……これは死ぬかもしれないな。
前方には実力ある魔法少女の面々でも敵わなかったシャム双生児のような見た目の「入れ替えの魔女」。
味方は意識不明の
孤立無援で、逃げ場はなく、身動きの取れない守るべき対象も居る。
とりあえず、魔女の姿を視界に収めたまま、傍の二人を目の端で眺めた。
この場で唯一、行動できるのは自分だけという最悪な状況。自然と額から汗が滲むのを感じた。
『ニュゥべえ。まだ繋がってる?』
『聞こえてるよ。今、政夫の家に向かう……』
『それは駄目だよ。先に入れ替わった巴さんたちを自宅まで連れて行って。可能なら鹿目さんを呼んで見張るように頼んでほしい』
記憶が混ざり合った彼女たちが、混乱した意識のまま出かけるのを阻止するには誰かに見ていてもらう必要がある。巴さんの自宅から出て交通事故等に巻き込まれる危険性は可能な限り排除したい。
『でも、それじゃあ……』
心配そうなニュゥべえの声が頭の中で響く。
彼女を安心させるべく、僕はなるべく明るい感情が伝わるように念じた。
『大丈夫。それまでどうにかして二人を守るよ』
『……十分。いや、五分で政夫の居る結界内に行く。だから、それまで持ち答えて』
僕のわがままを素直に聞いてくれるニュゥべえに心から感謝する。これが暁美や美樹ならはこうはいかない。
『ありがとう。君は本当に可愛くて、頼りになる友達だよ』
念話は打ち切られると、共に意識を切り替える。
魔女は意識なく、床に寝かされた
まるで僕など眼中にないといったその様子にやはり狙いは二人なのだと確信する。
とにかく、無防備な彼女たちから注意を逸らさなければならない。身体を数十センチほど宙に浮かばせて移動する、入れ替えの魔女の側面に体当たりした。
大きな風船に体当たりするような、ほとんど手応えのない感触の後、入れ替えの魔女は弾かれたように後退する。
軽い。あまりにも軽すぎる感触。
暖簾に腕押しという言い回しが当てはまるようなこの手応えからいってダメージは与えられなかったことはすぐに分かった。
だが、それでいい。
元々、魔法少女ではない僕では魔女には物理的な干渉はほとんどできないことは承知の上だ。
目的は――。
『dffmelocnrhoakshcok!!』
意味があるかも解らない奇怪な鳴き声を上げて、奥の二人から僕へと興味を移したように視線を向ける。
いや、果たして視線と言っていいのだろうか。
ビーズのような眼球は生物感はなく、ぬいぐるみのそれに近い。
どうしてこうも魔女というのは無機物めいたものが多いのだろう。
注意を向けてきた入れ替えの魔女から僕は殊更大きな動きで逃げる。
魔法少女の方が獲物としては格上だろうが、目の前で自分に攻撃をしてきた無力な獲物が逃げ出して、素直に見逃す訳はない。
『jfjielkrreierf;ld,dkekvmejtn!』
雑音のような叫びを上げて、距離を取る僕を追い掛けて来る。
掛かった。
結界の中で引き延ばされたリビングはそれなりの大きさを誇っている。
追いかけっこでニュゥべえが来るまで時間を稼ぐ。それが僕の狙いだった。
地面から生えた角ばった台座のような障害物が生えているが、それでも走り回るのに問題はない。
問題はどれくらいこの魔女がこのお遊びに付き合ってくれるかというところだが、無力なただの人間を侮っているのか、それとも純粋に移動速度が遅いのか、魔女の速度はゆるやかだ。せいぜい早歩きくらいの速さしかない。
――これなら、どれだけ最低でも二分は稼げる!
