早く、授業が終わってほしい。早く、学校が放課後になってほしい。
こんなにも家に帰りたいと思うのはいつ以来なんだろう。
登校して数分から私は今すぐにでも家に帰りたい気持ちでいっぱいだった。
嫌な事があった訳でも、学校が嫌いな訳じゃない。
むしろ、その逆で家に帰るのが楽しみでどうしても気が急いでしまう。
「今日はみなさんに大事なお話があります。心して聞くように」
ホームルームが始まり、早乙女先生がいつものような前置きを語り出す。
こういう時は大抵、自分が付き合っている相手とうまくいっていない愚痴をこぼすので、私はそれをぼんやりと聞き流した。
――早く、学校終わらないかなぁ……。
今、私の家には――新しく増えた居候の男の子が居る。
それは昨日の夜から始まった事だった。
***
あの夜、私は勢いだけで川で溺れていた記憶喪失の男の子を家に連れて帰った。
さやかちゃんは能天気に「がんばれ、まどかー」と応援してくれていたが、皆と別れた後、とぼとぼと服を濡らしたまま男の子と歩いている急に思考が冷静になってくる。
どうしよう……パパとママ。許してくれるかな……?
普通に考えて、素直に知らない男の子をしばらく居候させてと頼んで了承してくれるとは思えない。
それに加えて、自分の名前も分からない記憶喪失の男の子だなんて……。
ちらりと隣を歩く男の子の顔を見る。
「あ……」
「うん?」
男の子の方も私を見ていたようで一瞬目が合って、思わず顔を逸らしてしまう。
またもじもじとしてしまう私に彼は少し申し訳なさそうな顔で言った。
「すみません。命を助けていただいた上にそのご迷惑をお掛けてしてしまって」
「い、いや、大丈夫ですよ? 迷惑なんて」
「いえ。やっぱり今日を明かす場所は自分で探しますよ。鹿目さん、でしたっけ? これ以上困らせる訳にはいきませんから」
「え……ま、待って! 待ってください」
彼は一礼した後、私から離れて行こうとする彼の腕をとっさに掴む。
困った顔をしていた私を見て、気を遣っての判断だと判った。だから、尚のさら、ここで放って置く訳にはいかない。
腕を掴まれた彼の困った顔が視界に広がる。違う、そんな顔させたい訳じゃないのに……。
「一緒に……一緒に来てください」
「でも……」
「必ず、何とかしますから!」
必死に拙い説得を続けていると、根負けしたのか彼は苦笑いして一つ溜息を吐いた後、諦めたように近付いてくれた。
「じゃあ、もう少しだけご迷惑をおかけしますね」
「はい!」
悩んでいても仕方ないがない。例え、何と言われても絶対に説得しよう。
そう誓って、彼を連れて家の前まで連れて行き、玄関のドアノブを捻る。
「お帰り、まどか。随分遅いお帰りだね」
スーツ姿で仁王立ちしているママの姿が見えた。
静かな口調だけれど明らかに怒っているのが私には分かる。
うう……とても男の子の同居を頼める雰囲気じゃない。
「まどか……別に遅くなるならそれでもいいよ。でも、こんな時間に帰って来るなら家に連絡ぐらいしなって言ってるだろ。パパだって……って何でそんなに濡れてんのさ? それにそっちの子は?」
「あー、えっと……」
どう説明したらいいか分からず、しどろもどろになる。
その時、横からさっと彼が私を庇うように一歩前に踏み出した。
「すみません。お宅のお嬢さんに助けて頂いた者です。どうやら何かのショックで記憶を失くしてしまった僕のために彼女はこんな夜遅くまで時間を使ってくださいました。連絡ができなかったのも僕のせいです。どうか、彼女を責めないであげてください」
言い淀みのなく、流れるように彼はそう言い切った。
確かに私が彼を助けたのは事実だけれど、遅くなっていたのはナイトメア退治のせいだし、何より連絡をしなかったのは私が忘れていたからだ。
私のせいで彼に嘘を吐かせてしまった。少し罪悪感を懐きつつも、ママの方を気まずい思いで見つめた。
ここで違うといえばきっと、余計に彼を困らせるだろうし、何よりその間にやっていた事を聞かれれば答えられない。
「……なるほど。理由は分かったけど……記憶喪失なの? 君」
「はい。どうやらそうみたいなんです。それの上、先ほど川から足を滑らせてしまって川で溺れかけてしまいまして。一緒に居た彼女に助けてもらい、事なきを得ました」
あれ? 何で川から助けた話を別にしていんだろう?
