月光花   作:八咫倭

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あらすじ

偶然に八幡が陽乃の涙を見た日を契機として陽乃と八幡が放課後に一緒に過ごすようになってから1ヶ月が経った。しかし、状況が変化することはなかった。そして夏休みに入ろうする頃、八幡の誕生日を祝うというかたちで2人は旅行に行くことになる。しかしそこで、八幡は自分の過去のトラウマと陽乃との関係において新たな葛藤を生むのであった。陽乃の本当の気持ちとは?八幡の決意とは?自分という存在に揺れながら二人は何かを追い求めているのだった。

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夜に揺られて溜息を[後編]

世間ではため息はいいものだとは捉えられていない。

1つため息をすると1つ幸せが逃げる とよく言われているのがいい証拠で、世間一般の認識ではため息というのはあまりいいことがなかった時、悲しい時、憂鬱な時に出るものという認識が主であろう。

 

実はそんなため息が最近増えたと思う。

表情も今までとは違って暗さが残っていた。あ、言っていなかったがそれは俺のことではなくて目の前にいる人のことだ。元々の美しい顔は、ため息をつく時であっても美しさを保っているのだが、やはりここずっと隣で見てきた俺としてはいたたまれない気持ちになる。

 

彼女は、自らのプライドがそうさせるのか俺の前ではいつも通り気丈に振る舞う。だが時より見せる表情が今までと明らかに違うことを示していた。

 

相変わらず放課後は共に過ごしているのだが、最近は彼女の積極性は身を潜めた気がする。比較的に大人しくなり物思いにふけっているような瞬間が増え、騒がしさというものはなりを潜めていた。

 

 

基本的に大人しい生活を望む俺としては万々歳ではあるはずなのだが、

残念ながら普段との雰囲気のギャップが俺を戸惑わせることとなり結果的に心が落ち着くことはなかった。

 

どういうスタンスで話せばいいのかとか、言葉を選んだり、ご機嫌を伺ったりとむしろ今まで以上に大変だった。

 

女の人の相手をするのは疲れるとはまさにこのことなのだろうか?

いきなり態度が変わると男は本当に困ってしまう。ならむしろ今まで通りの奔放な陽乃さんでいてくれたほうが助かるもんだ。

 

7月は下旬。明日からはついに夏休みが始まる。ついに学校という枷から俺は解き放たれるはず…。とは思ったが受験生なのでそんなゆとりはない。結局、面倒なことは変わらないという現実が俺の心をブルーにする。

 

そして、そんな俺に向き合う形でいつものように目の前に座ってコーヒーを飲みながら窓辺に置かれたガラス細工を見ている陽乃さん。

 

彼女の表情に比例するように、彼女は口数が少しずつではあるが減っている気がした。何かを考えているかのように、ただひたすら黙り込んでボーッと何かを見てる光景が増えた。

 

何かあったのだろうか?

やはり普段とは違う姿を見てしまうと、さすがの俺でも気になってしまう。

 

いっそのこと正直に聞いてみようかとも思うのだが、ここ一連の出来事や雰囲気を考えれば憚られてしまう。多分、聞いたとしても誤魔化されしまうのだろう。雪ノ下陽乃は強い女性だ。

否、強くあろうとしている女性だ。

家系的な理由でそうあろうとしているのか、それとも自分のプライドがそうさせるのかは分からない。が、いずれにせよ彼女が自分の置かれている状況や不安を他人に相談することなど選択肢にない。いや、あってはならないのだ。

それは彼女の今までの生き方に反するから。なんとも生きづらい人生だ。

だがそれによって、こっちにできることはないのだ。依頼も相談もないのだから。

結局、こうしてずっと何も変わらぬ状況に苛立ちさえ覚える。

 

 

 

「ねぇ 比企谷くん。」

 

「なんですか?」

 

 

「君誕生日いつ?」

 

いきなり彼女はずっと窓の方を見たまま、こっちを一度も見ることなく尋ねる。

 

「8月の8日ですけど」

 

「へー結構近いじゃん」

 

「そうですね。2週間もないですね」

 

「じゃあ、お祝いしなくちゃね」

 

「いや、いいですよ。無理には」

 

「別に無理してないよ。私がお祝いしたいだけだよ?」

 

「でも、陽乃さんにも予定あるでしょう?」

 

「まーそうだね、でも別に8日にする必要はないよ。他の日にズラせばいいし。それとも何かな?君は自分の誕生日にはお姉さんと一緒にいたいのかな??」

 

「いや、そんなこと言ってないですから…」

 

「そこは肯定しなさいよぉ〜

こんな綺麗なお姉さん誕生日に貸し切りとかすごいことなんだぞ?」

 

「まぁ確かにそうですね…」

 

「ま、それは置いておいて、

それで誕生日プレゼント何がいい?」

 

「祝うことは確定なんですね…

なんでもいいですよ」

 

「なんでもいいっていうのが一番困るんだよなぁ〜 誕生日なんだからもう少し欲を出してもいいんじゃない?」

 

「いや、本当にプレゼントならなんでも嬉しいんで大丈夫ですよ」

 

「そういうもんー? うーん」

 

 

「別にそんなに悩まなくてもいいじゃないですか?適当に選んでもらって結構ですよ。」

 

「それじゃあ 私が納得できないのー」

 

「本当に何でもいいですよ…」

 

「うーーーーーーん」

 

そう、陽乃さんはひたすら天井を見上げながら考えていた。彼女がこうして何かに悩む姿を見たのは初めてかもしれない。難しい顔して真剣そのものの顔はどこか新鮮で可愛げがあると感じた。

まぁ普段から可愛いんだけども、少し素の表情が見れた気がして俺的には少し嬉しかった。というかこれでも仮面だったら人間不信になりそう….

