仮面ライダーW 『Case of Chaotic City』 作:津田 謡繭
Nothing is as uncertain as 『Memories』 of last night
◇
──男は中身っていうけど~やっぱり見た目も大事だと思うでしょ~。
アタシの彼氏は性格はバツグンだったけど〜顔がイマイチだったのよね〜。
そこに現れたのよ〜理想のイケメンが〜!
でも~二股ってレディーのすることじゃないじゃん~? 理想のルックスの中身が~理想の性格なら問題ないんだけどね~。
だから~混ぜたの~。
性格超クールな彼を~生きたまま叩いて潰して溶かして液状化して~超イケメンの彼の血液と全部入れ換えたの~。
で~アタシにふさわしい最っ高の宝物のでっきあっがり~ってわけ~。
うらやましい〜?
簡単よ~やり方教えたげよっか~? ──
──ある偏執狂の自慢話
◇
「とりあえず今日は解散。じゃ、また明日」
とスティーブンに言われ。
「翔太郎君、フィリップ君。もし行くところがないのであれば、しばらくは事務所で寝泊まりしてもらっても構わない」
とクラウスの親切を受け取り。
激動と激闘の一日もひとまずは終わりかと安堵しかけた翔太郎だったが、どうも休息はまだ先らしかった。
「オラ飲み行くぞオラ! 付き合えオラ!」
わめくザップに歩道を引きずられながら、翔太郎とレオはぶちぶちと文句を言っていた。
「なあザップ。頼むから今日はもう休ませてくれよ」
「ザップさん。僕、明日もバイトなんすけど」
「だいたいお前二日酔いだっつってたじゃねえか」
「絶対徹夜コースですよねコレ」
「ちっとは休めろよ肝臓を」
「飲みたいなら一人で飲めばいいじゃないすか」
「早死にしても知らねえぞ」
「巻き込まないでくださいよぉ」
「聞いてんのかザップー?」
「聞いてますザップさん?」
「だあああああ!! うっるっせえつのっ!!」
交互に繰り出されるチクチクした不満にぶちギレたザップが、二人の襟首をつかんだ手をぶんぶんと上下に振る。
それに連動して尻をごすごすと道に打ちつけられ、翔太郎とレオは同時に「あだだだ!」と悲鳴をあげた。
「飲みに行くっつったら飲みに行くんだよ! 黙って付き合え陰毛・ザ・トリプル!」
大きく口を開けて叫び散らしつつ、これまた大股でずしずしと歩いていくザップに、それでも二人は文句を言う。
「そのバスキン・ロビンスのお得メニューみたいなまとめ方やめてくれませんかねマジで」
「だいたい変身解除してんだから、今はフィリップいねえっての」
そう。すでにフィリップは自分の体に戻り、事務所のソファの上だ。
この強制連行からまんまと逃げおおせた相棒を、翔太郎は「ずるいよなぁ」とうらやんでいた。
もっとも、この時すでにチェインによるささやかな復讐は執行されていたので、単純にうらやましい状況でもなかったのだが。
しかし翔太郎はそんなことは知らないので、やはり小さな不公平を感じつつ、レオと並んで繁華街を引きずられていくのであった。
それが約30分前のことである。
今、翔太郎はバーカウンターに腰掛け、店内を流れるゆったりしたジャズに耳を傾けながら、片手でグラスを揺らしていた。グラスの中身はノンアルコールのレモンフィズだ。
ザップのことだからどんな
しっとりした照明の洒落た店内。流れるイージーリスニング。客がほとんどいないのも逆に落ち着きがある。
カウンターの向こうでグラスを磨くマスターは寡黙に仕事をこなすプロの雰囲気だ。顔はワタリガニにそっくりだったが、さすがにもう気にはならない。
静かな夜。穏やかな時間と、訪れるまどろみ。
グラスをひとつ拭き終わるたびにピコピコ動くマスターの触覚をぼんやり眺めながら、一日に疲れた
