前話まで読み返すことをお勧めします。
比企谷くんがこの店を出て行き、カフェに取り残された私達は、戸惑いの気持ちのやり場に困ったままでいた。
長い間顔を合わせず、数年ぶりの再会だというのに、私達と彼との時間はあまりにも寂しく短いものだった。
こんな再会を誰が予想できただろう。気まずさはあって、多少はぎこちない再開にはなるかもしれないとは思っていた。だが、実際はそれ以上に虚しいものだった。辛い過去があっても時間が経てば少しはマシになるだろうときう微かな期待はいとも簡単に打ち崩されてしまった。
彼の心はもう、私達には向いていないのだろくか、そんなことを考えても答えはでない。
いずれにせよ、彼はは変わってしまった。
何が彼をそうさせたのかは分からない。
だってもう、今の私達は今の彼のことをほとんど知らないのだから。
高校時代、あんなに大切だった時間を共に共有してきたのに、今ではもう彼にはそれすら遠い過去の産物なのだろうか。今では、そんなことを聞くとも難しくなってしまった。
隣に座る、誰よりも彼を愛していた人はこれまでの明るいテンションとは明らかに違うものだった。きっと彼女も、私と似たようなことを考えていたのだろう。だからこそ、彼女の表情はあまりに辛そうだった。
「ヒッキー、帰っちゃったね」
「そうね」
「ヒッキーも忙しい。のかな…」
「そうかもしれないわね」
会話がない時間を何とか埋めようとしているのだろう。由比ヶ浜さんは言葉をなんとか繋げようとするが、私達の間に言葉が上手く繋がることはなかった。
「ヒッキーはもう、私達とはもう会いたくない、のかな…」
「何がいけなかったんだろう…」
彼女はゆっくりと自分の思いを吐き出していくが、私はその言葉に何か言葉で返すことはなかった、返せなかった。私だって彼女と同じようなことを思ったけれど、それを一度口にして同調してしまえば、それが真実となってしまいそうな気がしたのだ。
何を思って、何を後悔して、どんなやり方ならばこんなことにならなかったのだろうか。そんなことをいくら考えていても、答えは出るわけがないのに、私達はただ自分達が納得できる答えを求めて頭の中を彷徨い続けるしかなかった。
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I'm subjected…
朝の見慣れた地元の街を歩いている。
こんな時間にこんなところを歩くなんてどれくらいぶりだろうか。随分と冷え込み始めた12月の朝は、東から上り始める太陽が目にチラついて、私の影を伸ばした。息は白く宙を舞う。きっとこれを清々しい朝だなんて言うんだろうけれど、私にはあまりに眩しすぎた。
先程、地元の駅に降り立ったとき、駅では通勤電車に乗るための人々が押し寄せていた。
わたしはそんな人たちと逆行するように駅を出て、沢山の雑踏とすれ違いながらこの街を歩いていた。
駅から遠ざかっていくうちに、カツカツと私のハイヒールの音が大きく響いた。1人の帰路は頬を掠める風が寒くて、私はコートの襟の中に顔を埋めて歩いた。
いつしか周りは大きな家の立ち並ぶ住宅地に入り、懐かしさはさらに加速した。
駅から歩いて20分ほど、私は数年ぶりに実家の門を潜った。
日本に帰ってきて2週間は経っていたけど、帰国してからは一度も千葉に戻ることはなく家の用事や親の都合に連れまわされてずっと東京でホテル暮らしをしていた。だから私がこの家に帰るのは留学する前以来なのだった。
しかし、自分が育った実家だというのに、私はこの家の懐かしさや親しみを感じることはほとんどなく、どこか他所の家に来たような感覚だった。
今の時間は朝の7時を回ったところ、いわゆる朝帰りというやつだ。まだこの家に住んでいた時はそんなことは別に珍しいことではなかったけれど、帰国して一発目の帰省がこれではきっと覚悟がいるだろう。と私は意味もない覚悟を決めて数年ぶりに実家の玄関のドアに手をかけた。
幸いにも鍵はかかっていなかった。おそらく父がもう家を出たのだろう。最近は何かと忙しそうにしていたし、早朝から家を発つのは昔から変わることはなかった。
私はゆっくりとドアを開けて、中を覗き込んで玄関先に誰もいないことを確認してから中に入ると、懐かしい実家の匂いがした。玄関と廊下の内装は以前と変わらず相変わらず綺麗に保たれていて、こうして久しぶりに見るとうちの家は生活感を感じられない気がした。アメリカに留学していた時は寮の狭い部屋に雑多に置かれた生活品が、安心させてくれたと今になっては思う。
綺麗過ぎる実家は、自分の生家だとは思えないくらいに無機質にさえ感じられた。そんな冷え切った玄関で私は静かに靴を脱いで、2階にある自室へ逃げた。
2年ぶりに入る自分の部屋は意外にも綺麗に保たれていた。
留学前に部屋にあったものを断捨離して部屋にはほとんど物を残してはいなかったけど、長く部屋を空けておけば埃も溜まるものだから、帰宅早々に掃除をしなければならないことになりそうだと覚悟をしていた。しかし物がほとんど置かれていない机を指を這わせても埃を感じることはなかった。ベッドも綺麗に整えられていて、今すぐにでも寝られる状態だった。きっと母か使用人が掃除をしていたのだろう。
私は持っていたバッグを机に投げ捨てて、うつ伏せにベッドに倒れ込んだ。顔が布団に密着すると、これもまた懐かしい香りがした。こんなことはアメリカにいた時には思い出すこともなかったし、考えることもなかったのに、こうして戻ってくると、ああ、こういう匂いだったと、思い出すのはまた少し面白い。
ただ、この懐かしさに浸っていても私の心が穏やかに落ち着くわけではなく、むしろまた私は雪ノ下陽乃として戻ってこさせられたのだと知らしめられたに過ぎなかった。
そう、これは懐かしさやノスタルジーに駆られるような、そんな素晴らしく誇らしい、愛おしく大切な感情ではないのだ。
何も変わっていない。何も変わらない。何も変えるつもりはない。お前は元ある鞘に戻っただけだと、2年前からほとんど変わらない実家がそう私に言ってるのだ。
何も変わりはしないのだ。この家も、この家族も、この部屋も、そして私自身も。
何かが、変わるだなんて期待はしていなかったけど、やはりこうして現実を突きつけられると失望せざるを得ない。いつだって現実は私の前に現れて嘲笑うのだ。
だからもう期待をするなんてやめたのに。
私は仰向けに寝返り深くため息をついた。
冷え切った部屋に私の息は良く響いた。
しかし、それをかき消すように部屋のドアが開けらる音が鳴った。
「こんな朝まで何をしていたの」
とドアを開けた主はナイフのように鋭く、責めるような口調で言った。
