ならずやに入って、カナタがオレに会わせようとしたのは、いのりだった。
「………カナタ、どういうことだよ?」
「ユカリちゃんの手がかりを知ってるのは、いのっち♪」
「どうして、いのりがユカリの手がかりを知ってるんだよ?」
カナタに代わってカウンターで紅茶を飲んでいた人が答えてくれる。
「成田空港で偶然に出会ったそうです」
「成田?!」
つい、大声を出してしまい、いのりがオレに気づいた。
「………………………」
「……………………」
いのりと目が合い、お互いに同じタイミングで目をそらした。
「……双海さん、どうして?」
「私が喫茶店にいては変ですか?」
「そ、そうじゃなくてさ」
「すべての決着と精算をつけるときです」
「いのりとは、もう…」
「彼女は妊娠しています。あなたの子供です」
「なっ?! そんなバカな?! オレは、ずっと…」
「予定日から遅れていますが…」
双海さんの説明を聞かず、いのりの方を見た。
「……………………」
いのりは座っているけど、たしかに腹部が膨らんでいる。
まるで赤ちゃんがいるみたいに大きな膨らみだ。
「おい、カナタ」
「ん♪」
「冗談にしてはタチが悪すぎだぞ」
「そうだね」
「どうせ、風船とかだろ?」
首謀者がカナタであることは今までの展開から予想ができる。いのりは顔を伏せて身を小さくしてるから、このパターンはカナタのイタズラだ。
「一蹴くん」
「っ?! 静流さんまで?!」
カウンター内にいた静流さんまで、ぽっこりと腹部が膨らんでる。
「……静流さん……恥ずかしくないんですか?」
「男の人には、わからないでしょうけど、誇らしいとさえ、思うのよ♪」
愛おしそうに静流さんはエプロン越しにお腹を撫でている。
「誇らしいって……バカらしい。だいたい、誰の子供ってことで?」
「ボクのだよ、鷺沢」
「っ?! 伊波先輩?!」
サッカー部の先輩がいた。
「伊波先輩まで、こんな冗談に付き合って……なにが、楽しいんですか?」
「………鷺沢……」
「一蹴くん、私は本当に妊娠しているの、ほら♪」
静流さんが母子手帳と超音波エコーの写真を見せてくれる。
「………………………マジで?」
「「……」」
静流さんと伊波先輩は見つめ合って、黙った。
「ちょっ、ちょっと! ほたるさんは?!」
「ほたるには、今度の帰国で話すつもりよ」
「……静流さん………。伊波先輩っ! あんた伝説の男だろ?! いいのかよ?! そんなことで!!」
「……………………」
伊波先輩に迫ろうとしたら、カナタと双海さんが入ってくる。
「じゃあ、どうすれば、よかったの?」
「堕胎するべきだったでしょうか?」
「カナタ……双海さん……。そもそも、ほたるさんが居ながら…」
「そうだね。でも、触ってみて」
カナタが静流さんの腹部へとオレの手を導いた。
「優しくだよ、乱暴しちゃダメだよ。風船じゃないからね」
「………、静流さん……」
触ってみると、風船じゃない。
「一蹴くん、このあたり、少し押してみて」
「……は…はい……こうですか?」
言われたとおり、ゆっくり押してみた。
トン…トン…
押したところから反応が返ってきた。
「う…動いてる…」
「ふふ♪ 胎動よ。この子、押さえると子宮が狭くなるって怒って蹴るの。しかも、必ず二回、だから二蹴って名前にしようかしら?」
「……そこはかとなく、オレの名前についてのネーミングセンスが忍びなくなってくるようなことを言わないでください」
オレが現実逃避気味につぶやいていると、カナタが見つめてくる。
「もう一人、紹介しま~す♪ 唯笑ちゃ~ん!」
「はいは~い♪」
見慣れない女性が大きなお腹を揺らして近づいてくる。
どうして、こうベビーブームなんだよ。神奈川県の局地的異常気象か……脱力してるオレの手をカナタが女性の腹部へと勝手に押し当てる。
「ほらほら、触ってみて」
「……これ、風船だろ?」
明らかに風船っていう手触りだ。さっきの静流さんの重量感に比べて、とっても軽い感じだ。しかも胎動もない。
「正解♪ 唯笑ちゃんはニセ妊婦でしたァ」
「えへへ♪」
やっぱり恥ずかしいみたいで女性は赤面してる。
「ね、ね、このマタニティードレス、お母さんに借りたの。似合ってるかな? トモちゃん」
「似合ってるぞ。海ガメみたいで」
カウンターでバーボンを呑んでいた男性が笑った。
「う~……う~……誉めてないよ!」
「一撃で撃破だ♪」
爪楊枝で女性の腹部が突かれた。
パンッ!
「はうっ?!」
風船の割れる音がして、一気にお腹がしぼんだ。やっぱり風船だったんだ。
「うっ…う~っ…うっ…痛いよぉ~…ぅう…」
「唯笑? 陣痛の演技は、もういいぞ?」
「トモちゃんのバカ!!」
演技じゃなくて本当に痛そうだ。お腹を押さえて涙を滲ませてる。信くんが女性を慰める。
「唯笑ちゃん、大丈夫?」
「う~…うう~…大丈夫じゃないよぉ、すっごく痛い」
「ったく、智也! 風船が腹の上で割れたら痛いに決まってるだろ?! なんてことするんだ!」
「唯笑なら腹の皮が厚いから平気だと思った♪」
「それをいうなら面の皮だ! しかも、お前だ!」
「唯笑のお腹は厚くないもん!」
「はいはい、今坂さん、もう役目は終わりましたから退場してください」
双海さんが軽く拍手して、にぎやかな人たちを店の隅っこに移動させた。
「いのっちのお腹も触ってごらん」
「…カナタ……」
抵抗できないオレの手をカナタが引っぱって、いのりのいる店の奥へ連行してくれる。
「ゆっくり、優しくだよ。いのっち、触るね?」
「…………カナちゃん……。……………………」
いのりは伏せた顔を上げてくれず、でも拒否もしない。いのりはイスに座って両手で膨らんだ腹部を抱くようにしてる。
「いのっち、胎動は、このあたり?」
「……うん…」
「…いのり………」
「ほら、ゆっくり触ってみて」
カナタが震えかけているオレの手を押しあてさせた。
トコトコ…トト…
手に反応が返ってきた。
「っ……、…風船じゃない……のか…」
さっきとリズムは違うけど、たしかに手に感触がある。しかも、風船とは重量感が違う。
重い。
重すぎる。
「……………………………」
身に覚えはある。
いのりとオレの別れは、あの飛田扉によって引き裂かれたから、その寸前までは仲良くしていたから。こうなることだって無いとは言えない。
「……………………オレと………いのりの……子供?」
「…………………………」
「いのっち、………アタシが代弁してあげるから」
いのりの肩を抱いたカナタが視線をオレに投げてきた。
「どうするつもり?」
「………どうって……言われても……」
「さっき、さんざん君の気持ちは試させてもらったから、よくわかってる」
「……カナタ……」
「人の気持ちを試すことの傲慢さを、アタシは自覚してるつもり」
「……………………」
「現に君は怒って、アタシに仕返ししたしね。落とされた瞬間、しばらく夢に見そう」