ところで翔太郎たちは三人でこの店に訪れたわけだが、ここであえて『二人は』と表現したからには、そうでない者が一人いるのである。
「えっひゃっひゃっひゃろろろ! べべべべしべしべべべべべ!」
一人というより、もはや一匹。
静かな夜も穏やかな時間も訪れるまどろみも、ぶち壊してなんぼと言わんばかりに声をあげるその生き物は、周囲の椅子を蹴散らしながら芋虫のように床を這いまわっている。
白い服を着た褐色の芋虫はザップにとてもよく似ていたが、口から紫色の粘液を垂れ流しているので、やはりザップではないような気もする。
「うべべうんべるべるべっしゃっしゃしゃしゃ」
いや、正直に言うと翔太郎は認めたくなかっただけだ。
タイルを変な汁でデロデロに汚しながら徘徊するこの芋虫が、何度も命を救ってくれた恩人だと考えるのが嫌だったのだ。
実のところ、ジャズに聞き入っていたのもマスターの触覚を凝視していたのも、単に背後でうねりまくるザップを意識の外に追いやるためである。
だが、ザップが「ピンッッ!!」という
「なあ……」
隣のレオに声をかける。
「なんですか?」
レオが炭酸水の入ったグラスを揺らしながら答える。その顔は「慣れたもんですよ」と物語っていた。
翔太郎は「いつもなのか」と軽く絶望しつつ、とりあえず気になっていることを質問した。
「なんつううか……早くねえか?」
「早い、とは?」
「いや……飲み始めてまだ20分も経ってねえぞ。どうやったらこんなに酔うんだよ。いや、そもそも普通は酔っただけでこうはならねえと思うんだけどよ……」
ザップへと目を向ける。
どういう理屈かわからないが、ザップは体をまっすぐに伸ばして顔面で逆立ちしていた。なにか深い意味の現代アートに見えなくもない。
耳をすますと、顔と床の隙間から「べべべべべ……」と小さなうめき声が聞こえる。
「聞いたところによると、どうも血流を操作してアルコールのめぐりを促進してるらしいです」
「それでこうなるもんなのか」
「あー、それはどっちかっていうと、アルコール自体の問題ですかねぇ」
レオにうながされ、ザップが座っていた席を見る。なるほど、そこに置かれたグラスの中の液体は、虹色に変化しながら勝手に増えたり減ったりしていた。
普通の酒でないということはわかったが、今度はわざわざそれを飲む理由がわからない。血流の操作にしても、変なところにアルコールが入れば即死ではないか。
なぜそんなことを、と聞いてみる。だがレオは平然と「さあ」と答えただけだった。翔太郎が黙り込むと、「テンションが上がって楽しいのかも」と付け足した。
──わっかんねえ……
現代アートから再び芋虫にもどって床を転がり始めたザップから目をそらし、翔太郎は別の質問に切り替える。
「ところで、あいつは魚になんか恨みでもあんのか?」
この疑問が浮かんだのは飲み始めてすぐだ。
まだちゃんと椅子に座っていたころのザップはものすごい勢いでグラスを空にしながら、魚類はダメだ魚類はダメだ、と呪詛のように繰り返していたのである。
「ああ、魚類っていうのはツェッドさんのことです」
話を聞くと、ライブラのメンバーにツェッドという人物がいるとのこと。
彼はザップと同じく
「正確に言えば、ザップさんがチンピラみたいにつっかかって、ツェッドさんがあきれながら反論するって感じですけど。今日もクローン幻獣の件でなんかあったんじゃないすかね」
実際、その通りだった。
後で聞いた話によると、ザップの猿語と疲労からか二人の連携がほんのわずかに、ごくごくわずかに噛み合わなかったらしい。そこへ不意打ちに近い形で一撃くらい、クローンを一匹取り逃がしたそうだ。
