「ほーら、タツヤ君。たかいたかーい」
「たかいたかーい!」
嬉しそうにするタツヤ君を僕は掲げて楽しませる。
三歳の男の子となるとそれなりに体重も増えてくるが、まだまだ中学生が持ち上げられるくらいには軽い。
こうやってじっくりとタツヤ君の顔を観察すれば、まどかさんと
告白に返事して、晴れて恋人同士となった僕とまどかさんは彼女の家にお邪魔させてもらっていた。改めて、まどかさんの両親に挨拶がしたかったからだ。
彼女の両親に挨拶、というと凄く大それたことに聞こえるが、娘さんと交際することになりましたと単純に報告としに来ただけだ。
前にこの家に来た時はわりと僕のことを気に入ってくれていた様子だったし、僕の方も好感持てる人たちだったので積極的に親密になりに来た。
何より、まどかさんがそれを望んだので僕としては断る理由がなかった。
「タツヤと遊んでくれてありがとうね、政夫君」
専業主夫をしているまどかさんのお父さん、知久さんがお茶をテーブルに出してくれた。
「どうもありがとうございます」
僕はタツヤ君をそっと傍のソファに下ろしてからテーブルの椅子に着く。
知久さんも向かいの席に座り、正面から対面することになる。流石に緊張して僅かに背筋に汗が滲んできた。
ソファに座っているタツヤ君だけが不思議そうに僕を見守っている。
どう切り出して行こうかと悩んでいると、先に口を開いたのは知久さんの方だった。
「まどかから聞いたよ。付き合い始めたんだってね」
優しげな笑みで穏やかに語る知久さん。親子なだけあって醸し出す雰囲気はまどかさんに通ずるものがある。
それに緊張しながら、一つ頷いた。
「はい。まどかさんと今日から清い交際をさせて頂くことになりました」
「政夫くんみたいな子で良かったよ。まどかは少し純粋なところがあるからね」
そういう風に褒めてもらえると、少し照れくさくなる。それだけ信用されているのだと思うと嬉しいが、自分がそれほど立派な人間には思えないので、ちょっと複雑だ。
だが、その前に一つだけ確認したいことがあった。
「えっと、そのまどかさんは今は……?」
肝心のまどかさんの姿が見えないので実はさっきから気になっていた。僕がタツヤ君と遊んでいる間にいつの間にかどこかへ消えていたのだ。
尋ねると「ああ」と知久さんはくすっと笑みも漏らして声を潜めた。どんなに若く見積もっても三十台後半にも関わらず、若々しいその顔はさらに歳若く映る。
「まどかには黙っているよう頼まれたんだけど、実はね……今、政夫君のためにまどかが一人で夕食の準備をしているんだ。ちょうどさっき、レシピを決めて食材を買いに出かけたところなんだよ」
「え!? そうだったんですか? ……言ってくれれば僕も手伝うのに」
「駄目だよ。まどかはね、政夫君に自分の料理を食べてもらうと張り切ってるんだ。僕さえもキッチンに入らないでって言われてるくらいだなんだよ?」
「へえ……そうなんですか」
意外だな。知久さんは子煩悩のところがあるから手伝うって言いそうなのに。
ひょっとして、まどかさんは材料調達から調理まで全部一人でやるつもりなのか?
もしかして、それは僕が昼に暁美のことがあったせいで、まどかさんが作ってきてくれたお弁当をしっかり味わえなかったことを気にしてのことかもしれない。
だとしたら、嬉しい。そこまで僕のことを想ってくれている人なんて今まで居なかったから。
「凄く、嬉しいです。僕のためにそこまでしてくれてるなんて」
僕がテーブルに置いてあるティーカップに目を落として呟くと、知久さんはテーブルの上に自分の両手を重ねて置いた。
「政夫君。君は知らないみたいだけど、前からまどかは君の話をよく話していたんだよ。自分を考えを変えてくれた男の子が居るってね」
知久さんの話によると、まどかさんは前から結構僕の話をしていたらしい。その話の中では僕が最終的には人を遠ざけていたことまで含まれていて、耳が痛かった。
恥ずかしい限りだ。ここまで人に心配をまどかさんに掛けていたとは想像もしていなかった。
『優しい世界』の舞台装置になってつもりで、その実、当事者になったとは何とも愚かで情けない。
「僕は……僕が思っていた以上に周りの人に……大切に思われていたんですね」
自分が一方的に与える側だと自惚れていた。だから、好意を明確に表してもらわないと気付けない。
