちまうよ」

 

「喜重郎もあんな風になりたいの?」

 

「教鞭を取りたいとは思わないけど、あんな作家にはなりたいと思うな。ずっと憧れてたし、早稲田に来たのもあの人がいるからだからな」

 

そう湯河原は頭の後ろで腕を組んで言った。窓の外に向けられた彼の目には先生に対する羨望と尊敬で揺れていたのが分かった。事実、湯河原の物書きとしてのキャリアの長さが物語るように、彼の作家への想いはこのサークルの中でも抜きん出て強かった。入学当初から作家になると話していた彼を、俺を含めたこのサークルの新入生のほとんどが現実感がなく、どこか心の中で笑い流していた。

 だが、今日まで約2年半を彼と過ごし、その覚悟の強さを俺達は知った。初めて、湯河原の書いた小説を読んだ時は本当に驚いたのを今でも鮮明に覚えている。 同じ年齢で、普段話すたわいもない内容や、彼のガサツさからはかけ離れたその文章の完成度と内容に俺は、これを同級生が書いたものだとは当時は信じられなかった。

 

「お前、進路どうするつもりなんだよ」

 

そんな湯河原だが、俺はずっと彼の進路が気になっていた。湯河原はそのキャリアの長さもあって実力は十分で、これまでにいくつも賞を受賞していた。このサークルの中では最も作家への距離が近い男と言ってもいい。しかし、作家といえど、その在り方は様々で専業としては勿論、副業的にやる人間も多い。つまりその選択次第では人生設計は大きく変わってくる。我らが早稲田大学は100年以上にわたって優秀な人材を社会に送り続けた名門である。よってその卒業生の多くが次世代のエリートとして大企業などに就職をする。世に早稲田文学という言葉はあれど、実際に作家になる人間はむしろかなりの少数である。

 

「あー、それな」

 

気の抜けた返事だ。

 

「それなじゃねぇよ。やっぱ作家でやってくつもりなのか」

 

俺の問いに、湯河原は少し困ったような表情をして天井を仰いだ。

 

「んー夏休みにインターンは受けたんだが、どうにもしっくりこなかったんだよ。専業でできるならそうしたいけど、そんな甘いもんじゃないことくらいわかってる。それに俺は純文学だからなぁ…」

 

湯河原は大袈裟に頭を掻いた。やはり懸念は俺の予想通りであった。このサークルのメンバーの書く小説の多くは純文学だ。純文学とは、いわゆる一般ウケのよい大衆文学の対をなす娯楽性よりも芸術性に重きを置いた小説のことである。よって、純文学は比較的に文章や言葉遣いが難解になることがあるために世間から敬遠されがちであり、本自体の売り上げは大衆文学やライトノベルに比べるとやはり落ち込むという現実がある。つまりそれで稼いで生きていくのは難易度がそれだけ高いというわけだ。

 

「まぁ、やっぱ難しいか…。なら兼業でやるか?」

 

「専業じゃなければ、やっぱそうなるんだろうけど。現状、特に働きたい場所も無いんだよなぁ」

 

そう言いながら湯河原は大きくため息をついて、机に突っ伏した。どうやら相当悩んでいるらしい。先程も言ったが、今俺達は3年生だ周囲は就職活動を本格的に始め始めている。進路について考える時期にある俺達にとって、特に作家という夢のある彼にとっては大きな悩みであるのは想像に難く無い。

 

「なら、院にいけばいいんじゃない?」

 

そう愛川が声をかけた。

 

「だよなぁ…やっぱ」

 

どうやら湯河原自身も大学院への進学は考えていたらしい。だがその歯切れは悪く決めかねているようだった。

 

「進路を決めるって大変よね。不安が多いし」

 

