二週間後、オレはピエロから何十種類もの風船細工を教え込まれ、何千人というドイツ人にユカリのことを尋ねていた。
「今日も見つからなかったか……ふ~っ…」
「♪」
ピエロが肩を叩いてくれる。
「ミスターピエロは元気だな」
「♪」
化粧が濃いから表情もわからない。性別は男っぽいけど、人種もわからないな。
「♪」
「ああ、また明日」
そう言って別れたとき、もう二度と会えないとは微塵も思わなかった。
宿に戻って双海さんと夕食を摂り、テレビを見てるときだった。双海さんが気づいた。
「このピエロさん、広場で見かける鷺沢さんの…」
「あっ! あのピエロ!」
ピエロがテレビに映っている。
しかも、犯罪者としてだった。
「なんで、捕まったんだ?! あいつ、いいヤツなのに!」
「………不法入国のようです…」
地方ニュースによると、あのピエロは中国からウイグル自治区、カザフ共和国、ロシア、ウクライナ、ポーランドを次々と不法に国境を越えることを繰り返してドイツのベルリンまで来ていたらしい。途中で大道芸をしながら、移動手段は鉄道とバイクで。
「夜中に、バイクで国境を…」
「冷戦が終結して、久しいとはいえ、よくも生きて……よほど生存力に長けた人物なのでしょう」
「中国人だったのか…」
「そうとも限りませんよ。中国から、というだけですし、あの12億人の国ですから」
「………助けて、やれないのか?」
「無理でしょう。ニュースでは、いっさい黙秘して語らないということですから、やましいこともあるのでしょう。残念ながら………、処分は軽くて国外退去」
「もう会えないのか……。ユカリを捜す最高の方法を教えてくれたのに……」
「………」
「オレ、一人か……」
「……私も帰国しますから、そうなりますね。…………その前に………一つ、賭けませんか?」
「え?」
「人を捜す最高の方法、これに」
双海さんはテレビを指した。
「テレビ?」
「テレビでユカリさんを捜していると訴えかけるのです。ユカリさん本人と視聴者に」
「そんな無茶な?! テレビ局をジャックするのかよ?! それこそ捕まる!」
「まさか。合法的にですよ。一万ユーロを私と賭けて」
「……意味がわからない」
「ベルリン・テレビ塔の下にテレビ局があるのは、ご存じですね?」
「ああ」
一番有名なブランデンブルク門から、真東にある高さ365メートルの塔だから、毎日のように見かけるベルリン的東京タワーだ。
「そのテレビ局の時間を買い取るのです。東西冷戦によって都市ごと引き裂かれた影響からか、ベルリンでは尋ね人を有償でテレビ放送により捜すことができます」
「マジで?! 何で今まで言ってくれなかったんだよ?!」
「有償だからです。それも、多額」
「………もしかして、それが一万ユーロ?」
「はい」
「…………………………………………」
日本円で160万円ほどになる。
今のオレの所持金ほとんど全部だ。それを払うと帰国する航空券さえ買えない。
「私が賭けるのは、有償放送によってもユカリさんが見つからない方です。そして、鷺沢さんは見つかる方に賭けてもらいます」
「?」
「見つかったら、鷺沢さんは私に2万ユーロを払う。見つからなかったら私は鷺沢さんに1万ユーロを払う。こういう賭けです」
「……双海さん……」
「悪くないでしょう?」
「………双海さんに、そこまでしてもらうのは…」
「私にもメリットはあります」
「どんな?」
「見つかった場合、2万ユーロ♪」
「そんなのは…」