後方の魔女を都度確認しながら僕は大きく走り出した。
しかし、その確信が崩壊するのに二分もかからなかった。
一定の距離を取って逃げていた僕の脚に何かが巻き付いてくる。
魔女が僕への興味を失って、伏している二人の方へ行かないように一定の距離を保ちつつ、逃げているはずだった。
事実、魔女は僕の後方におり、触れられる距離ではない。
脚を掴んでいるのは魔女ではない。足元にある台座から伸びていた。
結界の一部の障害物だと思っていたそれは……その台座を二枚貝のように開き、内側から紐状の触手のようなものを吐き出して僕の足首に絡み付いている。
……やられた。この結界内にあった台座は入れ替えの魔女の使い魔だったのだ。
この魔女が無力化した魔法少女の二人を襲わずに僕を追い掛け始めたのは必要がなかったからだ。彼女たちが背を預けて眠っている台座も恐らく使い魔だ。
知性を感じない幼稚な落書きめいた顔が嗤った気がした。
ゆったりとした速度で獲物を恐怖で焦らすように接近する入れ替えの魔女。
明らかに僕の反応を愉しんでいる……。考えてもみれば、この魔女は魔法少女のソウルジェムを入れ替えて弱ったところに再び現れるほど狡猾なのだ。
それを僕は愚かにも侮ってしまった。できることが限られていたとはいえ、致命的過ぎるミスだ。
入れ替えの魔女の、二つの顔が互いに縫い付けられたような顔が動けない僕のすぐ前に来る。
その顔が近付くにつれ、落書きのような二つの口がぽっかりと開いた。奥行きが見えないほど真っ暗な口内はまるで深淵そのものだった。
……僕を食べようとしているのか……。
魔女が人をどうやって捕食するのか見たことがないため、物理的に丸かじりにされるのか、それとも魂や生体エネルギーのようなものを吸われるのかは解らない。だが、少なくとも挨拶のキスではないことは確かだ。
双子のように見えたその顔が、僕の顔の十数センチ手前まで寄る。息がかかってもおかしくない距離だが、呼吸はしていないようで吐息のようなものは感じられなかった。
「……前からね。思ってたんだ」
その不気味にお互いの頬を溶け合わせた気味の悪い顔に向けて言った。
「君らの卵……あるいは核である
――その並んだ顔の一つに僕はズボンのポケットに入れていた奥の手、預かっていたグリーフシードを容赦なく入れ替えの魔女の額へ突き立てる。
油断していた魔女は避ける暇もなく、ずぶりと刺突の感触を感じさせ、グリーフシードの棘は深々と突き刺さった。
『kdfnflrsfjse;i;jf;iersjfijer;ijーー!?』
「ほら、やっぱり――グリーフシードはよ く 刺 さ る!」
前にニュゥべえから聞いた。グリーフシードは魔女の卵……故に魔女に対して物理的な干渉を可能とする。
そして。
『dfkldcnlsnflijrlfha;ejfluhealっーー!!』
顔に刺さったグリーフシードを取ろうとしてもがく入れ替えの魔女。
だが、その刺さった部分から急速に黒い気体が発生しては、グリーフシードへ吸い込まれていく。
グリーフシードは穢れ……いわば負の感情エネルギーを吸う。
それを魔法少女のソウルジェムではなく、魔女に使えばどうなるのか。
答えはもちろん、一つだ。
魔女の二つの顔の内、一つが萎んでいく。水気を含んだ果実が乾燥して、干からびるかのように。
「魔女は弱る。まあ、新たな魔女が生まれる危険性はあるだろうけど、それでも助けが来るまでは持つだろう」
預かっていた彼女たちの戦いの成果であるグリーフシードを使うのは嫌だったが、そうも言ってられない状況だった。それに実際のところ、ニュゥべえと話しただけで試したことはなかったし、ニュゥべえもまたそういった事例は知らないと言っていた。
ぶっつけ本番でやるには少々リスクが高かったが、どうやら何とかなったらしい。