 

 

「ねぇ 比企谷くん。なんでもいいんだよね?」

 

「ええ まぁ」

 

「じゃあさ、8月の最初の土日って空いてる?」

 

「多分… 予備校で夏期講習に取った授業は平日なので空いてるとは思います」

 

「よし!じゃあその2日空けておいて!」

 

「え、2日?なんで2日も?」

 

「そりゃ もちろん旅行するからね!」

 

「は?! いや待ってください。

なんでですか?」

 

「なんでって君の誕生日プレゼントだよ?」

 

「いやいやいや 旅行って…」

 

「君なんでもいいって言ったよね?」

 

「言いましたけど… 俺 受験生なんですけど」

 

「大丈夫 君の学力を見たところ順調そうだし2日くらいは大丈夫だよ。」

 

「いや、陽乃さんなんで俺の学力知ってるんですか…」

 

「そりゃ いつも見てるもん」

 

「え?」

 

「君が問題解いてるとこ見れば大体分かるよ学力なんて」

 

「え、見てたんですか?」

 

「当たり前でしょー。前に君に勉強教えてあげるって言ったでしょ。その時から君が問題解いてる時は大体見てるよ」

 

「えぇ ずっと本読んでたじゃないですか…」

 

「馬鹿ね 教えてあげてる人の学力も分からないで、どうやって教えるってのよ」

 

「マジですか…」

 

「マジなのだよ少年。ということだから決まりね。あ、お金はこっちで出すから大丈夫だよ?」

 

「いや、それは悪いですよ…」

 

「何言ってるのー。誕生日プレゼントなのに君がお金払ってどうするのよ。ここはお姉さんに任せなさい。」

 

 

「でも…」

 

俺が言おうとすると。陽乃さんは細い綺麗な指を伸ばして俺の口に当てる。

口を閉じろということか…

 

「でもじゃない。君は少しは人に甘えることを覚えなさい。何か外せない用事とかある以外は決まりだからね」

 

「はぁ… 分かりましたよ」

 

「うん、よろしい。」

 

「それでどこに行くんですか?」

 

「んー候補はあるけどまだ決めてないかな。でも安心して、そんな遠くにも行かないし君が疲れて嫌がるような人混みのある場所には行かないから」

 

「それは、どうも…」

 

本当にすごい…

ただの後輩にここまでするか普通?

やはり魔王だから成せる技なのか…

それにしても誕生日プレゼントが旅行?リア充の発想で本当分からん…

でも、ここまでされるとさすがに悪い気もしてしまう…。

となれば、俺も相応のお返しをしなくてはと思うわけで

 

「あの、陽乃さん。」

 

「何?」

 

「陽乃さんの誕生日はいつですか?」

 

「ちょっと前に過ぎたよ」

 

「え、ちょっと前?」

 

「うん7月7日」

 

「……………。」

 

7月7日?? ってことは……。

え、この一連の騒動の発端の俺と陽乃さんが会ったあの日は確か6月だった…

俺が陽乃さんに拉致られて放課後一緒いるようになったのが7月入ってすぐ…つまり…。

こうして普通に過ごしてる間に陽乃さんの誕生日過ぎてた……ってことじゃん…

お返しに陽乃さんの誕生日に何かお返しをしようと思ったのだが、その計画は見事に瓦解した。

 

「あの、なんかごめんなさい」

 

「本当だよ〜友達が誕生日パーティーしてくれるって言ってたの断って比企谷くんと一緒にいたのに、何にもプレゼントもないし、おめでとうの一言もないんだからー!」

 

「申し訳ないです本当に…。

本当に知らなかったもんで…」

 

「えー雪乃ちゃんから聞いてないの?」

 

「はい……」

 

「もーお姉さんショックだよ〜」

 

「何か前日とかに言ってくれたら用意しましたのに…」

 

「だって自分から言ったら、なんかただの欲しがりみたいじゃん。それに女の子は何も言わないでいきなりプレゼントを貰う方が嬉しいんだぞ?」

 

「そうなんですか…」

 

「うん、そうなのだ」

 

「今度からは 女の子相手に忘れちゃダメだよ?」

 

「はい…」

 

「うむ、よろしい!」

 

そう言って陽乃さんはニコッと無邪気にも笑うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

長期休みというのはすぐ終わってしまうものだ。

気付けば「夏休み最終日だ!」となり急いで学校の宿題を取り組むというのはあるあるであろう。

人間は普段と変わりばえのない、単調でなんの変化もない日常を過ごしていると時間の進みが早く感じるらしい。一方で、変化に富み常に新鮮な日常を過ごしているとそれは時間の流れが遅く感じるらしいのだ。

実際、子供の幼い時より歳をとるにつれて時間の流れが早く感じるのは、小さな子供にとって毎日は新たな発見と希望に満ち溢れているからだ。つまり大人に近づけば近づくほど、あらゆる体験を重ね目新しいものが日常からどんどんと消えていき時の流れを早く感じ充実感に欠ける日々になってしまうというのだ。

 

 

無論、例に漏れず俺自身も昔に比べたら時間の流れは随分と早くなったような気もする。特に中学の3年と高校の3年間は本当に同じ時間とは思えないほどだ。話が拡大してしまったが、今日は8月上旬。ついに陽乃さんの誕生日プレゼントとと言う名の旅行に行く日だ。

 

