背後にある少し離れた場所で硬質な物と物がぶつかり合う音が聞こえてくる。
さやかちゃんがゴンべえ君を食い止めてくれているんだ……。
直接、目で見なくても響く音でどちらが劣勢か分かる。片方の鋭い摩擦音はさやかちゃんの剣、もう片方の鈍い打撃音はゴンべえ君のステッキ。前者の方が手数は多いけれど、徐々に後者の音のする間隔が早くなっている。さやかちゃんの剣がじわじわと押されているんだ。
さらに間に挟まれる、“柔らかい、水気の含んだものを叩く音”が薄っすらとし始める。
圧倒的な一撃で倒さず、あえて緩やかにじわじわと弱らせる。猫がネズミを食べる前に、痛め付けるように。
そして、これは私に聞かせるためにやっている。
彼の声が耳元で囁かれているかのように、易々と想像できた。
――お前のせいで、こいつは嬲られているよ。 お前の愚かさと弱さのせいで、こいつは傷つけられているんだよ。
駄目、早くしないと……。
一刻も早く、杏子ちゃんに加勢に行ってもらわないと間に合わなくなってしまう。
当の杏子ちゃんは、ぐったりと力なく横たわったまま、動かない。両目は薄く開いており、浅い呼吸を繰り返している。
顔には
「起きて、杏子ちゃん! じゃないとさやかちゃんが、殺されちゃうの……!」
「………………」
杏子ちゃんは返事をしてくれない。
肉体ではなく、心の方が参っているのだ。さっきまでの私のように気力を完全に奪われている。
でも、彼女の気持ちに気を遣ってあげられる余裕はない。
「杏子ちゃんっ! お願い、立ち上がって!! さやかちゃんが大変なんだよ!?」
……違う。そうじゃない。これではいけない。
私はまた相手を見ずに、自分の都合だけを押し付けている。
身勝手な神様のままだ。何一つ進歩してない。私はまた繰り返すつもりなの?
ちゃんと。ちゃんと相手の事を考えなくては駄目なんだ。
まずは、そう。杏子ちゃんの心の痛みを知る事。
どうして、起き上がれないのか
お腹の底を意識して、深呼吸。すー、はー、すー、はー。焦りと怯えを息と一緒に吐き出して。
「杏子ちゃん、教えて。どうして、動けないの?」
相手の心に寄り添って、手探りでも助ける方法を考える。
それが誰かと対話するって事。他人の心に踏み込む最低限の作法。
「私はあなたの力になりたいの」
あなたの心へ、今飛び込む。
虚ろだった杏子ちゃんの瞳が初めて私が映された。
「……アタシは、さやかの事をモモの……妹の代わりにしてたんだ」
「さやかちゃんが?」
「笑っちまうだろ? 死なせた妹に重ねて世話焼いてたんだ……それが願いによって家族を死に追いやった罪滅ぼしやって誤魔化してた。挙句、その事をあいつに、ゴンべえの野郎に指摘されてみっともなく
自嘲気味に笑う杏子ちゃん。その表情には深い後悔と絶望の陰が滲んでいた。
願いは呪いと同じ。そう言われた事が嫌でも脳裏に再生される。
杏子ちゃんの願いは家族にとっては呪いだったのかもしれない。
「『妹』の代わりのさやか、そして今のあのさやかは『死んださやか』の代わり、ずっとそんなのだ。アタシは結局、代用品が欲しいだけだったんだよ」
そして、その喪失の苦しみを紛らわすために、さやかちゃんを妹の代わりに可愛がっていた。少なくとも杏子ちゃんはそう思っている。
違うって否定してあげたい。そんな事ないよって慰めてあげたい。
でも、その行為は私の自己満足だ。私が否定したところで意味がない。
きっと、彼女の吐露は嘘じゃないのだろう。彼女の心の中では確かな事実なんだろう。
だからこそ、そこを突いたゴンべえ君の言葉で心まで打ち砕かれたのだ。
「あのさやかは『アタシが知るさやか』じゃないんだろ? 本当のさやかはもう死んでる。アタシは嫌になったんだ! 誰かを他の誰かの代用品にしちまうのも! それで結局守り抜く事もできないアタシ自身も! ……まるで“幻覚”だ。アタシの魔法と同じ、見てくれだけあっても肝心の中身がねぇ、空っぽの幻覚」
目元を隠して杏子ちゃんは泣き出した。いつもの気丈で、強気な彼女の姿はどこにもなかった。
今更、彼女の過去を掘り返したって何もならない。否定はしない。誤魔化しの慰めもしない。
私はただ、尋ねるだけ。聴いた話を頭で整理して、疑問をぶつける。それだけ。
「じゃあ、もし杏子ちゃんの妹さんが生き返ってくれるなら、さやかちゃんは要らない?」
「何でそうなるんだよ……モモが生き返ったって、さやかが要らなくなるなんて……」
「要らなくならないなら、杏子ちゃんの妹さんとさやかちゃんは同じじゃないよ。たとえ、代わりにしていたとしても、それが全てじゃない。思い出して、さやかちゃんと過ごした時間を。この偽物の見滝原で体験した記憶を」
「…………」
「幻のように残らないものだとしても、それでも確かに『在った事』だよ。 杏子ちゃんは、さやかちゃんと一緒に暮らしてたんだよね? その笑顔は妹さんと同じものだった? 二人で一緒に交わしたお喋りも、ふざけて遊んでた時も妹さんの代わりにしか映らなかった?」
