「ただいま戻りました」
「おかえりなさい」
鎮守府内の自室に戻ると優しい声の返事が返ってくる。
艦娘のモチベーション維持とストレス軽減のため、各部屋の構造は部屋主たちの趣向に沿うような造りになっている。
山城と、同部屋の姉である扶桑の部屋はその風貌に合った純和風の畳部屋。藺草の匂いが実に落ち着かせてくれる。その部屋の中心、ちゃぶ台の前に正座でお茶を啜っている姉の姿を見る。
贔屓目抜きにして、妹という立場から見ても扶桑は美人だと思う。
自分とは違って、温厚な表情にその見た目に違わない優しさ。長い黒髪がたなびかせながら歩く姿などは同性すら見惚れてしまうだろう。そして、駆逐の子からも好かれ笑顔で受け入れられている。
すべてが、自分と正反対だなと、ふふっと笑ってしまう。
自分を見つめるその視線に、扶桑は首を傾げる。
「どうかしたの? 私の顔に、何かついている?」
「いえ、そういう訳ではないです」
「そう? あ、お茶容れるわね」
「いえ、私が……」
わざわざ姉の手を煩わせるようなことは、と扶桑の手から急須を受け取ろうとするが、いいからいいから、と扶桑に防がれてしまう。座って待っていて、と立ち上がり、お茶を入れに備え受けのガスコンロに向かう。
こうなったら扶桑はてことして譲らない。申し訳なさはあったが諦め、座って待つことにする。
お湯を沸かす音を聞きながら、姉の後ろ姿を眺める。
普段着ているおそろいの服装ではなく、部屋着である紫の和服姿。
(本当、綺麗だなぁ……)
ぽけー、っと間抜けな顔でそんなことを思う。
憧れ、目標とするその姿。いつか、その背に追いつくことができるのだろうか。
バカバカしいとは思いながらもそんなことを考えてしまう。
「なにを、考えていたの?」
「……へ?」
突然の問いに、素っ頓狂な声で答えてしまう。
気恥ずかしい考えを読まれたのかと顔を赤くしてしまうが扶桑の口から出た
少女の名前で我に返る。
「時雨のこと?」
「……はい」
なぜ分かったのか、疑問も浮かんだが些細な問題ではない。
扶桑もまた時雨に会ったのか、真偽のほどは不明だが、それもまた問題ではない。
それが問題では無いと思えるほど、あの少女の姿が今でも鮮明に思い出せる。
「そう……」
熱湯を注いだ急須と山城の分の湯飲みを手に、山城のもとへ戻ってきた扶桑は小さく呟いた。
山城は、そして恐らく扶桑も、気付いていた。
「もう今年も、あの季節がやってきたのね」
「はい……」
――艦娘は、在りし日の戦船の魂を受け継いだうら若き乙女たちのことである。
それ以上の情報はないし、それ以上のことを知ろうともしなかった。
そして、それぞれの艦の記憶すらも艦娘となった彼女たちはその身に継承されている。とある艦娘の組み合わせがどこか懐かしく感じるのも、前世――と言っていいのか不明ではあるが――の記憶によるものである。
だからこそ、皆がそれぞれ特定の海域の名前に過剰に反応することもしばしばある。因縁の相手と、激戦を繰り広げた海。そして、自分が沈んだ海や、友が沈んだ海の名に……。
今でも思い出す。
忘れたくても忘れられない。
目を逸らしたくても、背を向け逃げ出しても、どこまでも追いかけてくる悪夢。
地獄を見た。耳を劈く轟音とその合間から聞こえる人の叫び声。大海を揺るがしているかのような衝動。火薬と硝煙、そして生臭い血の匂い。
まさに生き地獄というのは、この光景のことだろう、と山城は思った。
今でも鮮明に思い出すこの記憶が、実に忌々しかった。
私を生んだ‘モノ’は、なんでこんな記憶まで残したのだろうか。こんな思いをさせて、どうしたいのか。
「あの子……時雨は特に思うところがあるでしょうしね」
「そう、ですよね」
時雨の苦悩は、知っている。初めて会った時から、時雨の顔には様々な色が浮かんでいた。
再開の喜びも、どう接してよいのか分からないといった困惑も。
まるで、許しを請うかのような、怖れの視線も。
「姉さま」
「なに? 山城」
絞り出すかのような声で尋ねる山城に、変わらない優しい声で扶桑は答える。
急須を軽く揺らし、蒸らしながらお茶が出来上がるのを待つ扶桑に問いかける。
「あの子に、時雨に、私はなにをできるのでしょうか?」
別に、救いたいなどと高尚な思いを抱いたわけでもない。
それでも時雨の表情を思い返すたびに、胸が締め付けられて苦しくて、何度も手を差し伸べそうになった。差し伸べて、いつも虚空を掴んで。浮かんだ言葉は音にもならずに。時雨の抱える闇に踏み込む勇気がなかった。
「なにを、ねぇ……」
山城の問いに、急須から手を離し、あごに人差し指を当てながら「うーん」と思考を巡らす扶桑。その姿に思わず可愛いと思ってしまった。
時間にして数秒だっただろうか。シンと静まり返った部屋に、扶桑の声が通る。
「私たちが、手を差し伸べて。温かい言葉をかけて。それだけでも、時雨はきっと笑ってくれるでしょうね」
山城は頷く。扶桑の言葉通りの風景が容易に想像できた。かける言葉に、微笑みながら、手を取ってくれるだろう。
……依然、闇を胸に抱えたまま。
「重い荷物を持ってあげることは簡単よ。でもそれだけじゃダメ」
支えてあげなければ潰れてしまうほどの重みを、代わりに負担することは、確かに優しさと言えるものなのだろう。
だが、支えてあげればあげるほど、その手足は衰え弱まるばかり。
「時雨が、あの子たち自身が、自分で乗り越えなければならない日が、いつか来るわ」
「いつか、ですか」
「いつか。そう、いつか、ね」
お茶を注ぎながら、ぽつりと呟く。
その言葉はとても小さく、けれどどこか強いものを感じた。
まるで、自分自身にも言い聞かせるかのようだった。