「……それでは、失礼いたします」
「……」
報告を終え執務室から出ていく部下に一瞥もくれず、卓上で組んだ手に額を押し当て続けるフリード。
どれだけの時間が経ったのだろう。いつの間にか陽は落ち、執務室内は僅かな蝋燭の明かりだけが照らしている。薄暗く、まるで彫像のように微動だにしないフリードも相まって、まるで生気というものが感じられない。
頭の中を駆け巡るのは、ただ一つの問い。答えなど返ってくるわけがないとわかっていながら、それでも拭い去れない問いが頭の中を駆け巡る。
(なぜだ、フェリシア。なぜ、こんなことに……)
フェリシアに付けていた、事実上の監視役からの定時報告が途絶えて丸一日。
殺されたか、捕らえられたか……いずれにせよ、その意味するところは一つ。フェリシアはボロを出したのだ。自身の立場を決定的に悪くする、そんな何かを見せてしまった。だからこそ、監視役からの情報流出を防がなければならなくなった。情報が洩れるよりかは、どんな形であれ封鎖してしまった方が、まだ時間を稼げるから。
しかし、それは本来ならあり得ないことだ。軍の事実上の頂点に立ち、師としての贔屓目を抜きにしても、フェリシアは群を抜いて優秀だ。魔物たちの管理者として派遣された特務部隊隊員がその実、数年前から秘かに不穏な動きを見せるようになった自身への監視役であることにも気づいていたはず。
ならばどうするか。答えは簡単、粛清・失脚に繋がる一切の口実を与えないように慎重に振舞うことだ。事実、今回のことがあるまでフェリシアは全くと言っていいほど尻尾を掴ませなかった。彼女は知っていたのだ。情報流出は以ての外だが、同様にそれを防ぐために監視役を抑えることもまた悪手であると。監視役を放置する、放置できる状態を維持する以外に、道がない事を。逆に言えば、その状態を維持することさえできれば、自身がこれ以上立場を危うくすることもない、と。
実際、このままいけば大幅に立場が改善される…とはいかなくても、とりあえず今後の軍内部での活動に支障をきたさない状況に持ち込めたはずだ。少なくとも、人間族との戦争が本格化すれば、フェリシアほどの戦力に要らぬ制限を課し続けていられる状況ではなくなるのだから。
元々、フェリシアへの疑惑とて確証や確信からほど遠い、“かもしれない”レベルのもの。フリードの直弟子であることもまた、良くも悪くも彼女の評判に影響を与えているのだろう。辺境出身であり、若くして高位についた彼女を快く思わない輩は多く、そういった連中は何とか攻撃材料を得ようと躍起になって彼女の身辺からアラを探し続けていた。あわよくば、フェリシアを踏み台にフリードの地位すらも狙わんと……。
そんな中、いつの間にか一つの噂がまことしやかに流れるようになる。それは……
――――――――魔王様への叛意の兆しあり
はじめは根も葉もない、悪意のみで構成された愚かな噂に過ぎなかった。そうあって欲しい、そうであれば思う存分フェリシアを貶めることができる、くだらない欲望の産物。フェリシアに対して隔意のある者達は好んで酒の肴にしていたが、逆に彼女を認め支持する者達はそんな連中を軽蔑していたし、中立派は“流石にそれはない”と一顧だにもしなかった。それならまだ、“フェリシアはフリードの愛人で、自分の「女」を使って今の地位を手に入れた”という方が信憑性がある、と。
だがそんな根拠のない噂は、いつしか信憑性を帯びるようになる。フェリシアは決して隙を見せることはしなかったが、それでも何かしらの動きを取れば痕跡を完全に消し去ることはできない。慎重に慎重を重ねたことで、意図も狙いも完全に隠蔽され、残されたのは僅かな痕跡だけ。それがかえって、様々な憶測を呼んだのは皮肉なことだ。
――――――――――何をしているかはわからない
――――――――――しかし、なにかをしている
完璧な情報統制が仇になった。いっそ僅かでも情報が洩れていれば、余計な邪推を呼ぶこともなかっただろう。だが、フェリシアは自身の思想とやろうとしていることが異端であることを理解していた。だからこそ、少しでも真意に迫られる可能性をなくそうと、執拗なまでに情報を隠し通した。
結果論ではあるが、それが裏目に出た。元々少ないとは言えなかった非好意的な者達は、フェリシアの真意の見えない暗躍を利用したのだ。
曰く、フェリシア・グレイロードは他種族と通じている。
曰く、現体制に不満を持つ者を集め、クーデターを画策している。
曰く、アルヴ様の教えに疑念を持ち、蔑ろにしている。
即ち――――――――――――フェリシア・グレイロードは異端者である
『異端者』
それはこの世界において、人間族・魔人族を問わず非常に重い意味を持つ言葉。異端者とはつまり神敵であり、それ故に何をしても許される。生きていること、それ自体が罪であり、即刻滅されなければならない存在を意味している。
通常は協会から認定されるものだが、悪口雑言の一つとして用いられることもないわけではない。ただ、それは非常に稀だ。「異端者」と称されるだけでもその立場は著しく悪いものになるし、正当な理由なくそれを口にすれば逆にそれを言った者の立場を危うくする。教会以外の者が口にする「異端者」とは、そんな諸刃の剣なのである。
