「すうー……はあー……。すうー……はあー……」
深呼吸をして、心を落ち着ける。
平常心を維持して、感情の起伏を一度平坦に整える。
私が持てる限りの最大の力。それを呼び出すためには、今までとは比較できないほどの感情エネルギーが必要だ。
小刻みの感情では駄目。大きく、強く、激しい、そんな感情を紡ぐには心と気持ちを統一して、集中しないといけない。
「まどか……。大丈夫?」
私の斜め後ろからほむらちゃんが心配そうに尋ねてくる。
これから否定の魔法を倒すに当たって、ほむらちゃんには背中から降りてもらっていた。
「うん、大丈夫……って言いたいところなんだけど、私にも断言できそうにないや」
勝つか負けるかだけじゃなく、ゴンべえの事で揺さぶられている。
私とほむらちゃんだけが一時離脱し、後方に下がる時にゴンべえの魔法が彼の身体を蝕んでいる事と彼が私たちのために敵対している事を皆に話した。
これだけ命懸けで戦ってきた皆には到底受け入れられない話だと思っていたけれど、予想外に納得してくれた。
特になぎさちゃんは薄々それに気付いていたようで、腑に落ちた様子だった。
今回の作戦のために皆と別れる際、なぎさちゃんは私だけにこっそりと話してくれた。
『ゴンべえはなぎさを脅す時に言っていたのです。魂が消えていく感覚は痛みや苦しみだけではなく、自分の感情や記憶がどんどん消えてなくものだと。……その言い方が、まるで自分自身で体感した事があるみたいな口調だったのです……』
なぎさちゃんの感じた通り、それはゴンべえ君自身が味わっている苦しみなのだろう。
私はあらゆる時代、あらゆる場所でたくさんの魔法少女を見てきた。
種類は違っても、激しい痛みや耐え難い苦しみを味わって、それに耐えて戦ってきた女の子たちを何人も知っている。
でも、それは確固とした信念や、何よりも大切な記憶が彼女たちの柱となって挫けそうになる心を支えていたからだ。
大切な思い出も、掛け替えのない想いも消えていくなら。
自分を支えるものなくなるのなら。
一体、そんな残酷な仕打ちに誰が耐えられるって言うの?
そんな絶望……魔法少女どころか魔女にだって耐えられない。
けど……あなたは耐えるんだよね?
耐えてしまうんだよね……?
あなたは、自分の
縁もゆかりもない、私たちのために。
……酷いよ。本当にどうしようもなく、酷い。
あなたは、そんな自分を倒せって言うんでしょう?
あなたの事を、本当に心の底から好きになってしまった私に。
残酷だ。残酷なほど厳しくて、残酷なほど親切だ。
これがあなたが出した最後の試練だというのなら、乗り越えるしかない。
目を瞑る。乱れていた感情が一つに寄り合わさり、一本の矢のように連なっていく。
これでは駄目。
彼に刺さらない。もっと鋭さが必要。
矢の穂先が尖っていく。
これでは細い。
彼を砕けない。もっと太さが必要。
矢が太くなり、丈になっていく。
これでは短い。
彼を撃ち抜けない。もっと長さが必要。
矢は長くなり、盾に伸びていく。
これでは弱い。
彼を倒し切れない。
矢は光を帯びて、眩く輝いていく。
これだ。これなら彼を打倒せる。
両目を見開き、心の中で描いた最強の矢を作り上げる。
矢に合わせ、木製に似た弓が大きく展開、樹木のように大きく成長した。
その両端から糸のようにしなやかな線が弦となる。後は矢を生み出すだけ。
不意に言葉が口を突いて零れた。
「ほむらちゃん。魔法少女ってこんなにも辛いんだね」
「……いいえ、まどか。きっとそれはあなたが恋をしたからよ……」
「恋、これが恋なんだ。人を好きになる事は痛くて、苦しいんだね」
「ええ、そうね」
******
~杏子視点~
ゴンべえは今にも崩れそうな身体をすり減らしながら戦っている。
そして、あいつはアタシら魔法少女のために敵を演じている。
その話をまどかから聞いた時にアタシが懐いた感情は……たったの一つ。
――ムカつく!
何だそりゃ、ふざけんな! 何様だよ、お前……。
黒く、巨大な卵のような奴を見上げ、睨み付ける。
道理であいつに一撃喰らわしてやったってのに気分が晴れねー訳だ。
結局のところ、アタシら魔法少女はお強いゴンべえさんに手加減してもらって、ようやく一発殴らせてもらったって話。
あの槍で胸を貫く瞬間だったって、黒布を呼んで逃げるなり、防ぐなりできたはずだ。瞬き一つの間で街中にばら撒いた黒布であんな巨体を練り上げるだけの力があれば造作もない事だ。
何でわざとアタシの槍を受け入れた? 頑張ったご褒美のつもりか?
