「~それから~ again ゆかりむつび」
もう、この手を離したりしない。
「……いのり…」
これで、二度と呼びかけることのない名前。
「………………………さようなら……ありがとう」
このピアノの音色を悲しいと想ってしまうオレは救いようのない卑怯者なんだろう。
二人を苦しめ、悲しませたのは、オレなんだから。
「お兄ちゃん……」
「…ごめん…、…ごめん……ユカリ」
「ううん、いいの」
ユカリが手に力を込めてくれた。握り合う手にオレも力を込めて、上を見上げる。
いのりがピアノを弾き続けている。
オレのために弾いてくれる最期の一曲を。
いのりの演奏が終わった後、コンクールの終了を待たずにユカリを連れて外へ出た。
手をつないで歩き出したオレは行き先を告げなかったけれど、ユカリも行き先をわかっていた。
星恋の丘。
ここから、オレとユカリが始まって。
今に至る。
血はつながっていない、けれど、他人でもない。
義理の妹、ユカリとの将来に試練はあるだろうけど、二人なら乗り越えていける。
真冬の真夜中、誰もいない二人きりの星恋の丘で、言葉は一つも交わさなくても、誓い合えた。
たとえ、運命や神さまが味方してくれなくても、二度と、この手を離したりしない。
昇ってきた太陽の赤さとまぶしさ、この世界でユカリと出会えたことを幸せに想う。そして、この世界が終わるまで、何度生まれ変わっても、ユカリを愛していく、それを太陽に誓った。
日暮荘の部屋で目が覚めて、ユカリの寝顔を見つめた後、オレは重大なことに、ようやく気づいた。
「ぁ……ユカリっ?! 学校は?!」
「…うにゃ~……もうちょっと寝かせて…う~…」
ぬくぬくと猫のように布団へと潜り込んでいくが、それを許すわけにはいかない。
「って、起きろ! 学校は?!」
「学校? ……はにゃっ?!」
オレは卒業間際の自由登校だけど、ユカリは二年生として強制登校というか、不自由登校というか、義務登校なはず。なのに、すでに昼休みも終わろうかという時間だった。
しかも、時刻を確かめるためにみたケータイには着信履歴が何度も入っている。
「母さんからだ……父さんからも……」
「ママとパパから?」
ユカリはポケットからケータイを出すと、電源を入れている。
「ユカリ、電源を切ってたのか?」
「だって、コンクール中に鳴ったら悪いから……そのあと、入れるの忘れてたみたい♪」
「………まあ…オレもマナーモードにした後、そのまま忘れてたけど……ヤバいなぁ…」
「ママには、お兄ちゃんのところに泊まるってメールしてあるよ?」
「学校まで休ませたら問題だし……」
「う~ん………ゴホッ、ゴホッ! うう、熱が!」
「………」
「吐き気も!」
「………」
やっぱり、ユカリって可愛いよな。
ユカリの頭を軽く撫でてみる。
「………」
「め、目まいが! そ、それに冠動脈も詰まりそう! うう、鳥口骨が折れちゃったよぉぉ!」
「…専門用語を使うな、わけわからん」
「とにかく死にそうな風邪! ゴホッ、ゴホッ!」
「………」
「ちなみに、人間には鳥口骨は無いよ♪ つっこみどころだったのにスルーしないでください、一蹴さん」
「………あのなァ……ま、いいや、風邪ってことで♪」
「うん♪」
オレとユカリはズル休みを決定したけれど、事態は予想外に悪化していた。
コンコン…
薄っぺらい部屋のドアを誰かがノックしている。音の軽さからして、いのりか、ユカリくらいの女性で、信くんでは無さそうだ。
ユカリを布団においてオレが立ち上がる。
「どなたですか?」
(一蹴、ユカリはいるの?)
「母さん?! どうしてここに?」
オレはドアを開けて、コートを着た母さん、正確には養母、鷺沢朋美が立っていたので驚いた。この時間帯なら獣医大学の付属病院で論文を書いているか、講義をしているはずなのに。
「夕べからユカリと連絡がつかないの。一蹴も電話しても答えないから」
「ごめん。ユカリはいるよ」
オレが身体をよけて母さんの視界を拡げると、布団の中にいるユカリが見えるようになって。そうしてから、オレはマズい、と思ってしまい、母さんも表情を曇らせてオレを見上げ、オレの動揺も見つかってしまった。
「か…風邪を引いて、学校を休ませたんだ」
「……」
タイミング外れの言い訳が余計に苦しい。夕べは一組しか布団を敷いてない。同じ布団で寝ていたとバレたかも。
「……それなら、そうと学校に連絡しなさい。なにより、どうして私たちからの電話を無視するの? なにかあったのかと、とても心配したのよ」
「ごめん、…気づかなかったんだ」
「…………」
母さんの顔を見られず、オレは目をそらしていた。きっと、母さんは仕事を切り上げて来たんだ。
「ゴホッ、ゴホッ!」
「「………」」
ユカリ………高校生なのに、それなりの医学知識と学年トップの成績だけど、演技力は平均以下なんだから、その咳じゃ誰だって仮病に気づくって。
「ユカリ、風邪を引いているなら、家で休みなさい」
「お母さん………ううん、ユカリは、ここで寝てるの! お母さんは帰ってて!」
張りのある元気な声、もう休まなくても大丈夫かな。
「ユカリ…………」
母さんは困ったときの癖、右手で唇に触れる仕草をして悩んでから、オレを見てきた。
「今夜はユカリを帰してちょうだい。もう少し休んでいれば落ち着くわね?」
「…あ…ああ、…夕方には、送るよ」
帰して………返して、と言われた気がした。
クルマで帰る母さんを見送ってから部屋に戻るとユカリは気楽そうにペロリと舌を出した。
「学校まで無断で休んじゃったのは失敗だったね。一蹴さん」
「ったく……」
今から行っても六時間目も終わるだろう。しばらく部屋で過ごしてから母さんとの約束通り、今夜はユカリを帰すことにした。
二人でシカ電に乗って、鷺沢家の前で別れる。
「ここでいいか?」
「うん♪ 明日も学校、来てね」
「ユカリこそ、ちゃんと登校しろよ。義務登校なんだから」
「高校は義務教育じゃないよ?」
「なくても!」
「は~い♪」
ちゃんと家に入るところまでユカリの背中を見た後、オレは日暮荘へ戻る。
ユカリとオレの関係について、母さんと父さんには卒業式の後で話そう、夕べ二人で決めたことを想い出して、告白するときの最初の一言を考えているうちに眠っていた。
朝、ユカリとの約束通りオレは自由登校だったけど、学校に来た。
クラスメートの下駄箱を眺めてみると、ほとんど誰も登校していない。
「当たり前か、この時期だもんな」
大学に合格したヤツらは遊びほうけているだろうし、まだ一つも合格してないヤツらも自宅か予備校で勉強してるだろう、オレと同じくフリーター志望なヤツらも何人かはいるらしいけど、そいつらも登校なんてしてこない。
「……こんな時期に好きこのんで登校するなんてオレくらいの……あ、…藤原さん…来てるのか…」
藤原雅と几帳面な草書体で書かれた名札のある下駄箱には革靴が入っている。ということは藤原さんは教室にいるんだろう。
「…………ヤだなぁ……暗いんだよな……このごろ…」
このところ、ずっとユカリのことばかり考えていたけど、教室では藤原さんに出会っていた。ある日を境に毎日ではなくて、ときどき休むけれど、来る必要のない自由登校に出席する貴重かつ奇特な仲間だ。けど、仲間というより、ただのクラスメートで会話もしない。いのりと別れた直後は少し話しかけたけど、向こうから話しかけるなってオーラを放ってくれたから、オレも無視するようになった。けど、この頃、そんなオーラさえない。
