仮面ライダーW 『Case of Chaotic City』   作:津田 謡繭

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市民に権利とエナドリを!


第五話 「Cは夢を見る」
Give a 『Citizens』 the right and energy drinks!


 ◇

 

 

 

 そうとも。確かに我らは人形だ。

 あそこで朽ち果てているのも全て、回路が灼け落ちるまで歌い続けた人形たちだ。

 喜ばしい。すばらしいことだよ。あれらはみんな命を歌いながら死んでいった。

 誰も聞いていないがそれでいいんだ。喜びを伝えたいわけでも、悲しみを伝えたいわけでもないからね。歌いたいから歌っている。それだけだ。

 作られた命だからって、使い方まで決められたのでは腹立たしいじゃないか。

 

 

 ──レイチェル・R・B 著「丘のオートマタ」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ヘルサレムズ・ロットに訪れた夜は歓楽街を二つに分ける。

 片方は太陽よりも絢爛な輝きをまとう。きらびやかな灯と艶やかなネオン。大通りは喧騒と優美が合わさった遊楽の光に満ちる。

 そして、もう片方は深い闇の中へと沈む。空を覆うぶ厚い霧が月光を遮るせいで、街の光が届かない路地の隙間は深海のような暗闇に落ちるのだ。

 

 夜暗(やあん)

 その中を男が走っていた。

 

 いや、追われていたと言うべきだろう。

 細かく後ろを振り返りながら転がるように足を動かす、半狂乱の逃避。不規則に繰り返される、悲鳴にも似た荒い息づかい。男の顔には背後から迫る『追跡者』への恐れが表れていた。

 

「ハァッ、ハッ──うっ!? くそっ!」

 

 道端のゴミ箱にぶつかり、よろめいた。足に絡みつくゴミ袋を蹴飛ばしながら、少しでも前へと踏み出す。

 だが、そこで男の足は止まった。汗と涙が滲んだ切れ長の目が、恐怖に大きく見開かれる。

 後ろから来ていたはずの『追跡者』が男の目の前に立っていた。

 

「なんでだ……」

 

 絶望的な声が漏れた。

 先回りされたのはこれで8回目だ。何度逃げても『追跡者』は男の前に現れる。追いつかれるのではない。どれだけ走っても、数分後に目の前の曲がり角から姿を現すのだ。

 

「来るんじゃねえ! クソッ!」

 

 また走り出す力は残っていなかった。もつれる足で後ずさりながら、ただ無意味に叫ぶしかない。

 対して『追跡者』は冷徹だった。最初から最後まで変わることのないだろう規則的な動きで、一言も言葉を発することなく男に近づく。

 ゆっくりと壁際に追い詰められ、男はずるずると落ちるように座り込んだ。

 

「……テメェ……何なんだ?」

 

 それが男の最期の言葉になった。

 喧騒の遠い路地裏に、肉が破れ、骨が割れる音が小さく鳴った。

 

「…………」

 

『追跡者』は動かなくなった男の体から腕を引き抜いた。

 血と脂がまとわりつく手を見つめ、わずかに首をかしげる。()()が自分の探していたものなのか、いまひとつ確信が持てない。そんな仕草だった。

 しかし『追跡者』はそれ以上悩むことはせず、また静かに闇の中へと消えていった。

 

 

 

 ただの男が胸に穴を開けられて死んだ。それだけの事件だった。ヘルサレムズ・ロットでは新聞の片隅にも載らないような、ちっぽけな殺人事件。

 この街では珍しい話ではない。多くの命がいとも容易く失われ、その原因も奇怪なものであふれている。

 実際、ほぼ同じ時刻に別の場所では、リキッドマフィアの抗争に巻きこまれた12人が路上で溺死するという、いかにもヘルサレムズ・ロットらしい事件が起こっていた。

 故に、路地裏で見つかった男の死体など気にする者はほとんどいなかった。

 三日と経たず、事件は霧の中に忘れ去られる。

 

 

 

 ──二人の探偵の元にとある奇妙な依頼人が訪れる、その時まで。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 金曜日。

 スティーブン・A・スターフェイズは死んでいた。

 

 もちろん本当に生命活動を終えてしまったわけではなく。呼吸はしているし、心臓も脳もちゃんと働いている。むしろ脳だけなら平時よりもよく回っているかもしれない。

 しかしその虚ろな目と生気のない顔つきは、いっそ「死んでいた」と表現してしまう方がしっくりくるぐらい酷いものだった。さながら生ける屍。ゾンビそのもの。

 なおヘルサレムズ・ロットでは本物のゾンビ──としか形容できない半分腐ったような種族──もちょくちょく目にするが、あちらはi Podでブレイクビーツを爆音再生しながらストリートダンスに興じるぐらいの活力はあるので、()()()なら今のスティーブンの方が勝っている。勝っていると言ったって別に良いことではないのだが。

 

 

 

 何がどうしてこうなったのか。

 話は一週間ほど前にさかのぼる。

 

 

 

 すべての発端は、昼下がりに突然起こった電子テロだった。ヘルサレムズ・ロット中のテレビに強烈な呪詛を転写したサブリミナル電子ドラッグが映し出され、街は大混乱に陥った。