愛川もそう言って困り顔でため息をついた。

少なくともまだ現代の日本においては大学卒業後の進路決定は自分の人生を確定させる選択になる可能性が高い。日本に根付く終身雇用という主義は定年退職まで一つの企業で勤め上げるという風習を作り上げた。つまりそれはたった一つの選択肢で人生を生きていくということだ。もし、我々がそれと同じ道を辿るならば、俺達のこの進路選択が人生を決めると言ってもいい。それが我々就活生に不安をもたらすのだ。社会に出たこともない学生が、体験したことものない社会での自分のあり方を決める。終身雇用型の人生の中で決めるということは、選択肢を捨てるということにもなる。

 そんなことを考えていると、俺も憂鬱になってきてため息をついて天井を仰いだ。そんな中、俺の中で今ではずいぶん昔に思えてしまう高校時代の冬に言われた一つの言葉をふと思い出した。

 

「諦めながら私達は大人になる」

 

これを言った当人は、就活のことを指して言ったわけではないだろうが、だが今の状況は十分にそれに当てはまると言っていい。そんな過去の言葉を嫌な格言だなと思い、俺はテーブルに置いておいた缶コーヒーを飲んだ。

 

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 

 

 

「先輩、目が死んでますよ」

 

「いつものことだろ、ほっとけ」

 

俺は隣を歩く後輩の軽口をいつものようにあしらった。

時刻は午後5時半を少し過ぎた。

サークルを終え、俺達は帰路についていた。

早稲田駅から東西線に乗り、いつもの如く混み合った帰宅ラッシュの電車を荻窪駅で降りた。まだ蒸し暑さを残す地下構内を抜け、雑踏で溢れかえったロータリーに出た。

 今ではとっくに慣れてしまったこの人混みを俺はスルスルと抜けて行く。一色もその後ろをテクテクとついてくる。途中、もっとゆっくり歩いてくださいと言われ何度か立ち止まったりもしたが、駅周辺を抜け住宅街に入ると随分と人の数は減りゆっくりと歩けるようになった。

 

「お前、本当にうち来るの?」

 

「はい、今日は私が先輩のために何か作ってあげます」

 

そう言って一色はきゃぴるーんとウィンクして手に持った膨らんだビニール袋を見せた。うわぁあざといなぁと心の中で思ったが今更突っ込んでも仕方がないので言わなかった。

 

「その白いビニール袋にやけに食材が入ってるなと思ったら、そういう魂胆かよ」

 

「んん、そういう言い方は感心しないですねぇ〜 私の手料理食べれるだけでも相当な儲けもんでなんですよ?」

 

「ほー何故?」

 

「は、何故?」

 

一色は眉をひそめて俺を睨んだ。やだ怖い。

 

「あのですねー。日本全国探しても可愛い可愛い可愛い後輩が男子学生の家に上がってご飯作ってくれる人なんてほとんどいないですよ?しかも可愛い後輩が」

 

こいつ、可愛いって4回言ったぞ…。そんなに重要なのかよそれ。平塚先生かよ。やだ、この子も平塚先生みたいになるのかしら。うわーやだなぁ。アラサーになって結婚したいって泣いてるいろはすなんてお兄さん見たくないなぁ。

 

「なんでだよ」

 

「そりゃあ、先輩が一人ならきっと不摂生な生活をしているでしょうし、そんなの哀れで見てられませんから」

 

めっちゃ言うなこいつ…

 

「お前は小町かよ…」

 

「むーお米ちゃんじゃないですぅー!」

 

「馬鹿野郎、お米じゃねーよ」

 

小町を含め俺達が総武高校で共に過ごした時間は約1年あった。今ではあまりにも遠い記憶にも感じてしまう。この一色の小町に対するお米呼びは当時からのもので、今でもこうしてそう呼ぶのだ。バラバラになってしまったあの日の人々と記憶は今ではあまりにも儚なく散る花のように微かに手の中に残っている程度だが、数少ないあの時からの名残だろう。

 

「そんな軽々しく男の家に上がっていいんですかね」

 

「先輩だから大丈夫です。それに私、他の男の人の家には上がりませんよ」

 

「へぇ随分信用されてんのな俺」

 

