ゴンべえ君は最初から私を騙していた。
記憶喪失でもなければ、行く当てに困っても居なかった。
それどころか、魔法少女のことも最初から知っている様子だった。
――お帰り、鹿目さん。
演技だったんだ。あの笑顔も。優しい声も。穏やかな眼差しも。
全部……嘘だった。全て偽物だった。
彼は私の事を嫌っていた。私と一緒に居た時間を不快とさえ思っていた。
その事がとてもショックだった。
ゴンべえ君が私の事を嫌っていた事にじゃなく、ゴンべえ君に嫌われていたなんて考えてもいなかった自分自身に。
私は何も見えていなかった。……ううん、違う。
見ようとすらしていなかったんだ。誰かを好きでいる気持ちが心地よくて、相手にどう思われているかなんて知ろうともしなかった。
彼が跳び去った夜空を眺める。薄暗い学校の屋上を照らす無数の星と月の光は酷く寒々しく映った。
私はこの空が魔女の結界で、造られたものだと知っている。偽物の空。偽物の街。それなら……。
それなら、演じていたゴンべえ君に惹かれた私のこの想いも偽物なのかもしれない。
いや、そもそも私がいう『ゴンべえ君』というのは一体何を指していたのだろう。名前も覚えていないと言った彼に名前を付けて、ほんの少しの間一緒に居ただけで、何を解ったつもりになっていたのだろう。
夢で見た少年と似ていたから……それだけであっさりと心を許し、信じていた私。思えば、裏切られたなんて言葉を使うにはあまりにも拙い関係だった。
迂闊で考えなしな自分が嫌いになる。今もなお、自分の心の痛みだけで思考が一杯になっている。
駄目だ。意識を切り替えないと。
傷付いて、ふら付きながら立ち上がろうとしているさやかちゃんと杏子ちゃんに手を差し伸べる。
「皆、大丈夫……?」
ここに来た時に一番最初に言わないといけなかった言葉がこんな遅くに出てきた事に呆れてしまう。私の手を取って、立ち上がった二人はまだ身体が痛むのか顔を
「っつぅ、何とかね。さやか、アンタの方は?」
「大丈夫。まあ、杏子ほどコテンパンにやられた訳じゃないからね」
「なんだと、こら! アタシがさやかの分まで庇ってやったおかげだろうが」
さやかちゃんの軽口に反応して杏子ちゃんが拳を振りかぶるが、それをフェンスに寄りかかっていたマミさんが
「喧嘩なんてしている暇はないわ。それよりもここで確かめないといけない事がある」
マミさんはさやかちゃんたちを黙らせると、私を射抜くような目で見つめた。
「鹿目さん。鹿目まどかさん……あなたは一体どこから来たの? 私が知る見滝原市にあなたは居なかった」
私へ一歩一歩詰め寄り、すぐ前まで来たマミさんは私に尋ねた。
「あなたもまた、ナイトメアと同じようにこの世界で生み出された存在なの?」
責めるような静かな声音と口を引き結んだ彼女の表情には普段の穏やかなマミさんと違って、他者を委縮させるような圧力が籠められていた。
怖くなって思わず、私は後退りしてしまう。
「悪いけど、逃がさないわ」
すると、足元から黄色いリボンが這い上がり、身体を包むように巻き付いてくる。
拘束された私にマミさんは瞳だけで尋ねた。
……私が何者なのか。
ゴンべえ君も言っていた。私は何かを忘れていると。
自分の正体もここに居る理由。私はまだ思い出せない。
それがときどき思い出す夢と関係しているの?
