月光花   作:八咫倭

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これまで何度もお知らせしましたが、この小説は他のSSでよくあるようなキャラ同士がイチャコラするような表現はありません。
シリアスな内容で、好みに合わない人は読まないことをお勧めします。


逢いたくて、愛おしくて、触れたくて、苦しくて

 

 

 

後輩と先輩

 

 

 

 

 季節の移り目を感じる。

 少し前まであんなに暑かったこの街にも冬が訪れ始めたのが日々分かるようになった。

 こんな私も東京に来て1年半が過ぎようとしていた。大学で一生懸命に勉強するつもりはなかったし、とりあえずそこそこ名の通った大学に入って楽しく4年間を過ごせればいいと思っていた。

 高校では生徒会長もやっていたし、指定校推薦を使って大学にも進学するつもりだった。

 

 ただ、現実はそうはならなかった。

 

 高校生時代、私には好きだった場所があった。

 それはクラスの教室からは離れた場所にある小さな教室。

 そこには本当に綺麗な女の子2人と、見た目は冴えない1人の男の子の先輩がいた。

 いつかの私は誰かに連れられて訪れたその場所はいつしか私にとってのかけがえのない場所になっていた。

 

 たくさんのお話をした。

 たくさん楽しい思いもした。

 たくさんのことを学んだ。

 

 ただ、それは長くは続かなかった。

 

 いつからか、その場所にはどこか不穏な空気が流れ始めていた。

 

 先輩達の仲が悪くなったわけではない。

 

 先輩達はいつものように振る舞おうとするが、どこかぎこちない。

 

 次第に先輩はその場所に来なくなった。

 

 いつもあるその先輩の席に、その姿はない。

 

 私は何が起きているのかが分からなかった。

 

 先輩達は考え込んだように難しい顔をして、悩んだような顔でため息を吐いた。

 

 結局、私がその原因を知ったのは先輩達が卒業まで2ヶ月を切った時だった。

 

 その頃には受験で先輩達と会う機会もほとんどなくなっていた。

 私の知らないところで何かが起きて、こうして悪い空気のまま離れ離れになっていく日々が私は本当に辛かった。

 

 先輩達のいない教室はいつも寂しげで静かだった。

 無情にも過ぎてゆく時間に流されるまま私は先輩達の卒業の日を待つしかなかった。

 

 ただ、それでも私はまた先輩達とあの時間を取り戻したかった。

 

 特に男子の先輩は誰よりもお世話になったし、誰よりも慕っていた。もう一度その先輩と一緒にいたい。

 

 だから私は推薦枠を蹴って、一般受験をした。

 先輩は無駄に偏差値の高い大学に行くから、私もそこに行くために必死に勉強をした。

 

 慣れない猛勉強に何度も心が折れそうになったけど、またもう一度、昔みたいな日々を過ごしたいって、ただそれだけのために私は頑張った。

 

 結果として私は先輩の大学合格して、先輩と再会した。

 しかし、先輩は変わっていた。

 

 昔と変わらぬように見えるのに、節々に見せる雰囲気や言動にはどこか違う先輩が見えた。

 

 結局のところ私は昔のように先輩と一緒にいることはできた。でも、心には大きな蟠りが残り続けていた。

 

 

 

 

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 時刻は昼を過ぎて14時を回ろうとしていた。

 私は、一人で早稲田通りを高田馬場に向けて歩いていた。本当なら早稲田駅からメトロに乗れば簡単に高田馬場に着くけど、どうにも気分的に歩きたかったので少し遠いけど戸山キャンパスから歩いて向かうことにした。

 

 本来なら今日の予定では4限に授業があったはずなのだけど、先生が学会に出席するとのことで休講になってしまった。

 つまり、ついさっきまで4限に出るつもりでいたのにいきなり休講を知ったたから突如暇になってしまったのだ。

 そして私は昼休みは食堂が混んでいたから昼食を摂っていなかったので、この時間になってお腹が減ってしまったのだ。だからとりあえず何か軽く食べれるところに行きたいと高田馬場に向かっているのが私の今の状況だ。

 

 普段、こんな時は先輩か友達を呼んで一緒にどこかに行くけど、残念ながら今日はどちらもまだ講義があるとのことなので私は一人で行くことにした。

 

 絶えず走る車を横目にビルや雑居ビルが幾重にも連なった大通りをマイペースに歩いていると普段気づかなかい発見をした。

 知らぬ看板や広告、気づかなかったちょっとお洒落な飲食店、マンションの工事の音、ビルの間に広がる暗い路地。

 

 何度か通ったことある場所もこうして一人でいると違った景色に見える。

 

 意外と一人での散歩も悪くないと思ってしまった。

 あ、私少し先輩に似てきたかもしれない。

いけないいけないと、首を振り歩いていると、なんだかんだと目的の高田馬場に着いた。

 

 駅前はいつもと変わらず騒々しかった。もっとも、東京はいつも騒がしいけどかの駅前の喧騒というのはどこか独特で、不思議な熱を帯びている気がした。

 高田馬場駅の周りには大学生が多くいて、早稲田の学生を始め、近隣の大学生が多く集まる場所でもあり、駅前は全国チェーンの店が割拠しているけど、そこにはどうにも行く気がなれなかった。別に、何か食べたいものがあったわけではないし、一人暮らしをしてる身としては安上がりならなお良かったけど、どうしても騒がしい場所は嫌だった。

 結局私は駅前をうろちょろした末、以前に先輩に紹介された小さなカフェに行くことにした。

 

 駅から数分歩いた裏通りの雑居ビルの二階にその店はある。そのビルの前に着くと、コーヒーの匂いがした。

 特別コーヒーが得意なわけではないけれど、この香りは小腹を刺激するには抜群だった。

 

 多分初見では女の子一人では見つけても入らないだろうビルの薄汚れた階段を上り、茶色い木のドアを開けると、いかにもカフェという感じのチャランチャンという音が鳴った。

 店内に入るとコーヒーの芳ばしい香りがさらに強くなった。

 そんな空気をスーッと吸っていると、すぐにウェイターの女性が現れた。

 やべ、見られたかな?と少し心配したけど、数秒後にはもういいやと、私は腹が減ったのだ、これ以上待つわけにはいかなのだ!と開き直って私は人数を聞かれる前に一名ですと言った。

 するとウェイターのお姉さんが私の席を見繕うために店内を見ていると「あれ?いろはちゃん?」と声が聞こえた。

 

 声が聞こえた方向を見ると、窓側のテーブル席に手を振っている女の人が一人と、その正面にに無愛想にこちらを見る男の人が一人いた。

 

 それは梅子先輩だった。それを見て私も反射的に手を振って挨拶をする。

 梅子先輩はこっちこっちと手招きをするので、私は「あの人達と一緒に座ります」とウェイターに言って、席に向かった。

 

 彼女は先輩のサークルで先輩の同級生。今時の女子大生っぽくない古風な雰囲気とお淑やかでいかにも優等生という感じの人で、私の数少ない大学での女子の先輩だった。

「すみませーんお邪魔します」

と私は決まり文句のように言って席に着くと

「いいよいいよー」と優しさ全開で迎え入れてくれた。

 

「それより、どうしたの?一人で」

 

「4限なくなっちゃって暇でして、小腹も減ったので来ちゃいました」

 

「へぇそうなんだ〜でもこの店よく知ってたね。いろはちゃんみたいな学生はほとんど来ない場所なのに」

 

「あーここは前に先輩に教えてもらったんですよね。だから何回か来たことあるんですよ。一人で来るのは初めてなんですけど」

 

「なーるほど比企谷くんね〜。確かに彼はこの店の常連だもんね」

 

「そうなんですよー。とりあえず困ったらここみたいなこと言ってましたね」

 

「確かにそれは比企谷くんらしいわ」

 

言って梅子先輩はクスクスと笑った。

 

「先輩達はどうしてここにいるんです」

 

「あー私たち?私達はねー」

 

 そう言って、梅子先輩は目の前にあるノートパソコンを私の方に見せてきた。画面には長くたくさん書かれた文字列があった。

 

「あー小説ですね!」

 

「そうそう正解〜。文学賞に出すやつの仕上げしてるの」

 

「確かに先輩も書いてましたね」

 

「え、比企谷くん書いてるの?」

 

「ええ書いてましたよ」

 

「文学賞のやつ?」

 

「多分。かなり入れ込んで書いてましたから」

 

「そうなんだ〜知らなかった」

 

「え、そなんですか」

 

「うん。最近は比企谷くんあんまりサークルにも顔出さないし、来てもほとんど何もやらずに帰っちゃうから文学賞出さないのかと思ってたんだよね」

 

「それは知りませんでした。そうたったんですね。でも先輩は最近は家とか近くのカフェとかで書いてるらしいですよ」

 

「えー知らなかったよ。ねえ喜重郎は?何か聞いてないの?」

 

と梅子先輩は正面に座る男子学生に話を振った。彼の名前は湯河原喜重郎、先輩と梅子先輩と同じサークルに所属している人。見た感じはいかにも真面目そうで無愛想。人種的には先輩に近い感じ。これまで何度か会ったことはあるけど、ほとんど話したことはないし、私みたいな人は嫌われていそうと思って近づくこともほとんどない。

そんな湯河原先輩は梅子先輩の言葉に興味を示すようなことはなく、ひたすら自身のノートパソコンと睨めっこしながら「梅子が知らないのに俺が知るわけねぇだろ〜」とめんどくさげに言った。

 

「え〜男同士だから知ってるとかあるじゃない〜」

 

「別にそんなのねぇんだよなぁ」

 

「え〜そうなの?」

 

「そうだよ。それに俺らに言ってないってことはあいつは隠したかったんじゃねぇの」

 

「どうして隠すのよ」

 

「知るかよ。あいつの考えてることはいつも分からんし、隠そうとするのは今に始まった話じゃねぇだろ」

 

「そうだけどさぁ」

 

そう梅子先輩は口を尖らせた。

 

「でも、さすがはいろはちゃんだね。比企谷くんのこと何でも知ってるし、これからはやっぱりいろはちゃんに色々聞こうかな」

 

「あ、いえ、何でもは知らないですよ」

 

「そう?少なくとも私達よりは知ってるじゃん。それにいつも一緒にいるイメージあるし」

 

「確かに、他の人に比べたら先輩と一緒にいる時間は多いとは思いますけど…」

 

「でしょ?いつも仲良さそうだなーって思って見てるよ」

 

「そんな風に見えます?」

 

「うん。すっごく!ねぇ、2人は付き合ったりしないの?」

 

梅子先輩は目を輝かせて、いかにも恋話に盛り上がるガールズトークのようなノリで言った。多分、梅子先輩は何の悪気もないのだと思う。

 でも、その質問は私には耐え難い現実をまた突きつけることに他ならなかった。それを自覚してしまうと、途端に自分の表情が暗くなる感覚があった。口角はさがり、笑みが消えてゆくのが自分でも分かった。

 そんな私の面持ちに気づいたのか、梅子先輩は「変なこと聞いた?ごめんね」とすぐに謝ってきた。

私は大丈夫という意味で首を横に振った。

 

「私は、多分先輩とは付き合えないです…」

 

「え、そうなの?凄く良さそうに見えるけど」

 

「周りの人から見たらそうかもしれないですね。でも違うんです。先輩は、私のことなんて見てくれてはいないですから…」

 

「どういうこと?」

 

「先輩にはずっと追いかけてる人が他にいるんです」

 

「好きな人ってこと?」

 