この賭けは一方的にオレに有利だ。ユカリが見つかるなら、いくらだろうとオレは払いたいし、ユカリが見つからなければ、オレは1ユーロも失わない。そんなのは賭けって名前の施しだ。
「他にもメリットはありますよ。私の立場になってみてください」
「…双海さんの立場…?」
「このまま帰国するのでは、寝覚めが悪いじゃないですか。日本へ戻っても鷺沢さんのことが気になって大学にも小説にも力が入りません。ここまで付き合ったのに、途中で放り出すなんて、後ろ髪を引かれて飛行機が墜落するかも♪」
「…けど……」
「可能性があるなら、すべてを試してみるのでは、ないのですか?」
「…………………………」
「一蹴」
「……………………はい、師匠」
人生最大の大博打に出ると決めた。
双海さんとベルリン放送局で申し込みを済ませ、即日に空き枠があったのでユカリを尋ねることになった。テレビ局のスタッフの話では、この放送はフランクフルト以北の北ドイツ全体にまで送信されるらしい。放送の後、テレビ局の電話に手がかりや消息がもたらされるのは、だいたい直後の5分が多く、その後は時間が経つほど望み薄になるらしい。どうか、ユカリの行方を知っている人に放送を見てほしいと祈るばかりだ。
「ユカリは少なくとも一度はテーゲル空港に降り立ったはずなんだ」
「そうです。そして、テーゲルから他国へ乗り継いだとは考えにくいのです。おそらく、この放送が届く範囲にいるはずです」
双海さんが背中を撫でてくれた。ドイツ人ADが放送が始まると伝えてくる。複数のライトとカメラが真っ直ぐオレに向けられた。
「3、2、1 …!」
「じ、自分は鷺沢一蹴といいます」
一瞬、声がうわずってしまったけれど、わずかな放送時間を無駄にしたくないという気持ちで押さえ込んだ。
「鷺沢縁という恋人を捜して日本から来ました。彼女はテーゲル空港から、ここ北ドイツに降り立ったはずなんです! この写真の通り、小柄で白髪、日本人には珍しい青い瞳をしています! この放送を聴いている人、どうか、お願いします。どんな小さな手がかりでも教えてください! ユカリとオレは両親に反対されて引き裂かれたけど! オレは今でも、いつまでも! ユカリを愛してるんだ! ユカリっ! ドイツのいるのか?! オレに連絡をくれ! 頼む! ユカリっ!」
「カット」
あっという間の放送時間が終わった。
たった、これだけのために160万円、だけどテレビ局は寄せられる情報の整理もしてくれる。放送終了から一分、二分、胃が痛くなるような時間が過ぎて、双海さんがスタジオを駆けてくる。
「よせられた26件中8件がミッテ区リニエン通りに集中しています! 見間違いの範囲を超えています! ほんの10分前に同じ特徴の人物を見かけたという情報までありました!」
「ミッテのリニエン通りって、目と鼻の先じゃないか!」
ここから一キロ強だ。地下鉄で一駅、乗るより走った方が速い。
「行ってください! 私はここで情報を整理します!」
「行ってくる!」
オレはテレビ塔を飛び出して、北へ走った。ハッケシャー・マルクト駅を通り過ぎて500メートルを一気に走ってオラニエンブルガー・シュトラーゼ駅前まで行ったとき、ケータイが鳴った。着信は双海さんから。
「もしもし?!」
(今、どちらに?!)
「オラニエンブルガー・シュトラーゼ駅前っ! ハァハァっ」
(では、北東へ進んでください! たった今、確度の高い情報が入りました! リニエン通り沿いのコッペン広場です! 広場の東! 通りから五件目の赤い屋根の家にユカリさんがいたという目撃情報です!)
