「~それから~ again ゆかりむつび」    作:高尾のり子

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第8話

 

 

 オレが目を覚ましたときには昼過ぎだった。

「う~………、…夕べ……」

 夕べのことを思い出して部屋を見渡したけど、雅はいない。

「雅っ! どこへ?!」

 庭へ出た気配もなく、着物も帯もない。少なくとも長襦袢一枚で夜陰に消えたわけではないはずだ。オレは夜明けの光を覚えているから、腕から雅が抜け出したとすれば、その後だ。

「…雅……、眠るんじゃなかった…」

 コンコン…

(一蹴、私ならおります)

 隣の部屋から壁越しに響いてきた。日暮荘の壁より厚いから、かすかだけど、相手が伝えるつもりで発音しているから聴き取れる。少なくとも雅が在室していることがわかって、オレは安心した。すばやく顔を洗って着替えると、雅の部屋に入った。彼女は和服を整え、部屋の中央に正座していた。

「雅……」

「おはようございます。…というには、遅い時間ですね」

「あ…ああ……」

 いきおいで顔を見に来たけど、昨夜のことを考えるとオレは何を言っていいか、わからなくなってくる。でも、とにかく謝っておいた方がいいかもしれない。

「………夕べの…」

「とおこ伯母さまが、昼食を用意してくださっているそうです」

「…あ、ああ…。………じゃあ、オレが持ってくるよ」

 とりあえず、その場を離れる口実ができて、厨房から御膳を持ってきたけど、また、すぐに雅を顔を合わせなければならない。

「………」

 しっかりオレの脳には、雅の裸体が焼き付いてる。

「……………とにかく、平静に…」

 意を決して戸を開け、部屋に戻ると、雅はお茶を淹れてくれていた。いつも何もせずに待っているだけ、待っているというより時の過ぎるのに任せているだけだったのに、オレの分も茶碗を置いてくれている。

「………食べようか」

「はい」

「…いただきます」

「いただきます」

 ごく普通に食べ始めた。朝食を食べていなかったこともあってか、雅は完食してくれた。

「とおこ伯母さまには、いつもお世話になってばかり……お礼を言わないと……一蹴、とおこ伯母さまはどちらにいらっしゃるでしょう?」

「とおこさんなら、今は仕事場にいると思うよ」

 時間外れに昼食をとったから、食器を洗っておいた方がいい。オレが御膳を持つと、雅も立ち上がって手伝ってくれた。それから、とおこさんが切り盛りしている工房へ出向こうと旅館を出たら、熊さんに会った。

「おう、二人とも日課の散歩かい?」

「ええ、まあ」

「とおこ伯母様にお会いするつもりです。正巳伯父様、いつもありがとうございます」

「よ、…よしてくれよ、水くさいことは言いっこなしだ。お前さんも、こいつもオレは自分の子供みたいに思ってるぜ」

「うがっ?!」

 熊さんがベアー・クローをオレの頭に直撃させて、髪の毛をグシャグシャしてくる。

「うぐぅ…グシャグシャしないでくださいよ」

「子供に礼を言われたんじゃ、くすぐったくてかなわねぇや」

「正巳伯父様……」

「そんいや、夕べ、こいつの部屋で楽しそうに笑ってたじゃないか、え? 可笑しいことでもあったかい?」

「…」

 聞こえてたのか。それには触れないでほしい、オレは慌てて何とか誤魔化すセリフを考えていたけど、口を開いたのは雅の方が早かった。

「はい、一蹴が可笑しなことを色々と言うものでしたから、耐えきれず夜中に失笑してしまいました。ご迷惑をお詫びします」

「いやいや、それはいいんだ。いくらでも笑ってくれ。女の子は笑ってるのが、一番だ。なっ?」

「ぐほっ!」

 さらにベアー・クローで背中を叩かれて噎せた。なんとかベアー・クローの射程距離から逃げ出して、とおこさんの工房に辿り着いたオレは、なんとなく会いたくなくなった。

 女性の勘はいい。

 まして、それが年上、それも海千山千の一世代上になってくると、何もかも見抜かれそうで怖い。いや……何もかも正確に見抜いてくれれば、やましいことは無かったんだけど、きっとオレは、とおこさんと目を合わせられない。それが不安で雅に声をかける。

「あのさ……オレ、ここで待ってていい? 二人して工房に入ると邪魔かもしれないしさ。仕事中だし」

「一蹴」

「はい?」

「とおこ伯母様に会うのがやましいですか?」

「…う……ぐ…」

「クスッ…ふふ。やましいと思っては、くれるのですね。わかりました、私一人で訪ねます。一蹴は……今日は用事などは無いのですか?」

「う~ん……学校は冬休みだからね。……無いといえば、無いよ」

 足で探せる範囲は探し尽くしてるから、初瀬にいながらユカリを探すには県外の高校へ電話をかけて耳で探すしかないけど、それも学校が冬休みに入っているので不自然になる。だから、すぐにできることは無い。

「せいぜい、旅館の手伝いくらいかな」

「では、後ほど長谷寺へ参りませんか?」

「ああ、いいよ」

 夕方に会う約束をして、オレは旅館へ戻り、いつもの業務を手伝ってから、長谷寺へ続く参道で待っていた。

「お待たせしました」

「っ、おぉ……」

 思わず息を呑んだ。

 いつもの藍色の和服じゃなくて薄桃色の振り袖を着ている雅は、髪も結い上げていて別人に見えるくらいあでやかだったから。

「変ですか?」

「い…いや、…よく似合ってるよ。本当に、和服を着るのは、うまいね」

「今の場合、着付けを誉めるより、とおこ伯母様に見立てていただいた柄を誉めるものです」

「あ、ああ、柄もいい」

「思いっきり、とってつけたような解答」

「え…?」

 彼女らしくない口調で話されたので一瞬停止してしまう。

「昨夜の、あなたのセリフです」

「あ……ああ……」

 返答に困っているオレを置いて、雅は参道を登っていく。少し遅れてオレもついていくと、仁王門で木瀬さんたちと出会った。今日も撮影しているみたいだ。オレと雅に気づいた木瀬さんが困惑しつつも近づいてくる。