「どうですかね…。先輩がその人のことが好きなのかは分かりません。でも多分どこか惹かれいるというか、思うことがあるんだと思います」

 

「じゃあ、比企谷君はその人のこと思ってるから付き合えいってこと?」

 

「私はそう思ってます…」

 

「比企谷くんは恋愛話とかしないの?」

 

「しないですね…。実は私、その人についてことは先輩と話したことがほとんどないんです… 」

 

「そうなの?」

 

「怖くて聞けないんです…」

 

「どうして」

 

「とても辛い思い出だからです…」

 

「何があったのか、聞いてもいい?」

 

その問いに対して、正直私は一瞬話すかどうか迷った。話せば過去を思い出さなければならないから。ずっと考えないようにしてきたものに向き合わないといけないから。

 でもそうやってずるずると伸ばしてきて今日まで来たけれど、状況が好転するようなことは何一つなかった。

 見たくない過去は常に私達の背後に付き纏い、何処か心の奥底で足を引っ張り続けていたのだ。

 梅子先輩達に全てを話したところできっと解決はしないだろうけど、どうやら私の中ではもう抱えきれなくなっているらしい。先輩を思えば思うほどに、日に日に背後にある過去が私の胸を締め付けていたから。

 

「実はその人っていなくなっちゃったんです」

 

「いなくなる?失踪ってこと?」

 

「実際はその人の親御さんの指示で半端強制的に海外に行かされていたんです。それを私達には何も言わずに行ってしまったので私達にとっては半分失踪状態みたいな感じでしょうか」

 

「どうして海外に?」

 

「聞くところによると留学しているらしいんですけど、先輩も私も先輩の友達も誰もその人とは連絡が取れなくなってしまって、どこで何をしてるのか詳しいことはほとんど分からない状況になったんです」

 

「何も教えてくれなかったの?」

 

 

「はい…。いなくなったのも突然だったので私とかはほとんど何も知りませんでした。ただ、先輩はその人が海外に行く前に、その人からいろいろ相談というか、話は受けていたそうなんです」

 

「相談?」

 

「その留学っていうのは事実上、親御さんの強制だったらしいんです。その家はいわゆる地元の名家って感じのところで、進路とかの介入が昔から酷かったらしいんです。それでずっとその人は半端諦め状態でそれまで歩んでいたらしいんですけど、それでもやっぱり悩んでたところはあったみたいなんです」

 

「それで比企谷くんが相談されてたってことなのね」

 

「はい。だから先輩は元々人一倍責任感が強いのもあって相談を受けていたのにその人が海外に行ってしまったことに思い悩んでたんです。何もできなかったって、助けられなかったって…きっと後悔してるんだと思います。勿論私達にはそんなこと一言も言わないんですけど、悩んで辛そうにしていたのは横から見て分かっていましたので…」

 

「でも、それって他人の家のことだろ?一人の高校生がどうにかできるような問題じゃないと思うんだが?」

 

「そうです。勿論、先輩もそれは分かってるんだと思います。でも、先輩はそれでも責任を感じてしまう人なんですよ」

 

「律儀なんだね」

 

「本当に過ぎるくらいに律儀です…。でも、いつもそういうので一人で背負い込んで悩んでるんです。昔からそういう人なんですよ。なのに周りには平気な顔してるんです…。本音も言わないで…」

 

 

「まぁあいつらしいな」と湯河原先輩は腕を組んで天井を見た。

 

 

「だから、私は先輩のことなんて全然分かってあげられてはいないんです… むしろもっと知りたいくらいです…」

 

「比企谷くんはまだそのことを引きずってるのかな?」

 

「表には出さないですけど、多分それなりには…」

 

「3年も引きずるってすげぇな」

 

「それだけショックだったんだと思います」

 

「いろはちゃんは比企谷くんとそのことについて話はしないの?」

 

「しないですね… というよりできないです…もしそれに触れてしまったら、何か全てが壊れてしまいそうで…」

 

「それは大袈裟じゃねぇか?」

 

「いいえ、そんなことないですよ。実際壊れてしまいましたから…」

 

「何かあったの?」

 

「先輩は高校生の時、奉仕部って部活に入っていたんです」

 

「は、待って何それ?初耳なんだけど?」

 

「比企谷くん高校時代は帰宅部って言ってたけど?」

 

「あぁ、多分それは隠してるんだと思います。なにせ壊れてしまったのはその部活ですから…」

 

「どういうこと…?」

 

「原因は今話したことです…。それで先輩が思い悩んでしまって…」

 

「それと部活がどう繋がるの?」

 

「実はそのいなくなってしまった人というのはその部の女子部員のお姉さんなんです…。だからその部員の子もお姉さんが悩んでいたことも先輩に相談をしていたことも知っていたんです。だから先輩だけでなく、その妹さんもずっと気にかけていたらしいんです…。だから事件の後にショックを受けたのは先輩だけではなくて、その妹さんもなんです」

 

「なるほど…。でもそれだけで部活の人間関係って変わるかな?」

 

「その奉仕部っていうのは元々3人しかいない部活なんですよ。だから2人の落ち込みは部の雰囲気そのものなんです」

 

「あぁ、それはきついな。人間は3人できる環境が何気に1番気まずいしな」

 

湯河原先輩はそう言いながら嫌そうな顔した。

 

「そこからです。次第に部内の空気が狂い始めてきたのは…」

 

私は過去の記憶を手繰り寄せた。

だけど、それはどれも辛い記憶でしかない。

思い出すことすら苦痛で仕方がない。

 

 

「さらに言うと部内の先輩以外の2人は女の子で、2人は先輩のことが好きだったんです」

 

 

「は?何いきなり?いきなり恋愛?」

 

 

「あ、すみません。恋愛が主題ではないんですけど、とりあえず2人が先輩を好きってことが重要なんです」

 

「あ、そうなの。すまん続けてくれ」

 

「で、だからこそ先輩の変化は2人にもかなり重くのしかかりました。3人とも繊細な人達でしたから、悪い空気感は簡単に伝播するんです。そうやって次第に気まずさが出てきて、互いに干渉しなくなって、高校を卒業する頃にはほとんど会話もしなくなってしまったんです…」

 

 

「今、比企谷とその部員の2人はどうなってるの?」

 

「先輩以外の2人はたまに連絡は取り合ってはいるみたいです。でも先輩はもうほとんど連絡はしていないそうです…」

 

それを聞いて梅子先輩は同情したように深妙な面持ちを見せる。

 

「比企谷が自分のことをあまり語ろうとしないのはそれが原因なのか?」

 

「どうですかね、元々口数の多い人ではないので…」

 

「まぁ確かに比企谷くんって、サークル内で何か決める時も自分から意見することってほとんどないのよね。周りが決めたことに何も言わずに付いてくるって感じ?」

 

「それは昔からそうですね。自己主張が強い人ではないので。でも、やっぱり昔よりは口数はかなり減ってはいるような気がします。先輩から何か話し始めることが、元々少ないのにさらに減った気がします」

 

「それ半分disってるな」

 

「あ、いや違いますよ! 」

 

「もう、話の腰折らないでよ」

 

梅子先輩はそう責めると、目の前に座る湯河原先輩はまるで小学生が悪戯をした時のような無邪気な顔をしてすまんすまんと言って謝った。

けど幸いにも今のおかげでどこか張り詰めた空気感が少し和らいだ気がした。

 

「でも、だからと言っては変ですけど私は先輩が小説を書くのは好きなんです」

 

「どうして?」

 

「普段は話してくれないようなことでも、小説なら先輩の心の内が少しは分かるような気がするからです」

 

「まぁ、小説は自己表現の側面もあるからな」

 

湯河原先輩は言って頷いた。

 

「はい。だから先輩には書き続けて欲しいです」

 

「比企谷くんの小説も、前よりもずっと完成度が高くなってるって先生も言ってたし、隠れて書いてるってことはそれなりの力作なのかもね」

 

「あいつなら近いうちに賞とか取るかもな」

 

「じゃあ喜重郎と2人で受賞になるかもね」

 

「どうかなぁ…俺は」

 

「何?どうして弱気なの?喜重郎はサークルで一番なんだから比企谷君が受賞するなら喜重郎も取れるでしょ」

 

「いや、そんな選考は単純じゃねぇだろ。取れない時は取れないし、それにあいつは多分、もう俺よりも上だよ」

 

「え、そうなの?」

 

「あいつは俺とは違うよ。いわゆる天才の部類だ」

 

「確かに比企谷くんは筋は経験少ないわりには筋はいいと思うけど、腕は喜重郎の方が上だし、実績もキャリアも倍以上違うじゃない。学生から始めた比企谷くんがその差をすぐに埋められるなんて普通あり得なくない?」

 

「そうだな…確かに普通ならそうだ」

 

そう言うと湯河原先輩は作業をしていた自身のノートパソコンを閉じて小さくため息をついた。

 

「一般論で言うなら、梅子の指摘は正しい。物書きに限らず、スポーツだろうが芸術だろうが経験値というのはパフォーマンスのクオリティを決める最も重要な要素の一つと言っても過言じゃない。俺は物書きを初めて10年近いけど、少なくとも同世代の中ではこれまでに費やしてきた時間には胸を張れる自信がある。でも、あいつはその差をこの短期間で埋めている。」

 

「まぁ、比企谷くんサークルに入った当初からセンスあるとは思うけど…」

 

「センス?今のあいつはもうそんなレベルじゃねぇよ」

 

湯河原先輩はそう言ってグラスに残った一気にアイスティーを煽った。ごくりとそれを飲み干すと、一息ついてまた話し始めた。

 

「実は夏休み明けに俺はあいつがボツにした小説を少し読んだことがある」

 

「どんなやつ?」

 

「恋愛小説だ。といってもかなりシリアスめの純文学って感じのな」

 

「比企谷君が恋愛小説書くなんて初めてじゃない?」

 

「確かにそうだな。だからか、結構悩んでてな。比企谷はおそらく先生に見せようとしてたプロットだったんだろうけど、結局コピーしたものを見せずに捨てたんだ。多分100ページくらいあったかな、その束をそのまま部室のゴミ箱に捨ててたから、俺は気になって、あいつが帰った後にその小説をこっそり読んだんだ」

 

「もしかしてそれが?」

 

「ああ、それは俺がその半年前くらいに読んだ比企谷の小説とは全く別物だった。その原稿は途中だったから完結はしていなかったけど、完成してたらおそらくそれなりの評価はもらえたはずだと思う」

 

「そんなに凄いんですか?」

 

「うーん、上手く説明できないんだが、正直なところ芸術性重視の純文学って単純に面白いってだけが評価ポイントではないんだ。というよりは、文章自体の表現の部分はかなり重要視される。その点だけかつ俺の評価にかぎって言うならば、正直ここ数年で書き始めた人間のレベルではない気がする…」

 

と湯河原先輩の言葉は歯切れが悪く、頭をかいて悩ましげに言った。

 

「確かに小説を書き始めた当初からセンスはあった。少なくとも初心者のレベルは遥かに超えていた。だがそれでも物書きをしてる人達の中ではまだ人並みだ。そこから成長できる人間はそうは多くない。だから当初の俺の認識はセンスのある奴って程度だった。でも時間が経つにつれてあいつの作品としての完成度はどんどん上がってきった。粗さも無くなって表現や運びもずっと上手くなっていった」

 

そう言う湯河原先輩は悔しさと諦めが混じったような複雑な表情をした。

 

「喜重郎が見てそんなに書けてるなら、比企谷くんはどうしてそれをボツにしたの?」

 

