黒い手品師衣装に身を包んだ少年が私たちの前に歩いてくる。
革靴の裏がコツコツと地面を叩く音が鳴る度に、彼の足元のコンクリートの大地やアスファルトの道が音もなく、小さく砕けて散る。空中にふわりと舞った破片は淡い紫色の魔力へと戻り、粒子状に分解されて消えていく。
彼が歩んだ道は抉れたように消滅して、大きな一本の線のようになっていた。
昔、パパとママに連れられて美術館に行った時に見た絵画の一枚を思い出す。
杖を持った老人両手を挙げると、海が割れて一本の大きな道なる絵……。
幼いながらにその光景がとても神々しく見えた。タイトルは確か、『海割れの奇跡』。
鉛筆で書いた絵を無造作に消しゴムで消したように、そこだけ床のない空間が開いた。彼が寄れば寄るほどに、私たちへ今まで感じた事のない程の重圧が押し寄せてくる。
表情が見えるくらいに近寄ると、彼は手持った杖の先端を私たちに向けた。
「やあ、いらっしゃい。魔法少女の皆さん。メッセンジャーガールに伝えた通り、結界内の端の方に居てくれたんだね。さっきの余波に巻き込まれていないようで安心したよ」
口の端を緩く吊り上げ、薄笑いを浮かべた彼、ゴンべえ君はそう言った。
細まらない瞳は言葉以上に私に語る。
――お前たちの存在を
私たちを完全に否定しようとするゴンべえ君の強い意志が視線を通じて、私に流れ込んでくる。気が付けば、私は知らず知らずの内に一歩後退りをしていた。
でも……、それでも。
私には引けない理由がある!
手のひらに握った四つ葉のクローバーはもうすべての葉が消えている。
何もかも、全部思い出した。
私が何者なのか。どうしてここに居るのか。ここで何をしなきゃいけないのか。
「私の……」
「パパとママと弟君の安否が心配? それともお友達の黒髪さんの方かな?」
言おうとした事を先に指摘されて、私は虚を突かれて黙り込んでしまった。
その後に返答の代わりに頷く。
「無事だよ。ちなみにここに連れ去られた人たちは先に結界内に返してる」
杖の先を上へ向けて、ゴンべえ君は空を仰ぐように促した。
壊れ始めた街並みや空から落ちて来た燃える飛行船ばかりに気を取られて、今まで注目していなかったけれど、この偽物の見滝原市の上空は大きく円形に切り開かれていた。
あそこの外にママたちやたっくんが……。
私の家の周辺が壊されて、燃え出した時には気が気じゃなかったけど、結界の外に脱出できたんだ。
「良かった。ママたち無事なんだ……」
ほっと安心した私を冷めた目で眺めていたゴンべえ君は何気なく、聞いてくる。
「お前のじゃないだろう?」
「え……」
「あの人たちは人間だ。でも、お前はもう違うだろう? ねえ、円環の理さん」
「でも、私はパパとママの子供で……」
「もう違うだろう。お前は人間という存在から踏み外し、現象に成り果てた。人間から神なんぞに
「…………………」
「汚らしい
瞳の笑ってない冷酷な笑顔でゴンべえ君は私に吐き捨てるように言い放った。
胸の奥にある大事な何かを思い切り鷲掴みにされたような苦しみが私の中で広がった。
彼に言い返すどころか、呼吸さえもままならなくなる窒息感に支配される。私が、「すべての魔女を生まれる前に消したい」という願いを叶えてから感じた事のない、人としての心の痛み……。
大好きな彼から、自分の存在を全否定される苦痛。
振り返るとさやかちゃんが背中をその手で支えるように、立っていた。
「さやか、ちゃん……」
「大丈夫だよ、まどか。そんで……いい加減にしなよ、ゴンべえ」
私に優しく微笑んだ後、鋭く引き締めた表情でゴンべえ君を睨んだ。