ガラガラ…
教室の戸をあけると、やっぱり藤原さんは自分の席にいた。
「……おはよぉ」
「………」
無視された。
っていうか、お耳にも入ってなさそう。
藤原さんは机に向かって文庫本を開いたまま、微動だにしてない。
ほとんど彫像みたいに本を開いたまま動かない姿は、二宮金次郎の銅像を思い出させるけど、その表情は………ものすごく暗い。
「………………………は~ぁ……」
オレは軽いタメ息をついて自分の席に座った。
「…………」
あまり見ていると前みたいに怒られそうなので、見ないふりをしつつ見ているけど、やっぱり暗い顔をしてる。この彫像に名前を付けるとしたら、二宮金次郎の勤勉よりも………絶望って表情だ。
「…………」
いったい、何に絶望しているんだろう。
たしか、藤原さんはオレと同じく、どこの大学も受験しないはず……けど、顔は第三志望どころか、第五志望にまで落ちて浪人決定……したヤツらよりも暗い。浪人決定しても開き直ってケロっとしてる生徒もいるのに、藤原さんは今にも首を吊りそうな顔つきだ。
「……………」
暗い。
教室の雰囲気が絶望的に暗い。
オレのいる窓際と、藤原さんのいる廊下側で、太陽光の加減もあって、ものすごく明暗がわかれていて、藤原さんの方は空気さえ重さがありそうだ。
「……一応…空気にも重さがあるんだよなァ……」
物理で習ったことを反芻してみても、この暗さは解除できない。
「………」
それに、さっきから藤原さんは文庫本のページさえ、めくっていない。
読んでもいない本を読む姿勢のまま、ただ時間が過ぎるのを待っているみたいだ。
高校生活の最期の最期を、なにも、そんな顔で過ごさなくてもいいのに。
オレは見ていられなくて、教室を出る。
「ちょっと、ぶらぶらしてくる」
「…………」
ガラガラ…
別に藤原さんに報告することではなかったけど、二人しかいない状態だから、義理で説明しておいた。予想通り藤原さんは返事一つしなかったし、もしユカリが来てもオレが報告したことを説明してくれそうにないから、ユカリへはメールを打っておく。
「ヒマだから部室に行く、と」
ちょっとだけサッカーボールを蹴ってみたくなって、オレは引退したサッカー部の部室へと足を運んだ。本当なら返却しなきゃいけない部室の鍵をオレも中谷も天野も持ってる。サッカー部の伝統で、合い鍵を多めに作って記念にもらい、いつでもサッカーボールを蹴っていいことになっている。っていうか、後輩が先輩に文句を言うことはないからな。
もう卒業式までに日もないし、最期のシュートを蹴ってやろう。
「それにしても、オレって、なぜ、一蹴なんだろう?」
不意に湧いてきた疑問だった。
「……なぜだろう? ……一は……11月生まれだから? ……22日は?」
あまり意識することはないけど、オレは11月22日生まれだ。素数と、その二倍の数であることに意味はないだろう、本当の母さんが、たまたま、その日に生んでくれただけのこと。ちょっとタイミングがずれれば、21日とか23日になっただろうし。
「本当の母さんと父さんは、なんでオレを一蹴って名前に……ま、……どうでもいいか。扉よりマシだし」
ほんの数日前に殴り合いをした飛田扉は、あの施設の扉の前に捨てられていたから、扉。
ひどいネーミングセンスだ。
そのせいで、性格が悪くなったり、怪しい商売をしたりしてるんじゃないだろうか。
いのりは無関係だと言ったけれど、あの二人の関係は、いったい何だったんだろう。
いのりは、どうしてオレと別れて、それからヨリを戻してくれて……。
「やめよう。もう考えない。終わったことだ」
いのりのことも、藤原さんのことも、一蹴っていう名前の起源も、考えるべきことじゃない。今はユカリとのことだけを心配しよう。
「……母さん……気づいてるかも…な」
それを心配しつつ部室の鍵を使ってドアを開けた。
そしたら、中にいた中森先輩と目があった。
「「なっ?!」」
「っ…」
南先生までいた。
「「「………」」」
オレは黙ってドアを閉めた。
あのウワサは本当だったんだ。
オレのサッカー部の先輩だった中森翔太さんと、オレが一年生だった秋に着任した南つばめ先生が怪しい、ってのは一時期、かなりウワサになった。
「……禁断の愛か……」
兄と妹も禁断だけど、教師と生徒も禁断の典型例だ。
ただ、もう中森先輩は大学生だし、どこかの教育学部だったはず………今は春休みで、こっちに来てたのか。それで、この時間帯には誰も来ないはずのサッカー部の部室で二人して想い出にひたっていたところへ、イレギュラーなオレが現れたわけだ。
「………悪いこと………したかも…」
オレがサッカーボールを蹴りたいなんて、発作的な気まぐれを起こさなければ邪魔しなかったのに。
「さて、忘れよう」
今のことは忘れよう。先輩と先生のために。
忘れよう。
忘れよう。
「よし、忘れた♪」
軽い自己暗示をかけて見なかったことにした。
そのうちに昼休みになり、オレはユカリと一日を過ごして夕方には鷺沢家に送った。
翌朝、また下駄箱を見たら、藤原さんだけが来ていた。
「よく来るよなぁ……することないなら家で寝てればいいのに。…ってオレもか?」
たった一人のクラスメートは会話に応じてくれそうな雰囲気がないので、つい一人言を言ってしまう。
ガラガラ…
「……」
「……」
「…おはよぉ…」
「……」
やっぱり無視される。
藤原さんは席に座ったまま、今日は文庫本さえ持っていない。
本当に、ただ着席して、前を見てる。
「………」
あれは見てるというより目を開けて、ときどき瞬きする、ってだけだな。
ほとんど生きる屍みたいだ。
生きながらに死んでませんか、藤原さん。
何か悩みがあるんだろうか、やっぱり大学を受験したかったとか、藤原さんの成績なら一流大学も望めただろうに。
「……」
オレなんか、進学も就職もしないのに、なんの絶望感もないぞ。
ちょっと将来を予想してみよう。
もし、このまま、ならずやだけを一生涯続けると、どうなるか。
日暮荘の家賃が4万円。
電気ガス水道代が2万円。
食費が3万円。
ケータイが5千円。
「……95000円で生きていけるのか……ってことは、…」
時給が800円なら118.75時間、約120時間の労働だから、8時間のシフトを15日入ればオレ一人は生きていけるな。
「もう少し頑張って、週休二日で8時間なら」
月に22日ほど働いて一日8時間で800円なら、140800円だ。
「おお、初任給なみ」
ケータイの計算機を使ってフルにバイトを入れた計算をしてみて、ちょっと嬉しい気分だ。12ヶ月も働けば、年収169万円になる。なかなか一人前じゃないか。
オレは豊かな気持ちでユカリと過ごして、それからバイトに向かった。
一日働くことの、なんと尊いことか。
静流さん、店長、ありがとうございます。
翌朝、オレは下駄箱を見て、少しホッとした。
「藤原さん、今日は休みか♪」
彼女の上靴は他のクラスメートと同じように並んでいる。つまり、誰も来ていない。
今日はオレだけが登校したことになる。
「チーーッス♪」
ガラガラっピシャン!