もしも、杏子ちゃんが「同じだった」と肯定するなら私はもう彼女に無理は言わない。
責めるつもりも、失望も起きない。ただ、杏子ちゃんにさやかちゃんを助ける理由がないのだと納得して、マミさんたちの方へ向かうだけだ。
けれど、許されるなら。
杏子ちゃんにはさやかちゃんとの思い出を無意味だと思ってほしくない。さやかちゃん自身には代用品としての価値しかなかったなんて認めたくないから。
見つめた彼女の顔がくしゃくしゃに歪む。喉から
「っ、そんな訳ないだろ? 同じじゃない。同じなんかになるもんか!」
―—否定だった。
「さやかはモモは違った! モモと違って文句をすぐに言うし、モモと違ってアタシに反抗的だった! でも、明るくてうるさくて、友達想いなとこがあって……それから。ああ、チクショウ!! こんなに違うのに、アタシは……アタシは!」
止め処なく溢れる感情を言葉に還元する事ができずに彼女は叫んだ。
握り込んだ拳をわなわなと振るわせて、まとまらない台詞を涙と共に
私はその拳にそっと手を添えた。
ハッとした様子で杏子ちゃんは私へと視点を戻した。
「……まどか。さやかは一度死んだんだろ?」
「……うん。そうだよ」
「だったら、今のさやかは何なんだ? 幽霊みたいなもんなのか? それとも同じ姿をしているだけの魔力の塊なのか?」
「それは……私にも答えられない。でも、あのさやかちゃんは私の事を友達として助けてくれた。だから、私は友達として助けたいの」
「なら、アタシも同じだ。アタシもさやかを助けたい。『友達』、だからな」
そう微笑んだ彼女の瞳にはもう絶望の色彩は残っていなかった。
その瞬間、握り締めていたその拳の内側から暖かな光が漏れ出す。赤いランプシェードような強くて、綺麗な光。
私はその光を知っている。
驚きつつも杏子ちゃんは手を開いた。その手のひらに乗っていたのは。
「これは……アタシの、ソウルジェム」
赤い。赤い彼女の魂の形。
その輝きが頂点に達すると、私の前で横たわっていた彼女の姿は魔法少女の衣装へと変化していた。
「立ち上がれる……魔力も、体力も完全に戻った!?」
杏子ちゃんは立ち上がって、自分の姿を眺めまわす。両手を開いたり、閉じたり確認して困惑したように言った。
「魔法少女の力が戻ったのはいいけど、都合良すぎないか? 急にうまく行き始めたみたいで実感が湧かないよ」
さやかちゃんに続いて、杏子ちゃんもまた封じられた力を取り戻した。
彼女の不安は私にも共感できる。まるで御伽話ような用意の良さだ。
でも、あえて私はこう言う事に決めた。
「そういうものじゃないかな? 『最後に愛と勇気が勝つストーリー』、っていうのは」
「なんだ、そりゃ? 誰かの台詞か何か?」
「……うん。私に諦めず、前に進むように背中を押してくれた人の言葉だよ」
怪訝そうな表情の彼女はそれを聞くと、呆れたように口元を弛めた。
「随分、楽天的な奴だったんだね、そいつ。ま、考えてみたらアタシもそういうのに憧れて魔法少女になったんだよね。それじゃ、まどか。行ってくる」
「うん。私も頑張ってみるから」
「マミたちの方、頼んだ。あいつはアタシよりも
それだけ言うと彼女はその手に愛用の槍を生み出して、戦っているさやかちゃんの元へ駆けていく。
力強く、格好いい彼女の背は私が契約をする前と変わらない姿だった。
私もまた、自分にできる事を成すためにその場を後にする。
今度は、助けてみせるよ。さやかちゃん。
~杏子視点~
身体が変に軽い。地面を擦過する脚が軽やかに動く。油を刺したばかりの機械の歯車がスムーズに噛み合うようになったみたいだ。
ソウルジェムも輝きが増している。あれだけ魔力を消費したのに穢れがまったく溜まってない。
一度、魔法を封じ込められた時に穢れも一緒にリセットしたっていうのか?
あのよくわからねえが、理不尽な魔法もアタシらに有利に働いてくれるっていうなら最大限に利用しない手はねえ。
一呼吸で腹に力を籠め、大きく地面を踏み込み、宙へ跳ね飛ぶ。
五メートル以上空へ舞い、滑空。
目に飛び込んできたのは忘れもしない、シルクハットと燕尾服の手品師の男。ゴンべえ。
そして。
……見つけた。さやかの姿。
「っ……」
千切れたマント。本来白いはずのそれは血で真っ赤になり、ボロ布のようにそよいでいた。
散乱する赤い布切れの真ん中にはゴミ袋のように小さくなって
倒れてもなお、そのステッキで何度も、何度も執拗なまでに打ち付ける。もう痛みを与えるための攻撃には見えなかった。単純に音を出すための楽器のように叩くような無機質な正確さだけがそこにはあった。
それが目に入った瞬間、怒りが弾けた。抑えていたピンが抜け、激しい感情が絶え間なく流れ出る。
「おおおおおおおおお!」
空中から握り締めた槍を自分ごと、ゴンべえ目掛けて突き出した。
頭上からの刺突。高度を力に変えて、刺し貫く!