その声を聞いて、私はドアの方向を向くまでもなく誰かが分かった。だってそれは、幼稚園児でも分かるような簡単な推理で今この家にそんな口調で私に声をかけてくる人間なんて一人しかいないからで、そしてそれは私の母親に他ならない。
「別に、変なことはしてないわ。少し一人で泊まってきただけよ」
「全く、帰国したばかりなのに、もうそれなの。以前までは貴方のその奔放ぶりをゆるしてきたけれど、もうそんなことが許される年齢ではないのをもう少し自覚しなさい」
「帰国して3週間は経ってるじゃない。それにその間ずっとお母さんやお父さんの仕事に付き合ってたじゃん」
「そんな屁理屈なんて聞いてないわ。もっと大人になりなさいと言っているのよ」
「別に誰にも迷惑をかけてないんだからこれくらいいいじゃない」
「迷惑をかけていないから良いというわけではないのよ。これは貴方の自覚の問題。私生活が堕落は人間性さえも堕落させるのよ。雪ノ下家の人間として、藤原の家に嫁ぐ人間として、恥ずかしくない行動を日頃から心がけなさい」
そう言う母の声は相変わらず昔と変わらぬ厳しいものだった。これは愛情なのか、単なる躾なのか、命令なのかは今でもわからない。ただ私に言えることは、愛情と捉えるには思いやりというものをずっと感じることができないでいた。
母は私が自由に楽しく伸びやかに育つことよりも、母自身が思い描く理想を私に求めることの方が重要なのだ。それこそが母にとっては正しく、何よりも私のためになることだと母は信じている。
だが、私は母の言いなりに行動をしてきて幸せを感じたことなどほとんどない。
母に言われて身につけたこと、習ったこと、学んだことは数多くあって、それを誰かに褒められることは習得してきた数だけあった。しかし、それでも私の中で喜びを感じることはほとんどなかった。贅沢だと言われるかもしれない。しかし、私が身につけたものは私が望んで得たものではなく、母に半分強制されて得たものでしかない。私自身の自由で、望みで、私のやり方で達成されたものではないのだ。自主性もオリジナリティも何もない、私は母親によってブランディングされた作り物でしかないのだと、いつからかそう思うようになった。
そして今も、こうして母に命令されている。
「昨日は藤原さんの家にお邪魔になったのでしょう。まさかそんな態度で会ったわけじゃないでしょうね」
「そんなことするわけないじゃない。やるべきことはやったわ」
「本当かしら」
「娘を疑うの?」
「その態度で、信じる方が難しいわね」
「疲れてるのよ」
「そう。ならしっかり休んでこれからに備えなさい。とにかくもう少し自覚を持ちなさい。貴方は雪ノ下の人間なのだから」
母はそう言って部屋を出て行った。
再び静寂が部屋に広がっているはずなのに、頭の中で母の声がこだまし続けていて煩かった。
私は部屋の中から張り詰めた空気が引いていくのを待って、気怠い冬の朝の冷え切った部屋に憂鬱な記憶から逃げる方法を探していた。
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早稲田大学戸山キャンパスは私の大学生活のほとんどを過ごすキャンパスだ。
早稲田大学の本キャンパスである早稲田キャンパスの少し離れた南西に位置し、文学部と私が在籍する文化構想学部が主に使用しているキャンパスだ。元々は高等部が使っていたけど、戦後に高等部移転と共に現在の使用学部の旧態である第一文学部と第二文学部が使用する運びになったという。
戸山キャンパスはもう使用されて半世紀以上が経つというのに建ち並ぶ建物はどれも綺麗だ。本キャンパスである早稲田キャンパスでないのは少し不満だけど、綺麗な校舎で講義を受けれるのは満足している。
そんなこのキャンパスに実は最近になってスターバックスコーヒーができた。基本的にこの店を使用するほとんどは早稲田の学生だから都内の他店舗に比べれば穴場ではある。
高校時代からスタバの新作は常にチェックしていた私は、本日また新作が出るという情報を聞きつけて、梅子先輩と一緒に校内のスタバにやってきた。
今の時刻は4限の授業中の時間帯で、通常ならばそこまで学生が多い時間では無いはずなのに、スタバはかなりの数の学生がいた。
やはり皆新作目当てなのか、女子学生を中心に列ができていた。
「やっぱり並んでるねー」
私は行列を見て待たされることを想像して萎えている一方で、梅子先輩は相変わらずのマイペースな感じでそう言って、大して動じていないようだった。
「やっぱり新作出る日は空いてるところはないんですかね」
「そうかもね。インスタ映えするのに女の子は目が無いし、なんだかんだスタバ美味しいしね」
「みんな考えることは同じってことですね」
「私達もその例に漏れずだけどね」
「覚悟はしてましたけど、それでもやっぱり並ぶのって嫌ですね」
「こればっかりは仕方ないね。もしよかったら私が並んで買うから、いろはちゃんは席見つけてくれない?」
「え、いいんですか?」
「うん。私はこれくらいなら並ぶのそこまで苦じゃないし」
「すみません、ありがとうございます!じゃあ私探してきますね!」
私はそう言って、並びかけた列を抜け出した。少なくとも列に並ぶよりも席を見つける方がまだマシなので、私は喜んで引き受けることにした。
スタバの商品は店内で飲食する必要は必ずしもなく、持ち歩きながら楽しむ人もいるので、行列の印象ほど座席は混んでいなかった。そのおかげで私は意外とすぐに席を見つけることができた。この店には屋外のテラス席があるけど、さすがにこの冬の時期には避けたいところで、運良く屋内の席が良かった。
私は自分のバッグをテーブルの上に滑らせて置き、そのまま椅子に座って領有権を主張した。こういうのはいかに早く占領するかが鍵で見つけて占領した者勝ちだ。
早々に任務を果たしてしまった私はすぐに手持ち無沙汰になってしまった。
うーん、どうしよう。まぁ立って並ぶよりはマシなんだけど、一人で待つのもやっぱり苦しいものだ。
私は時間の潰しがきくものがないかと、色々考えながら辺りを見回した。
この大学に入学してもう1年半以上が経ったから見たことある顔がいくつか周囲の席にいるが、学生数が全国の大学で2位を誇るこの大学だとやはり知らない顔の人も多い。
近年のグローバル化によって留学生の数も増えて、外国人があちこちに歩いているのも今ではもう見慣れた光景だ。
そういう意味では多様性に溢れたキャンパス内は意外と見てて飽きないし、面白い光景だとも思う。まぁそういう外国人と交流する機会って意外とないんだけどね。私は国際教養学部の一部の人達みたいな西洋かぶれになろうとは思わないし、そんなに意識も高くない。やはり世間一般からすればこの大学にいる人達は優秀な人が多いとは思うからこそ、そういう優秀層や熱意の持った人達を見ているとそのギャップを痛感して、よくこの大学に私は入れたなと思うことが多々ある。