「…見に来てくれたんや」

「別に、木瀬を見に来たわけではありません。お寺参りに来たのです」

「そ…そう…」

 とりつく島もない言い方をされた木瀬さんは脚本を握り締めたけど、雅は微笑した。

「ですが、予定を変えて素人映画の撮影現場を見学させていただくのも、面白いかもしれませんね。どう思いますか、一蹴?」

「あ…オレ? ああ、…いいんじゃないの? 木瀬さんたちの邪魔にならなきゃ」

「邪魔やなんてことないよ! ええよ、見ていって♪」

 現場監督が快諾してくれたので大学生のサークル活動ってものを見学することになった。ちょうど、仁王門を背景にして、木瀬さんと早蕨さんが演技の打ち合わせをしている。

「二人とも、ただ見ていても、つまらないだろう。私が解説しよう」

 カレーを食べていた人が簡単に映画の内容を話してくれた。それによると、早蕨さんがヒロインで、織留さんが男装して恋人役になり、奈良の初瀬で結婚の約束を交わしながらも第一次大戦の勃発により、ヒロインは疎開させられ、その恋人は兵隊になり引き離される。お互いに会いたいと思いながらも会えず、とうとう16年の歳月が流れ、それでも諦めなかった二人は奇跡的に神奈川の澄空にある長谷寺で再会を果たす、というラブ・ストーリーだった。

「へぇぇ、なかなか、凝った話だね」

「………」

 オレは納得したのに、雅は顔を曇らせている。

「せっかくの物語に水を差すようですが…」

「ん? なんだ? 意見なら忌憚なく小声で言ってくれ」

 話し終えてカレーを頬張ると、小さな声で応じてる。

 雅も言われたとおり小声になった。

「私の記憶では、日本は第一次大戦には巻き込まれず、徴兵制はあったでしょうが、疎開を必要とすることはなく、まして戦後に通信網が混乱したことにより恋人だった二人が連絡が取れなくなるという状況には無理を感じるのですが…」

「うむ、おっしゃる通りだ。…もぐもぐ…他に気づいた点は?」

「終幕で二人は幸せに暮らすことになるよう予定されていますが第一次大戦が1918年に終結し、その16年後に再会されて結婚となると1934年です。その5年後には第二次世界大戦が勃発するという史実があり、幸せに暮らす、というのは不可能ではないでしょうか?」

「おっしゃる通りだ」

「……それとも、この物語は似た世界ではあっても別世界ということですか?」

「なるほど、そういう言い逃れもできるな。他には?」

「あえて申し上げますと、電信電話網は現在より未発達とはいえ、どちらも会いたいと相手を求めている二人が16年も会えないというのも無理を感じます。どちらか一方が幽閉され、手紙一通さえ出せない状況であれば納得できますが…」

「うむ、私もそう思う。実に無理のある話の展開だな」

「………」

「…もぐもぐ…」

 カレーを食べている人のところへ、早蕨さんが近づいてきた。

「観島先輩、その…」

「なんだ?」

「やっぱり、そろそろ木瀬先輩に、話した方がよくないですか?」

「ああ、ちょうど、今も話していたところだ。こちらの女性も、すぐに歴史観の無理に気づいたよ」

「……観島先輩…」

「気にすることはない。だいたい、美海が言われるまま歩の構想通りにストーリーを仕上げたんだろう?」

「だって……木瀬先輩、あえて別世界を空想してると思ったのに、本気で第一次世界大戦でも日本は焼け野原になったと思い込んでるみたいなんですよ。誰かが教えてあげないと…」

「大丈夫、歩は受験も終わってる。他人のことより、自分を心配しろ。来月はセンター試験だろう?」

「もう私は千羽谷の経営学部で推薦を受けましたから」

「経営学部? 芸術学部じゃないのか?」

「……コンビニで働いてみたくて」

「バイトに行けばいい」

「お店より、商品開発する正社員になりたいんです」

「いい目標だ。頑張れ」

「はい。……って、そうじゃなくて、木瀬先輩の歴史観を…」

「美海」

「はい?」

「お前はまっすぐ歩きたいか?」

「……?」

「私は思う、まっすぐ歩く人生もいい、けれど、何度も回り道して、失敗を重ねてこそ、成長だ。それに、まっすぐ歩くだけなんて、つまらない。ロマンがない。昔、そう言った男がいたよ。今はいないが」

「………木瀬先輩が自分で気づくまで、待つつもりですか?」

「歩も、まっすぐ歩いているつもりで失敗してこそ、成長する」

「………気の置ける関係なんですか……CUM研って…」

「仲間として、あえて与える試練だ♪」

「……試練……」

 早蕨さんは他のメンバーに呼ばれたので、複雑な顔をして木瀬さんたちの方へ戻った。

「……木瀬さん、気づいたとき、怒らないかな」

「どうでしょう………あの人は短気ですから」

「なぁに、問題はない。さっき言ってくれたように別世界というオチもありだ。たまには戦国時代に自衛隊が存在したりするさ、それが映画だ」

「戦国自衛隊かよ……」

 色々と大学生が楽しんでいることがわかった一日だった。そしてオレは木瀬さんに、それとなく歴史観に無理があることと、桜井駅の近くに図書館があることを教えておいた。おかげでストーリーは大幅変更になり、時代は近代から現代に変更、二人が16年も再会できなかったのは阪神淡路大震災によってヒロインが記憶混乱に陥ったためとなったらしい。

 