結局そのクローンはツェッドが追いかけていって始末したのだが、そのせいで爆卵蟲との戦闘には間に合わず、ザップはそのことを根に持ってぐちぐち言っていた、という顛末だった。
「にしても変わったあだ名だな、魚類って。サカナ顔なのか?」
「あ……いえ……サカナ顔というか……」
「……?」
レオが言いよどんだ理由を翔太郎はそう遠くない未来に理解するのだが、それもまた後日である。
「ま、他にも謎は尽きねえが。それよりも素直に尊敬するぜ。こんな未確認生命体みたいな奴の飲み歩きによく付き合えるな」
「付き合ってるというか、付き合わされてるんですけどね。強制的に。まあ、基本的には人間の屑ですけど、やっぱりけっこうな回数ザップさんには命拾ってもらってるんで」
言いながら苦笑するレオ。
「あと、それなりに面倒見のいいところもあるにはあるんですよ。日頃の行いからしたら秒で消し飛ぶレベルですけど。案外、今日のこれも翔太郎さんとフィリップさんへの歓迎の意味も含んでるんじゃないですかね。たぶん、半分くらいは」
「そうかあ?」
二人が目線をザップに向ける。
「べべべべべべべべべべべべべべべべ」
ザップはいつのまにか芋虫から掘削機にジョブチェンジしていたらしく、打音が途切れないほどの高速で頭を床に叩きつけていた。芋虫形態の時に吐いた紫色の粘液がぴちゃぴちゃと周囲に飛び散って汚いことこの上ない。
「……まあ、一割くらいは」
「……そうか?」
言いなおしてまた前を向くレオ。
と、その表情がふっと柔らかくなる。
「それに……たまにはこういうのもいいかなって思えるんです」
そう言ってレオはグラスに口をつけた。
そうしてわずかに減った炭酸水の気泡を見つめながら、言葉をつづけた。
「この街で暮らしてると、どうしても何かに押しつぶされそうな不安を感じる時って、やっぱりあって。そんな時にザップさんみたいに自由な、っていうか、支離滅裂な人が横で騒いでると、そういうどうしようもない不安とかも割とどうでもよくなっちゃったりして」
翔太郎に向き直り。
「そういうとこでも助けられてるのかもしれません」
はにかむように目を細めるレオ。
そんなレオを見て、翔太郎にはまた聞きたいことができた。
レオはどうしてヘルサレムズ・ロットにいるのか。
どうしてライブラに入ったのか。
だが、翔太郎がその質問を口にすることはなかった。
それはきっと、レオの『眼』に関わることで。それならばきっと、翔太郎の方から聞くことではないのだ。
会話が途切れ、ゆっくり流れるジャズの音色が再び存在感を強める。
「俺もなんか飲むか」
何かを思いきるようにそう言って、翔太郎は空になったグラスを持ち上げた。
「翔太郎さん、お酒飲めるんですか?」
グラスに入っていたのがノンアルコールカクテルだったのを知っているレオがたずねる。
翔太郎はチッチッと指を振ると、左手で帽子を押さえ角度をキメた。
「俺は風都一の、ハァードボイルドな探偵だぜ。酒が飲めなくてどうするよ」
そして「何にいたしますか?」とグラスを受け取ったマスターに、キメ顔のまま喋々と語り始めた。
「ハードボイルドの素人は安直にギムレットを頼みがちだ。『ギムレットは早すぎる』の名言で有名だからな。だが、俺は違う。直接の描写がなくともうかがえる、マーロウが愛飲しているだろうバーボン……『オールドグランダッド』だ! 銘柄は『114』、もちろんストレートで!」
ビシリと言い切った翔太郎。
その後ろでは、ザップがもやは聞き取るのも難しい高音で何かを叫びながら芋虫と現代アートと掘削機をローテーションしていたが、翔太郎はくじけなかった。
なだらかなジャズと怪音波が流れる店内。