この約束(一方的)をしたのは約10日前。とりあえずまぁ10日もあるからと楽観視していたが、この10日間の流れは想像以上に早かった。

実は、ここまでの約10日間の夏休み中、あまり陽乃さんと会う機会がなかった。というのは、陽乃さんに用事があるからということだ。まぁ毎日のように会うのは陽乃さんの頼みであるため本人が無理ならわざわざ会う必要もない。

 

ならば、俺の日常など前のような単調な日々に戻るわけだ。

受験生であるため予備校には行くものの、2年から行ってる予備校に行ったところで日常に変化などたいして起こるわけもない。つまるところ前述した通り、俺のこの10日間は何の変化もなく、ごくごく普通の日常を謳歌していたために一瞬で時が進んでしまったのだった。

 

 

 

時刻は8月に入り数日が経過した今月最初の土曜日の朝の9時半。

陽乃さん曰く、一泊するというのでとりあえず必要な着替えや道具類を適当に入れたバッグを片手に海浜幕張駅のロータリーに立っていた。

実は待ち合わせ場所は聞いているが、行く場所や予定は聞いてきない。ので用意したものは完全な予想で選んだ。

 

なぜ旅行に行くのが誕生日プレゼントなんだ?とはやはり思う。ここまで大規模にされるのは逆に申し訳ないし、正直戸惑う。が、前に陽乃さんの趣味が旅行と言っていたこともあり、だから誕プレを旅行にしたのだろうか? あれ、それってただ単に本人が旅行に行きたいだけじゃね?とも思ったり…。

 

 

待つこと、約10分。待ち合わせら9時半だが既に9時40分。ようやく陽乃さんのご登場。

思うんですけど待ち合わせ時間そっちが指定してきてるくせして一色といい陽乃さんといい俺を待たせ過ぎだと思うんですよね。酷くないですか?少しは雪ノ下を見習ってほしいものです。

 

「ごめん待ったー?」

 

「はい、待ちました。暑いです」

 

陽乃さんは特に悪びれる様子もない「ごめん」を言って手を振りながら近づいてきた。

 

 

「もーそこは 今来たとろって言うべきじゃないのー?」

 

え、何?これってお決まりなの?

てゆーか一色と陽乃さんって実は姉妹なんじゃないの?言動がまるかぶりなんですけど?

 

「俺は正直に生きたいので」

 

「ダメだよそんなのー

そんなんじゃ社会にでられないよ?

大人になったら建前とかお世辞とか重要なんだからね?」

 

聞きたくなかったー 。

そんなゲスい話は知ってたけど八幡聞きたくなかったー。というか雪ノ下家の人間が言うとかなりの説得力があるのはなぜでしょうか?

 

「俺は専業主夫希望なので社会は関係ないです。俺には家庭があるので。」

 

「でも、比企谷くん?君が専業主夫になるには結婚しなきゃいけないんだよ?そして結婚するには女の子と交際しなきゃいけない。だったらこうやって女の子の扱い方も知っておかないといけないんじゃないかな?」

 

「…………。」

 

正論で返されると本当に何も反論できぬない。というか陽乃さんの場合は女の子の扱い方より魔王の扱い方と呼んだ方がいい気がする。

 

 

「で、どこに行くんですか?あと、どうやって行くんですか?」

 

「あーまだ言ってなかったね。

とりあえず付いてきて。」

 

そう言って陽乃さんは自分が歩いてきた方へ歩いて行く。

 

「電車に乗るんじゃないんですか?」

 

「違うよ。折角の誕生日のお祝いなんだから他に人がいる電車なんて嫌じゃない。だから今日は車だよ♪」

 

 

「まさか使用人の人に運転させるんですか?」

 

「まさか(笑) 今回のドライバーは私だよ」

 

「え、マジですか?」

 

「マジだよ?」

 

「陽乃さん運転できるんですか?」

 

「失礼だなー。私だってもう21だよ?運転免許なんてとっくに取ってるし。運転なんてゲームみたいなもんじゃん」

 

「ちょっと。俺が乗ってますよー

貴方に俺の命がかかってるんですからゲームと同じにしないでください。俺の命は蘇りませんから…」

 

「もー分かってるよそんなことは」

 

心配だなぁー。

今日が俺の命日だったりして…。

 

ロータリーから少し歩くところに陽乃さんは車を路駐させていた。

 

「さあさあ 乗って乗って!警察が来る前に!」

 

その言い方だけ切り取ると色々と誤解されかねないんですが…。

まあ陽乃さんが言ってるのは路駐のことなんだろうけど…。

 

俺はとりあえず後部座席に荷物を置いて助手席に座る。

車内は慣れない他人の匂いに包まれていた。基本的に自分の家の車に乗る時は匂いなんて感じないが、他人の車や家に行った時は別だ。

ちなみに陽乃さんの車には彼女らしい清潔感がありどこかほんのりと甘さを感じる香りが漂っていた。

そして陽乃さんは俺が座るのを確認すると素早くエンジンをかけて車を発進させた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

車を走らせて10分。陽乃さんが運転する車は高速に乗った。夏休みもあって道はどこも混んでいると思っていたのだが意外と高速は空いていた。

信号のある一般道と違ってスイスイと車が進むようになり、まさにドライブって感じがしてきた。

 

ひとたび右を見やると綺麗な綺麗なお姉さんが車を運転している姿が目に入る。ハンドルは安定の片手持ち。やだかっこいい。この人は本当になんでも様になる。

美しさ、可愛さがこれでもかというほどあるのにもかかわらずこういったかっこよさまであるんだから本当にすごい。ちなみに平塚先生は8割程度かっこよさで残りの2割が可愛いさ美しさである。

本当にあんなに綺麗なのにあのカッコよすぎる性格が仇となって婚期を逃しつつある…本当に誰かもらってあげろよ…。

 