疑問に思ったものの、次のママの言葉で納得する。
「それで今、こんなに濡れている訳か」
ああ。そうか。
彼の記憶喪失のせいで今日遅くなったって事になっているから、服が濡れている原因を別に作らないとずっと服が濡れたままの状態って事になってしまう。
表情にすら現れないほど自然な嘘を数秒で考え付く彼の頭の速さに私は感心した。
程なくしてママは私たちに上がるように言った後、バスタオルを出してくれた。
「早く入って来なよ。あ、もちろん一人ずつね」
「もう、ママったら……!」
からかうママに怒った後、パパへママに彼の事を説明してくれるように頼んで部屋で濡れたままの制服から、新しい着替える。
川の中に浸かっていた彼の方が身体が冷えているので、先に入ってもらった。
その後、部屋をエアコンで温めてから明日の授業に使う教科書やノートを鞄に詰めていると、ドアをノックする音が聞こえてくる。
ドアを開けるとまだ五分程度しか経っていないにも関わらず、お風呂上がりの男の子姿があった。
洋服はパパに借りたようで少し
「すみません。お先にシャワーをいただいてしまって」
「いや、そんな事ないですよ。シャワーだけじゃなくてゆっくりお風呂に入ってもらってよかったのに」
「十分、温まりましたよ。それじゃ、お風呂どうぞ」
「は、はい……」
パパ以外の湯上りの異性、まして年齢が同じくらいの男の子がすぐ目の前に居る事に意識がいって、急に胸がどきどきと心音を鳴らす。
僅かに水分を含んだ髪。血色の良くなった地肌。それらがひどく色っぽく見えて、恥ずかしさが込み上げて来る。
「じゃあ、お風呂行ってきます!」
「え? ああ……はい、行ってらっしゃい……」
恥かしさを誤魔化すようにパジャマを掴んで、部屋から出て行く。
そんな私にどこか怪訝そうな顔を浮かべた彼は見送ってくれた。
お風呂に入っている間も彼の事が頭から離れる事はなく、湯船の中で悶々としながらも、自分の感情と改めて向き合おうとする。
何でこんなにも彼が気になるんだろう……。
夢で、見た男の子だから? 本当にそれだけ?
