~ほむら視点~
風にたなびく後ろ髪を払い、私は宙に浮かぶ巨大な物体を睨みつけるように見上げる。
歯車から伸びる紺色のドレスを纏った逆しまの魔女。
私にとって、絶対に越えられない壁であり、絶望の象徴そのものである最悪の存在。ワルプルギスの夜。
見滝原へとやって来た奴は、すぐにこれから嘲笑にも似た泣き声と共にビルや家々を破壊し始めるだろう。私がこれまで見てきた時間軸のように。
今度は……今度こそは何としても倒さなければいけない。この時間軸は私にとって掛け替えなのないものだ。絶対に負ける訳にはいかない。
もしも今回負ければ、私が失うのはまどか。そして――。
私の、誰よりも大切な……。
「ほむら」
胸が締め付けられるような想いに思考が支配されていた私の肩が叩かれた。一瞬にして意識を戻すとすぐ隣にさやかが立っていた。
「さやか……」
「気張りすぎだよ、アンタ。戦う前からそんなんじゃ身が持たないよ」
水色の露出が多い魔法少女の衣装を身に着けたさやかは両手を頭の後ろで組んで笑顔を浮かべた。
気楽そうに見えるその顔に僅かに怒りが込み上げてきそうになるが、次の言葉で私の怒りはよりも遥かに安堵を覚えた。
「何たって、アンタは一人じゃないんだからさ」
一人じゃない。そうだ。今は私は一人ではなく、仲間が居る。
私と共に肩を並べて戦ってくれる頼りになる仲間が。
「そうよ、暁美さん。あなた一人が何もかも背負ってる訳じゃないのよ?」
さやかの後ろから顔を出したマミはその言葉に同調する。
誰よりもしっかりしているように見えて、臆病で、不安定だった彼女。
しかし、今ではそんな弱さはなく、初めて出会った時間軸よりもずっと頼もしく映った。魔女になるかもしれないという恐怖や一人で抱え込んでいた孤独を乗り越えて、マミは私の前に居る。
さやかもそうだ。上条恭介の失恋から立ち直り、再び歩き出した彼女はその真っ直ぐな心根を自分の武器に変えた。
この時間軸での精神的成長具合はマミよりも上だと思う。
二人ともかつては私が見捨てていた魔法少女だった。絶望に耐え切れず、暴走したり魔女になるような弱い女の子だとずっと見ていた。
彼女たちを変えたのもやっぱり政夫なのだろう。
何か特別な力を持っている訳でもない彼は彼女たちの心に踏み入り、そして、悩みや苦しみを解決に導いた。
その行いは私たち、魔法少女が使う魔法なんかより余程魔法のように感じられる。
「まさかもう負けた時の事、考えてるんじゃいだろうね? 暁美ほむら」
小馬鹿にするような笑みを
美国織莉子と一緒に私の方へ歩み寄って来た呉キリカは、嫌味な笑みを消すと眼帯の着いていない方の目で私を睨むとこう言った。
「本当に。本っ当に不本意だけど……お前は政夫の彼女なんだから。……しっかりしろよ」
「呉キリカ……貴女……」
呉キリカとはかつての時間軸では言葉さえ
一応の和解をした後も露骨な喧嘩こそなかったが、お互いに嫌い合い、不快に思い合っていた。
けれど、今の彼女は私を政夫の恋人と認めてくれている。その事実が私の心を震わせた。
うまく言葉にできない不思議な思いが胸の内側から込み上げてくる。
「そうね。ちゃんとしてもらわないと未練が残りそうだわ」
追随するようにその隣に居る美国織莉子も呉キリカに続いて私にそう言った。
「貴女までそんな事を言い出すなんて……どういう風の吹き回し?」
一番、私が政夫と交際する事を反対していた人間がいきなり肯定的な意見を吐かれると何かあるのかと勘繰ってしまう。
しかし、私の言葉に気分を害した様子も見せずに美国織莉子は苦笑を漏らしただけだった。
「そう言われるのも無理ないわね。今でさえ暁美さんの事は好きになれそうにないもの」
「だったら……」
何故、と私が問うよりも早く美国織莉子は答えた。
「まー君が選んだのが貴女だって納得できたからよ」
寂しげに私を見つめる彼女の瞳は、私の網膜を通して、私の中にある政夫への愛を羨んでいるように思えた。
ああ。そうか。
その瞳だけで美国織莉子という少女の本心が理解できた。
美国織莉子は、政夫へ異性としての好意を告げる事すらできなかったのだ。私と違って自分勝手に政夫を求める事を抑制していたのだ。