ただ一つ意外だったのが陽乃さんが乗ってきた車は意外にも大衆的な車。

軽自動車ではないが大型車でもない。

一般的な4〜5人乗りの一般車だった。

車両の色は黒で。バックミラーには可愛らしいキーホルダーが付いていて、香りといい座席の座布団といい女性らしい雰囲気が車内にはあった。

 

「どうしたのー?車の中なんか見回して変な匂いでもする?」

 

「いえ、匂いは全然大丈夫ですよ。

ただ陽乃さんがこういう車に乗ってるのが意外だったもんで」

 

「えー変?」

 

「いや、陽乃さんはもっとスポーツカーとか高級車みたいなのに乗ってるイメージが」

 

「はは、さすがにそれはないよ。まだ大学生だもん。」

 

「たしかにそうですね。まぁでも少し安心しましたよ。高級車だと落ち着かないと思うので」

 

「まぁそうだね。私もこっちの車の方が好きよ」

 

「意外ですね」

 

「私だって別になんでもかんでも高けりゃいいってもんじゃないのよ?」

 

「普段 高級品に囲まれて生活してないんで分からないですけど」

 

「ま、そうね。私の家族は普通じゃないもん」

 

その言葉が表す意味とは、やはり…

なんて考えてしまう自分がいるが口には出さない。雰囲気を壊したくないからだ。

 

「ちなみに南下してるみたいですけど、どこに行くんですか?」

 

「とりあえず伊豆の方かな〜」

 

「伊豆ですか… 熱海とか?」

 

「熱海も考えたけど、この時期は混んでるから行かないことにしたの。行きたかった?」

 

「いえ、どこでもいいですよ。俺はどこにでもついて行きますから…」

 

「君の誕生日なのに、そういう言い方すると私が勝手に連れ回してるみたいじゃん」

 

事実的にそうじゃないですか…

 

「陽乃さんみたいに活動的じゃないいし、千葉以外はよく分からないんで、だからどこでもいいんですよ。」

 

「言い方の問題よー。ホント、今日と明日くらいはわがまま言いなさい」

 

「まぁ、気が向いたら…」

 

「素直じゃないなぁ〜」

 

「お互い様ですよ…」

 

「ふふ、そうかもね」

 

 

車に乗ること約2時間半。

俺たちは伊豆に差し掛かった。

 

「伊豆って言いますけど、具体的にはどこに?」

 

「泊まるのは下田の方だよ。でも今日はとりあえず下田に行く途中のところを観光する感じかな。」

 

「下田だったら随分南の方ですね。

結構遠いですけど大丈夫ですか?」

 

「心配してくれるの?」

 

「そりゃまあ、こんなに運転してもらってますし…」

 

「ありがと、でも大丈夫だよ。

私は雪乃ちゃんとは違って体力はそこそこあるからね」

 

「そうですか。でも本当に無理そうだったら、いつでも休憩してもらって大丈夫ですよ」

 

「うん。ホントありがとうね。

けど、もうすぐ着くよ。」

 

「どこにですか?」

 

「浄蓮の滝」

 

「じょうれんのたき?」

 

「そう、伊豆の観光名所らしくて、行ってみたいなぁって思ってて。夏でも涼しいらしいよ」

 

「へぇ。」

 

ぼっちの俺は真夏に外に連れ出されるのが大嫌いだ。

アスファルトで反射する熱気と車の熱くて臭い排ガスの匂い。いるだけで汗が滴り落ちてくる都心の夏というのは本当に最悪だ。街全体に籠る熱気はヒートアイランド現象を巻き起こし、多くの熱中症患者を生み出す。

だが、陽乃さんが都心から離れ、山間に囲まれた滝の名所に連れて行ってくれるのは本当にありがたい。まさにナイスチョイスと呼べるものであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

山間の道、下田街道を下り伊豆半島の丁度真ん中あたりにその滝はあった。

 

滝の近くには大きな無料駐車場があり、多くの観光バスが止まっていた。

車を降りると夏にもかかわらず、千葉と比べればずっと涼しかった。

 

周囲には土産屋が並び観光客で賑わいを見せ、出店からは何かを焼いている香ばしい香りが漂ってきていた。また少し離れたところから水音が聞こえる。どうやら滝まですぐ近くのようだ。

 

陽乃さんに連れられ、看板に従い目的の滝を目指すことにした。

と言っても案の定 滝まではそこまで遠くはなかった。土産屋の並びを抜けそのまま階段を降りて行くに連れて水音が大きくなっていった。そしてそれに比例してヒンヤリとマイナスイオンって感じの自然の冷気が漂ってくる。

滝に通じる道から少し見下ろせば川が流れていて近くには山葵畑が広がっていた。山葵を栽培できるということは清流なのだろう。まさに都会から離れているからこそのことで、千葉では無理だなと思う。

 

歩いて数分。ついに滝が俺達の目の前に姿を現した。

 

落差約25m、滝幅7m。日本の滝百選に

選ばれる狩野川水系本谷川を流れるこの滝は、その高さから落ちる水によって生み出される轟音と、水や土、木々が織り成す豊かな自然によって冷気や自然の香り、荘厳な雰囲気があった。

 

まさに人智を超えた自然が生み出した光景は見る者を圧倒し感動を与える。聳え立つ摩天楼が空を覆い、コンクリートやアスファルトで塗り固められた現代都市では決して見ることのできないその光景は人類が遠い昔に忘れてしまった自然を明瞭に表していた。

 

俺と陽乃さんはその光景の前に言葉はなかった。美しいと言えば簡単だろうが、それだけで表すのは不可能であるということは明らかで、もはや言葉で形容すること自体が烏滸がましく、自然の神への冒涜とさえ思える。