「さっきから聞いてれば、何様のつもり? アンタが何なのか知らないけど、まどかにそこまで言う資格はないでしょう! まどかは何も覚えてなかったんだから」
私の代わりに反論してくれるさやかちゃんに心強さを感じ、再び、挫けかけていた心を落ち着かせて、ゴンべえ君と対峙する。ふら付きそうになった脚に力が戻った。
だが、彼はさやかちゃんが私を庇って出てくる事を予想していたらしく、間髪入れずに言葉を返した。
「あるさ。だって、僕は黒髪さんじゃなく、そのピンク髪さんに引きずり込まれてここに居るんだから。それも思い出してくれたんだろう? ねえ、ピンク髪さん」
そう。そうだ……。
ゴンべえ君、ううん。『彼』をこのほむらちゃんの結界の中に引き込んでしまったのは私だった。
『彼』が元の世界、元の時間でその命を終わらせた時に私は『彼』に会いに行った。
不完全だったせいで濁る前に消滅してしまったとはいえ、一度ソウルジェムになった『彼』の魂は円環の理に触れる事ができたからだ。
けれど、彼は私と一緒に来る事を望まなかった。
『彼』は最後までどこにも行かず、消滅する事を……人として死ぬ事を選んだ。
その後に、ソウルジェムを濁らせてしまったほむらちゃんの元に行った私はキュゥべえの目論見通りに、ほむらちゃんの結界に囚われる事になる。
しかし、私が自分を忘れる寸前に、最後に言葉を交わした『彼』へ手を伸ばしてしまった。
消えかけた『彼』の魂に私は無我夢中で触れてしまった。
その時に『彼』はここに引き込まれて、やって来たのだろう。
「……私のせい……なんだよね? 『あなた』がここに来たのは……まさ……」
「お前がその名前を口にするな」
私が名前を呼ぶ前に、『彼』の声が遮る。
口調は淡々としていたが、低く籠ったその声には激しい怒りが含まれていた。
今までも敵意という感情は向けられていたが、一層鋭く発せられた気迫はもう殺意と言ってもよかった。
「……まどかのせいでここに来たのは分かったよ。でも、そこまで否定されなきゃいけない理由なんてない。だって、まどかの両親も喜んで……」
ゴンべえ君の態度に気圧されたのか、それとも彼の境遇を理解したせいか、少しだけ語気が弱くなったさやかちゃんはそれでもなお私を庇おうと言葉を紡いでくれる。
だが、そんな彼女の言葉に呆れるように彼は、薄笑いで一蹴した。
「君は弁護しなきゃいけないよね。ピンク髪さんの一部な訳だし、何より最初から分かってこの結界を放置していたんだもんねぇ」
「……どこで分かったの?」
「気付かないとでも思った? 君の行動の不自然さに」
彼は押し黙ったさやかちゃんにクイズの答えでも教えるような気楽さで続ける。
「この世界の『設定』じゃあ、ナイトメアは一定の手順を踏むんだろう? 見てたよ。あの間抜けなお茶会もどきの浄化の光景を。でも、君は僕が黒い卵状の姿で現れた時、一人だけ武器を使って倒そうとしてたよね?」
ゴンべえ君は一瞬だけ顔をシルクハットのツバで隠すと、あの夜にあった黒い卵から手足の生えた異形の姿、卵のナイトメアに変身する。
「それはつまりナイトメアでないと認識していた、ということだ。ナイトメア以外の存在だと知って、なおかつ他の仲間には何も言わなかったのは、この
だから最初は君がこの結界の魔女だと思ったよと一言付け加えて、彼は元のゴンべえ君の姿に戻る。
外したシルクハットをもう一度被り直しながら、彼は話を戻そうと言った。
「否定されなきゃいけない理由がないだったっけ? あるさ。大いにある。だったら彼らの人生はどうなる? こんな偽物の街で一生過ごせとでも。ああ、失った娘と居られるから幸せだって? じゃあ、タツヤ君はどうなる? このまま、偽物の街で成長して、大人になれって言うの? それに同じくここに居る他の人たちはどうなる?」