自分の立ち位置に縛られ、手を伸ばす事も許せなかった。
だから、身勝手に思いをぶつけて、政夫の恋人の座を手に入れた私の事を認められなかった。認めてしまえば、我慢していた自分が馬鹿らしくなってしまうから。
「後悔は、ないの?」
「まったくないって言えば嘘になるわ。でも、本当にまー君の事を想うなら、信じてあげるべきだと思えるようになったの」
そう言って、美国織莉子は微笑む。
とても真似できそうにないその強さを前に私は眩しさを感じた。
堪らなくなり、叫ぶように言葉が喉を突いて出てくる。
「約束するわ。……政夫は私が絶対に幸せにしてみせる!」
美国織莉子が言いたかったに違いない、この誓いの台詞を言い放つ。
それを聞いた織莉子は一度目を瞑った後、私の手を掴み、自分の胸の前まで持って行く。
「信じるわ。その言葉」
それまで黙っていた周りに居る他のメンバーが見守る中、私は――キリカや織莉子と本当の意味で和解する事ができた気がした。
「これからは政夫にならって私も貴女の事を『お姉さん』と……」
「それだけはやめて」
「…………」
微笑を浮かべたまま、平坦なトーンの声できっぱりと拒絶された。……こういう容赦のないところはよく政夫に似ている。
それなりに勇気を出して歩み寄ったのにも関わらず、無下にされた事がショックだったけれど、先ほどまでの胃の
もう一度心構えをして、空を見上げる。
あれだけ恐ろしかったワルプルギスの夜に今なら勝てるような気が湧いてくる。
大丈夫。もう私は繰り返さない。今日、ここで絶望の輪に歯止めをかけてみせる。
私が心にそう誓うのと、それを嘲笑うかのように同時にワルプルギスの使い魔たちが大量に地上へ投下された。
道化師の格好をした少女のようなシルエットの使い魔。一体一体が他の魔女の使い魔とは比べ物にならない強さを持つ奴らが数十体。耳障りな笑い声に似た、不愉快な泣き声を放ちながら私たちを襲いに向かってくる。
「キャハハッ」
「キャハハハハハハ」
しかし、私たちはそれに迎撃する必要すらない。
「『止まれ』っ!!」
拡声器で放たれた成人男性の声が周囲に響き渡ると、こちらへと距離を詰めていた使い魔たちがぴたりと動きを止めた。
まるでその声に
「『反転して、魔女を接近。囲め』!」
使い魔たちはくるりと背を向けて、元来た道を引き返し、ワルプルギスの方へと帰っていく。そして、命令通りにワルプルギスを取り囲むように浮かび上がる。
「『攻撃しろ』」
使い魔はその言葉に従い、己を産み出した母たる魔女へと牙を向いた。黒色の光線をワルプルギスに向けて撃ち出していく。
通常なら絶対にありえないその様を私たちはその目に映していると、近くの建物の屋上に一組の男女が声が聞こえた。
「おっと……。うまく行ったみたいだな」
片方は杏子。そしてもう片方は――魅月ショウ。政夫と同じように私がこの時間軸で初めて出会ったイレギュラーな人間。
彼は使い魔を操る事のできる力を持っていた。政夫から聞いた話によると彼女の妹だった魔法少女の願い事による恩恵の副作用みたいなものだそうだ。
魅月ショウは杏子に抱きしめられるようにして一緒に屋上から飛び降りると拡声器で自分の肩を軽く叩きながら、空を見渡す。
「それにしても三日前に杏子に言われていたが……ありゃスゲエな。昔見た怪獣映画みてぇだ」
「
「分かってるよ。だが、実際に目で見ても実感湧かねぇよ、あんなもん。――でも、まあ、あの時言っちまったもんなぁ、政夫に。今度は俺が力を貸すって」
溜め息交じりでそう言って、屋上から私たちに顔を向けて苦笑気味の笑みを見せた。
魅月ショウがこの戦いに参加してくれているおかげで『使い魔』の事は気にせず、ワルプルギスの夜と戦える。
ただ彼は私たちと違って普通の生身の人間のため、飛んできた
だから、その補佐として魔法で防壁を作り出せる杏子と組んでもらっている。これは魅月ショウを戦線に立たせる条件として、杏子と政夫が提示した事だった。
政夫は最後まで肉体的にただの人間である彼を戦いに参加させる事に良い顔をしなかったが、逆に魅月ショウの方が政夫に恩を返したいからと言う理由で頼み込み、この事が決まった。