「………」
「………………………。いのっちの気持ち、考えてみて」
「…………………………………………」
いのりの気持ち………いのりが別れたときもオレを好きでいてくれたことは知ってる。そして、いのりと一度はヨリを戻して、それからユカリを選んだ。とても残酷なことをしたと思ってる。けれど、曖昧にフタマタで付き合っていくよりは一方を選択するべきだし、オレはユカリのことを………違う、…これはオレの気持ち、オレの立場であって、いのりの気持ちじゃない。
「………………」
いのりは……………オレのことを好きでいてくれる。
そして、別れた後、妊娠していた。
音大にも行けず、しかも父親であるオレは旅に出ていた。
ユカリを捜す旅だ。
ケータイは持っていたから連絡しようと思えば、いつでもできた。
けど、いのりは黙っていた。
産むか……産まないか……、どんどん時間は流れていく。
いのりは…………何を考えて、何を思って……。
「………カナタ、……」
「なに?」
「ごめん、……本気で考えたけど……正直なところ…妊娠した女性の気持ちなんて、わからない。……まして……こんな状況の……いのりの気持ちを想像するなんて、無理だ」
「そうでしょうね」
「………………………」
「君は悪くもないしね。あの超アホ扉のせいだけど、いのっちから一方的に別れたわけだし」
「…………」
「でも、同じように、いのっちも悪くないしね」
「…………………………」
「どっちも悪くない。けど、現実の事態も進行してしまった。もう中絶することはできない時期だよ。そこまで黙っていたのは、いのっちの責任。これは卑怯な沈黙だとアタシは思うけど、アタシでも同じ手段を使ったかもね。…ううん……いのっちは、意図して黙っていたわけじゃないと思うよ。言えなかった、これが正確な表現ね。今だって、この場はアタシがセッティングしたから」
「……カナタが…」
「君のユカリちゃんへの気持ちは先刻承知。でも、いのっちだって人生賭けてるの。そして、アタシは全面的に、いのっちを味方する。君がいのっちを選ぶなら生活資金も援助してあげる。けど、君がユカリちゃんを選ぶなら全面的に敵対する」
「…敵対って……」
「アタシを敵に回して、ユカリちゃんを見つけられるかな?」
「………カナタは、……なんで、そこまで…」
「シンプル、いのっちが好きだから。ユカリちゃんは、まあ、アタシにとって他人だから」
「……………そんな自己中な…」
「ウソ。そこまでは、しない」
「カナタ?」
「いのっちは手がかりを知ってる。ユカリちゃんの居場所へのヒントを、ね。でも、君は訊くの? そんな残酷なことを妊娠させた元恋人に」
「………………………」
「ちなみに、アホの伊波は責任とって、できちゃった婚するってよ」
「………伊波先輩…」
オレが視線を向けると伊波先輩は目をそらした。
恋人を、妹を裏切るのか………妹を。
「さあ、いのっちとの子供、どうする? 結婚してあげる? それとも孤児院の玄関にポイっ? ちゃんと扉から距離を置かないとね。雨の日なら傘を忘れずに。雪の日なら、せめて翌日に延期して」
「……………………………」
オレは孤児院で育った。
そのオレが、また孤児院に子供を…………家族って…なんだ? 子供って……なんだ? 親がいなくても、子供は勝手に育つじゃないか………親なんて……オレにとって………ユカリにとって………雅にとって………麻尋さんにとって………親なんて、いない方がよかったんじゃないか……………………鷺沢家に………仙堂家に、藤原家に………何があったっていうんだ。
「捨てちゃう? 今、君は自分にとって都合のいい思考をしてるね?」
「……………………カナタは…、いや、いのりは両親のこと、好きか?」
「アタシは……、っと、これは、いのっちが先に答えるべきね。いのっち、どう?」
「…………………………、……私は、…パパもママも……好き」
「……………………そうか…」
「アタシはパパは好き♪ ママは嫌い」
「……そうか…。…………………………」
オレは、どうしたら、いいんだ。
どうするべきなんだ。
一児の父親に…………けど、ユカリのことは……ユカリは、……ユカリを。
「………くっ………」
「…イッシュー…………。カナちゃん…もう…」
「さあ、君は、どうするの? どうしてあげるの?」
「……………オレは………、…オレは……」
「もうやめて、カナちゃん」
「いのっちは黙ってて。遠慮することじゃないよ」
「やめて、お願い! イッシューが壊れちゃう! もうやめて!」
「こういう男はトコトン追いつめないと…」
「やめて! これ以上、するなら! 私は! 私はっ!!」
「…………アタシを呪い殺すみたいな目で見ないの。………本当に、いのっちは……君って子は、この男のことしか考えないんだね。いのっちが、そんなだから……もう、いいよ」
「「……………………」」
「いのっちは妊娠してないよ。このお腹は、巧妙に作ったダミー」
「…ニセモノ?」
「そう♪ さ、いのっち、ここまで追いつめても、まだユカリちゃんに未練があるって顔をしてくれたヤツに、ヒントをあげるの?」
「………ごめんなさい、イッシュー……ウソついてて……ごめんなさい」
「…いのり……、……本当に、妊娠してないのか?」
「…うん……」
「…………………ユカリの手がかりを……知ってるのか? ……どうして?」
「成田空港でユカリちゃんに出会えたの。偶然、……私もアメリカへ行こうとしていたから………」
「…ユカリは国外に?」
「うん………ご両親に連れられて……、ほんの偶然、……私は空港の女子トイレでユカリちゃんに会えた。でも、お母さんも近くにいらしたから………ユカリちゃんは必死に私へ航空券を見せて、行き先を………教えて……泣いてたよ」
「……ユカリが……いのりに………」
その事実だけで、やっぱりユカリはオレと連絡を取ることもできないくらい両親に監視されているんだとわかる。二人は恋敵だ。それでもユカリは一縷の望みを託して、いのりに行き先を教えようとして、いのりもオレに…………今。
「いのり………、……………………ユカリは、どこに?」
「テーゲル」
「…てーげる?」
「ごめんなさい、それだけしか、わからないの。……たった、それだけ」
「そうか………。……………………また、図書館で調べて……」
テーゲル国が、どこにあるのか調べようと思ったオレは、歩く図書館……いや、紅茶を飲む図書館を思い出した。
「双海さん、テーゲル国って…」
「国ではありません」
その口ぶり、やっぱり知ってる。
「テーゲル国際空港のことでしょう」
「それって、どこですか?!」
「ベルリンです」
「ベルリン? ベルリンって………国…だっけ?」
「………………ドイツという国の首都です。ドイツは、わかりますか?」