 善良な住民が手のつけられない暴徒と化し、数十ものマフィアや組織が脈絡なく抗争をはじめ、大通りはたちまち銃弾と血しぶきが飛び交う地獄に変わった。

 幸いなことに、偶然ヘルサレムズ・ロットを訪れていた天才プログラマー、『電脳神』ことDr.RD(ドクターアールディー)によって30分もしない内に解毒映像が作成、放映されたが、それでも万単位の死者が出た。

 ヘルサレムズ・ロットでも稀な大惨事である。

 

 すぐさま、元凶を叩くためにライブラが動き出した。

 そしてその日の夕方には、件のテロが電算呪術専門の新興アングラ犯罪集団──通称『地を這う葡萄(ブドウ)』の仕業だと判明する。

 ここまでは良かったのだが、問題はそこからだった。

 その名の通り、ブドウの房のようにつながっている100を超える小組織。その内のどれかが司令塔として指示を出し、それに従って各組織が同時多発的に電子テロを行ったらしいのだが、困ったことにどの組織が司令塔なのか誰も知らないのだ。

 いきなり活動を始めた新興組織で、かつ情報戦はお手の物ということもあり、なかなか実体をつかめない。

 当たり前のように、作戦会議から難航した。

 ログ解析にあたり異界(ビヨンド)仕様のカスマテニックCPUですら到底間に合わず、どうやら敵は局所的に論理改変することでMIPSの値にモーザー数をぶち込んでおり、使用された演算システムは物理的処理能力をフル無視しているらしい、といった技術的な説明から始まり。

 

「……というわけで、今のところ人狼局や情報局(HLIA)どころか、ナードゴブリンすら『地を這う葡萄』の拠点を割り出せてない」

 

 と締めくくって、スティーブンはあらかたの話を終えた。

 

「……じゃあ、適当なの捕まえてきて尋問して吐かせるとか」

 

 技術的な話のだいぶ序盤から白目をむいて理解することを放棄していたザップが、ようやく我に返り口を開いた。

 当然のごとく、スティーブンは首を横に振る。

 

「どうもメンバー全員が継続的にAクラス以上の記憶処理を受けてるらしくてな」

「んじゃ、つまり……」

「雑多の構成員どころか、下手をすれば指令を出す本人すら、テロの直前まで自分が『地を這う葡萄』だと気づいてない可能性がある」

「頭とか関係なく全部潰せないの?」

 

 次の意見を出したのはK・Kだったが。

 

「それができれば悩まんさ」

 

 あえなく却下される。

 

「腹っ立つ言い方ー。なんでアンタって言葉の一個一個がそう陰険なのかしらね。いや聞かなくてもわかるわ。腹黒だからだわ」

 

 小声で悪態をつきながら眉間を歪めるK・Kに愛想笑いで応じつつ、スティーブンは敵をまとめて潰せない理由を説明する。

 というのも、一つ一つの組織はほとんどが3、4人規模の極小構成であり、故に足取りを掴みづらく、活動している深度も相まって一度に全体の所在を把握することができない。

 簡単に言えばそういうことらしい。ちなみに実際の説明はもう少し複雑で、また技術的な話が混ざったためにザップは再び白目になって小刻みに震えていた。

 ともあれ。

 

「HLPDと連携しても全然手が足りない。このまま大規模な攻勢に出たところで首魁には九割がた逃げられるだろうし、混乱に乗じて他の組織まで動き出したらそれこそ収拾がつかなくなる」

 

 黙り込む面々に、ため息と共に。

 

「だから結局、我々は極めて地道な手段を取らざるを得ない」

 

 つまり動きを見せたブドウの実を、その都度ぷちぷち潰していくしかないのだ。そのうち本命(リーダー)につながる情報が何か見つかりますように、と祈りつつ。

 これは長丁場になる。誰もがそう考えて、場の空気は目に見えてゲンナリし始める。

 沈黙ごと、それを破ったのは。

 

「確かに果ての見えない結論ではある」

 

 やはりクラウスだった。

 

「しかし幸いにもやるべきことは明瞭だ。そしてそれは我々にとって困難なことでは決してない。今、我々に課せられているのが不断の尽力ならば、これまで歩んできた道のりと何ら変わらないからだ」

 

 激励でも鼓舞でもない。ただ事実と確信をまとめただけの、しかしそれ故に不動の言葉。

 

「さっそく取り掛かろう」

 

 その言葉で、ライブラは一枚の(いわお)となる。

 

 

 

 万全の準備を敷き、ライブラは動き出した。各員、気合十分で作戦に取り組み、順調に末端を潰していった。

 しかし当初の予想通り、なかなか大きなダメージを与えられない。潰れたそばから新たな組織(ブドウ)が生まれては合流していく。

 その堂々巡りの中、目に見えて削れていったのが、絶え間ない作戦の指揮を一手に引き受けていたスティーブンだった。

 

「いや、まだ休めないよ。このクソったれ共を全員まとめて地獄に叩き堕としてやるまではね……」

 