どれほどフェリシアに反感を持っていようと、決してそれだけは用いられることのなかった言葉。だが彼らは、ついにそれを口にした。邪推と妄想、悪意と願望の迷走の末、彼らは真実に至っていたのだ。
フェリシアが考えていること、やろうとしていることは、彼らの考えていたものとは似ても似つかない。だから、フェリシアはことさらそれに反応を示しはしなかった。真相に迫られていないのなら、何も問題はないと。
ただ、一つだけ気がかりなことがあった。それは、経緯はどうあれ結論だけは正鵠を射ていたことだろう。
とはいえ、何一つとして確証のない、無責任な噂に過ぎない。フェリシアの類稀な能力、二人目の大迷宮攻略者という実績、自身だけでなく同胞たちすら強化可能な神代魔法の使い手という将来性。
どれも魔人族にとっては得難く、容易く失うわけにはいかないものばかり。どのような形であれ「異端者」などと称されながら、フェリシアが親衛騎士団長という要職に表向き支障なく在り続けられたのは、先の三点の賜物だ。彼女の存在は、それほどまでに惜しい。
だが、まがりなりにも「異端者」呼ばわりされる者が軍上層部にいたとあっては、放置できない。事実上全軍を統括する立場にあるフリードとはいえ、主だった将軍数名の連名による進言は無視できない。已む無く、フリードはその進言を受け入れ監視役を派遣した。
ただ、その真意は彼らのそれとは真逆、フェリシアの潔白を証明するためだ。彼女なら、必ずや監視やされていることに気付くはず。そうなれば、嫌疑を晴らすべく慎重に行動するだろう。一時凌ぎにしかならないかもしれないが、今は最も重要な時期。軍内部に亀裂を生じさせたままでいるわけにはいかない。
それに、戦争に勝利することさえできれば、あとは何とでもなる。彼女の立場を盤石なものとし、奉じる神と、神の代弁者たる魔王と、愛すべき同胞たちのため、共に歩んでいく。フリードはその未来を信じていた。
しかし、蓋を開けてみれば……フェリシアは思いもよらぬ形で、杜撰にもボロを出してしまった。それはフリードへの……ひいては魔王と同胞たちへの裏切りに他ならない。
(お前らしくもない。よりにもよってこの時期に、そんな愚かな
フェリシアが自分たちと違うことには薄々勘付いていた。彼女が軍に仕官してからというもの、手元に置いて様々なことを教え、彼女の成長を見守ってきたのは、他ならぬフリードなのだから。
周囲との齟齬に悩み、それを押し殺して鍛錬と軍務に励み続けてきた愛弟子。見ているもの、考えているものが違うことはわかっていた。それでもなお、フリードは信じていたのだ。いつか必ず、その懊悩から解放される日が来ることを。そして、いずれは自分の跡を継いで同胞たちを守り、導いてくれることを。
(ああ、私は信じていたのだ。例え歩む道は違えども、根底にあるもの、目指す先は同じだと。そう、信じていた……なのに、お前は…………)
弟子の真意は未だわからない。いったい、彼女が何をしようとしていたか不明だ。だが、一つだけ確かなことがある。ここにはもう、フェリシアが戻ってくる場所はない、ということだ。
(………………………………ならばせめて、私の手でお前を討とう。それが師としての、せめてもの慈悲だ)
フリードは気づかない、自身の考えの極端さに。
かつての彼であれば、せめてフェリシアに真意を問い質そうとしただろう。彼が思っていた通り、
フリードは気づかない、周囲の者たちの変化に。
フェリシアに対して友好的だったはずの者達からすら、強硬意見が出ることに違和感を持てない。つい先日までフェリシアへの疑念を声高に口にする将軍の一人を時に宥め、時に苦言を呈していた彼が、むしろ積極的にフェリシアへの嫌疑を煽っていることの不自然さ。普段の彼であれば、決して見逃さなかったであろう変化を、フリードはおかしいと思えなくなっている。
そう、今のフリードにそんな余分は存在しない。気付かぬうちに、少しずつ少しずつ……削ぎ落とされていった余分。
神敵は討つ。例えそれが誰であろうと、どのような思想の持ち主であろうと、関係はない。
それこそが喜びであり、神の御意思に従うことこそが正道。以前からそう信じて生きてきた彼だが、今の彼にはそれしか見えていない。見えなく、されていた。
だが実のところ、そんなことは小さなことに過ぎない。問題は、もっと根本的なところにあったのだ。
フリードは知らない、フェリシアも気づいていなかった。監視役のことなど関係なく、彼女の居場所は既に……いや、それこそ初めから、この国にはなかったのだということを。
* * * * * * * * *
立香たちがフェリシアの案内の下、山間部に位置する村落にたどり着いてからは、怒涛のように時間が過ぎていった。
何しろ、一秒たりとも時間を無駄にはしていられない。一秒足踏みしている間に、一つの命が黄泉路を渡ってしまうかもしれないのだ。どれだけ急いでも、急ぎ過ぎるということはない。
幸い、ハインケルとブーディカの宝具のおかげで、ものの数時間で現地に到着することができた。とはいえ、その時点ですでに正午を回っている。サーヴァントと違い騎士たちには体力の限界があるし、夜間の捜索は二次災害の危険を伴う。サーヴァントならばそれらの問題を無視できるが、生憎今回のメンツは人海戦術を取れるタイプではない。いくら人間を超越した力があろうと、限度というものがあるのだから。
