軍人ではあるが、体力面に自身がない俺は、ナイフや体術の訓練で疲れが限界に達し、回復しないまま次の日の授業を受けることになった。
なぜ他のやつらは軍で鍛えられたわけでもないのにあそこまで体力があるのか理解できない。それらの訓練は小手先の技術だけでそれまでは誤魔化してきたのだが、案の定、結城中佐にそこを突かれた。
他の連中を次々と差し向けられて体力のなさが思いっきり露呈した、いつか雪山に突然放置され、しばらく生き抜けだとかと言われてもおかしくないなと毎日恐ろしく思いながら眠りについている。
顔に本心をださないことは徹底していたが、やはり眠かった。よりによって中佐の外国語の授業の際、居眠りをしてしまった。普段ならあり得ない失敗だが、体力がないことを他の連中に軍人のくせにとなじられ、普段以上の酒を煽ったのも原因か、普通の学生のように船を漕いでしまったのだ。
授業内容が外国語だったせいもある、連中よりは海外経験が長く、濃いであろう俺は外国語だけは、確実に負けていないだろうと自負していた。慢心や弱点を的確についてくる中佐の前で居眠りをしたのが運の尽き、様々な言語で話しかけられたようである、半分夢の世界に旅立ったままそれに応えてしまったようだ。
どこの言葉が話せるか、その言語力をどのような状況で、どこで身に着けたのかを推し量る鍵を与えてしまった。
本当のスパイであれば大失態である。例えばドイツ語はスイスで使われているものやベルリン、ウィーンで使われるものは異なる。
フランス語は上流階級の人間から学んだのか、それとも南のど田舎で学んだのかということが少しの発音や言葉の違いから看破することができるのだ。
田崎は綺麗なクイーンズイングリッシュを使う。それぞれ与えられたカバーを演じるⅮ機関では容易にそれを見抜かせてくれることはないが、ふと出る単語、言いまわし、発音、加えてフェンシングの強さ、ある程度どこで身に着けられるスキルかというのは推測可能だ。察するに奴はイギリスの大学で学んだ人間であろう。
言葉はその人間を見る上でそれほど重要な要素なのだ。目が覚めて、目の前を見てみると、中佐のあの地獄の冷気を感じさせるような気配でこちらを見ている。
表情も目も何も語っちゃいないのにどうして雰囲気だけでこうも人に恐怖を与えることができるのか不思議である。
さて、現実逃避はここまでにして自らの詰めの甘さと慢心を猛省することにしよう、特に注意しろとのお達しもあった。
──まさかとは思うが、このじじい、俺が居眠りさせようとして昨日の特訓をさせたんじゃないだろうな…あり得そうで怖い。
そんなこんなで色んなプライドをへし折られつつ、授業を受け様々な無理難題を何とかこなしていた。それに加えて連絡係としての仕事である。過労で死にそうになりながらも日々を過ごした。
Ⅾ機関の連中が一人前のスパイとして各地へ散っていくため、各々に最期の試験としての任務が課されているのを把握しつつ、自分にはそれがないことをやはりか、という思いで見ていた。
俺の立場は、非常に難しいものである。武藤大佐の部下としてⅮ機関へと赴いたものの、そこの学生たちと同様の訓練を受けている、そのことは武藤大佐には報告していない。
そして連絡係としては不十分な、適当な報告を上には報告していた、無論、そのことは結城中佐には筒抜けであろう。どちらにしても中途半端な自分の立場に言及されることも、何らかの指令を受けることも無く、俺はⅮ機関で学んだことをしっかりと物にし、ただ軍へと戻っていった。
中佐の意図が全く読めない、こう思うのは一体何回目であろう、釈然としないまま武藤大佐の部下へと逆戻りだ、俺は今後を生き抜く上で有用なスキルを手にし、武藤大佐を出世させる手段は以前より豊富になり、目的の達成にも近づいたはずだ。しかし、漠然とした不安感が消えない、後ろ髪を引かれる思いで学び舎を去った。
────
