幸福とは、つまるところ日常の連続性だと思う。
事故や災害といった非日常の介入なく、平凡な日常が続くのなら、それは
だから、きっと僕は幸福だったのだと思う。
そう……あの時までは。
***
「あれ……?」
しんと静まり返ったリビングを眺め、意図せず呟きが漏れた。
「どうしたんだい、政夫?」
右肩に乗ったニュゥべえが、
それに対して、自分でも正体の掴めない違和感について、話した。
「いや……何かを忘れる気がするんだ。でも、それが何なのかどうしても思い出せなくて」
頭の片隅に湧いた微かな違和感が
いつもと違う。
いつもならもっと、もっと……何て言うか……。
「……家の中って、もっと騒がしくなかったかなって?」
「騒がしい? 政夫の父親がしばらく家を空けているけど、物静かな人物だったと記憶しているよ」
「いや、父さんのことじゃなくて。もう一人……誰か居たような気がして」
「誰かって、誰の事だい? まどかたちが遊びに来てる訳でもないだろうに」
「そう、なんだよね……だから、不思議なんだ」
まるで何かが欠けてしまったような感覚。
「……!」
今、何か思い出させそうだった。
そうだ。この感覚だ。
「政夫? 何か思い出したのかい?」
ニュゥべえのその問いには答えることなく、リビングを抜けて廊下に出た。
迷うことなく、自分の部屋の前まで行くと、勢いよく扉を開け放つ。
目に入ったのは、開いた窓。風に揺れるカーテン。
そして……床にうつ伏せに倒れた一人の少女。
「暁美さんっ」
名前を呼んで、すぐに駆け寄る。
片膝を突いてから、抱き起こした彼女の身体は酷く軽く、とても人体とは思えない重量だった。
「……!?」
何よりも異様だったのは、色彩が抜け落ちていたこと。
白、ではない。
透明。
状況は完全に理解の
ふっと脳裏を
「ニュゥべえっ!」
「その物体……いや、少女を運べばいいんだね?」
「とりあえずは僕のベッドに!」
「分かったよ」
返事と共に僕の肩から飛び降りたニュゥべえは、一瞬にしてツインテールの魔法少女の姿に変わる。
垂れた白い
すると、透明になっていたほむらの身体が僕の腕から離れ、不可視の力によって持ち上げられた。
浮遊した身体は、緩やかな軌道で部屋に置かれたベッドの上へと寝かされる。
「ふう。魔力を通してみて分かったよ。彼女の存在は非常に不安定だ。こうして間近で観測しているはずなのに、存在と非存在の中間のような
「……覚えてない? 暁美さんだよ。暁美ほむら」
ニュゥべえは首を横に振る。
「初めて聞く名前だ。一応、聞いておくけど、ボクは彼女との面識はあったのかい?」
半ば想定していた返答に、僕は
なぜなら僕自身、彼女のことを忘れていたからだ。
暁美ほむらという存在を、ついさっきまで完全に忘却していた。
こんな馬鹿みたいな話があるか?
異常な事態も、不可思議な状況も関係ない。
僕がこいつを忘れかけていたという事実がどうしようもなく、許せない。
湧き上がる自分への怒りを押し殺し、状況整理に思考を
ニュゥべえの記憶でさえ
最近買ったばかりのスマートフォンで、登録してあるはずのほむらの連絡先やSNSのIDを探す。
……ない。
写真のデータにおいてもほむらが写っていた部分のみ、編集されたように一人分の空白ができている。
別の人物が写っている訳でもない。ただ、そこにあった彼女の情報だけが削られたような痕跡を残していた。
であれば、逆に僕だけほむらを思い出せた理由は……。
「僕にだけ、彼女を思い出せた何らかの外的要因がある……?」
『正解』
第三者の声が頭に響いた瞬間、すぐさま視線を周囲に視線を巡らせた。
付近で発生した異常を見逃すまいと目を
そこで視界に捉えたものは、窓の
穢れが末期になったソウルジェムかと思ったが違う。
濁っては、いない。
澄み切ったクリアブラック。
黒く濁ったものとは違う、最初からその色だったと思わせるカラーリングをしていた。
『落ち着いて聞いて。僕は分岐した世界の君、夕田政夫だ。ベッドに寝かされている彼女の記憶を保持できているのは、僕が持つ“否定の魔法”が君に干渉しているからだ。ここまではいい?』
疑問はある。疑念もある。
しかし、真偽を問いただすよりも、目の前の無機物から少しでも情報を引き出すことが先決だ。