故に、救助活動は可能な限り迅速かつ効率的に進める必要がある。そこで立香が初めにやったこと、それは……
「フェリシアさん、俺たちはあなたの指揮下に入ります」
指揮系統の一本化だった。魔人族軍とカルデア一行、とりあえずは棚上げにしているとはいえ、ついさっきまで干戈を交えていた者同士。連携・協力など望むべくもない間柄ではあるが、今の状況ではそんなこともいっていられない。一人でも多くの命を救うには、四の五の言わずに手を取り合う必要がある。そのためには、明確に指揮系統を束ねる必要があると考えたのだ。
そして、そのためにはフェリシアに指揮権を預けるのが妥当だろう、とも。
とはいえ、そのことに反対がなかったわけではない。ただそれは、サーヴァントたちからではなく、むしろフェリシアの方からだ。
「本気……なのですね」
「俺たちは余所者です。そんな俺たちが勝手に動いたとすれば、ここの人たちに警戒させるだけです。でも、あなたの指揮下にあるとわかれば、少しは安心してもらえるはずです」
「………………続けてください」
「次に、俺たちは災害救助の経験に乏しいんです。切った張ったならまだしも、こういう時何をどうすればいいか、詳しいノウハウがありません」
今回、災害大国日本出身のサーヴァントは多く召喚されているが、災害に関連した逸話や偉業を有しているわけではない。道中念話で確認した限りでも、適切な指示が出せるかといえばあまり自信がないとの返答が多かった。
ならば、少しでもノウハウがあるであろう人物に委ねるのが吉だ。
「……いえ、それは私も大差ありません。恥ずかしながら、戦うこと以外には疎く……」
「でしたら、そこは、小官が、補い、ましょう」
「……こちらは?」
「私の副官で、長年軍に籍を置いてきた古強者です。私と違い、戦以外の経験も豊富ですから、むしろ指示は彼に任せるのが得策でしょう。それに、私もそう長くは動けないでしょうから」
「? …………とりあえず、あなたが指揮を執るということでいいですか?」
「お任せ、いただけ、ますかな?」
「お願いします。俺たちの能力や技能についてもお伝えするので、うまく使ってください」
「!」
立香の申し出に、副長が僅かに目を見開く。協力の姿勢を見せていたとはいえ、自分から手の内を開示するとは思っていなかったのだろう。すべてを明らかにするわけではないだろうが、それでも……。
(なるほど……些かお人好しが過ぎるきらいはあるが、それは状況を理解し、人命を尊重している裏返しとも言える。むしろ、こういった手合いの方が団長とは相性がいいだろう。この方も、根本的にはお人好しだからな。まぁ、そうでなければ『異端者』の誹りを受けることを覚悟のうえで、大勢に反して融和方向へ向かう道を模索したりなどしないだろうが……)
しかし、フェリシアは“ただのお人好し”とは違う。綺麗ごとを口にし、“正しいだけの道”しか歩めない偽善者ではない。悪事や凶行といった悪道を憎みながらも、それが“必要”と判断すれば躊躇しない。どれだけ泥に塗れようと、手を血で汚そうとも、彼女は突き進む。自分が汚れることで、より善い未来に、より美しい世界に続いているのなら。
だからこそ、フェリシアと相性の好い人物というのは稀なのだ。単なる善人ではフェリシアの覚悟と相容れないし、悪人ではフェリシアの理想に共感できない。気高い理想を掲げながら、手を汚すことを厭わない。そんな、ある種矛盾した人間性と噛み合う者は少ない。
だからこそ、“善を知りながら悪を成し、善にありながら悪を許す”立香の在り様は、フェリシアと相性がいいのだろう。なにしろ彼もまた、必要とあらば強く心を痛めながらも良心に反した行動に出る覚悟の持ち主なのだから。
その後、立香は先の言葉通り必要があると思われる能力や技能などに関して、惜しむことなく開示した。フェリシアたちもまた、色々と気になることも多かったが敢えてそこには言及せず、同胞たちの救助を優先した。
まずは段蔵を始めとした斥候を得意とする者たちが山に入り、現場周辺を確認。そこで村落の後背に位置する斜面が崩れ、約半分が土砂に飲み込まれていることが判明。予想通り、長雨の影響で地盤が緩んでいたところへ、明け方の地震が追い打ちをかけ崩落したらしい。多少雨足は弱まっているとはいえ、今なお雨は降り続いている。再崩落の危険に備えながらの厳しい作業になるだろう。
その間に、フェリシアは辛うじて難を逃れた村民たちから情報を収集する。幸い、村長は無事だったことから、把握できている限りの被害状況の確認や行方不明者のリストの作成、加えて当面の避難先の確保などがスムーズにいった。
とはいえ、この段階ですでに死者は20名を超え、行方不明者は100名近くに上る。人口が200名に満たない集落であることを考えれば、絶望的な状況だ。それでも、土砂崩れが起こったのが深夜ではなく明け方であったこと、迅速に救援が来たことは不幸中の幸いだろう。
そうして救助活動に必要な下準備が整えば、あとは行動あるのみである。