馬鹿にしやがって、あの大規模攻撃だって、まどかたちが来るまでの余興だったんだろ?
削れていく魔力をあらかじめ布として生成しておくためだけの、目眩まし。でなきゃ何の淀みもなく、あそこまで流れるように次の動作に移行できる訳がない。
さっきの一撃も当てる気すらない大技ブチかまして見せたのは、アタシらに自分の力を教えるためのもの。
命中すればこれだけの威力だから気を付けてねってか?
これが茶番じゃなくて何だってんだ。人をおちょくるのも大概にしろよ。
まどかはそんなお前が好きなんだと。他の奴らも皆お前に感謝してるみたいだ。あのマミでさえも。
だけど、アタシはアンタを認めない。
頭に来る。気に喰わない。癇に障る。
「だから、アタシだけはお前をただのムカつく敵としてぶん殴ってやるよ……そういう奴が一人くらい居た方がお前だって嬉しいだろ? ええ? 魔王さんよぉ」
魔力を集める。
ちまちました通常サイズの槍じゃ話にならねえ。
あの野郎のドタマかち割るにはデカさが要る。
幸い、あのデカ物はこっちの出方を待っているのか、余裕かましてんのか知らないが、動きを止めている。
『準備はいい? 杏子』
ソウルジェムを通して聞こえるさやかの声に答える。
『ああ、派手にブチかましてやろう。さやか』
返答した直後、巨大な人魚の魔女が奴を中心にして、地面から生えるように
作戦名なんて考えてる暇はなかったが、差し詰め『人魚姫の姉妹』ってとこだ。
『人魚姫』は昔寝る前に親父に読んでもらっきりで細部まで覚えちゃいないが、人魚姫を振った人間の王子をやっちまえって人魚姫に短剣を差し出す姉たちのシーンは何でかよく覚えてる。
多分、人魚姫の気持ちに気付かずに幸せになる王子が気に入らなかったんだろう。
まあ、まどかを散々
寸分違わぬ姿の異形たちはその手に持った巨大な剣を一斉に突撃。そのまま、魔王目掛けて振り下ろす。
魔王は一切の振り返る事もなく、右背後の一体のみにステッキを突き入れた。
……正解だよ。そこにさやかが居る。
何とも無駄のない動きだ。ソウルジェムの魔力反応が分かるお前には簡単な問題だったな。
でもな、ゴンべえ。さやかはそこに
刺された人魚の魔女は崩れ、大量の黄色のリボンへと変わり、奴のステッキごと右腕に絡み付く。
崩れたリボンの隙間を縫うように魔法少女の姿のさやかが飛び出した。同時に用済みになった幻影を消す。
顔のない魔王がアタシには僅かに驚愕したように見えた。
驚いただろ?
八体の内、七体はあんたの見抜いた通り、アタシの魔法で作り出したただの幻影さ。でも、残りの一体はマミがリボンで作った偽物。
それがバレないように内側にさやかを潜ませていた。
最初から、マミだけの偽物なら頭のいいお前なら一発で違和感に気付いてただろうな。
でも、偽物の中に一つだけ別の偽物が混じってれば、違和感があってもそれに気付きにくい。木を隠すなら森の中って奴だ。
これでお前の右腕もステッキも使えない。
それだけじゃない。
お前は――さやかの間合いに入ったんだ。
飛び出したさやかが魔女の姿へと変化し、その剣をもう片方の腕に叩き込む。
激しい硬質なもの同士がぶつかり合う衝撃音が鳴り響く。
いいぞ、さやか。こいつで魔王の左腕を奪えば、奴は完全に攻撃手段を失う。
耳障りな金属が砕けるような重低音が止んだ後、重量感のある何かがアタシの目線へと落下した。
落ちたそれは瓦礫まみれの地面へ突き刺さる。鈍く銀色に光るそれは……刃!? 折れた剣の刃!