 

感動と興奮、そして自然への畏怖の念とのせめぎ合いの中で俺はその光景に立ち尽くし眺めることしかできない。

 

陽乃さんも心なしかここ最近より表情が柔らかくなっていて、その滝を見つめていた。

 

 

 

 

時間にして約30分とちょっと俺達は滝を見ていた。久しぶり見た自然は安直な表現だが感動したと言うにに相応しかった。

お互いの交わした言葉数は少なかったが、言葉に表さなくとも自然の優美に心惹かれていたという事実はお互いが共有できているだろう。

そんな俺たちは、丁度よくも12時過ぎという時間帯ということで土産屋で食べ物と飲み物を買い、近くの木陰のベンチで昼食を取ることにした。

 

 

買った弁当を広げ、一口食べれば口には地元の食材を使ったいわゆる懐かしの味的な味が口に広がる。見かけは豪勢とは言わないが、その弁当の中に入っている折々の彩り溢れる食材は素朴ながらも確かな味付けと風味を感じることができた。 率直に言えば普通に美味い。

ジャンクフードが溢れる街中の食事とは違い、豊かな自然の景色に囲まれた食事はどこか風情を感じられた。

 

「美味しいね。」

 

「そうですね。なんとも景色に合った味だと思います」

 

「ふふ そうだね。たまにはこういうのもいいねー」

 

「陽乃さんはもっと高級そうなものを食べてるイメージがありますけどね」

 

「えーそんなことないよ?こういう昔ながらの味も好きだよ」

 

「へぇ 意外ですね」

 

「言っておくけど、私は君が思ってるほど世間離れした価値観は持ってないからね?」

 

「覚えておきます…」

 

「それと!どうだった滝?!」

 

「陽乃さんにしてはなかなか…

いや かなりいいチョイスだったと思いますよ…」

 

「でしょ?でしょ? もっと褒めてくれていいんだよ??」

 

そう言いながら陽乃さんは距離をどんどんと詰めてくる。

近い近い顔近い。

顔が近いですよお姉さん。

健全な男子高生に無闇矢鱈に接近するんじゃありません。

 

陽乃さんの今日の服装は紺色のロングスカートに白いノースリーブの服。

んーエロい。ノースリーブってのが特に。女の人の腕って男からしたら本当に柔らかそう。おまけにあんまり近寄られるとそのイタズラな胸元に自然が引き寄せられるので本当に無闇な接近はやめてほしい。

というか本当に陽乃さんって何カップなんだろう?変態?仕方ないだろ。だって男の子だもん。

 

 

「この後はどうするんですか?」

 

「んーとりあえずはこのまま下って下田の方に行こうかなぁ って思ってるんだよね」

 

「なるほど… まぁ お任せします」

 

 

 

 

 

下田までは浄蓮の滝から車で約1時間半であった。山々が連なる伊豆半島を下ると次第に海が見えてくる。山間の道なのに海が見えるという景色がなんとも素晴らしい。天気は晴れともあって、車窓から見る景色はどれもが輝いていたし、新鮮であった。

 

海沿いに出れば、あとは沿岸に沿った道に車を走らせる。まさにドライブって感じでCMに出てきそう。

 

「比企谷くん下田って行ったことある?」

 

「いえ、なんなら伊豆に来たことすらないですね。」

 

「じゃあ、今回のチョイスは当たりかな?」

 

「そうですね」

 

「なら良かったよ。せっかくの誕生日だからね。」

 

「そこまで意気込まなくても良かったんじゃないですか?」

 

「嫌、私は自分が納得するように生きていきたいの〜」

 

「そりゃすごいや」

 

「君はもっと正直に生きるべきだよ」

 

「どういう意味ですかそれ?」

 

「そのままの意味だよ」

 

「でも自分に正直に生きれるって。難しくないですか?」

 

「うん。難しいよ。すっごくね。世界はそんなに自分達には優しくないから」

 

「じゃあ俺には無理じゃないですか…。それに俺は正直に生きてるつもりですけどね」

 

「そうかな?」

 

「そうですよ」

 

「じゃあ、どうして君はそんなに人と距離を取ろうとするの?」

 

「……」

 

「君は本当にそんなこと望んでるの?」

 

「それは…」

 

「それが君の本心なの?違うよね?」

 

 

「でもきっと醜い感情ですよ。それは」

 

「醜くない人間なんていないよ。

所詮人間なんて欲望の塊、そこからは決して逃れることはできない。だからそこまで悲観することじゃないと思うな」

 

何が言いたいのだ?この人は…

分からない。彼女の心が読めない。

 

「陽乃さんは俺にどうしろと?」

 

「さっき言った通り、正直に生きなさいってことだよ」

 

「何故 そんなことを?」

 

「心境の変化ってやつかな?」

 

「何かあったんですか?」

 

こんな質問野暮だと分かってるのにな…

 

「まぁ、いろいろとね」

 

 

 

彼女の言葉が何を求めているのかは、分からない。彼女の真意というのはいつも不透明だ。

ある時 雪ノ下陽乃は俺や雪ノ下、由比ヶ浜につまらないと言った。

もし それが本物を求めた俺たち3人のの結果だとしたら?結果でなくとも過程だとするなら彼女の言いたいことがさらに分からなくなってくる。

俺の求める本物、つまり本心に忠実になることが彼女にとってつまらないものであるはずなのに何故 雪ノ下陽乃は俺にこんなことを言ってくるのか分からない。一見矛盾した彼女の言動に俺は困惑するしかないのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

