「これから貴様は本田と名乗れ、向こうが適当な経歴も作ったそうだ、ふん、余計な真似を。」
そう言って紙を投げ渡された。本当に適当である、どんな阿呆でもとっさに言える内容しか書いていない。スパイ養成学校―Ⅾ機関への出向を命じられたはいいが、髪が伸びるまで自宅で待機しろとのことだ。それでは暮らしていけないし、退屈だ。半年何もせずに生きていけるほど、お金に余裕のある倹約家でも吝嗇家でもない、軍人は休業、いい機会だ適当に働いて遊ぼうと決意した。
「ところで武藤大佐、半年間自宅待機ではどうにも暮らしていけそうにないので、どこかで働いてもよろしいでしょうか。」
「莫迦な!貴様は名誉ある帝国陸軍の参謀本部、中尉であることを忘れたか!その立場を忘れ地方人として働くなど!」
幸い、この莫…短絡的思考回路の持ち主である上司の不祥事はいくつか握っているし、実際もみ消してきたのは他ならぬ俺である。適当に言いくるめて納得させた。
「くっ……、せいぜい軍人だとばれないように働け、そしてくれぐれも俺の顔に泥を塗るような真似はするなよ」
大佐の広いでこの血管が切れそうだ。そんなに恨みがましい目でこちらを見なくてもいいのに。俺はにっこりと笑って言った。
「もちろんです、ありがとうございます。やはり持つべきものは話の分かる上官ですね、自分は大佐のもとで働けて幸いです。」
言質はとった。持つべきものは上司の弱みと都合のいい金づるである。ついでに背広の料金もたかっておくことにした。さて、せっかく先方が地方人本田の立場を用意してくれているのだし、短い間ではあるが大いに利用し、楽しむ心算だ。
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「本田と申します。何かと不慣れなことが多いとは思いますが、これからよろしくお願いいたします。」
笑顔100%でお辞儀をした。目の前の魔王と呼ばれる男を見る、影のような男だ、全くもって表情が読めない。そんな男にじっと見つめられ背筋の凍る思いがする。
「それで、貴様が参謀本部から派遣されてきたスパイというわけか」
「いいえ、自分は一連絡係にすぎません、スパイなどとだいそれたことは…」
結城中佐はニヤリと笑った。右手に白い手袋、杖をつき、左足を引きずっている。中佐自身優秀なスパイであったが、敵国に売られ拷問された、らしい。
あの手袋や背広の下にはおぞましい傷跡が残っているのだという話を聞いたことがある。敵国に売られたのにも関わらず生きてこの国の陸軍の諜報機関にいるのは非常に矛盾している。噂を丸呑みにする気はないがこれは中佐自らが流した噂ではないかと考えた。
俺の特技は人間観察だ、この半年間していた仕事でさらに鍛えられた。だが、それを持ってしてもここまで底が知れない人間を初めて見た。こんな生まれる時代と場所さえ選べば真正の魔王になれるような人が、自らの弱点を表面に出しているとは思えない。
―どこかしらにハンデを負っているのでなければ、あのように振る舞う必要はない。怪我をしているのは本当だろうが、左足と右手ではないのは確かだな。右足でもないだろう、機動力の無い兵など木偶にも劣る、スパイとなるとなおそうだろう。となると…
さりげなく、全身を見つつ左手を見た、注視はしていないが魔王は低く笑った、さっそく元の職場に帰りたくなった、本当にいい上司だな、武藤大佐は。たまに暴走するけど基本的には扱いやすくって。
それから、Ⅾ機関の選抜試験に立ちあった。陸軍学校では絶対しないであろう興味深い試験内容であったし、その後の講義や訓練も見とり稽古として吸収できるものがあれば知識としてどんどん頭に入れていった。
訓練生はトンデモ人間ぞろいであったが、俺も一般的軍人からはだいぶ外れている自覚はある、知識欲や好奇心が大いに刺激され充実した毎日を送っていた。まぁ、寒中水泳などの訓練は頼まれても絶対したくないが。