どうせ一人なので思い切りよく戸を開けて、教室中に響く挨拶をした。
藤原さんがいた。
「わっ?! いたっ?!」
予想外に藤原さんが居たのでオレはビビって声を上げてしまった。
「…ハァ…ハァ…」
「………」
「………お…おはよぉ…。い、いると思わなくて……ごめん…」
「………」
まるで幽霊に出会ったみたいな反応をしてしまったことを謝っても、藤原さんは眉一つ動かさず、座ったまま前を見ている。
「……」
前を見てるから、前から入ったオレの方を見ていることになるけど、ぜんぜん無反応で何も言ってこないし、睨みつけることもない。今日も文庫本さえ開かず、ただ座って……って、おい! それっ下履きだろう。
「あの……藤原さん、…それって下履きじゃない?」
「………」
あいかわらず返事一つしてくれないけど、明らかに藤原さんは上靴じゃなくて外用の革靴を履いてる。しかも、コートさえ脱がずにいる。たった二人のために地球温暖化を犠牲にして暖房されている教室で、コートも靴も脱がずに座って前方に瞳を向けて座ってる。その目は何も見ていないし、オレの声も聞いていないみたいだ。
けど、下履きのままはマズいだろう、普通に。
「あのさ、マシルト…鳥嶋先生が来たら、うるさいかもよ?」
「………」
「そりゃ、どうせ、もう卒業するから、履き替えるのも面倒って気持ちもわからなくもないけど……先生が見たら、うるさいしさ」
「………」
「あの~ぉ聞こえてる? 聞いてますかぁ? 藤原さん?」
「………」
無視かよ。
っていうか、視覚さえ閉ざしてない? むしろ、オレの存在を無視してるというより、自分の存在を無視してそうだ。
「………」
「………」
これって……なにか精神的な病気の兆候かも………ユカリだってメリッサを無意識のうちに傷つけていたし。まさかって人間が、予想外のことをしてしまうのが病気だって、信くんに借りたノートパソコンでも読んだから。
「………」
いくら何かに悩んでるからってコートを脱がないだけならともかく、下履きのままってのは病的かもしれない。そういえば、先月も扇子を落としたのに、捨てたとか、変な言い回しをしてたし、あの頃から兆候があったのかもしれない。
「…ほ……保健室、いく?」
「………」
「熱とか、ない?」
「………」
熱は無さそうだけど、かなり異常な状態だ。
「あのさ、やっぱ、せめて靴は脱ごうよ。靴」
「………」
「先生が見たら、きっと怒るよ?」
「………」
「ああ、もう! ほら!」
オレは藤原さんの前にしゃがみ込んで、靴を脱がせる。
「ほら、左も」
「………」
「…」
なんというか、勢いで脱がせてるけど、浜咲学園の短いスカートだから、足を持ち上げて靴を脱がせてあげると、目のやり場に困ったりする。ここで一蹴なんだから一蹴でもしてくれれば、まだまだ元気なんだなぁって思えるのに、まったく無防備で抵抗一つしない。オレが鬼畜になって、ここで襲っても悲鳴一つあげない気がするくらい無抵抗だ。
「………」
「………。コートも脱がないの?」
オレは脱がせた靴を丁寧にそろえて床に置いた。
「………」
「マフラーもさ」
「………」
「ほら」
眠っている子供にするような感じでオレは藤原さんから防寒具を脱がせて隣の机に置いた。それから、彼女の前に立って、真っ直ぐ見つめる。
「なにか困っていることがあるなら、相談に乗るよ」
「………」
「オレなんかじゃ役に立たないかもしれないけど、よかったら話してくれないか?」
「………」
「なあ?」
怒られるかもしれないけど、オレは藤原さんの肩を揺すってみた。
「藤原さん!」
「……」
少しだけ反応があった。
どこかへ飛んでいた彼女の意識が戻ってきたみたいに、目の焦点がオレに合う。
「……」
「……」
それから、自分が靴を履いていないことに気づいたみたいで、床を見下ろすと並べておいた革靴を見ている。
「私の靴……」
「ああ、下履きのままじゃ先生に文句を言われるからさ」
「………」
あいかわらずオレの話を無視して、並んだ靴を見つめていた藤原さんは不意に立ち上がった。
ピタ…ピタ…
靴を履いていない黒タイツだけの足で歩くから、冷たそうな足音がする。
いくら暖房していても、所詮はコンクリートの校舎だ。そのままじゃ冷たいはずなのに、気にもせず、窓際へ歩いていく。
「藤原さん?」
「………」
ピタ…ピタ…
ゆっくり窓辺まで歩いた藤原さんは……って、窓を開けるなよ?! まさか! オレの予感は的中した。
「藤原さん!!」
遅れて駆けつけたオレが間に合えたのは、窓に転落防止の横棒があったから、それを乗り越えようとしていた彼女を押さえつけることができた。
「なに考えてんだよ?!」
「………」
「死ぬ気か?!」
「………」
否定も肯定もされないけれど、死ぬ気だったのは明らかだ。
もしかしたら、オレが靴を並べたことが彼女に自殺を連想させたのかもしれない。とにかく、オレは藤原さんを押さえて窓を閉めた。
「どうしてこんなことするんだよ?!」
「………」
ダメだ。ぜんぜん無反応だ。これが本当のダメダメ状態だ。オレが押さえていると藤原さんは立っているのも面倒なのか、ほとんど体重を預けてくる。オレが手放せば床に崩れていくかもしれない。
「と、とにかく、座って」
「………」
返事さえしない藤原さんを近くのイスに座らせた。
「………」
「死ぬ気だったのか?」
「………」
「………」
「………」
「………死ぬ気になるくらいなら、生きろよ」
「……」
「いったい何で悩んでるのか知らないけど、死ぬ気になれば、なんとだって戦える」
「………」
「戦えないなら逃げればいい。死ぬ気で逃げれば、どこかへ行ける。とにかく死ぬなよ! 死んだら何もかも終わりだろ?! 死なないでくれよ」
「………」
このままじゃ一瞬たりとも目が離せないじゃないか。オレが教室を出た直後に、飛び降りなんてされたら一生こっちが後悔する。
受験苦じゃないなら、失恋か、闘病か、いったい何で悩んでいるのか、わからないけどオレはユカリを呼ぶことにした。さよりんを呼ぼうかとも思ったけど、部活の後輩に気まずい姿を見られるのは誰だってイヤなものだし。
ユカリにメールを送って36秒後。
ガラガラっバンっ!