「詳しくはしらないけど、その日はずっといろいろ悩んでたな正直、俺はそれを読んでいて気になる部分はなかったし、だから比企谷が具体的にどこの何を気にしてたのかは俺にもわからない。きっとあいつなりのこだわりがあったんだろうし、自分で納得できなかったかたことがあったんだろ」

 

私はそんな先輩を少し想像できてしまった。もともと細かいところを気にする人でもあったから、きっと私が知らないようなことで悩んでいたんだろう。

 

「まぁでも、これでようやく分かったよ。先生があいつをサークルに入れた理由が」

 

「確かにそうね…」

 

「先生は最初から全部あいつの才能に気づいてたんだ。俺が最近になってようやく気づいたのを先生は2年も前に分かってたんだ。それもあいつが小説を書き始める前の段階で…」

 

「だから先生は比企谷君をサークルに引き入れたのね」

 

「だろうな。先生から直々にヘッドハンティングされた奴なんて後にも先にも比企谷しかいない」

 

「先輩は才能があるんですか?」

 

「まぁ、そうかもな」

 

「どうしたら、そんなふうに書けるんですかね」

 

「さあな。レベルが高ければ高いほど理由なんてよく分からないよ。小説と言ってもいろいろあるし、でも俺や比企谷が書いているような純文学に限って話すなら、最低条件として相応の頭の良さが必要だ」

 

「確かに頭の良さそうな人というか硬いイメージはありますね」

 

「でも頭の良さと言っても必ずしも学校とかでの勉学的な頭の良さじゃないぞ。どちらかと言えば必要なのは深い思考力だ。物事をどれだけ多角的に捉え、理解して、多くの情報を引き出せるかが重要で、それができるほどに文章としての深みは増す」

 

「なるほど…」

 

「だが頭だけ良くても意味がない。小説は書いて初めて小説だ。自分が捉え考えたことを文章にする技術も必要だ。そしてそれは最もセンスを問われる作業でもある。考えたことをただつらつらと並べ書くだけでは小説じゃない。必要なのは自分の頭の中の景色をどれだけ美しく文字で表現するかが問題だ。他にも物語の内容はもちろん、構成力やテンポなど重要な要素は多岐に及ぶ」

 

「考えるだけで頭が痛くなりますね…」

 

「でもそれらが頭でわかってても実際にできるかは別問題だけどな。分かっててもできないのはスポーツと一緒だ」

 

「先輩が頭がいい人だってことは分かります。ただそれって勉強ができるっていうのよりは、なんていうんですかね、頭の回転が早いというか、なんというか」

 

 

「頭の回転が早いってことは瞬間的に多くの情報を頭で処理できるってことだ。それは普段からどれだけ頭を高度に使ってるかの裏返しでもある」

 

「そうなんですね… 」

 

「まぁ、俺も君と同意見だよ。あいつは頭の回転はかなり早いタイプの人間だ。人よりも思考量が多いから、いろいろ思い悩むんだろうな」

 

「じゃあ、比企谷くんが今書いてる小説はその捨てたのを一から作り直したもので、それを文学賞に出すのかな?」

 

「どうかな。捨てたやつと今書いてるのが関係したもんなのかは知らねだけど、話を聞く限りは、多分出すんじゃねぇの」

 

「比企谷くんに直接聞いたら教えてくれるかな」

 

「いや、聞かない方がいいだろ。あっちから言わなかったんだ。詮索しない方がいい」

 

「やっぱりそうかぁ…だよねぇ」と梅子先輩はいかにも残念がったように言うと今度は私の方に視線を向けてきた。

それを見て湯河原先輩も私の方に視線を向けた。私はすぐに2人は私に答えを期待しているのだとすぐに分かった。

 

「どうですかね…正直、私もわからないです…ごめんなさい」

 

 言うと、梅子先輩は期待が外れて項垂れた。私はそれを見てこの人、本当にリアクションが分かりやすくて可愛いなと不覚にも思ってしまった。それ故に少し申し訳なさを感じてしまうけど、私だって知りたいくらいなのだから許して欲しい。

 湯河原先輩も「そっとしてやった方がいい」と念を押すように付け加えたながら梅子先輩の頭をポンポンと叩いた。

梅子先輩は渋々理解したように「分かった」と言った。

 

 その後、私達は夜まで色々と話した。

先輩のこともたくさん話したけど、結局は私の心の蟠りが消えることはなかった。

 

 先輩のことを私はほとんど理解できていなくて、先輩が悩んでいることにも寄り添えない。そのことを口にする勇気もない。

ただ怯えて、この曖昧な関係を必死につなぎとめているだけなのだ。

  私は先輩と肩を並べられる位置にはいなくて、先輩のずっと背後を追いかけていて、それでもただただ私達の距離が広がっていくという実感だけだった。

 

 

 

 

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再開の距離は果てしなく遠い

 

 

 

 

 

 

若者の街と言えばどこを思い上げるだろう。

渋谷?原宿?新宿?表参道?それとも少し邪道に池袋?

帰ってくる答えはそれぞれだろうけど、正直どれも人は多いし私はあまり好きになれない。

というより都心はどこもあまり好きじゃない。

じゃあ何故お前は慶應大学なんて通っているんだと言われたら返答に窮することになる。

ただ一つ言い訳をするとすれば、慶應大学のある三田の地は人は多いが渋谷や原宿のような繁華街ほど人は多くないためにそこまで煩わしさや苦痛はない。

それでも、やはり東京の一等地ではあるために人は多いし大学自体も学生が多い。

 

ただ、今日いるこの表参道は特に人が多い。

昼はOLやサラリーマンも増えてさらに混み合うために落ち着いて昼食が取れそうになかった。

よって私達は時間をずらして店に入ろうということになったけれど、結局ダラダラとウィンドウショッピングをした結果、陽が傾き始めた夕方にカフェに入った。

普段ならこんなこと絶対しないし、来ることもない。

けれど大切な友人との時間であるならば仕方ない。

 

その友人というのがこの目の前に座る人だ。

赤く染めた髪でお団子を作り、くっきりとした大きな目と白く綺麗な肌が映えた綺麗な女の子。

髪の毛は昔より少し長いけれど、ほとんど変わることのない純粋で可愛らしい笑顔をつくる私の親友だ。

 

「どうしたのゆきのん?そんな見つめて」

 

そう目の前に座る女の子は恥ずかしそうに言った。どうやらずっと彼女のことを凝視してしまっていたらしい。

 

「ごめんなさい由比ヶ浜さん、少し考え事をしてて」

 

私は急いで謝った。

するとその子は昔と変わらぬ可愛らしい笑顔で大丈夫だよと言った。

彼女の名前は由比ヶ浜結衣。

私の高校時代の同級生で、今は私とは別のこの表参道の近くにある青山学院大学に通っている。

だから昔より会う機会はかなり減ってしまったけれど、今もこうして最低でも月に1回は会うようにしている。

 

「もーびっくりしたよ。ゆきのん怖い顔してずっとこっち見るからさ、怒ってるのかと思ったよ」

 

「本当にごめんなさい。そういうつもりではなかったのよ、本当に考え事をしていただけで」

 

「え〜じゃあ何考えてたの?すごく悪いこと?大丈夫?相談乗るよ?」

 

「いえ、そうではないの、だけれど…

ごめんなさい。最近こういう顔になってしまうのは少し癖になってしまっているのかもしれないわ」

 

 

「本当に大丈夫?」

 

「ええ、大丈夫よ」

 

私は無理やりに表情を作ってその場をはぐらかした。

由比ヶ浜さんはそんな私を数秒のほど見て、「分かった」と言った。

それを聞いて私は心を撫で下ろした。と同時に少し罪悪感を感じていた。

そんな気持ちを誤魔化そうと私は話を変えた。

 

「最近の大学はどう?」

 

「うーんまぁまぁかなぁ」

 

「何か上手くいってないのかしら」

 

「あーいや、そういうんじゃないんだけどね。ほらやっぱり就活とかでさ〜悩むところではあるよねボチボチ始まるしさ」

 

「確かにそうね。由比ヶ浜さんはどういうところ志望とかあるの?」

 

「いやぁそれがねぇ… 一応インターンとかでいくつかは行ってみたんだけど、どれってのがなかなか決まらなくて」

 

言いながら彼女は少し恥ずかしそうな表情で丸く頭に作った団子を触った。

 

「何か悩んでる理由でもあるのかしら?」

 

「うーん、やっぱり自分が何をしたいのかよく分からないんだよね。ゆきのんは?」

 

 

「私は法科大学院に進むつもりではいるわ」

 

「え、院に行くの?」

 

「ええ。私法学部だし、司法試験も受けるつもりよ」

 

「わぁ、ゆきのん弁護士とかになるの?」

 

「どうかしらね。将来のことはまだそこまで考えてないけれど、国際弁護士なんかはいいかなとは思ってるわ」

 

「ええ〜すごいかっこいいよゆきのん!」

 

「まだ決まったわけじゃないわ」

 

「いやいや、ゆきのんなら絶対なれるよ!凄い弁護士になれると思う!」

 

「ありがとう。でも別に弁護士だけが進路ではないわ。検察官とか裁判官、官僚とかの他にも進路もあるし」

 

「あー確かに、でもどれも私にはもう全然住む世界が違う感じ…」

 

 

「そこまで多い職ではないわね」

 

「でも、ゆきのんならなんか似合いそう。エリートって感じがして」

 

「別に私はエリートでもなんでもないわ」

 

「そんなことないよ。私が会った人の中ではゆきのんは間違いなくトップレベルだよ」

 

「そうかしら」

 

「うんうんそうそう」

 

彼女は笑顔で頷いた。

多分、心から思ってくれているのだろうと、その純粋さに溢れた笑顔で察しがついた。

その思いは本当にありがたいけど、私はそんな優れた人間じゃない。

それを一番自分が理解しているからこそ、彼女の言葉は歯痒かった。

 

「由比ヶ浜さんは興味がある業界とかはないの?」

 

「ないこともないんだけどね。化粧品の会社とか、ファッション系とかは結構見てるんだけど」

 

そう言う彼女の表情はあまり良くなかった。

 

「何も悪い選択肢だと思わないのだけれど、何か問題でもあるの?」

 

 

「ほら、私ってゆきのんみたいに頭いいわけじゃないしバリバリ働くみたいなのは向いてないような気がして」

 

「別に勉強の成績だけが仕事に必要な能力じゃないわ」

 

「そうだけど、私はやっぱりゆきのんみたいに上手くやってく自信ないんだ…」

 

「私だって、別にそんな大したことないわよ」

 

「そんなことないよ。いつもいろいろ頑張ってて凄いって思うんだ。私にはできないことどんどんやってくし、ほら高校の時も……」

 

そう言いかけて彼女は何かに気づいたように言葉を止めた。

そして気まずそうな表情でごめんと謝ってきた。

 

「どうして謝るの?」

 

この質問は少し意地悪だ。

だってその理由は私もわかっているのだから。でも私は知らぬフリをして平静を保とうとした。

 

「いやぁ、あんまり話したくないかなって…」

 

そう言う彼女の表情は本当に申し訳なさげだった。頭を低くしてまるで親の顔を伺う子供のようにこちらを見ていた。

 

「いいえ、大丈夫よ。むしろあなただって、いい気分ではないわよね…」

 

