「ただいまー!」
学校が終わり次第すぐに帰って来た私は玄関の扉を元気よく開けた。
「お帰り。鹿目さん」
返事は家の中からでなく、庭の方から帰って来る。
振り返った先には、昨日の夜から訳あって居候になった記憶喪失の男の子が居た。
「ただいま、ゴンべえ君!」
「その名前、まだ違和感あるね……」
パパが作った家庭菜園で野菜を収穫していたらしいゴンべえ君は手を止めて、苦笑を浮かべた。
近くには小さな籠にプチトマトが山盛りになっているのが見える。
服装はパパのものを借りているようで、余った裾や袖を捲っていて、手には軍手をはめていた。
昨日の夜、どうしてもゴンべえ君の敬語が余所余所しく感じられて、同じくらいの年齢だろうからとお互いに敬語を使うのを止めた。
「知久さんなら今、タツヤ君と一緒に買い物に出て行ったよ。というか、不用心だよ? 知久さんも詢子さんも素性の分からない相手に家の鍵渡すなんて」
「パパやママはゴンべえ君の事、いい子そうだから信用してくてたんだよ」
「僕が記憶喪失の振りしているだけだったらどうするのさ」
「ゴンべえ君が悪い人なら、今こうやって庭でプチトマト取ってないよ」
「いーや、分からないよー? プチトマト泥棒かもしれない」
ふっふっふっ、とわざと漫画に出て来るような悪役の笑い方をしてプチトマトを摘まむ彼の姿がおかしくて、私は噴き出した。
絶対に彼が悪い人である訳がない。それは夢で彼そっくりの人を見た事があるからじゃなく、ここで『ゴンべえ』としての彼を少しだけだと知ったからだ。
朝、パパの手伝いをして料理を運んだり、たっくんの世話を手伝ったりするゴンべえ君はとてもじゃないけれど、悪い事をするような人間には見えなかった。
「それでプチトマト泥棒さんは一休みして、お茶でも一緒にどうかな?」
「嬉しいお誘いだけど、収穫したこれを洗って冷蔵庫に入れる作業が残ってるからね。それに草むしりもしてたから少し汚れてるし」
「うーん。あ、じゃあ私も手伝うよ!」
「なら制服から着替えてきた方がいいよ」
「うん!」
「あと、それからー……そっちの子はお友達、でいいのかな?」
「え?」
言われて顔をゴンべえ君の向いている方に動かすと、そこには転校生の暁美ほむらさんが居た。
家の敷地へ続く門から少し離れた場所でA4サイズの紙を持って立ち竦んでいる。
「あれ? 暁美さん?」
「あ、すみません。鹿目さんが配られているプリントを忘れていたようなので届けようと思って……追い掛けたんですけどなかなか追いつけなくて。鹿目さん、足早いんですね。全然追い付けませんでしたよ」
困ったように笑ってから、門を潜って暁美さんは私にプリントを渡してくれた。
ああ。そう言えば、帰りのホームルームで早乙女先生が何か配っていたような気がする。
放課後のチャイムが鳴ったと同時に急いで帰って来たので、後ろから追い掛けてくれた彼女に気が付かなかったらしい。
「うそ、ごめんね。それから持って来てくれてありがとう」
「いえいえ。それから私の事は名前で読んで下さっていいですよ」
「じゃあ、私もまどかって呼んで。あ、ゴンべえ君も!」
名前の話になって思い出した。ゴンべえ君は何故か私だけ名前で呼ばずに『鹿目さん』と苗字で呼んでいる。
できれば、私もパパやママのように名前でほしい。
「いや、年頃の女の子の名前を呼ぶのは恥ずかしいんだよ。だから僕は今まで通り『鹿目さん』と呼ばせてもらうよ」
「えー、パパもママもたっくんも名前で呼ぶのに?」
「じゃあ、僕も『名無しの』という苗字で呼んでもらっても構わないよ」
「それ、苗字じゃないでしょ?」
どうにも彼の譲れない一線らしく、私も諦めてこの話題を打ち切る。
プリントを持って来てくれたほむらちゃんも、せっかくなので家に招待しようかと思って彼女の方に顔を向ける。
すると、ほむらちゃんは驚いたような表情でゴンべえ君を見ていた。
「……ほむらちゃん?」
「あの、失礼ですが貴方は?」
「初めまして。僕の名前はゴンべえ。昨晩から鹿目家に厄介になっている者です」
「そうですか……私は、今日まどかさんと同じクラスメイトに転校してきました暁美ほむらです」
「よろしくお願いしますね」
「はい。よろしく……」
ほむらちゃんはどこか釈然としないような顔でゴンべえ君を眺めた後、すぐに表情を切り替えて私たちにお辞儀を一つした。
「それじゃあ、プリントも渡せましたし、私はもう帰りますね」
「せっかく来てくれたんだから飲みものでも出すよ?」
「いえ。押しかけてしまったようで申し訳ないですし」
どうしちゃったんだろう?