「わかった!」
ここから300メートルもない、一分以内に着いてやる。
「ハァハァっ」
「おい、日本の風船小僧っ! あっちだ!」
オレの大道芸を見てくれていた人だろうか、訊いてもいないのに広場の位置を教えてくれる。
「クルマに気をつけろよ!」
「はいっ! ハァハァっ、ハァハァっ」
通りを駆け抜けて、一つ曲がってコッペン広場を見つけた。
「ハァハァっ、東っハァハァっ、こっちか!」
広場の東へ回った。
「ハァハァっ五件目のっ、…っ! ユカリっ!!」
いま、わずかにユカリの姿、ユカリの髪が見えた。たしかに五件目の赤い屋根の家、その二階の窓に、ユカリっぽい髪が見えた。
「ハァハァっ」
目の前の家まで30メートル、走り込んでオレは急停止した。
「っ?! …ハァハァっ…ハァハァっ」
「……一蹴、来たか」
鷺沢衛。
家の玄関を塞ぐように衛がいた。
ユカリと両親はいっしょにいる、当然に予想していたことだけど一瞬、足が止まった。
けど、負けはしない。
「オレはユカリに会う!!」
「ユカリは二階にいる」
そう言った衛は玄関を開けてくれた。
「ぇ………ハァハァ……ハァっ…」
あまりにも拍子抜けするほど、あっさりとオレの前から衛は退いてくれた。
どういうことだ。
「ハァハァっ…」
けれど、迷ってる気はない。玄関へ飛び込んで、すぐに階段を見つけた。
駆け上って、部屋のドアを開ける。
「ユカリっ! ここかっ?!」
「お兄ちゃん!」
一年ぶり、ユカリだ。ユカリがいた。
「ユカリっ!」
「一蹴さん!」
抱き合って、ユカリの存在を確かめる。
いる。
ここに、いる。
ユカリはオレの腕の中にいる。
「ユカリっ…ああ、ユカリ!」
「お兄ちゃん、会いたかった。会いたかったよ、一蹴さん」
「ユカリっ…っ、お前、あいかわらず、統一してないなっ」
「だって、っ、だって、お兄ちゃんっ」
「わかってる。オレはお前の兄さんでも恋人でもあるんだ。もう、絶対離さない!」
「お兄ちゃんっ」
「ユカリっ」
「アイシテマス、一蹴サン」
「ぇ…………」
数秒もオレは理解できなかった。
「お兄ちゃん、日本語を忘れちゃったの?」
「あ……日本語、そうか」
ユカリが使ったのは日本語、その寸前まで二人ともドイツ語で話していたし、今もまたドイツ語だ。すっかり思考までドイツ語だから「アイシテイマス」が脳内で処理できなかった。
「オレモ、アイシテイルヨ、ユカリ」
「一蹴サン……」
ピピピッピピ!
無粋なタイミングでケータイが鳴ってるけど、双海さんからだ。
「もしもし」
(コッペン広場はわかりましたか?)
「会えた。会えたよ、ユカリに」
(っ………おめでとうございます!!)
「ありがとう、双海さんのおかげだ。本当に、ありがとう!」
(いえ、鷺沢さんの努力の結果です。では、今は、これまで)
双海さんはケータイを切った。ユカリとの再会を邪魔しないよう配慮してくれたんだろう。
「お兄ちゃん、今のは? フタミさんって?」
「友達なんだ。オレにドイツ語を教えてくれたり、旅のアドバイスをしてくれたんだ。ユカリっ…ホントに、海外にまで旅に出やがって、捜すの大変だったんだぞ!」
もう一度、ユカリを抱きしめた。
いる、ここに、いる。本当に、いる。
やっと、やっと、再会できた。
「もう二度と、この手を離したりしない。ユカリ」
「一蹴さん」
「一蹴」
背後から衛の声が響いてきた。
「っ! オレは絶対にユカリを連れていくからな!!」
「お兄ちゃん、ケンカはやめて!」
今にも殴り飛ばしてユカリを連れ出そうとしているオレを止めたのはユカリだった。
「ユカリ……?」
「もうパパとケンカしなくてもいいの」
「…? ……???」
「一蹴、何から話すべきか……。とにかく、もうワシは二人のことを反対しない。引き裂くこともしない」
「…………なんで? 急に? ……信じられない」
「お兄ちゃんが来てくれたから、もういいの」
「ユカリ?」
「パパは、ユカリとお兄ちゃんを試してたの。本当に、お兄ちゃんがユカリを愛してくれてるか、ユカリがお兄ちゃんを愛してるのか、それを試してたの」