「ええ、ヘタレ具合はお墨付きですから」

 

「そんなこったろうと思ったよ」

 

俺は小さくため息をついた。

 

「いえいえ、自信持っていいですよ?実際、信用はすごくしてますし」

 

「ならさっきの言葉いらなかっただろ」

 

「でも事実じゃないですか」

 

「ヘタレじゃねぇよ。意思を持って手を出さないだけだ」

 

「ふーん。そんなんじゃ彼女できませんよ」

 

「だからほっとけ」

 

俺はもう耳にタコができるくらいに聞いた一色の言葉を流して歩調を早めた。

 

陽が陰り、目の前から差し込む夕焼けがやけに眩しい帰り道だった。俺はその光を避けるように日陰を探して歩いた。

その後は大した会話もなく、とっくに見慣れたこの街を歩いて俺は一人暮らしをしているマンションについた。

 

エレベーターで三階に上り、1番奥の部屋が俺の部屋だ。築は20年ちょい。新くもなく古くもないこのマンションのほとんどの部屋はここ周辺の学生が居を構えていた。だが、特に交流はない。皆、それぞれがそれぞれの時間に外出し帰宅をする毎日を繰り返し、互いに干渉しない日々を続けていた。だから隣の部屋もその隣もその隣の隣の部屋の人間も俺はほとんど知らない。

幸いにも、部屋の壁は厚く隣の部屋に音が響くこともない。だからこうして、俺の家に一色がやってくるのは少なくなかった。

 

 俺が鍵を開けて部屋に足早に入り窓を開けてると、一色も慣れた動作で靴を脱ぎ買ってきた食材を冷蔵庫に入れていった。

 もはや通い妻だなとも思うが、俺と一色に交際の事実はないし、誤って口に出そうものならまた色々言われるだろうから俺は口を噤んだ。

 

「ふーやっぱりまだ暑いですねぇ」

 

食材を冷蔵庫に入れ終わったがキッチンから戻ってきた。洗ったのであろう濡れた手を丁寧にタオルで拭きながら、彼女の定位置であるベッドの上に座った。

 

「これから涼しくなるんだろうけど、まだ10月だからなぁ。俺も汗かいたわ」

 

俺がシャツを扇ぎながら呟くと一色は

 

「クーラーつけましょ!」

 

と提案してきた。今さっき窓を開けてこの狭い部屋に風が通るようになったが、確かに暑さはあまり改善していないので俺は断るのも面倒なので窓を閉めて冷房をつけることにした。

 

冷気が部屋を冷ますには少し時間がかかるが、一色はクーラーの前に腕を広げて立った。

 

「そこに立ったら部屋がうまく冷えないだろ」

 

「でも暑いんですもん」

 

「少しくらい我慢しろよ」

 

「んー無理ですー」

 

と一色は聞く耳を持たない。

こうなればもう聞かないなと俺は察して諦めて冷房のスイッチを押した。

 

「じゃあ俺、シャワー浴びてくるから適当に過ごしといてくれ」

 

「は!?なんですかクーラーで私を安心させてるうちにシャワーを浴びてその後に手を出そうって魂胆ですか、残念ですけどもっと雰囲気作ってからにしてくださいごめんなさい!」

 

「アホか、暑いし汗かいたからシャワー浴びるだけだわ」

 

そう言って俺はシャツを脱いだ。

 

「ちょっとなんでここで脱ぐんですか!」

 

「いいだろうが別に。シャツくらいここで脱がしてくれよワンルームなんだから。下はあっちで脱ぐから」

 

「あ、たしかに…」

 

一色は意外にもすぐに追ちついた。

というより、俺の上裸を見て意外にも初心なリアクションをしたのが少し驚きだった。一色ならこういうの見慣れてると思っていた。

 

「先輩って… そんなに筋肉あったんですね」

 

「ん、あぁ まぁな」

 

一色は俺の身体をまじまじと見つめてきた。

 