これはある意味で熱意やモチベーション関係なく学力だけで平等に入学者を選別する一般入試の功罪とも言える。
あれ、こんなこと考えてる私ちょっと先輩っぽいかも…。うわ、やだやだ変なところが似てきてしまった。これでは私も変な人になってしまう。私は流行をちゃんと押さえてファッションや趣味を楽しむ、今をときめくJDなんだから、先輩の変人要素なんていらないし、あってはならないのだ。
と自分に内省していると、梅子先輩が二人分のフラペチーノを持ってやってきた。
「お待たせ〜。ていうかどうしたの?いろはちゃんそんな難しい顔して」
「え、私そんな顔してました?」
「うん。眉間に皺が寄って怖い顔してたよ」
「気付かなかったです…」
「まぁ真剣に考え事してる時って、自分の顔がどうなってるかなんて考えないもんね。それよりどうしたの?悩み事?」
「あ、いや別にそういうわけじゃなかったんですけどね。ちょっと女の子として反省してたんです!」
「なにそれ、変なの。まぁでもいろはちゃんが大丈夫ならそれでいいんだけどさ。ちょっと表情が考え事してる時の比企谷君に似てたから、悩んでるのかなって思ってさ」
「嘘、え、似てました?」
「うん。その雰囲気というか、人を寄せつけない感じとか?」
「えええ…」
偶然か必然か、まさか自分が考えてたことと全く同じことを指摘されるなんて…。
「やっぱり、仲がいいと似るのかな」
「自分では意識ないんですけどね…。逆に先輩は私に似てるようなところ無いですし、仲がいいからってわけではないような気もしますよ」
「まぁ比企谷君から見て、いろはちゃんの普段の言動は真逆のタイプだからね」
「それを言うなら、私から見ても先輩は真逆じゃないですか」
「そう思う?でも私はいろはちゃんの根っこの部分は世間一般のいろはちゃんみたいな女の子のタイプとは違うと思うな」
「そうですか?」
「うん。いろはちゃんはもっと思慮深くて堅実に見えるよ」
「まぁ計算高いとは言われますけど…」
「それもそうなんだけどね。単に自分のためだけに計算高い女の子はそれなりにいるけど、いろはちゃんは自分だけじゃなくて他の物事にたいしても色々考えられるタイプに私は見えるんだよね。だから見かけによらず、意外と比企谷君みたいな人に通ずる部分はあると思うな」
「そういえば昔、先輩に私はクレバーだって言われたことがあります。私は自分をそんな風に思ったことはなかったんですけど」
「やっぱり比企谷君はいろはちゃんのことをちゃんと見てるんだね」
「え〜そうですかね。いつも適当にあしらわれるんですけど」
「それはちゃんと理解してる人だからそうするんだよ。よく分からない人にそんな態度普通はしないでしょ」
「確かに…」
「お互いにある程度の信頼関係があるから比企谷君もそういう態度なんだと思うよ」
「うーん、信頼してるならもっと誠実に対応してもらいたいんですけどね…」
「それはいろはちゃんから言うしかないんじゃない?」
「それはそれで癪ですね」
「どんなところにプライド持ってるのよ」
「私はやっぱり先輩を振り回す可愛い後輩っていうポジションがいいんですよ」
「えーそんなんじゃ嫌われちゃうよ?」
「いえ大丈夫です。先輩には私以上に生意気なお米ちゃんがいるんで」
「お米?」
「先輩の妹で私の後輩です!」
「あー小町ちゃんね」
「そうです。あの子よりは私はずっとマシなので大丈夫なんです!」
「妹と競ってどうするのよ」
「いやいや、先輩は重度のシスコンなんで、むしろ妹こそラスボスなまでありますよ」
「そうなのかな〜」
「そうですよ〜先輩なので」
「ねぇ話変わるけどさ、なんで比企谷君を『先輩』って呼ぶの?」
「うーん。特に理由はないんですけど、なんか気づいたらそうなってましたね」
「他の先輩にはそう呼ばないもんね、葉山君も葉山先輩だし」
「あれ、梅子先輩って葉山先輩のこと知ってるんですか?」
「あーうん、知ってるよ。っていうか葉山君って学内ではそこそこ有名じゃない?かっこよくてさ」
「え、梅子先輩も葉山先輩推しなんですか?」
「いやそういうわけじゃないけどね。よく噂聞くからさ」
「でも葉山先輩は法学部ですよ。梅子先輩は文学部だし、関わりってほとんどなくないですか?」
「実は高校時代からの女子友達が法学部にいてね。その子がいつも『葉山君かっこいい』って言ってるのよ。だからその子経由で色々葉山君の情報が入ってくるってわけ」
「なるほど、そういうことですか。やっぱり凄いですね葉山先輩って」
「いろはちゃんとか比企谷君と同じ高校なんでしょ?」
「そうですよ。先輩とは同じクラスでしたし」
「だから仲良いんだね比企谷君と葉山君って」
「いやいやいや、真逆ですよ真逆!だって先輩は葉山先輩と会うと露骨に嫌な顔しますからね」
「あら、そうなの?」
「そうですよ。しかも高校時代は何かと衝突してた2人ですから」
「えー。でも最近2人でいるところ見るって友達が言うんだよ」
「ええー⁉︎ 嘘ですよそんなの」
「いや、嘘じゃないと思うよ。私も見たことあるし」
「でも私そんな2人でいるところなんて見たこともないし、聞いたこともないですよ」
「見ることはないと思う。だって2人でいるのって基本的に戸山キャンパスじゃなくて早稲田キャンパスの方だし」
「なんで早稲田キャンパス?先輩はあっちのキャンパスに用事は基本的にないはずなのに…」
「葉山君ってさいつも周りにたくさん友達がいるけど、比企谷君がいる時だけはいつも2人だけで話しててさ、少し周りの人達が近付き難い雰囲気なんだよね」
「うーん。まぁ元々先輩自体が近付きにくい雰囲気だし、葉山先輩の周りにいる人達とは全く別の人種ですからね」
「そうそう。それにいつもはみんなの葉山隼人って感じなのに、その時だけはそういう雰囲気じゃなくて、少し難しい表情とかして話し込んでるらしいよ」
「えぇ…分からない…全然分からないです…。それってこれまで何回もあるんですか?」
「うん。聞く限りはね」
梅子先輩の予想外の情報に私は少し混乱した。というのは、先輩と葉山先輩の2人を知ってる人間ならこの2人が仲が良くないことは周知であるということだ。もちろんお互いにそれなりに意識して心の底である程度の信頼をしているのは分かるけど、それでもあの2人は人種として対局の存在で、基本的に相容れることはない。
だから私を含め3人でいても特に先輩は葉山先輩に対して嫌な顔をする。生き方も振る舞い方も全く違うから、関わっていたって必ず衝突することは目に見えてる。
そんな2人が最近になって2人だけで会ってるっていうのが私には信じられなかった。
どういう風の吹き回しだ…?