厳しい訓練の終わった後、訓練生たちは夜遊びに向かう、本当にうらやましい限りだ、大佐のもとに帰ったらここまで自由な時間は取れないであろうし、ここぞとばかりに便乗して夜の街に出た。訓練生たちとは別行動である。
「結城中佐、髪が伸びる半年間働かせてもらっていたところに週に何度か手伝いに行ってもよろしいでしょうか。店長に泣きつかれまして」
何の仕事だと聞かれ、給仕だと答えた。嘘はついてない。許可をもらった俺は週に何度か夜に出稼ぎに行くことにした。かなり割のいい仕事だし、正直天職だと思うから軍人やめたいと思っているのは心のうちに秘めている。軍人って職業は費用対効果が悪すぎる。
ある日の夜の事、食堂に水をもらいに来た俺は、訓練生たちが天皇制について議論を交わしているのを聞いた。そのまま立ち去りたかったが、やつらは俺がここを通っていることに気づいているだろうし、ここまで来て何も言わずに立ち去るのは不自然である。
よく聞こえなかったことにして入って、やつらが軍人である自分のために議論を誤魔化してくれることを祈ろう。考え事をしているふりをしながら、扉を開けて中に入る。
「本田さん、ちょうどいいところに。今、天皇制における正当性と合法性の問題について考察を深めていたところです。一緒に話しあいましょうよ」
三好、貴様、そうやつだよな。知ってた。
「畏れ多くも、現人神でいらっしゃる天皇陛下に対してそんなことを考察するとは不敬な。この日ノ本の民が日々暮らす糧は天皇陛下に賜ったものであり自分たちはそれに日々感謝して生きなければならないというのに。」
ちょっと棒読み過ぎた気もするがまあいい、部屋に戻ろう。振り返ると、そこには魔王が居た。気配もなにもない、黒い影から現れたような気さえした。ゲーテも驚きの魔王っぷりだ。
「どうした?続けろ。それと本田、陸軍軍人の良くできた模範解答だな、まるで教科書を読み上げたようだ。」
ものすごい皮肉を言われた。棒読みすぎたのかもしれない。
「いや、政治の講義の時何も言わずに聞いてたのにここぞとばかりにそれ言うのは無茶でしょ」黙れ、神永。
「まあ、権威としては十分でしょうね」
自分は軍人である、藪蛇だ、多くを語ることなく去るのが吉である。
あれから、ちょくちょく議論や夜遊びに誘われるようになった。軍人と見られるような真似をすれば罰金と言われ、お金をとられるのは嫌すぎるので一切していない。
わざと軍人っぽい真似をした方がいいのかと思ったがそんなことより魔王にわざとやったことがばれるほうが怖い。武藤大佐に対してはいくらでも誤魔化しはきくのでどうでもいい。
おかげで、軍という存在に対して厳しい態度であった訓練生たちから珍しいものを見る目を向けられる。そろそろちょっかいをかけられそうで嫌な予感はするが、お金には代えられない。今まで通りに過ごすことにした。
数日後、講義を終えて報告書を書き終えた俺は、食堂へ向かった。ポーカーに誘われ、まんまと煽られ乗せられて勝負することになった。後から考えるとやってしまった感満載である。
賭け事、特にポーカーに関しては強いプライドを持っていたのが仇となって、全力で挑んだ。こいつらがまともにポーカーをするとは思えないし、イカサマは見つからなければやり放題、そのつもりで深いため息とともに椅子に腰かけた。
確率計算が合わない、イカサマしているにせよ俺の手札の情報が流れている、カードに細工はしてあるように見えないので、周囲のやつらがグルということだ。なるほど、こいつらがやっているのは情報戦ということか。飛び入り参加で食堂に出入りするやつらを味方につけられるわけがない、が、
「カードゲームで負けるわけにはいかないな。リレイズ」
周囲のやつらのサインを読み取ることは難しいだろうが、こいつらは俺をはめつつ、互いにけん制しあっている。サインが全て真実なわけがない、だまし裏切り何でもありのはずだ。突くならそこだろう。