「EU……とか? カーンとか?」
「正式名称、ドイツ連邦共和国、人口8226万人、大半がキリスト教徒であり、ドイツ語を公用語とし、通貨はユーロ、首都ベルリンの人口は339万人です」
「339万人……」
「陵さん、他にヒントはありませんか?」
「………ごめんなさい、……それだけです。……あ、あと!」
「「あと?」」
「フランクフルトとか、読めた気がします!」
「………そうですか……」
双海さんの顔が冴えない、ヒントに悪い意味があるのか、フランクフルトって……食い物だったか。
「鷺沢さん、フランクフルト・ソーセージは発祥の地がフランクフルトだからです」
「ぅっ………オレの心を……。って、そんなことより! それじゃあ、ユカリはベルリンのフランクフルトにいるんですね?!」
「………無知は恥ずべきことではありませんが、あなたは日本の地理でいえば、東京の博多に行こう、といったようなものです」
「東京の博多………」
「アホイッシュー、フランクフルトは超でっかい国際空港があるとこだよ」
海外をも飛び回る芸能人がタメ息をついてる。
「たぶん、フランクフルトから乗り継いでベルリンへ行ったんじゃない? ヨーロッパうろつくとき、ほとんどフランクフルトで乗り換えるしさ」
「黒須さんのおっしゃる通りでしょう。成田からフランクフルト、そこで乗り継いでテーゲル空港へ、空港からベルリン市街へはクルマで40分ほどです」
「じゃあ、ベルリンのどこかまでは………でも、339万人なら東京都の4分の1だ! しかも日本人だから見つかりやすいはず!」
「アホイッシュー、東京都の人口は知ってるんだ?」
「これでも東海道は歩いたし、日本全国に電話をかけたりして地理は自習してるからな!」
「まったく………君はヒントをもらったら、いのっちは踏み台くらいにしか、思ってないね」
「ぅっ……そんなことは……」
「思いっきり浮かれてたしね。ちょっとは、いのっちがアメリカに行かなかった理由とか、気にならないの?」
「…あ………いのりは、どうしてアメリカに行かなかったんだ?」
「………イッシュー……」
「アホ、訊かなきゃわからないの?」
「……………ごめん…」
「鷺沢さんが謝ることはありません、黒須さん、約束は守っていただきますよ」
「ど~ぞ、お好きなように♪」
カナタが両手を拡げた瞬間、双海さんが手をあげた。
パシンっ!
痛そうな音をカナタの頬と、双海さんの手が響かせている。
どうして……この急展開について行けない。
「双海さん……なんで…?」
「私は狂言妊娠には反対でした。この芝居に協力する条件が今の一撃です」
「痛ぅ~ぅ……くぅっ……双海、あんた本気で叩いたねっ」
頬を押さえたカナタが涙目で睨んでも、双海さんは動じない。
「あなたが陵さんの味方であるように、私は鷺沢さんに同情的なのです」
「ちっ……」
カナタが諦めて氷の入ったグラスを頬にあててる。そこへ、さっき風船で妊婦のふりしてた女性を爪楊枝で刺して破裂させた男性が近づいてきた。
「ちなみに、その子の妊婦腹もオレが細工したんだぜ♪ よく、できてるだろ?」
「アホ智也は、こういうことさせると天才だからね」
カナタがフォークを持った。
いのりの目が恐怖の色に変化する。
「待って、カナちゃん! この中はっ…」
「えいっ♪」
プスッ…
「うっ…ぅぅ…う…うな…」
いのりが刺されたお腹を押さえて困ってる。さっきの風船と違って一気にしぼんだりしないけど、少しずつ小さくなってるみたいだ。
「黒須、バカ。なんてことを……オレは知らないぞ」
「ぅ…うっ…うな……、た…助けて、…三上さん!」
「すまん、ザクには大気圏を突破する性能はない。無駄死にだ」
「アホ智也、いのっちの中身、何なの?」
「アホ黒須、それを知る前に突くなよ」
「ぅ…う~っ…う~っ…うな……うな…」
いのりは静かに立ち上がって、あてもなく逃げようとしたけどマタニティドレスの裾が濡れてる。
「いのり………大丈夫なのか? 濡れてるぞ?」
「バーチャル破水だな。どうなってもオレは、知らないぞ」
「うぅっ……う~っ…」
びちゃ…びちゃびちゃ…ジャバジャバ…
いのりの股間から透明な液体が漏れだしてる。どんどん流れ出して、床に水たまりをつくってる。
「や……やだ……ぅっ…ぅっ…うな…」
いのりは下腹部を押さえて真っ赤な顔になってる。どうやら、中身は水だったみたいだ。それをフォークで突かれて穴を開けられ、漏れてきた。とても………カッコ悪い姿だ。
「うっ…うううっ?! うっっ?!」
いのりが大きく身震いした。
「ううっ! ううう! うなっ!」
「いのり?」
「いのっち?」
「うなっ! うなっ…うなぎ!」
「「うなぎ?」」
「うううっ! うううっ!」
いのりは小さくなった濡れた下腹部を押さえてクネクネしてる。とても、気持ち悪そうな顔だ。
「いのり………」
「いのっち……まさか……」
「リアルな胎動を再現するために、オレは生きたまま、五匹、な?」
「ううっ! う~うっ! 助けて! う~っ…き、…気持ち悪い! 動いてる! 動いてるぅ!! 取って! 取ってください! 入ってる! 入ってるぅ~!」
「ミササギさん、手で押さえてないで、いっそ産んでしまえ。脚も開いて」
「やだやだやだ! うう~うっ!」
ぼたっ…
ならずやの床に、いのりの股間から産まれたウナギが落ちた。
「ひうっ?!」
ぼたっ…ぼたぼたっ! びちゃびちゃ…
続けざまに五匹、いのりはウナギを産んだ。
「……………………」
「リアル鰻登り♪ いや、鰻くだり。説明しよう」
説明によると、風船みたいに膨らみつつも、なかなか破裂しない柔らかいゴム製品に水を入れて、ウナギを滑り込ませ、いのりのお腹に装備させたらしい。だから、オレが触ったとき、反応して胎動みたいな感触を手に伝え、カナタが穴を開けてしまったため、水とウナギが不幸な女性の下腹部で…………ああ。
ああ、可哀想だ。
いのりも。
ウナギも。
よく、こんなことが発想できると、オレは三上さんを変な意味で尊敬することにした。
成田空港からフランクフルト空港へ向け、ルフトハンザ・ドイツ航空の旅客機は順調に飛行していた。
オレと、双海さんを乗せて。
「美味しかったですね、鰻ご飯」
「……、双海さん、あれは鰻丼だよ。丼じゃない場合でも、鰻のひつまぶし、っていうんだ」
「日本語って、難しいですね。お米と具の組み合わせでも、なにがし丼と称する場合もあったり、なにがしご飯と呼ぶときもあって。栗丼はありますか?」
「クリご飯は知ってるけど、クリ丼は知らないなァ……ウニ丼ならあるけど」
「ウニと栗は似てますね」
「……見た目だけがね。それも、剥く前だけ。だいたいオレからすれば、ドイツ語が難しすぎ。なんで道具や物にまで性別があったりするんだよ……ったく」
オレはドイツ語入門の教科書をパラパラをめくった。
「ふ~っ……英語だって苦手だったのに…」