 

 

 数日後、夕方になってオレと雅は長谷寺の仁王門に来ていた。どちらが誘ったわけでもなく、オレは旅館の手伝いを終えてから自然に足が向き、雅も工房に行った後、参道を登ってきた。

「ここんとこ、毎日とおこさんの工房へ行くよな。何かしてるの?」

「女には秘密があるものです」

「うまいこと言うな。まあ、いいや」

 元気になってくれたみたいだし。

「………」

「…………」

 年が明けたら、オレは初瀬を発とう。いや………もう少し、電話代も必要だから、ここで稼いでおくべきか……けっこう迷いどころだったりする。

 来年のことを考えていると、木瀬さんが参道を駆け上ってきた。

「鷺沢っ! 藤原さん! 今日から撮影再開やねん!」

「よかったですね」

「オレが気づいたおかげだな。けど、もう脚本の書き直しできたのか?」

「でけた、でけた♪ 美海ちゃんが超人的な速度で打ち直してくれはってん! あの子、会話するよりキーボードの方が三倍は速いで!」

 木瀬さんは息を切らして、嬉しそうに脚本を掲げてる。本当に楽しそうだ。

「年内は無理でも冬休み中には、なんとかなりそうや。ハァ…ハァ…」

「それじゃあ、初瀬で年を越すつもり?」

「そうなるかも。寺の掃除してたら、宿泊費は許してくれはるし」

「じゃあ、いっそ長谷寺にみんなで初詣かな」

「一蹴……」

「鷺沢………」

「な、なんだよ?」

「愚か者」

「アホちゃう」

「なんでだよ?」

「初詣は神社です」

「ここは寺やで」

「…………どうでもいいんだ! どうせ、オレは煩悩まみれだからな!」

「除夜の鐘なら、いいですね」

「そら風情があってええ……あ、鐘をつくシーンも撮影しといて使お! 美海ちゃんにシナリオ変更してもらわな!」

 いま登ってきた参道を駆け下りていく木瀬さんを見ていたら、可笑しくてオレも雅も笑ってしまった。

 

 

 

 約束したわけじゃなかったけど、雅と木瀬さんたちと長谷寺の除夜の鐘を聴き、元旦には白髪神社へ初詣に来ていた。

 パンッパンッ!

 威勢良く木瀬さんが拍手して神前に祈る。

「今年こそ鷺沢のアホが治りますように!」

「……、オレも祈る!」

 パンパンッ!

「今年こそ木瀬さんの関西弁が治りますように!」

「なんやて?! 関西弁は病気とちゃうで! ちゅーかっ! ここ関西やし! 関東弁しゃべっとる二人のがキモいんじゃ!!」

「あなたの短気が治るといいですね」

「うっ……仕切り直しや!」

 パンパンっ!

 木瀬さんが二度目の拍手をした。

「今年こそ鷺沢のアホと鈍感が治りますように!! 私らの映画が無事に完成しますように! 留年せずに進級できますように! 部室のカレー臭が消えますように! あすかちゃんと美海ちゃんが入学できますように! 部室でイチャイチャするアホが消えますように! 私にも恋人ができますように! 弟らが自立しますように! CUM研の部費があがりますように! コンペでM研に勝てますように! …」

「「…………………………」」

 黙って聞いていたら木瀬さんは、なんと百八つもの願い事をしてくれた。やっぱり、関西人はネタに命をかけるみたいだ。もちろん、百八つの煩悩にかけていることはわかったけど、オレも雅も、そして関東育ちの黒井さんたちやサークル仲間も止めることも、つっこむこともできなかった。

「なんで、はよ止めてくれんねん?! 夕べ煩悩落としたんちゃうんかい?!ってツッコムのが礼儀やろ?!」

「歩のボケが勢いありすぎて引いたんだ」

「大丈夫……写真は撮ったから」

 カレー女とカメラ少女がなだめているけど、あまり意味がない気もする。

「はん、もおええわい♪ ほな、鷺沢、藤原さん、またな!」

 威勢良く反対方向の屋台へと歩いていく。他のメンバーも木瀬さんにつづいて行き、オレと雅だけになった。

「一蹴、商店街の出店を見て回りましょうか?」

「ああ、そうだね」

「お腹は空いていますか?」

「う~ん、…まだ、別に。雅は?」

「私もです」

「そういえば、雅は何を願った?」

「私は何も願っていません」

「……そうなんだ」

「神頼みは好きではありません。……他の人がされるのは自由でしょうが、私は神前は願いの場ではなく、宣誓の場であると考えています」

「宣誓?」

「神への宣言、神との誓いです。……もっとも、あまり神という存在を信じてはいませんが…」

「オレも真剣に信じてるわけじゃないけど、初詣は来るよなぁ」

「神聖さは感じます。ですが、サンタクロースとは違うでしょう?」

「はは、ははっは♪ サンタクロースか、たしかに、願い事ばっかしちゃ、サンタクロースか七夕だよな。くくっ♪ 煩悩落としたはずの翌朝に願望じゃ、神さまもあきれるだろうな」

「滑稽なものです。たった一晩しか人間は煩悩から自由になれないという証左でしょうか?」

「そこまで哲学的に考えないでも………哲学か……」

 哲学………カナタの顔が脳裏に浮かんで消えた。

 哲学教授の娘とは思えない人だけど、木瀬さんの話では当の教授も教授らしくない人だって話だ。いっそ、カナタの母さんなんてカナタそっくりだったりして。それとも、真逆でカチカチのマジメ人間とか。