いずれにせよ、今こうして理由を考えてみても答えは見えてこない。このことは2人のどっちかに聞いてみようか?うーん、でも最近は2人とあんまり話せてないしな…。いきなり聞くのは不自然だし。
「共通の趣味とかあるのかな」
悩む私に助け舟を出したのか、梅子先輩は言った。
「うーん。まぁ可能性としては無くもないですけど、仮に共通の趣味があったとしてもあの2人が意気投合することはなさそうにも思えるんですよね」
「そっかーじゃあなんだろうね」
結局その後、私達は何度か考え着く理由を出したが、納得しうる答えが出ることはなかった。
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Interlude
あの2人は大学生になってからも私が関わりのある先輩の中でも特に近しい先輩達であることは変わりないのだけど、時計の針が回り続けるにつれて、私はあの2人との距離感は少しずつ離れていっている気がしてならなかった。いや、確実に離れている。
高校時代の大切な人間関係はこんなにも脆く儚いものなのだろうか。
大切にしたいと思えば思う程に上手くいかない、掌から零れ落ちる水のように指の隙間からすり抜けて行く。最後に手の上に残ったのは思い出だけで、街を歩く大人達のように過去を振り返っても懐かしいと言葉を紡ぐだけの人間に私もなるのだろうか。
全てが欲しいだなんて我儘を言うつもりはない。
上手くなんて行くとも思っていない。
特に先輩は、先輩の世界に私はもうほとんどいなくて、その世界に一瞬でさえ入ることすらままならない。
信頼しているし、尊敬しているし、大好きな先輩だからこそ止まらない日々が辛い。
もうこれ以上に親密にならなくてもいいから、
昔みたいになれなくてもいいから、
現状維持でいいから、
ただもうこれ以上離れていかないで
だから、時間よ進まないで……。
私を思い出の中で一人にしないで…。
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東京の雑踏は止まることを知らない。
たとえ世界が寝静まろうとも、この街のネオンは暗い夜を照らし出し、狂騒の奏が鳴り響く。外気温とは無関係なこの街の人々による熱気は、まるで魔都と呼べるような、理性では推し量れない夢中の世界を生み出していた。
そんな街を誰を連れることもなく闊歩することは、異常なまでの孤独感を生み出させる。こんなにも街には人が溢れているのに、こんなにも騒がしいのに、誰とも相容れることはない孤独感。
周囲のあらゆるサウンドはノイズになり果てて、世界は自分だけに閉ざされる。
地元の千葉も、きっとこれとほとんど変わらないのだろうが、慣れた街だから、そこまでこの感覚を味わうことはなかった。だが、この東京はそんなこれまで気付かなかった感覚を呼び起こす。人々があれだけ望んだ経済成長と文面の発展の結実がこの温かみのない、アスファルトとコンクリートの人工物の檻に囲まれた東京という名のメガロポリス。
俺はそんな巨大都市の中に飲み込まれた一個人でしかない。
大学の講義が終わり、その後は図書館で執筆作業を済ませてキャンパスを出た俺は、特に目的もなく新宿の街にたどり着いた。
本来なら自宅に戻るのだが、俺は地下鉄を高田馬場で降りて適当に山手線に乗り換えたのだが、すぐに面倒くさくなって降りたのが新宿だった。
世界最大の乗降者数を誇る大迷宮新宿駅は今日も人々で溢れかえっていた。
俺はそんな雑踏の中を流されるように歩いて、俺は東口を出た。別にどこに行くだとか、そんな目的は何もなかった。
ただ、何故だか俺は歩きたかったのだ。
思考を停止して、何もかも忘れて歩いていたかったのだ。
駅を出て、繁華街を人に埋もれて歩く。
途中何回か客引きに声をかけられたが、俺は何も答えることなく歩き続けた。受け応える良心なんて俺にはなかった。外界から突きつけられるあらゆる知覚情報をできるだけ無視をしていた。
そうして、どれだけの時間を歩いていただろうか。いつしか繁華街は過ぎ去り、新宿通りを何を考えることもなく、何を見るわけでもなくただ歩き続け、時代にオフィスビルや雑居ビルが増え始め、俺は四谷見附に辿り着いていた。新宿通りと外堀通りが交差する四谷駅前の交差点は数多くの車両が行き交い、信号の前にはサラリーマンやOLをはじめとする多くの老若男女が次の色に変わる瞬間を待っていた。俺はそんな信号待ちの人々の最後尾に並んだ。
できることなら立ち止まりたくはなかった。
歩きを止めてしまうと、頭がまた動き始めて、多くのことを考え始めてしまうから。
何かを考えることは嫌いではないが、それでも今は疲れた。
俺は今か今かと信号を待ち、俺の前に立っている人々が歩み出したのを見て、少し歩みを早めて横断歩道を渡った。
交番の前を通り過ぎ、四谷見附橋を渡っている途中、俺はすれ違いざまに「比企谷」と声をかけられた。
その声の主は葉山隼人だった。
「どうして君がこんなところにいるんだ」
葉山は目を開いていかにも「驚いた」という表情だった。
「さぁ…散歩か」
「それにしては随分と遠くないか。君の家や大学からは逆方向だぞ」
「そうだな」
特に意味もなく歩いていた俺は、葉山の質問にどう答えるか窮した。戸惑う俺に、彼は何かを察したのか少し話を変えた。
「君は、俺とこんなところで会って驚かないんだな」
「そんなことねぇよ、これでも十分驚いてる」
「それにしては、君の表情はほとんど変わってなかったぞ」
「いや、俺は元々表情豊かな人間じゃねぇだろ」
「そうかな。昔から君は俺と会う時は、露骨に嫌な顔をしていたけどな」
「うるせぇ、ほっとけ」
俺はそう言って、反感の意味を込めて顔を背けた。その瞬間、俺たちに冷たい冬の風が吹き抜けた。耳元では風音が鳴り、髪や服は激しく揺れた。街ゆく人々も寒そうにマフラーやコートに顔を埋めて、俺たちの横を風と共に通り抜けていった。
俺はどことなく体の力が抜けて、ため息をついた。と同時に見附橋の手すりに腰からもたれかかった。
「疲れてるんじゃないのか」
「そうかもしれないな」
「あまり無理するなよ。身体を壊しては意味がない」
「お前が俺にそんなことを言うとはな」
「実際そうだろ、君がいなくちゃ」
葉山は昔と変わらない表情で苦笑した。
