~織莉子視点~
この世の全てに期待していない、ぞっとするほど荒み切った目をしている陰鬱な男の子。
それが私が初めて、まー君を一目見て抱いた感想だった。
お父様の友人の家に遊びに来ていた私は、そこであの子に出会った。
私より一歳年下の八歳の男の子。お父様の友人の息子さん。名前だけは聞いていたが、姿を見るのはその時が初めてだった。
彼は言葉すら掛けるのに躊躇していまうほど暗く、他者との繋がりを完全に拒絶していた。
私の方からもできれば近付きたくなかったけれど、彼の父親の夕田満さんからも頼まれ、渋々と話かけようとした。
『ねえ……ひっ……』
声を掛けようとしたが、俯いていた顔が上がり、その瞳が私の方に向いた瞬間、小さな悲鳴を上げてしまった。
人形のよりも生気が欠けているのに、無機物には出せない絶望の色だけが生々しく塗りたくられた濁った目。
自分に向けられたその視線は私が九歳の私が知り得ないような暗い感情を凝縮したものだった。
逃げ出したいと思った。この眼差しをこれ以上向けられてはいたくなかった。
けれど、他人を救うようなお父様のような人間に憧れていた私はそんな見っともない姿は晒したくないと、心を奮い立たせて彼の目を見返した。
ぼんやりと虚ろな表情をしていた彼は私を見て一言呟いた。
『おばあちゃんみたい……』
その言葉を聞いた私は烈火の如く、彼に怒り狂い、文句言った事をよく覚えている。
亡きお母様譲りの白髪は私の誇りだった。それを老婆のようだと侮辱され、耐えられるはずもなかった。
しかし、それを皮切りにお母様の事を話したおかげで彼と打ち解ける事ができた。
お互いに幼くして母親を失っているという共通点もあり、会話はそれなりに弾んだ。私は彼の事を「まー君」と呼び、彼は私を「おねえちゃん」と呼んで慕ってくれた。
まー君は私が思っていた人物像とは違い、穏やかで優しい子だった。ただ辛い事が原因で心をボロボロにされてしまったのだと知った。
詳しい事は語ってくれなかったが、酷い仕打ちを周囲の人から受けたという事は会話の節々から伝わってきた。
悲痛な気持ちになり、私はまー君を抱き締めた。ずっとその苦しみを抑えていた彼は私の胸で声を上げて涙をこぼした。
「まー君。どれだけ辛くても、家族や友達を、自分の周囲の人を大切にしてみて。きっとその事がまー君を幸せにしてくれるから……」
私は腕の中に居る彼にそう言って、慰めた。
そして、同時に心の中で静かに誓ったこの子がこれ以上苦しむ事のない、そんな世界を作れる人間になろう、と。
お父様の選挙の事もあり、それ以降は会う事はできなかったけれど、私は自分をより一層他人を救える強い人間であろうと努力するようになった。
その結果がお父様の威光でしか見てもらえない張りぼてのような人間だったのは笑い
再会した時のまー君は印象ががらりと分かっていて一目では気付く事ができなかった。
気弱そうだった顔も凛々しく引き締まり、身長は私を優に超えて、飄々とした雰囲気を纏わせたあの子は私以上に自分を鍛え上げた事が見ているだけで伝わってきた。
口も上手くなり、度胸もついて、年下とは思えないほど立派に成長していた。
何より、昔よりもずっと優しい子に育った。
それが私の残したあの言葉を頼りにしたものだと知った時には嬉しさと恥ずかしさがない交ぜになった感情が生まれた。
そして、そんな彼を見ている内に『弟』ではなく、『異性』として眼差しを向けている自分に気付いて動揺した。
強く立派に成長したまー君を想うと胸が熱くなる。容姿を褒められると舞い上がってしまいそうになる。
間違いなくこの感情は恋愛感情だと理解したのは、鹿目さんがまー君の唇を奪った時だった。突き放した彼の態度に平然と足を踏み入れた鹿目さんに私は内心で嫉妬の炎を燃やした。
だからこそ、気付いた。
この世界で最も大事な人が苦しみから救われた時に嫉妬をするような人間が彼の隣に並べる訳がないと。
自分の感情を優先するような浅ましい女はあの子に相応しくないと。
鹿目さんなら私よりもずっとまー君を幸せにできる。そう思って静かに彼を諦めた。
それが正しい最良の選択だと思ったから。本当に愛しているなら、自分よりも相手を優先すべきだと信じたから。
しかし、暁美ほむらはそれができなかった。あの子が自分の隣に居てくれない事実を受け止められなかった。
そして、我が侭で身勝手で自己中心的なおぞましいその感情を『愛』と呼び、まー君のようやく掴んだ幸せを壊そうとしている。
絶対に認められない。断じて私が赦さない。
この世界で一番愛する私の彼から幸せを奪おうとするのなら、命に代えても殺してみせる!