「一蹴……、ユカリさんのことを考えているのですか?」

「…あ、…ああ…まあ…」

 ウソです。神社の境内でウソをつきました神さま、ごめんなさい。

「…………」

「あでなるは、かえって、もののあはれ知らぬが多きなり」

「…なにそれ?」

「本居宣長の言葉です」

「ふ~ん……哲学者?」

「………、広い意味では哲学者に分類してもいいでしょうが………江戸期の国学者です。まあ、日本の哲学者だと思っておいて間違いともいえないでしょう」

「どういう意味の言葉?」

「……………、たまには自分で調べなさい」

「うっ……ナゾナゾかよ。ヒントとか、選択肢ない?」

「まったく………この言葉は、彼が源氏物語を読んだ後に登場人物を批判的に述べたものです」

「……………………」

 考えながら歩いていると、商店街の出店は普通の屋台とは雰囲気が違った。

「けっこう、色んな物を売ってるんだな。普通のタコ焼きとか、金魚すくいじゃなくて……逆に日用品とかまで」

「このあたりの出店は現代風の縁日と違い、古来の商店街としての役割を守っているのでしょう」

「縁日か……」

 縁日と書いて、ユカリの日と読み、ユカリ記念日。

「……………………」

「……また、ユカリさんのことを考えているのですか?」

「あ、ああ……まあね」

「あっさりと肯定するのですね。…まあ、いいでしょう」

「ナベ屋まであるのに、パソコン中古店とかは無いみたいだな」

「一蹴、鍋屋ではなく金物屋というのです」

 出店の一つにナベとか金物ばっかりの店もあった。本当に日用品を売ってるんだな。とくに買うつもりはなかったけど、ナベの一つを手にとって見る。ちょうど店の主人は居眠りしてて、冷やかしでも気兼ねなく触れる。

「最近は電磁調理器が多くなってるのに、このナベはガスでもなく薪の炎にかけるタイプかな」

「一蹴」

「ん?」

「もしも、現実が一つの物語だとして」

「はぁ?」

「ですから、たとえばの話です。もしも、現実が一つの物語だとして、自分が悪役なのではないか、そう考えたことはありませんか?」

「………うー………無い、かな……」

「自分が悪役なのではないか、もしくは、ほんのちょっと必要だっただけの脇役なのではないか」

「……………………」

「そして役目も出番も終わってしまい、舞台の上で必要が無くなっている。必要が無いものなんて舞台上にいられるはずがない、必要が無くなった途端、消されてしまう。金物屋だって、そうです。誰かが必要としているから、金物屋でいられるのです。誰も必要としていないもの、そんなものはいられるはずがない、どうです?」

「……どうかな……。……たださ」

「ただ?」

「………まわりの人間、友達とか、親とか、そういうの全てひっくるめて、その中でオレが必要とされてなくても、必要悪でさえなくても、ここにオレは存在してる。存在の意味や必要性なんてことは、あとからついてくる。もしも、誰かがオレを消そうとしたら、オレは戦う。抵抗して抵抗して、存在してみせる。オレは、そう思う。違うか?」

「…………ありがとう、一蹴」

「礼を言われるほどの…」

 カンッ!

 金属的な甲高い音が響いて、オレが手に持っていたナベが宙を舞い、居眠りしていた店主の方へと飛んでいった。

 ガンッ! ガラガラ、ガッシャン!

 やかましい音が響いて積み並べてあった金物が散らかり、店主が驚いている。

「うひゃぁあ?!」

「な…んで…」

 まるで店主はオレがナベを投げつけたんだと言わんばかりの驚き方だけど、オレだって不可解だ。ただ、手に持っていただけのはずなのに、飛んでいった。

「……」

 オレは手を見ていた視線を振り向いて、背後へ流した。

「なっ?!」

「お祖母様っ?!」

 振り向けば街道の向こうに老婆が立っている。

 しかも、その手には弓と矢があった。

 矢を射って、それがナベに当たり、飛ばされたんだ。

「…お…お祖母様……なぜ、……ここに…」

「逃げるぞ!!」

 次の矢を構えている相手を前にして、ほとんど反射的にオレは雅の手を握って走り出した。腰を抜かしかけていた雅を引っぱって、脇道に入り、とにかく逃げる。

「なんなんだ?! あの婆さんは?!」

「お祖母様です! 私の!」

 和服の裾を持ち上げた雅が必死に走りながら答えてくれる。

「なんで射ってくるんだよ?! ハァハァ…」

「家の恥である私を、ハァハァ…亡き者にするため…」

「過激派かよ?! ハァハァ…こっちだ! うわっ?!」

 さらに路地に入って巻こうとしたのに、繁みから老婆が飛び出してきた。とても高齢とは思えない素早い動きだ。

「だ、ダメだ! こっちだ!」

 ターンして逃げる。

「ハァハァハァ」

「ハァハァ…ハァ…」

「大丈夫か?!」

「はい、ハァハァ…」

 路地を走り抜けると、ひらけた場所にでた。警報機も遮断機もないローカル線の踏切だ。一気に踏切を渡って、民家の木壁にすがって息を整える。

「ハァハァ、どっちへ逃げる?!」

「そちらの道で、とおこ伯母様の工房…」

 タンッ!