「試して……オレと…ユカリを………」
「でも、もう合格っ! だよね、パパっ?!」
「ああ。すまなかった。一蹴」
「……試すって、……こんな大がかりなことしてかよ?!」
「一蹴」
まっすぐに目を合わせてくる。
「お前を養子にするとき、母さんとも話し合って決めたが、ユカリと一蹴が兄妹以上の関係になる可能性も可能性の一つとしては考えていた」
「………」
「血のつながっていない男女だ。そういう可能性も大人として考えていないと思うか?」
「………………………」
「だがな、一蹴。家族は家族だ。クラスの女子とは違う。一度そういう仲になってしまえば、気に入らないからと別れるわけにもいかない。ずっと家族なんだ」
「…………………………………………」
「だから、お前を試した。本当に、ここまで、こんな場所まで追ってくるのか、それとも単に陵さんと別れた勢いでユカリと仲良くなっただけなのか、それを試したかった。試さずにはいられなかったんだ。お前に覚悟があるのか、ないのか!」
「………………………………………………………………」
「ユカリと肉体関係まではもっていないと告白してくれたとき、まだ引き返せる、まだ兄妹でいられるのではないか、二人とも仲がいいだけで、そこまでの覚悟はないのではないか、しばらく二人を引き離せば、頭を冷やすかもしれない。熱病から醒めるかもしれない。なら、それでいい。だが、もしも、何千キロも離れたドイツまで追ってくるなら、その覚悟、もう引き返せないのだと答えが出る」
「………そのため…に……?」
「ああ。だが、もうそれを問うまでもない。それが、よくわかったから、もはや反対も、引き裂くこともしない。………お前が許してくれるなら、二人を祝福したい。心から」
「………………………本当に?」
「こんなことを嘘で言うものか」
「………父さん……」
「一蹴……………………殴って、すまなかった」
「そんな昔のこと、もう、いいよ」
「………本当に、よく、ここまで来たな。……言葉も、すっかり……驚いたぞ」
「友達のおかげだよ」
「友達?」
「ああ、紹介しなくちゃね」
オレはケータイで双海さんを呼んだ。すぐに現れた双海さんを二人に紹介する。
「双海詩音さんだよ。日本人とフィンランド人のクォーターなんだ」
「初めまして、双海詩音です。ユカリさんと、お養父さんの衛さんですね?」
「あ…ああ…。初めまして……ち、父です」
「うん。………こんなキレイな人と……お兄ちゃんが?」
「ご安心ください。お互いに友情以外はありません。それより、……ご様子を見る限り……和解なさったのですか?」
「オレから説明するよ」
オレは父さんから聞かされたことを要約して双海さんに伝えた。
「なるほど……お父さんの立場からは当然の処遇かもしれません……。ご賢察……いえ、孟母三遷という言葉を思い出します。やや意味は違いますが……そういえば、お養母さんの朋美さんは?」
「あの人は一年前に死んじゃったよ」
「っ…」
「ユカリっ?!」
「ユカリっ! そういう言い方をするなと何度言ったらわかるんだ!」
「ふんっ…」
ユカリは顔を背けた。
「父さん、どうして、母さんが? まさか、事故か何か…」
「一蹴、母さんは生きている。今も元気に会社へ行っている」
「え…でも……ユカリが…」
「ユカリと母さんは一年間、一言も口をきいていない。家庭内冷戦なんだ」
父さんが頭を抱えた。
「原因はお前だ、一蹴」
「オレ?」
「一蹴さんは悪くないもん! 悪いのは、あの人っ!」
「ユカリ…?」
「あの人が一蹴さんに言ったことは許せない。絶対に一生お喋りしないの! だから、ユカリにとって、あの人は死んだの! 一年前に!」
「ユカリ、母さんは本心で言ったわけじゃない。何度も説明したじゃないか。ユカリと一蹴のことを認めるか、認めないか、それを確かめるために二人で芝居を…」
「お芝居でも、あんなひどいことを言える人はお母さんじゃないの!」
「だから、本心ではないと…」