 クラウスの気遣いに()()()頬を釣り上げながらつぶやく。明らかな過労だが、こうなったスティーブンは誰にも止められない。

 ゲーム感覚で惨害をまき散らし、そのくせ自分達は高みの見物で安全圏にいるとほくそ笑んでいる舐めた連中。そんな外道共をスティーブンは蛇蝎(だかつ)のごとく嫌っていた。必ず誅を下さねば気がすまない。

 そしてもう一つ。この時のスティーブンには大きな自責があった。

 

 スティーブンの人物評価基準は、その大部分を「結果」に置いている。

 故に、彼は他人の失敗を注意こそすれ責めはしない。ミスを犯した者に期待するのは、謝罪の言葉でも萎縮した態度でもなく、次で結果を出せるか否か。それが組織のナンバー2としての、スティーブンの倫理である。

 それはスティーブン自身にも適応される。というか当然、自分に対しての方が重くなる。

 今、のしかかるのはテンプテーション事件での失態。まんまと洗脳され、あろうことか敵の側についてライブラの妨害をしてしまった事実だ。

 あの時クラウスの言った通り、スティーブンは心臓を握り潰さんばかりに後悔していた。何よりも自分の心の弱さを恨んだ。

 だからこそ、彼は「次の結果」のために骨身を削っていた。

 

 デスクの上には書類やらファイルやらが積み上がり、散乱し、日頃の整頓は見る影もない。

 床でうなりをあげながら並列稼働しているスパコンの排熱は、オフィスをサウナのような過酷な環境にしている。空調から氷水までフル動員してなお、室温は40度近い。

 その中でスティーブンは塗りつぶしたような(くま)をこさえ、血走った眼でモニターを凝視しながらキーを叩いていた。

 片手を放す余裕もなく、かれこれ30時間ほど何も食べていない。飯の代わりにストローでちゅーっと吸いあげているハワイアンブルーの液体は、栄養ドリンクと経口補水液を混ぜた速攻吸収魔剤だ。

 

「クソ……どれかは当たりだと思ったんだが……」

 

 三つの部隊から同時に入ったハズレの報告に、呻吟(しんぎん)と共にストローを噛み潰す。

 そんな状態がもう何日も続いていた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 翌日。土曜日。

 作戦と作戦の間。挟まれた(しおり)のようなわずかな休憩時間を使って、レオは鳴海探偵事務所を訪れていた。

 

 ずっと空き家だったというこの事務所も、翔太郎とフィリップが住み始めて数週間が経ち、ずいぶんと様子が変わっていた。

 初めて訪ねた時、まだ事務所の中は煤けた汚れや蜘蛛の巣が目立っていたが、今はキレイに掃除されている。レオが腰掛けるソファにも埃っぽさはもうない。

 照明器具や本棚といった家具もいくつか増えていた。全体的にはシックで大人っぽい、暗めのブラウン系で統一されているインテリア。渋さとエレガントさが合わさった、ザ・探偵事務所と呼べそうな内装になっている。

 

 ──はずなのだが。

 この空間には形容しがたいむずむずした違和感が満ちていた。

 

 原因は事務所のあちこちに散乱している妙にカラフルな小物たちだ。どこかの適当な雑貨屋で目をつぶって選んだような、統一感のまったくない置物やら飾りやらがいたるところで強烈な存在感を放っている。

 そのちぐはぐな組み合わせがバツグンのシュールさをかもしだしていた。

 

(まあ……ぽいっちゃあ、ぽいんだよなあ)

 

 窓際でびよびよ揺れているソーラー稼働式のレインボーピエロ人形をなるべく視界から外しつつ、そんなことを考える。

 どっちがどっちの趣味なのか考えるまでもなくわかる。外出するたびに変な小物を買ってくるフィリップに、「ハードボイルドじゃねえ」と文句を言う翔太郎の様子が容易に想像できた。

 

 その翔太郎はどこかに出かけているようで、事務所に居たのはフィリップだけだった。用件は主にフィリップへの相談だったので、とくに問題はなかったが。

 言うまでもなく、相談とは『地を這う葡萄』のことである。『地球(ほし)の本棚』で何か情報が手に入らないものだろうか、と。

 日を追うごとに死人に近づいていくスティーブンを見るに見かねての訪問だった。

 

「──というわけでして。フィリップさんの力を貸してもらえれば、と……」

 

 ライブラの状況とスティーブンの惨状を話し終え、レオは返答を待つ。

 フィリップは「ふむ」と軽く相槌を打ってから口を開いた。

 

「状況は理解した。ぼくらもあの大暴動は何者かの企みなのではと考えていたが、なるほどねえ」

 

 と、フッと眉をひそめる。

 

「しかし、そんなことならもっと早く連絡をくれても良かったのに。そのブドウ潰し作戦にしても、Wならば多少の戦力増強になるんじゃないかと、ぼくはそう思うんだけれど。……自惚れだろうか?」

 

 言葉の端々から微妙にトゲを感じた。つまらなそうに片目を閉じた表情からも、フィリップが少しムッとしているのが読み取れる。

 無理もない。ここまでの大規模作戦でもお呼びがかからないのは、暗に戦力外だと言われているのと同じに感じるだろう。

 もちろんそうでないことをレオは知っていた。というのも数日前、スティーブンに同じような質問をしていたからだ。手が足りていないならば翔太郎とフィリップにも協力を依頼してはどうか、と。