しかし、奴は
インパクトの瞬間、シルクハットのツバの下から見えた口元には笑みの形に歪んでいた。
地面を砕きながら、深々と突き刺さった槍を手放し、アタシはさやかへと飛び付いた。
「さやか! 無事か!?」
無事ないことなんて遠目からでも嫌って程すぐに分かったのに、そんな台詞しか出ない自分に腹が立つ。
「……ごほッ、きょ、うこ……?」
「ああ、アタシだよ! 大丈夫か? まだ意識ははっきりしてるか?」
「うん、だい、じょうぶ」
「んな訳あるか!? どう見たってボロボロじゃねえかよ!」
こんな時まで虚勢の台詞が出るこいつに泣きたくなった。けど、泣く訳にはいかない。
一番、泣きたいさやかが頑張っているのだから、アタシが泣いてどうする。
「加勢に来た。アンタ少し休んでなよ。ここはアタシが」
「駄目。一人じゃ、あいつには絶対に、勝てない。二人でも正攻法じゃ、無理」
「チッ、じゃあどうするんだよ!?」
二人でも勝てない。それはアタシにだって分かる。
認めるのは癪だが、こいつの強さは魔獣とは比較にならない。この野郎なら魔獣の軍勢一ダースでも二分と持たないだろう。
でも、実際問題、これ以上さやかは戦えると思えない。殺されなかったのは向こうが遊んでいたからに過ぎなかった。
「……一つだけ方法がある」
蹲っていたさやかが顔を上げた。
痣のないところのほとんどない、酷い面構え。治癒だって高いはずのさやかが直し切れないほどの傷。
さやかはそんな顔をぶらさげて、何か言いたげに見つめている。
「何だよ、方法って」
「それをしたらさ、あんた。あたしの事、嫌いになるかも」
はあ? 嫌いになる? 何ふざけた事、抜かしてんだ。この馬鹿。
剥き出しの肩を掴んで、アタシはこう言ってやった。
「アタシが、さやかを、嫌いになる訳ないだろ!? 馬鹿も休み休み言え!?」
一瞬だけ驚愕した顔を向けた後、柔らかくさやかは笑う。
「そっか。じゃあ、見せるね。とっておき」
自分の剣を杖がわりにして、よろめきながら立ち上がるとその剣を天に
青い光がその切っ先を通して、上へと上昇し、そして形を変えていく。
さやかの身体も伸びる光の渦に巻き込まれ、次の瞬間には見た事のない何かへと変貌していた。
腰から下は長く伸びあがり、鱗のようなもので覆われている。その先端には二股に分かれたヒレ。
鎧にも似たごてごてした装飾品のある黒っぽい身体。
頭部は大きなハートのような形をしていてその中央には人の頭に似た顔があり、目のある位置に三つの黒い穴のようなものが一列に並んでいる。
巨大な人魚、と言えばいいのか。あるいは仮面を付けた騎士だろうか。うまく形容する単語が浮かばない。
「さやか、なのか?」
『そう。これがあたし。……どう? やっぱ嫌いになったでしょ?』
くぐもった声だったが、それは紛れもなくさやかの声だった。
それを聞いた途端、何だか安心してしまい、つい軽口が出る。
「何でだよ。いつもよりもよっぽど頼りになりそうじゃないか?」
『ええ!? それじゃ、いつものあたしが頼りにならないみたいじゃない!』
「だから、そう言ってんだよ」
やっぱりこいつは、さやかだ。馬鹿で、能天気で、その割に傷付きやすい面倒な友達。
姿かたちが変わったくらいじゃ、アタシたちの関係は変わらない。
なんだ、こんなにも簡単な事だったのか。
『お喋りは後にしよ……奴が来る!』
「そうだな。じゃあ、アタシとアンタのコンビプレー、あの野郎にたっぷり味合わせてやろう」
新たな槍を手元で作り上げ、大きく構える。
墨汁でも零したような黒い、邪悪な人型がアタシたちの前へ立つ。
さやかが異形でも人間らしい雰囲気を失わないなら、この男は逆だ。
人の形を保っているのに、人外の雰囲気を醸し出している――。
「人数を増やして、的まで大きくして、そこまで構ってほしいの? 困った女の子たちだ。いいよ、付き合ってあげる」
恐怖を振り撒きながら、それは一歩ずつ近づいてくる。
直視するだけで冷や汗が滲んだ。口の中から水気が無くなる。
それでも、アタシたちは希望を捨てずに戦う。
それが最後に愛と勇気が勝つストーリーって奴なんだろう?