「ううん! 心の片隅で思ってるはず! だから考えられるんだよ! フロイトが言ってるもん! 抑圧された無意識の誹謗だって! 一蹴さんは負け犬じゃない! 大学に行かなくても就職しなくても、そんなの関係ない! 一蹴さんは一蹴さんなだけで十分なの! だから、一蹴さんを傷つけた女は誰でも許さない! いのりさんでも! お母さんでも! 例外はないの!」
「「「……………………」」」
たしかに、母さんに言われたことはショックだった。
今でも耳に残ってる。
「私の血統に、負け犬の血はいらないの!」
「進学どころか就職もしないなんて! こんな負け犬に優秀なユカリを渡すつもりは10億分の1ゼプトもありはしない!」
「恋人に逃げられたからユカリを欲しがっているだけでしょう?! ハンパな気持ちでユカリをかどわかさないでっ!」
「あなたの声なんて聞きたくない!! 最初から好きじゃなかった!!」
どれも心に突き刺さって、吐き気まで感じた言葉だ。
殴られたことより、叩きつけられた言葉の方が痛かった。
「オレ……ずっと、訊きたかった。………父さんがオレを引き取ったのは、友人の子供だったからだよね? 母さんじゃなくて父さんが言い出したことだよね?」
「ああ」
「じゃあ、母さんにとって、オレは邪魔者だったわけ? 母さんはオレが養子になるのを反対していた?」
「それは違う!」
「……」
「母さんも同意していた。そうでなければ、養子縁組などしない! お前は母さんに疎んじられてなどいない! あの日まで、一度だって母さんは一蹴を嫌ったことなどない!」
「………あの日…まで……」
「そうだ。一年前の、あの日まで一言だって、お前を疎んじたことも、成績が悪いのを嫌悪したこともない。そうだったろう?」
「……育ててもらったことは……ずっと、感謝してるよ。……嫌われてる記憶もない。だから、あの日、急に言われてショックだったんだ……内心で、そう思っていたのかって…」
「違う! 本心じゃない!」
「……それが、わかれば……オレは、いいよ」
「一蹴………、とにかく、母さんも二人のことに反対しない。帰ってくれば、わかる」
「……会社だっけ? こっちで仕事してるんだ? 父さんは?」
「あ、そうだったな。そっちの説明をしてなかった。母さんは獣医の資格があるからな、こっちで日独合弁の製薬会社で研究の仕事をしている。だが、もともとベルリンに来たのは父さんの都合だ。会社の転勤でな」
「転勤でベルリン?!」
「ああ、こっちで一応、子会社の社長待遇ということになっている」
「社長っ?! 何の会社の?!」
「もちろんビール会社だ。ドイツのビールを日本へ輸出することと、日本のビールを輸入して日本料理店なんかに供給している」
「そうなんだ……………今日は仕事は?」
「休暇だ♪ 日本と違って労働条件は、いいぞ。年間300時間は少ない」
「へぇぇ……」
「一蹴と…ぇ~…フタミさんは宿泊先は?」
「私たちは郊外のユースホステルに泊まっています」
「一蹴さんと?」
「ご安心ください。ベッドは別々ですよ」
「む~ぅ……部屋はいっしょなんだ?」
「それも昨夜が最期です。私は今夜は市内のホテルに泊まり、明日の朝、帰国します」
「ならば、泊まっていかないか? 部屋はある」
「せっかくのご家族の…」
「一蹴のナビゲーターつとめてもらって、お礼もなく帰しては申し訳が立たない。そ、それに、まあ、…なんというか、…他人がいてくれた方が、今夜は落ち着きそうだ」
「………そうおっしゃるのでしたら」
双海さんは少し考えると提案してくる。
「では、ユースホステルに置いてある荷物を引き上げないといけませんね」
「あ、そっか……。あ、オレ……ここに泊まっていいの?」
「当たり前だ」
「くすっ……まだ、鷺沢さんは再会した実感が湧かないようですね」
「そんなことは…」
「私一人では荷物が重いので誰か男性が手伝ってくださるとありがたいのですが?」
「オレが…」
「一蹴、フタミさんが好意で言い回したのがわからないのか。ワシが行ってくるよ」
父さんと双海さんが出て行った。
「……」
「……」