私は二人に無言で軽く会釈をすると、手筈どおり他のメンバーを三つに裂いた。
一組目はワルプルギスを撹乱する杏子、魅月ショウのペア。二組目は近距離から攻撃を仕掛けてもらうさやか、キリカペア。そして、最後が私とマミと織莉子の遠距離射撃して止めを刺す三人組みだ。
私はマミと織莉子を引き連れて、ワルプルギスの夜の狙撃ポイントへと向かった。
~キリカ視点~
暁美ほむらたちと別れ、私はさやかと共にワルプルギスの夜を挟み込むように目的の場所へ向かっている。
ビルの谷間を駆けるように跳び跳ねて進んでいると、後ろから着いて来るさやかが不意に口を開いた。
「不思議ですね」
「何が?」
振り返らず、私は白々しく答える。頭の悪い私でもさやかが何についての事を言っているのかは察しが付いていた。けれど、その話題を自分から言うのはどうしても嫌だった。
「私もですけど、ほむらをあれだけ嫌っていた呉さんがあんな風に勇気付けるなんて……ちょっと意外でした」
「そうだね。本当に……自分でもよく分かんないよ」
さやかがあまりにも嬉しそうに語るものだから、私もつい答えてしまう。
私はあいつが――暁美ほむらが嫌いで嫌いで仕方がなかった。もっとも厳密には今でも相変わらず嫌いなのだが。
初対面の時の暁美ほむらの印象は、政夫との一時を邪魔する泥棒猫だった。おまけに私の顔を見るなり、拳銃を突き付けてくる最悪な女だったし。
ムカつく。本当に心の底からムカつく奴だ。一度は本気で殺そうとしたくらいだ。
でも、一つだけあいつにも認められる部分がある。
それは、政夫の事を本当に愛しているというところだ。
どれだけ私が痛めつけても、傷付けても、あいつは絶対に政夫への愛を曲げなかった。
私はあいつのそこに不愉快に感じると同時に憧憬していた。根底にある感情が自分よりも強いものだと本心では気付いていたからかもしれない。
事実、暁美ほむらはその強靭な愛をもって、政夫の心を勝ち取った。
その事を聞いた時、私の頭を支配した感情は嫉妬心でも後悔でもなく、純然たる敗北感だった。
私は鹿目まどかの政夫への想いを目にして、諦めて引き下がった。本当に政夫を愛しているなら、そうすべきだと当たり前のように思ったからだ。
けれど、暁美ほむらはそうじゃなかった。諦めず、挫けず、自分の愛を政夫に向け続けた。
正しく事じゃなかったかもしれない。政夫の事を考えたら間違っていたのかもしれない。
それでも、その想いを政夫に突き付け続けたから、あいつは政夫の彼女になれた。
悔しいけど、それが全てだ。
「まあ、何て言うか……政夫が幸せならそれでいいかなって思えるようになったんだ」
そう呟いて顔だけで振り返ると、さやかは少しだけ悪戯っぽい表情をして笑った。
「ほう。呉さんも失恋の味を知りましたか。これからは失恋仲間ですね」
その笑顔に多少イラっとしたので、私はさやかに嫌味ったらしく言う。
「ふん。さやかの方こそ、それでいいのかい? 政夫の事愛していたんだろう?」
「私はいいんですよ。失恋には慣れっこですし、それにこうやって笑って一歩引く方が……格好いいでしょ?」
さやかの顔に浮かんだ笑みは少しだけ悲しげで、そして誇らしげに変わった。
その笑みに含まれた感情は今の私にはよく理解できた。
ああ。そうか。そういう事か。
私が暁美ほむらの命を奪おうとした織莉子を邪魔した理由。そして、今日暁美ほむらを励ました理由。
それは――政夫を悲しませたくないからだ。
私の後ろに居るこいつにかつて教えてもらった事だった。自分の中の気持ちが分かった途端、すっきりとした爽快感が胸の中に生まれた。
今なら分かる。
私はようやく、誰かを愛する権利を得たのだと。
ならば、私のやる事は一つだ。
何としてもワルプルギスの夜を倒す。――大っ嫌いな暁美ほむらに政夫を幸せにさせるために。
本当は戦闘シーンまで行きたかったのですが、語りだけになってしまいました。
やはりクライマックスは難産です。
しかし、キリカの独白は書きたかったので今回満足しています。この小説内でのキリカはさやかのおかげで精神的成長を遂げる事ができました。