 答えていた雅の眼前に矢が突き刺さった。

「ひっ…」

 矢は木壁に深々と刺さり、かすかに震動している。こんなものが命中したら当たりどころによっては一撃で殺される。

「…ひっ…」

「マジで殺す気かよ?!」

 振り返れば、老婆が踏切の向こうにいる。すでに二の矢を番えて狙ってくる。

「立って! 雅!」

「……ひっ…」

 ずるずると雅が腰を抜かして座り込んでしまった。手を引いて立たせようとするけど、間に合わない。停止しているところを老婆は狙い澄ましている。

「くそっ!」

 ヤバイ、当たる。

 射ってくる。

 そう覚悟したときに、老婆とオレたちの間を走ってきた電車が塞いでくれた。

「今だ!」

 雅を抱きかかえて細い路地に逃げ込む。意外なほど軽い雅だけど、さすがに横抱きで走るとオレの体力が著しく消耗していく。

「ハァヒィハァ…」

「狙われているのは私です。このままでは一蹴まで…」

「ハァヒィハァハァ!」

「置いて逃げてください」

「んな薄情なことができるかっ!」

「……ですが……このままでは…」

「走れるかっ?!」

「はいっ!」

 なんとか立てるようになってくれた雅の手を引いて、さらに細い路地を走り、水路にさえ入って、これで追跡できないだろう、という場所まで逃げ切った。

「ハァ…ハァ…ひぃー…ふー…ハァ…」

「ハァハァ…ハァっ…ハァ…」

「……ハァ……………………ハァ……ふ~……」

「…ハァ……ハァ……」

「しばらく、かしわやにも工房にも近づかない方がいいかも」

「…はい……私たちが逃げる方向を読まれて…」

 やっと息が整って、気がつけば駅の近くだったから電車に乗ることにする。一度、とことん距離をとってから冷静になった方がいい、そう判断したつもりが甘かった。

「「っ?!」」

 駅の横断橋に先回りしていた老婆が弓を射ってくる。

 ビュッ…

「くっ!」

 矢はオレの頬をかすめて、痛みが走った。

「ここまでされると手加減できないっ!」

 二の矢を番える時間を与えるつもりはない。

 オレは走り込んで、運良く落ちていた掃除用の鋭利なナイフみたいになっている小道具を拾って、老婆が持っている弓の弦を切った。

 ビンッ…

 弦が切れれば役に立たないはず、そう思ったオレの眼前に弓の先が突き出されてくる。

 ブンッ!

 老婆は薙刀の要領で弓をあつかい、打ち込んでくる。

「くっ…」

 とても避けきれない、オレは覚悟を決めて距離を詰める。

 バキッ!

 右腕を打ちつけられたけど、どうせ、刃のない弓だ。致命傷にはならない。

「双海流っ! 葬兵術っ!」

 利き腕がシビれていても、戦いようはある。

「必殺っ! 一蹴の一蹴っ!!」

 と叫びつつ、蹴り技と見せかけて、さらに間合いを詰めて肘打ちと裏拳の二連打を決めようとした。

 ダッ! パシッ!

 肘打ちは決まったけれど、驚いたことに老婆は裏拳を手で防いでしまった。

「なんつー…婆ァだ…」

「…ぐぅ……おのれ…」

 けど、肘打ちは着物の帯に決まったとはいえ、渾身の一撃だったし不意もついた。ある程度は効いてるはずだ。老婆はヨロめいて弓を杖にした。

「……ぐぅ……雅さん」

 オレではなく、背後にいる雅へ視線を射かけている。

「っ…お祖母様…」

 老婆と対峙しているために振り返れないオレにも、声だけで雅が震え上がっているのがわかる。

「…おめおめと、…よくも…恥を知りなさい…」

「っ……わ……私は…」

「本家への侮辱………当家末代までの恥です。このうえは……潔く、身を処しなさい。できぬと、あらば私が…」

「ざっけんなっ! クソ婆っ!!」

「「っ…」」

 怒鳴ったオレを一瞬だけ見た老婆は、すぐに雅を睨む。そういう人を人とも思わない態度が許せない。

「雅は雅だ! お前のエゴで勝手になんてさせない!!」

「ふんっ……身勝手なことを、家を守り伝統を…」

「なにが家だ!! 言わせてもらうけどな!! 本家に雅を嫁がせたいなんてのは、てめぇの完全なエゴだろうが?!」

「分家の繁栄を…」

「違うな!! 気がつかないのか、ボケ婆ァ!! 一人娘の雅を嫁がせたら、分家は本家に吸収されて消えるだろうが?! しかも、ここで雅を殺したら分家は断絶じゃないか! 単に、てめぇのメンツが問題なだけだ!! ざっけんな!! クソ婆ァの余生と、雅の未来が比べものになるかっ!!!」

「「っ………………………」」

 オレが言いたい放題に怒鳴った内容が、二人に大きな衝撃を与えたことは確かだった。ただ、それから起こった出来事は、オレ自身も動揺のあまり、認識があやふやになっていた。憎らしくオレと雅を睨んでいた老婆は急にヨロめくと、切れた弓の弦に足をとられてしまい、バランスを崩した。そして、二歩、三歩と後ずさって駅の階段を踏み外して転落していった。

 それから、先の記憶は少ない。ただ、雅は生きのび、老婆は死んだ。

 

 

 

 数週間が過ぎて、老婆の死は事件ではなく、事故として処理された。それが藤原本家の力なのか、単に奈良県警の捜査の甘さなのかは不明のまま、もちろんオレは正当防衛の範囲だったけど、それさえ問題にならず、咎められることはなかった。

 明日、オレは初瀬を発つと決めている。

 とうとう北海道中の高校に電話をかけ、そしてユカリがいないことがわかったから。

 少なくともユカリは日本中のどこの普通科高校にも在籍していない。商業科、工業科にも電話をかけていたし、獣医と関係がありそうな農業科にも電話している。それどころか、高校という高校すべてにかけている。けれど、ユカリの手がかりはつかめなかった。そして、初瀬から探せる範囲は数ヶ月前に足で探し尽くしている。

 だから、これ以上、初瀬にいる意味は無い。

「やはり、旅立たれるのですか?」

「ああ」

 半年あまりお世話になった部屋を掃除して、旅支度を整えているところへ、雅が問いかけてきた。

「ですが、どこの高校にもユカリさんの足跡は無かったと……他に手がかりはあるのですか?」

「無いわけじゃないんだ」

 西日本をかけ尽くした後、北陸、甲信越、関東と北上していたオレの迷惑電話も、栃木県を過ぎて、岩手県に入ったあたりで、この方法ではユカリの手がかりは掴めないのかもしれないと悟りつつもあった。もしかしたら、ユカリは高校へ行かずにいるのかもしれない、そう思ったからだ。大検って方法もあるし、高校にかけ終わった後、主要な予備校にもかけてみた。それでも、ユカリは見つからなかった。けど、鷺沢家は予備校よりも家庭教師を雇う傾向にあるから、そうなると迷惑電話攻勢は無意味だ。