*
私は動きながら、水晶球を出現させては高速で撃ち出して行く。
目的は暁美ほむらではなく周囲に弾幕を張り、こちらの姿を隠し、常に爆発した状態を維持する事で光と水晶球の破片を空間に留める。
私なりの付け焼け刃の時間停止対策だ。
一度、時を止めた世界を見せてもらった事があるので知ったが、時間が止まってもそこで発生した光は色こそ反転するが眩さ自体は失わない。
こうする事で隙を与えず、また轟音でこちらの位置を気取られないように移動する事ができる。逆にこちらは未来視を使い、向こうの動きを知る事ができる。
けれど、そのための魔力の消費は馬鹿にならない上に決定打を与える事ができないという欠点がある。
こちらの水晶球を彼女に押し当てる事に成功すれば、時間停止の魔法を封じられるのだが、それを見越して接近せずにビルとビルの間を最低限の時間停止で跳ねるようにして、時たま銃を放ってくるだけだ。
明らかに私がソウルジェムを濁らせて、魔女になる事を狙っている節がある。
加えて、ここが街中と言う事もあり、下には消防車や警察が押し掛けてくるのも時間の問題だ。
長期決戦は私に対してあまりにも分が悪すぎる。
そうかと言って弾幕を止めれば、すぐさま時間停止の餌食になるだろう。
一層の事、魔女になる事で暁美ほむらを葬ろうかとすら考えるが、それでも時間停止を抜けられるかが疑問だ。
確実にここで仕留めなければいけない以上、おいそれと玉砕攻撃にも移れない。
そう、確実に……。でなければ……。まー君が……。
首元に付いたソウルジェムを見る。パールホワイトだった色は大半が濁った黒で覆われていた。
時間はもう残り少ない。生み出せる水晶球の大きさが最初と比べて一回り以上小さくなっている。地面を敷き詰める水晶の残骸に反比例して私の魔力は減り続けている。
弾幕は薄れ、消えていく。もう未来視に割り裂く魔力もない。
あと一撃。それが私に残された最後の一手だ。
「政夫を愛していると語った割りに大した事ないのね……」
閃光と煙のカーテンが晴れ、現れた暁美ほむらは水晶球の破片を音を立てて近付いてくる。その衣装はところどころ破れ、白い肌と裂傷を見せていた。
あれだけの攻撃は致命傷に至らなかったとは言え、彼女にダメージを与える事には成功していた。
嘲りの笑みを浮かべているものの彼女には最初の時ほど余裕は感じられない。やせ我慢をしているのはお互い様だ。
いや、避けに徹していたが、あれだけの猛攻を受けて、そうして立っている事自体異常だ。まー君への気の触れたような執着心のなせる業なのか。
けれど、私はそれを『愛』と呼んであげるつもりは欠片もない。
「強がりね。貴女の今の格好を見れば分かるわ。結局、暁美さんの『愛』なんて口先だけの身勝手な妄執よ」
「言ってくれるわね、美国織莉子。ソウルジェムは大分穢れている。魔力ももうろくに残っていないのが一目瞭然よ。……そして」
サブマシンガンを持った手の反対の腕で、手首の楯からからマガジンを取り出して換装する。
「――貴女を守るものはなくなった。ここで終わるのは貴女の方だったわね」
自分の手の甲で口元を拭うようにして、私に侮蔑の笑みを投げ掛ける。追い込んだ鼠を前に毛繕いをする猫のように映った。
しかし、退かされた手の下の口は真一文字に引き締められており、歪んだ笑みは跡形も残っていなかった。
向こうもこれで決める目算なのだ。
銃口は私を逃さないようにしっかりと向けられ、銃身の下に左手を添えて、右手の指を引き金に掛ける。
万事休す。王手詰み。
抵抗のできない私に凶弾が放たれる数秒前。
――今だ……!