そう私が言うと彼女は本当に小さく「うん」と頷いた。申し訳なさそうな表情をしたまま彼女はアイスティーに少し口をつけて、そっとテーブルに置いた。

彼女はどんな言葉を言えばいいのか分からないでいるのだとすぐに分かった。

そして私も、どんな言葉を投げかけたらいいのか分からなかった。

私達はそのまま無言の時間を数分続けた。

彼女はずっとカップや手元に目を落として、私はそんな彼女を見たり、定まらぬ心の中を外の景色に移そうとした。

 

 

「ゆきのんは、どう思ってる?」

 

伺うような形で彼女は聴いてきた。

 

「私は、、、」

 

上手く言葉が出ない。

思うことはたくさんあるけど、いざ他人にそれを言うとなると上手く感情がまとまらない。

そんな悩む私に気を遣って、彼女は質問を変えた。

 

「ゆきのんは高校の時のこと思い出すことある?」

 

「ええ、勿論よ」

 

「その、辛いこととかも?」

 

「……ええ」

 

「やっぱり…そうだよね」

 

酷く同情するかのように彼女は小さく言った。

私にとって高校は私の人生の中で最も大切で影響的な瞬間だった。

初めて友人というものを持てた場所だった。それまでの私とは違う新しい自分と出会えた気がしたし、楽しい時間が1番多かった気がする。

ただ…。ただ最後を除いて…。

私達は最後に崩壊してしまった…。

 

だから、思い出すことはあっても、懐かしむことはあっても、最後は辛い記憶になって押し寄せる。

楽しいことばかりではなくて、否応なしに辛い現実を突きつけられた。

だからもう、あまり考えないようにしていた時期もあった。

だけど、忘れようとすること自体も、思い出すのと同じかそれ以上に辛かった。

 

 

「でも、でもね…私は、だからって高校生の時を全部悪くはしたくないんだよ。最後は、辛かったけど、それでもあの時間を私は否定したくないの」

 

彼女は小さく拳を握っていた。

 

「ええ… そうね、それは私も思うわ…」

 

「なんかさ、卒業してからは私もゆきのんも高校のことあんま話さなくてさ… すごく気まずくて避けてて…。でも本当にそれが辛くて… 大事だった時間を見ないでいるなんて凄く辛くて…」

 

「ええ…」

 

「でも、思い出したら、思い出させちゃったらそれもまた辛いかなって思って…。結局、私はいつも何もできなくて…。ごめんね…」

 

「だから、由比ヶ浜さんは悪くないわ…。もし由比ヶ浜さんが悪いなら私なんてもっと悪いのよ。由比ヶ浜だけがそう責める必要はないわ」

 

「でも、でも…」

 

「違うのよ。由比ヶ浜さん。悪いのは私よ。家のことを不用意に彼に頼んでしまった私が原因なのよ。家庭のことを部活にまで持ち込んでしまって…だからわたしが悪いの…」

 

「ゆきのん……」

 

「由比ヶ浜さんは何も悪くはないわ…。彼もそう…。私が巻き込んでしまった…。彼が責任感の強い人だって分かっていたのに彼を頼ってしまった… 」

 

私は彼女と、そして彼に多大な罪悪感を抱き続けていた。

それは私達の関係を壊してしまった罪。

それは私はもちろん、彼女にとっても大切な時間であったはずだった。

なのに私は解決できるはずのない問題を彼に押し付けて、結果的に私達の関係性を壊してしまった。

彼女が彼に好意を抱いていたことはずっと知っていた。私達がくだらないプライドでぶつかってしまった時も、彼女はいつも真っ直ぐな純粋な気持ちで向き合ってくれた。

それにも関わらず、私は彼女の大切な人を奪ってしまった。

 

こんなのは償いきれる罪じゃない。

彼女は優しいから、決して私を悪く言うようなことはしないし、そんなことを考えもしないのかもしれない。

私はそんな彼女に甘えて、彼が欠けた状態で今日まで関係を続けてしまった。

きっと誰よりも傷ついているはずなのに。

それでも彼女が私に向ける表情はいつも暖かかった。

 

「ゆきのん、私はね別に誰も憎んでなんかいないよ。確かに悲しかったけど、誰も憎いなんて思ってないよ…」

 

彼女の目は真っ直ぐ私を見つめていた。

 

「だって、だってさ、そんなの嫌だもん。誰かのせいにして、誰かを憎んだってどうにもならないし、多分そっちの方が私には辛い気がするから…」

 

彼女の目にはいつしか涙が溜まっていた。

昔見たものと同じ、そんな表情だった。

辛くても、悲しくても、真っ直ぐな想いがある表情だった。

そんな彼女を見て、私の目にも涙滲み始めたのが分かった。

こんな場所で、他に客がいる場所で泣きたくはなかったけれど、それでも涙は溢れてくる。

お互いに必死に堪えて、嗚咽を噛み殺して溢れ出る感情を抑えようとした。

 

嗚呼、私達は結局昔と変わらないのだ。

変われないのだ。

過去に後ろ髪を引かれ、新しい自分に、変わった自分になろうとしたけど、過去に置いてきた想いはあまりに大きかった。

まだ私達は高校生から一歩を踏み出せないでいたのだ。

 

 

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「ねえ、ゆきのん。ゆきのんも、何かあるんでしょ」

 

こみ上げ、溢れる感情に飲み込まれて、一頻りに涙を流してようやくお互いに落ち着きを取り戻した頃に、彼女は口を開いた。

 

予想外の彼女の言葉に私は驚いた。

が、その彼女の言いたいことが私にはよく分からなかったのでその質問の意味を聞き返した。

すると「今、悩んでることだよ…」と答えてきたので、私はまた驚いた。まさか気付かれているとは思わなかったからだ。

 

「あるんだよね?ゆきのんも」

 

「気付いてたのね…」

 

「なんとなく、ね。なんかそんな気がした」

 

「なんか、ごめんなさい…」

 

「なんで?いいよ別に。むしろ、聞いておいて変だけど、聞いちゃってごめんね」

 

彼女の声はまたも申し訳なさげだった。

でもそれでも聞いてきたということは彼女なりの優しさなのだろう。本当にこの子にはいつまで経っても敵わない。そう心の中で言って、私は一つ深呼吸をして心を整えた。

 

「私は大丈夫よ」

 

「うん、そっか」

 

「ええ」

 

そうしてまた沈黙が流れた。

第一、私がここ数日ずっと頭を悩ませていたことは彼女に教えるつもりはなかった。

何故ならそれは、私の姉のこと、家族のことであるからだ。

そして、その私の悩みを彼女にまで背負いこませ巻き込みたくなかった。

だから私1人でどうにか区切りをつけようと思った。本来そうしなくてはならないから。

 

自分の家のことを友人まで巻き込むなんてあってはならないはずだ。

だって、独り立ちもしていない私が、同じく独り立ちしていない友人に相談したところでどうにもならないことくらい分かりきってることなのだから。

 

だから私は、本当ならさっき悩みなんてないと嘘を言うべきだったのだ。

そうでなくては、また私は友人を巻き込んでしまう。

そんなこと分かってたのに、分かっていたはずなのに、私はそんなたった一つの嘘をつけなかった。

 

彼女の優しさに甘えてしまった。

本当に最低だ。

私は本当に弱い人間だとつくづく思い知らされる。

でも、今の私には一人でその悩みを背負いこむことができそうにない…。

だって、私は弱いから…。

自分に失望する。

 

ごめんなさい…。

 

 

 

[newpage]

 

 

 

 

そうして、私は先日あったことを全て話した。

姉が帰国したこと、婚約するということ、家族のこと、親達の仕事のこと、全てを話した。

 

彼女はそのことをただ黙って聞いていた。

姉が婚約すると言った時は少し驚いた表情を見せたけれど、それでも何かを口にすることはなくただ黙って聞いていた。

 

私が全てを話し終えると、彼女はふーっと小さく息を吐いて「そっか」と小さく言った。

 

しばらく頭で状況を整理しようとしたのか、彼女は少し黙ったまま目を瞑っていた。

そして、ふと目を開けて言った。

 

「その藤原って人はどんな人なの?」

 

「見ただけでは好青年って感じ……だけれどなんかこう、それでもでき過ぎたような雰囲気だったわ」

 

「でき過ぎた雰囲気?」

 

「表現するのが難しいのだけれど、言ってしまえば姉さんみたいな感じかしら」

 

「あぁ なんとなくわかったかも」

 

「その藤原って人のお父さんってさ、なんかニュースでよく見るよね、お金とかの問題で」

 

「そうね。昔から色々黒い噂の絶えない家族よね」

 

藤原という一族は、日本の政界のみならず財界にも名を馳せるいわゆる名家と呼ばれる家柄だった。古来はあの藤原摂関家の流派でそれなりの高官であったものの、その後江戸時代までは中級貴族という程度だった。しかし明治維新後は日本の近代化の波に乗りに海運業や金融業を中心に事業を広げ一大コンツェルンを作り上げた。20世紀に入ると政界にも進出し、戦前までは貴族院議員として活動し、戦後も財界に多大な影響力を持ちながら一族を政界に輩出し続けていた。

事実、姉の婚約者の父親である藤原厚聡は現国土交通大臣であり、祖父も旧大蔵大臣や外務大臣を歴任していた過去を持つ。

しかし、藤原一族は常に不穏な噂と共にある一族でもあった。それは反社会勢力との癒着、政治資金や他分野への圧力など数え切れないほどだった。

少し前にも政治資金問題がメディアで取り沙汰されたが、結局は証拠が出ず不起訴処分となり彼等が裁かれることはなかった。

 

「本当にそんな人と結婚するの?」

 

「らしいわ」

 

「それって、ヒッキーは知ってるの?」

 

「多分だけど知らないと思うわ…」

 

彼女から彼の名前を聞いたのは、本当に久しぶりかもしれない。これまでお互いに気を使って彼に触れないようにしていたから。だが、この問題を彼女に口にした今、彼女が彼のことを気にするのは当然だ。

 

「陽乃さんはヒッキーと連絡とか取ってないのかな」

 

「あの態度だもの、おそらくとってないでしょうね。第一、お互い連絡先なんて知らないでしょう。私だって姉さんの連絡先は知らないもの」

 

「じゃあヒッキーにはどうするの?」

 

「正直、どうするべきか悩んでいたの… そもそも由比ヶ浜さんにだって言うつもりはなかったし…」

 

「ヒッキー、今どうしてるんだろう」

 

「分からないわ。もうずっと連絡も取ってないもの…」

 

「私も…。小町ちゃんとはたまに話すんたまけど、ヒッキーとはなんか話しにくくて…」

 

「そうね…」

 

彼とは高校卒業以来、ほとんど会っていないし連絡も取り合っていない。彼は成人式にも同窓会にも来ていなかったし、彼に無理して連絡を取るのもどこか憚られた。

仮にもし連絡をとってもどんな言葉を言えばいいか分からないし、無理して社交辞令のような関わりをするなんて、彼も私も一番嫌ってたのだから。

 

そうして、私達は月日は流れて今日に至る。

お互いに気まずさと遠慮の中で、2度と戻れない過去の後悔と悲しみから逃れようと、忘れようとした。

それでも結局どうにもならなかった。

 

この後悔はきっと、このままでいても消えることはないのだろう。

時間は解決してくれなかった。

それ程に私達にとってあの時間は、あの場所は大切なところだった。

だからもう一度、やり直したい。

昔のようにならなくていい。

全てが修復しなくていい。

ただ、今のままで、何もしないままで、

ただ移ろいゆく時間に流されていることだけはもう絶対に嫌だ。

 

だから私は言った。

 

「比企谷くんに、言いましょう」

 

 

 

 

 

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「よう。久しぶり、だな」

 