「これでも、ナチス政府のおかげで簡単になったのですよ」
「ナチスの?」
「はい、1941年まではローマ字ではなく、いわゆるドイツ文字を使っていたのです。およそ12世紀頃にできた角ばったゴシック字体をもとにつくられた字体で、印刷技術の発展とともに他国では使用をやめていましたが、ドイツだけが長く使い続け、ナチスによって斬新な改革が行われるまでは残っていたのです。今では装飾的なデザインとしてのみ使用されます」
「……ナチスって、いいこともしたんだ?」
「歴史は一面だけでは語れません」
「双海さんって、物知りだよなァ……意外なところに、とんでもない死角があるけど」
「どれだけ書物を読んでも全知全能たることはできませんよ」
「一つ質問していいっすか?」
「どうぞ」
「ゼプトっていう単位の意味は?」
「………、義理のお母さんに言われた言葉ですね……」
双海さんには、すでに事情を全て話してる。さらに、初瀬でのことも話したし、そもそも彼女が同行を買って出てくれたのは、日本語しか話せないオレにとって心強さ百万倍だ。さっきから、意味のあること、意味のないこと、とにかく二人で会話しているのは日本からドイツまでの飛行時間が13時間と長いことが理由だ。
「オレは気にしてませんよ。どうせ、悪い意味でしょうし」
「では、お教えします。ゼプトとは10のマイナス21乗のことです」
「10のマイナス21……」
「身近なところでは、cと表記してセンチと読み、10のマイナス2乗。mと表記してミリと読み、10のマイナス3乗。nと表記してナノと読み、10のマイナス9乗などがありますね。ナノ、ピコ、フェムト、アト、そしてゼプトはzと表記します」
「メガとか、ギガバイトみたいな?」
「ええ、バイトはデータ量を現す単位ですが、ギガは10の9乗を意味します」
「ギガでも9乗か…、その反対のゼプトって、かなり少ないってわけか…」
「はい、ギガ、テラ、ペタ、エクサ、そしてゼタが10の21乗です」
「……ゼタか………その上ってある?」
「10の24乗でヨタがあります」
「………まさに、ヨタ話だな」
「与太とは知恵が足りない者、役に立たない者、愚か者を意味します。または、でたらめ、ふざけた、くだらないこと、ですね」
「…………ほたる的…いや、オヤジギャグに真剣な解釈しないでくださいよ」
何にしても、あの人は娘をオレに盗られるのが、ギガのギガ倍でも足りないくらい心外だってことだ。
「……まずはユカリを見つけないことにはな」
「このさき、旅の結末はどうなるのでしょう……」
双海さんは肘かけにあるボタンを押してスチュワーデスを呼んだ。
「私はブランデーを頼みますが、鷺沢さんは?」
「オレは………ミネラルウォーターでいいや」
すぐに近づいてきたドイツ人スチュワーデスに双海さんは流暢なドイツ語で注文した後、オレを見つめてくる。その目がオレにもドイツ語を強要していた。
「え、っと……アイン・ステルス・ビッサー・ビッテ」
「発音は正確に、Ein stilles Wasser,bitte.です」
「ぅ……アイン・シュティレス・ヴァッサー・ビッテ!」
「カタカナではなく、原文を読んでください」
「…うう…」
すでにスチュワーデスもオレが「炭酸抜きのミネラルウォーターを一つお願いします」と注文していることは理解してるはずだけど、双海さんが厳しいお姉さんみたいに繰り返させるから、ドイツ語学習中なのがバレバレで微笑まれてる。オレは顔が赤くなりそうなのを抑えて、双海さんが示してる教科書の原文を読む。
「……Ein stilles Wasser,ビッテ!」
「bitte.」
「Ein stilles Wasser,bitte.」
「よろしい」
双海さんが頷くと、スチュワーデスが用意してくれる。
「はぁ~……、スチュワーデスさんって日本人だと思っていたのに…」
「全日空や日航に乗れば、日本人スチュワーデスが多いですよ」
「じゃあ、そうしてほしかった。双海さんって日本びいきじゃないの?」
「あなたの語学研修のためです。ドイツ人は、はっきりものを言わない人間を嫌います。何でも要求は伝えるようにしてください。以心伝心ということはありませんよ」
「ドイツ語かァ……」
「はっきり私も伝えておきますが、鷺沢さんに同行するのは大学の休暇中が限度です。それ以降はユカリさんが見つかっていなくても私は日本へ帰国しますから、その先は一人で捜索してください。それまでにドイツ語が話せるようになっていないと非常に困難かつ危険だと伝えておきます」
「うっ……」
「あなたに対して同情と、この旅の結末に好奇心を覚えて小説のネタにできないかと下心を持っていますから、お付き合いしています。ですが、通訳を雇うことを考えたら、悪い取引ではないでしょう?」
「…はい……感謝してます」
「ドイツ語では?」
「ダンケ」
「もっと丁寧に、かつ、発音を正確に」
「……、フィーレン・Dank・フュア・イーレ・ヒルフェ」
「正確に」
「Vi……Vielen Dank fur Ihre Hilfe.」
「Bitte schon.」
どういたしまして、か。
「大丈夫ですよ、一週間もドイツ語ばかり話していれば、そのうち脳内での思考もドイツ語になります」
「思考まで……」
「今は私も日本語で会話しますが、しばらくすれば次第にドイツ語でしかお話ししませんから覚悟しておくように」
「そんなァ……それじゃあ、双海さんが来てくれた意味が…」
「危険なときや、ユカリさんの手がかりを聞き逃されたときはアドバイスしますよ♪」
厳しく優しいお姉さんだ。ブランデーを呑むと、ほんのり赤くなっているのが、神秘的なくらいキレイな顔してる人なのに、ひょうきんなところもあって意外だったりするし。
「オレ、学校の成績も良くなかったから……ユカリほど頭も良くないし」
「人間の賢さには生まれつきの程度がありますが、語学は努力が第一です。習うより慣れろ、日本語が話せるなら、ドイツ語も話せます。健康な耳と口と、それなりの脳があれば誰にでもできることですよ」
紅茶を飲むようにブランデーを呑み干してる。
「紅茶は飲まないんですか?」
「機内でサービスされる紅茶は作り置きなので好きではありません。母の形見の魔法瓶も持ち込み禁止なので貨物室ですから」
「ブランデーは口に合うんだ?」
「酒類のいいところですね、保存ができ、誰がサービスしても大きくは味が変わらない。紅茶も日本茶も淹れるのに手間がかかり、その手順も楽しいのですが、狭い機内では難しいでしょう」
「こだわりかァ……」
「話を戻しますが、この鷺沢さんの旅は、どのような結末があると思いますか?」
「もちろん、ハッピーエンドだ」
「主観的には、そうでしょうが少し客観的に、いろいろなバリエーションを考えてみませんか? 退屈しのぎですから、深く考えずに」