「おい。マミ! どうしちまったんだよ! 今、そんな事している場合じゃねーだろ!?」
杏子ちゃんがマミさんに怒鳴るが、彼女はそれに平然と返した。
「佐倉さん。あなたは魔獣と戦っていた時の事、本当に思い出さないの?」
「魔獣と戦っていた? アタシらは……」
そこまで言って、何かに気付いたようにはっとした表情になる。
それからすぐに戸惑ったように視線を彷徨わせて、自分の顔を片手で覆った。
「どういう事だよ、おい。じゃあ、ナイトメアって何なんだ? いや、そんな事どうでもいい……。おかしいだろ、だって、何でこんな事忘れてたんだよ。さやか……アンタ」
震える声で指の端から隣に居るさやかちゃんの顔を見た。
今にも泣き出しそうな表情と一緒に言葉を絞り出す。
「アンタが死んだって事を……」
「………………」
「でも、さやかは実際にここに居る! 夢だよな……? それともあっちが現実なのか?」
「…………」
その眼差しを受け止めてもさやかちゃんは何も言わなかった。自分が死んだと言われても彼女は杏子ちゃんに否定も肯定もせずに黙って見つめ返している。
私と違って狼狽えた様子もなく、杏子ちゃんの言葉を受け入れていた。
しばらく黙っていた後、さやかちゃんは少しだけおどけたように頭を掻いた。
「面と向かって言われると結構、辛いものがあるね。その事実」
「さやか、ちゃん……?」
何を言っているのと私が聞こうとする前にマミさんが口を挟む。
「その様子だとやっぱり、美樹さんは最初から知っていた……いいえ、覚えていたようね」
低く鋭いマミさんの声音を聞いてもさやかちゃんは全く動じた様子もなく、少しだけ困ったように笑った。
「すみません、マミさん。それが私の役目なもんで。なんていうか、あれですね。幸せだからっていつまでもゆっくりしてたのが悪かったのかなぁ」
「さやかちゃん。もしかして私の忘れていた事も全部覚えているの?」
私がそう尋ねると彼女は済まなそうに頷いた。ごめん、と素直に言われて、なんて返したらいいのか分からず、口篭もる。
「まどかは魔女の事、覚えてる? 魔獣じゃなくて」
「うん。それは覚えてる」
逆にマミさんや杏子ちゃんが言っている『魔獣』という存在の方は知らない。もしくは覚えていないだけなのかもしれないけれど、心当たりはなかった。
「そっか。もうそこまで思い出してるんだ。ゴンべえのせいかな……あいつはホント何なんだろうね? 魔法少女の敵とか言ってたけど」
ゴンべえ君の名前をそこで出されて、胸ポケットに入れていた四つ葉のクローバーが気になった。あのクローバーが私に魔女や結界の記憶を思い起こさせてくれた。
「じゃあさ、まどか」
さやかちゃんは私の方まで近付いて、剣を一振り作り出す。それを縦に振るった。
身体を包んでいたリボンがはらりと剥がれて地面に落ちる。さやかちゃんが拘束していたリボンを斬り落としたのだ。
「美樹さん!」
マミさんがそれを咎めるように名前を呼んだけれど、さやかちゃんは手でそれを制した。
「『円環の理』って、言葉覚えてる?」
四つ葉のクローバーの残っていた葉がひらひらと舞い落ちる。頭の中でばらばらに穿たれていた点が線で結ばれていく。
思い出した。忘れていた事を。
どうして思い出せなかったのかが不思議なくらい鮮明に記憶が脳裏に浮かび上がる。
そうだ、私の正体は。ここに居る本当の理由。それは……。
「自力で思い出してくださったのですか?