「お兄ちゃん! …じゃなかった、一蹴さん! SOSってなに?!」
メールで「ちょっと助けてくれ、SOS、教室にいる」って打ったから授業を抜け出してくれたユカリはオレと藤原さんを見て、理解できないって顔をした。
「いったい何があったの? お兄ちゃ…一蹴さ…、あ、お兄ちゃん」
「どっちか統一しろよ」
「だって、…」
ユカリは藤原さんがいるのに恋人的な呼び方をするのはマズいって顔をしたけど、今の藤原さんは、そんなこと気づきもしないだろう。
「じゃあ、とりあえず、お兄ちゃん」
「とりあえずって……。ま、まあ、そんなことより!」
オレは、ここ数日の藤原さんの様子を話した。
話を聞いたユカリとオレは相談して、藤原さんを保健室に連れて行くことにした。このまま24時間体勢で見張ってることもできない以上、それが最良の選択だろうという結論で保健の先生に藤原さんを預けた。
保健室を出ても、まだ授業中の校舎は静かで、ユカリを連れて歩いていると不思議な心地がする。
「悪かったな。また授業をサボらせて」
「ううん。緊急事態だもん。それに、お兄ちゃんの役に立ててうれしいよ♪」
「そっか」
「せっかくサボったし♪ このまま、お兄ちゃんの教室に行く♪」
「……そうだな…」
今さら授業に戻ってもユカリも言い訳しにくいだろうし、ユカリと教室に戻った。
「静かだね、一蹴さん」
「ああ」
「いつも退屈じゃない?」
「ユカリのために登校してる♪ いつも昼休みが待ち遠しい」
「一蹴さん……」
見つめ合った。
ゆっくりと抱き合ってキスをした直後。
ガラガラ…
「「「ぁ…」」」
教室の戸を開けたのはマシルトだった。
「あ…あの…先生…」
「すまん!」
マシルトは慌てて戸を閉めてくれた。けど、すぐに開けた。
「って、先生が謝って、どうする?! ここは教室だぞ!」
「はい、すいません! もうしません!」
「ごめんなさい、お兄…一蹴さ…鷺沢センパイは悪くないの! 悪いのはユカリなの!」
「ユカリ……」
「鷺沢、お前、後輩と……まあ、いい。……いや、生徒の恋愛に口を出す気は無いが、お前は陵と関係していなかったか? フタマタというのは感心しないぞ」
「いのりとは別れています」
「そ…そうか……余計な口出しだったな、すまん」
「いえ」
「………と、とにかくだ! 自由登校とはいえ教室で不埒なことをするな!」
「はい」
「わかったなら、もういい。藤原は?」
「……ちょっと気分が悪いそうで保健室へ送りました」
まさか軽々しく自殺しかけてましたとは言えないから、誤魔化したけどマシルトは「わかった」と言って戸を閉めてくれた。
「「はぁぁぁ~ぁ……」」
オレとユカリは深々とタメ息をついて、床に座り込んだ。
「ビビったぁ~…」
「心臓とまっちゃったよ……バクバクしてる」
「どっちだよ?」
「でも、よかった♪ 先生、ぜんぜん気づいてないね。とっさに他人っぽく苗字で呼んだのが正解にゃ♪」
「まあ、ユカリがオレの妹だってことは知らなかったみたいだな。学年が違ってよかったぁ」
「先生的には、まだ、いのり先輩なんだ……」
「いのりは目立つからな。あの髪が」
「ユカリも伸ばした方がいい?」
「ユカリは、ユカリのままでいいよ」
「一蹴さん……」
「ユカリ…」
「……」
ユカリが唇を上げて目を閉じた。
「って、おい! 注意されたばっかだろ?」
「にゃは♪」
「確信犯かよ」
「今夜、お泊まりしてもいい?」
「あ……う~ん……明日、卒業式だろ? さすがに、マズイし登校時間も違うし、その後、父さんたちに説明するわけだからさ。今夜は家に帰れよ」
「そうだよね………うん、そうする! 卒業したら、これからは誰にも遠慮しないでキスできるもんね♪」
「それは……まあ、そうだな。基本的に父さんたちに説明さえすれば、先生たちは関係ないし、さよりんがビックリするくらいだろう?」
「さよりん、……クスッ♪」
さよりんが、どんな顔をして驚くのか、想像して笑っているユカリと昼休みを過ごしてから、バイトに励んだ。
卒業式に、ちゃんと藤原さんは出席して総代を務めている。声に張りはないけど、淡々と機械人形のように答辞を読み上げていく。
(…この学舎での三年間…)
リハーサルのときより声が小さくてマイクでも聞き取りにくい。マシルトが必死にジェスチャーで藤原さんへ声を大きくするよう合図を送っているけど、無視だった。
最期は、ほとんど蚊の鳴くような声で誰にも聞こえなくなったけど、とにかく藤原さんは役目を終えて壇上から消えた。リハーサルではクラスの列に戻ってくるはずだったけれど、式が終わる頃になっても、藤原さんの姿は消えたままだった。
「お兄ちゃん! 卒業おめでとう♪」
「おめでとうございます。一蹴先輩」
体育館を退場して校門で、さよりんとユカリが祝ってくれる。
「おう、ありがとう♪」
「うれしいにゃ♪ うれしいにゃ♪」
「ユカリ、泣かないんだな?」
「だって、リハーサルで本番の分まで泣いちゃったもん」
「ゆかにゃん……あ、そういえば雅師匠は?」
「さあ? 答辞の後から姿を見てないな」
「一言お礼を言いたいですのに」
さよりんがキョロキョロしていると、いのりが両親と歩いてきた。う……気まずい。いのりの両親とは何度か会ってる。いのりはオレと別れたことを両親に説明しただろうか、娘と交際していた男が別れたことを、どう思われるかな。
歩いてくる進路的にオレを無視するのは難しい流れで、オレの方も無視するのは悪いって感じがする。