静かになったリビングでユカリと見つめ合った。
「おかえりなさい、一蹴さん」
「……ただいま、ユカリ」
「う~……ん、…」
「ん?」
「お兄ちゃん、って呼んだ方がいい?」
「どっちでも♪ ユカリが呼びたいように呼んでくれ」
「じゃあ、お兄ちゃん♪ キスして♪」
悩殺的なことを言うユカリを抱きよせて唇を重ねた。
「……」
「………」
「…ユカリ、…元気だったか? 飯は喰ってたか? また、体重、軽くなってない?」
「だって、ドイツ料理って、油っぽいし。でも、一応は死なない程度に食べてるよ」
「死なないって……ユカリ、……ユカリは父さんたちの意図は、いつ知ったんだ?」
「ドイツに来て一ヶ月くらいしてから、教えてくれたの。ユカリがハンストやめないからパパが一蹴さんが追ってきてくれたら、二人のことは許す、って」
「そうだったのか……」
「信じてたよ。信じて、待ってたよ、お兄ちゃん」
ユカリが泣くからオレまで泣けてくる。
「遅くなって、ごめん」
「ううん、三年はかかると思ったもん。……………………いのりさん、…いのりさんが教えてくれたの? ベルリンって」
「ああ」
「でも、ベルリンってだけで、よく、ここが…」
「さっきのテレビ放送、見てなかったのか?」
「テレビ放送? ユカリ、勉強ばっかりで、テレビは…」
「勉強? 何の?」
「ドイツ語と獣医♪ くふふ~♪ パパとの約束でね、ドイツ語検定に受かったら一蹴さんに一回だけ手紙を送れるの、獣医になれたらベルリンにいるって教えてもいいって約束♪ だから、一生懸命勉強してたんだよ」
「ユカリ……ユカリも待ってるだけじゃなくて……」
「待ってるだけは、一番つらいよ。でも、お兄ちゃんは予想外なくらい早く来てくれた。……いのりさん……親切なんだね。このカンニングはママにも見つかってないはずだったけど、いのりさんが伝えてくれるなんて………思ってなかったけど……」
「いのりは、そういうヤツなんだ」
「いのりさんにお礼、言わないといけないね」
「ああ」
「くふふ~♪」
ユカリが猫みたいに身体を擦りつけてくる。いい匂い、なつかしい匂いだ。
「あの夜から………一年も経ったんだな」
「長かったけど、お兄ちゃんは早かったよ。こんなに早く来てくれると思わなかった。ベルリンには、いつから?」
「実は今年に入ってからなんだ。それまでは日本国内を捜しててさ。日本中の高校に電話かけたり、奈良県まで行ったりしたんだぞ」
「奈良? どうして奈良なの?」
「なんとなく……ユカリが西にいる気がして……西は西でも、とんでもなく西だったけどな」
「くふふ~♪ お兄ちゃんは地球の果てまで来てくれるんだよね」
「ああ、行くよ」
「くふふ~♪ でも、もう離れないにゃ」
ユカリが幸せそうに頭を擦りつけてくれる。オレはユカリの手を握って、指を絡めた。
「愛してる。地球上の誰より、お前を愛してる。……けど…」
「けど?」
「どんな女性よりユカリを愛してるのに、どうしても、こうやって抱きしめると妹的な感覚があるのは………これは、これでいいのかな?」
「それは……それは、たぶん…」
ユカリが赤面して目をそらした。
「……たぶん……ユカリがお兄ちゃんって、呼んだりするし………それに、……セックスしてないからだと、思うよ」
「っ…あ……ああ……、………………………」
「パパも、だから引き離したんだって言ってたから」
「…そうだったな……………」
「……………………」
「……………………」
「……いま、…する?」
「ぃ……今は、まずいだろ?」
「だよねぇ~♪ くふふ~♪」
「あ、お前! オレをからかったな!」
「ううん♪ 一蹴さんが、したいなら、いつだっていいよォ~♪ ユカリは何でもするからね」
「そういうこと言うなって前にも…」
「お兄ちゃんにだけ♪ お兄ちゃんに言われたら、裸になって三回まわってワン♪でもするよ」
「あのなぁ…」
ガチャ…
不意に玄関ドアが開けられた。
「「っ…」」
「……ユカリ…一蹴」
鷺沢朋美が立っている。
ユカリが腕に力を入れてオレにしがみついてきた。絶対に離れないって意思の現れだ。