「一度、千羽谷に戻るつもりなんだ」

「………、戻って、どうされるのですか?」

「ユカリの第一志望は千羽谷大学獣医学部だったからさ。そろそろ受験シーズンだしね」

「……………それでも、ユカリさんが見つからなかったら、どうされるのです?」

「ネットで獣医学部のある大学を調べて、かたっぱしから受験日に張り込みかな」

「……もし……もしも、……それでも、ユカリさんが見つけられなかったら?」

「う~……ん、……そのとき、また方法を考える、かな」

「……………………」

 雅が黙ってオレの袖をつかんだ。

「一蹴……あなたの不屈は見事です。ですが、……ご自愛下さい」

「うん、それはわかってる。一人旅だからね。健康には気をつけるよ」

「………………、私は恩を仇で返すような女です」

「雅?」

「いつか、万策尽き果て、いかようにしてもユカリさんを見つけられないときは………ここに戻ってきてはくれませんか? 私は待っています」

「……雅…」

「ご心中は、わかっています。ですが……私は一人…」

「もう雅だって大丈夫だよ。とおこさんだっているし。少し遠いけど友達だっている」

 あの祖母を見送った後、雅とオレ宛てに千羽谷から小包が届いた。

 それは一本のビデオテープで「光の関西弁」という意味不明なタイトルだったけど、木瀬さんが自主製作した映画だった。素人映画らしい出来損ないなところが多かったけど、初めて彼女が監督を務めた記念作品で、オレも雅も笑いながら見て、最期のハッピーエンドでは泣けた。感動した。技術は拙くても、彼女の心が伝わってきたから。

 その映画を見た後、雅は「物を作ることの価値と喜びを教えられました。私も何か感動できるようなものを作りたい思います」と感想文を記した手紙を木瀬さんに送り、それから文通を始めた。今では、とおこさんの工房に通って何かしている。

「一蹴………、………」

 オレの袖を握っていた雅が背中に回って、抱きついてきた。

「ユカリさん……見つかると……いいですね」

「……ごめん」

「謝るくらいなら、惚れさせないでください」

「雅…………」

「嘘です。ありがとう、一蹴。あなたを好きになれて私は生きる力をもらえました」

「…………」

 背中が熱い、少し濡れた感触がする。

「たとえ、あなたが振り向いてくださらなくても、恋の至極は忍ぶ恋にあり、と武士道の書にあります。いつまでも、この気持ちは消えないでしょう」

「………………………」

「どうか、お元気で」

 背中に雅の体温を感じたまま、夜が更けるまで静かに座っていた。

 

 

 

 翌朝、かしわやの玄関に立ったオレを熊さんをはじめ、みんなが見送ってくれる。

「本当に今まで、ありがとうございました」

「元気でな。いつでも帰ってこいよ」

 熊さんがベアー・クローでオレの背中を叩いた。

「こいつ、最期までワシを熊さんにしやがって」

「ぅ……オレの心を…」

「お前の心くらい読めなきゃ宿の亭主はつとまらねぇよ」

「はは…ははは…」

「ワシが熊さんなら、さしずめお前は寅さんだな」

 そう言って笑う熊さんの隣で、とおこさんが少し怒ってる。

「まったくだよ、ここにいればいいものを。恩は恩で返すものさね」

「とおこ伯母様、一蹴が困るようなことを…」

 雅が神社の御守りをリュックにつけてくれ、神棚にあった火打ち石を手に持った。

「一蹴、私を袖にしていくのです、半端なことでは許しませんよ」

「わかってるよ」

「では、旅の安全を」

 雅が火打ち石を鳴らしてくれる。それが旅の安全を祈願する風習だって、なんとなく理解できたから、とても嬉しい。最期に立礼して、かしわやを出た。

 朝の風が冷たいけど、心地いい。

「……………………本当に、いい人たちばかりだった」

 お婆さん。

 熊さん。

 とおこさん。

 仲居のお姉さん。

 みんな良くしてくれた。

 そして、雅。

「……………雅……」

 正直、後ろ髪を引かれる想いはある。

 何度も、振り返って彼女を抱きしめたいと想った。

 けど、旅立たなきゃいけないんだ。

 ユカリ捜しの旅に。

 目の奥がグッと熱くなってくるのを耐えた。

「……ふ~っ……………男は、つらいよ」

「アホイッシュー見ぃつーけ♪」

 ガクッ…

 膝から力が抜けて世界が傾いた。

 この世界で、これほど一瞬でオレの黄昏を打ち砕いてくれる人物が他にいるだろうか。

 否。

 彼女一人だ、カナタ。

「……………………」

「おい♪ 朝っぱらから、何を黄昏れてるのかね、チミ」

 振り返らないオレの前に、赤いオープンカーが歩道を塞ぐように駐まった。

「……どうして、ここにオレがいるって?」

「りかりん情報と、のん秘密ネットを駆使して♪」

「………」

 あの不思議な力と財力を駆使すれば、オレの居所くらい知れるだろう。くっ…あと一日、早く旅立っていればよかった。

「なに、その顔。せっかく、ユカリちゃんの手がかり持ってきてあげたのに」

「マジで?!」

「まあ、乗りなよ」

 言われるまでもなく助手席に乗ると赤いオープンカーは通常の三倍の速度で走り出した。初瀬から国道165号線を東へ、あっという間に初瀬街道を抜け、伊勢自動車道に入ると時速300キロになった。