懐かしい過去を思い出したものだ、もう機関を去って2年にもなる。大佐の情報収集能力と先見の明には驚かされる、自身の今置かれている立場や自分のこの2年間を中佐はある程度予期していたのではないか、もしくはそうなるように俺が気づかないうちに誘導したのではないかと思う。
あの辛い訓練生時代を思い出したのだ、ついでにその後のことも振り返るとしよう。
武藤大佐のもとへ戻り、再び、いや前以上に大佐を思う通りに動かし順調に成果を上げてきたときであった。
風戸大佐が武藤大佐に再び声をかけてきたのだ。内容は簡単に言うと、風機関が成果をあげ、軍組織内での立場を高める、そのために、潰し合いが必須となるであろうⅮ機関の内情に詳しい俺を差し出せとのことだ。
それ以前にも風機関に入れと声をかけられ一蹴した俺である、が、前回とは状況が異なる。諜報機関に入り、逆にその立場を利用し、情報を享受する利について嫌というほど叩き込まれた。うまく信頼を勝ち取り、風戸大佐より武藤大佐を先に出世させ、その閥を作ることができれば武藤大佐が軍で幅を利かせる登竜門となるだろう。
そうして俺は風戸大佐のもとへ、武藤大佐のもとから出向という形で風機関へと行くこととなった。表向きは顧問として招くようだが、実際は情報源であろう、風機関の連中は俺からどれだけ情報を搾り取れるのだろうか。
───まあいい、面白くなってきた。
「躊躇なく殺せ、潔く死ね」
「死ぬな、殺すな」
これほど二律背反な組織があるだろうか、しかも業務内容は同じ諜報である、正直笑ってしまった。
曲者ではあるが、俺はただの連絡係だったと風戸大佐は考えているはずだ。つまり結城中佐のもとでみっちり訓練をこなし、教えを説かれたものだとは、風戸大佐は思いつきもしていないだろう。俺がD機関寄りの考えを持ち、それに基づいて行動しているなど露ほど考えていない筈だ。
天保銭組は使えない、結城中佐はそう言っていた。確かにそうかもしれない、凝り固まった思考回路や組織の色や癖、これらのものが出てしまうと一気に正体が暴かれる、煙のようにつかめない存在となるためには軍人らしくなさというものが必要である。
風戸大佐が風機関の訓練生たちを指導するのを横目で見つつ、俺はこの機関が軍組織内で確固たる立場を得ることの危険性を認識し始めていた。まず、スパイが逃げおおせず死体となって残ることの危険性、ある意味知らぬ存ぜぬでは通らない完璧な物的証拠が残ってしまう。
他国との公的な交流、西洋的な外交制度に最も必要なのは対話、理解、そしてプラスサム的な状況を作り出し、互いに利がある方向へと誘導・説得することである。それにはまず信頼が必要だ、軍事的手段や諜報などはそれまで努力し作り上げた信頼や合意を一瞬で瓦解させてしまう、その後の疑心暗鬼の状況は戦争を引き起しやすい。
───軍人らしさが残ったスパイなど自ら、文字通り火種をまき散らしているようなものだ。
スパイ一人が正体を暴かれる、そして何の情報が相手に伝わったか、どの情報は守り通せたか分からないまま死に、死体として残る……最悪だ。
死ぬな殺すな、軍人にそれは矛盾した言葉かもしれないが諜報機関であるならば心得ていてほしい言葉だ。
……おそらく、中佐はここまで読んでいたな。
D機関で教えを受けた俺が風機関を危険視し、暴走しないように画策するだろうと中佐は考えた。しかし、躊躇なく殺せ、潔く死ねという風機関のカラーだけでは、俺が行動を起こすには十分ではないとしてあと一つ手を打っていたようだ。
風戸大佐が武藤大佐に接近したのは軍内では周知の事実である。この二人が長く付き合っていくことの危険、つまり風戸大佐の失態を共同で着せられることで、武藤大佐の出世が妨害されるのは俺にとって非常によろしくない状況だ。
この二人の距離を離すにはなにかしらの「事故」か「不仲の証拠」が必要だろう、そのためには俺の手持ちのカードだけでは不足だ、Ⅾ機関の協力がいる。
そして協力を取り付けるために、見返りとして俺は風機関の情報を流す、または妨害工作を請け負うという形で互いに最大利益を享受できるということだ。