大半のサーヴァントたちはその基本性能の高さを生かして救助活動に参加。立香も慣れない探索系の魔術を行使して生存者の捜索を補助している。
段蔵は忍びであることや山を熟知していることから周辺を警戒し、再崩落に備える。彼女の警告のおかげで難を逃れたことも一度や二度ではなかった。
また、藤太はその宝具を最大限生かすべく、避難所に常駐。辛うじて土砂崩れから難を逃れた者、土中から救出された者、残念ながら親しい人を亡くしてしまった者、あるいは土中から掘り出すことには成功したが既に事切れた遺体を発見した者……誰も彼もが身体を疲弊させ、心に深い傷を負ったまま避難所を出入りする彼らに温かい食事を振る舞い、豪放磊落な笑顔で励まして回っていた。
ただ、中にはこういう時であってもろくなことをしないやつがいるわけで……
「さて、それでは我輩は執筆にとりかかるとしましょう。皆さん、頑張ってください。あ、ですが先に被災者の方々に今のお気持ちを聞かせていただきに行きましょう。感情には鮮度がありますからな」
「そういう一貫したところは尊敬するけど……」
「おや、如何なさいましたマスター? そのように頭を抱えて……」
「今は説得する時間も惜しいし……」
「はて、なぜ令呪を掲げておられるので?」
「カルデアのマスターが礼呪を持って命じる、『働け』キャスター!!」
「フォ――――ウ!!」
「ぬぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!? 我輩、肉体労働は専門外なのですが―――――――っ!!」
相変わらずすぎる人間の屑、またはロクデナシに強制労働の刑を科す、当然慈悲はない。むしろ、良いことをしたとばかりに胸を反らす。後ろを振り返れば、良くやったとばかりにいい笑顔でサムズアップする仲間たち。
あとはもう総力戦だ。
種族・立場・年齢・性別・思想…………それら一切すべてが些末事。男性は主に救助活動に参加し、女性や子供は炊き出しや負傷者の手当てを手伝う。ある者は行方不明者の名を呼び、またある者は技能や魔法で生存者を探す。反応があれば周囲の者と協力して慎重に土砂をどかし、倒木や倒壊した家屋を解体し、下敷きになっている者を引っ張り出す。
応急処置や回復魔法に優れた者は避難所に詰め、立香たちも所持していた薬や物資を惜しげもなく供出する。
しかし、さすがに100名以上の行方不明者を見つけ出すには時間が足りな過ぎた。到着時点で正午を回っていたこともあり、あっという間に日が暮れてしまったのだ。夜間の捜索は二次災害の危険を伴うことから一時中断されたが、サーヴァントには関係のない話。彼らが継続して行方不明者の捜索に当たったことで、翌日中には全行方不明者の安否確認を終えることができた。負傷者への処置も一段落し、何とか一山超えたところで捜索に当たっていた騎士や村民、立香たちも含めて誰も彼もが夢の世界に旅立ち、泥のように眠る。
気付けばいつの間にか、雨は上がっていた。
それから三日後。被災した集落からいくらか離れた平原に設営された天幕の下、昏々と眠り続けていたフェリシアはようやく目を覚ました。
「……ぅ、ここは?」
「ようやく、御目覚め、ですかな、団長」
「副長?」
「おや、小官の、顔では、インパクトが、たりません、かな?」
「そういう冗談はよしなさい」
「失礼」
不機嫌そうに眉を顰めるフェリシアに、副長の顔が僅かに綻ぶ。自身の顔にしろ自虐ネタにしろ、とりあえず気付けとして効果があったことに、幾許かの安堵を覚えたのだろう。
フェリシアの腹心である彼は、主の心が一度折れかけたことに気付いていた。堅固な意思の持ち主であるからこそ、一度折れれば立ち直れないのではないかと危惧していたが……それは杞憂だったらしい。今のフェリシアの目には、微かだが確かな光が宿っている。まだ彼女は完全には折れていない。あるいはそれは、今にも心折れそうなその瞬間に見た、当たり前のように他者のために手を差し伸べるあの少年のおかげなのかもしれない。
(だとすれば、つくづく感謝に堪えんな)
「それで、今の状況は? 集落は、どうなりました?」
「では……」
「と、申し訳ありません。そのままでは話しづらいでしょう」
フェリシアが副長の頬に触れると、異形の相貌が見る見るうちに人のそれに戻っていく。現状、天魔転変による変化は基本的に一方通行だ。施術したフェリシアを除けば、同じく変成魔法の使い手であるフリード以外に彼らをもとの姿に戻せる者はいない。他の団員たちにしても、いまなお異形化したままだ。
(早めに、彼らも元に戻さなければなりませんね。この先、私がどうなるかわからない以上、せめてそれくらいは……)
「…………ふむ、ふむふむ」
「具合はどうですか? 違和感があれば……」
「いえ、流石ですな。これだけ長く変化していたのは初めてなので、少々ぎこちなくはありますが、全く問題はありません」
「そうですか。よかった……」
正直言えば、フェリシアとしても多少不安はあったのだ。天魔天変による変貌は初めてのことではないが、それもせいぜい数時間程度のこと。そのため、長時間の変化がどう影響を及ぼすかはデータがない。眠り続けていた彼女にはどれだけの時間が経過したかわからないが、かなりの時間眠っていたことだけは間違いない。