畜生。腕一本すら硬度は、魔女になったさやかの剣以上なのかよ……。
「さやかぁー!? 逃げ……」
もう一度見上げたそこには頭を掴んでいる人魚の魔女の姿があった。
どこにも逃がさないとばかりに、魔王の白い手が頭部をがっちりと握り締めている。
『あっああああああ!』
掴んでいる奴の指が食い込んで、黒い血が人魚の魔女の頭から染み出した。
藻掻く相手の動きを無視し、鷹の爪のように魔王の指はじわじわと
「やめろぉぉぉぉ!」
『きょう……子……マミ、さん……』
「さやか!? 今すぐ、元の姿に戻って逃げろ!」
『いいの……このまま、で……これであいつは、両腕を……使えないっ……だから……』
ああ、分かったよ。やってやるよ。
これで結果的には目論見通りなんだからな。
とは言え、奴がさやかの頭を握り潰すまで猶予はない。
マミにソウルジェムを通して、伝える。
『行けるよなぁ!?』
『ええ、もちろん』
『じゃあ、ブチかますぞ!』
“今の今まで”集め続けていた魔力。有りっ丈かき集めたそいつをすべて纏め上げ、作り出すのは……奴よりも巨大な槍。
足元から競り上がるように出現させたその槍は節昆状に分断し、蛇の如く鎌首を持ち上げた。
ほぼ同じタイミングで、魔王を挟んだ向こう側にマミの作ったバカでかい大砲が現れる。
両手の塞がった奴のがら空きの身体。
そいつを前と後ろの両側から同時に最大級の攻撃を浴びせる。それがこの作戦の要。
避ける暇も与えやしない。さやかが身体を張って掴んだこの瞬間に全力を放つ。
槍の切っ先が奴へと突進し、激突。
魔王の背後からティロ・フィナーレの砲撃が唸りを上げる。
「くたばりやがれぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
轟音と閃光が広がる。
黒い巨体が赤い火花と黄色の光で塗り潰された。
目を開いている事ができず、目を瞑った。
目蓋の裏からも光が漏れて見える。暗闇さえも駆逐するような光の暴力が脳に染み込んだ。
全力だ。これ一撃にすべての魔力を練り上げた。正真正銘、佐倉杏子という魔法少女のすべてを。
網膜を焼くような光と鼓膜を破りかねない音が止む。
目を、少しずつ、開いて目の前の情報を確認する。
アタシの全力の槍は。
ほんのわずかに奴の中心部に傷を付けていた。
「…………は?」
それだけ。それだけだった。
罅ではなく、傷。
浅く、本当に浅く付けられた短い線状の痕。
刺さってすらいない。
表面を流れて、目を凝らさないと分からない程度の、ミミズが這ったような痕があるだけ。
直撃しただろうマミの砲弾も、背中から焦げたような黒い煙を二、三本上げているくらいで、まるで効いた様子がなかった。
見なくても分かる。分かってしまう。
マミの攻撃でも、ほんの少し奴の背を焦がした以上の成果を上げられなかったんだ……。
無傷ではない。効果がなかった訳でもない。
だからこそ、思い知らされる彼我の差を。
絶対的な壁を。
否定の魔王はアタシたちの力では、どう足掻いても致命傷は与えられない。
とにかく、最悪の状況に備えて隠れているなぎさと通信して、さやかを助け出さないと。
『なぎさ。さやかを……』
『——……』
呆然としたアタシの頭に何かが響いた。
なぎさじゃない。声と呼んでもいいか判断が付かないノイズのような……。
「あ、れ?」
ぐらりと一瞬眩暈を感じる。何だ、魔力を一度に使い過ぎたせいで立っていることもできなくなったのか?
自分のソウルジェムを見やる。
濁りはあるが、それでも全体を覆うほどじゃない。
ん? 何だ、これ。赤い粒子がソウルジェムから湧き出ている。
『——————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————』
「ごほッ……」
口から血が零れた。
立っていられなくなり、その場で膝から崩れ落ちる。
この感覚は、奴の、ゴンべえのソウルジェムに触れた瞬間に感じたものと同じ。
自分自身をも失っていくような、自分自身をも否定し尽くされているような、悍ましい感覚。
この声は魔王の声……。
「がはッげぇああッああああ……」
ソウルジェムが削られて、いや、消えていっている。
手足の感覚はもうなくなっていた。身体をコントロールする事もできない。
まともな呼吸もできない。口の中も血で一杯なのに鉄臭さも感じない。
『——————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————』
視界が黒ずんでいく。
さやか、マミ、なぎさ……。
声も出ない。
意識が、落ちる。
******
「何、これ……げほッげほッ」
急に聞いた事もない音が頭の中に聞こえたと思えば、身体から力が抜けていく。
寒くもないのに体温を奪われているような、奇妙な感覚。
喉から鉄のような臭いが広がる。これは血の味……?