「バリエーションって……どんな?」
「たとえば、ベルリンでユカリさんを発見できるにしても、その期間が三日なのか、三ヶ月なのか、三十年なのか、です」
「三十年は勘弁してください。オレ的には、いっそテーゲル空港の入国ロビーで見つかるってのが、最高ですよ」
「小説の結末としては、あっさりしすぎで弱いですね」
「オレの人生をネタにしないでくださいよ」
「ネタとして話してみましょう♪」
「……どうぞ、ご自由に」
「ここまでの旅でも、いくつもの結末があったじゃないですか?」
「たとえば?」
「マヒロさんと結ばれる、というのも選択肢としてはありえたでしょう。ほかに、ミヤビさんとの結末も悪くないでしょう。こんな風に発想を膨らませると楽しいですね?」
「客観的には、そうでしょうね」
「黒須さんとも悪くないです」
「勘弁してください」
「もっと飛躍すれば、静流さんとも♪」
「……超泥沼。しかも無理あるし」
「とまあ、ここまでの試練と誘惑に耐えてきたのは本当に立派です」
「誉めてるわけ?」
「これからの展開を想像すると、可能性としては私と結ばれる、というのもありますね」
「……酔ってる?」
「飛行機には酔いませんが、アルコールには酔います」
「シラフでいてくださいよ」
「まあ、可能性の話ですよ。あまり年下は趣味ではありません。弟のようで可愛くはありますが」
そう言いつつ頭を撫でてくれる。
「う~ん♪ 可愛いですね。ギュ~ぅってしてもいいですか?」
「ダメです、人を小動物みたいに扱わない!」
「お互いに、その気のない私たちが結ばれるとすれば……」
三杯目のブランデーを呑みながら、よからぬことを考えてる気配がする。
「たとえば、この飛行機が墜落し、しかも雪山♪ わずか数名が生き残り、助け合いながら救助を待つ、そのうちに恋が芽生える、というのも可能性としてはありますが、話の展開としてはムリがありますね。ここまできて旅客機墜落モノになるのは苦しい展開です」
「オレ、飛行機は初めてなんですから、墜落とか言わないでください」
「クルマより、確率的には、ずっと安全ですよ」
「安全でも! やっぱり飛んでるってことが不安なんですよ!」
「以前、飛行中にエアポケットに入り30センチくらい座席から身体が浮いたことがあります♪」
「怖い話を……」
「怖い話として考えるなら、雪山で結ばれた私たちでしたが、そこへユカリさんが現れる、というのもありですね」
「ユカリは、どうやって来るんだよ? 今でも連絡が取れないのに!」
「それは報道ですよ。飛行機が墜落すれば、世界的に報道されます。しかも、これはドイツの航空会社の旅客機、ドイツ国内でも大騒ぎになるでしょう。ユカリさんがベルリンにおられるなら駆けつけてくれるかもしれません」
「……よく考えるよ、ほんと…」
「ユカリさんが現れたことで私は身を引きますが、実は山小屋での一回のことで私は妊娠していた、という展開は?」
「また妊娠ネタかよ?!」
「では、いっそミヤビさんが妊娠していて、ドイツまで訪ねてくるというのは、どうでしょう?」
「雅とはしてないし!」
「逆舞姫のようで面白いと思ったのです。ちょうど、森鴎外もベルリン滞在での実体験を記して処女作にしたのですから。処女作でネタが妊娠とは日本の文豪もオヤジですね」
「オヤジなのは自分だろ?!」
「では趣向を変えて、ユカリさんとの結末を考えてみましょう」
「最初から、そうしてくださいよ」
「まずはバットエンドから」
「………聞きたくないなァ…」
「とりあえず、見つけたはいいのですが、すでにユカリさんはドイツ人男性を結婚していた。というのは?」
「論外」
「ユカリさんとお会いしたことはありませんが、無さそうなことではありますね」
「だったら、言うな」
「では、ロミオとジュリエットなんて、どうです?」
「そういうのなら、いいかも」
「……………。ロミオとジュリエットを読まれたことがありますか? 結末を知っていますか?」
「知らない。なんとなく、激しく愛し合う、くらいしか。あ、あと、家に反対されるとか」
「ロミオとジュリエットの焼き直しで語るならば、ユカリさんの居所を見つけたものの、親に閉じこめられていて高窓からしかお互いを見ることができず、思いつめたユカリさんは仮死状態になる薬を飲み、火葬場から逃げだそうと計画します。しかし、仮死状態になったユカリさんを見つけたロミオ…いえ、あなたは本当に死んでいるのだと思い、来世での蜜月を誓って自ら切腹し果てる。しばらくして、目を覚ましたユカリさんは切腹している恋人を発見し、やはり来世での逢瀬を誓って喉を突いて果てる、という悲劇の展開です」
「………却下……、ユカリなら、マジで仮死状態になる薬とか準備しそうだし、シャレにならない」
「もう少し現実的に考えましょう」
「………」
「まず、大前提としてユカリさんがベルリンにいるか、いないか、です。ベルリンには二つの空港があります。テーゲル空港とテンペルホフ空港です。うちテーゲル空港はベルリン北部にあり、この点からベルリン市の北側に絞ることもできますが、空港からの移動を広く考えると、ベルリン市に限定せず、隣接する他都市にも可能性があります」
「日本でいうと成田で降りて、神奈川にいるみたいな?」
「そうです。高知で降りて青森にいることはないでしょうが、愛媛にいることはあるでしょう。よって、約300キロ圏内の都市、ドレスデン、ライプリヒ、デッサウ、ポツダム、ロストック、シュトラールズントが候補地です。ただし、このうち、ライプリヒはフランクフルト寄りにあり、独自の空港もあることから除外してもいいかもしれません」
「…なるほど……」
変なことばっかり言うから後悔してたけど、やっぱり、この人に同行してもらって正解かもしれない。
「まずはベルリンですが、他都市の可能性も捨てきれませんよ」
「効率よく捜すとすれば、ざっとベルリンを回ってから、他の都市を一巡して、それからベルリンを隅々まで捜すのが、いいかな」
「ですね」
ドイツの地図ではベルリンは北部だ。フランクフルトは中央だから、これより南を捜す意味は無さそうだ。
「これでユカリが南のミュンヘンにいたら、仙台で降りたのに福岡にいるみたいなもんだからな」
「東京都から日本人であるユカリさんを捜すのは砂浜で砂粒を捜すようなものですが、ベルリンで日本人を捜すのは砂浜で野球ボールを捜すほどには可能性はあるでしょう」
「………人口300万か…」
「写真で見る限りユカリさんの髪の色は、ドイツでは薄い色の人種が多いので目立ちにくいですね。これが、陵さんだったなら市内で有名人になっていたかもしれませんが…」
「いのりはな……見つけやすいよな…」
あの黒髪で、あの長さだ。千羽谷でも浜咲でも有名人だった。これがドイツなら、もっと有名になるだろう。ユカリの髪は金髪に近い色だし、瞳の色も青っぽい。