その時間が、部下たちの身体にどのような影響を及ぼすか……だがその心配は、とりあえず杞憂に終わったらしい。
「そういえば、私はどれだけ眠っていたのですか?」
「二日ほどになります。まったく、あれほど無理をなさるなと申し上げたのに、生きた心地がしませんでしたよ」
この点に関しては返す言葉もないだけに、フェリシアとしては笑って誤魔化すしかない。
負傷する度に肉体をより強靭に作り替え続ける悪鬼変生は、当然ながら体にかかる負荷が大きい。本来なら、一度使っただけでも身体にガタが来て使い物にならなくなってしまう程に。フェリシアはその対策として、術を解くと同時に肉体を元の状態に再変成するよう設定しているのだが、その際彼女の意識も強制的に落ちてしまう。そして、身体の再変成が終わるまで彼女の意識が戻ることはない。二日以上にわたって意識が戻らなかったということは、それだけフェリシアの身体が本来のそれからはかけ離れたものになっていたということの証明でもある。
「しかし、身体の再変成は已むを得ないにしても、意識を失ってしまうのはやはり問題ですね。まだまだ、改良の余地があるということですか」
「団長」
「わかっていますよ。私とて、死に急ぐつもりはありません」
「……まぁ、今はそれで納得しておきましょう。それでは、改めてご報告申し上げます」
「ええ、お願いします」
副長の報告を要約すると、以下のようになる。
正午を過ぎたあたりに件の集落に到着し、いくらかの打ち合わせの後に始まった救助活動は、途中で日が暮れたこともあり一時中断されたりはしたものの、翌日中には完了。100名を超えた行方不明者は全員発見され、最終的な死者は31名。重軽傷者を数えることに意味はない、なにしろそもそも怪我を負っていないものを探す方が難しい有様だったのだから。
とはいえ、集落の規模や被災状況を鑑みれば、この程度で済んだのはむしろ奇跡的とすら言える。
人口の半数以上が死亡ないし行方不明の状況だったのだ。ましてや、100名近い行方不明者の中から死者は僅か10名程度。あの状況では、行方不明者の大半が死亡していた可能性の方が高い。これを奇跡と言わず何と言おう。
救助活動が終わるのと前後して、フェリシアは昏倒。悪鬼変生による負荷は大きく、無理を押して維持したまま救助活動に参加していたが、とりあえずの区切りがついたところで電源が切れたように意識を失ったのだ。以降は副長が完全に指揮を引き継いだ。さらに翌日までは立香たちと共に被災者のための仮設住居の設営や炊き出しなどに励み、遅れて到着した救援部隊に後事を引き継ぎ集落を後にした。雨季ということもあって、救援部隊の到着が遅れたのはやむを得ない事だろう。この時期、どうしても移動ルートが制限されてしまうのはどうにもならないのだから。まぁ、だからこそ死者が30名程度に抑えられたのは奇跡的なのだが。
そうして集落を後にしてからは、平原で野営しつつフェリシアの目覚めを待っていたという次第だ。
「なるほど……皆はどうしています?」
「状況が状況ですからな。ほとんどの者は、天幕の一つに拘束しております」
「そう、ですね。そうせざるを得ませんか」
集落への救援活動は緊急事態ということもあって見ぬフリをしてくれていたであろう部下たちも、状況が落ち着けばその限りではない。基本的に人間族と魔人族の仲は険悪を通り越して最悪だ。いくら恩人とはいえ、過去の確執や遺恨をすべて水に流すことはできないだろう。恩を仇で返さないためにも、衝突の恐れのある者達は拘束するより他ない。
また、今回のことでフェリシアのガーランド国内での立場はなくなったとみていい。後続の救援部隊のような末端までにはまだ情報がいきわたっていなかったのだろうが、それも時間の問題だ。遠からず、フェリシアは魔人族の裏切り者として手配されることだろう。あるいは、与える影響の大きさを鑑みて秘密裏に処理されるか……。
いずれにせよ、最早この国に彼女の居場所はない。それ自体はフェリシアも覚悟していたことだ。万が一にも露見すればそうなることはわかっていたし、最後の一押しになることを承知の上で彼女は立香の手を取ったのだから。元より敗北を喫した時点でないも同然の立場だったが、それと引き換えにいくらかの同胞を救えたと思えば悔いはない。
ただ、ここで問題となるのがどの程度の範囲にまで疑いの目が向けられるかだ。フェリシア一人で収まればいい。だが、もっと広い範囲……場合によっては、彼女の真意を知らない部下たちにまで波及する恐れがある。せめて、今ここにいる部下たちだけでもフェリシアの思想とは無関係であることを示すため、「フェリシアに拘束された」という事実が必要だった。
そうすることで、フェリシアと彼らは無関係だとアピールする。完全に信用されるかはわからないが、少なくともある程度は嫌疑が和らぐだろう。
「いま動ける者は?」
「小官他、4名といったところですな。大迷宮攻略者と戦うことを前提に編成したのが幸いでしょうか」
それはつまり、フェリシアが最も信を置く者たち……即ち、同志が多く含まれているということ。実際、20名の部下たちのうち約半数が彼女と志を同じくする者達だ。これは、ガーランド国内にいる同志の約十分の一に相当する。少ないように思うかもしれないが、この国における魔人族至上主義や過度の信仰心を考えれば、異端ともいえる思想に100名以上が賛同しているというのは驚くべきことだろう。