「ちょっと、あんま見るなよ恥ずかしい…」

 

「あぁ、すみません。でも別に恥ずかしい体じゃないと思いますよ?」

 

「いや俺人に体見られるとか慣れてるわけじゃねぇから」

 

「なんですかそれ」

一色はクスクスと笑った。

 

「でも、本当凄いですね。着痩せするっていうか服の上からだとあんまり分からなかったです。高校生の時ってこんなんじゃなかったですよね」

 

「まあな」

 

「じゃあ大学から鍛えたんですね」

 

「まぁそうだな」

 

「どういう風の吹き回しですか?ジムとか通ってるんですか?」

 

「ジムは大学のやつだ。大学にあるから使ってるだけだよ」

 

言って俺は逃げるように部屋から出て行った。キッチンのついたワンルームにありがちな小さい廊下で服を全部脱ぐと、俺は服を洗濯籠に入れて浴室に入った。

 

俺は一気に蛇口を捻り熱いシャワーを浴びた。それによって身体についた気持ち悪い汗のベタつきも流れていった。すかさず俺は、シャンプーを手に取り一気に泡だててガシャガシャと髪を乱暴に洗った。

 

気分が悪かったのだ。

 

体調ではない。気分だ。むしのいどころが悪いのだ。一色に自分の身体を指摘されたのが、どうも気持ちが悪かった。あのまま話していたらきっと自分の弱さだとか、隠してきたことを話してしまいそうだったからだ。

 

一色は何も悪いことをしていない。

ただ、俺の勝手な直感であの話を続けるのが嫌だった。だからこうして逃げてきた。

 

 

こういうことが今までにも何回かあった。そのたびに俺は彼女から逃げた。自分にとってどこか都合の悪い話題から逃げるように、俺は自分の身体もろとも彼女から逃げた。その行為自体が、なによりも失礼で不自然なことは分かっている。だが俺には、弱い俺には、そうするしかなかった。一色への罪悪感を抱きながら俺は自分の弱さを不器用に隠すしかなかった。

 

そうしないと俺はいつもの俺でいられない気がしたからだ。

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 

一色の作ったカレーを食べて。その後は特に意味もなくテレビをダラダラと見終わると、時計の針は夜の10時前に差し掛かろうとしていた。明日も学校があるために一色が帰宅の準備を始めた。もはやこんな風景は見慣れたもので、一色が何度もこの家にやってきていることをしみじみと思わせた。

 

サークルの連中からは通い妻だとか揶揄されているが、俺と一色の間に間違いは一度だって起きてはいない。

あるのはこれまでと変わらない光景だけ…。そう何も変わらない光景…。

心の中にある蟠りや陰鬱な影を押し殺し、本当の気持ちを隠してこれまでの日常を演じるだけの日々。そんな虚構は何よりも俺自身が嫌っていたはずなのに、忌み嫌うその手法を使わねば、ほぼ崩壊しかけているこの関係性を繋ぎ止める方法がなかった。

 

一色は、残ったカレーをタッパーに入れて冷蔵庫に入れると、「なるべく早めに食べてくださいね」と言って、荷物を持って部屋を出た。

俺もその後に続いた。一色は一人暮らし用の狭い玄関でちょっと値段の張りそうなハイヒールを履いて、こちらを振り返ることもなく「それじゃ、先輩。また」と言った。

 

流石にお世話になったので、俺は送ると言った。一色は大丈夫ですと言って断ってきたために少し押し問答になったが、結局は一色が折れて彼女を送ることになった。

 

 

一色は俺と同じくこの荻窪に一人で住んでいた。ただ彼女の家の方向としては線路を挟んで向かい側だったので、俺たちはさっき俺の家に来る時に通った道を辿るようにして駅の方向へ向かった。

 

家を出て暫くはほとんど会話はなかった。

彼女とのそんな空間はもう慣れたはずなのに、今日だけは少し居心地が悪かった。だから俺は、もう見るには何も感じない見慣れた街並みに視線を移して心の逃げ場を探していた。