高校を卒業し、東京に引っ越して、大学に入学して、人も環境も時間も、あらゆるものが変わってきた中で、数少ない変わらないものと言えば、俺とこいつの関係性なのかもしれない。
俺と葉山は対局にいる存在で、俺と違ってアイツは人望も優秀さもある。皆から頼られる人間が葉山隼人という存在。今更そんなことを妬むこともない。むしろ感謝すらしている。葉山を見ていれば、俺は自分という人間がどうあるべきかをすぐ気づくことができるのだ。つまり葉山は自分を映す鏡なのだ。根本が違うからこそ、ブレることなくコイツを見てられる。ある種の安心感さえある。
相容れないからこその信頼とも言うべきか。いずれにせよ、今になっても俺が俺でいられるのは葉山隼人という嫌いな奴が、意外にも近くにいるというのが理由なのかもしれない。
「お前こそ、なんでこんなところにいるんだよ」
「ああ俺か。分かるだろ?家の用事さ」
「やっぱりそうか」
「さすがに、用もなく学生がこんなところには来ないよ」
「まぁそうだな。親がお偉いさんだと大変だな」
「別にうちの親はただの弁護士であって『お偉いさん』なんかじゃないよ。それに、こういうのはもう慣れてる」
「そうか…」
俺たちの距離は少し遠かった。4メートルか、5メートルくらいだろうか。周りの雑踏や風の音が響きわたり、会話の声以外は相手を感じることがほとんどない。でもこの大雑把な距離が俺たちには都合が良かった。
背後から電車の音が聞こえた。それは次第に大きくなって、俺たちが今いる橋の下にある四谷駅に入ってきたのが分かった。煩いくらいの騒音と振動を奏で、今日もこの街は胎動を続けているのだと感じさせた。
葉山もそんな電車の音に気付いて、手すりに腕を置いてもたれ、駅や電車を見下ろした。
俺もそんな葉山につられて、橋の下に止まっている電車に目を向けた。電車には昔から見慣れ黄色のラインが入っていて、すぐに中央線だということが分かった。きっとこの車両も千葉まで走っていくのだろう。1時間も乗れば地元に着くのだがら一年以上も千葉は帰っていない俺には、最近、故郷が遠いものに感じ始めていた。
次に帰るのはいつだろうか。とそんなことが頭によぎったが、そんな思考を突如として葉山の言葉が遮った。
「なぁ比企谷、少し時間あるか」
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葉山に連れられてやって来たのは赤坂のとあるバーだった。店としては小規模か中規模で、内装はクラシックな装いで、暗めの照明に照らされたカウンターに俺達は並んだ。
時間はまだ少し早いため、人はそれほど多くはなかった。
葉山はカウンターにつくと、慣れたようにジントニックを頼んだ。そして俺の方を向いて「君は?」と視線で問いかけてきたので、正直なんでもいい俺は「同じのを」とバーテンダーに注文した。注文して間もなくお通しのナッツとジントニックがテーブルに並んだ。
俺達は何を言うまでもなく、それを飲んだ。
「君と酒を飲むのは初めてだな」
「そうだな」
「いまさらだけど、君は飲めるのか」
「少しはな」
「普段から飲むのか」
「いや、たまにだな」
「お酒自体はそこまで好きではないのか」
「そういうわけじゃない。ただ俺みたいな物書きには向かないんだよ」
「というのは?」
「酒を煽って、酔うとやたらと感情的になって何かを書こうとするんだ。でも俺はそんな感情的な文章は嫌いなんだよ」
「そうなのか。でも、酔って書いた方が直感的にというか、自分に正直に書けてよかったりはしないのか」
「直感的に書ければいいってもんじゃない。酔った勢いで書いたものなんてくだらないポエムにもなりやしない。一時的に昂った感情は所詮は刹那的で貧相なものだからな。後から見直したら吐き気がする」
「ってことはやったことあるのか」
「いや、ない。あくまでそんな気がするだけだ」
「じゃあやってみればいいんじゃないか。意外にも上手く行くかも知れないじゃないか」
「そんなことで上手くできるって本気で思ってるなら、言われずとも最初からやってるさ。でも感情的な文章はあんま好きじゃないんだ」
「君は潔癖症なんだな」
「かもな」
「その小説ってのはどれくらいの頻度で書いてるんだ」
「時期にもよるが、最近は毎日だな」
「今日は大丈夫だったのか」
「ああ、幸いさっきまで書いていたが行き詰まってたところだ。こういう日は何を書こうとしたってダメだ」
「そういうもんなのか」
「俺はな。俺は何も思い付かない時に、下手に時間を浪費したところでマシな答えは出てこないことの方がずっと多かった。だから少し時間を置いて考えるようにしてんだ」
「なるほどな」
葉山はグラスを煽った。そしてそのまま「マスター、シャンディガフを」と注文をいれた。
「シャンディガフを頼むなら普通にビールでいいだろ」
「雰囲気さ。こういう店ではいつも飲むビールよりも小洒落たものがいいんだよ」
葉山は飲み終えたジントニックのグラスを回してそう言った。
「お前がいうと腹立つな。それに、シャンディガフってお洒落なのか」
「なんだよ、いいじゃないか。いつもと違うのも飲みたいんだよ」
葉山にして珍しく理屈じゃないことを言った。まぁ別にこいつが何を飲もうとどうでもいいんだが。
俺もジントニックを飲み干した。
「ウイスキーのロック、お願いします」
「色々ございますが、何かご希望ございますか」
「アイリッシュありますか」
「ございます」
「じゃあそれで。銘柄はお任せします」
「承知しました」
「ウイスキーなんて飲むのか」
「まぁな」
「しかもロックなんて学生では珍しいな」
「そうか?お前はウイスキー苦手なのか」
「特別苦手ではないけど、飲み慣れてはいないね。君はよく飲むのか」
「まぁ、酒を飲む時は基本飲むかもな」
「好きなのか」
「それなりには。でもスコッチウイスキーそこまで好きじゃない。あのスモーキーフレーバーは好きになれん。だから好きと入っても基本的に飲むのは日本産がほとんどだ」
「じゃあ日本のじゃなくて良かったのか」
「アイリッシュは前に何度か飲んだことあって、それが普通に美味かったから。まぁ普段は値段が張るから自分で買って飲むことはないけどな」
店内はそこまで混んではいなかったため、その後シャンディガフもウイスキーもすぐにテーブルにやってきた。
俺達はそれを受け取るとすぐに口をつけた。