とはいえ、やはり実数として100名というのは決して多いとは言えない。まぁ、フェリシアが同志を募ろうと考えたのが数年前であること、彼女の思想が異端視されるものであることから慎重にならざるを得なかったことから、どうしても数が限られてしまうのは仕方がない事だろうが。
しかし、彼らだけでも表向きフェリシアの思想と無関係であると示す行動がとれたのは、副長の言う通り幸いというべきだろう。
「付け加えるなら、小官と共に皆を拘束した者達は……」
「皆まで言わずともわかっています。ですから、言わないでください」
「承知いたしました」
苦虫を何十匹も噛み潰したような表情を浮かべるフェリシア。彼女にはわかっているのだ、副長の言わんとすることが。同志たちの中でも限られた、親族や恋人などのいない良くも悪くも身軽な者達から選抜されたのだろう。
何故そう言った者達を選んだのか、それがわからないフェリシアではない。彼女でもきっと、同じことをしただろうから。
「それで、リツカ殿たちは?」
「………………………………………ふむ」
「? どうかしましたか?」
「あぁ、いえ、なにも。ええ、何もありません」
「? ? ?」
副長の奇妙な反応に疑問符を浮かべるが、今はもっと重要なことがあるためスルー。その判断自体は間違っていないが、彼女は後からでももっとこのことを気に留めるべきだった。
彼女は知らない。トータスの名前は地球でいうところの西洋式、つまり「名・姓」が基本だが立香は東洋人、そのため「姓・名」の順であることを。つまり、彼女が口にしたのは「姓」ではなく「名」の方なのだ。
耳慣れない音の並びということと、異世界人であることもあってフェリシアはそういうものだと思ったようだが、彼女は知らず知らずのうちに年齢の近い異性を姓ではなく名で呼んでいたのである。
それの何が問題なのかといえば、フェリシアは基本的によほど親しくない限り、特に相手が男性の場合は必ずと言っていいほど「姓」で呼ぶことにある。例外は家族を除けば、恩師であるフリードや親友の婚約者であるミハイルくらいなものだろう。故に、初対面同然の相手を「名」で呼ぶなど、普段の彼女なら絶対にできないことだ。もし知れば、真っ赤になった挙句「なんてはしたない」とか思ってしまうくらいに貞操観念が強く、初心なのである。色恋沙汰を切って捨てて生きてきた分、その手のことへの耐性はないも同然なのだ。
そして、当然ながら副長はそのことを知っている。知っていて黙っているのは、気付くのが遅れれば遅れるほどフェリシアの反応が「面白い」ものになると思えばこそだ。
(いやぁ、その時が楽しみですなぁ。惜しい、実に惜しい。この目で見れないのが、惜しくてなりませんぞ、団長殿)
「なんですか、ニヤニヤと気色の悪い……」
「おっと、失礼いたしました。少々、愉快な想像が捗りましてな」
「…………根拠も何もありませんが、どうしようもなく不安になるのですが」
「お気になさらず。それで、リツカ殿たちのことでしたら、こちらへ」
副長に誘われて天幕から出ると、外は満天の星空。雨が上がったことは辛うじて覚えていたが、どうやら雲すらも流されてしまったらしい。雲一つない空は雨期の終わりの象徴、どうやら恵みと災いの双方をもたらす厄介な季節は終わりを迎えたらしい。
だが、フェリシアの頭にそんな感慨が入り込む余地は残されていなかった。彼女の視線は、いくつかの天幕に囲まれた野営地の中心で燃え上がる焚火に吸い寄せられていたからだ。
「…………」
より正確には、焚火を囲む数名の男女たち。
決して険悪な雰囲気ではない。かといって、賑やかにドンチャン騒ぎをしているわけでもない。
静かに、落ち着いた様子で、一人の少年が未だ異形の姿から戻っていない部下から真剣に話を聞いている。部下の方も、少年に対して特に悪感情を見せることなく、穏やかな……互いの関係性を思えば穏やか過ぎる調子で話をしている。
少年の隣に腰掛けた少女は肩に見慣れぬ小動物を乗せたまま慣れた手つきでお茶を淹れ、それを少年だけでなく部下にも振舞う。それを少年は笑顔で受け取り、部下もまた目礼してから口をつける。
いがみ合うでもなく、かといって無理に打ち解けようとするでもなく、あるいは恩義を理由に本心を糊塗した風でもなく、あまりにも自然体なまま語らう姿。
何ということはない、極々ありふれた光景。
しかし、だからこそフェリシアにはそれが夢か幻のように思え、一瞬自らの正気を疑ってしまった。
自然だからこそ、それはなによりも不自然な、あり得ないとすら思える光景だった。
「副長」
「はっ」
「私はまだ、眠っているのでしょうか?」
「小官の目には、しっかりと目を覚ましておられるように見えますが」
「…………」
「まぁ、お気持ちはわかります。正直、小官も未だに夢でも見ているような気持ちですからな」
副長の表情を見なくても、滲み出る困惑した雰囲気からそれが本心であることが窺い知れる。
「いったい、何があったのですか?」
「はて、どこから話せばいいのか……」
「初めからお願いします」