「……おかえりなさい、一蹴。お父さんから聞いているわ」
「あ…ああ…」
「………ごめんなさいっ!」
頭を下げて謝られた。
「ごめんなさいっ! あなたに、ひどいことを言ったこと、ずっと後悔しているの。あんなこと、言うつもりじゃなかった!」
「……もう、いいよ。母さん。泣かないでくれよ」
ユカリと似た顔つきで泣かれると、胸が痛い。
「もう、いいんだ」
「そんなアッサリ許しちゃうの?!」
ユカリが顔を上げて驚いてる。
「あんなひどいこといったのに?!」
「ユカリ、………母さんの言ったことにも、一理あるよ」
「一蹴さん?」
「オレは就職も進学もしてなかった。今もだ。もし、オレが養子じゃなくて、他人の家の子供だったとしても、親の立場で娘とのことを許してくれたか、疑問だ。………あのときは、わからなかったけど、これでも、この一年で世間のこと少しは知るようになったからさ。普通に親の立場として、喫茶店のバイトに娘はやれないだろ?」
「そんなの関係ないよ。お兄ちゃんは一蹴さんだよ!」
「……。……ユカリ、本当の母親と一年も口をきかないのは罪だ」
「……………………」
「オレは産んでくれた母親の顔も声も知らない。さっきの双海さんだって海難事故でお母さんを亡くしてる。双海さんは何も言わなかったけど、きっと親不孝だって思ってるはずだ」
「ええ、思っています」
「双海さん? あ、父さんも…」
母さんの背後に二人が荷物を持って立ってる。
「ユカリさん、ご両親が反対されていたのは、お二人を思ってのことです。多少の言い過ぎは演技に熱が入りすぎたのかと」
「……………………」
「ユカリ、オレからも頼むよ。母さんと和解してくれ」
「……一蹴さんが、そういうなら……」
ユカリは母さんと目を合わせた。
「………」
「………」
「……………………ママ」
「ユカリ……」
「…………もう無視しないから」
ユカリは顔を背けたけど、それは拗ねだから和解は成立してる。その証拠にユカリと母さんは夕食の用意を共同で始めたから、確かだ。
「私も手伝いましょうか?」
「フタミさんは座っていてください。我が社のビールでも」
父さんが冷蔵庫から、日本でなら珍しくもない普通の瓶ビールを出してきた。
「父さん、それ普通のビールだろ?」
「あ、つい癖でな。ドイツ人に、これを出すときは一言いわないと変な顔をされるからだ」
「くすっ…冒険的な事業ですね。ドイツ人に日本のビールを売ろうなんて」
「お察しの通り。ほとんど売れない。事業のメインはドイツ産を日本へ輸出することになってる。発泡酒なんて紹介しようものなら、怒り出すよ」
「同じ税金対策の産物の軽自動車は高く評価されているのと対照的ですね」
「フタミさんは面白いことを言う。なるほどな……」
「父さん、双海さんは酔ってないように見えて酔うから気をつけてよ」
「私は普通ですよ」
「うむ、ベンツも軽自動車を見習って小型車を販売したからなァ……クライスラーとの合併は失敗に終わったが」
「あの合併は始めから失敗が予見されていました。ドイツのダイムラー・ベンツ社の主力商品は高級ブランドのメルセデス・ベンツなのに、米国のクライスラーは大衆車を主力としています」
「だが、大きくなれば規模の利益はある。しかも、ベンツ側の労働組合まで合併に賛成していた」
「それは国民心裡ですね。日本がバブル期にニューヨークの土地を買い占めたのと同じ衝動です。敗戦国が戦勝国に経済で優位に立ったかに見せ……いえ、見たい、という衝動のもとに、アメリカのビックスリーの一角を買収し、ドイツ企業の傘下に入れるというのは一種の復讐心ですね」
「なるほど、言われてみれば規模の利益も少ない。部品の共通化といっても、クライスラーとベンツが同じ部品を使っているとなれば、ベンツの値打ちが下がる。この白ソーセージだって…」
テーブルに並んだソーセージを指して語ってる。もう酔ってるな、あの顔は。
「肉がワックと同じだと紹介されたら食べる気がしないからね」