陽は傾き、大地を照らし続けた光も陰りを見せ水平線に今にも沈もうとしている。俺たちは1日の伊豆観光を終え旅館に到着した。まさに和風といった感じの建物に着物を着た人が我々を出迎える。一通り荷物を降ろし、陽乃さんはチェックインの手続きを、俺はホテルでいうロビー(旅館ではなんて言うのかは知らん)でとりあえず待機。

 

やはり夏休暇の時期もあってか旅館内はそこそこの人がいた。家族連れやカップルや老夫婦まで年代、性別は様々であった。が、そんな中でも旅館内は美しい庭と館内の日本古来の装飾が独特の落ち着きと雰囲気をつくりだしていて、十分にリラックスできる環境といってよいだろう。

 

ちなみに下田に着いてからは街を散策した。ここは幕末に、開国した日本が一時的にアメリカの総領事が置かれた場所でもあり、あのハリスが滞在した場所でもある。同時 鎖国していた日本は大使館というものがなく代わりに下田にある玉泉寺を総領事館としていたらしくそこにも行ってきた。あとは海辺を歩いたり、土産を見たりと、のんびりと過ごしたのだ。

 

 

陽乃さんのチェックインの手続きが終わると旅館の人に案内され部屋に向かった。ホテルのオートキーとは違いアナログなカギがなんとも旅館らしい。

 

扉を開けて中に入ると畳の部屋が障子をまたいで2部屋そして窓の向こうには太平洋が見え、赤く燃ゆる太陽が輝いていた。

荷物を適当に下ろすと陽乃さんはそのまま畳に寝そべった。

 

「あーー疲れたぁーーー」

 

「お疲れ様です。お茶用意しますね。」

 

「お、気がきくねぇ」

 

「ここまで連れてきてもらってますからこれくらいじゃ全然足りませんよ」

 

「律儀だねぇ」

 

「人として当然のことですよ。」

 

「じゃあ 疲れた私にマッサージしてくれない?」

 

「は?」

 

「聞こえなかった?マッサージだよマッサージ」

 

「具体的に身体のどこですか?肩ですか?」

 

「んー全身かな? 足から肩まで

それとも何かな?比企谷くんは私の身体でマッサージしたい部分でもあるのかな?」

 

そういって陽乃さんは胸元を強調してくる。うわ あざとい。ハニートラップとしか思えない。

 

「一瞬 真面目にマッサージしてあげようと思いましたが、やっぱりやめておきます」

 

「ええ〜 なんでよー」

 

「陽乃さんの無駄な胸元アピールでやる気が失せました」

 

「えー結構 本気だったのにぃ」

 

「はいはいバカ言わないでください

はいお茶です。」

 

「あ、ありがと。でも比企谷くん結構私の胸見てるよね〜」

 

「いや、そんなことは…」

 

「あーダウト〜。女の子はそういう目線に敏感なんだからすぐ分かるんだよ」

 

「仮にそうであったとしても。陽乃さんへのマッサージは取り消しです。」

 

「いけずだなぁー。」

 

ただでさえ夏場の露出度の高い服なのに胸元アピールは本当にやめてほしい。目線が引き寄せられてしまう。

 

ちなみに今日宿泊する部屋は2人で一部屋での予約だ。

年頃の男女が2人きりで一部屋だけというのはなんということだー!と言われかねないが、予約したのが陽乃さんだしお金を出したのも陽乃さんであるために俺は最初は抗議したものの最終的には無駄とかした。

だが不幸中の幸いと言うべきか、この部屋は和室が2部屋あるために寝るときは中央にある障子を閉めれば一応 2つの部屋に区切ることができるのだ。

これで変な心配はなくなったと言えるだろう。まぁ仮に障子がなくても間違いは起こさないとは思うが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時刻は8時。ただ今 俺たちは部屋で絶賛夕食中だ。さすが旅館と言うべきか部屋には豪勢な地元の食材を使った料理が並べられていた。陽乃さんいわく出費を抑えるために旅館のクオリティーを落としたと言うが全くそうは思わない。むしろ十分過ぎるほどに満足いく旅館であった。

 

ちなみに俺たちは既に入浴は済ませてしまっている。ここは旅館でおまけに下田である。つまり有名な下田温泉があるのだ。よって俺は旅館内にある源泉掛け流しの温泉を堪能させてもらった。

最初、陽乃さんには一緒に貸切風呂入る?とか言われたがちゃんと断って男湯に入った。あの人と風呂とか色んな意味でヤバイ。多分 冗談なんだろうけど、それでもやめてほしい。

陽乃さんのジョークを華麗にスルーして浴場に向かうと、そこには少し熱めの湯と太平洋を一望できる景色があり、それらは俺の日頃の受験生としての疲れを癒してくれた。

久しぶりの温泉は身体に染み入ったし、どこか肌がツルツルになった気がする。やばい、雪ノ下に「まさに両生類ね」とか言われそう…

 

俺たちは2人とも浴衣に着替えている。寝巻きは一応持っていたのだが、せっかく旅館側が浴衣を用意しているのならそれに甘えさせてもらおう。浴衣の方が涼しいしな。

陽乃さんの浴衣姿は相変わらずエロい。胸元がはだけやすいので前屈みになられるのは本当に目のやり場に困るのでしっかり帯は結んでほしいものだ。

 

そんな陽乃さんであるのだが、現在 絶賛酔っ払い中。というのはこの人、めちゃくちゃ飲むのだ。最初にビールを二杯。そのあとは日本酒とワインを飲み干した。しかもかなりのハイペースで。