彼は懐から一枚の黒い布を足元へと広げて見せた。
そこには夜の砂漠でベッドやソファに横たわる、パパとママ、たっくん。それに早乙女先生、仁美ちゃん、上条君の映像があった。
皆、この結界に囚われた人たちだった。結界内の光景には見えないから、多分、結界の外なのだろう。
「外に居る、彼らを大切に思う人はどうなる? 彼らを失って悲しまないとでも思ったの? 居なくなった人を身を粉にして探さないとは考えなかった? それでもこの街で幸せそうならいいじゃないかって?」
「違う! そうじゃない!? 私はただ……」
けれど、彼の理屈に反論するための台詞が思い浮かばずに口を止めてしまう。
さやかちゃんは全部覚えた上でこの街で過ごしていた。だからこそ、もう手に入らない幸せと、心地よさを私以上に感じてしまったのだろう。
きっとゴンべえ君の言い分は正しい。でも、それだけじゃ割り切れない事だってあるはずだ。
私が今度はさやかちゃんを擁護しようとした。
けれど、その前に杏子ちゃんが叫んだ。
「何が悪いんだよ! さやかは……さやかは何もかも失ったんだ! ちょっとくらい楽しい思いをして、何が悪いんだよ!?」
「……杏子ちゃん」
「杏子……」
彼女に私とさやかちゃんは揃って顔を向けるが、杏子ちゃんはただ前に居るゴンべえ君の方を向き、悔しそうな、悲しそうな表情で続ける。
「アタシらが……魔法少女が……ちょっとくらい楽しい思いをするのがそんなに悪いのかよ! そりゃあ、他の奴らには帰る場所や待ってる奴もいるかもしれない。……けどなぁ、それでもアタシはさやかとここで一緒に居られた時間は掛け替えのないものなんだ! それをお前なんかが否定すんな!」
彼女は叫びと一緒にゴンべえ君へ向かっていく。
彼女の武器であり、魔法でもある赤い槍を構えて、その場で複数人に分身した。
大して迎え撃つゴンべえ君は表情すら変えずに、無造作に立っている。
四方八方に散った何人もの杏子ちゃんの幻影は大きく跳び上がり、空中から囲むように槍を突き出した。
「別にそう思うならそれでもいいよ」
面倒くさそうな呟きと共に彼は乱雑な手つきで杖を横薙ぎに振るう。
それだけで間近まで迫っていた杏子ちゃんの幻影は赤い粒子状に霧散した。
だが、一人幻影が消えた時の赤い粒子を眼くらましにして、背後に回り込んでいた本物の杏子ちゃんが彼の背に槍を突き立てる。
「もらった!」
槍の柄の半分くらいがゴンべえ君の身体に埋まったように見えた。
私たちは言葉を失い、彼と杏子ちゃんの姿に目を奪われている。
「でも、それはもう人間の理屈じゃない。人でなくなった化け物の理屈だ。他者を犠牲にして、心地よさを得るなんて……それはもう文字通り、『魔女』だよ」
杏子ちゃんが放った突きは確かに彼を捉えていた。並みの魔女ならその一撃だけ倒せていたかもしれない。
けれど、相手はゴンべえ君だった。
彼の本当の名前は『夕田政夫』。
私の知る、たった一つの魔法少女にならない私が居る世界でその命を引き換えにワルプルギスの夜を一人で倒した男の子。
「……な」
杏子ちゃんの槍は彼に触れた槍は、接触した瞬間にその部分を消滅させていた。
彼女の手元に残った柄もじわじわと侵蝕されるように端から、消えていく。
自分の背後に居る杏子ちゃんにゆったりとした動作でゴンべえ君は振り返った。私の居る位置からでは見る事はできなかったけれど、浮かべている表情は想像が付いた。
酷く冷めた、軽蔑的な眼差しだろう。