数年ぶりに顔を合わせた彼が私達に最初に言った挨拶は、彼らしいそんなぶっきらぼうな挨拶だった。

「久しぶり」と私が落ち着きを装って返すと、隣にいた由比ヶ浜さんも「久しぶりヒッキー」と昔みたいな明るいトーンと少し緊張して大人しめの雰囲気が混ざったような挨拶をした。

 

 

私と由比ヶ浜さんが、彼に話をしようと決めてから小一時間が経っていた。

場所は私達が当初いた表参道から、彼の大学近くにあるドトールコーヒーに移った。

 

由比ヶ浜さんが比企谷くんを呼び出そうと彼に電話をした時、彼は酷く驚いた様子だったそう。おそらく彼にとっては予想外の電話の主だっだのだろう、電話から漏れる彼の声は最初はかなり戸惑っていた様子だった。

電話越しの軽い挨拶を済ませて、彼女が彼に話があるからと言って、会えないかという節を伝えた。

それを聞いた彼は「うっ」と困ったように言葉を詰まらせて暫く黙って考えたあとに昔のようにため息を吐いて「分かった」と言った。

当時、彼は大学にいるとのことだったので私達はわざわざ呼び出したのだからそっちに向かうと告げて電話を切った。

その後彼の方から、早稲田駅近くのとあるカフェでと指定のLINEが入った。

 

店には私達の方が早く着いて、5分程度待っていた。

その間、冷静になって考えてみると数年ぶりに顔を合わせるという事実を思い出し、私達は緊張し終始そわそわした落ち着かない雰囲気だった。

 

だがこうして彼と顔を合わせてみると、彼のその昔と変わらぬ気怠そうな態度に私達は少し呆気を取られていた。

というのはこんなにも私達は緊張していたのに、かれの態度はあっけらかんとしていて私達との温度差に少しショックを受けた。

 

彼は挨拶をすると、つけていたマフラーを私達の正面に置いてレジに向かいコーヒーを一つ注文してまた席に戻ってきた。

 

「あ、ヒッキー今まで何してたの?」

 

「大学の図書館で課題」

 

「そ、そうなんだ。ごめんね呼び出して」

 

「いや、まぁいい」

 

「学校のほうはどう?」

 

「まぁ、それなりには」

 

「なんか、雰囲気変わったね」

 

「そうか?」

 

「うん、なんか昔より大きくなった気がする…。髪も少し伸びて、大人っぽくなったっていうか」

 

「まぁそうなのかもな」

 

由比ヶ浜さんは、おそらく久しぶりの気まずさの流れるこの空気感をなんとかしようと話題を振ってるのだろう。でも彼の答えは素っ気なかった。

ただ、彼女の言うように数年ぶりに会う彼は昔とは随分と雰囲気が変わっていた。

指摘した通り、背も心なしか高くなったような気がするし、顔をつきもかなり大人びていて、体も肩幅が昔よりあって、服の上からでも分かる腕まわりの太さがあった。

 

 

「いろはちゃんは元気にしてる?」

 

「まぁ、あいつはいつも元気だ。昔と良くも悪くも変わんねぇよ」

 

「そっか」

 

「ああ」

 

相変わらず彼の態度は素っ気ない。

いや、むしろ私達を煙たがっているようにさえ思えた。

おそらくその雰囲気は由比ヶ浜さんもなんとなく察しているようで、彼女の声のトーンは少しずつ落ちていった。

 

「で、話って何? こんな話をするためにわざわざ呼び出したのか」

 

彼はコーヒーを飲みながら、冷たく言った。

 

「あ、いや、もちろん違うよ!大事な話というか伝えたいことがあって…」

 

「なら、その話を早くしてくれないか。こっちも忙しいんだ」

 

「あ、うん…ごめん…」

 

冷たい彼の態度に由比ヶ浜さんはかなり気を落として、困った表情で私を見た。

私はうんっと頷いて、彼に私から話すことにした。

 

「単刀直入に言うわ。話というのは私の姉さんのことよ」

 

「そうか。で?」

 

 それを聞いて彼は少し眉を動かして、こちらを見た。その表情はどこか睨んでいるようにも思えるような鋭い目だった。

 

姉のことは多分、彼が思っていたと思う。最後は誰よりも姉の近くにいたし、誰よりも理解していたと思うからだ。

だからこそ、これから彼に言うことは、彼にかなりの動揺を与えるかもしれない。

でも、

私は彼に伝えるべきだと思った。それが義理だと思うし、私の責務だと思うからだ。

誰よりも姉のことを案じていた彼に黙っているのは無礼だと思うからだ。

 

私は小さく深呼吸をして意を決して彼に言った。

 

「先日、姉さんが日本に帰ってきたの」

 

その言葉を言った時、怖くて私は彼の顔を見ずに視線を落としていた。

彼の表情を見るのが怖かったからだ。

 

私は言うと、ゆっくりと彼の顔に目線を移した。

だが、驚いたことに彼は表情を一切崩してはいなかった。

そして「うん。で?それで何かあるのか?」とまたしても呆気らかんと聞いてきた。

私はあまりの予想外の彼の反応に言葉を詰まらせた。

そして隣にいた由比ヶ浜さんもたまらずに

「ヒッキー、驚かないの?」と聞いた。

 

その問いに対し、彼は「別に」とやはり素っ気なく答えた。

私と由比ヶ浜さんはその彼の態度に困惑した。

私達が想像していた彼の反応はこんなものではなかった。形はさまざまにせよ、何かしら動揺を見せると思っていたのに。

 

結局彼は、その後も顔色一つ変えることなく淡々と私達の話を聞いていた。

 

そんな彼を見かねて由比ヶ浜さんが聞いた。

 

「ヒッキーは、もう陽乃さんのことどうでもいいの?」

 

その問いを聞くと、彼はコーヒーカップに口をつけたままギロっとした目をこちらに向けた。

そしてそのまま私達を一瞥すると、カップを静かに置いた。

 

「時間っていうのは、いつもあらゆるものを変えちまう。変わらないもの、変化しないことにだって正義はあると思っていた。でも、もうそんなことを言ってる場合じゃなくなったんだ」

 

「どういうこと?」

 

「言葉の通りだ。お前達の言いたいことは分かった。わざわざ伝えに来てくれてありがとな。でも、これからはこの件については別に俺に配慮とかする必要はない」

 

そう言って彼はカップの入ったトレーを持って立ち上がった。

 

「ちょっと、ヒッキー⁉︎」

 

「すまないな。久しぶりの再会だけど、俺にもやることがあるんだ」

 

そう言って彼は踵を返した。

私もたまらず立ち上がって彼を呼び止めた。

 

「あなたが今日までどう過ごして、どうなったのかは聞かないわ。でも、これだけは教えて。貴方は姉さんとはなんとも思っていないの」

 

聞くと彼は立ち止まった。

 

「それはお前達が思いたいように思ってくれて構わない」

 

「意味が分からないわ…!」

 

「雪ノ下」

 

「何よ」

 

「俺はもう、昔の俺じゃない」

 

彼はこちら振り向くことはなく言った。

そんな彼が、ただこちらに向ける背が、私には昔よりずっと大きく見えた。

そして数歩離れた私達と彼の距離はあまりに遠く見えた。

 

「今日は気を遣わせちまったんだろうけど、今後はもうその必要はない。俺に無理に関わろうとしなくていい…」

 

と彼は最後に言って店を出て行った。

数年ぶりの私達のようやくの再開は、感傷や懐かしさに浸ることもなく一瞬で終わった。

私達は、ただ現実を受け止めきれず、彼の背中を呼び止めることもできなかった。

 

あるのは耳に響く店内の騒がしさと、まるでそこから切り離されたように静かな私達のテーブルの静けさだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

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店を出ると「もういいのか」と出口のすぐ横から呼び止められる声がした。

 

俺はその声を聞いてすぐにその声の主が誰かと分かった。俺はため息をついて、そちらに振り返った。

 

「お前ついてきてたのかよ」

 

と言って俺が睨むと、そのイケメンはすかした感じに「いいだろ別に」と言って笑ってみせた。このむかつく顔は高校時代から変わらないが、むしろこの食えない感じがこの男、葉山隼人を表す俺の中での一種の彼らしさであった。

 

「お前、実はストーカーとかやってんじゃねぇだろうな」

 

「まさか。むしろ僕はされる側だよ」

 

「そんなことを平気で言うあたり、お前、本当むかつく奴だな」

 

「なに、君の悪い冗談に冗談で返しただけさ。それに俺をわざわざ呼び出しておいてを途中で中断させて彼女達のところに行ったのは君じゃないか」

 

「仕方ねぇだろ。呼び出されたんだから」

 

「別に責めてはいないよ。君達の関係はよく分かってるつもりさ」

 

「ならほっとけよ」

 

「でも彼女達は俺の知り合いでもあるんだ。顔を見るくらいいいだろ。一応は配慮して君達に気付かれないようにしてたんだから」

 

葉山は変わらずすかした笑みを浮かべながらそう言った。

こいつのこの余裕っぷりは本当にどうにかならんのか。いつも小馬鹿にされてる感じがするんだが。

俺はそんな葉山の態度に多少の苛立ち(いつものことだが)覚えて葉山のいる方向と逆方向に歩き出した。

 

すると少し遅れて、背後からも足音が聞こえた。

 

「それで、本当にこんなに短くていいのか?久しぶりに会ったんだろ」

 

「用件は満たした」

 

「それにしても短か過ぎるだろ?少しは話せばよかったのに。あの態度は流石に酷いぞ」

 

「まさかお前、会話まで聞いてたのか?」

 

「少しだけだよ。でも、彼女達のあの反応を見れば君が何を言ったのか簡単に想像つくよ」

 

「分かった口で言うなよ」

 

「でも事実だろ?だから聞いてるんだよ本当に良かったのかって」

 

「良かったか良くねぇかなんてわからねぇよ。でもこうしなきゃいけないんだろ」

 

「彼女達はきっと傷ついてるぞ」

 

「だろうな」

 

「それでも君はあの態度を取るのか」

 

「ああ」

 

「そうか…君はそうするんだな」

 

「文句あんのか」

 

「いいや。別にないよ。君達の関係だ。僕はそこに介入するつもりはない」

 

「ならグチグチ言ってくんなよ」

 

「これでも一応は心配してるんだ」

 

「ならそれは余計なお世話だ。これは俺が選んだ選択だ。こうするしかねぇんだよ」

 

「それは、残酷だな」

 

「あいつらのためでもあるんだ」

 

「彼女達には何も話してないんだな」

 

「当たり前だ。言えるわけねぇだろ」

 

「彼女達はそんなことは望まないと思うけどな」

 

「だろうな。だからこうして無理やり距離を置いた方がいいんだ」

 

「彼女達が望んでいなくてもかい」

 

「ああ」

 

 

そうしてそのまま俺達はその距離感を保ったまま、何の言葉を発することもなく西に5分ほど歩き続けて早稲田通りに出た。

 

「お前どこに向かってんだ」

 

「高田馬場までかな」

 

「ならさっき早稲田駅で地下鉄に乗ればよかっただろ」

 

「俺は歩きたいんだよ。そういう君こそ家に帰るならさっき地下鉄に乗れば良かっただろ」

 

「電車に乗る気分じゃねぇんだよ」

 

「ならお互い様だ。いいだろ」

 

そう言って俺の背後で葉山は得意気な顔をしていた多分。

振り向いてはないからその顔を実際見ていないが、きっと奴は得意気な顔をしているはずだ。そうに違いない。俺はその顔を見たくないから振り向くことはなかった。

 