振り返れば見覚えのない女の子が屋上に着地する姿が見えた。一斉に皆の目がその子に向かう。さやかちゃんだけはそれほど驚いた様子はなかったけれど、他の二人は面識がないようで困惑に近い表情をしていた。
長い白い髪に猫耳のカチューシャのようなものを付けた小学生くらいの女の子。
蘇った記憶が鮮明になっていく。そうだ。私はこの子も知っている。
「なぎさちゃん……」
「はい。お久しぶり、というのは違うですね。ずっと一緒に居た訳ですから」
怪訝そうな顔をしていたマミさんがなぎさちゃんの言葉を聞いて、「もしかして」と小さく呟いた。
なぎさちゃんはにっこりと笑ってから、この世界でよく耳にしていた彼女独特の言語で喋り出す。
「パッパパパパパパパパパパッ!パルミジャーノ・レッジャーノ!!!」
「べべ!」
「はい、そうなのです」
マミさんが呼んだ名前に嬉しそうに何度も頷くなぎさちゃん。
その近くに居たさやかちゃんは肩に剣の背を乗せて、聞いた。
「でも、なぎさ。ほむらと一緒に逃げたのに何でアンタだけ戻って来てるのさ」
相好を崩していた彼女はその言葉を聞くとすぐに顔を引き締めた。
「そうなのです! 何から説明すればいいのか……もう最初から話すのです」
~なぎさ視点~
最初は突然笑い始めたほむらが何をしようとしているのか分からなかった。
気が付いたら背中に乗っていた彼女は自分の真下へと移動していた。時間を止めたのだと理解した時には、既に私の口の中には爆弾が投げ込まれていた。
外皮ならいくら傷付いても問題はなかったけれど、私の内側へと放たれた攻撃ではどうする事もできない。
無防備に開いていた私の口を破裂した爆弾の破片と爆発が襲う。
その寸前。
襟首を掴まれ、外側に引き抜かれるような感覚が私を襲った。
何が起きたのか考える間もなく、私は私の、シャルロッテとしての外皮から引きずり出されていた。
「え、えぇ!?」
見えたのは、脱皮した蛹のように背中の部分がくり抜かれた私の外皮。そしてそれが爆風で燃えている様子だった。
ワイヤーか何かで括りつけた大きな着ぐるみを燃やしたらこういう映像になるのだろうか、なんてまるで他人事のような意識が湧いてくる。
熱を含んだ風と炎が私の方に流れてくる前に、黒い大きな布が私の鼻先ではためき、布が顔の前から消えると燃えていたはずの私の外皮もろとも爆炎は消えていた。
僅かな浮遊感の後、私は近くにあったビルの上に降りた。正確にいえば、降ろされた。
後ろを見れば、白い手袋が私の服の襟首をしっかりと掴んでいる。どうやら感覚ではなく実際に猫のように首根っこを掴まれていたらしい。
屋上の地面に触れた手を見る。白くて五本の指があり、その先端には小さな爪が付いている。
どうやらあの大きな魔女でも、小さな人形の姿でもなく、魔法少女をしていた頃の女の子の姿をしていた。
顔を上げれば、そこにはシルクハットを被り直していた中学生くらいの男の子が居た。
ゴンべえ。正体はよく知らないが、魔法少女の敵だと自ら名乗っていた人だ。
「な、なんで……私を」
「へえ。君、普通に喋れるんだ。てっきり、チーズの種類しか言えないんだとばかり」
「言葉くらい話せるのです! って、なんでそれ知ってるのですか!?」
あまりに失礼な発言についムキになって返してしまったものの、私はこの人の前に直接現れたのはついさっきの話だ。
それに普段はマミがべべと呼んでいるあの小さな人形の姿のはず。この人の見た私は魔女の私なのだから「いつも」なんて言葉が出るのはおかしい。
「ん? だって、君。よく鹿目家の庭を覗いていただろう? あの汚い赤ちゃんマンみたいな姿でさ」
「きたなっ……。ひどい言われようなのです……」
自分でもいうのも何だが、あの人形の姿もそれなりに可愛らしいと思っていたのだが、まさかそんな手酷い評価をさせるなんて夢にも思っていなかった。
若干マスコットとしてのプライドが傷付き、ショックを受けているとゴンべえは少しだけ慌てたように付け加えた。
「あ。でも、恵方巻ピエロよりは全然マシだよ。そこは保証する」
「え、恵方巻ピエロ……」
どんどん酷いあだ名が私に付けられていく……。本人はさして悪気がなさそうなのが輪をかけて酷い。
ネーミングセンスに素で悪意が付加されているような人だ。
いや、今は傷付いてる暇はない。
「気付いたのですか? 私が監視している事に」
マミや杏子と違い、私は最初からこの世界がどういうものなのか把握していて、ここに集められた人たちの事も少なからず知っていた。