足元に居た使い魔もグリーフシードに穢れを吸われたのか、弱り果てやがては消えた。直接、刺された魔女の方は見る影もないほどに痩せ細り、水気の抜けた果実のように萎み続けている。
「さて、使い魔自体には攻撃手段は見受けられなかったし、これで当面の危険からは……っ!」
萎んでいく魔女の様子が突如変わった。
先ほどまで、刺さったグリーフシードを抜こうともがいていたそれはぴたりと動きを止める。
そして、シャム双生児のようにぴったりとくっ付いていた接合部分がミチミチと音を立て、ちぎれ始めた。
「まさか、分離……いや」
額に突き刺さっていた方の身体は萎みながら引き剥がされると、そのまま消滅して、地面にグリーフシードを落とした。――最初に刺したものとは別のグリーフシードを。
グリーフシードは魔女の核。ならば、その核を捨てて形を保っていられるはずがない。
「二対の魔女が一体になっていたのか……」
文字通り半身を捨てて、身軽になった魔女は落ちているグリーフシードから離れるために一旦宙へと舞い上がる。
結界の天井らしき場所まで到達すると、その落書き染みた顔を僕へと向け、見下ろした。
浮かんでいた表情は変わっていない。だが、間違いなく僕へと向けられた感情は憎悪だった。
半身の魔女は天井付近に浮いたまま、その腕を鞭のように伸ばす。しなった腕はどこまでも伸縮し、僕へ向けて飛んで来る。
まずいと思った時にはもう遅く、その先端は僕の頭の数センチ上まで届いていた。
脳裏に浮かんだのは恐怖でも後悔でもなく、今、この結界内で無防備に倒れている二人への心配だった。
「……ごめん。二人とも」
「いや、政夫が謝る理由ないでしょ」
「そうね。でも、申し訳ないと思うなら何かしてもらおうかしら?」
聞き覚えのある二人の声が、背後から聞こえた。
そうかと思うと、目の前に迫っていた魔女の腕が二発の弾丸が抉り込む。
僕から軌道がそれたその腕は錐もみ、その後、一本の剣に斬り落とされた。
切り離された腕は霧散し、消滅する。
「二人とも……元に戻っ……」
僕を庇うように背後から来た二人の魔法少女は躍り出た。
白のミニスカートに青いチュートップ。背中には長いマントをなびかせ、腰元にはベルトのような物を嵌めた黒いロングヘアの少女。
紫と白を基準としたどこぞの制服のようにも見える衣装に、スカートから伸びる足をストッキングで包んだ青いショートヘアの少女。
「ってないのかよ!」
『暁美』と『美樹』。それぞれ、魔法少女としての衣装がいつもとは真逆だった。
腰や手に着いたお互いのソウルジェムすらもあべこべだ。てっきり、入れ替えの魔女が弱ったせいで魔法が解けたかと思いきや、相変わらず戻った様子はない。
「まあ、それはちょっとね」
いつも表情にレパートリーに
胸元はいつもより起伏が小さいが、しなやかな腰の細さはいつも以上に激しく僕は僅かに視線を逸らす。
「無駄口は終わってから叩いてちょうだい。……さやか」
顔から表情を消し、真面目というよりも気を張っているといった表情の『美樹』は両手に拳銃を構えて、隙なく魔女へと対峙している。着ているのがいつもと違うせいか、スカートの短さやストッキングを穿いた脚が妙に気にかかり、また少し目を逸らす。
思考のピントがずれてきそうなので、自分の懸念事項をあえて口にすることで誤魔化した。
「二人とも大丈夫なの? どっちも相手の身体で魔法少女になるのは初めてなんだろう?」
そうだ。二人とも別の人間の身体で、武器を扱っている。通常と同じように戦えるとは到底思えない。
動くですら違和感があると言っていた彼女たちが、まして命をかけた戦闘などできる訳が……。
「あー、そのことなんだけどさ。不思議とそんなに違和感ないんだよね」
長い黒髪を揺らして『
すぐさま、天井付近を浮遊していた魔女に斬りかかる。
「身体が違っても、心が……感情は似通っているならそれほど問題はないみたいね」