ウイスキー特有の濃厚な苦みと仄かな甘味が口に広がり、独特の香りが鼻を抜ける。一度それを飲み込むとアルコールに焼かれる感覚が喉を突き抜け、しばらくすると体が熱くなってくるのを感じる。
これはもう麻薬だ。強烈なアルコールとその味によって身体に猛毒を流し込んでいるような感覚。勿論死ぬことはないが、これを飲む感覚は明らかに本来人体が飲むことを想定されていないとすぐに分かるような代物だ。
アルコール飲料は人類の発展と共に生み出され、一種の文化として成り立っているが、お酒というものは時として身を滅ぼす毒となることはもはや言うまでもない。しかし、それでも人間はお酒からは逃れられない。これは身を滅ぼす以上に、人々に一瞬の快楽を与えてくれるからだ。
酒を煽って、嫌なことを忘れたり、自分の感情を曝け出して、ストレスを晴らす。一般的にこんな飲まれ方することは珍しくはない。
酒を飲めば多少は陽気になって、現実逃避できる。
仕事終わりの飲みニケーションだなんて言われるが、それが根付いているのも分からなくもない。
「君、本当はお酒結構得意だろ」
「は?」
「お酒が少ししか飲めない奴が、こんな早い段階でウイスキーのロックなんて頼まないよ。それに結構飲み慣れている感じだ」
「そうか?でも本当に頻繁には飲まなあのは本当だぞ。信じらんねぇなら一色に聞いてみろよ」
「いや、別に疑ってるわけじゃないよ」
葉山は笑ってシャンディガフを飲んだ。今はいろはが1番君のことを知ってるんだな」
「何にしても引っ付いてくるからな」
「嫌なのか」
「鬱陶しいこともたまにある」
「いいじゃないか。あんな可愛い子に懐かれるなんてなかなかできることじゃないぞ」
「ならお前が付き合ってやればいいだろ」
「俺じゃ無理だよ」
「そんなことないだろ。今でもお前の話題をよく出してくるぞ」
「話題を出すからいいってもんじゃないだろ。それに、そんなのは建前でしかないことだってあるし、そもそも俺といろはが付き合ってもきっと上手くいかないよ」
「そういうもんか」
「俺は君みたいに面倒見がいいわけじゃないし、いろはに優しくしてやることはできない」
「別に俺だって優しくしてねぇよ」
「そんなことないだろ。君があんな風にいろはの相手をしてるのだって十分優しさだ」
「それならお前だって昔から皆から慕われて気が利いて優しい葉山隼人だっただろ」
「それとは別だよ。俺がしてるのは所詮みんなのためだ。集団の中で極力大勢にとって都合の良い状況を作ってやることしかできない。それは君がしている優しさや、いろはが求めている優しさとは違う」
「誰か一人に向けて優しさを注ぐっていうのは時として責任を背負うことなんだ。個人に縛られず、不特定多数の調和だけを目指す優しさとはわけが違う。表面的な多数と個人が持っている欲望や悩みはその深さは全く違うんだ。俺はそこに踏み込めるほどの強さも勇気もない」
「そんなの、考え過ぎだろ」
「なら君が考えてなさ過ぎなんだよ。君はもう少し、いろはの気持ちも汲み取ってやるべきだ。優しさは時として苦しみにもなることくらい、君なら分かってるはずだろ」
こうやって、たまに出る葉山の言葉は鋭い。だがそういう時の葉山は語気を強めるようなことも、表情を強張らせるようなこともせず、むしろ真逆の柔らかささえ感じるような雰囲気で言うのだ。まるで幼な子をたしなめる親のように。
そして、その言葉はいつも俺の嫌なところを容赦なく突いくるのだ。だが、俺はこいつが嫌味でやっているわけではないことを知っている。むしろ、こいつはこいつらしく周囲の人間を気遣っているのだと思う。
だからこそ一色のことも庇うのだ。
一度振った女ですら気にかける。
誰かはそれを女たらしだと言うかも知らない。
だがそれがきっと葉山なのだと俺は思うのだ。こいつは、きっと誰何を言われようがこのままなのだ。
誰しも平等に扱い、誰にでも優しくする。
悪く言えば八方美人。だがそこに企みは存在しない。見返りや悪巧みのための優しさではなく、ただそうあるべきだど自覚してるからこその振る舞い。
だから、ほとんどの人間は葉山の本心を知らない。
皆が見れるのは、優しい葉山隼人だけ。
だから人望があり人気なのだ。
「それは何に対する心配なんだ。一色か?俺か?それとも皆の調和のためのつもりか?」
「君は意地悪だな」
「素直に一色だって言えよ。アイツのこと気にかけてるんなら、お前がアイツと向き合ってやればいいだろうが」
「今更どうやっていろはと向き合うんだよ」
「別に普通にやれるだろお前なら。それにお前ら普通に仲良いじゃねぇか」
「仲が良いから大丈夫なわけじゃないよ。俺が彼女にしてやれるのは所詮は先輩としての優しさだ。一度彼女を振った人間が、心配って言葉を盾に踏み込むのは傲慢だよ。仮に踏み込んで彼女に向き合いお互いに受け入れることができるのなら、まだいいかもしれないけど、俺にはそれをすることはできない。そんな中途半端な人間が余計な心配を彼女に向けるのは、単なるお節介にしかならないし、傷つけるだけだ」
「別に一色はそんなことまで考えてないと思うが」
「仮にそうでも、俺はいろはとは無理だよ。言っただろ、俺はそんな優しい人間じゃないんだ」
「一色はきょう」
「それは俺がアイツに対して責任を負って、付き合えって言いたいのか」
「そうなるなら、いいんじゃないか」
「葉山、俺が一色と付き合うことはない」
「そうか」
「こんなこと言わせんなよ」
「すまないね。一応確認したかったんだ」
「は?」
「君がどれだけの覚悟があるのか」
「俺を疑ってんのか」
「別に、そういうつもりではなかったんだけどね」
「なら一応言っとくが、俺はもう以前のように一色とは会ってない」
「そうだったのか」
「当たり前だ。もう後戻りはできないんだからな」
「覚悟を決めたってことか」
「アホか、覚悟ならずっと前からしてる。そもそも言い出したのは俺だぞ」
「そうだったな。すまない」
葉山は苦笑してグラスに残ったシャンディガフを飲み干した。そしてグラスをゆっくりとテーブルに置いて、バーテンを呼んだ。
そして、「すみません、彼と同じのをください」と言って俺のことを指さした。
バーテンは笑顔で答えて、葉山のガラスを下げて準備にとりかかった。
「お前いいのかよ。ウイスキーそんな好きじゃねぇんだろ」
「大丈夫だ。飲めないわけじゃない。それに今は少し飲みたい気分なんだ」
そう言って葉山笑った。