杏子ちゃんは驚愕したように両目を開き、硬直している。
完全に決まったと感じた攻撃を避けられたとしても、防がれたとしても、魔法少女としてベテランの彼女はすぐに距離を取り、立て直しができたと思う。
しかし、これは違う。
攻撃をした事自体が無意味だった。
自分が持つ武器が敵に効かないと知ったのだ。
「ねぇ。赤髪さん。一度手合わせした時に気が付かなかったの? 僕がどれだけ君たちに対して加減をしていたかを」
そっと彼女の頬を白い手袋の手が撫でた。
それは傍から見ているだけでも、優しく穏やかな手つきだった。
「まるで産まれたての赤ん坊を抱きあげるように、慎重に、慎重に壊さないようにしてあげていたんだよ? 豆腐のように
「……い……やめ……」
杏子ちゃんは動かない。
恐怖で凍り付いた様に、彼の顔を凝視したまま、微動だにしない。
ゆっくりと彼の手が杏子ちゃんの下に移動する。
そして、彼女の形状が十字架にも似た形になったソウルジェムの前で止まった。
ジェムの表面にゴンべえ君の指が伸びた。
「やめて! やめてよ……! ゴンべえ君!」
赤いソウルジェムが粒子状になって消滅する――そんな光景が嫌でも想像できた。
私とさやかちゃんが彼らの方へ走り出す。
駄目だ。間に合わない。彼ならきっとソウルジェムに触れるだけで魔法少女を殺せる……。
私たちを弄んでいるのか、急ぐ素振りさえ見せずに彼はソウルジェムへと人差し指を近付ける。
「止めて! 待ってよ!? 杏子を殺さないで!」
悲痛な叫びが隣を走るさやかちゃんの喉から漏れた。
けれど、ゴンべえ君の動きは止まらない。
杏子ちゃんも動かない。至近距離に居る彼女の方が彼の持つ、圧倒的な恐怖に身体を支配されているからだ。
白い指が杏子ちゃんのソウルジェムに触れそうになる瞬間。
その時、彼女の身体を巻き付くように黄色のリボンが伸びた。
リボンはゴンべえ君――ではなく、杏子ちゃんに巻き付くと、大きく後ろへと戻っていく。
杏子ちゃんを絡め取るように引き寄せたのは、いつの間にか私たちとゴンべえ君を挟んで反対に移動していたマミさんだった。
「マミさん……杏子ちゃんは!?」
「大丈夫。無事よ」
大事そうに彼女を抱き上げるマミさんは赤い十字架に似たソウルジェムを指差す。
杏子ちゃんは荒い息を吐いて、冷や汗を流しながら、
さやかちゃんはよほど安心したのか、その場でほっと胸を撫でおろした。
「でも、何一つ。事態は好転してないわ。それどころか……」
マミさんは顔を顰めた。
「効かなかった……アタシの槍……。それだけじゃない……アイツの身体に槍を通して、触れた瞬間……何もかも消えてなくなるような、嫌な気持ちを感じた……」
唇が震えすぎているせいで、途切れ途切れに杏子ちゃんは声を吐き出した。
ゴンべえ君に魔法は効かない。魔力で生み出した武器は彼に触れただけで消えてしまう。
そして、あの杏子ちゃんでさえ、戦意を挫かれるほどの存在……。
顔を上げれば、先ほどの場所から一歩も動く事もせずに、私たちを眺めていた。
「君たちがこの『泥で作ったケーキ』を美味しい美味しいと
彼は宣言するように杖を振るう。
「罪のない人たちを巻き込み、己の快楽だけを求めるのならそれでもいいさ。絶望から逃げるために希望という名の妄想に耽溺する化け物なのは知ってるよ。さあ、来い!
否定の魔王は私たちの前に立ち塞がる。
前に彼は私に言った。自分は魔法少女の敵だと。
お待たせしました。
まだまだクライマックスには程遠いですが、台詞シーンが多いです。
次回も台詞ばかりになりそうですが、もう少し場に動きを入れたいと思っています。