ぽかんと口を開けたレオと、キメ顔のまま目を閉じた翔太郎の前で、ワタリガニの顔をしたマスターが静かに「かしこまりました」と一礼した。
◇
旧マンハッタンの夜風に揺り起こされ、目を開けたフィリップは思わずため息をついた。
「おぉ……」
憂鬱ではなく感嘆。眼下に広がる夜景があまりにも美しかったからだ。
黒よりも深い
煌々と燃える
その夜景は、静けさの漂う風都の夜とはまったく違う。
とくに光の濃い都市部は全体がまばゆい黄金色に包まれ、その中では散りばめられた色とりどりのネオンがキラキラと瞬いている。霧にぼやけた絢爛な光の彩りは、まるで蜂蜜をまとわせたオパールのようだった。
「すごい……」
率直な褒め言葉と一緒に白い息が漏れる。
街を覆う霧以外、気候はNYとほとんど変わらないらしい。冬も終わりとはいえ、夜の気温は5℃もなさそうだ。
だが、街の灯りに見惚れるフィリップは寒さなど気にもならなかった。
なお現在、彼の体はロープでぐるぐる巻きにされて超高層ビルディング最上階のバルコニーから1mほどの位置にミノムシのようにぶら下げられているのだが、それさえフィリップは気にしていなかった。
いや、むしろ自分をぶら下げた人物に感謝していた。
基本的にはガレージにこもってばかりのフィリップ。こういう形でもないと夜景を見に外へ出るようなことはないのだ。
そんな自分を連れ出してくれた、いや吊り下げてくれたのは誰か、と記憶をたどる。
Wから自分の体に戻って数分後、いきなり目の前に鉄パイプを握りしめ人殺しの目をしたチェインが現れたところまではハッキリ覚えている。直後に頭部に強い衝撃を受けて意識が途切れたのが最後の記憶だ。
以上のことから推測すれば、フィリップを寒空にぶら下げたのは十中八九チェインで間違いない。
──次に彼女に会ったらお礼を言わないといけないな
心の中でチェインに感謝するフィリップ。
翔太郎がいたならば「いやまず謝れよ」とあきれるのだろうが、今はそのズレた思考にツッコミを入れる人間はいない。
スッキリした顔でひとり満足げにうなずき、フィリップは再び夜景を楽しもうと視線を下に落とした。
「……ん」
と、その視線がある一点に留まった。
ひときわ霧の濃い街の中心部、そのさらに中心。街の光を呑み込みながら口を開ける巨大な穴があった。
穴の輪郭すら薄めるほどの濃い霧はそこから噴き出しているようにも、逆に穴に吸い込まれているようにも見える。
よくよく目を凝らせば、周辺の建物たちが穴に落ちていくかのように傾き立っているのがわかった。
──あれが『永遠の
レオから聞いた異界と現世をつなぐ穴だ。
穴とはいっても永遠の名の通り、底というものがあるのかどうかも怪しいらしい。向こうにあるのが異界そのものなのか、それとも別の何かなのかもわかっていない。
それを調べに深部に潜っていった者は数えきれないほどいる。実は帰ってきた者もいるにはいる。
だが足首から下だけが歩いて帰って来たのだったり、真昼の交差点にいきなり現れたかと思えば半径2mの空間を巻き込んで消失したり、脳や臓器の代わりにライムゼリーが詰められていたりと、情報を得られたためしがないそうだ。
──うん、興味深いねえ
その奥にはいったい何が潜んでいるのか。
いつものように背中がゾクゾクし、好奇心が顔を出す。
だが、膨らみ始めた好奇心をフィリップの中の何かが制止した。
──知ってはいけない? いや、知ろうとしてはいけない?
フィリップの背筋を、今度は悪寒がゾクリと走った。
今までこんなことはなかった。
知りたくないと目を背けたことはあっても、好奇心そのものに蓋がされたことはない。
──ぼくは何が怖いんだ……?