「国際ビジネスで注意したいのは、自分の国民感情をコントロールして自戒し、相手の国民感情を利用することですね。こうしたい、という動機が採算性による動機なのか、単なる感情なのか、それを見極めた上で、相手がしたいだろうことを利用する。相手が売りたいだろうものを安く買い、買いたいだろうものを高く売る、華僑的精神は日本人にも近江商人気質としてあると思うのです。いっそ、日本のビールはフランスの高級ワインのような高価格路線で売ってみるのも一計かと♪」
双海さんも語ってる。酔い始めた兆候だ。マジメな顔して酔っていく、仮面酔いだ。
「エビスビールの戦略か♪ なるほどっ!」
「ほらほら、お父さん、空腹で呑むから顔が真っ赤よ」
「ユカリ特製ソーセージだよ、お兄ちゃん♪」
「茹でただけだろ?」
「茹で方が特製なのっ!」
ユカリと母さんもテーブルについた。
「くふふ~♪ ユカリも呑めるんだよぉ~。法的に」
「あ、そうか。ビールは16歳からだしな。……ユカリが呑めるのか……っていうか、高校一年から呑めるのか、ドイツ法ってビミョーだなァ」
「一蹴」
父さんに声をかけられた。
「はい?」
「呑めるか」
オレにビールを勧めてくれているから、答えは一つしかない。
「……はい」
注がれたビールが、にがくて不覚にも泣けてくる。
「っ……くっ……」
「一蹴…」
「…一蹴さん…」
「ははっ…」
笑った。
「にがくてさ。……でも、美味い」
本当に美味い。
「やっと、……やっと、ここに。……あの夜に戻れたんだって……父さんと、母さんと……そして、ユカリと」
「お兄ちゃん……。…おつかれさま、ありがとう」
「やっぱり、ハッピーエンドでしたね。見とどけることができて幸せです」
双海さんがソーセージにマスタードで「Ende」と描いてくれた。
だから、オレの旅は、ここで終わりだ。
ハッピーエンドで。
私は五年ぶりにドイツを訪問しました。
もちろん、鷺沢一家に会うためです。
あのあと、ユカリさんと一蹴さんは日本大使館で婚姻され、衛さんが「これだけドイツ語ができれば語学科卒より使える」と言って、社長の権限で一蹴さんを就職させ、うまくいっていました。
ユカリさんも「くふふ~♪ ユカリも獣医になったよ」と獣医師の知識を活かせる母親と同じ会社へ進まれ、親子ともども仲良くされているようです。
お土産ももらいました。
日本産のビールを持ち帰っては無意味かもしれませんが、ヨーロッパ限定販売の高級ビールです。どのあたりが高級かと問うと「ラベルが和紙で、着物のデザインなんだ」と一蹴さんが説明してくれました。なかなかドイツ人に好評のようです。
今回の訪問で、以前から気になっていたことを朋美さんに問いました。もう時効だと思ったからですが「最初から好きじゃなかった、というセリフは陵さんと共通でしたが、その意図は?」と質問しました。
一蹴さんもいたので少し迷ってから「あれは……一蹴の部屋を掃除したときに、少女漫画なんて珍しいものを見つけたから、つい読んでしまったのよ。同じだったのは偶然」と教えてくれました。一蹴さんは「また、オレの部屋を勝手に……」と文句を言っていましたが、母親というのは、そういうありがたいものです。
これで全ての謎が解け、私はノンフィクション小説のタイトルを考えています。
広辞苑を調べると「一蹴」とは、はねつけること、ひとけり。または、簡単に相手を負かすこと。これではタイトルに相応しくないです。
では「縁」は、血のつながり、または何らかの続きあい、関係があること。よすが。えん。または赤ジソの葉を乾燥させ粉末にしたもの。
他にも関連語が多くあります。
縁係り、ゆかりを強めた言い方。
縁の色、紫色のことで古今集から。
縁の草、ムラサキの異称。
縁の露、多生の縁を露に喩えた語。
縁睦び、ゆかりのある者が親しみ睦まじくすること。近親同士が夫婦になること。
これでは選ぶ余地はありませんね、ゆかりむつび、タイトルは平仮名にしましょう。
え?
二万ユーロ?
ふふ、鷺沢さんは友人ですよ、小説にも一つくらい謎が残った方がいいでしょう。
では。
ごきげんよう。