 対するスティーブンの返答は、「今回の作戦の性質上、必要なのは戦闘能力そのものより適切な戦力配置と綿密な連携であり、ライブラとして日が浅い二人を用いるのはリスクの方が大きい」というものだった。

 

「なるほど。正論だね。正しい判断だ」

 

 レオの説明に、フィリップは口元に手を当てながらつぶやく。それについては納得してもらえたようだったが。

 しかし、彼はまたすぐに首をかしげた。

 

「ん、待ってくれ。逆に単純な戦力としか見られていないということは、スティーブンさんに『地球の本棚』のことは話していないのかい?」

 

 問われて、レオは頷いた。

 

「あ、ハイ。まだ話してないですけど……」

「なぜ? 部外者のぼくにもわかる。本棚(この力)はどう考えても最重要報告案件だろう」

 

 フィリップの言葉は正しい。まったくもってその通りだ。

 扱いは自分の『神々の義眼』と同等かそれ以上のはず。活用の是非は置いておくにしても、保護対象としてだけで注意のレベルは数段ハネ上がる。

 それを理解してなお、レオはライブラへの報告をせずにいる。その理由をどう表現すべきか。

 

「えっと……なんというか」

 

 言い淀んだ、その時。

 スッと。ほとんど音をたてず、テーブルの上にコーヒーカップが二つ置かれる。

 

「あ。ありがとうございますギルベルトさ──」

 

 レオは条件反射でそこまで言って。

 

「──!?」

 

 思い出した。

 

(そ、そういやギルベルトさんも一緒にここ来てたわ……!!)

 

 いや、別に忘れていたわけではないのだが。

 話が始まってすぐ、気づかぬうちに台所へとおもむき、いつのまにやら当然のようにコーヒーを淹れていたこの包帯ぐるぐる巻きの老執事のことを、レオは完全に失念していた。

 それは向かいで絶句しているフィリップも同じだったらしい。

 

「……ありがとうございます、ギルベルトさん」

 

 フィリップは一拍遅れてお礼を言い、ふと気づいたようにギルベルトに向いた。

 

「あなたも本棚のことは報告していないんですか?」

「ええ。フィリップさんの力のことは坊ちゃまにも伝えておりません」

 

 ギルベルトの返事にレオは少しだけ驚いた。ライブラという組織に報告はしていなくとも、てっきり主人であるクラウスには話しているものと思っていたからだ。

 

「理由を聞いても?」

 

 淹れたてのコーヒーを飲みながらフィリップが尋ねる。

 ギルベルトはわずかに思案し、答えた。

 

「理由というほどのものでもないですが、そうですね。フィリップさんの力について話す相手は、私共ではなく貴方自身が決めるべきだと判断したからです」

「ぼくが自分から皆に話すまで待ってくれていると?」

「そういうことですな」

 

 フィリップは無言でカップを傾けている。まだなにかしらの小さな疑問、引っかかりが残っている。そんな顔だ。

 ギルベルトはテキパキとサーバーを片付けると、レオの隣に腰掛け、話し始めた。

 

「フィリップさんのもつ『地球の本棚』はその気になれば世界を手にできる、そういった類の力ですね?」

「ええ。効果的に、悪意を持って使用すれば」

「もしもその情報が広まれば、あえて無礼な言い方をしますが、貴方という()()には億単位の値がつきます。人異とわず、全世界のありとあらゆる犯罪者や私的公的機関が貴方を狙うでしょう」

 

 横で聞いているだけで緊張してくる。レオは背筋に撫でるような悪寒を感じていた。

 それは自身もそうであるからという理由だけでなく。数年前までは見ようともしていなかった、ドロドロとした世界の裏側を突きつけられるようだからだ。

 異界のバケモノに限らず、人間だって利益のために何でもする。あるいは大義、正義のためにだって。理由があればどこまでも残酷になれる。

 

「ですから、私が貴方のあずかり知らぬところで情報を漏らすのは許されることではない」

 

 フィリップは軽く頷いたが。

 

「危険性については、実感に及ばずとも理解はしているつもりです。けれど、ぼくが納得できてないのはまさにその部分です。『地球の本棚』の世界への影響を考慮するならば、それこそ一番確実なのがライブラによる保護と監視のはずだ。ほとんど同じ理由で『神々の義眼』を持つレオ君が保護されているように……」

 

 反論というほど強くはないが、どこか意に満たないような言葉を返した後。フィリップは思い出したように謝った。

 

「あ、いえ、すみません。納得できていないというのは、別に文句があるというわけではなく……」

「ええ。もちろんわかっています。ただ自分の中の理屈と合わず気になるだけ。そうおっしゃりたいのでしょう」

 

 微笑むギルベルト。

 フィリップは申し訳なさそうにうつむく。

 