「なぁ、ひとつ聞いていいか」

 

「なんだよ」

 

「どうして、君は彼女たちに言わないのに、俺には言ったんだ」

 

「お前の家族が関係者で多少の情報を持ってると思ったからだ」

 

「ならあの人のことだけ聞けばいいだろ。君がこれからやろうとしてることまで俺にわざわざ言う必要がない」

 

「理由は簡単だ。その方がいいからだ。俺1人じゃできることなんて限られてる。だからお前を利用する。それだけだよ」

 

「それで俺が拒否するとは思わなかったのか」

 

「思わなかったな」

 

「君にはお見通しってわけか」

 

「利害関係は一致してるんだからいいだろ」

 

「まぁ、そうだな…」

 

 

外はすっかりと暗くなり、時刻は19時になろうとしていた。12月にもなると風が当たると随分と寒くなる季節だ。と同時に、クリスマス商戦、年末商戦が近づき、毎度同じように街は煌き始めていた。

俺達の心とは裏腹に、輝く街が憎たらしか思えた。

街を行き交う人々が毎年のようにうかれて馬鹿な奴等だと思えて仕方なかった。

 

いや、そう思いたかっただけなのかもしれない。そうしないと今にも崩れ落ちそうな傷付いた心を保てそうにないのだ。

誰かを見下して、自分はあんな奴らとは違うと差別化して自分を保とうとするなんとも愚かな行為だと分かっている。

でも俺にはそれしかできそうにない。

きっともう、俺達は過去のようには戻れないのだから。

 

 

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車の窓から外を見ると、高く聳える高層ビル群が私を見下ろしていた。

重々しく、威張ったようなその外観は私にとって、気に食わない存在そのものだった。

 

こういうビルに日常的に足を踏み入れる人の多くはきっと、社会の上層部にいる人達なんだろう。

有名な大企業か、流行りの外資系企業か知らないけど世間から見れば高給取りが、あの窓から下界を見下ろしているのだ。

 

きっと彼らはブランドのスーツを着込み、一丁前に整髪して、心の奥底では自信を振りかざしているのだ。

 

別にそれ自体に文句はないけど、見栄っ張りみたいに見せつけてくるのはやめて欲しい。

本当に馬鹿な人たち。

私はため息をついた。

 

ビルの間を縫うように走るこの黒い高級車は「いかにも」っていう感じで今ではあまり好きではない。

運転手付きの車なんて乗り飽きた。

たまには自分で好きなように運転してどこかに行きたい。昔のように。

 

「陽乃様、もうすぐで目的地に着きますのでご準備をお願いします」

 

と運転手が言った。

 彼は雪ノ下の家が昔から雇っていた運転手ではなく、最近新たに私や母の移動の時に送迎や世話をするために雇われた秘書だ。

 私は別にいらないと言ったけど、相手方の好意だからと母の一言で、結局はこうしてハンドルを握っている。

 

私はそんな運転手の言葉に分かったわとただ一言言って、バックから化粧ポーチを取り出し、その中にある手鏡で一応の身嗜みを確認をした。

 別にこんなことする必要ないけど一応ね、一応。こういう動作をすることで、乗らない気持ちに踏ん切りをつけて、無理矢理にいつも通りの自分を演じるための一種のルーティンをしているのだ。

 自分が綺麗だなんてことは自分が一番分かってる。だから化粧なんて直さなくても、十分に私は人前に出られる。

 聞き飽きたお褒めの言葉に、丁寧に感謝を伝えてその場を取り繕う。そして、みんなが大好きな愛想がいい自分で相手をする。

 毎日それの繰り返し。飽きることを通り過ぎてもはやそれが癖みたいになってしまった。本当の自分はどこへやら。もしかしたら、もう自分がしたいことなんてとうの昔に忘れてしまったのかもしれない。

 

 

 車は次第と高級住宅地に入っていった。場所は高級住宅地の一角を成す元麻布。都会の喧騒から大して離れてもいないところにその場所はあり、一度その住宅地の中に入れば、そこに立ち並ぶ家の形や大きさや駐車されている車の車種を見れば、この地域に住む人間の経済力なんて簡単に想像することができる。

 家の広さは私の実家とそこまで変わらないけれど、ここは東京の一等地であり、実家のある千葉とは地価も物価も違い過ぎる。つまり、この辺に住んでいるのはさらなる高所得者であり、ここに住むこと自体がブランドでもある。

 私の目的地はそんな街の屋敷だった。高く白い塀に囲まれ、中を覗くことはできない。塀の上から顔を出す二階部分を見るだけでも、それはいかにも高級住宅を思わせる重厚さのある造りがうかがえた。

ハイヤーはそんな屋敷の門の前に止まった。大きな門の横には藤原という名の表札があった。運転手は慣れた具合で素早く降りてインターホンを押して、私側の車のドアを開けた。

 一応私は礼を言って車を降りると、タイミングよく屋敷の門が開いた。そこには運転手と同じようなスーツを着た男が立っていて、「ようこそお越し下さいました」と言ってお辞儀をしてきた。その瞬間、この屋敷の使用人か何かと私は直ぐに悟って、社交辞令的な挨拶を二言、三言言った。

 

 

 「では、こちらへ」

 

使用人は私を門の中に通した。様々な植物が植えられた小さな庭を通り、いかにも重々しいの扉が現れた。こんな屋敷だから、きっと防犯という側面もあるのだろうけれど、それでもどこか来客を威圧するかのような大きな玄関扉は、来る者を歓迎している様子などこれっぽちもなくて、あるのは見せつけるような権力と金の暴力の雰囲気だった。

 使用人はそんな物々しい玄関扉を開けて、私を中に迎え入れた。入った屋敷の中は、もはや想像通りの様相で、吹き抜けの高い天井とやはりここも物々しい置物や絵画がいくつも飾られた、それはそれは大きな玄関だった。そして、そんなまるで絵に描いたような金持ちの玄関には、家主たちの靴は一足も並んでいなかった。きっと脱いだ後に使用人達がしまっているのだろうけれど、それによってこの玄関の広さが誇張され、まるで生活感のない、無機質で冷たく無機質な、寂しさを感じるような玄関だった。

 

「ご家族様はダイニングにおります」

 

「そう。出迎えはないのね」

 

「ご主人様達は非常にお忙しい方々ですので、こうして皆がお集まりになるという機会があまりないということらしいので…」

 

「家族の団欒をしたいから、客人であっても出向けないと?」

 

「いえ、そいうわけでは…」

 

「いいわ、別に出迎えなんて必要ないもの」

 

「申し訳ございません」

 

「いいのよ」

 

 この藤原という一家は婚約者の家であるはずの雪ノ下家を下に見ている。まあ、それは言ってしまえば当然の話で、藤原家と雪ノ下家では持ちうる社会的地位も権力も経済力があまりに違いすぎる。藤原家は代々貴族の家系であるし、今日まで権力闘争の中に身を置き、敵対する者達を徹底的に潰し、地位を確保してきた一族だ。政界だけでなく、財界にも強大な影響力を持ち、一時は日本のGDPの5%以上は藤原系列の企業が生産してるとまで言われていたほどで、それに対して雪ノ下家は所詮、県議会議員と中小企業の経営者に過ぎず、地元ではそれなりの影響力が持てても国家に仕え、世界中でビジネスを行う巨大コンツェルンを経営する藤原家の前では敵うはずもないのだ。

 そしてこの一族は徹底した階級主義に生きている。熾烈な競争の中で揉まれた彼らは倫理や良識なんてものは二の次で、常に誰かの上に立つことが正義なのだ。勝つために、常に上下関係を徹底する。そのために、今のように自分たちより下だと見なしている人間にはこのような非礼は当たり前で、後になって嘘ぱちのふざけた謝罪をして無理やり丸め込むのだ。非礼を受けた人間はたとえ不満があっても、上の位置にいる藤原家に反抗することはできない。

 まったく、本当にふざけた人間達だ。もちろんそんなことは、相手方の人間には言わないけれど、プライドと権力を持った一族の慣れの果てがこれだ。たとえこれから家族になる人間であっても、この仕打ちなのだ。もはや呆れてものも言えない。郷に入れば郷に従えとは言うけれど、こんなのは単なる非常識でしかない。こんな人間がこの国の最上位にいるだなんて、この国もいよいよ終わりね。

 そんな不満を思いながら、廊下を突き当たりまで進むと、いかにもお屋敷と言う感じの扉があり、その扉の中からは聞き覚えのある声を含めた何人かの人達の声が聞こえた。

 私がその扉を軽くノックをすると、ピタリとその声達は止まり、「どうぞ」と声が聞こえた。

 私は「失礼します」と言って扉を開けた。(仮にも婚約者が失礼しますなどという挨拶そのものもおかしいと思うけど)

 

「おお、待っていたよ」

 

そう声をあげたのは扉を開けて正面の席にいた、現国土交通大臣にして現藤原宗家の当主である藤原厚聡だった。

それと同時に彼を除いた4人の人間の視線がこちらに向けられた。奥から、藤原厚聡、その右には玲子夫人、そして夫人に向き合うようにして座る、手前から年齢の若い順に、三男の藤原正義、長女の藤原麗奈、次男の藤原公尭、そして事実上の私の婚約者となっている長男の藤原健吾。

 

「すまない、出迎えられなくて」健吾はそう言って私を見るなり駆け寄ってきた。しかし私は、どうせそんなことは本気で思ってはいないくせにと心の中で思ってしまう。でも私はそんな本心を心の奥底に押しやって、「大丈夫よ。それよりも今日はお招き有難う御座います」これまで何度言ってきたかもしれない、挨拶を彼らに向けて言った。

 

「いや、いいですのよ別に。私達もこうして集まれる機会も少ないものですから、今日はせっかくですし、家族皆で陽乃さんとお会いしたいと思っていましたのよ」

 

玲子夫人は言った。

 私はこの中で、夫婦両名と健吾以外の人間とはこれまで顔を合わせたことは一度もなく、今日が初対面だった。

 健吾の横に座る次男は、スーツを着込み兄よりも鋭めの細い目に眼鏡をかけ、髪をぴっちりと固め上げていて、いかにもエリートサラリーマンなどという言葉を体現したかのような風貌で、その横に座る長女の麗奈は美しく整った顔立ちに、黒の長い髪を流していて令嬢というよりは、どちらかというと今時のインターナショナルチックな雰囲気を出しつつ、タイトめの黒のパンツに白いブラウスに灰色のジャケットを羽織ったカジュアルめな正装だった。

 そして最後、三男の正義は兄達と同じように黒のシックなスーツを着つつも、どこか少し幼さを残したような中性的でいて、兄達とは違ったかなり温厚そうな顔立ちだった。だけど、私は彼についてほとんど知ることがない。次男や長女については健吾や夫人達からいろいろ話は聞いてきたが、三男のことはほとんど聞いたことがなく、存在を知ったのもほんのつい最近だった。年齢は私の四つ下の大学二年生だということは知っているが、彼がどのような人となりなのかは全くの謎だった。

 ちなみに次男は私の一つ下で長女は三つ下だという。私と健吾はアメリカの修士卒だが、次男は学士で藤原系列の企業に就職したため、一足早く社会人をしていて、長女の麗奈も今は大学三年生だという。いずれもここにいる私以外の全員は、慶應大学の出身or在籍(健吾の場合は途中から海外に編入)であり、家系的にも大学の雰囲気的にもいかにもという感じだ。

 

 