まどかさんにもあそこまで言ってもらって、ようやくそれが理解できた。だが、そのせいで暁美を傷付けてしまう結果になってしまった。
知久さんはそんな僕を気遣うように言う。
「周りの人ばかりの事を気にしていると、返って自分の事に目が行かなくなってしまうものだよ。たまには自分の事だけ考えるのも重要なんだ。まどかの話を聞いていると政夫君はそういうところが足りてないと思う」
「そうですね。……まどかさんにも自分にも優しくしろって怒られました」
僕の言葉に知久さんは少し遠い目をした。
それは子供の成長に想い馳せるような、懐かしむような複雑な憂いを帯びた瞳だった。
「まどかも随分と変わったよ。前はもっと自分の行動に自信が持てていなかった。これも政夫君のおかげかな?」
「違いますよ。彼女は元々芯の強い女の子でした。それにまどかさん自身が気付くの時間が掛かっただけだと思います」
少しの間があった後、知久さんは優しく、けれど僅かに寂しげに僕に告げた。
「……もう、あの子も大人になろうとしているんだね」
大人として、そして父親としては自分の娘が手から飛び立とうしているのは寂しく感じるようだった。
僕はそれには答えず、ティーカップの中の紅茶に口を付ける。
思った以上に話し込んでいたせいで、舌先に触れた紅茶は温く感じた。
*
まどかさんが帰って来て、キッチンで料理を作り始めて数十分。
僕は手持ち無沙汰の時間を知久さんと話をしたり、タツヤ君と遊んだりして潰していた。
タツヤ君は特にお馬さんごっこが気に入ってくれたようで、四つん這いになった僕の背中でキャッキャと楽しそうにはしゃいでいる。
そうしていると、まどかさんが僕らに夕食が完成したことを告げる。
「パパ、政夫君。ご飯の用意できたよー」
「あ、うん。分かったよ。タツヤ君、ちょっと降りてね」
背中に居るタツヤ君を降ろして配膳の手伝おうとしたが、タツヤ君は僕の背中がよほど居心地よかったようで張り付いて降りてくれない。
先に配膳をしていた知久さんが見かねて引き剥がそうとする。
「こら、タツヤ。お兄ちゃん困ってるだろう? そろそろ離れてあげなさい」
「や~!!」
「たっくん。政夫くん、困らせちゃだめだよ?」
しかし、剥がれずに首を横に振って駄々を捏ねる。
まどかさんも困った顔をして窘めるが、僕としてはここまで好いてくれると困惑よりも、嬉しく思えてしまう。
「じゃ、タツヤ君。僕の膝の上でご飯たべよっか?」
「うん!」
「それじゃ、一旦背中から移動しようね」
そう言うとタツヤ君は素直に手を離してくれた。
テーブルに着いて、膝にタツヤ君を乗せた僕は座った状態で料理の配膳をし始める。少し動きづらいものの不都合なく手伝いができた。
膝の上にちょこんと乗っているタツヤ君も邪魔をしなようにして、僕のお腹に背を預けてリラックスした顔をしている。
「政夫くんはたっくんにちょっと甘すぎるんじゃないかな?」
まどかさんはほんの僅かに怒った調子で僕に苦言を
「まあ、僕の
すると、見る間に頬を赤く染めて、ぷいっと顔を背ける。実に愛らしい反応だ。知久さんも近くにいるのについ軽口が口を突いてしまった。
「はは。それなら、仕方ないね」
当の知久さんはそれに対して平然と笑っていた。それでも手だけはテキパキと料理の乗った皿をテーブルの上に並べていくのは主夫暦が長い故か。
テーブルに置かれた夕食の献立はクリームシチューだった。
ほど良いクリーミィな香りが鼻腔をくすぐり、食欲をそそる。
皆が席に着くと、一斉に食事時の号令をし、木製の丸いスプーンを皿へと伸ばした。
白いとろりとした濃厚なシチューを掬い、何度か息を吹きかけて冷ますとそれを膝のタツヤ君の口に運ぶ。
「はい。タツヤ君、あーん」
「あーん」
開かれた小さな口へ優しくシチューを食べさせる。
口元にこぼさないようにあげたつもりだったのだが、意外に食欲の旺盛な彼はスプーンに乗ったシチューを全部
小さい子が嫌うにんじん等の野菜までもぐもぐと
きっと大きな子に成長するだろうことを予感させる食べっぷりだ。
僕がそれに目を奪われていると、正面に座っているまどかさんが何やらもじもじしながらこちらを
「どうしたの? まどかさん」
「政夫くん、えっとね。ほら」
自分のスプーンにシチューを乗せて僕に差し出してきた。
「あ、あーん……」
僕がタツヤ君に食べさせてあげるのを見て、自分もやりたくなったようだ。
照れながらも、僕にスプーンを伸ばすまどかさんは正直、かなりぐっと来た。