跳ねるように移動して近接攻撃をする『
『,sdmseljfejijwijfjillfi4!?』
入れ替えの、いや、片割れの魔女はもはや弱った獲物とは呼べない彼女たちへ残った手足を伸ばして攻撃を試みる。
しかし、そのたびに弾丸によって、軌道を逸らされ、リズムを狂わされる。長く伸びる手足は地面を殴るか、空を切るのみ。
そこへ容赦なく飛び込んで来る刃。防御へと移ることもできずに二度三度と切り付けられ、後ろを向いたまま、エビのように宙を地上へと退く。
その瞬間、三弾の弾が魔女のがら空きの背中へ放たれた。
地上から援護射撃をしていた『
「……さやか」
「がってん!」
さきほどまで魔女が居た辺りの天井蹴った『
『kdjnflejflijflijwe;ifjij……!!』
背中から斬られた傷。そして、身体を痙攣させた片割れの魔女へ、僕たちが知らぬ間に装填していた弾丸を浴びせる。苦悶の鳴き声を上げて魔女は塵のように細かく分散して消えていく。
その核たるグリーフシードを落として。
「政夫を虐めた罰!」
「これでも足りないくらいだけど」
地面へと降り立ち、『
「どうかっこよかった?」とでも聞きたそうなその表情に苦笑を返した。
一方、平然としている『
「ありがとう。助かったよ」
二人はその言葉を聞くとお互いに顔を見合わせて息の合った一言を述べた。
「「どういたしまして」」
そういうと二人はまた糸が切れたように身体を揺らし、僕の方へ倒れ掛かってくる。
慌てて両手で彼女たちを抱きとめると、彼女たちの服装は魔法少女の衣装から普通の服に戻っていた。
二人の身体から紫色の光と青色の光が入れ替わって身体に吸い込まれるのを見た後、魔女の結界から戻ったリビングのソファに再び彼女たちを横たわらせた。
その後、すぐに駆け付けたニュゥべえに事情を話すと、すぐに入れ替わった皆は元に戻るだろうと教えてくれた。
これで厄介な入れ替わり事件は幕を閉じた。
そう思って、眠った彼女たちの顔を見つめる。本当に助かってよかった。
その後、二人はなぜか身体が戻ったにも関わらず、図々しくも家に泊まり、客間ではあるが夜遅くまで騒いで、朝早くに帰っていた。
規則正しい生活を送る僕としては「寝てください」と何度か頼みに行くたびにゲームやトランプに突き合わされることとなった。
わざと僕を呼ぶために騒いでいた節さえある。
次の朝になればもうこの面倒くさいことは終わる。そう信じて、眠気と共に彼女たちとの夜を過ごした。
だが、まだ入れ替わりの魔女の置き土産は残っていた。
「まー君。おはよう」
赤いポニーテールを下げた杏子さんがそう僕に上品な笑みを浮かべて挨拶をする。
「にしても変な気分だな。あと、肩も凝るしさぁ」
乱暴な言葉使いをして肩をぐるぐると回す巴さん。
「ちょっと変な気分だけどそんなに悪くはないね」
人懐っこく僕にハグをしてくる織莉子姉さん。
「ふふ、皆いっぺんに喋ると夕田君だって混乱するわよ」
どこかぽやぽやとした雰囲気の呉先輩。
僕はそんな皆を見つめて、肩に乗った友人へと視線を移す。
「どういうこと……? 魔女は倒されて戻ったんじゃ……」
「どうやら個人差はあるみたいだね。時間が経てば戻る。うん、戻ると思うよ、多分……まあ、ちょっとは覚悟しておいた方がいいかもしれないけど」
すごく曖昧な発言をして、視線を逸らすニュゥべえに僕は本気でこの状態が続いたらどうしようかと冷や汗をかきながら、寝不足の頭で思考を巡らせていた。
余談だが、これを機会に暁美と美樹は仲良くなった。お互いの思考を覗き見たせいかもしれないが、時折、僕の方を二人で見つめ、真顔で「平等に半分に分けあってもいい」などと意味不明なことを言う時がある。
……何かしらの後遺症かもしれないが、僕の中の第六感はなぜか今までにない恐怖を感じ取っていた。
随分時間が掛かりました。