「すべては魔王さまの掌のうちってことですか…」
俺は両手をあげながらため息をついた。
───
のらりくらりと躱す俺にしびれをきらしたのか、使えるものは使え根性なのかどちらか分からないがこの阿呆、俺に仕事をふってくる暴挙にでた。風戸大佐、もしやと思うが多少、俺の事を信頼しているのか…。
俺ごときの上っ面に騙され信頼し始めているとすれば、現に魔王さまが率いているⅮ機関には逆立ちしても勝てない。
「貴様、Ⅾ機関に与えられた地方人本田という立場でカジノで働いていたそうだな。領事館の重鎮連中にも多少顔が利くようだ。」
「はあ。まあ、そうですね。」
「指令だ、英国領事アーネスト・グラハムに蒲生が接触させる、便宜を図れ」
「……了解いたしました」
地方人本田の出稼ぎがこんな形で役に立つとは思わなかった、おそらく狙いは白幡か。
彼は外交官として優秀であったと聞いている、貴重なイギリスへのパイプ役である。それに群がる連中を利用し情報収集するつもりなのだろうか。そこに目をつけるとは風戸大佐も捨てたものではないのかもしれない。もう少々様子を見てみるかと考え始めていた……のだが。
前言撤回だ。ただ、統帥綱領の盗読の疑いがかけられているという理由で白幡を追っていたようである。風機関の一員である蒲生は早速、風機関のイデオロギーに従って手を汚そうとするし、もう早めに機関を潰す方が良いだろうという結論に落ち着いた。
それにしても、白幡にたどり着く手がかりとして大佐が利用しようとしている森島とかいう書生、写真こそ見ていないが経歴の裏がよく出来すぎていやしないか。これでは白幡を探ろうとする連中はみな森島邦夫に近づいて脅そうとするだろう。少々嫌な予感がするものの黙っておいた。
ガタイのいい若い男がずらずらと料亭に集まって何がしたいんだこいつらは。頑なに天保銭を外そうとしないし、自分は軍人だという動かぬ証拠を持ち歩いてしまう不利益を考えてほしいものだ。
指定された料亭へと向かう、一応今回の任務は俺が一役買っているということで呼ばれたのである。これについて、Ⅾ機関へは情報は流していたもののなんの返答もない。もうそろそろ接触を図ってくるのではないかと思っていた矢先の事であった。
大佐が呼び出した森島というひ弱そうな青年を見たとたん、酒を吹き出しそうになった。もちろんそんな失態は犯さないが、表情は普段と全く変えずに、不自然にならない程度に森島を見る、きょどきょどとした様子ではあるが俺にしか分からないように横の部屋を見て合図を出した。
こいつらなら何があってもここにいる全員倒すか、騙して逃げることくらい余裕だろう、大人しくそれに従うことにした。
「すみません、少々酔いましたので外で風にあたってきます。俺がいない方が進む話もあるでしょうし」
「すまないな、そうしてくれ」
任務の内容に直接関わる話だ、完璧に聞かせることはしないだろう、俺としても詳しく任務内容に聞いておらず、利用されただけだ、という形をとれる方が後々都合がいい。
隣の部屋から出てきたスケベ親父とぶつかって何かを渡された、顔をあげ耳の近くでささやかれるまで気づけなかった、たれ目の優しそうな雰囲気をした……結城中佐である。
中佐の変装技術に驚愕したものの、地獄の訓練を思い出し、何もなかったかのようにその場を立ち去った。
───
中佐たちが普通に正面から白幡邸に入れるように少々手伝わされた。要するにおとり役を押し付けられたのである、風機関の連中は犬よろしく、見えた人影を白幡邸の者だとして追ってきた。
顔は見られないよう暗がりで神永と波多野が締め落とすのを確認した。さて、こちらではもうする事はない、邸内に行くとしよう。
「………!」
「これが陸大を出た天保銭どもの限界だということだ」
「貴様、陸軍中佐でありながら!」
足音と気配を極限まで消して、風戸大佐と結城中佐のいる部屋の前まで来た。何やら言い合っているようである。それを扉の外で聞いていると、森島がやってきた。こちらへにっこりと笑いかけてくるが、正直寒気しかしない。殺されてはいないだろうが、こいつを車で運び殺そうとした蒲生が不憫でならない。確実に一番損な役回りだろう。