「一蹴」
「…よぉ」
「卒業おめでとう」
「ああ…いのりもな。おめでとう」
いのりは音大を蹴ったはずだ。四月から、どうするつもりなんだろう。けど、それはオレの問題じゃない。オレの問題にしちゃいけないことだ。
いのりも「おめでとう」の一言だけで歩き去っていく。
その背中は髪で、ほとんど見えないけれど、やっぱり淋しそうだと思うのはオレの自惚れか。
不意に、くるりと髪が舞い、いのりが振り返った。
「一蹴! 必ず幸せになって!」
「…いのり……」
「約束だから!」
「……。おう! いのりもな!!」
「うん!」
桜並木に消えていく、いのり。
色々あったけれど、いい別れ方ができたと思う。本当にオレが好きだったのはユカリだったから。
卒業式の後、ならずやでユカリと昼食を過ごして、夕方になって父さんが帰ってくる少し前に鷺沢家の敷居をまたいだ。
「おかえりなさい、一蹴」
「…ただいま…母さん」
「お母さん、ただいま♪」
「もうすぐ、お父さんも帰ってくるから、少し待っていてね」
「ユカリもお手伝いする♪」
「はいはい♪ じゃあ、こっちをお願いね」
本当の母さんじゃないって苦手意識を差し引けば、オレは母さんのことも好きだ。きっと、ユカリと似ているからだと思う。ほとんど外見は母譲り、頭の良さは両方から、父さんも一流企業の管理職だから、家では普通だけど会社じゃキレ者なんだろうな。オレの地を這うような成績を見れば、実の子じゃないのは明白だろう。
「ただいま。今日ばかりは、なんとか仕事を切り上げてきたよ」
「「おかえりなさい、お父さん♪」」
「おかえりなさい…父さん」
「お、一蹴。どうだった? 卒業式は?」
「別に…普通だよ。卒業証書もらって、おわり。それだけだよ」
オレはコーヒーテーブルに置いてあった卒業証書を父さんに見せた。
「うむ、立派に卒業できてよかった」
「おかげさまで」
「お父さん、一蹴。こっちにいらっしゃい」
母さんに呼ばれてテーブルについた。
テーブルには10人前くらいの料理が並んでる。四人しかいないのに。
「母さん、作りすぎだよ」
「だって、一蹴が帰ってくること少ないから。つい張り切っちゃうの」
普通の家の母さんは、こんなに可愛い喋り方をするだろうか、ほたるさんの姉さんだって大人っぽいし、カナタの母さんとか、藤原さんの母さんとか、想像できないな。花祭さんの母さんは市議会議員らしいから、探せば写真くらいあるだろうけど。
「一蹴、呑むか」
父さんがビール瓶を向けてくれた。
「オレ……高校は卒業したけど、未成年なんだよ」
「今夜くらいいいじゃないか?」
「遠慮しとくよ」
「そうか。残念だな。息子と酒を酌み交わすのが、一つの夢だったんだが…」
「あなた、もう二年も待てば一蹴も成人するわよ。やっぱりルールはルール、一蹴の方が正しいの」
何気ない会話をしながら、久しぶりの四人での夕食を終えた後、オレは話し始めるタイミングを探していた。ユカリも後片付けを手伝いながら、落ち着かない様子でオレを見たり、父さん母さんを覗ったりしている。
母さんが後片付けを一段落させるのを見計らっていたオレの前に、父さんが座った。
「一蹴」
「はい?」
「大切な話がある」
「……。そう……。実はオレも、あるんだ。お父さん、お母さんに聞いてもらいたい話がある」
「そうか。では、一蹴から話なさい」
いつのまにか、母さんも父さんの隣に座っていて、ユカリもオレの隣にいる。
なんともいえない緊張感で口が渇く。
「……。父さんから、話してよ」
「わかった。では、こちらから話そう」
父さんは一冊の銀行通帳と印鑑をテーブルに置いた。
通帳の名義はオレになっているけど、こんな通帳があったなんてオレは知らない。澄空銀行みたいだ。ならずやの給料は店長の都合で千羽谷信用金庫から振り込まれる。澄空銀行なんてオレは行ったこともなかった。
「一蹴、これはお前の本当の両親から受け継いだものだ」
「オレの両親…」
「お兄ちゃんの本当の…」
「ユカリも一蹴が養子であることには薄々気づいているな?」
「……。うん…」
どう返答したらいいか迷った後、ユカリは頷いた。
「なんと…なく……そうかなって……」
「今まで隠していて、すまなかった」
父さんが頭を下げると、ユカリが困った。
「そんなこと……いいよ…。……ユカリも子供だったから…」
「一蹴の本当の両親は事故で亡くなられ、しばらく施設に預けられていたところを、父さんたちが里親になった。これが真相だ」
「「「…………」」」
この真相はオレの記憶と相違ない。
ただ、オレは本当の両親の顔も覚えていない。真昼の子供園から鷺沢家に引き取られる前後のことも、あまり鮮明には思い出せない。だいたい8歳くらいで、その直前にクルマに撥ねられたような気もするし、今でも額に傷痕があったりする。
「もう一蹴も高校を卒業して、大人の分別を身につける年齢にもなった。だから、これは自分で管理し、使い道も自分で決めなさい」
「……これを……オレに………」
手にとって開いた通帳には、いち、じゅう、ひゃく、せん、まん、じゅうま……。
「四百万?!」
何度見ても444万6660円ある。とんでもない大金だ。
時給720円で働いたとしたら、6176時間。
一日8時間なら、772日にもなる。
バイトじゃ三年かけても貯まらない金額だ。
「一蹴、なんの計算をしているんだ? 目下、すぐに必要なことがあるのか?」