「……それで、僕の恋人に今、何が起きているのか。君は知っていると……?」
『簡単に言えば、統合。いや、収束といった方が正確かな? 概念化へと昇華した存在は物質として存在できなくなる。例外はあるけど、並行世界に存在する同一存在もその影響を受けて、世界から剥離される』
「つまり、どこぞの馬鹿のせいで僕の恋人は存在が消えかかっているってことか?」
『話が早くて助かるよ。流石は並行世界の僕だ。それじゃあ、僕と協力してこの事態を……』
「何か、勘違いがあるようだから訂正しておくね。君が並行世界の僕だったとして──お前を無条件で信用する理由が一ミリでも増えたりはしないんだよ。お喋り無機物」
この無機物の正体が嘘であれば、話半分でいい。だが、本当に僕だというなら、事態はより深刻だ。
夕田政夫はこの地上で最も信用ならない嘘吐きだからだ。
完全な虚言ではないにしても、いくらか自分に有利な嘘を散りばめている可能性が高い。
ならば、どこまでが真実で、どこまで虚構か切り分けて考える必要がある。
まず、僕がほむらを記憶していられるのは、この無機物が関係していると考えていい。
次にほむらの状態についてだが、平行世界の同一人物、つまり、ほむらのせいというのは充分にあり得る。
何せ、約束一つで何度も平行世界を回った女だ。できるかどうかは置いておいて、壮大な事象を引き起こしてもおかしくない。
怪しむべくは、一つ。
「お前の目的が見えない。まさか、『平行世界の自分のピンチに駆けつけました』なんて愛に
『……なるほど。これが外から見た“夕田政夫”か、想像以上に腹立たしいね』
「良かったね。無機物になってもまだまだ世の中学べることが多いみたいだ。……いいからとっと答えを言えよ」
窓の桟に置かれた黒い宝石は、
『あるべき場所に戻りたい。そこで僕は役割を果たさないとならないんだ。そのためには、君の協力が要る。……これで満足した?』
「する訳ないだろう。あるべき場所ってどこ? 果たさないとならない役割って何? 何一つ答えになってない。無機物になると頭まで悪くなるの?」
ぼかしぎていて情報としては何の価値もない。
何も話していないのと同義だ。
『話すには、大前提として僕がどうして魔法そのものになったのかを語る必要がある』
「いいよ。聞いてあげる。ほら、語りなよ。不幸自慢する大チャンスだ」
『……性格、悪いな。流石、夕田政夫』
ぶつくさ文句を言いつつ、語られたのは世にも惨めな少年の話だった。
登場人物が名前ではなく、髪色で登場していたが、
要するにこの男は……。
「カミサマとやらの一部になって、墨汁ジュースサーバーに戻りたいっことか。歯車根性もそこまで行くとご立派だ」
『僕は……君があり得た未来でもあるんだよ』
「お
『……少なくとも精神的に成熟した僕は、君ほど皮肉を言う気になれないよ。それで今度こそ満足してくれた? ……もっとも、君に選択の余地があるとは思えないけど』
無機物の言葉に僕はとっさにベッドの方を向く。
さっきまでは輪郭だけははっきりしていたほむらは、今は輪郭の境界さえぼんやりと見えた。
時間的
「ニュゥべえ。解析は?」
ニュゥべえに尋ねる。
だが、やはり返ってきた答えは僕の予想を覆すものではなかった。
「ごめんよ、政夫。ボクには彼女が世界から完全に剥離するまでの時間を延ばす事くらいしかできそうにない……」
『無駄だよ。存在の収束によって、彼女は最初から居なかったことになる。単一の魔法による干渉とは訳が違うんだ。大元をどうにかしない限りね』
駄目押しとばかりに、無機物の声が割り込む。
すべてがこの宝石の思い通りになることは気に食わないが、仕方ない。
「分かったよ。お前の口車にまんまと乗ってあげる。……ニュゥべえ、留守を頼める?」
「正気かい? その宝石が別の世界の政夫だったとして、何の特別な力もない君だけで事態を解決できるとでもいうのかい? むしろ、ボクが行く方が……」
『夕田政夫でなければ無理だよ。何、力が必要なら“僕”を使うといい。何せ、この身は魔法なんだから』
僕でなければ、無理……?
なぜ、僕に解決を促させる? ニュゥべえに任せるのはなしとしても、同行すら提案しないことは引っかかる。
条件が物理的なものか、それとも、そこにこいつの思惑があるのか……?