「正直、どの時点を以てはじめとするか、それすらわからないというのが本音ですが……そうですな、なにはともあれ相手は恩人。我らとしましても、本音はどうあれ礼を尽くそうとはしました。せめて、団長がお目覚めになられ、彼らに礼を述べるまでは……と」
まず、後続の救援部隊が到着し引継ぎを済ませている間に立香たちには一端集落を離れてもらった。下手に立香たちの存在が露見すると、事態がややこしくなるのは目に見えていたからだ。立香たちも了承し、合流場所を決めて離脱。その後、予定通り合流を果たしたあとはフェリシアの目覚めを待っていたのだそうだ。立香たちが急ぐ場合のことも考慮はしていたが、彼らはフェリシアの身を案じそのまま残留したので引き留めるための策は無駄に終わる。
しかし、いくら恩人とはいえ長年の確執と遺恨は根深い。恩人である以上非礼など以ての外だが、心に深く突き刺さったしこりがある以上、仲良くできるはずもない。副長たちとしては、フェリシアが目覚めるまでの間は必要最低限の接触に留めるつもりだった。それがお互いの為だと思ったからだ。
そして、フェリシアが目覚め次第、受けた恩に報いて、あとは「はい、さようなら」とするのが最善だと思っていた。その判断は今でも正しかったと思っている。不必要に接点を持ったり、長く関わりを持ったりすれば「恩義」の名の下に目をそらしているアレコレが表面化するとわかっていたからだ。
いくらフェリシアの思想に賛同しているとはいえ、好悪の感情でいえば人間族のことは嫌いだ。彼らによって奪われたもの、失われたものは計り知れない。例えそれが、お互い様であったとしても……理屈で感情を完全に制御できれば世話はない。それでも彼らがフェリシアに賛同したのは、彼女の思想の根底にあるのが「同胞への想い」であるからこそ。
フェリシア自身、別に人間族や亜人族のことを好意的に見ているわけではない。かつて思っていたような「悪逆非道」な輩ではないことは理解しているが、かといって彼らが魔人族の脅威であることに変わりはない。積み重なった怨恨は、当然のように彼女の胸にもある。
それでもなお、互いの関係を完全に断ち切り、いずれは融和へ……と考えたのは、それこそが最も同胞の血を流さない道だと思ったからだ。
戦争で最も難しいのは勝つことではなく”終わらせる”こと。一つの種をまるごと殲滅するというのは現実的ではない。必ずや取りこぼしが生じ、その取りこぼしが新たな火種を生み、いつか報復に打って出るだろう。
もし他種族の殲滅が最も血を流さない道と判断したのならそちらを選択しただろうが、フェリシアはその無意味さを理解していた。だからこそ、副長たちはフェリシアの思想に賛同した。「他種族と手を取り合う」ためではなく「より同胞の血が流れない」、そんな世のために。
だが、それは逆に言えば他種族への敵意や憎悪がいまだに残っているということ。彼らはただそれに蓋をしているだけに過ぎない。
長くかかわれば、接点を多く持てば、蓋をしていた感情が溢れ出す。だからこそ、フェリシアは初期段階として「完全な関係の断絶」を提言しているのだ。この感情が薄まることなく、融和などありえないが故に。
副長たちもそれに倣おうとしたのだが、そこで…というよりも、そういう空気を敢えて読まないのが藤丸立香だ。
必要最低限の接点しか持とうとしない団員たちに、立香は何の遠慮もなく積極的にコミュニケーションを取りに行ったのである。初めは恩人ということもあり、非礼にならない程度に応対して逃げようとした彼らだが、その程度ではぐらかされるようではカルデア唯一のマスターなどやっていられない。
形式として従うだけで馴れ合いを拒絶するサーヴァントどころか、気難しすぎて受け答え一つで生死が分かれるようなサーヴァントもいるのだ。彼らに比べれば、恩義故であろうと渋々だろうとしっかり応対してくれる騎士たちはまだまだ関わりやすい部類に入る。
決して好意的とはいえない反応に物怖じすることなく、かといって不快にさせない絶妙な一線を見極めた上で、粘り強く彼らと関わりを持ち続けた。
当初は両者を隔てていた分厚い壁は、見る見るうちに削られ薄くなっていく。仕方なく応対していたのが、気付けば聞かれた以上のことを答えるようになり、聞く気のなかったはずの問いがつい口から零れてしまう。そんなことを繰り返しているうちに双方の距離は縮まり、胸の内にあった硬さは解れていく。
技能「対話」を有する、“相互理解の怪物”の面目躍如といったところだろう。いつの間にか当たり前のように言葉を交わし、そこにいるのが当然であるかのようにすぐ隣に腰掛けるようになっていた。
違和感がなかったわけではない。知らず知らずのうちに打ち解けていた自分に、他ならぬ騎士たちは驚きを隠せず……何より、そのことに不快さを感じない己に驚愕した。
しかし、それはある意味では当然のことなのかもしれない。結局のところ、彼らが確執を抱いていたのは「人間族」という総体であって、「藤丸立香」個人ではない。総体としての人間族に思うところはあれど、個人としての立香には感謝の念を抱いている。