まだ会って間もないけど、ほむらちゃんは何だか様子がおかしかった。
同じくらいの歳の男の子が居るから緊張したのかもしれない。
「居候になったばかりの僕が言うのもあれだけど、わざわざ忘れたプリントを届けに追いかけて来てくれたんだから、少しくらい上がってもらってもいいんじゃない? ねえ、鹿目さん」
「う、うん。そうだけど……」
私も同じようにほむらちゃんを誘ったのに、ゴンべえ君が誘うと何だか無性に嫌な気分になってしまう。
ひょっとしてほむらちゃんみたいな子が好きだったりするのかな……。
「ん? どうしたの?」
「ゴンべえ君って……好みの女の子ってどういう子?」
「え、好みの女の子? うーん。記憶がなくなる前はあったかもしれないけど今は特にないなぁ。強いて言うなら、思いやりがあってちゃんと相手のことを理解しようと努力してくれる子、かな?」
よかった……。初対面のほむらちゃん事をの気に掛けるから、ああいう大人しそうな可愛い子がゴンべえ君の好みなのかと思った。
結構踏み込んだ質問をしたつもりだったけれど、不思議なそうな表情で私を見つめる彼はもう鈍感というよりも、異性として認識されてない気さえする。
ほむらちゃんの方は少し考え込んだ後、「少しだけお邪魔します」と私たちの提案を受け入れてくれた。
玄関に靴を置き、リビングへ案内すると彼女は鞄を置いて、窓の外から庭を眺めた。
窓からはゴンべえ君が家庭菜園の野菜を黙々と採り続けている。時折、菜園に生えた雑草を引き抜いたり、水を撒いたりしながら庭を綺麗にしていく。
ほむらちゃんはそんな彼の姿を見ながら、ぽつりと呟いた。
「……あのまどかさん。あの人はご親戚の方だったりするんですか?」
「え、ううん。ゴンべえ君は……実は昨日出会ったばかりなの。川で気を失ってたのを助けたら記憶がないらしくて、それで家に居候してるんだ」
「記憶がないって、じゃあ、まったく知らない人と暮らしてるんですか?」
「うん。そうだけど……」
「失礼ですけど、本当に信用できる方なんですか? ゴンべえさんって」
心配そうに言うほむらちゃんの言葉に私は一瞬、頭に血が上るのを感じた。
「何でそんな酷い事言うの!? どうしてゴンべえ君の事、何も知らない癖に!」
普段ならここまできつい事は言わない。ほむらちゃんの言っている事も私の事を本気で心配しての言葉だと受け止められただろう。
でも、今はそんな心の余裕はなかった。
自分が好きだと思う人を疑われて、私の思考は怒りで一杯になっていた。
ほむらちゃんはとても驚いた顔をした後、目を伏せて素直に謝ってくれた。
「……ごめんなさい。怒らせるつもりじゃなかったんです」
「……私も、ごめんね。少し言い方がきつかったと思う」
それ以上何かを言う気にもなれず、お互いに気まずい沈黙が流れた。
その沈黙を破ったのは話題の中心だったゴンべえ君だった。
彼はリビングに面した窓を外からコンコンと小さく叩いた。
「ん? どうしたの?」
リビングの大きな窓の鍵を開くと、彼は軍手を付けたその手に黄緑色の何かを摘まみ上げるように握っていた。
それはクローバーだった。だけど、その葉の数はよく見かける三枚ではなく、四枚。
「四つ葉のクローバー!」
「うん。今雑草抜いてたら偶然見つけてね。よかったら要る?」
「え。いいの? ありがとう」
にこやかに四つ葉のクローバーを窓から差し出してくれたゴンべえ君にお礼を言う。
受け取ってから気が付いた。私、男の子から物をもらったのは人生で初めての事だ。また、胸がぽかぽかと温かくなるのを感じる。
彼は暁美さんの方にも軽く微笑むと手招きをした。
「暁美さん、でしたね」
「え。は、はい」
「実は四つ葉のクローバー、二つあったんです。よろしかったらどうぞ」
ほむらちゃんにも当然のように四つ葉のクローバーを差し出す。
それを少しためらいがちな様子で窓の傍に寄った彼女も受け取った。