くそ、こいつは本当にこういう台詞がよく似合うな。全く俺は何度こいつに嫉妬すればいいんだと、俺はチェイサーの水を飲んだ。
「なぁ、比企谷」
葉山は随分と静かに俺を呼んだ。
「ん?」
「つまり、やるんだな」
その声はさっきまでとは変わり、今日で1番低い声だった。葉山は俺の方を向くことはなく、目の前に陳列されているたくさんのボトルを眺めていた。
その声色の違いに、俺も直ぐに葉山の言いたいことの意味が分かった。
「ああ」
「そうか。それを聞けてよかった」
「なんだお前」
「いやね、今日はそれなりに収穫があったんだ。だから君が本気でやる気があるのなら、それを全て伝えようと思っててね」
「それで確認みたいなことしたのか」
「ああ。だってもしやるのならばお互い相当のリスクを背負うことになるだろ。だから最終確認だよ」
どれだけ信用されてないんだよ俺、と思ったがそんなツッコミをするのも面倒なので俺は口に出すのをやめた。
「なら確認済んだろ。早く説明してくれよ」
「俺のウイスキーが来るまで待ってよ」
「いや、なんで勿体ぶるんだよ。ウイスキーねぇと話せねえのか」
「長くなるんだよ。少し休憩させてくれ」
そこからまたしばらく沈黙が続いた。
俺は自分のウイスキーを飲み、葉山は手際良く仕事をしているバーテンダーを眺めていた。
そして葉山のもとにウイスキーが来ると、葉山はグラスをひと回しして、ゆっくりと口をつけた。
飲み慣れていないといいながら、振る舞いにぎこちなさはなく、一口飲むとまたゆっくりとグラスをテーブルに置いた。
「小さなパーティと言えばいいのかな、今日はそんなのがあったんだよ」
「ああ」
「懇親会という表向きにはなってるけど、実際は関係者達の顔合わせで、これから進める計画について話してるんだろう」
「それでお前も招かれたのか」
「いや、招かれたのは顧問弁護士の父だけだよ。けど少し俺が無理を言って着いて行ったんだ。社会勉強だなんて言ってね」
「お前にしては珍しいな」
「そうかな。でも、これくらいしないと、何もできないよ」
「まぁ確かにそうだな。それで出席者は」
「雪ノ下家と藤原家を中心に、あとは何人かの官僚だな。ただ彼女達はいなかったよ」
「そのメンツで目的は明らかだな。だが核心的な話をあの親や官僚の連中がお前の前で話すとは思えないが?それでも何が分かったのか」
「もちろんだ。でも、どうして雪ノ下家と藤原家が関係を持つようになったのか、ちゃんと分かったよ」
「聞かせてくれ」
「今回の一件で接触を図ったのは藤原家だ。理由は幕張万博。どうやら組織委員会は会場予定地の確保に難航していたらしい」
「それで、県内で顔に効く雪ノ下家に接触したと」
「ああ。雪ノ下家は長年、県議会や市議会に議員を輩出してきた千葉一帯では有名な家柄だ。千葉県内の地主や権力者とのパイプも厚いし、しかも現当主である父親は建設会社の経営者だ。建設や土地関係の人間とも話がつく」
「なるほどな、やはり国は仲介役が欲しいのか」
「その通り。だけど、実際どうやら国側も一枚岩ではないらしい。どちらかと言うと、国というよりは藤原派閥だ。藤原家は昨今の献金問題や反社組織との癒着疑惑が報じられてから支持は低下しつつある。代々国務大臣を輩出してきた代議士の名家だけど、未だに総理大臣は輩出できていない。現藤原家当主の藤原厚聡はなんとかして総理大臣の席を狙っているようだが、未だ与党No.2の鷹司財務大臣に遅れをとっているのが現状だ。だから、なんとしてもこの万博は成功させたいんだろう」
「万博を成功させて指導力と知名度のさらなるアピールか。それで、雪ノ下家のメリットは」
「おそらく国政進出だろう」
「藤原厚聡のバックアップを得てか」
「そのようだ」
「一応確認だが、雪ノ下の父親はそこまで野心家な人物ではないと聞いてるんだが?そんな人間がわざわざ国政に出るもんか?」
「彼女達の父親は雪ノ下家の婿養子で、実質的雪ノ下家のトップは母方の祖父だ。その人は、過去に県議会議長も務めた県政の重鎮。昔から今の与党との縁もあって県内での支持基盤は確固たるものになってる。そんな中で、与党幹部の藤原からのバックアップで雪ノ下家初の国会議員輩出ができるかもしれないということで、この件に最初からかなり積極的だったという話だ」
「なるほど。つまり父親は傀儡で実質的決定権があるのは、祖父ってことか」
「ああ、しかも与党はここ最近の衆議院選挙で千葉市内の選挙区を全て落としている。人口が多い千葉市を与党としては近いうちになんとか押さえたいはずだ」
「それで千葉県でも支持基盤の厚い雪ノ下家を国政選挙で擁立し、野党の対抗馬にしようってか」
「ああ。藤原厚聡は万博を成功させ、与党としても千葉市の選挙区を取れる可能性がある。雪ノ下家は国政進出ができるかもしれないという、藤原と雪ノ下家どころか、与党にとってもメリットがあるってことだ」
「やっぱり一筋縄ではいかないな」
「ああ、事態は相当に重いね」
「何かしら汚職に持っていける材料とかはないのか」
「そこまでは分からない。けど、多分無いだろうな。あの雪ノ下のお爺さんがするわけがない。あの人は石橋を叩いて渡る人間だからね。そんなリスクは背負うはずがない。実際、昔から雪ノ下家は国政進出の噂は出てたんだ。それでも、慎重なお爺さんは確実に勝てるという確信がないと言って、出馬しなかったらしい。それほどに慎重な人が安易な賄賂や贈賄をするとは思えない」
「つまり汚職事件に持っていくことは無理か…」
「ああ。それに何かしらの賄賂があったとしても、それを立証するってのは検察でも難しいんだよ」
「状況の変更は難しそうだな」
「ああ」
葉山は天井を仰いだ。
「結局、君が予想していた通りだったな… 」
「そうだな」
「どうしてそこまで分かったんだ」
「別に全て分かってたわけじゃない。予想が当たっただけだ」
「それでもだよ。俺が君にこれまで雪ノ下家の情報を教えていたとはいえ、今日俺が知ったことは君が予想してたことと大筋は当たっていたじゃないか。こんなこと普通は想像できないぞ」
「万博開催に向けての用地確保がうまく行ってないってのがニュースになってただろ。きっかけはそれだよ。しかも政府の元々の試算よりも、万博用地がさらに必要だってことが判明して、その確保が地元の地権者と揉めているのは周知だしな。まぁそれでも、別にこの予想を確信していたわけじゃない。ただ、与党幹部でもある藤原厚聡が、一介の地方議員に何度も接触してると聞けば、そうかのかなとふと思っただけだよ」