どさりと後ろで何かが倒れる音がした。
振り返えると、座っていたほむらちゃんがうつ伏せで倒れている。
「ほむらちゃん!?」
倒れた彼女に寄ろうとしたが視界の端で黒い巨体が動くの見て、思い留まった。
掴んでいた魔女化したさやかちゃんを乱暴に投げ捨てた。その身から青い粒子が剥がれ落ち、元の大きさまで戻った彼女は地面へと落下する。
私がさやかちゃんを案じるよりも早く、直立不動を保っていた否定の魔王が、突如こちらへと向かってくる。
片腕を縫い留めていたリボンの束はそれだけで容易く引き千切れていった。
そして、その足が地面から離れ、私の元へと突き進んできた。
『————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————』
世界が割れていく。ゆっくりと崩壊が加速する。
地盤ごと闇の中へ沈む。空は完全に砕け散り、光のない暗黒がどこまでも続いている。
これは否定の魔法……。ありとあらゆる魔法を滅ぼす、彼の声。
魔力で構成されたこの空間が朽ち果てていく。
いけない……!
ここで私が倒さないと、この世界ごと私たちが掻き消えてしまう。
気を抜くと意識が押し潰れそうになる。そうか、皆、この声を聞いて意識を奪われたんだ。
魔法を消された時とは比べ物にならない否定の力。まるで頭を上から押さえつけているみたいだ。
さっき、思い描いた矢を、最強の矢を作りあげないと彼は倒せない。
『—————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————』
否定の魔王は凱歌を歌う。
彼の声が響く度、世界は恐れをなして跪いて許しを乞う。
それで彼が許すはずもなく、世界は砕けて消えていく。
これが彼の言った『全力』。惜しげもない魔力を、否定という性質のままに外へ放出する。
彼が私に近付く度に意識が朧になる。何もかも消えてなくなりそうになる。
この歌が、この声が、彼の味わっている絶望だというのなら、私にだって耐えられない。
終わらせよう、彼の試練を……。
弓を構え、矢を
「さようなら、ゴンべえ君……」
桃色の光が膨張して、爆ぜた。
線が、帯になり、渦へと成長する。
否定の魔王を包み込み、その漆黒の外殻を焼き尽くす。
巨大な楕円の影法師が削れ、縮み、消えていく。
なのに……。
「嘘……」
それでも彼は止まらない。
身体が崩れ、零れ、溶けているのに光の渦の中を駆け抜けている。
十メートルはあったはずのその身体はその五分の一ほどの大きさまで縮んでいた。
卵のような楕円状の身体は溶け落ち、その中で人型の影が飛び出す。
光の渦を通り抜け、私の元へと。
左腕は肩まで溶け落ち、右足は太ももまで砕けてなくなっていた。
それでもなお彼の速度は一切落ちない。
右手に握ったステッキ一本を武器に私へと向かって走って来る。
駄目だ。
動けない。
逃げられない。
もう余力は残ってない。
目の前にステッキの先端が迫る。
顔の半分が溶けて、黒く焼け落ちた魔王が――笑う。
「…………お前の」
私の髪が揺れた。
ステッキは私のソウルジェムの数センチ手前で止まっていた。
「お前たちの、勝ちだ……」
彼の黒いブローチには“紫色の矢”が突き立てられている。
ぐらりと彼の身体が後ろへと倒れ込む。
私は顔を後ろに向けると、紫の弓を握り締めたほむらちゃんが震える足で立っていた。
「……ほむら、ちゃん」
「はあ……はあ……まどか。無、事?」
「ほむらちゃんが助けてくれたの?」
「うん。うん、そうだよ……」
目に涙を潤ませたほむらちゃんが私を抱き締めた。
「初めて……初めて、貴女を守れた気がする」
私たちの、勝ち……?
ゴンべえ君はそう言った。
でも、私にはまだ、実感が湧かない。
それでも彼女のおかげで勝てた。それだけは間違いない。
私はほむらちゃんを抱き締め返す。
「ありがとう、ほむらちゃん」
「うん。まどか……」
どちらからともなく、私たちはお互いの身体から手を放し、地面に倒れたゴンべえ君へと向き直る。
彼に言おうと思っていた事が山ほどあった。でも、何も言葉にならない。
そうこうしている内に、ぐらぐらと足元が揺れ始める。
この世界が、偽物の見滝市がとうとう限界を迎えたのだ。
残っていた足元の地面に次々に亀裂が入り、そのまま崩落を始める。
色の付いていた部分が何もかも呑み込まれ、黒一色が視界を埋め尽くした。
「おまけだよ。受け取るといい」
私と同じように落ちていく彼がステッキを上に向けて放り投げた。
先端がぱっと六つに分かれたかと思うと、真っ白い一輪の花へと変化する。
六枚の
その瞬間、花弁は大きく広がって、黒い布へと形を変える。
「これ……ゴンべえ君の」
そう口にした時には私の身体は黒い布へと吸い込まれていく。
最後に見えたのは、落下していくゴンべえ君の満足げな顔だった。
あと一話で終わります。