「あ……別に…」
ケータイの電卓機能で時給計算していたオレを父さんと母さん、ユカリまでが不思議そうに見ている。
「ちょっと、時給720円なら、どれくらいかなって……はは…」
「そうか。………。とにかく、使い道は大切に考えなさい」
「はい。…………」
別に突き放すような言い方をされたわけじゃないけど、つまり、これを渡すから、もう独立しろ、鷺沢家から出て行けって意味にも感じられるのは、ユカリのことでオレに疚しい気持ちがあるからか………。
「………。父さんの話って、これで終わり?」
「ああ。付け加えるなら、通帳と印鑑は別々に管理して、今まで以上にアパートの施錠は気をつけなさい」
父さんの補足に、母さんも付け加えてくる。
「すぐに使うことがないなら、定期預金になさい。できれば、通帳も分散させて澄空銀行だけではなくて、郵便局、千羽谷信用金庫、横浜銀行くらいに四分割すれば、盗まれることがあっても、全てを失わずにすむの。こういうことも大人の管理よ。あと、怪しい勧誘や悪徳商法、寄付金の勧誘なんかには欺されないよう、不安なことがあれば、すぐに相談して。金銭のことは一人で悩まずに自分の未熟をわきまえて誰かに相談できるのも、大人の判断よ」
「は…はい」
ものすごくリアルなことを言われた。
あまりに現実的かつ日常的で、これからユカリとの非日常の関係を告白するのが、苦しくなってくるくらいだ。
「それで、一蹴の話というのは?」
「…あ…うん……」
促されてオレも覚悟を決める。
「………。オレ…」
けれど、一言目の切り出しが思い浮かばない。
何度も考えたけど、娘さんをください、は養子的に変だし。
すぐに結婚するつもりはないし。
ユカリと付き合ってるんだ、って宣言するのも何か変だ。
「…オレは………」
「「………」」
「……一蹴さん」
ユカリがオレの手に手を重ねてくれた。
だから、言える。
「オレはユカリが好きだ。好きです」
「「っ……」」
父さんと母さんが息を飲む。
いま言った「好き」は妹的な好きじゃない。
一人の男として、ユカリを女の子として好きだって意味だ。
その意味は父さん母さんにも伝わっている。だからこそ、二人とも驚きを、表情を硬くすることで隠してる。
父さんが自分の眼鏡を指先であげて、オレの目を見てくる。
「オ……オレは本気でユカリが好きなんだ。ごめん、父さん、母さん」
「一蹴………」
「……ユカリも、そうなの?」
母さんがユカリを見つめた。
ユカリも見つめ返して頷く。
「はい、私は一蹴さんを愛しています」
「「「………」」」
「心の底から、ずっと、ずっと昔から」
「「「…………」」」
「私の記憶は一蹴さんから始まっているくらいに。愛しています」
「ユカリ……」
「…ユカリ……」
「ユカリ」
オレたちは手を握り合った。
これが答え、あとは父さん母さんが、どんな反応をするか、予想もつかない。
「「………」」
「「……」」
父さんが立ち上がって、背中を向け、夜の庭が見えている窓のカーテンを閉めて、重々しいタメ息をついた。
「……一蹴とユカリの気持ちには、うすうす気づいてはいた」
「…父さん…」
「お父さん……」
「仲のいい兄妹以上の気持ちが二人に芽生えていることに、父さんも母さんも気づいてはいた。…………だから、高校に入った一蹴が同級生と交際をはじめたとき、ホッとしたのを覚えている」
「……いのりとは別れたんだ……」
「だろうな。………。一蹴、お前が一人暮らしをはじめたのは、やはり、ユカリと距離を置くためだったのか?」
「……それも、あるかもしれない。……はやく自立したかったっていうのは、表向きの理由かな…。……ユカリを好きになっちゃいけないって、……わかっていたから。……オレには施設に預けられていたころの記憶もあるし、父さんと母さんが本当の両親じゃないことも、わかっていたし……ユカリだけが知らないってことも……、ずっとユカリが気づくまで黙っていたんだ」
「そうか………」
父さんが振り返ってオレとユカリを見てくる。
「…………。それで、お前たちは、どうするつもりだ?」
「それは……。ユカリは、まだ高校生だし、オレも卒業したばかりだから、具体的なことはなにも考えてないんだ。……ただ、こうなったことを父さんと母さんに黙っていることも、できなくて……」
「そうか………。そうだろうな………」
「「「……………………………」」」
「………。一蹴、こっちへ来なさい」
父さんが二人だけで話そうという意図で呼びかけてきたから、オレは立ち上がって窓際で並んだ。ここなら、同じリビングにいるユカリと母さんにも小声で話せば聞こえない。
「…………」
「…………」
「……。一蹴」
「はい」
「お前は、本気でユカリのことを…?」
「はい、本気のつもりです」
「………。……大切なことを一つだけ訊きたい」
「はい」
「お前は、ユカリと肉体関係をもったのか?」
「…………」
問われた瞬間、もうオレの表情で、父さんは悟っているはずだ。
けれど、これには答えなくちゃいけない。
オレは横に首を振った。
「いいえ、何もありません」
「……そうか…………。……」
それだけを訊いた父さんは、また背中を向けた。
「……………」
「………父さん」
「…。お前にユカリを許すことはできん!!」
「ぇ……」
思ってもみなかった激しい怒鳴り声で、オレは硬直した。
「絶対に許さん!!」
「父さ…」
ドカッ!!