 

二人の靴音だけが夜の闇に響き、時折すれ違う人々の靴音に安心感を覚えるこの時間はあまりに俺の心を締め付けるだけには十分過ぎた。

 

一色はそんな今をどう考えているのだろうか。

いつもと同じ時間としか感じてないのだろうか。

それとも、俺と同じなのだろうか。

 

そうだったら、なんか嬉しい。

良いことではないけど。

それでも、この感情を表面的だとしても共有できている気がしたからだ。

もちろん、俺は真に一色と向き合っているわけではない。

自分の弱さや感情を隠して、取り繕う対応しかしていない。

そんな、関係性だとしても何か少しでも分かり合えたものがあるなら、こんなどうしようもない俺に勿体ない程に嬉しいことなのだ。

 

10分程歩くと、荻窪駅に着いた。

やはり駅はまだ騒がしく、人通りも多かった。でも今だけはその喧騒が俺達の沈黙よりはずっと居心地が良かった気がした。

 

そんな騒がしさも一瞬で、駅を越えて一色の家の方面へ向かえば向かうほどにまた住宅が並び静けさを増した。再び奏で始める沈黙が俺の心の中の気持ち悪さを助長した。

 

「先輩って進路はどうするんですか」

 

唐突に一色が口を開いた。

 

「まだ決めてない」

 

「小説家さんにはならないんですか?」

 

「そんな、才能はないんだなぁ残念ながら」

 

「そうですかねぇ。私にはいけそうな気がするんですけど」

 

「そんな甘くねぇよ。それにお前は俺の物書きとして何を知ってるんだよ」

 

「私、先輩の小説読んだことあるんですよ」

 

「は?」

 

一色の突然の暴露に俺は狼狽る。

 

「俺、お前に小説見せたことないだろ」

 

「あーいや、違うんです。私は梅子先輩に見せてもらったんですよ」

 

「え、お前ら関わりなんてあったの?」

 

「あれ、言ってませんでしたっけ? 私、結構梅子先輩と授業被るんですよねー。だから会った時は話しますし、一緒にお茶しに行ったこともありますよ?」

 

「いや、それ初耳なんだけど…」

 

 言うと、一色は相変わらずのあざとさMAXでてへぺろりーんと表情を変えた。こいつわざとだな…

 

「うわ、お前に読まれるとかめっちゃ恥ずかしいんだけど…」

 

「なんでですかぁー!」

 

「だってキャラじゃないじゃんお前… 小説とか絶対読まなそうだし、読んでも頭の悪そうなケータイ小説だろ」

 

「いや、ケータイ小説なんて時代遅れですよ先輩…」

 

「え、そうなの」

 

「それ流行ったのって中学生くらいの時ですし、今はみんな読むならスマホで読んでますよ」

 

「あー確かに」

 

今では漫画も小説もスマホで見れる。最近は俺自身も漫画はスマホで読んでるし、実際その方が買いに行く手間もないし本で部屋が散らかることもない。全く便利な世になったもんだ。

 

「まぁでも確かに先輩の言うように小説はあんまり読まないですね」

 

「だろーな。お前が読んでるところは想像つかん」

 

「でも、嫌いではないですよ。小説読むのは」

 

「嘘に聞こえるほど意外だな」

 

「これでも早稲田に入るくらい勉強したんですよ?現代文解けるようにするためにいっぱい文章読んだんですから。たくさんやってれば愛着もつくもんですよ」

 

「ほー」

 

一色いろはのイメージというものは彼女と初めて出会った当初から大きく変わってはいない。確かに、高校生活の中で一色と話す中で彼女の人となりを知り、そこに新たな発見をしても彼女の振る舞い自体は変わることはなかった。

それは今でもそうで、大学生になった一色はその大体の姿は高校時代と変わらない。

 だが、今の発言の通り、彼女は俺達の目に見えぬところで、小さくではあるが確かに変化しているのが分かった。

 イメージとは違う発言や行動、好みなど。それを感じる機会が高校に比べて増えた気がする。

 