「その通りです。自分の中で消化できない、わからないことがあると、どうもぼくは他人に対し不躾な態度をとってしまう。直さなくてはと思っているんですが……」

「いえいえ。それも深い探求心からでしょう。フィリップさんらしくていいじゃないですか」

 

 ギルベルトの言葉にレオも頷いた。

 まだ数回ほどしか目にしていないが、何かを深く考えこんでいる時のフィリップの姿は嫌いではない。むしろ、感じた疑問にそこまで傾倒できるフィリップの真摯(しんし)さというか、まっすぐな姿勢にはある種の尊敬を覚える。

 その純粋な知識欲がドーパント攻略や事件解決につながったことも少なくないのだろう。翔太郎とのやり取りを見て、そんな確信も持っていた。

 

「ですが、そこまで難しく考えることでもありませんよ。ただお二人のことを信用し、信頼している。それだけのことです」

「信用と信頼、ですか」

「ええ。お二人が世界の脅威たる悪人ではないと信用し、またそれらから身を守るだけの力を持っていると信頼しています」

 

 その言葉に生ぬるさは無かった。

 まっすぐにフィリップを見つめるギルベルトの視線には優しさだけでなく、澄んだ冷静さも織り込まれている。

 

「ぼく達ならWとして自衛ができる、という意味ですか?」

「もちろんそれもありますが、それだけではありません。ただ強いだけの守りならばこの街ではあまり意味がない」

「それは……強さの次元が違うと?」

「いかにも。そしてそれは我々とて同じことです。あるレベル以上の連中からすれば、貴方がた(仮面ライダー)我々(ライブラ)も、そこらの羽虫と同じように無力な存在でしょう」

 

 身も蓋もない話ではある。だが誇張はない。それをレオは知っている。

 重戦車の中の特殊部隊が心臓だけ抜かれて見つかる街。大陸を食らうような化物が現れた瞬間、塩に変えられて消える街。それがヘルサレムズ・ロットだ。

 仮面ライダーとなった二人は強い。それはわかっている。だからこそ、Wが助けを求めることもできずに敗北するようなら、ライブラが監視していたところで結果はそう変わらないだろう。

 つぅ、とフィリップの頬を冷や汗が流れた。そんな彼を安心させるようにギルベルトの目が柔らかくなる。

 

「私が信頼していると言ったのは、お二人の『状況を見る力』です。翔太郎さんには直感が、フィリップさんには分析力がある。そして何より互いのことをよく見ている。真の意味で一人ではない。これは危険に対する大きなアドバンテージになります」

 

 そう。なによりもそこが違う。ライブラに保護されたばかりの頃のレオと、今のフィリップとの一番大きな差だ。

 

「総じて、私はライブラが過度に干渉する必要はないと判断し、貴方の判断に任せることにいたしました」

 

 簡潔にまとめ、ギルベルトは話を終えた。

 他に付け足すようなこともなかったので、レオは同意を示し笑顔で頷く。

 

「…………」

 

 と、ギルベルトの様子に気づいた。何とも言えない不思議な表情で微笑んでいる。

 

「……どうしたんですか。なんか……こう、すごいまったり感出てますけど……」

「あ、いえ。そういえば同じような話を同じ名前の方にしたことがあったなぁと」

 

 ほっほっ、と笑うギルベルト。

 

「ああ」

 

 言われて、レオは以前に派遣されてきたスゴイ声量の執事補佐(フィリップ・レノール)を思い出した。

 いろいろあって顔面の三分の一が超合金化した彼は、今も元気にしているだろうか。してそうだ。相変わらずの熱意でC・B(コンバットバトラー)の仕事に励んでいそうである。ものの見方は多少変わっただろうが。二つの意味で。

 

「……ふむ」

 

 ちょうどそんなことを考え終えたタイミングで、フィリップが諒を得たように頷いた。その目がみるみるうちに輝きを増す。

 

「超常の存在が証明されているこの街では、どちらにせよ抱えるリスクにほとんど差異が無いということか……なるほど、納得できた! 実力を信頼しているからこその不干渉と、情報の守秘。互いに友好的な関係を望んでいるのなら、確かにそれが最適解になり得る!」

 

 ずいっと前のめりになり、興奮をあらわにして一人でしゃべっている。

 まるでずっと欲しかった玩具(おもちゃ)を買ってもらった子供みたいだ、とレオは思った。

 その視線に気づいたのか。はたと我に返ったフィリップはコホンと小さく咳ばらいをし、レオとギルベルトに向かった。

 

「そして同時に、ぼく達にも見極める余裕を与えてくれているということですね。ぼく達二人にとってライブラが心からの信用と信頼にあたる相手かどうか」

 

 澄んだ目で見つめられ、レオは気恥ずかしくなって頭を掻いた。

 レオとしてはそこまで深く考えていたわけでもないので、なんだか過大評価されているような気がした。しかしそう言われるとそうだったのかなと思わなくもない。無意識的な気遣いというか、イイ感じのサムシングを発揮して。

 隣のギルベルトはというと、これは表情ではわからなかった。レオと同じくそこまで考えてなかったようにも見えるし、すべてを見越してそうしたようにも見える。絶妙な笑み。

 まあ、おそらく後者なのだろう。なにせギルベルトなのだから。

 