まるで見えない何かに背後から覗き込まれているような、言いようのない危険を感じた。
目を閉じたフィリップの身体がぶるっと震えたのは、寒さだけが原因ではなかった。
「ねえ、あなたは人間?」
突然、真上から落ちてきた声にフィリップはハッと我に返った。
「それとも、大きなミノムシさん?」
それは少女の声だった。あどけなく、軽やかに澄んだ可愛らしい声だった。
反射的に上を見るが角度が悪い。視界に入るのは霧の暗い空だけだ。
「ねえ」
声が答えを催促する。
こちらからは見えないが、声の主はバルコニーからフィリップを見下ろしているようだ。
突然の来訪者に戸惑いつつも、とりあえず返事をする。
「ぼくは人間だよ」
返事をもらえて嬉しかったのだろうか。上から少女の微笑む声が聞こえた。
「じゃあ、なんでミノムシのまねなんかしているのかしら?」
「別にミノムシのまねをしているわけじゃない」
「そうなの? なら何をしているの?」
質問を返されてフィリップは少し考えた。
何をしているのか、と言われても困る。この状態はフィリップの自発的なものではない。
かといって、この少女にチェインを怒らせたことから説明を始めるのも何か違う気がした。
なので、ひとまずこう答えることにした。
「……夜景を見ているんだ」
別に嘘は言っていない。今フィリップがしていることと言えばそれぐらいだ。まあさすがにフィリップ自身、とんちんかんな答えだとは思ったのだが。
しかし少女の方はこの答えを気に入ったようだった。
「すっごく変な方法で夜景を見てるのね! ふふっ、でもステキだわ」
おかしそうにくすくすと笑う。
その笑い声を聞きながら、フィリップはこの少女が何者なのかを考える。
声の質と雰囲気からして、年齢は10才前後といったところだろうか。
だが、この推測は相手がただの人間であると仮定したときのものだ。つまりこの街では大して意味を持たない。
可愛らしい声を出せるだけで、身長4mの筋肉ダルマかもしれないし、体脂肪率95%の謎生物かもしれない。
「いま失礼なこと考えてるでしょ」
そう少女(仮定)に言われ、フィリップは慌てて「いや、別に」とお茶を濁した。
「君がいったい何者なのかを考えていたんだ。教えてくれないかい?」
正直にたずねてみる。
実際、気になり始めていた。
論理的な話が通じないので、基本的に子供と関わるのは好きではなかったが、この少女からは何か普通と違うものを感じていた。まるでフィクションの存在と話しているような奇妙な違和感。
少女はまた、くすくすと笑いながら答えた。
「わたしも人間よ。あなたとおんなじ」
「そんなはずはない」
少女の答えをすぐに否定する。
彼女がいるのは世界を守る超人秘密結社の本拠地だ。まさかこんな時間に、こんなところに、ただの人間の少女が来られるわけはない。
「もしかして、君もライブラのメンバーなのかい?」
それなら一応の説明がつくと思いながら推測を口にするも、少女の答えは期待したものではなかった。
「らいぶら? 聞いたことないわ。本当よ。わたしはあなたとおんなじ、人間の女の子」
「嘘だ。ありえない」
もう一度否定する。
ライブラでないのなら、なおさらただの人間であるはずがない。
「ふふ、ノーばっかりね」
少女は相変わらず笑っている。このやりとりが楽しくてしょうがない、というように。
「じゃあ聞くけれど、人間ってなあに?」
「え……?」
フィリップは言葉を失った。
ヒトの生物学的な定義を答えるのは簡単だ。
しかし、それは少女の問いに対する答えではない。そう思えた。
ただでさえ境目の曖昧なこの街において、人間とは何なのか。うまく説明できなかった。
──なら、ぼくは人間なのか?