だから、この人、ゴンべえが現れた時にさやかに見張るよう頼まれていた。
私は身体が小さく、隠密には適していたし、さやかと違って学校に行く必要もないので昼間の間は自由だ。
神様の家族と一緒に居るこの謎の人物がどういう存在なのか、こっそり監視していたのだが、それが相手に筒抜けだったので恥ずかし過ぎる。
「まあね。電信柱の影からちょくちょく頭出てたし。あと、試しに知久さんからもらった御菓子をいくつか置いてみたらいくつか無くなってたし……」
「なんと! あのベビーチーズは自然発生したものではなかったのですか!?」
監視のために神様の家の周りをぐるぐる回っていたせいでお腹が空いてしまった時、ちょうどいい場所にチーズが置いてあるので喜んでいたのだが、それはすべて私を嵌める罠だったらしい。抜け目ない人だ。
やるなと称賛の目を向けると、何故かゴンべえは困ったように眉根を寄せて頬を掻いた。
「いや、もうちょっと疑おうよ。どこの世界にチーズが湧いてくる壁があるのさ」
「魔女の結界の中ではそうおかしな事ではないのです。私が魔女だった時はチーズ以外のお菓子は結界内で生み出せていたのですよ」
「え、そうなんだ……凄いな、魔女の結界」
「そうなのです! 勉強不足なのですね!」
「ああ。うん、なんかごめんね」
してやったりと胸を張ると、ゴンべえは呆れ半分といった具合で謝ってくれた。
監視している時も思ったが、先ほどマミたちを襲ったような威圧感はなく、優し気なお兄さんのように思えて仕方がない。
私に見張られている事に気が付いたというなら、その時は演技だったのかもしれないが、少なくとも今ここで圧倒的な強さをひけらかしておいて今更演技を続ける意味はない。
「それで、私を何で助けたのですか? まさか魔法少女に見えなかったから、とかなのですか?」
マミたちを敵に回して置いてわざわざ私を助ける意図がよく分からない。魔法少女に見えなかったから助けたというならまだ納得できそうだが、私のこの姿やさっきの会話を聞いて驚いた反応一つしない点からそれでもない。
私がそう尋ねると彼はこちらの台詞の意味を理解してくれたようでにやりと笑った。
「いいや。僕は魔法少女だけじゃなく、魔法を使うもの全ての敵だよ。親切心で助けた訳でもなければ、懐柔する気もないから安心して」
再び、意地の悪そうな笑みを作り、私へステッキの先を突き付けたが、あの人の良さそうな表情を見てからだとこちらの方がよほど演技に見えた。
「君に一つ頼みがある。と言ってもそこまで難しいことじゃない。単なる
「私が断ったらどうするのですか?」
「断らないよ。それでもいいけど、困るのは君らだ」
ゴンべえはステッキを握っていない方の手でシルクハットのツバを摘まんだ。
何かする気なのかと身構えたが、彼はステッキをシルクハットの内側に押し込んで消しただけだった。格好も相まって手品のように見えたが、それは紛れもなくタネも仕掛けもない魔法だ。
「『死にたくなければ街の、結界の端へ逃げることだ』。そう伝えてくれればいい。伝えなくてもいいけど、街の真ん中でだらだらして死ぬのは君らだ」
とん、と地面にシルクハットを逆さに投げた。びくっとして四つん這いのまま、後ろに逃げるが彼はもう私には興味を失くしたように視線すら寄こさなかった。
逆さにしたシルクハットの中に片足ずつ入れる。ゴンべえは内側の穴へとするすると沈むように入り込んでいく。
「ま、後は君の自由にしなよ。メッセンジャーガール」
あまりにも突飛な行動に最初は二の句が継げなかったが、シルクハットを門にしてこの場から去ろうとしているのだと気付き、私は声を上げた。
「ま、待つのです!」
「うん?」
「最後に一つだけ……」
聞きたい事は山ほどある。けれど、どこかに移動しようとしている彼には恐らくそれほど時間はない。
それなら一つだけ。一つだけ絶対に言わなければいけない事がある。
「助けてくれてありがとうなのです!」
もう上半身のほとんどがシルクハットの内側に吸い込まれ、肩口すらも見えなくなっていたが、それでも完全にこの場から姿が消える前に言い終える事ができた。
彼は私のお礼を聞くと少しだけ驚いたように目を丸くした後に微笑んだ。
「どういたしまして」
その呟きが聞こえるとほぼ同時に彼を呑み込んだシルクハットもパッとその場から消失する。
残されたのは私は確信に近い思いが芽生えていた。
あの人は……決して悪い人ではない、と。
騙されないで、なぎさちゃん!
そいつは悪い奴だよ。