とりあえずもうそろそろ手洗いに行きたい、飲むと近くなるのは万国共通の自然現象だ。
翌朝、結城中佐に呼び出された、訓練生たちもいる。昨夜はやらかした。どう考えてもちょっと変な軍人という域を越し、軍人として生きていく上には全く不必要なテクニックと洞察力、その他もろもろ出してしまった。
「本田、貴様が軍人らしからぬ軍人とは武藤からすでに聞いていた。しかし、いかんせん度が過ぎているな。」
「あと何でそんなにカードゲームにこだわったんですか?」
首を傾げながら実井が問う。やめろ、貴様の腹の中が真っ黒なことはもう分かってるんだよ。
俺の人生設計が崩れていく音がする。武藤大佐を軍のトップまで押し上げ、うまいところだけを握ろうと思っていたのに。面倒ごとは嫌いなんだ。俺が洗いざらい吐いたら確実にスパイに勧誘される、拒否権なしで。表情には一切出さずグルグルと考えていたが、中佐に地獄のような顔ですごまれた。俺は自主的に正座をした。
「カードゲームの腕はどこで身に着けた」
「いえ、あの……はい。もともと得意ではありましたが、ここに来る半年間にカジノのディーラーとして働いていました。武藤大佐の許可もあります。」
ただし、カジノで働くとは言っていない。
「どこでだ」
「ここからは少し遠い、横浜方面にある場所です!」
「ほう、あそこか。外交官、政治の上役も多く集う場所だな。どうやって入った。」
「そうですね、最初は普通に客として入って勝ったあと、雇わないかと自分を売り込みました。」
ちなみに一見様お断りの店なので、最初に入るときは上役の娘さん口説き落として入った。ああいう場所に入る女性はすぐに相手をしてくれるので簡単に入れた。
客として入ったあとも場所が場所なので、雇われるためにはかなりの腕や有用性を見せなければならなかった。勝ち続けて腕を見せた上で外国語も堪能で知識も豊富です、カードゲームだけでなくボードゲームも得意です、今ならお買い得ですよと売り込んだ。そんな余計なことは言わないでおく。
「誰かに顔がきいたりするのか」
そもそも顔が効かなければ客としても入れないことがばれている。一聞いて百を知るという感じである、この魔王。
「………、はい、まあ何人かはですね。」
「…明日から訓練に参加しろ。いいな、それと出稼ぎは継続しておけ」
「えっ…自分がですか、いやで………はい。」
地方人本田を大いに利用した結果、調子に乗りすぎた。権力者の弱みを握ってゆするのは、俺の人生の基本方針だったが欲を出しすぎてしまったようだ。武藤大佐の下へ帰りたい。
俺の働くカジノ、まあ表向きはそうではないが、今後の安定した生活のためそこでお偉いさんたちの情報を探っていたら、予想以上にディーラーとして買われてしまい、顔が広くなってしまったのである。というかこの魔王、ある程度情報つかんでいたな?おそらく今回の件で確信を持てたという感じだろう。
どうしてこうなった。正直この魔王から逃げられる気はしないし、明日からあの地獄の訓練に参加させられるのか、自白剤の訓練だけは死ぬ気で絶えないと俺の人生本当に詰みだ。
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地方人のみを選抜するという方針であるⅮ機関において、陸軍中尉であるその男には居心地のいいものではなかったのではないかと思う。地方人のみが選抜試験を受ける、つまり軍人は使えないと判断されたも同然だ。自分ももとは生え抜きの陸軍将校であるが、それについては概ね同意だ。極寒の札幌での陸軍大演習の際に感じた軍に対する失望は、そう簡単に消えるものではない。実に非効率的、非現実主義的、非論理的な集団であると判断した。だからこそ、その特異さに他の連中よりは早く感づいていた。