そんな疑問が頭をよぎる。
少女の最初の質問に、フィリップは「自分は人間だ」と答えた。
本当にそうだろうか。
フィリップはこれまで二度、その命を失っている。
今の命と肉体は、姉の園咲若菜から譲り受けたものだ。
地球を見守っていくべきは誰よりも優しいフィリップだ、と。
あれから数年。
ミュージアムであった園咲への複雑な思いとは別にして、フィリップは家族への感謝と誇りを忘れたことは一度もない。託されたその思いを常に抱いて生きてきた。
それでも、心のどこかで不安を感じていたのかもしれない。
若菜から受け継いだものとはいえ、フィリップの体は一度消滅し、地球の記憶から再構成された、言わばデータの塊だ。
普段は翔太郎たちと同様、食事をし、睡眠をとり、人間として生きている。
だが、その本質がデータ化された偽りの肉体であるならば、その気になれば食事も睡眠も必要としない体に再構築が可能だ。
──それは果たして人間と言えるのだろうか
もしかしたら、翔太郎や他の人々とは根本から異なる自分の存在に、どこか漠然とした疎外感を感じていたのかもしれない。
だから今、自分は答えに詰まっているのかもしれない。
──翔太郎ならなんと言うだろう
だが、それを考える前に少女のくすくす笑いが頭の中をかきまわす。
「ね? 考えたってわからないでしょ? だから人間ってことにしておけばいいの。わたしもあなたも」
「……そういうものだろうか」
自分の中での結論は出そうになかったが、少女の言葉がフィリップの一番欲しかった答えのように思えた。そういうものかもしれないと無理に納得して、フィリップは底なし沼にはまっていくような思考を止めた。
少女のイメージが以前読んだ『不思議の国のアリス』の
「ねえ。そんなことより、あなたのお名前を教えて」
無邪気な声が笑いかける。
さっきと違って簡単な質問だ。これならすぐに答えられる。
「フィリップだ」
「ウソね」
今度は少女が否定した。
実際、フィリップというのは記憶を失っていた自分に鳴海荘吉が名付けた名前で本名ではないのだが、そのあまりにキッパリとした言い方にフィリップは首をかしげた。
「なぜだい?」
「だってあなたどう見ても日本人だもの。日本人の名前はタロウとかハナコとかヤマダとか、そういうのよ。わたし知ってるんだから」
自慢げに胸を張る少女の姿を想像してフィリップは微笑んだ。
一般的にハナコは女性名でありヤマダは苗字だが、とりあえずそこは問題ではない。
「なるほど、その通りだ。実に論理的な思考だねえ」
確かにフィリップはどう見ても日本人だ。相手が首をかしげるのも理解できる。
もちろん、日本人にしか見えなくても自分の血に誇りをもって英名を名乗る人もいるし、そうでなくても最近はいろいろな名前の人がいるらしい。
珍しい方には違いないが、ありえない話でもない。
それをキッパリ「嘘だ」と言えるくらいには、やはり声の主はまだ子供なのだろう。
ライブラの面々に自己紹介をした時も一瞬ヘンな顔をされたが、すぐに
「あ、わかったわ!」
少女が嬉しそうな声をあげる。
「フィリップってコードネームね! あなた日本のスパイなんでしょ」
得意げに披露されたその推理に、フィリップは思わず吹き出してしまう。
なんとも可愛らしい発想だ。
彼女の考えでは、日本の諜報員はミノムシになって夜景を楽しむものらしい。
「なにがおかしいの?」
くくっ、と笑いをこらえるフィリップに、少し不機嫌そうにたずねる少女。
フィリップは「すまない」と前置きしてから答える。
「確かに君の言う通り、フィリップは本名じゃない。けれど、この名前は今のぼくにとって生き方の証なんだ。だからぼくはフィリップでいいんだ」
「ふうん、そうなのね。わかったわフィリップ。あなたはフィリップよ」
少女は納得してくれたらしい。
今度はフィリップがたずねる。
「ぼくだけが名乗るのもおかしいだろう。君の名前も教えてくれたまえ」