部屋の外で報告をする実井と中佐、大佐の話を聞いていると銃声が聞こえてきた、大佐は中佐を殺そうとしてどうするのだろうか、後先考えない行動に遠い目になった。
料亭に居た中居に白幡に電話するように誘導したのは中佐だろうに、性格の悪い、中居にですら軍人だと気づかれていた、と言うことでことごとくプライドを破壊する始末である。
直接見てはいないが、大佐がどんな顔をしているのか容易に想像することができる、ついでにガラガラと何かが崩壊でする音も聞こえてくるような気もする。俺も散々破壊されたものだ、強く生きて欲しい。
「貴様、天保銭の意味を知っているか。形は大きいのに一銭にも満たない、外の社会じゃ木偶の棒の意味だ。ところがなぜか陸軍関係者の間でだけでは逆の意味で使われる」
中佐たちのやり取りを聞きながら不思議に思っていた。俺も一応陸大卒、軍内ではエリートコースを見込まれる天保銭の人間である。なぜそのような人間をⅮ機関の連中と同じように訓練に参加させたのだろうか。
「…しかし天保銭組の中でも使える者はいるようだ、髪を伸ばせ、という指示と簡単な経歴だけで、喜んで天保銭を捨て去り、経歴を膨らませた挙句勝手に地方人として出稼ぎにいくようなやつがな」
中佐に褒められて鳥肌がたった、慣れないことをしないでほしい。
中佐と実井は部屋から出て、こちらに一瞥を寄越しただけで外へと向かっていった。
それと俺は天保銭を完全に捨て去ったわけではない、状況によって使い分けているだけだ、出世のために必要とあればわざとらしく縫い付けた方の軍服を着て働くこともある。
今回の件で、完全に風機関の敗北が決定した。武藤大佐の部下のまま顧問として風機関へきて「利用されていただけ」の俺の経歴には傷はつかないだろう。
あと懸念事項であった、風戸大佐と武藤大佐の連座であるが、結城中佐はうまくやってくれたようだ。
武藤大佐と風戸大佐の間に軋轢があったと、軍本部に行くと其処彼処から聞こえてくる。
今回のことで出世頭のライバルが一人減った。武藤大佐にはこれからも大いに羽ばたいてもらおうじゃないか。一台残っていた車を失敬して気分良く帰路へと就いた。
───
実井は白幡邸の廊下を歩きながら結城中佐へと視線を投げかけた。
「なんだ実井、聞きたいことがあるなら聞け」
「いえ、中佐が本田さんのことを褒めるとは…少々驚きまして。本田さんの初対面の印象はどうだったのでしょうか。」
「…最初に俺に挨拶をしに来たとき、奴は軍人らしさというものを全く伺わせなかった。」
「それは僕にも想定外の事でした。軍人が来ると聞いて、その人が出すであろうボロの後始末、僕らの仕事が増えると思っていたものですから。」
「表情やしぐさ、体格だけではない。背広は使い古されているようなものを着ていた。事務仕事をしていたと思わせるよう、袖は少々汚れていた。加えて万年筆が入っていたのだろうと予測させるよう胸ポケットには少し皺がついていた。」
「…その軍人にしておくには勿体ない、本田さんを今後どうする予定で?」
実井としても、Ⅾ機関で訓練を受けながら軍へと戻っていったあの男のことは気になっているのだ。何を考えているかが分からない、最終的な目的こそ筒抜けであるが、そう思う理由、背景それらのものを一切伺わせてくれないのだ。
能力こそ遜色ないが、自分たちとは見ているものが違う。能力や自負心を己の拠り所としているわけでもない、自負心は強いがそれも柔軟である。確固とした芯が唯一分からなかった男だ。
中佐の口角が上がるのを見て、今後否が応にも彼とは関わることになるであろうと考え、これ以上中佐が話してくれる気配もないので話を切り上げた。
神永と波多野と合流し、今回の協力のお礼として、彼に一台車を置いていくことにした。中佐も他の二人もそれについて、何も言わずに狭い車内へと入っていった。