『人はそうそう変わるものじゃない』

 

それは俺の中で一つの座右の銘のような、己に言い聞かせた一つの信念であったが、今ならこの言葉に訂正を加えなければならない。

 人間という生き物は、確かに瞬間的には変わらない。しかし、時間を経れば変わる。

 勿論それは少しずつ、少しずつ、

「雨垂れ石を穿つ」のように小さな変化を積み上げて年月が経った時にそれは大きな変化として現れる。

 

一色のその言葉はその小さな変化の片鱗なのかもしれない。

 

「私は、先輩は作家になっていいと思いますよ」

 

一色は独り言のようにそう呟いた。

 

「実力が湯河原以下なんだから無理だって」

 

「湯河原先輩と先輩は違うじゃないですか。人の評価はそれぞれなんですから。そんなの気にしなくていいと思いますよ」

 

「でも、コンクールとかに出しても俺があいつより上に行った試しがねぇ」

 

「先輩はまだ書き始めて3年も経ってないんですから当たり前ですよ。でも将来的には超せる時が来るかもしれないじゃないですか」

 

「なんでそんなに俺を作家にさせようとするんだよ」

 

聞くと、一色はパタリと立ち止まった。言葉が詰まったのか、表情も固まった。

そして苦笑いを小さく作ると、そのまま俯いた。

 

「一色?」

 

「あ、あぁすみません…」

 

「いや。大丈夫か?」

 

「はい。大丈夫です。すみません。先輩の進路なのに勝手に口を挟んで…」

 

「いや気にしてないし。気にすんなよ」

 

「はい……」

 

俺達はゆっくりとまた歩き始めたが、一色の表情は冴えないままだった。

そのまましばらく歩いていたのだが、一色の家まであと少しとなった交差点のところに辿り着くと一色が口を開いた。

 

「先輩、送ってくれてありがとうございます。今日はここまでで大丈夫です。」

 

「お、ああそうか…」

 

「はい。さっきはすみません」

 

「気にすんなって。じゃあ、気をつけてな。お疲れ様」

 

「はい。お疲れ様でした」

 

そう言うと、一色は踵を返して信号が点滅し始めた横断歩道を渡って行った。

俺は一色の姿が見えなくなるまでその後ろ姿を見ていたが、彼女が最後まで振り返ることはなかった。

 

 

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 

 

Interlude

 

 

 

 

 

 

自分のマンションに着いて、自分の部屋に入ると私は力を抜けたように玄関に蹲み込んだ。

 

危なかった。本当に危なかった。

数分前のことなのに、もう最後の方は覚えていない。

ただ先輩と早く離れたかった。

じゃないと、表情を保っていられそうになかった。

感情が溢れて出してしまいそうだった。

 

思いがけない先輩の言葉に私は答えられなかった。

 

先輩に作家になるように勧めたのは、

間違いなくそうなって欲しいからだ。

 

そしてそれは先輩の小説を読みたいから。

 

先輩には言わなかったけど、本当は先輩がこれまでサークルで書いた小説は梅子先輩が見せてくれる限りは全て読んできた。

 

先輩の書いた小説の中には、沢山の言葉が散りばめられていて、その一つ一つが先輩の心だと思って読んでいた。

 

遠く過ぎ去ってしまった過去の思い出に後ろ髪を引かれて、今もまだその記憶に焦がれている私は非情にも移り変わる時間に、現実に、なす術も無く流されていく。

 

あんなに楽しかった時間は今はもうない。

 

みんながそれぞれの道に進み、バラバラになって変わってしまった。

 

そして先輩も変わってしまった。

 

今はどんなに近くにいても、言葉を紡いでも、彼の本当の心を聞くことはできない。

 

だから私は先輩の小説が読みたい。

 

それが唯一、今の私に許された本当の先輩に触れられるものだから…。

 

 

 


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