「そこまでの信頼を置いてくれたことを感謝します」

 

 フィリップは伏せるように軽く目を閉じた後、ふわりと立ち上がった。

 

「そして信頼には相応の態度で応えるものだ。ライブラのために、喜んで『地球の本棚』を使わせてもらう」

 

 春風のように、爽やかに微笑むフィリップ。

 レオはその笑顔が素直に嬉しかった。もちろん、フィリップの人柄からして無下にされることはないとわかっていたが、それでも彼が快く手を差し伸べてくれたのに安心した。

 と。

 

「──さて、そうは言ったものの」

 

 流れを切るような物言いをして、フィリップはいたずらっぽく微笑んだ。

 

「実のところ、協力が欲しかったのはぼく達も同じでね。わざわざ訪ねてもらうまでもなく、今日あたりライブラに(おもむ)こうと思っていたんだ」

「え……それって……」

「ぼくの見立てでは、もうそろそろだと思うんだが──」

 

 フィリップがそう言った、まさにその時。

 どたばたと慌ただしく扉を開け、何だかわからないが全身粘液まみれの男が転がり込んで来た。

 

「掴んだぜフィリップ! 名前さえわかりゃこっちのもんだ! 早いとこ検索を頼……む……?」

 

 ソファで目を丸くしているレオとギルベルトに気づき、蛍光グリーンの粘液を帽子から滴らせながら首をかしげたのは、翔太郎だった。

 

「なんだ来てたのかレオ。ギルベルトさんまで」

 

 絶句するレオとギルベルトをよそに。

 

「おかえり翔太郎。実にいいタイミングだった」

「タイミング?」

「いや、なんでもないよ。それで?」

「ああ」

 

 翔太郎は全身のべとべとを手で拭いながらフィリップに答える。

 

「苦労した分の収穫はあったぜ。……どうやら黒幕は『地を這う葡萄』って名前の犯罪者集団らしい」

 

 その言葉を聞いた瞬間、レオの背筋が粟立(あわだ)った。

 隣からの気配にギルベルトでさえ戦慄しているのがわかった。

 

 敵組織の名前。

 それはライブラが一週間前すでに掴んでいた情報だ。だが、それはライブラだからこそ入手できた情報でもある。

 街中に配置された諜報員と、はるか深淵まで及ぶ数多のコネクション。それが秘密結社ライブラの一番の武器だ。それらをフルに使ってなお、『地を這う葡萄』の名を掴むまでに数時間かかった。

 

(それを……こっちに来て一ヶ月も経ってない人がたったの一週間で……!?)

 

 もちろん、ある程度は『地球の本棚』で絞り込みをかけつつ調査をしたのだろうが。

 それでも驚異的だ。調べるべきポイントがわかっていたとしても、突然やって来た異邦人がパッと受け入れられるような甘い世界ではない。

 

(やばい……勘違いしてたかも……)

 

 左翔太郎という男の、()がいっきに見えなくなった。

 

「……ん?」

 

 視線に気づいてか、おもむろに振り返った翔太郎と目が合う。

 ただ人々のために全力を尽くしただけ。そう言わんばかりの自然な微笑みが、レオの見る翔太郎のスケールをぐんと大きくする。

 レオは自分でも気づかない内にゴクリと唾を呑み込んでいた。

 

「と、まあそういうわけなんだ」

 

 フィリップの声にハッと我に返る。

 そして、彼が何を言いたかったのかを理解した。

 

「最初に言った通り、ぼく達もあの暴動について何者かの関与を疑っていた。それならば調べないわけにはいかない。それがこのお人好し(ハーフボイルド)な相棒なのさ」

「ハーフボイルド言うなってーの」

 

 翔太郎は、べし、と軽くフィリップの頭を叩き、それからあらためてレオとギルベルトに向いた。

 

「あー、今の話で二人が来てる理由もだいたい察しはついたんだが……その、本題に入る前に聞いておきたいというか、助けてほしいというか」

 

 急に縮こまったような態度になり。

 

「この緑のネバネバって、洗濯したらとれるタイプのやつ?」

 

 目にやかましい蛍光色に染まったベストを広げて、悲しそうな顔で笑う翔太郎。

 そう言われても。そもそも翔太郎の一張羅にへばりついているその粘液がいったい何なのかわからないので、レオは「さあ……」と苦笑いするしかない。

 と、いつのまにか立ち上がっていたギルベルトが一歩進み出て、翔太郎の持っていたベストを受け取った。

 

「お預かりします。今のうちに洗えばなんとかなるでしょう」

 

 そのまま流れるようにシャツ、ネクタイにスラックスまで回収するギルベルト。翔太郎はなされるがまま、数秒でパンツとインナーシャツだけの格好にされる。

 ギルベルトは軽く折りたたんだ服を左腕にかけると、右手を胸に当てて、スイとお辞儀をした。

 

「お疲れさまでした。翔太郎さん」

 

 顔は見えなかった。だがその丁寧な仕草から、ギルベルトの表情と、彼が抱いている感情はレオにも伝わった。

 

「あ、えっと、どうも……ありがとうございます。……へへ」

 