「それじゃ。好意に甘えさせてもらって……あーん」
まどかさんのスプーンに口を付ける。通常のキスに引き続き、間接キスまで頂いてしまった。しかも、本人の父親と弟の前でだ。
だが、まどかさんは特別それに気にしたようなそぶりはなく、嬉しそうに尋ねてくる。
「美味しい、かな?」
「凄く美味しいよ。コクがあるのにしつこくなくて……これなら毎日でもいけるね」
「ま、毎日って。もう! 政夫くん!」
素直に褒めたのに怒られてしまった。別段変な意味合いではなく、文字通りの意味で言ったつもりだったが、まどかさんは別の受け取り方をしたらしい。
首を傾げていると、知久さんが納得したように頷いた。
「ああ。だから、告白まで時間が……」
「もう、パパもそれ以上言っちゃだめ!」
和やかな食事はまどかさんのお母さんの詢子さんが帰ってくるまで続いた。
それから詢子にも付き合い始めたことを話すと、どこが好きになったのかやどこまで関係が進んでいるのかと質問攻めに合い、色々と困惑することになった。
しかし、その際に見せたまどかさんの恥じらい顔の数々はとても眼福至極だったのは言うまでもない。
**
「それじゃ、夕食ありがとうね。まどかさん」
「おや? 帰るのかい? 泊まっていけばいいのに」
詢子さんはふざけて僕にそう言うが、流石に付き合い始めた女の子の家に泊まるほど常識知らずの人間ではない。
明日も学校があることだし、素直にまどかさんの家からお
玄関先まで僕を見送りに来てくれたまどかさんとタツヤ君に手を振ってドアを開ける。
「じゃあ、また明日ね。まどかさん」
「うん。じゃあね、政夫くん」
「タツヤ君もまたね」
「ましゃお~……」
寂しげに僕を見送るタツヤ君に名残惜しく思いながらも、外へと出た。
今日一日は楽しかった。まどかさんの家族は皆、僕を温かく出迎えてくれたのが本当に嬉しかった。
夜の
誰だと訝しみながらも携帯電話を取り出す。
父さんには今日、友達の家でご馳走になると連絡していたので多分違うだろう。とすると……暁美だろうか。
携帯電話を開いて画面の名前を見る。しかし、そこに表示されている名前は『美国織莉子』だった。
「もしもし、織莉子姉さん? どうしたんですか? こんな時間に」
受話口を耳に押し当てて尋ねると、そこから聞こえてきた織莉子姉さんの声は酷く緊迫していた。
「まー君……落ち着いて聞いて。これから話す事は嘘でも冗談でもないわ……」
「……何があったんですか?」
間違いなく吉報の知らせではないと理解し、声を潜めて織莉子姉さんの次の言葉を待った。
織莉子姉さんは一拍だけ空けた後に静かに話し始めた。
「今日の暁美さんの事が気掛かりで、私は魔法で彼女の未来を予知してみたの……。そしたら、思いもよらない未来が見えたわ」
「どんな未来ですか?」
「暁美さんが鹿目さんを……殺す未来よ……」
耳に入ったその言葉を理解するのに僕は数秒の時を必要とした。
否、それを理解することを感情が拒んだ。
あの暁美がよりにもよってまどかさんを殺す……?
あり得ない。絶対にそれだけはあり得ない。
あいつはまどかさんとの約束のためにずっと一人で戦っていたはずだ。例え、この世界のまどかさんが暁美と約束をした『鹿目まどか』ではなくても、二人の間には明確な友情が芽生えていたはずだ。
無意識の間に首を振っていた僕に、織莉子姉さんは強張った声で言葉を紡ぐ。
「私の水晶に映し出されていた光景は……暁美さんが鹿目さんに向けて拳銃の引き金を引く映像。そして、銃弾に撃ち抜かれ、倒れて血に塗れる鹿目さんの姿よ……」
決して虚言の類ではないことが、言葉の隅々から滲む真剣さから読み取れた。織莉子姉さん自体その予知が信じがたいと思っていることも感じられた。
僕は震えそうになる声を抑えて、織莉子姉さんに聞いた。
「……その映像の詳しい場所と日時を教えてください」
絶対にその未来は現実にしてはならない。何があろうとも変えてみせる。
奥歯を噛み締めて、胸に誓う。
暁美にまどかさんは殺させない。
――例え、僕の命に代えても。
よくやく不穏な展開の形が見えてきましたね。
ああ、一体これから、『誰』が殺し、『誰』が死ぬのでしょうか?
ほむらルートでは円満に終わりましたが、こちらはそうなってくれるのか!?
ハッピーエンドは本編で書いたので……ifルートくらいはどんな結末しても許されますよね?