内心クローバーのプレゼントが私にだけじゃない事にがっかりしたのは内緒だ。
「よかったね、ほむらちゃん」
「あの、ありがとうございます」
「いえいえ、幸せの四つ葉のクローバーも家庭菜園に生えていては雑草扱いになってしまいますからね。……それと差し出がましいですけど、あまり暗い表情をしていると幸せが逃げてしまいますよ?」
ゴンべえ君はほむらちゃんを冗談めかして、そう言ってまた微笑んだ。
彼女は渡された四つ葉のクローバーを人差し指と親指で摘まみ、俯いて眺める。
「そうですよね。……すみません」
「うん? どうして僕に謝るんですか?」
「私はまだゴンべえさんの事、よく知りもしないのに……色々疑ってしまいました」
「あー……記憶喪失で居候していることを聞いたんですね。別に構いませんよ。むしろ鹿目さんたちが人が良すぎるというか、疑わなさすぎるので暁美さんの方が普通だと思います」
申し訳なさそうに謝るほむらちゃんに気にした風もなく、ゴンべえ君はさらりと答えた。
少し私やママたちが騙されやすいみたいな言い方が気になったけれど、それも彼なりの軽口なのだろう。
「暁美さんくらい鹿目さんたちも警戒心を持った方がいいね」
「もう! 人を考えなしみたいに言わないでよ……ゴンべえ君だから信じてるだけだよ」
「あはは、でも、鹿目さんはもっと疑った方がいいよ。色々とね」
ゴンべえ君が気まずい雰囲気を変えてくれたおかげでいつの間にか、ほむらちゃんも和やかに笑っていた。
そう言えば、今と似た光景も夢の中で見た気がする。
夢の中のゴンべえ君はいつだって会話の中心に立って、皆を仲良くさせようとしてくれていた。
頭の中でぼやけた情景が浮かびそうになる。だけど、あくまで何となくしか思い出せない。夢の中の事だからちゃんと覚えていないのは仕方ないけれど、はっきり思い出せないのはもどかしい。
そうこうしている内に玄関の方からパパとたっくんの「ただいまー」という声が聞こえてきた。
「知久さんたち帰って来てきたみたいだね」
「それじゃあ、私はもう帰りますね。これ以上お邪魔するのは悪いですし」
「あ。全然お持て成しできなくてごめんね。ほむらちゃん」
お茶も出さずに話し込んでしまった事に謝りながらも、ゴンべえ君とほむらちゃんの会話がここで終わった事にどこか安心していた。
心の中ではゴンべえ君とほむらちゃんが仲良くお喋りをしているともやもやしてしまう。
自分が案外やきもち焼きだったなんて思わなかった。心が狭いと思うけど、どうしても嫌なものは誤魔化せない。
立ち上がってお辞儀を一つしたほむらちゃんにゴンべえ君は別れの挨拶をする。
「また来てくださいね。暁美さん」
「もっと砕けた口調でいいですよ。鹿目さんと同じようにしてもらって構いません」
「うん? それじゃあ、暁美さんも僕や鹿目さんにも敬語を止めてもらってもいい。こっちだけタメ口だと何か申し訳なく感じるから」
「はい、解りました……じゃなかった。……わかった、よ?」
ぎこちない口調でたどたどしく私たちに確認を取るほむらちゃん。
私はその様子があまりにも可愛くてくすりとつい笑ってしまう。
「その調子。まあ、もうちょっと打ち解けたら慣れてかもね。それじゃあ、僕は詰んだ野菜を家の中で洗わないといけないから」
ゴンべえ君はそう言ってから、窓の傍から野菜の入った籠を持って離れて行く。
誰とでも自然体で話せる彼に私は感心する。あれだけ物怖じせずに話ができるなら、記憶がなくなる前は友達がたくさん居たのかもしれない。……もしかしたら恋人も居たかもしれない。
ふとそんな考えに至って胸が少し痛くなる。
ひょっとしたらほむらちゃんも私みたいにゴンべえ君の事を気になってないかと不安になって、廊下の方へ歩いていく彼女を横目で追った。
え……?
けれど、去りゆく彼女の横顔は何故とても悔しさを堪えたような表情だった。