彼女が何者なのかはわからないが、名前を聞いておけば後で『検索』できるかもしれない。そう思っての質問だった。
だが、少女はすぐには答えなかった。
代わりに何かを考え込むような、「うーん」という唸り声が聞こえた。
そして今度は「あ!」と明るい声を出す。いいのを思いついた。そんな声だ。
「シャーリー! わたしの名前はシャーリー。ね、いい名前でしょ?」
まねっこか、とフィリップは微笑む。
「嘘だねシャーリー?」
「むぅ……そうよ」
また不機嫌そうな声になった少女にもう一度たずねる。
「君の本当の名前が知りたいんだ」
「ならあなたの本当の名前も教えて。そうじゃないと不公平よ」
なるほど確かに少女の言うとおりである。
円滑なコミュニケーションのためには情報の一方通行はよくない。
「これは失礼。ぼくの本名は園咲来人だ」
「ソノザキ・ライト、ね。覚えたわ」
「もっとも、やはりぼくのことはフィリップと呼んでほしいね」
「ふふ、わかったわフィリップ。じゃあ、わたしも教えてあげる」
少女の明るい声が響く。
「わたしのホントの名前はね──」
ふと違和感を覚えた。
声のする方向が変わったような──近くなったような。
その瞬間、フィリップの目の前に少女が落ちてきた。
頭から。上下さかさまに。真っ白な少女が落ちてきた。
夜空を嫌うような白いワンピースをまとい。
街の灯りを透き通る白い肌に受けて。
そのすべてが色づいて見えるほど白い髪を、吹き上げる風になびかせて。
「────忘れてしまったわ」
微笑み。
目が合う。
その瞳には何も映っていなかった。
何を映せばいいのかさえ忘れてしまった瞳だった。
すべてが白い少女の、ただその瞳だけが、
一瞬で過ぎ去った少女の声を頭の中で数回繰り返し、ようやく我に返ったフィリップが下を見ても、もうその姿はなかった。
数百m落下していったはずの少女のことが、なぜかまったく心配にならなかった。
まるで現実味がないのだ。今までのできごとがすべて夢だったような。たった今、その夢から目覚めたような。
いや、もしかしたら本当に夢だったのかもしれない。
小さく息を吐いて、フィリップは再び夜景に目を落とした。
数分前に見惚れていたのとまったく同じ街の灯りが広がっている。
だが、数分前にこの光景を見ながら何を考えていたのか、フィリップはもう覚えていなかった。
◇
静かに。滑らかに。
ジャズピアノのBGMだけが空気に溶けて
翔太郎はショットグラスを片手に、ひとりフッと息を吐いた。
どれくらい時間が経ったのかは定かでないが、まだまだお子様なレオも、よくわからない茶色い生き物ももういない。
そう。これからは大人の時間なのだ。
カラン、と氷がロックグラスに触れる音がした。
翔太郎がそちらに視線をやると、二つ空いた先の席にひとりの女が座っていた。
透き通るような肌とゆるいウェーブのかかった黒髪が、暗めの照明によく似あっている。
と、女が翔太郎に微笑みかけた。
「アナタ……ひとり?」
すぐには答えない。
焦らすように一息。
そしてショットグラスをあおる。
喉の奥へと流れ込む琥珀の美酒が、翔太郎の胸を熱くさせる。
その熱を冷ますように、また一息。
「ああ。連れがいたんだが、潰れてどこかへいっちまった」
じっと見つめる女の瞳に、翔太郎の姿が映る。
「お酒、強いのね」
「そうでもないさ。俺を酔わせるには、足りないだけだ」
「足りない……? 何が?」
流れる音楽が変わる。
柔らかなピアノの旋律と、澄んだ女性の声。
ジョージ・ガーシュウィンの『Summertime』──名曲だ。
「ねえ、どうすればアナタを酔わせられるのか、教えてくださる?」
女が立ち上がり、翔太郎へと歩み寄る。
「やめときな……俺みたいなしがない探偵には、アンタみたいな太陽は似合わねえ。俺を酔わせられるのは、孤独の月と街の風だけさ」
うつむき気味に視線を落とす翔太郎。
しかし女は手を伸ばし、そっと翔太郎の帽子を取り去った。
「いいえ、酔わせてみせるわ……探偵さん」