「けど、見つけてみせる」
「頑張ってください。応援します。まずはドイツ語習得から」
「……はい…」
残りの時間をドイツ語会話に費やしているうちに、飛行機は着陸してフランクフルト空港で降りる。今度はテーゲル空港への便を待つために空港内のロビーで時間を費やすことになる。
「………ここがドイツか……」
飛行機から降りてターミナルへ進むと、日本人の比率が減る。もともと成田発だったけど、半分くらいは外国人が乗ってたし、空港内は100人に1人も日本人っぽい人はいない。ほとんどがドイツ人っぽい顔してる。けど、空港の設備も、大きな窓から見える空も、見慣れた感じがする。
「ドイツっていっても……変わらないな」
「空港は似たような造りが多いですからね」
「でも……全部、ドイツ語なんだ」
「英語もありますよ」
「……あるけどさ……」
案内板も広告も、ほとんどがドイツ語だ。英語も併記されてるけど、日本語なんて無い。くっ……駐機してる全日空の青いラインと「全日空」って漢字が目にまぶしいぜ。
「免税店で何か買いますか?」
「双海さんは?」
「とくに欲しいものはありません」
「オレも……せいぜい、小腹が空いたくらいかな」
「では、名物のフランクフルト・ソーセージでも食べましょうか。買ってきてください」
双海さんはユーロ紙幣とドイツ語の教本を渡してくれる。つまりオレが店員とドイツ語で会話してソーセージと飲み物を手に入れてこい、というわけだ。
「いってきます」
オレは緊張しつつも、何とか店員との会話を乗り切り、ソーセージ2本とコーラと赤ワインを手に入れることができた。
「ふ~っ……汗かいた…」
「注文通り、上出来ですね。やれば、できるじゃないですか♪」
「師匠のおかげですよ」
「あちらで座って食べましょう」
広いフロアに並べてあるベンチに座って食べる。
「英語の学習は中学校からされていたのでしょう? すぐにドイツ語にも慣れますよ」
「そんなこといっても、英語とドイツ語って、ぜんぜん違うよ」
「両者の違いは方言程度です。日本でも関西と関東で変化しますが、鷺沢さんは関西人の言葉を理解できませんか?」
「できるけどさ…」
「関西語の変化に比べたら、英語とドイツ語は簡単ですよ。たとえば、ワタシという意味の英語はIですが、ドイツ語ではIchです。簡単じゃないですか」
「一人称は、そうだけど文章になると…」
「ペンをお持ちですか、は英語ではDo you have a pen?ですが、ドイツ語ではHaben Sie einen Kugelschreiber?となり、とても似ていますよ」
「……方言と言うには、違いすぎない?」
「関西語では、ワタシはウチ、ワタシタチはウチラになりますよ? 一文字もあっていないではないですか?」
「それはそうだけどさ…」
「それはそうだけどさ、も関西語では、せやけどな、と表現されますね」
「語尾にネンとか、ヤとか付けたら誰でも喋れるって」
「そんなことはありません。関西語の変化は多彩です。という文章に単純にネンとヤを付けると、そんなことはありませんねん、関西語の変化は多様ですや、となり怪しい言葉になりますね?」
「…………」
「何よりそろそろ、関西語いいなっ関西弁じゃ、というツッコミが欲しいところです」
「……………………」
わかってて言ってたのか、この人は底が知れない。気がつけばオレがソーセージを買ってた間に、別の売店で文庫本を手に入れてるし、しかもドイツ語なのに日本語と変わらない速度でペラペラと読んでる。
「双海さんって、何語が一番得意なの?」
「海外では、ほとんど英語で会話してきましたが、やはり日本語とフィン語ですね」
「フィン語?」
「フィンランドの言葉です。正確にはスオミ語の方です。サーミ語も話せますが、あまり使いませんね」
「それって、フィンランド国内に別に言葉があるってこと?」
「そうです。サーミ語はアイヌ語のようなものだと思ってください。ちなみにフィランドはスウェーデン王国時代の支配が長かったためにスウェーデン語も公用語です」
「色々あるんだねぇ……はぁぁ……」
オレはタメ息をついてコーラを飲み干した。話しながらソーセージも食べきっていたので、もうすることがない。あとはドイツ語の教本を眺めるか、眠っておくくらいだ。飛行機の中は揺れなかったけど、やっぱりジェットエンジンの音が気になって熟睡できなかった。今は地面に足が着いてて静かだから今のうちに眠っておこう。
「……ふ~……」
そう思って目を閉じていたのに、五分もしないうちにオレの目蓋が手で押さえられた。
背後に人の気配を感じる。
「……………………あのぉ…」
「…………………」
このシチュエーションは、つまり「誰ぁ~だ?」というバカップルのコミュニケーション手段だ。いのりも何度かやってくれた。
双海さん、オレに気がないって言ったくせに、いつのまにか惚れてくれたのか。
と、自惚れなことを妄想するより、もしかしたら、お国柄に合わせて、やたらフレンドリーな性格設定に変化したのかもしれない。日本だから大和撫子風だったけど、ドイツではドイツ少女風に、妙に馴れ馴れしくスキンシップするけど言うことはハッキリ言うような性格になるのかもしれない。案外、日本国内でも関西に行けば関西弁を喋るのかも。
「……………………」
「……………………」
関西弁を喋る双海さんか………想像できるような、できないような。木瀬さんが標準語だったら木瀬さんじゃないように、双海さんも激しく性格が変化したりするのかも。
「………」
「………」
とりあえず、つっこんでおこう。
「双海さん、こんなことして何が楽しいんですか?」
「…………」
「私ではありませんよ」
前方から双海さんの声が聞こえる。そういえば、オレと双海さんはベンチに並んで座らず、テーブルを向かい合って着席したから背後から目を押さえることはできない。
「………」
「…………」
となると……いったい、誰だ? オレは思わず目を押さえてる手に触れた。
「「………」」
女性の手だ。
ここはドイツ、この世界でオレに、こんなことをする人間を他に思いつかない。
「……やっと……」
「………」
「………やっと…会えたな」
胸が熱くなってくる。
心が震える。
「…会いたかった…」
「……」
コクッと頷いてくれる。
やっと会えた。
「ユカリ!」
オレは答えると同時に振り返って抱きしめた。
「ふもっ?!」
「ユカリ、やっと会えたな。ユカリっ!」
「ふももっ?! もひうっ?!」
ユカリが意味不明な泣き声をあげて暴れるから、オレは微笑んで見上げた。
「何を言ってるんだよ、ユカリ……………………………ほたるさん?」
「ふももうっ! …離して!」
ほたるさんは口に頬張っていたフランクフルト・ソーセージを右手で抜くと怒る。
「一蹴くん! 離して!」