「それでも見事だよ」
「そりゃ、どうも」
「でもいくら君でも、今回ばかりは上手くいく可能性は限りなく低いぞ」
「そんなことは分かってる。お前こそ降りてもらってかまわないからな」
「いや、降りないさ。君が引き下がらないのなら、僕も引き下がらない。これは、僕も初めから決めていたことだ」
「何か理由でもあるのか」
「贖罪だからだ」
「ほう…」
「何がとは聞かないんだな」
「お前が抱いてる罪悪感なんて、なんとなく予想はつく」
「あの人に聞いたのか」
「随分昔にな」
「あの人は俺に恨みの一つでも言ってたかい」
「いや、なんも。単なる昔話だった。それにあの人が、私情を挟んで誰かを語るようなことするわけないだろ」
「確かにそうだな」
「その贖罪は単なる独り善がりになるかもしれんぞ」
「分かってるよ。それで許されるとか、解決するとかは思ってない。所詮は自己満足でしかないと思う。それでも、俺はやりたいんだ」
「言い出しっぺの俺が言うのもなんだが、迷惑になる可能性の方が高いぞそれ」
「その時はその時さ、君こそどうするんだよ」
「地獄でもなんでも行くさ。俺だってただの独り善がりなんだからな」
「大義はないんだな」
「ああ。むしろ悪なまである」
「堪らないな、本当にそれなら」
「いいのか葉山、みんなの正義の味方であるお前が、悪に染まるのは皆が望むところではないだろ」
「言っただろ、俺は引き返すつもりはない。だから覚悟の上だ。今を否定するつもりはない。でも俺は昔の罪を今でも後ろ髪を引いていて、それにけじめをつけたいんだよ。許されたいとか、解放されたいとかじゃなくて、それに対する償いをしたいんだ」
「今の自分を捨ててもか」
「ああ。俺も君と同じさ…」
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結局、俺らはそのあと数時間にわたって飲んでいた。当初は少し飲んで帰ろうかと思っていたが、予想外にも長居してしまった。
辛気臭い話をした後は、特別俺達の会話が盛り上がったわけではなく、むしろ会話の量は減り、お互い静かに注文した酒を飲み干していった。
時折、若手のバーテンダーが会話を振ることで葉山が得意の愛想の良さを発揮して三人で会話を嗜むことはあったが、それでもやはりバーという特異な空間では、居酒屋のような五月蠅さはなく、小気味よいバーテンダーの作業音と、天井から流れる音楽、そして手に残るガラスの冷たさが醸し出す雰囲気に身を任せていた。
そして気づいた頃には23時をとうに周り、ようやく店を出ることになったのだ。
俺達は互いに会計を済ませて、夜の赤坂を歩いた。
「本当に君はお酒が強いんだな」
「いや普通だろ」
「ウイスキーをロックで5杯飲んだ上に、他にも何杯も飲んでる時点で普通じゃないよ」
「斯く言うお前も結構飲んでんだろ」
「君ほどじゃないよ」
「まぁ確かにいつもよりは飲んだかもな。おかげで財布から諭吉さんが消えた」
「バーはその辺の飲み屋とは価格設定が全く違うからな。調子乗ると一瞬で散財さ」
「確かにな。こういうところはたまに来る程度が丁度いいんだろうな」
「そうさ。君も彼女でもできたら連れてきてあげるといいよ」
「そんな日が来るかなぁ」
「まさか君、童貞?」
「ノーコメントで」
「怪しいな」
「それはどっちの意味で怪しいんだよ。っていうか普通にセクハラだぞそれ」
「どっちだろうね。もちろん女の子には言わないよ」
「男にも言うなよ。お前みたいなイケメンに言われたら普通の陰キャは傷付くぞ」
「安心しなよ。男でも君にしか言わないから」
「マジで性格悪いなお前」
「いつか君の初体験について聞かせてよ」
「誰が言うかアホ」
「冗談だよ」
「冗談でも普通に気持ち悪いわ。これまでの発言大学のみんなに広めるぞ」
「君がそんな噂を広められる人脈とコミュ力あるとは思えないけど」
「お前、俺のハートをいちいち抉らないと気が済まないの?」
「ごめんごめん。少し酔ってるんだ許してくれ」
「酔ってりゃ何でも言っていいもんじゃねぇぞ」
俺が不満を言うと、葉山はケラケラと笑って「分かったよ」と言った。絶対分かってないだろうとは思ったが、これ以上追求することはやめた。
「それより、君は本当にほとんど酔わないんだな」
「そう見えるか?」
「ああ。顔色は少し赤いけど、あれだけ飲んだ割に、顔色以外は普段とほとんど変わらない。少し残念だよ」
「は?残念?」
「君も少しは酔えば、もう少しガード緩めて素顔を見せてくれると思ったんだけど」
「安心しろ、お前には酔ってるところは一生見せん」
「そいつは残念だ」
葉山はまたケラケラと笑った。
こいつは少し上機嫌らしい。アルコールが良い感じに回っているのだろう。
だが、葉山も一般と比較すればかなり飲んでいた。にも関わらず足取りは普通だし、呂律もしっかり回っている。つまり、こいつも相当酒に強いってことだ。
まぁ、強くなけりゃバーなんかに誘わないだろうが。
しばらく歩いて、四谷駅が見えてきた。
「じゃあ、俺はここで失礼するよ」
「ああ、了解」
「じゃあまた」
「おう」
葉山は笑って俺に手を振り、改札の向こうに広がる人混みの中に消えていった。
俺はそんなあいつの後ろ姿を見えなくなるまで見送ると、踵を返して東京メトロの改札を目指した。
時刻は終電間近。飲み帰りや疲れきった表情で残業を終わらせた人達がホームにまだ多くいた。
ようやく今日も1日が終わる。
疲労と過ぎゆく時間の虚無感、深夜独特の静けさと電車の轟音が共存する薄暗いホームは足取りをさらに重くさせた。
聴き慣れたアナウンスに耳を傾けて、もうすぐ来るであろう電車を待つ。
手持ち無沙汰になる電車を待つ時間は、正直いつも苦手だ。本を読むわけでもなく、携帯をいじるわけでもなく、視線の置き場に困るのだ。俺は自分の視点を座らせられるホームにある何かを探した。だが、結局見つけることはできず俺は仕方なく目を閉じることにした。
『君は酔わないんだな』と葉山の言った言葉の残響が頭の中で強くなった気がした。
葉山、お前はどういうつもりでそんなことを言ったんだ。
『君は酔えない』
お前がそんなことを言うから、随分と昔に言われたそんな言葉が、今でも俺の中に執拗に駆け回るんだ。