殴られたと認識したのはソファまで飛ばされてからだった。
痛みより驚きで、何も反応できない。
「出て行け!!」
「…っ…」
「この家から出て行け!! 勘当だ!!」
「……………………」
立ちはだかる相手に、オレは立ち上がる気力さえ失せて、心と身体が震えた。
ユカリの悲鳴が聞こえてくる。
「ひどいっ! 一蹴さんを殴るなんて!!」
「ユカリは黙っていなさい。お父さんが正しいわ」
「離して! 離してよ!」
オレに近づこうとしたユカリが母さんに押さえつけられ、後ろから抱きしめられて暴れている。けど、母さんも強く押さえているから、逃げられずに喚いている。
「離して!! 離して!!」
「聞き分けなさい! あなたたちのためなのよ!」
「お母さんのバカっ!! 離して!!」
「いいえ、離しません。もう二度と会うことも許さない」
「お母さんまで、そんなこと言うの?! どうして?! 血はつながってないのに! ちゃんと結婚もできるのに! ユカリだって民法734条を知ってるのに!」
「734条1項ただし書きが許しても、たとえ神さまが許しても、私が許さない! 私の可愛いユカリを渡したりしない! もともと私は一蹴を養子にすることだって反対だったの!」
ユカリを押さえながらオレを睨んできた目は、凍りついた湖みたいに冷たかった。
「私はユカリ一人で充分だったのよ。なのに、衛さんが引き取りたいっていうから、仕方なく認めたけれど、私のユカリを欲しがるなんて、許さない」
「「………」」
「カッコウに卵を押しつけられたお人好しのモズや頑是無いホオジロみたいに、どこの誰ともわからない人の子供を、どうして私が育てなくちゃいけないの? それをガマンしたのに、どうして愛しい娘まで……そんなこと、絶対に認めない」
「……オレたちは……本気で…」
「聞きたくないわ!! あなたの声なんて聞きたくない!! 最初から好きじゃなかった!!」
「っ……」
「出て行って!! この家から出て行って! あなたとユカリのことなんて死んでも認めない! 私の血統に、負け犬の血はいらないの!」
「……っ…オレが……」
「せっかく私立高校までやったのに、地を這うような成績で! あげくに進学どころか就職もしないなんて! こんな負け犬に優秀なユカリを渡すつもりは10億分の1ゼプトもありはしない!」
「ぉ……オレは本気で…」
「本気っ?! 私が知らないとでも思うの?! 恋人に逃げられたからユカリを欲しがっているだけでしょう?! ハンパな気持ちでユカリをかどわかさないでっ! さあ! 出て行って! 二度と私のユカリに近づかないで!!」
「……ゥっ………」
まだ立ち上がってさえいないオレは、胃が裏返ったみたいな吐き気を覚えた。
さっきまで暴れていたユカリも、もう脱力している。
「……大っ…キライ……お母さんなんて………もう、お母さんじゃない…」
「ユカリ、すぐに、わかるときがくるわ。今は自重なさい」
「………大嫌い……」
ユカリを見ているオレの前に、さっきオレを殴った手が通帳を押しつけてきた。
「これは、お前のものだ」
「…………、……つまり、これを持って出て行け、…ってこと?」
「そうだ」
「………………………」
ここまで反対されるとは思わなかった。
それに、なにより、殴られた痛みより、言われたことのショックが大きすぎて、もう気力が尽き果てていた。
浜咲学園を卒業した夜、オレは8歳から住ませてもらっていた家からも追い出されて、路頭を彷徨った。
目が覚めたとき、オレは自分の状況を理解できなかった。
身体は石みたいに重くて、頭は麻酔でもかかったみたいに脳が腫れ上がったような奇妙な違和感がする。おまけに俯せで眠っていたから息苦しかった。
「ぅ…ぅぅ…ぅ?」
枕にしていた柔らかい何かから、顔をあげた。
「……なんだ、これ? ……オレ、なにを枕に…」
生温かくて通気性の悪い、けど、極上に柔らかい極彩色の枕は、よく見るとミニスカートだった。しかも、その裾から脚がはえてる。
「……誰?」
「さあ? アタシは誰でしょう?」
「…か………カナタ?!」
見上げるとカナタがいた。
「やっと世界に戻ってきたね♪」
「…は?」
「仕事帰りのアタシは、とても優しく美しく、この世界に絶望しきった顔でゾンビみたいに夜の街を彷徨っているイッシューを拾ってあげましたとさ♪」
「………」
「しかも、ほっといたら自殺でもしそうな気配♪ 仕方なく、よしよしと慰めてあげたり、ね?」
「…………そ……」
「ありがとうは?」
「……ありがとう…」
「…………たはーっ……かなり弱ってるね」
「…………………………」
正直、まだ頭が動いてない。
まるで三回連続でマラソンをさせられたみたいに身体も頭も重くて、目が覚めたっていうのに、ぜんぜん冴えない。かろうじで、ここが日暮荘の自分の部屋だってわかる。
「よしよし」
カナタが頭を撫でてくれた。
「…………こ…子供あつかいしないでくださいよ」
「ちょっとはマシになった?」
そう言われて、まだカナタの腿を枕にしていることに気づいた。起きあがって離れる。
「………」
「お♪ 起きたね。じゃあ、着替え貸して。ズボンとパンツ。できれば、女物」
「……なんで?」
「濡れちゃってるから」
カナタの言うとおり、ミニスカートの股間が濡れてる。
両膝をあげて見せられると、カナタが座っている畳まで濡れて変色している。
「着替え、貸して♪」
「……カナタ……おしっこした?」
「っ、ァ」
オレの不用意な一言でカッと彼女の顔が真っ赤になった。
「アホッ!」
「…あほって…」
「誰が濡らしたと思ってるの?! これはアホイッシューの涙っ! 超アホ!」
「………あ…………そうなんだ……」
「………。まだ、重症だね」
カナタが濡れたスカートを冷たそうにつまんでる。
「こんな恥ずかしい濡らし方してくれちゃってさ」
「………………着替え……トランクスとジーパンでいい?」
「他にあるの?」
「ないよ」
「じゃあ、ガマンしてあげる」
オレが着替えを渡すとカナタは立ち上がった。
「シャワーも借りるね」
「あ、ああ」
「アタシがシャワー浴びてる間に、徘徊するなよ。そこで、おとなしく待ってなさい」
「…ああ……徘徊なんて、しないぞ?」
「それなら、いい」
意味不明なことを言ってカナタはシャワーと着替えを済ませて再び部屋に現れた。
どうにも、起こっていることに現実感がない。
どうして、カナタがオレの部屋に………ああ、オレを拾ったとか……。
っていうか、いま何時だ。
窓の外は暗い。
「まだ夜か」
「君、………日付が進んだの認識してないね」
「え……」
「もう丸一日、経ってるよ」