以前 彼女は自分で酔えないと言っていたが、どう見ても酔っているようにしか見えない。呂律はしっかりしているのだがいつにも増して上機嫌な陽乃さんはヘラヘラと俺をからかったり愚痴を言ったりと、本当にその辺の酔っ払いと変わらない。

ちなみに俺は手堅くオレンジジュースだ。陽乃さんに飲めと言われたが勿論断った。

 

 

夕食もあらかた食べ終わり、後はデザートくらいとなった。

陽乃さんは少しだが落ち着きを取り戻しワイングラスを回しぼーっとそのグラスを眺めていた。何かを考えている時の表情だと俺はすぐに分かった。

赤みを帯びたその頰とどこか鬱陶し気な目、紅く綺麗な潤った唇。彼女を構成する顔のパーツが描き出す雪ノ下陽乃の表情はあの日の表情に少し似ていた。

 

もの悲し気に儚く、憂いを感じさせる表情。

あぁ、そんな顔しないでください。

と そう言ってしまいたい。彼女のその表情を見ると俺はいつも酷く嫌な現実を突きつけられたような気がして見ていられない。少し前ならそんな表情なんてしなかった。前みたいに笑っていてほしい。俺は普段とは違う彼女に戸惑うことしかできないのだ。

 

この1ヶ月。雪ノ下陽乃と過ごした時間はなんだったのだろうか?

雪ノ下家の問題から始まったこの関係は曖昧にもここまで引き伸ばされた。

雪ノ下の頼みと、陽乃さん自身のためならばと陽乃さんの願いのために過ごしたこの1ヶ月だが、何か進展したかといえばNOだし、何か解決したかといってもNOだ。根本は変わらない、俺は何か彼女たちの役に立てたのだろうか?

俺がいた意味はあるのだろうか?そんな疑問が俺の頭をよぎる。

 

「比企谷くんの本物って見つかった?」

 

そう、彼女はいつものように唐突に問いかけてくる。が、目線は俺には向いてはおらず今もなおグラスの水面を眺めていた。

 

「いえ…」

 

と一言で俺は返す。

 

 

「ふーん そっか」

 

と陽乃さんはグラスに残ったワインを一息に飲み干す。そして空になったグラスをコトンと机の上に置く。

と同時にそれがまるで合図かのように部屋の空気がガラリと変わる。陽乃さんは俺の方を見つめ、対話する姿勢に入ったことを示す。刹那、ピンっと若干の緊張が走る。

陽乃さんの顔は高揚しているにもかかわらず目は生きていた。顔色とは裏腹にその目は俺を見据えいつものような威厳を保っていた。

 

「じゃあ、それは見つかりそう?」

 

「どうですかね。今のところは確たるものは何も、といった感じです」

 

「そっか」

 

雪ノ下陽乃が何を考えているか分からないのは今に始まったことではない。

常に腹の中では何かを企み、自分が満足できるように場を引っ掻き回したり、そのまま生殺しにしたりするのだ。

好きなものには構い過ぎて殺す、なんとも的確な表現だと思う。その状況に今の俺がなっている可能性も十二分にあるのだが、俺はそれとは違うここ1ヶ月の雪ノ下陽乃に賭けてみたいと思った。

よって、俺は1つ踏み出すことにした。

 

  

「どうして陽乃さんは

俺にいつも「本物」だなんて聞いてくるんですか」

 

ずっと気になっていたことだった。

どうして彼女はいつも俺に現実を突き付けてくるのだろうか。無論、俺だって自分が求める本物がどれだけ現実味がなく幻想に近いものであるかなど分かっている。それでもも彼女はいつも掴みかけたようなで希望さえも全て殺してしまうように非情な現実を突きつける。

彼女は言うのだ、それは本物ではないと。幻想であると。そして常にその存在に疑いの目を向ける。徹底的に否定しようとする。たがそうでまでして彼女がやりたいことは何なのだろうか?

それがずっと俺にとっての疑問だった。

 

「…どうしてだろうね」

 

 

彼女の第一声に明確な答えはなかった。

彼女はそれを言うと同時に再び陽乃さんはグラスにワインを注ぎはじめた。考える猶予をくれとでも言うように。

トクトクと瓶から流れ出る音が部屋に響き渡る。

そしてグラスの半分程ワインを入れると、陽乃さんはそのワインをまた一口飲む。

 

そして二口目にはいかずグラスを静かに置いた。

 

「私はね、信じてないの。君の言う本物っていうのを。いや、信じたくないっていうのが正しいかも」

 

彼女はどこか哀しげに、失望するような表情をしてそう言った。

 

「だって、そんな言葉だけみたいのものなんだよ。ある訳ないよ。ありえない…」

 

陽乃さんの声のトーンが少しずつ落ちて行く。

 

「私はそんなもの見たこともないし、聞いたこともない。私の周りの人は、自分勝手で利己的で、いや、私の周りだけじゃない。きっとみんなそう。人間なんてそんなもんなんだよ。自分ってものがある限り、人と人が完全に許容しあって生きてくなんて無理……」

 

彼女はそのまま低い声で、まるで「本物」の全てを否定し、自分の思いを吐き出すようにゆっくりとそう言った。

その時の彼女はまるで何かに絶望したかのような表情と口調だった。

だが最後に、

「でも、それでも比企谷くんは本物が欲しい?」

と、彼女は聞いてきた。

ここまでしても、彼女はこうして俺に突きつけてくるのだ現実を。

何度、こんなやり取りを繰り返しただろうか。それでも結局、いつもはぐらかしたり、誤魔化したりと結局お互いに確定的な答えが出たこともなかった。

だってそんなこと分かってるのだ、

俺だって、「本物」がどれだけ遠く、手の届かない場所にあることなど。

それがどれだけ幻じみた存在であるかなど。

俺だってそんなもの実際に見たこともないし聞いたことも体験したこともないし、その本物というものがどんな状況で、どんな関係で、どんな人間と生じうるのかも分からない。

そんなことを思えば、自分がどれだけ自分勝手で、傲慢で利己的で理想主義的な人間であると思い知らされるし、そんな自分が気持ち悪くて仕方ない。

 