 戸惑いながらもお辞儀を返す翔太郎は、お人好しでかっこつけな、いつもの左翔太郎だった。

 

 

 

 ◇

 

 

「マルプテノン通り、ゲメルゾウス・シアター裏の看板のないバーだ。その地下に虚数次元転移された約3ヘクタールの空間がある。ゾーリム式の知覚隔絶術式で巧妙に隠しているが、そこが『地を這う葡萄』の拠点だ」

 

 いきなりやって来たフィリップのあまりにも唐突なその言葉を、スティーブンが訝しんだのは言うまでもない。

 

「さすがにこの状況を見て、冗談やオフザケを吐くような君ではないとしてだ。どういう根拠のナニ情報だソレは」

「終わってからゆっくり説明する。今はとにかく信用して欲しい、と言ったら?」

「……なぜそこまで急ぐ、と尋ねるな」

「ぼくの予測が正しければ、あと4時間で二度目の電子テロが起こる。被害は前回の比ではないだろう。今すぐ攻め込まないと手遅れになる」

 

 ピタリ、とスティーブンが止まった。

 何か言おうとその口が開いた時、彼の携帯が鳴った。

 

「……スターフェイズ」

 

 目はフィリップに向けたまま電話に出る。相手はレオだった。

 

『あの、今、フィリップさんの言ってるバーの前なんですけど……』

 

 計ったような電話の内容に、スティーブンはフィリップの顔に向けていた視線を腰のあたりまで下げた。

 予想通り、フィリップの腰にはダブルドライバーが巻かれている。

 

「こっちの会話が聞こえてるってことは左翔太郎も一緒だな」

『はい』

「……で、どうだ」

『当たりだと思います。空間からしてめちゃくちゃに組み替えられててルービックキューブみたいになっちゃってます。こんな大がかりな空間編成視るの、モルツォグアッツァ以来ですよ』

「間違いないんだな?」

隠蔽(いんぺい)用の術も……たぶん数百層単位で重ねられてますね。地下も透視()てみましたけど、フィリップさんの言う通り地面の下は箱型に切り取られた虚無です』

「そこまで大がかりなら、逆になんで今まで気がつかなかったんだ」

『五感よりも脳に直接というか、潜在意識に作用するタイプみたいで。今もかなり注意して見てないと意識から無理矢理ひっぺがされそうに……あ』

「どうした?」

 

 質問しつつ、だいたい予想はついていたのだが。

 予想通り、返ってきたのは遠くで喚き散らす何者かの声と銃声、それとレオと翔太郎の悲鳴だった。

 とりあえずピンチなのはわかった。

 

『視てんのバレましたあああああああああああ!!

 おわわわわわわ、何だアレェェ!? 嘘ォォォ!? スレンダーマンって都市伝説じゃねえの──』

 

 そこで電話が切れる。

 同時に。

 

「変身!」

 

 と言い残して、目の前のフィリップがドサリと倒れた。

 口元に手を当て、1秒。

 スティーブンは素早く増援の手配を開始した。

 

 

 

 そして、3時間47分後。

 犯罪者集団『地を這う葡萄』は、この世から消え去った。

 

 

 

 これにて一件落着かと誰もが安堵した。

 だがしかし、この事件は始まりに過ぎなかったのである。

 次にライブラの前に立ちはだかったのは、あまりにも強大で冷酷な敵。

 

 ──『悪いスティーブン』であった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 日曜日。

 記念すべき──かはわからないが、まさにこの日、『わるいスティーブン』は誕生した。

 それは、フィリップが自身の持つ能力『地球(ほし)の本棚』について全員に説明した時。

 

「「「「…………」」」」

 

 ほぼ全員があまりのチート能力っぷりに絶句していたが、その中でもスティーブンの表情は突出して印象的だった。

 まるで骨格から歪んでホントに顎を落としたような。例えるなら、フィンランドからやって来た某M谷の妖精トロールのような。

 こう言うのは心の底から気が引けるが、近年稀にみる、見事な()()()()であったのだ。

 そして。真偽を確かめるために出題された「超高度術式合成麻薬エンジェルスケイルの流通ルートは?」という質問の答えをフィリップがものの3分で言い当てたあたりで、スティーブンの口からは「フフフフフフ」という平坦な笑い声が漏れてきた。

 

 はじめ、誰もが「スティーブンが壊れた」と思い込んだ。

 クラウスはおろおろし、ギルベルトは病院の予約をいれ、ザップはスマホでムービーを撮り始め、その頭をチェインが椅子で殴った。

 だが、スティーブンの渇いた笑い声は人生を見失った者のそれではなかった。それどころかまったくの逆で、これ以上ない愉悦を見つけた者の歓喜の笑いだったのだ。

 

『わるいスティーブン』──爆誕である。

 

 そこから一週間、ライブラは凄まじかった。

 スティーブンは『地球の本棚』をフル活用し、これまで尻尾をつかめなかった、組織、陰謀、革命、虐殺、殺人、取引、テロ、デモ、その他諸々、ライブラの獲物という獲物を狩りまくった。