「さぁこっちへ」と健吾は私を席まで導いた。私は入ってきた場所から一番近い、主人と向かい合う席に座らされた。健吾は私の隣に座るようなことはなく、元いた席に戻った。普通、婚約者の隣に座るだろと思うが、この家には世間の常識など通用しないことを思い出して私は自分の中の不満を押し殺した。結局、私はこの家族に囲まれるような形になり、なんだか尋問される容疑者のような感じになって、本当に気分の悪いものだった。

 

「陽乃さん。妻も言ったように、今日は私達家族と君が会う機会を設けたいと思って招いたんだ。君のお父さんと私は仕事でも非常に仲良くさせてもらっていてね、今後も非常に仲良くしていきたいと思っているし、君のお父さんには非常に期待もしていてるんだよ。だからこそこれからも私達と雪ノ下家がますます発展しより良いものとしていこうと思っていてね、そのためにも、藤原家と雪ノ下家の架け橋となる君を是非家族に紹介したいと思ったんだよ」

 

「それは御心遣い感謝申し上げます。父がいつもお世話になっています」

 

「いやいや、君のお父さんはよくやってくれているよ。君も知っていると思うが、控える幕張万博に向けて君のお父さんの力は本当に重要でね、今回の万博は国家プロジェクトとして私達もかなりの思いをかけてでやっていて絶対に成功をさせなければならないんだ」

 

 そう藤原厚聡は力強く言った。この男がこのプロジェクトにここまで強く入れ込むには理由は、彼自身が大臣でありながらこの万博の指揮を執る協会の理事を努めているからだった。

 この万博は、昨今ますます注目されているIT及びAI技術を軸に、今後の日本の行末を左右する最新技術や成長産業を世界にアピールする狙いがある。また開催地の幕張は新都心というこれまでの立ち位置をより進歩させ、AI技術をはじめとする最新技術を利用した、近未来都市をイメージしたスマートシティ構想が立てられ、再開発が進んでいる。この万博はその構想に先立ち行われるもので、今後の日本が国際社会でどのような立ち位置にいられるかを試される非常に重要なプロジェクトで、国の力の入れ具合が凄まじいことはメディアを通して報じられていたところだった。

 

 「お義父さまが父に目をかけていただいていることは、娘として非常に嬉しい限りです。ただ、父はお義父さまのように強い人ではございませんので、期待に添えますかどうか心配をしているところでありますわ」

 

「分かっていたことが、実にできた娘さんだ。父親のこともよく見ているようだ。心配しなくとも、今のところ君のお父さんは非常に立派に仕事をしているよ」

 

そう言って彼は愉快そうに笑った。

 

「なら良かったです。今後ともお力添えよろしくお願いします」

 

「ああ、君達家族もよろしく頼むよ」

 

「はい。出来る限りのサポートを約束します」

 

「その言葉を聞けて非常に嬉しいよ。それでは私は行くとするよ」

 

そう言って厚聡は立ち上がった。

 

「あら、もう行ってしまうの」

 

「ああ、まだやるべきことも多いしね、参議院戦も近い。それに今日は陽乃さんを皆似合わせたいというのが一番の目的であったし。私はこれまで何回か会っているし、これからも何度も会うことになるのだしいいだろう。これからは君達が陽乃さんと仲良くしてやってくれ」

 

 そう言っているうちにどこからともなく使用人が現れて、コートや鞄を持ってきた。それを見て夫人は「なら見送りますわ」と立ち上がろうとしたが、厚聡は手で止めた。

 

「いや、大丈夫だ。わざわざ見送りをして場を仕切り直すのは面倒だろう。だから見送りはここで結構だ」

 

「そうですか、ならお言葉に甘えて」

 

 そう2人でのやりとりを聞いて、私を含めた残り全員がその場に立ち上がった。

厚聡が一通りの身支度を済ませて、この部屋を出ようとすると長男である健吾が「いってらっしゃいませ」と言って一礼をするのを契機に他の家族全員が彼に向けて頭を下げた。私もその状況に背中を押されるようにして、それにならって彼を見送った。

 

厚聡はそんな私達を見て「ああ」と言って部屋を後にした。

 

そうして厚聡の足音が聞こえなくなるまで私達は彼を見送った。そして、ガチャンと重々しい玄関のドアが閉まる音がして、初めて各々がゆっくりとまた席についた。

 

そこからほんのわずか静寂が訪れた。

 

見送るという義務的行動が終わり、束縛から放たれて緊張の糸が緩むと、空気感が変わったのが分かった。

 

その移ろいの中で、誰がまた新しい空気を作り出すのか、ここにいる皆が探っているようにも思えた。

 

普段ならば、私もここで何か一つ話を出したりもするけれど、このあまりにも異質な空間の中ではその普段通りの行動すらも、どこか憚られた。

 

これならさっきのように話していた方がまだ楽だった。

他人の家に放り込まれ、自分だけが知らない空間で、ただひたすらに沈黙に晒されるのは苦痛でしかない。

知覚される変化が乏しい状況下においては、気が紛れることもなく、ただ各々が自らの心の中で己に最も素直な思いを巡らせるのだろう。

そしてそれは、場合よっては暗く、残酷で、隠された攻撃的で排他的な心情が蠢いていることがあるのを誰もが知っている。

もちろん、今そんな感情が彼等の心の中に渦巻いている確証はどこにもないだろうけれど、もしそれがあるのならば間違いなく私に向けられているに違いない。

 

この部屋に入った瞬間から晒し者にされた奴隷のようだった。私に浴びせられる奇異とした視線は、そんな感情が彼らの中にあるのではないかと勘繰ってしまうほどに、気持ちの悪さがあった。

だから私はこの静寂が早く終わることをただひたすらに願い続けて、彼等と極力視線を合わさないように、テーブルクロスの模様を目でなぞった。

そうやって意識を少しずらすだけでも、この居心地の悪さが少しは和らいでくれるだろうと期待したからだ。

 

 

「さて、お父さんは行ってしまったけど、今日はせっかく彼女も来てくれたことだし是非ともうちの家族と交流を深めて欲しいと思ってるんだ」

 

そう言って場を仕切り直したのはやはり健吾だった。

彼の言う交流という言葉は少なくとも今の私にとって歓迎されるものではないけど、それでもこれまでの沈黙に比べれば幾分かマシな気がした。

 

「そうね、私も陽乃さんのこと沢山知りたいわ」と夫人も賛成を表明した。

 

その流れに続くように、次男と長女の2人も小さく頷いた。

それを見て、健吾は安心したように笑った。だが、その笑みは不思議にもすぐに消えて、今度は私のすぐ横に座っていた三男の正義を見た。

それに気づいた夫人も正義に向けて視線をやった。

 

ここで一つ不可思議なことがあった。

健吾と夫人が向けた視線は、どこか白々しく次男と長女の2人に向けた視線とは雰囲気が違った。

それはまるで、冷たくどこか怒りを滲ませた、上司が部下に向ける「お前わかってるんだろうな」と脅迫じみた意味を含んだ視線のようだった。

真ん中の2人は視線を向ける2人に気づいていながらも、正義にその視線が向けることはなく、ただ黙って素知らぬ顔をしていた。

 

そんな家族の態度にもちろん本人の正義も気付いていて、家族に目線を向けることもなくふてく「兄さん達がそう言うなら」と低く小さな声で言った。

 

それを聞いて、健吾は納得したのかまた笑った。

その笑みは彼がいつも何かうまくいった時にする笑みだと私はすぐ気づいた。

きっとこの家族もまた何かあるんだろう。

でも、私がそれに介入して話を掘り出すようなことはしないし、するつもりもない。

そんなもの今更興味もないし、変に話題を振って場の空気を損ねるようなバカな真似はしない。

 

だから私は、そんな彼の言葉を聞くや否やこれまで通りの作りきった笑顔の仮面をつけた。

そう、結局変わらない。

どこまでもこういう生き方しかできない。

 

希望なんて随分前から捨てたはずなのに、

理想も夢も何もかも捨てたはずなのに、

 

そんな思いが私の心の中をかすめて、

また私は失望の音を聞いた。

 

 

________________________________________________

 

 

結局あの後、1時間と少しの間、話をした。

藤原邸を出た頃には日は陰り始めていた。

私が邸宅を出る時に、送迎車を回すと言われたが私はそれを断って、一人で帰る旨を伝えた。ようやく解放されたのだから、しばらくは一人でいたかったからだ。

 

そして今、最寄りの六本木駅までの道のりを歩いている。

周りは高級住宅地立ち並び、行きは車に乗ってたからよく見れなかった街並みを眺め歩くことができた。

 

きっと誰もがここを歩けば、お金のことを考えるに違いない。ここに住む者も己の財力を見せびらかすように、家を建てガレージには高級車を並ばせる。

ここ数分歩いただけでも、ベンツ、アウディ、ポルシェ、ジャガー、ランボルギーニ、マセラティのエトセトラエトセトラ。

下手にディーラーなんか行くより、こういう高級住宅地に来た方が高級車の品定めができる気がする。

 

 

会話は健吾が回して、主に夫人と私と健吾の3人での会話で、時折健吾が次男と長女に話を回してみせた。

話が回ってきた2人はそこまで乗り気ではなさそうな感じで、それに応対した。

そして、三男には相変わらず話が振られるようなことはなかった。

 

話した内容は留学時代や家族のことが中心で少しは気が楽に話せたのが幸いだった。

ただ、やはりあの一族の家というのは緊張感が常にあって、家族の私に向ける目線は千葉の地方議員の小娘がどれほどのもなのかと測っているかのようだった。

どんな真意があるのかは知らないけど、いずれにせよ客人向けるその気味の悪い視線を彼等は隠そうともしていない様だった。きっと普段からあんな視線を他の人にも向けているのだろう。

 

 

住宅街を抜けると、ツインタワーマンションと六本木ヒルズが私を出迎えた。

全く、この東京は人を見下ろさないと気が済まないのかしら。

私はそんなビルの谷間を抜け、大通りに出ると、さっきまでの住宅地とは全く違う喧騒が広がった。街は街頭や広告や車両のライトに照らされ、店や道路から絶え間なく騒音が奏でられ、歩道は多くの人間が行き交う。

 

まさに都会の様相と呼べるべきものなのだろうけど、私の心とは裏腹に映る熱を帯びたこの街は、あまりに眩しすぎた。

 

結局のところ私は、人混みを掻き分け、眩しさから逃れる様に地下鉄の駅へと逃げた。

 

エスカレーターで地下に降り、お馴染みの迷路のような通路を抜けて、改札に入ってホームに降りた。

 

「ねえ」と背後で呼び止められた声がした。

 

振り向くと、そこにはさっきまで同じ空間にいた藤原麗奈がいた。

一瞬、予想外のことで驚いたが、私はすぐに表情を整えた。

 

「あら、どうかしました」

 

私は先程までのように、礼節を持って対応したが、彼女の表情は「不機嫌」という言葉が最も当てはまるであろう表情だった。きっと見るからにずっと私をつけてきたのだろう。そして、その表情が意味する不満を私にぶつけようとしてるに違いない。

 

「貴方、本当に健吾兄さんと結婚するの?」

 

「どうして、そんなこと聞くんですか」

 

「質問してるのはこっちなんですけど」

 

どうやら彼女は自分の気持ちを隠すつもりはないようだった。

 

「まだ正式には婚約してないですけど、多分するんじゃないんですかね」

 

「やっぱすんだ」

 

「ご不満ですか」

 

「ええ」

 

「それは残念ですね」

 