水晶球の破片で作られた
「……!」
彼女もそれに気付くが遅い、時間を止める暇さえも与えない。
左手の甲、即ち暁美ほむらのソウルジェムが付いた箇所に水晶球を爆発させる。あの位置ならば確実にソウルジェムを砕いたはずだ。
このために魔力が完全に力尽きたように装ったのだ。最後の最後で油断を誘発させるためだけに。
持っていたサブマシンガンが床に転がり、左手を砕けた破片と共に血に汚して、暁美ほむらは表情を
私は安堵の表情を作ろうとして、違和感を感じた。
――表情を顰める……?
魔法少女はソウルジェムを砕かれれば即座に死に至るはずだ。痛みなど感じる時間などある訳がない。
逆転したと思った私は理解不能な状況に思考を停止させられる。
その間に右手で左手首に付いた楯から拳銃を取り出していた暁美ほむらが私に弾丸を放つ。
抉れた左手の甲ばかりに目を奪われていた私はそれに避ける事もできず、身体に無数の鉛弾を埋め込まれた。
前のめりで倒れ込む身体に現実感を感じられず、仕留めたはずの彼女が生きているという事実に理解が追い着かなかった。
「がっふ…………なんで、確かに……私は……」
這い
彼女は自分の口から紫色の尖った物体を僅かにちらつかせた。
それは彼女の左手の甲に付いていたソウルジェムだった。
「ま、さか……」
あの口元を拭った時にソウルジェムを口の中に移していたというのか……。
暁美ほむらは油断していたどころか、あそこでさらに慎重になっていた。私に対して一切の隙を見せず、対策を取っていた。
もうこの女には勝つ事など不可能だ。
それを認識した時、絶望が私の心を包み込む。だが、同時にせめて魔女になってでも、目の前の怨敵を殺さなければならないと誓った。
魔女になる事を渇望した魔法少女などきっと私ただ一人だろう。
暁美ほむらは拳銃を楯に戻すと私に近寄ってくる。自分の血だらけの左手など気にも留めずに一歩一歩歩いてきた。
止めて。まだ来ないで。このままでは魔女化する前にソウルジェムを割られてしまう。
早く、魔女に……殺される前に魔女にならなくてはいけないのに……。
無常にも私に傍に来た彼女は動く体力もない私の首からソウルジェムを引き千切る。
これだけ絶望に駆られても魔女になれなかった私に心底失望した。
不甲斐なさに涙が滲む。
ごめんね、まー君。私は貴方の幸せ……護れなかった。
暁美ほむらは私のソウルジェムを握った手で、再び楯に手を近付けるとグリーフシードを取り出した。
口に咥えていて唾液に塗れた己のソウルジェムを取り出すとそれを浄化した。
そして、あり得ない事に私のソウルジェムまでも浄化し始める。
「……な、何故? 私のソウルジェムまで……」
さっきのトリックよりもよほど理解を超える行動に私は目を奪われた。
「魔女になっては困るからよ。貴女は大事な大事な人質なんだから」
「人、質……そんな……」
最悪だった。
彼女は私をまー君に対する人質にする気なのだ。
ソウルジェムさえ無事なら魔法少女は死なない。逆に言えばソウルジェム一つで私たちは簡単に命を落とす。
この女は最初から私を殺さず、生きて捕らえるつもりだったのだ。
駄目だ。それだけはまー君の足枷にだけはなりたくなかった。
けれど、暁美ほむらはそれを許さない。
浄化された私のソウルジェムを弄びながら、禍々しい笑みを口元に湛える。
「待っていて、まどか。私が貴女を――」
殺すから――そう彼女は言う。それはとても甘い聞いた事もない陶酔した声だった。
今回は織莉子メインの話でした。
一番政夫の事を理解していたのはまどかですが、一番政夫の事を愛していたのは織莉子かニュゥべえのような気がします。
素直に政夫に愛を向けるには……少し遅すぎたのでしょう。
ともあれ、織莉子が生き残ってよかったですね。本人的には人質にされるくらいなら死んだ方がマシだったでしょうが。