左手の長い指がそっと翔太郎の頬に触れ、首筋を伝って肩へと落ちる。
顔をあげた翔太郎の視線が、女の濡れた瞳と交差した。
「ねえ……」
女は小さく呼びかけ──
──右手のスリッパで翔太郎の頭をスパアアアンと叩いた。
「ええかげんにしなはれ!!」
同じセリフがスリッパにも書いてある。
「いってえええ!!」
思わず叫んで。
「んがごっ! なにすんだよ、あきこォ!?」
目が覚めた。
「あん……?」
見渡すとそこはライブラのオフィス。
寝転がっていたのはソファの上だった。
いつどうやって帰ってきたのか、全く記憶がない。
ズキズキと痛む頭があきらかな二日酔いを知らせていた。
「バーボンを……二杯飲んだところまでは覚えてんだがなぁ……」
後頭部をさすりながらつぶやく。
と。
「おはよう翔太郎! 目が覚めたようだねぇ!」
フィリップの声が聞こえた。
「……フィリップ?」
だが部屋を見渡しても誰もいない。
すると再び翔太郎を呼ぶ声がする。
「こっちだ翔太郎! バルコニーだ!」
言われるがまま、ぐらつく頭を押さえながら立ち上がり、ふらふらの足取りでどうにかバルコニーに出る。
が、やはり誰もいない。
「……いねえじゃねえか」
「手すりのところだ。来てくれたまえ」
手すりに近づくと、なにやら太いロープが巻かれていた。
まさか、と思い下を覗き込む。
いた。
「……何やってんだフィリップ」
ミノムシのようにぶら下がったフィリップに問いかける。
「何を、と言われても……そうだ。強いて言うなら夜景を見ていた」
「……もう朝だぞ」
「ふむ、なら訂正しよう。街の景観を楽しんでいた」
頭痛が酷くなったような気がした。
自分の相棒はここまでいかれた行動をするやつだったか?と自問し、フィリップならやりかねない、と自答する。
「つまり……あれか? お前はビル最上階からロープでぐるぐる巻きになってミノムシみたいにぶら下がって、街の景色を眺めてたのか?」
「ああ、そういうことになる」
「一晩中?」
「ああ、一晩中だ」
「ずっとひとりで?」
「ああ、
翔太郎は大きなため息をついた。
なんだかこの街に来てからというもの、ため息の回数が跳ね上がった気がする。
「それですまないんだが、ロープを引き上げてくれないだろうか。ぼくは見ての通り、手が出せないんだ」
「……ちょっと待ってろ。いま二日酔いで頭痛がやばいんだ」
「二日酔い? なんだいそれは!? 聞いたことがない! ゾクゾクする──」
「あああ、うるせえ!」
フィリップを一喝して、思わずバルコニーに座り込む。
と、そこに。
「おはよう二人とも! 昨日はゆっくり眠れたかい?」
ドアを開けて笑顔のスティーブンが入ってきた。
おや、と部屋を見回したあと、バルコニーでへたりこむ翔太郎に気づいた。
「どうした? ひどい顔だな。二日酔いか?」
「ああ、まあ、それだけじゃねえんだけどな……」
「元気を出せ。朗報だぞ」
頭痛に顔をしかめる翔太郎と対照的に、明るい声のスティーブン。
「朗報?」
「ああ。ガイアメモリがひとつ見つかった」
その言葉に翔太郎はガバッと立ち上がった。
それを聞いては二日酔いだなどと言っていられない。
「ど、どこに!?」
急に立ち上がった翔太郎に驚きつつ、スティーブンは笑顔で告げた。
「場所はパンドラム
翔太郎の頭痛が酷くなったのはもはや言うまでもない。
バーでのシーンは血界戦線のノベライズ冒頭が面白すぎたので自分でもやってみた次第。
そしてやっと出せたオリキャラ。名前はシャーリー(仮)です。
ヒロインと呼ぶには年の差がありすぎますが、まあ一応キーパーソンかな。
描写がホワイトに似すぎてしまいましたが、別人です。
自分の中でのホワイトのイメージカラーはまだクリーム色なので、もっと白く、もっと幼く、もっと純真にしてもらえるとイメージしてもらいやすいかも。
脳内再生がすでに釘宮理恵になってしまってたらもう諦めてください笑
では、第三話もよろしくお願いします!