「飛ばしすぎ! 飛ばしすぎだって!」

「いいじゃん♪ 一秒でも早くユカリちゃんに会いたいでしょ?」

「生きて会いたい!!」

「臆病者♪」

「って、400キロ近いぞ! メーターみろって! タコメーターがレッドゾーンだぞ!」

「この速度でメーター関係の方を見ると死ぬのよねぇ」

「……」

 そりゃ死ぬだろうさ、カナタの目は前しか見てない。トラックとトラックの間を少しでも見誤ると二人とも事故死だ。気がつけば、すでに東名阪自動車道から伊勢湾岸自動車道へ飛び込んでいる。伊勢湾に面したベイブリッジみたいな真っ直ぐな道路でカナタは急停車した。

「うごっ……どうして止まるんだ? 故障?」

「ご休憩♪」

「……休憩って、ここ、何もないじゃん」

 木曽川の直上で、すぐそこには海が拡がってる。こんな橋の真ん中の路肩に停車しても自動販売機一つない。しかも、交通量が少なくて前後にクルマがない。たまにトラックが通るくらいだ。

「条件があるよ」

「…ぇ~……っと、ユカリの手がかりを教えてもらうための?」

「お♪ 会話の流れが読めてるね。ちょっとアホが治ってるじゃん」

「おかげさまで、武者修行の旅ですからね。で、どんな条件が?」

「一発ヤらせて♪」

 去年よりも大胆なボディコンを着てる人が何か言ってます。言いながら、助手席の上に乗ってきた。

「言ったでしょ♪ 昔、君のこと好きだったの。記念に一発ヤらせてくれたら教えてあげる」

「冗談ですね」

「冗談で、こんなこと言うと思う?」

「カナタなら」

「ん~♪ じゃあ、ほら」

 カナタが素早くオレの手を握ると自分の胸にあてさせた。

「なっ?!」

「ほら、こんなにドキドキしてる」

「……………………」

 黙り込んでしまうほど、たしかにカナタの鼓動は速い。小鳥か、仔猫なみの速さだ。けど、小さい動物ほど心拍数が速いことを教えてくれた博学の恋人を裏切るつもりはない。

「……ど…ドキドキしてるのは、乱暴運転したからだろ?」

「正解♪ ちょこちょこ話しかけるから気が散って3回くらい死ぬかと思ったよ」

「こっちは生きた心地がしなかった」

「でも、まだ、ドキドキが止まらないかな♪ 感触どう?」

「っ!」

 言われてカナタの胸に吸いついていた手を引き離した。

「ったく…」

「ね、一回だけ、お、ね、が、い」

 囁かれるとカナタの匂いがする。いい香水の薫りと、甘ったるい汗の匂い、無謀な運転をした直後だからか、汗で肌が光って見える。ヤバイ、見たらダメだ。

「ダメだって! 勘弁してよ! 刺激しないでくれ! 逆セクハラだ!」

「どぉ~しても、ダメ? 本当に好きなの。一回で諦めるから、お願い」

 ほとんど、一瞬で痴女から少女に変貌して、目を潤ませてくる。

 この変貌で混乱させられるところだけど、この人は女優だ。しかも、全国的な女優で初瀬でテレビをつけても映ってたくらい有名な人だ。それを忘れてはいけない。

「何か別の条件にしてくれよ、頼む!」

「え~……肩叩き券、とか?」

「そうそう! そういう労働ならする!」

「じゃあ、肩揉み券も?」

「お安いご用さ!」

「じゃあ、おっぱい揉み…」

「そっちはダメ!」

「ケチ♪」

「頼むよ、もったいぶらないで、教えてくれ。ユカリに会いたい! 本気なんだ! 頼む! カナタ!」

「…………………………」

「頼む! 一生のお願いだ!」

「……………………。変なことしないから、ジッとしてて」

 カナタが静かにオレの前髪をかきあげ、ゆっくり額の傷痕にキスしてきた。

「っ……」

「ジッとしてて」

「…」

 変なことしないって、言ったじゃないか、これだって立派にセクハラだぞ。カナタはキスした後、舌で傷痕を舐めてくる。

「…ぉ、ぉい…」

「見て。同じ傷痕、アタシにもあるよ」

 カナタが自分の前髪をかきあげた。

「……な……」

「うっすらと、テレビじゃ気づかないくらい」

 たしかに、ある。

 カナタの額にも、オレと同じように古傷の痕が残ってる。

 これは、いったい……………………? また、オレの知らない、オレの記憶にない因縁があるのか。

「………昔、入院してたって…」

「そう♪ そのときの傷。ここにキスしてくれた孤児院の少年のことをアタシは今でも忘れてない」

「…………」

「忘れられないのは君の責任。だから、責任とって」

「………無理なこと、言わないでくれよ…」

「じゃあ、条件を良くしてあげる。エッチしてくれたら、手がかりを教えるだけじゃなくて、お金もあげる」

「逆買春かよ」

「ん~……それを言うなら逆売春が、国語的に正確じゃない?」

「とにかく、お断りだ」

「2億円」

「……………年末ジャンボかよ? 今は年始だぞ!」

「本気だよ」

「………………………」

 カナタなら余裕で出せる金額だ。

 モデル、アイドル、しかも大地主だった祖母から相続した財産もある人だ。

「おまけに、家もあげる」

「家なんて…」

「いずれ、ユカリちゃんとの新生活に必要でしょ? 日暮荘は狭いし、そもそも君は引き払ってるし。家っていっても、思い入れのある家だよ」

「……思い入れ?」

「君とユカリちゃんが育った家♪ 委託販売されてるのアタシのお婆ちゃんの会社、仲介不動産管理会社クロスコーポレーション♪ 今はアタシが筆頭株主、気がついたから残しておいてあげたの。あれ、あげる」