「……………………どうして、ほたるさんが、ここにいるんですか?!」
「それは、ほたるのセリフっ! 早く離して! 一蹴くんのエッチっバカっ! ねっとりスケベ!」
「…あ……」
喜びと、あまりのショックで抱きしめたままだった手から力を抜いた。しっかりと顔には、ほたるさんの胸の感触が残ってたりするけど……ねっとり、…って。
「…オレは……」
「お知り合いですか?」
「……いのりちゃんは? この人、誰なの? まさか、新しい恋人さんとか?! っていうか、………どうして、泣いてるの? 一蹴くん」
「……っ………………別に…」
言われて袖で顔を拭いた。誰のせいだよ、オレは本当にユカリだと思ったんだ。だいたい、双海さんを新しい恋人だと思うなら、目隠しとかするなよ。なにより、いのりとは別れたってことは知ってるはずだろ、いちいち無神経なんだよ、あんたは。いのりと別れた直後だって、いくら久しぶりに帰国したからってノロケ話をデレデレ………くっ。
「……一蹴くん……怒ってる?」
「………別に…」
「………」
「お知り合いのようですが、どのような関係なのですか?」
「へ? ……あなたは? …あ、私は白河ほたるといいます。一蹴くんとは日本で友達でした」
「私は双海詩音と申します。今は彼の翻訳係とアドバイザーをしています。鷺沢さんとは友人関係です」
「そうですか、フタミさん……どこかで、ほたると会ったこと……あるかな?」
「寿々奈鷹乃をご存じですか?」
「あ、うん! 知ってる! 高校で同じクラスだったよ! 友達だよ!」
「鷹乃から色々とうかがっています」
「エヘ♪ それって……ピアノのこと?」
「両方です。校庭ジャックもピアノの技巧も、去年の演奏会を鷹乃から誘われていましたが、都合で聞き逃しました。今年も帰国されるところですか?」
「うん♪ ……でも、一蹴くんのお友達で、鷹乃ちゃんのお友達なら、ほたるのお友達ともだよね♪ 友達の輪っ! みたいな?」
「………、その珍妙なポーズは何ですか?」
「ほたる的ポーズなのだ♪」
「そうですか」
「う~………歳も近そうだし、せっかく外国の空港で出会えたんだし、もっとうち解けてほしいなぁ~。丁寧語じゃなくて、一期一会みたいな?」
「いつも私は今の通りです」
「そうなの? なんだかスマしててお近づきにくい感じ。せっかく、奇跡みたいな確率でフランクフルトで会えたんだよ?」
「フランクフルトはヨーロッパのハブ空港です。ベルリンへ行く私たちと、ウイーンから帰国される途上で会うことは珍しい偶然ではありません」
「ハブ空港? ハブが使う空港だね。にょろにょろ~びゅ~ん♪」
「…………。沖縄諸島に分布するクサリヘビ科の毒蛇は無関係です。ハブ空港とは拠点空港のこと、hubとは車輪の中心という意味です」
「う~っ……よく、ほたるがウイーンからの途中だって、わかったね?」
「鷹乃からウイーン留学のことは聞いています。それにしてもウイーン王立音楽学校も、変わった生徒を入学させたものですね。お笑い学科でも創設したのでしょうか?」
「あ♪ それいいね♪ ほたるも、お笑い学科がよかったよ。ピアノ科は大変だよ毎日毎日練習ばっかり」
「お笑いの道も容易ではありません」
「用意しないと容易でない? よぉ~い、どん♪」
「………………。Gehen Sie mir aus dem Weg!」
「………ほたるのこと、うっとおしい? 今の、近寄らないで、って意味だよね?」
「言ったとおりです。姉が無節操なら、その妹も推して知るべし」
「っ! ほたるのことは悪くいってもいいけど、お姉ちゃんのことまでっ!」
「事実に基づく批評です。知らないのですか? 結婚もされていないのに妊娠されたのですよ。これを無節操と表現するのが日本語の正しい使い方です」
「デキチャッタ婚するのは知ってるよ! でも今のは許せない!!」
「許せないなら、決闘で。幸い、ここは入国審査前の治外法権空間です」
「…………殴り合いなんて、しないもん! お姉ちゃんのこと謝って! そしたら許してあげる!」
「是非に及ばず候」
「はっ? なに言ってるの? ドイツ語?」
「一戦辞さず、日本語の意味も分からないのですか。無知で無節操、いまだ紅茶のことも不勉強な姉とそっくり、せめて勇気があるなら挑んできなさい」
「っ、またっ! またお姉ちゃんの悪口いった!!」
「言いましたよ。妹の恋人と寝るような女は無節操ですから」
「はぁっ? 健ちゃんのこと? どうして健ちゃんが出てくるの?」
「あら、情報不足のようですね。ご結婚されるのは、あなたの恋人とです」
「何言ってるの?! お姉ちゃんは店長さんと結婚するの!!」
「結婚されるのは田中さんとですが、お腹の子供は伊波さんとの…」
「Aufhoren!! これ以上は本気で怒るよ!! ひっぱたくから!!」
「どうぞ」
「………、……わかった。はは~ん♪ フタミさん、一蹴くんのこと実は好きなんでしょ? ほたるが目隠ししたから怒ってるんだァ。先に手を挙げさせて、思いっきり反撃するつもり? それとも、一蹴くんに泣きつく?」
「戦略は肯定ですが、動機は見当違いです。私は鷺沢さんを友人だと思っていますが、さきほどの行為は、ただの友人としても不愉快だから決闘を挑んでいるのです。受けなさい、大根女っ! 校庭で恥知らずに叫べても、一戦する勇気もないとは不甲斐ない」
「…ダイコン……ほたるはダイコンじゃないもん!」
「ほたるさん、双海さん……もう、やめてくれ。オレ、気にしてないからさ」
「「………………………」」
「オレが勝手にユカリだと勘違いしたんだ」
「一蹴くん……ユカリちゃんって、あのユカリちゃん?」
「そうだよ………ほたるさんは知らずに出国したから……オレ、いのりと別れた後、ユカリと付き合ってるんだ」
「……」
ポテっ………ころころ…
ほたるさんが右手に持っていたフランクフルト・ソーセージを落として、転がした。
「…………ほたるの記憶が……正しければ…………ユカリちゃんと………一蹴くん……って、……家族じゃなかった?」
「義理の妹だよ。長い話になるけど…」
ここまでの長い話をオレは語った。幸か不幸か、飛行機を待つために時間はたっぷりあるし、何よりオレのために、ほたるさんと双海さんを不仲にしたくないから。
ユカリを捜すため長い旅に出て、とうとうドイツにまで来たことを語り終えると、ほたるさんは同情して泣いてくれた。
「ごめんなさい、…ほたるがイタズラしたから、ユカリちゃんだと思ったんだね…。…ごめんなさい…一蹴くん…」
「いえ、もういいんです。いくら何でも、こんな簡単に見つかると思うオレがバカだったんだ。まだ、ドイツに来て一日も経ってないし」
「さきほどは失礼いたしました。らしくもなくカッとなり、ご家族を誹りしこと、お詫びします」
「フタミさん……」