でも、

 

 

それでも、、俺は決めたのだ、

 

それがどれだけ難しくても、

どんなに手の届かないものでも、

どんなに辛くても、

どれだけ馬鹿げてると否定されようとも、

 

それでも俺は、、

 

 

俺は、、 本物が欲しいと、

 

だから変わらない。俺の気持ちは。

例えそれがずっと分からなくても、見つからなくても、どれだけ追い続けたとしても。

 

俺は 本物が欲しい、

 

なら彼女の問いの答えは決まってる。

 

「それでも、俺の気持ちは、変わりませんよ 今でも欲しいです。」

 

俺はそう言い切った。

俺の気持ちを、俺の真意を。

どんなに否定されようとも俺は変わらない。変えるつもりもない。

分かりきった現実に縛られるのはもうやめだ。俺はここで決める。俺は自分の理想を追求する。たとえ、相手が雪ノ下陽乃でもだ。俺のこの確かな信念は絶対に曲げさせやしない。

俺はそう目の前の人に言うように、陽乃さんを見据え、目線は逸らさず真っ直ぐに対峙する。陽乃さんも表情1つ変えずに俺の声に耳を傾けていた時と同じ姿勢で俺を見つめ返す。その姿に彼女の感情は現れていない。彼女はただ前にいる人間を圧倒するように、凛と構えていた。

 

沈黙が走る。

 

陽乃さんは目線を一切ズラすことなく俺のことを見つめていた。美しさの中にある厳しさを孕んだ彼女の目は俺を射るように突き刺してくる。

正直に言えば本当にこのまま目を逸らしてしまいたい。この圧力から解放されたいという気持ちが時を刻むごとに高まっていく。

だが、ここで目を逸らすわけにはいかない。これは俺の決意を貫き通すための一種のケジメだ。彼女は試しているのだ、疑っているのだ。だから、それに屈するわけにはいかない。

もちろん目線を逸らせば負け みたいなルールはない。しかし、俺の中で目をそらす事は負けを意味するような気がしてならなかった。

 

だから俺は身体中に力を入れるようにしてこの状況を耐える。

微動だにしていないのに謎の汗は流れてくるし、どこか息苦しくてありゃしない。かつてないほどの緊張が俺の中で走っていた。

 

 

 

体感にして数十分。その緊張状態は突如切れた。

やはりその緊張状態を切ったのは陽乃さんであった。

陽乃さんは「そ」 と一言言って、姿勢を崩したのだ。そしてグラスに入っていたワインを全て飲み干したのだった。

 

 

「それが、君の決めたことなんだね…」

 

「…はい」

 

ふーん と彼女は言って何も入っていないグラスに目を落とした。厳しさを孕んでいたその目には先程の哀しげでどこか落胆したようにも見える雰囲気が漂っていた。

 

「….失望しましたか」

 

「思ったよりそうでもなかったかな」

 

「そうですか…」

 

「君ならなんとなくそう言うと思ってたからね。」

 

「じゃあ聞かなきゃよかったじゃないですか」

 

「それでもやっぱりちゃんと声にして聞いて確認した方がいいでしょ?」

 

「そういうもんですかね…」

 

「女の子はみんな分かってても声にしたものを本人から直接聞きたいのよ」

 

「意外ですね。そんな乙女チックみたいなこと言うなんて」

 

「またそんなこと言うー。私だって乙女なんだぞー」

 

「そんなこと言って、乙女っぽいところほとんど見たことないんですが…

それともなんですか、後輩を虐めることの乙女のすることなんですかね。俺は彼女とかできたことないんで乙女とかよくは知らんのですけどね」

 

「まぁ、確かに君の言う通り、実際乙女っぽいところなんて私にはなかったよ。フリをすることはあってもね。だから私は見せかけの乙女なの」

 

「今更そんなこと分かってますよ」

 

「でも、だからこそ雪乃ちゃんたちが羨ましいな。好きに乙女ができて」

 

「雪ノ下が乙女?笑わせないでくださいよ」

 

「君は鋭いのか鈍感なのか分からない子だね… 雪乃ちゃんは十分乙女だよ。少しとっつきにくいところはあるけど、私からしたら十分乙女よ」

 

「そうですかねぇ」

 

「そうよ。私が言うんだから間違いない」

 

「あなたは神かなんかなんですか…」

 

「おうよ、女神様と呼んで構わないよ少年」

 

「女神様がこんな怖いなんて嫌ですよ」

 

「うわー酷いなぁ」

 

 

シリアスな話から一転。その後の会話はくだらないたわいもない内容のものだった。お互いに冗談を言い合ったりと、ここ最近では1番 和やかな雰囲気だった気がした。彼女の真意はよそに彼女の感情はよそに、まるで何かを誤魔化して慰めるように俺たちは時計の針が頂点を回るまでその時間に興じるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

予告

 

誕生日プレゼントという建前の二人の旅行は後半を迎えた。

人混みに当てられる生活に慣れた二人に目前に広がる華々が語り出す。ついに決意を決めた彼は彼女に歩み寄るが彼女が見せた表情とは裏腹に現実とは残酷なものだった。

 

 

 

次回 「落ちた花弁」

 

 

 

 

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