まず違和感を覚えたのは、振る舞いだ、軍人とはとても思えない。結城中佐に軍人らしき行動をとった場合、罰金だと赴任した最初に言いつけられたと聞いたが、そんなものはなくても良かったのではないかと思う。貿易会社の社員と言われた方がよほどしっくりくる、人好きのいい笑み、ウィットの富む切り返し、何より地方人を馬鹿にした態度が全く見られない。当初は軍人らしい所作もところどころあったように感じたが、今となっては、あちらの方がよほど演技臭く思える。商売人が軍人の演技をしていたと言われた方が納得がいく。
他の学生たちもこの変人である中尉に興味を持ち始めたらしい、たまに話かけたり誘いをかけているところを見た。決定的であったのは、食堂で議論を交わした時だろう。あの男が食堂から去って波多野が結城中佐に訊ねた。
「本田さんの軍人らしくなさについて、中佐はどうお考えですか」
「やつは武藤の部下だ。武藤はあれで参謀本部の財布役だからな、しばらくは連絡係として励んでもらおう。それと今度貴様らのやっているゲームに誘ってみろ、煽ればやつは参加する。」
予算を取り付け次第、引き抜くという意味の言葉にも聞こえる。小田切は少しだけ楽しみに感じる自分を否定できなかった。
ジョーカー・ゲームで勝った時は正直目が点になった。一回手洗いに立った時周囲で見ていた候補生の1人を味方に付けたらしい。
手洗いから帰って来たあとタバコを1本貰うと共にその箱の中に札を入れた、他の候補生はタバコ程度しか賭けていないので喜んで味方したと見える。
そんな事をするとは誰も思ってなかったのでノーマークだった。甘利の味方、本人にすらそう思われていた田崎は貰ったお金分の仕事はきっちりしたようだ。場を錯乱させ見事勝ちに貢献した。
カジノのディーラーとして働いてたようだが、あれは誰にでもできる仕事では無い。ましてや凄腕となればカードの手腕だけでなく、話術や交渉術なんかも必須になる。
在日外交官や、豪商、政治の上役などが集う場所でそれらの人間関係が壊れないように場を支配し一方に勝たせたり負けさせたりしなければならない。
盗聴の危険性が非常に高い私的な場所なので込み入った話はしないだろうが、交渉や取引を円滑に進めるため友好を深める場でもあるのだ。ディーラー職をこなしていたと聞いただけで、何故この人は軍人をしているのだろうと思ってしまった。
正式にその男が訓練生として迎えられ、暫く時間が経たときである、元軍人のくせに身体の限界を訴えるような訓練のあとには、愚痴をこぼす。身体面こそが元軍人の利点であろうに、常々疑問であったそのわけを男は自白剤に対する訓練の際、こぼしてしまっていた。
他の連中も、結城中佐でさえも少し驚いていたように見える発言をしたのだ。
いわく、陸軍大学校時代、成績優秀であったため留学を許可されたのだが、せっかくの欧州なのに陸軍大学に留学するのは嫌だと考えていた。ちょうど留学先が近い未来に戦争の可能性が高く、大学内の士気を高めることを目標しており、外国人を軍エリートの養成学校に入れたくないという思惑や事情が重なり卒業証明などの書類だけ入手し、欧州を遊んで回っていたとのことだ。
留学費用は国から受け取って向かったが、その費用も2か月ほどでなくなり、多少危険な目にあいながらも翻訳、賭博、探偵の真似事など何でも屋のようなことをして食っていたそうだ。その時に金の大切さというものが身に染みたらしい。
本人は軍人なんかより他の職に就いている人の方がよっぽど尊敬できますよ、とも言っていた。軍人は命令を聞いとけばいいが、他の職は自分を売り込んだり、職にあぶれたり、能力を見せなければ生きていけないから、と言っていたがそれは何というか違う気がする。いったいどんな生活を送ったのか詳しく聞いてみたいところである。
「俺の想像をはるかに超える変人だったようだ。」小田切はあきれてつぶやいた。