同じように、立香個人の人間性が彼らにとって受け入れ難いものではなく、むしろ好意的に捉えられるものであったのなら……あとは、それを知ることができるか否かだ。知らなければ、拒み続ければ、長年に渡って対立し続けた「人間族の小僧」として敵視できるだろう。
だが、立香はそれを許さない。
自分がどんな人間かを伝え、相手がどんな人物なのかを引き出すことに長ける。彼が騎士たちに伝えた藤丸立香の人間性は、愛すべき同胞たちとそう大差のないものだった。善きものを善しとし、隣人を愛し、徒に争うことを好まず、助けを必要とするものに手を差し伸べる。そんな、大抵の人が善しとする在り方に不快感を持つ者は少ない。
それは騎士たちとて例外ではない。立香の在り方は、騎士たちが守りたいと思った人たちと同じものなのだから。
人間族に対する確執が消えたわけではない。それでも、個人としてであれば絆を結ぶことはできる。
一つの大きな山を共に乗り越えた高揚感のままに肩を組むような刹那的な感情ではなく、もっと穏やかで静かな……だからこそ長く残り続ける友誼。故に自然体で、無理のない絆。立香はそれを、わずか数日で為し得たのだ。
(ああ…私たちは、わかり合うことが、できるのですね)
副長はあくまでも彼が目にした事実だけを口にした。だが、それで十分だ。それだけで、フェリシアには部下たちの内面でどのような変化が起こったかわかってしまった。
総体であれば無理でも、個としてなら…それは、フェリシア自身一度ならず考えたことのあることだから。しかし、結局は考えることしかできなかった。その難しさが、容易に想像できたからだ。
確かに種としては対立してしまっていても、個人として関わることができれば絆を結ぶこともできるだろう。だがそれは、所詮理想論に過ぎない。種と個人が別物だとわかっていたとしても、それでも人は総体に対する印象をそう容易くは拭えない。どうしても種全体への確執が脳裏をよぎり、心を固くし、相手を拒んでしまう。理屈だけでどうこうなる問題ではない、人の心とはそういうものなのだ。
だからフェリシアは、種としてではなく個人として関わっていくという形を諦めた。諦めざるを得なかった。
だが今、彼女の目の前で諦めたはずの一つの理想が、現実のものとなっている。
言葉にすることはできても、実際には困難を極めると思っていた。稀にわかり合うことができる者がいたとしても、それは奇跡に等しい確率で、ほとんどの場合にはうまくいかないものだと。
なのに立香は、それをわずか二日のうちに為し得てしまった。しかも、一人や二人ではなく、この様子では副長を含めたいま動ける全員とだ。決して大勢とは言えないが、それでも5人全員とわかり合うなど……いくら彼らがフェリシアの理想に賛同しているとはいえ、このわずかな期間でできることではない。
(わかっている……わかっています。これは奇跡的なこと、あるいは彼だからこそできたこと。実際には、そう上手くはいかない。分かり合うということは、そう簡単なことじゃない。そんなことは、わかっています。だけど、それでも……)
分かり合うことができる。
矛を交えるのではなく、手を握り合う。
敵がいるから血が流れる、ならば敵が敵でなくなればいい。
それは決して不可能ではないのだと、立香が証明していた。
(私は、間違っていなかった……)
フェリシアの目に涙が浮かび、漏れそうになる嗚咽を抑えるように口元に手をやる。膝から力が抜け、今にも泣き崩れてしまいそうになるが、フェリシアはそれを全力で拒んだ。
泣いている場合ではない。
膝をつくなど以ての外だ。
この目の前にある奇跡的な光景を、少しでも長く、より鮮明に胸に刻み込む。それに勝ることがあるだろうか。
涙で視界をにじませるなんて、あまりにも勿体ない。
「私たちは分かり合えるのですね」
「ええ、きっと……」
「戦う以外の、滅ぼしあう以外の道は確かにある。そう、信じていいのでしょうか?」
「他ならぬ、あの少年がそれを証明しております。彼のようにうまくはやれないでしょう。時間もかかるでしょう。その間にも、多くの血が流れるかもしれません。ですが、決して不可能ではありません」
一度は消えかけたはずの光が、太陽の如き眩しさと温もりを以てフェリシアの胸に灯る。
「……………………………………ならば、私はまだ死ぬわけにはいきませんね」
(少年…いや、リツカ殿……感謝する)
決然と顔を上げるフェリシアを眩しそうに見ながら、副長はただただ立香に感謝した。それしかなかった、それ以外に何と言っていいか分からなかった。
立香にとってはあずかり知らぬことだろう。だが、それでいい。彼にとっては特別でもなんでもない事だからこそ、フェリシアは自分の理想を今度こそ心から信じることができる。「そうあってほしい」という希望ではなく、「それは可能なのだ」という確信を得ることができた。もうこれで、彼女は立ち止まらない。どこまでもどこまでも、諦めることなく進み続けるだろう。
(ならば、やはり小官がすべきことは一つだな)
だからこそ、覚悟を決める。フェリシアを支え、道を切り開くのが腹心たる彼の務め。あとのことは、後ろに続く者達が引き継いでくれる。
掲げられた旗は美しく、携える旗手は力強く歩み続けるだろう。
ならば、自然と彼女を支える者達は集う。彼は、そう信じて疑わない。
だからこそ、安心して……。