 そのあまりの活動っぷりに、噂では並みの犯罪者ならば『ライブラ』の名を聞いただけで、頭痛、腹痛、嘔吐、下痢、めまい、手足のしびれ、幻覚、呼吸困難、言語障害、運動障害、肝不全、腎不全、小脳の萎縮、脱毛、触覚断裂などの症状に見舞われたとかナントカ。

 

 しかし、ある意味で最も被害をこうむったのは、他ならぬライブラの構成員たちだった。

 

 ライブラは戦うだけの組織ではない。その本質は脅威の鎮静化よりも、むしろ(ひず)みを事前に修正することにある。

 そのため、クラウスら主要メンバーの他にも数えきれないほどの人員がHL中に散らばり、世界転覆のきっかけを見逃さぬよう目を光らせている。崩れかけのジェンガの上に乗っかっているようなこの世界では、HLで起こるどんな些細な異変でも人類秩序崩壊(カタストロフィ)の十分な原因たりえるからだ。

 レトロチックな高層ビルに偽装されたライブラ本部でも、常に多くのスタッフが裏方として活動している。

 諜報員や戦闘補助員、エンジニアもいれば魔術技師も。人間離れした戦闘力を持っているわけではないが、彼らもまた、世界の秩序を維持すべく24時間体制で働く防人(さきもり)達である。

 

 そんな彼らに容赦なく課せられたのは、昼夜を問わぬ激務と激戦のオンパレード。

 

「まさしくデスパレート(死にものぐるい)ならぬデスパレード(死の行軍)だ」

「これではデスクワーク(書類仕事)デスワーク(死の準備)だ」

 

 などというシャレが流行ったのも最初の二日ほどだけで。後はもう、「嗚呼、神よ!」とすがりたくなるようなただの地獄。この期間、ヘルサレムズ・ロットの栄養ドリンクの売り上げが20%増えたとか。

 たまらず有給休暇の申請を出す者が次々とスティーブンのデスクにやってきては、片手間に突き返され。それでも諦めきれずなのか、記憶を無かったことにしたのか、また舞い戻ってきて、また切り捨てられ、といった光景もよく見られた。

 自然と(メビウス)を描きはじめた行列の中。

 

「なあレオ知ってるか……? 日本には『賽の河原』ってのがあってな。そこでは死んだ子供たちがひたすら石を積み上げてるんだけどよ。石が積み上がる前に鬼がやってきてそれを壊しちまうもんだから、子供たちはずぅっと石を積み続けるしかねえんだよぉぉ」

「ひぃぃぃぃぃ……なんで今そういう話するんすかザップさぁぁん」

「ここが『賽の河原』なら最終的に地蔵菩薩によって救われるんですけどね……残念ながらここには地蔵菩薩はいませんから、一緒くたにするのはどうかと……」

「うわぁぁぁん! なんでそういうこと言うんすかツェッドさぁぁん」

 

 そんな会話もあったとか。

 

 そうやって続いた労働地獄の終焉は、嘆願書やら署名やらが束で届き始め、さすがに放っておけなくなったクラウスによってもたらされた。

 暴走気味の参謀をどうにか制止し、なだめ、治め、HLにおける労働基準法の順守に漕ぎつけた際には、花が咲き乱れ、鳥たちは歌い、空は晴れ虹がかかった。

 いや、ホントに霧の空が晴れたわけでは、もちろんないが。それぐらいの歓声が上がったのだ。

 

 

 

 後に、この事件は

『スカーフェイスの乱』

『氷の七日間』

『セミの一週間』

 などと呼ばれることとなる。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 そして一週間ぶりの休暇となった日曜日。

 

 翔太郎はソファの上で死んでいた。

 いや、正確に言えば「死んだように眠っていた」というのが正しいのだろうが、死んでいたと形容してもおかしくないレベルで熟睡していた。

 

(まあ無理もないけれど)

 

 向かいに座るフィリップは、相棒を起こさないよう静かに本を閉じる。もっとも、今の翔太郎が紙束をぶつける程度の音で起きるとも思えなかったが。

 ブラックホールよりブラックだった一週間は、翔太郎とフィリップも例外ではなかった。

 

(しかしピクリとも動かないな)

 

 まさか本当に死んでやしないだろうか。ちょうどいま「過労死」について検索したばかりというのもあって段々と心配になってくる。

 が、杞憂だったようだ。

 

「うおお……おお……エナドリが足りない……」

 

 翔太郎は呻き声に近い寝言を垂らしながら、うにうにと虚空をまさぐり始めた。

 フィリップは以前テレビで見た「恐怖! ミイラ男の呪い」という映画を思い出す。呪われしミイラが棺から起き上がるシーンがちょうどこんな感じだった。

 

「市民の権利を……権利とエナドリををぅ……」

 

 うなされてはいるが生きている。快眠とはいかなくとも、永眠でないだけ良しとすべきだろう。

 フィリップはうんうんと頷き、呪いのミイラ男にずり落ちた毛布を掛けなおしてやった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




前回の更新から2ヶ月……大変長らくお待たせしました。4回ぐらいプロットを練り直す超難産でしたが、第五話ようやくスタートです!

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