そもそも何で夢に出た男の子が目の前に現れたのだろう。
お湯の中で指を曲げたり広げたりしながら考える。
そもそも彼の夢は一体いつから見始めたのか。それも思い出せない。
ただ、同じシチュエーションの夢は一度もなかった気がする。どんな夢か明確に覚えている訳ではないのに、それだけは確かだと思えた。
そんな事を考えながら身体を洗ってお風呂から出ると、パジャマに着替えてからリビングに向かった。
そこにはテーブルに着いたパパとママと、その向かいに座る男の子の姿があった。
「まどか。あんたもちょっとそこに座りなさい」
「はい……」
こうなる事は分かっていたのでそれほど緊張はなかった。
私は彼の隣に座って向かいのパパとママの顔を見つめる。二人とも表情は硬く、悩んでいるような表情をしていた。
隣の彼も明らかに戸惑った顔をしていて、雰囲気が重かった。
これはもしかして、彼が家に泊まるのに反対しているって事なのかな……。
何か聞こうとして、どう切り出していいか分からずにいるとママが先に口を開いた。
「……まどか」
「な、何? ママ……」
ごくりと生唾を飲んで、私はママに聞き返した。
ママは真剣な顔で言った。
「まどかは……『ごんべえ』と『ジョン』どっちがいいと思う?」
「……へ? 何の話をしてるの?」
意味が分からない質問に混乱する私にずっと黙っていたパパが小さな笑みをこぼしながら言う。
「彼の名前だよ。これから居候するのに名前は必要だろう?」
「え、それって……。居候するの許してくれるのっ!?」
思わず大きな声が出た。身体の方も自然と、椅子から立ち上って二人の方に身を乗り出して聞いてしまう。
ママもパパもお互いに顔を見合わせると、すぐに小さく噴き出した。
「ふふ。まどか。僕たちは反対するなんて最初から言ってないよ」
「あはは、何でそう早とちりするかなー。そんなにこの子の事、気になってるの?」
「えー!? だってそれは二人とも何か悩んでたからだよ! 皆、雰囲気だって暗かったでしょ!?」
笑う二人に反論するけれど、私の心には安心感の方が大きかった。
隣の男の子は私に軽く謝った。
「いやー。自分の名前がその二つしか候補がないって言われたのでかなり動揺してました。『名無しの権兵衛』と『ジョン・ドゥ』って確か、身元不明の死体に付ける名前ですよね?」
「あー、記憶喪失でも知識記憶は残ってるんだっけ。そういう話も聞いた事あるけど身元が解らない相手に付けるけど死体かどうかは……そうか。川ね。川で溺れて……」
「……『ドザエモン』とかは本当に止めてくださいね」
「冗談だよ。流石にそんな笑えない名前は付けないよ」
私がお風呂に行っている間に随分打ち解けたのか、ママと男の子は冗談を言い合えるくらいには仲良くなっていた。
思ったよりもあっさりと決まってしまい、拍子抜けした気分だったけれど、これでようやく胸を撫で下ろせた。
「それでまどかはどっちがいいと思う? 『ごんべえ』と『ジョン』」
「ええ!? 本当にその二択なんですか? 他に選択肢はないんですか!?」
今まで大人びて見えた彼の慌てる姿が面白くて、ついつい私もママの言葉に乗ってしまう。
「うーん、そうだね……どっちかっていうと――」
「ちょっと待ってください。本当に確定する段階に入ってませんか!? 別の名前! 別の名前を希望します!」
***
昨日の彼の慌てぶりは面白かったな。
名前が決まった後はすんなりと受け入れてくれたけれど。
今日に帰れば、彼が家に居る。こそばゆくて、どこか嬉しいそんな気持ちが膨れ上がる。
「ふふっ」
「あの」
「え?」
急に声を掛けられて顔をあげると、隣に黒髪を三つ編みにした眼鏡の女の子が立っていた。
誰だろう? こんな子、クラスに居たかな?
困惑している私にその子はぺこりとお辞儀をする。
「初めまして。このクラスに転校してきた暁美ほむらです」
「え、はい。初めまして、鹿目まどかです」
転校生だと名乗った彼女はおもむろに私の手を掴んで来る。
「色々とお世話になるのでよろしくお願いします」
「はあ、よろしくお願いします」
まったくホームルームの内容を聞いていなかったけれど、どうやら転校生の紹介があったらしい。
妙に私に対して、積極的なところがよく分からないけど、悪い子ではなさそう。
そう思って、彼女の手を見るとその指には指輪が嵌っていた。
魔法少女の証である、ソウルジェムを変化させた指輪が。
「え……その指輪」
「はい! だから、これからよろしくお願いしますね」
朗らかな笑みを彼女は私に浮かべてそう言った。
本当はもっと書く予定でしたが、これ以上続けると話の切りどころが解らなくなるのでこの辺りで投稿しました。