カナタは細いウエストに合わないオレのジーンズを片手で押さえつつ、バスタオルで髪を拭いてる。
「……そう……か……。……あ、オレ、バイト…あ! カナタの仕事は?!」
「さあ?」
「…………。ごめん……」
「よしよし♪ ちょっとは会話が成立するようになったね」
「……ひとをボケ老人か精神病者みたいに言うなよ」
「お腹空いてるでしょ。こんな時間じゃロクな店ないけど、なにか食べないとね」
けっこう強引にカナタが促してくるから、抵抗する気力もなくて深夜の飲食店で味のしない食事を摂って、あまり意味のない軽いことばかりいうカナタと会話しているうちに、気がつけば朝方だった。
日暮荘の前でカナタのクルマから降りた。
「今夜もヒマがとれたら遊んであげるね♪」
「…いいよ……、…仕事サボらせて、ごめん。カナタの仕事ってスッポカシしたら、かなりヤバいんだよな?」
「さあ? アタシだって風邪くらい引くしね」
「仮病かよ……。カナタ」
さっきまで座ってた助手席を見下ろしたオレは感謝とは別の感情で問いかける。
「いのりと会ってた?」
「…、いのっちとアタシは小学校からの友達だよ♪ 会うときは会うでしょうね」
「昨日、会ってたんだ?」
「どうして、そう…ぁ…こりゃ、言い逃れできない歴然たる証拠ね」
カナタも気づいて、助手席のシートに落ちている長い黒髪をつまんだ。
とても長い髪。
静流さんよりも、ほたるさんよりも、圧倒的に長い、女の子の身長ほどもある髪がシートに落ちている事実は、誤魔化しようがない。これは、いのりの髪だ。
「会ってたよ♪」
「………」
「卒業式の後、アタシから電話してドライブに誘っただけ」
「……」
「ドライブだけで、やましいことは無いぞ♪ キスもしてない」
「………」
「ツッコミどころ逃すなよ!」
「……オレを拾ったの、仕事帰りだって言わなかった?」
「ボケてるくせに細かいこと気にするのね。いのっちとドライブした後、仕事入って、その帰りに拾ったの」
「……そ……」
「いのっちとヨリ戻したら?」
「……ありがと。でも、そのつもりはないし、いのりも分かってくれてるはずだから」
「分かってないのは君だっ!」
カナタが運転席から座ったままの姿勢でジャンプするみたいに飛び出してきてオレの頭を抱えてくる。
「うわっ?!」
「ぜんぜん分かってないねッ。いのっちは君を待ってる。でも、待ってる以上に君の幸せを祈ってる。生まれついての祈祷師さま。祈って祈って祈り続けてる。何度でも何度でも、君が幸せになれるように」
「……いのりには…いのりの道があるはずだから…」
「ないね。あるとしたら、祈祷道。祈り道」
「…………わけわかんねぇ…」
「たとえ、君が心でユカリちゃんを選んでいても、君のためなら、ヨリを戻してくれる。そーゆーことができる女の子」
「…………離して、くれよ」
「よしよし♪」
離してくれっていったのに、カナタはオレの頭を撫でて囁いてくる。
「元気ださなくていい。ぼんやりしてなさい」
「……なんだよ…それ…」
「ムリするな、ってことさ♪」
さんざん猫にするみたいにオレの髪の毛を撫でたカナタはクルマに戻ると、手を振って走り去った。早朝だからなのか、いつもみたいにエンジン音を響かせたりしてない、そういえば、さっきまでも暴走せずにいてくれた。
「……はぁ~……」
タメ息をついたオレが部屋へ帰ろうとすると、一階のドアが開いた。
「あのエンジン音は静かに走っても、響くな」
「信くん……起きてた?」
「まあな。にしても、KANATAさんと朝帰りとは、貴様ただ者ではないな」
「……くだらない…」
吐き捨てるみたいに言ったけど、信くんは笑ってる。その信くんの背後に髪の長い女性を見つけた。
「………」
「あ、ああ、紹介するよ」
信くんが部屋にいる女性を指した。狭いアパートだから、外からでも中が見える。女性はパソコン画面を見つめていた瞳をオレに向けてきた。ちょっと日本人とは違う感じの瞳と髪の色をしてる。それが、とてもキレイだ。
「双海詩音さん、都内の大学で文学部の二年…いや、三年になるんだよな」
「はじめまして、双海詩音です」
ちょっと日本人離れした雰囲気なのに、日本人らしい丁寧なお辞儀をしてくれた。
「どうも…。鷺沢一蹴…一蹴です。信くんの彼女さん?」
「第一号だ♪」
「よかったですね、稲穂さん。私が日本刀を持っていなくて」
双海さんが抜刀するマネをした。冗談っぽいのに鋭い手つきで、案外あの山王なんかよりセンスがあるかもしれない。
「無礼な冗談を言っていると、その首が飛びますよ」
「サムライ的な冗談を本気っぽく言わないでくれ」
信くんが両手をあげて降参してる。
「わかったろ、一蹴。彼女じゃない、ただのクラスメート…元クラスメートだ」
「そうですね。私と稲穂さんは厳密には同期生とも言いにくいですし、ほんの半年ばかりの学園生活でしたね」
「ということだ」
「でもさ、今の様子じゃ一晩いっしょだったんじゃ?」
「お前もKANATAさんと一晩いっしょで何かあったか?」
「…………。ないけどさ」
「双海さんはオレの部屋でネットに夢中になるあまり終電を逃して徹夜してただけ。ま、一人暮らしの女子大生にはありがちなうかつさだな。オレが鬼畜だったら今頃ごちそうさま♪ でも、オレは紳士だから双海さんの魅力に負けず、理性を徹したのだ♪」
「別に稲穂さんが鬼畜だったら、鬼畜だったで返り討ちにするまでです。鬼畜米英ならぬ、鬼畜稲穂といったところでしょうか」
「白人クォーターの双海さんの口から鬼畜米英が出るとは意外だった」
「私はフィンランド人のクォーターですよ。フィンランドは大戦時の枢軸国側です。ドイツとも同盟国、ソ連からの侵略と戦った点では日本とも同じ立場です。白人だからといって短絡的に連合国側だと思ってしまう浅薄な国際感覚は、いつになったら治るのですか?」
「ぅっ…」
「なにより、うかつという話なら。ヘルプ・ミー・プリーズ♪」
「ぅっ……そのネタには触れないでくれ…」
なんだか、信くんよりも一枚も二枚も上手みたいだ。
でも、ヘルプ・ミー・プリーズって何だ。
「その英語って、ちょっと変じゃないですか?」
「ええ、正確にはPlease help me.となります」
ものすごく完璧な発音だった。
「じゃあ、どうしてヘルプ・ミー・プリーズって…」
「まあまあ、一蹴! 細かいことはいいじゃないか! とりあえず、お前もオレの部屋に入れ」
「オレは寝ようかと…」
「いいから、いいから」
誘われるままに仕方なく信くんの部屋に入ったけど、双海さんが見ていた英語でさえない異言語のホームページを覗いてる間に、オレの脳は限界が来たみたいで、そのまま眠っていた。
つづく