「っ! もしかして、引っ越し先を知ってるのか! その会社!!」

「ごめん、残念ながら」

「……………………」

「でも、もう一つ、おまけをつけるね。捜査協力」

「捜査協力?」

「ユカリちゃんを捜すための手段と資金、りかりんとアタシも協力してあげる。バイトしながら捜すなんて、何年かかるかわからないよ?」

「…………」

「しかも、手がかりはあるけど、その手がかりは、けっこう遠方。また、費用がいるね」

「……………」

 一回エッチするだけで2億円。

 一戸建て住宅。

 さらに捜査協力、これで見つかる確率は飛躍的にあがる。場合によっては今月中に見つかるかもしれない。

 けど、それでも、やっぱりユカリを裏切りたくない。

「……カナタ」

「その顔はノーね。じゃあ、いいよ、エッチは諦める」

「カナタ…」

「その代わり、キスして」

「……………………」

 一気に条件が緩和された。

 迷う、迷うじゃないか、キスくらい、いいかなってさ。

「唇がダメなら、ここにして」

 カナタが額の傷痕を見せた。

「お願い」

「………………………………ごめん」

「っ…」

 一気に熱っぽかった彼女の顔が冷める。それから、涙まで零された。

「カナタ……どこへ?」

「さあ?」

 オレの膝の上にいたカナタはクルマから降りると、アスファルトを歩いて巨大な橋の欄干まで進んだ。

 ものすごく嫌な予感がする。オレもクルマから降りて追う。

「おいっ!」

「アタシにもプライドがあるの、ここまで譲歩してもダメなら」

「…………」

「ここから飛び降りてみようかな?」

「登波離橋じゃないんだぞ!!」

 ここから海面まで東京タワーの半分くらいありそうだ。

 登波離橋なら深みに落ちれば無傷だろうけど、ここは水面に叩きつけられるだけで死ぬ落差がある。

「危ないって!」

 しかも、カナタは安全柵の向こうにまで進んでいる。

「とにかく落ちつけって!」

 急いで手を握った。

 振り払われないよう手首を力を込めて握る。これで話ができる。

「まず、こっちへ戻れよ。危ないからさ」

「……………………」

「な?」

「戻ったら、してくれる?」

「……」

「20億円」

「………………」

 海風が強い。

 カナタの髪が風にあおられて激しく踊ってる。

 握ってるカナタの腕は、少し震えてる。

 それなのにカナタは体重を橋の外へ移動させた。

 もうオレが手を離せば、落ちる体勢だ。

「ねぇ、20億あれば、きっと世界中のどこにいても、優秀な探偵を雇って発見できるよ? まだ、足りない?」

「どうしても、ユカリを裏切らないと手がかりさえ、教えてくれないのか?」

「……………………ごめんね」

「一つだけ、いい方法がある」

「?」

「ユカリを裏切らない、いい方法があるんだ」

「どんな?」

「ここで、このままカナタの手を離す」

「? ……………それが、いい方法なの?」

「賢いカナタが、わからないのか?」

「………うん、教えて」

「カナタは有名人だ。ここで落ちて死ねば、ものすごく話題になる。連日テレビで報道されるだろう」

「…………」

「そして、その場にいたオレもテレビでインタビューされる。そのとき、カメラに向かってユカリに呼びかけるんだ」

「……」

「ほたるさん以上だろ?」

「いいアイデアだけど、君は実行できるタイプの人間じゃない」

「忘れたのか? オレはユカリのために南先生を脅迫したし、ショーゴを骨折させたんだぜ」

「…………………………」

「………」

「……………」

「…さよなら、カナタ。…ごめん」

 オレは本当に、手を離した。

「ゃっ…」

 彼女は小さな悲鳴をこぼして顔を歪めた。

 パシッ…

 次の瞬間、思いっきり腕を伸ばして追いかけ、カナタの手首を握り直した。

「っ…っ…ハァ…っ…」

 短く乱れた息をしてるカナタを強引に抱きよせて安全柵を越えさせる。安全な場所でカナタは座り込んで、身震いした。

「…ハァ……ハァ…っ…、…アタシを……試した?」

「先にオレを試したのはカナタだ」

「…………、……お尻、冷たい。クルマに戻して」

「自分でいけよ」

「腰抜けた。立てない」

 わがままなお姫様を抱き上げてクルマまで運んだ。

 真冬の海風に晒されていた身体は冷や汗で濡れて、氷みたいに冷たい。よく、この季節にボディコンなんか着てて狂言飛び降り自殺なんて演技をする気になると、あきれてしまう。

「ぅぅ…寒いっ…寒い、寒い…」

「当たり前だ」

「暖かいコーヒーが飲みたい」

 奥歯をガチガチ鳴らしながらカナタがオープンカーの屋根を閉鎖して暖房を最強にした。

「着替えほしい。汗で冷たい!」

「言いたい放題だな」

「運転して、どっかホテルに入って」

「オレ、免許もってません」

「ちっ……使えない男ばっか」

 言い捨てたカナタは運転して名古屋市内の高そうなホテルに入ると、一人でシャワーを浴びて身なりを整えて地下駐車場で待っていたオレのところへ戻ってきた。

「もったいないお金の使い方するよな。銭湯でいいだろうに…」

「う~ん……生き返った♪」

「死にかけた、しな」

「殺しかけた、しね」

「いい度胸してるよ」

「そうかな? 本気で腰抜けたよ。ハンドル持ってて死にかけるのと、手を離されて、何もできない気分は、ぜんぜん違うしね」

「……安全運転で、お願いします」

「人のトラウマを刺激しといて、それは無理」

「…トラウマ?」

 オレの質問には高出力のガソリンエンジンが答えてくれた。おかげで、名古屋から神奈川まで、たった56分34秒だった。

 

 

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