ほたるさんは差し出された新しいフランクフルト・ソーセージを受け取った。
どうやら和解成立みたいだ。
「オレからも説明しとくけど、さっき双海さんが静流さんの妊娠どうのとか言ったのは、カナタと三上くんのせいだしね」
「カナタちゃんの?」
「いのりが妊娠してるってウソをつくときに、静流さんの本当の妊娠を利用したんだよ。母子手帳までそろえてさ。ヌシとのデキチャッタ婚なのをウソでかためて」
「……カナタちゃんと三上くんなら、……やりそう」
「伊波先輩まで協力させて、いのりとオレがヨリを戻すように説得してきたんだ。カナタが主謀で。……カナタのヤツ、いのりにメチャクチャ味方してたな……」
「あの二人は、不思議と小学校から仲が良かったみたいだよ。にしても、お姉ちゃんと健ちゃんのデキチャッタ婚なんて、ちょっとシャレになってないかなっ! む~っ、帰ったら言っておかないと」
「黒須さんと違い、私は鷺沢さんに肩入れしていまして、思わず白河さんにケンカを売ってしまいました。Wie geht es Ihnen?」
「Danke, gut.フタミさんって、もしかしてドイツ人とのハーフ? 自然に会話に混ざってるよね? うちの学校でもハーフで英語とドイツ語をチャンポンして会話する子いるよ」
今の会話は「ごきげんいかが」に対して「ありがとう、いいよ」だったけど、二人とも発音が完璧だった。ほたるさん……さすが、留学三年目。
「いいえ、祖父がフィンランド人で、私はクォーターです」
「きゃー♪ カッコいい」
「前々から気になっていたのですが、どうして小学校では差別されたのに、高校になると急にクォーターを高く評価してもらえるのでしょう? まるで株価の乱高下です。たった数年でフィンランドへの評価が変わったとも思えないのですが」
「だって、北欧って感じでカッコいいもん」
「北欧ならば、アイスランド、デンマーク、ノルウェー、スウェーデンも北欧ですよ」
「う~ん……フィンランドは、こう、フィ~って感じでカッコいいし」
「「フィ~………」」
それから先は、ほたるさんによる日本語とドイツ語とオヤジギャグのコラボレーションだった。ほたる的ギャグinドイツその一「クラゲを配れ」クラゲがQualleでクヴァレだから。その二「鷹乃ちゃんが初恋だって♪ 春け?」鷹がFalkeでファルケだから。
寒気がするほど、くだらない。
なのに、バカ笑いする人がいた。
「キャハハッハハッキャハハハッハッ♪」
笑ってる。
双海さんが笑ってる。
超くだらないオヤジギャグで。
「かわうそ、おったー♪」
「アハハハハハッ♪」
「………」
かわうそがドイツ語でOtterでオッターだから。
「ウナギは、どこに、あーる? いーるやっちゅーねん! 日本語ちゃんとつかえ!」
極めつけはウナギがドイツ語でAalでアールなうえに、英語ではeelでイールなことに引っかけたゴテゴテのダジャレだったけど、見事なまでに双海さんの琴線に触れたみたいで爆笑だった。わからない人たちだけど、ほたるさんも日本語を母国語としながらドイツ語を、しっかりわかってくれる人へのネタとして三年間温め続けてきたのを心ゆくまで披露できて大満足だったみたいだ。おかげで打ち解けたみたいで、双海さんの態度も柔和になってる。双海さんは3杯目の赤ワイン、ほたるさんも4杯目のビールを呑みつつ、オレの肩を抱いた。
「だ~いじょーぶ♪ ドイツ語なんてダジャレで覚えれば、すぐだよ♪」
「その通りです。いい国つくろう、澄空幕府♪」
「ドイツ語は年号じゃないんだから」
「ほたるも、鰻丼いっぱい食べたかったなァ」
オレの話、聞いてないし。なのに二人ともオレの両サイドの耳元で喋ってる。
ワインとビールと二人の香りで、オレまで酔いそう。
両手に花だけど、あだ花だ。
「お味噌汁、恋しい~♪ 日本酒、呑みてぇぇ~♪」
「食事とか、やっぱり合わないんすか?」
「紅茶さえあれば、パンがなければケーキを食べればいいのです♪」
「ムチャクチャ言ってるし」
「ほたるね、思うんだけど、オーストリアとオーストラリアは合併するべきだと思う!」
「チェコスロバキヤがチェコとスロバキヤに別れた反対ですね? では、オーストレリアくらいで?」
「ううん♪ オーストルリア!」
女三人寄ればかしましい、っていうけど、女二人酔えば十分かしましい、意味不明な盛り上がりの後、ほたるさんは全日空で成田へ、オレと双海さんはルフトハンザ航空でテーゲル空港へ、旅立った。
ベルリン一泊目、テーゲル空港からバスで市内に入って、まずホテルをとった。もう外は暗くなりかけていたし、残念ながら今日は飛行機疲れもあって、眠ることがベストだろうと判断した結果だけど。
「………………………」
「………オ…オレ、変なつもりはないですよ!」
「…………………………………………」
じっとりと双海さんが不審の目でオレを睨んでくる。
オレがフロントで頼み、二人で泊まることになった部屋のベッドがダブルベッド一つだからだ。一つの部屋に泊まることは事前に合意してたけど、もちろんベッドは二つのつもりだったのに、なぜか、こうなった。
「じゃあ、オレは床で寝ます!」
「な~るほど、こうやってマヒロさんもミヤビさんも撃沈したのですね?」
「してないし! まだ酔いが醒めてないでしょ?!」
「酔わせて…」
「勝手に酔ったんでしょうが!」
「呑みすぎたのはァ~♪ あなたのせいよっ♪ そんな民謡が日本にありますね」
「民謡じゃなくて演歌だ!」
「では、私も指摘しておきますが、ツインルームはdas Zweidettzimmerです。そして、ダブルルームはdas Doppelbettzimmerですよ。せめて、数字くらい使いこなしてください。eins! zwei! drei! はい、10まで!」
「アインス、ツヴァイ、ドライ、フィーア」
「発音を正確に」
「ァ…eins zwei drei vier funf ゼクス」
「sechs」
「sechs siben acht ノイン」
「neun いちいちガンダムキャラだけカタカナ発音しない!」
「うぐっ…」
この人は角川文庫なんて、全部読んでるんだろうさ。
「私がシャワーを浴びている間に、100まで繰り返し数えていてください」
「Ich verstehe.」
わかりました、とオレがドイツ語で返答すると、双海さんは微笑んでくれた。やっぱり酔っても、厳しくて優しいお姉さんだ。マジメに復唱していたオレに湯上がりの双海さんは「ご褒美です」と言って、フランス語で3がtroisであり、4がquatreで、それぞれトロワとカトルと発音すると教えてくれたけど、それがご褒美なのかは微妙だった。あまり嬉しそうでないオレに「三上さんと西野さんは深く感動してくださったのに…」と双海さんは物足りなさそうだったけど、それは、その二人が特殊な趣味の持ち主だからだと、教える気力はなかった。