「第一、アンタみたいなたかが地方議員の娘が、よくもまぁウチに嫁ごうと思ったものね」

 

「そうですか」

 

「多いのよねぇ、うちの財力と地位を求めて言い寄ってくる人間って。恋愛とかでも仕事でもなんでも。はっきり言って本当に気持ち悪いわ。アンタが兄さんと結婚するかもって話を聞いた時は、アンタもその言い寄ってくる人間の一人って勘繰ったぐらいよ」

 

 

 

「つまり麗奈さんは、私は藤原家に嫁ぐのはあまりに不相応だと言いたいわけですね」

 

「あら、分かってるんじゃない。そう、私は貴方みたいな庶民がこの家に来るのは嫌なの。うちは昔から代々続く名家、そしてこの国を動かしてきた家柄なの。さっきは場の空気を読んでみんなに合わせてたけど、私はウチにアンタみたいな低俗な人が入ってくるのは我慢できないの」

 

今の彼女の態度を形容するのならば、きっと傲慢と呼ぶのが適切なのだろう。彼女自身が自負するように名家のご令嬢として生まれ育ち、きっと手厚く育てられたのだろう。自分の育ちと美貌を自認し、多少の態度の悪さもどうにかなってしまう程の身分というのを持ち合わせているのだと分かった。

 

「なるほど。自分の家に誇りを持ってらっしゃるのですね」

 

「当たり前でしょ」

 

「幸せですか?」

 

「は?」

 

「それで麗奈さんは幸せですか?」

 

「言うまでもないわね」

 

「そうですか。貴方は運の良い人ですね」

 

「何それ」

 

「いいえ。こっちの話です。私は貴方とは全く違うので、多分幸福の基準が違うなと。ただそれだけです」

 

 

「は?貴方如きが私のこと分かったように言わないでよ。言ったでしょ、私とアンタとでは身分も何もかも違うの。私はアンタとは及びのつかないほど違う場所にいるの。アンタが私のことを理解できるわけないでしょ」

 

 

「そうですね。確かに麗奈さんの言う通りです。人間は誰も他人を完璧には理解できない。いつも分かっている気でいるだけ」

 

「そうよ。その通り。分かればいいのよ」

 

「ええ、私も貴方みたいにそう何も考えずに傍若無人で生きていられれば幸せだと思えたかもしれませんね」

 

「は?今なんて言った?」

 

「あら、もう一度聞きたいんですか」

 

「アンタ、本当にムカつくわ」

 

「それは申し訳ないです」

 

「第一、アンタ如きがよく調子乗るなんていい度胸してるのね、それともただの身の程知らずの馬鹿なのかしら」

 

「さぁどちらでしょうね」

 

「私がアンタのその無礼をお父さんやお兄さんに言ったら、この件も破談にしてやれるのよ? そしたら貴方達の欲しい私の家族の地位もお金も全て手に入らなくなるし、何なら敵に回したということでアンタの父親も今後、仕事がうまくいかなくなることだってあるのよ」

 

 

「残念ですけれどそれはない話です」

 

「はぁ?そんなわけないでしょ」

 

「貴方のお父様の目的のために私の父の力がどうしても必要なのはご存知でしょう?だからたとえ貴方がどんな私への不満をご家族の皆様に言おうとも、この縁談は覆らないですわ。貴方のお父様は貴方の不満よりも自分のことを優先させるでしょうから」

 

麗奈はいっそう鋭い視線をこちらに向けた。その視線にはもはや隠すつもりもない、ただ純粋な私への敵意が見て取れた。

 

 

「そして、一つ勘違いしているようですけれど、私自身はは藤原家の利権も地位もお金も全く興味はありません。藤原家に嫁いだとしても、施しを受けるつもりはありませんわ」

 

「なんですって」

 

「言葉の通りです。別に私はお金も地位も今更興味なんてありませんわ。私が嫁ぐことで貴方への損失が出るようなことはありませんしご安心ください」

 

「別にお金の問題だけじゃないわ。私は貴方のような庶民の人間がこの家に入ってくること自体が嫌なの。私達の家は代々由緒ある家系の人間と婚姻関係を結んできたのに、その伝統を破っていきなり貴方のような人間がうちに嫁いでくるだなんて、いくらお父さんやお兄さんの決めたことでも私は納得いかない」

 

「それを私に言われても仕方がありません」

 

「そんなことないでしょ?アンタが拒否すればいいだけでしょ!」

 

「私の拒否だけで、全てが済む話ならこの縁談なんて最初からありません」

 

「何言ってんの?意味わからない」

 

「言葉の通りです。この縁談に私の裁量なんて何一つないんですよ。私は大人達の単なる契約担保でしかないの」

 

 

「麗奈さんは純粋なのね。でも、きっといつか分かる時が来ますわ、私の言葉の意味が…」

 

「じゃあアンタは兄さんのこと好きじゃないの」

 

「どうでしょうね」  

 

「まさか好きでもないのに結婚するつもりなの」

 

「知ってます?この世の中ではお互いに愛し合って結ばれることって結構少ないのですよ

。現実はドラマとは違うんです。叶わなくても夢を見て生きていけるならどれだけ幸せか、いつかあなたも分かる日が来ますよ」

 

私は言葉でたたみかけた。

彼女は私を理解できない困惑した目で私を見ていたのが分かった。

私はそれをいいことに彼女との距離を詰めた。そしてすぐ目の前に立ち、そっと肩に手を置いて、耳元で囁いた。

 

 

「私はね、もう夢を見ることすら忘れてしまったの…」

 

 

遠くから轟音の兆しが聞こえた。その音は少しずつ大きくなってきて、電車のライトが一瞬の間私達を照らし出した。それと共に勢いよく電車は駅に流れ込み、ゆっくりと減速して停車した。そして、どこか懐かしさを感じる音色と同時にドアが開いた。電車からは多くの人が流れ出し、同じくらいの数のホームの人達が一斉に流れ込む。

 

「それじゃあ、行きますね」

 

ドアの閉まる音色が奏で始める前に私は電車に乗り込んだ。

「ねぇ」と背後から聞こえたので私は振り向いて彼女と向かい合うと、ホームに立つ彼女に対して、電車に乗った私は彼女を少し見下ろす形となった。

それでも、私を見上げる彼女の視線や表情は戸惑いと混乱を見え隠れさせながらも、私への敵意を残したまま向けられていた。

 私はその視線と表情をただ黙殺した。彼女に弁明の何かを語ろうとも思わなかった。むしろ私を嫁がせたくないという彼女の敵意が、私をまだ精神的自死寸前のところで踏み留まらせてくれた気がした。

 

結局、彼女が私に何かを語ることはなく電車の無機質なドアは私達を隔て、ゆっくりと電車が動き始める。と同時に私と彼女の距離は次第に遠ざかっていくが、彼女は私を見据えたままだった。

そしてスピードが上がり始め、彼女の姿が窓枠の奥に消えていくその瞬間まで彼女は私を睨んでいたのが私には分かった。

 

ホームが消えて地下鉄は暗いトンネルに入った。窓の外には何も見えなくなると、私は力なくドアにもたれかかった。張り詰めた心が少しは和らいだ気がして、一気に身体が重くなるのが分かった。

まさかこんな満員電車が落ち着く場所になるだなんて私は本当におかしくなってしまったらしい。

暗闇しか見えない窓には私の顔が映っていた。全くなんて酷い顔だろう。力のない目は虚ろそのもので何の光も宿してないようだった。そんな自分の顔が最近では見るのも嫌になってくる。私は小さくため息が出た。

 

するとコートのポケットで携帯のバイブレーションを感じた。取り出して画面を見ると、母からのメールだった。

その内容は、今さっきの藤原家の人達と会ったことについてだ。要は状況報告をしろとのことらしい。

こういう抜け目のないところは本当に母らしい。私は簡潔に今日のことを書いて返信してそのまますぐに携帯を閉じて、バッグの中に放り投げた。

私はまた意味もないため息をした。

 

そしてそのまま、数駅を通り過ぎて日比谷駅で降りて有楽町の方に向かい、懐かしい京葉線に乗り換えた。

 

私は一番最後尾の車両の一番端のドアから乗った。相変わらず京葉線は帰宅ラッシュ時というのもあり混んでいた。

 

実は、今日は都内のホテルに泊まる予定だった。けど私はこの人で溢れた街にいる気にはなれずに千葉に帰ることにしたのだ。

だからといって、実家に帰るつもりにもならなかった。とりあえずこれからの行き先は電車の中で決めようと京葉線に乗り込んだわけだが、私の頭は上手く回らなかった。

そしてそのまま簡単に時間は過ぎていって40分程で実家の最寄り駅が近づいてきた。

 

周りは京葉工業地帯を抜け、マンションや住宅地が見え始める。

帰国してからはずっと東京にいたから、この街に帰ってきたのは数年ぶりだった。ひどく懐かしく感じる街並みはたかが数年で変わるわけはないのに、私はもう随分とこの街から離れていたように感じる。

決していい思い出に溢れていたわけではないけれど、自分が育った街は無機質な東京のりも幾分かは暖かく見えた。

 

私はそんな地元の街をただじっと車窓から眺めていた。

空は随分と薄暗くなってきたけれど、東京湾のずっと向こうの西には今にも地平線に沈みそうな夕日がコントラストになって懐かしい景色が見えた。

夕日は東京でもアメリカでも見えるけど、この街から見る夕日は何よりも違って見えた。

 

結局私はそのまま降りるはずだった駅を通り過ぎた。

ただこの景色をずっと見ていたかった。

私の乗る快速電車は蘇我駅を抜けて、外房線に入ると、街はさらに閑静な住宅地になった。

家の窓から漏れる淡い光は、小さな夕日のようで、無数に連なる家々がそれぞれの夕日を描き出していた。

そんな景色を見ていると、今度は白い雪が舞い始めたのが見えた。

例年よりも早い雪は地表に辿り着く前に溶けて消えてしまいそうなほどに小さく軽そうだった。風が吹くたびに頼りなく舞う向きを変えて窓に弱々しく当たっては溶けていく。

 

あまりにも儚いその光景は、脆く頼りなか思えた。

しかし、電車が動く中で窓を覆うマンションや住宅地を抜け、遙か彼方に夕日を再び見た時に、その雪はそれぞれが煌めきを見せて、窓の外を彩り始めた。

一瞬の、輝きはまるで空を舞うガラスの花弁で、私の目を奪って離さなかった。

ただ見惚れたいたのだった。

私はこれまで見たことがないそんな景色を見ながら頬を伝う冷たさを感じていた。

 

 

 

 

________________________________________________

 

 

Interlude

 

 

 

逢いたい

そう言葉にすると、余計に逢いたい

君との写真を見てしまうと、また会いたい

でも時間は薄情にも流れていって

私はますます「私」のことが嫌いになるの

今では君に会うことすら難しくなってしまった「私」のことが…

 

 

 

この辺りは一面の雪だよ

この街にも冬が来たの

心は時間を走らせて1人残る列車の中

君の手を引いて世界の果てまで行きたい

この冬を終わらせたいの

この気持ちがあとどれくらい降り積もれば君に会えるんだろう

 

 

この黄昏を舞う雪のように、粉雪のように

舞えるのなら君にすぐたどり着けるはずなのに

 

雪の花弁が落ちてゆく

そしてまた少しずつ遠ざかってゆく

 

窓に広がる冷たさは私を映しては

また景色を変えてゆく

 

それは時の流れのように無情にも

通り過ぎてゆく

 

思いを馳せる暇も与えないほどに

 


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