「無機物さんからのご指名だ。僕と彼だけでどうにかするよ。ニュゥべえには別のことをお願いする……ん?」
透明な暁美さんの手が僕の手に触れていた。
僕は極めて穏やかに、普段通りに微笑んだ。
「久しぶりに窓からのご訪問だね」
透き通る唇が小さく動いた。
僕は一言たりとも聞き逃さないように耳を澄ませる。
たどたどしい
「玄関から……入らなくて、ごめんなさい……」
こんな時なのに、律義な反応に笑ってしまう。
「いいよ。体調悪かったみたいだし」
「何だか、意識がぼんやりして……だから、ここに、来たわ……」
「頼ってくれて嬉しいよ」
「……政夫」
指先が僕のてのひらを握る。
とても弱々しい感触。体温のない彼女の指が絡んだ。
「どこかに……行ってしまうの?」
「うん。少しだけね」
「帰って、来る……?」
「ここは僕の家だよ。他に帰る場所があるなら教えてほしいくらいだよ」
「そう……。何だか、今日、政夫が優しく感じるわ……。私が、弱ってるから……?」
「元気な時でも優しくするよ。君が居ないと調子が狂うみたいなんだ」
彼女の手を握り返す。
そうしていないと、本当に消えてしまう気がした。
彼女は儚く
会話をしたからこそ、改めて感じた。
時間がない。
僕が、彼女を救うには行動する必要がある。
『別れは済ませた? それじゃあ、庭に出てくれない』
「……黙って待ってられないの? まだやらないとならないことが残ってるんだよ」
『遺書でも書きたいの? それなら早めにお願いするよ』
「ちょっと外出するだけなのに、いちいち交通事故を恐れて遺書書く馬鹿が居ると思う?」
『行っておくけど、原因を解決するまで君をこの世界に戻すつもりはないよ』
ニュゥべえがぽつりと漏らす。
「この会話の応酬だけ聞いていると、政夫が二人居るって実感するよ」
こんな皮肉屋無機物と同じ扱いをされるのは、大変
向こうも同じように思ったらしく、黙り込む。
「そんなに庭に行きたいなら、先に待ってなよ」
『うん? 何を……あっ』
僕はそのまま、窓の方へ行き、宝石を掴んで庭へ放り投げる。
それから窓を力強く
「ニュゥべえ。さっき言いかけた君へのお願いなんだけど……」
あまり時間はかけられないと思いつつ、ニュゥべえに一つ頼み事をしておいた。
***
玄関でできるだけ動きやすいスポーツシューズを履いて、庭に出る。
指で付いていた泥を拭って、声をかける。
「待たせたね」
『本当にね。それともこの状況にかこつけて面倒な恋人に消したいの?』
「投げ捨てたことへの仕返しとして、その暴言、今回だけは聞き逃してあげる。……二度目はないよ、無機物」
『そう。さっさと行こうか、有機物。時間は有限なんだ』
墨汁ジュースサーバー如きが偉そうに、と思ったが、言い争いをするだけ無駄なので内心だけに留めておいた。
「それで無機物殿。どうやって、その大元が居るところに行くの? パスポート申請した方がいい?」
『それには及ばないよ、有機物殿。魔法を使う。まずは僕を媒介にして、変身するんだ』
「……何をするんだって?」
『変身だよ。へ・ん・し・ん。リプライじゃなくて、チェンジの方ね』
すると、つまり……僕も魔法少女よろしく、あのこっ
最悪だな。そして、着るのは並行世界の
挙句の果てには、魔法なんぞに頼る訳か。
肥溜めの中で水泳した方が幾分マシな選択だ。
「……分かったよ。で、どうやるの? 君がベルトになって喧しい音声を垂れ流すの?」
『僕を君の胸あたりに
「わー、便利でお手軽」
適当な発言の後、言われた通りに僕は胸の前で黒い宝石を
クリアブラックの光が宝石から湧き出し、僕の身体に
服装が黒い燕尾服に代わっていた。
頭の上にはご丁寧にシルクハットまで被せられている。
古典的な手品師の衣装だ。
無駄にヒラヒラしていない分、想像よりもまともだが、仮装大会にでも出た気分だ。
意識ははっきりしている。白い手袋の
「無機物に肉体を乗っ取られる可能性も考慮していたけど、今のところは僕の意思で身体は動くんだね」
『……どれだけ
「信用する要素はないと思いなよ」
この状態だと、前よりも無機物の聞こえる声が大きくなった気がする。
魔力が僕の肉体を覆っているのなら、精神の方も干渉されている可能性はある。用心しなくては。
「それで、ご自慢の魔法とやらは?」
『物質としては魔力からハンカチを生み出せる。他者の魔力や魔法といったあり得ざる存在を消滅させる性質、“否定の魔法”を行使できるよ』
魔法を否定する魔法。
それは何とも夕田政夫らしい性質だ。
うんざりするくらいに納得できる。
『君ならもう勘付いていると思うけど、この世界は既にあり得ざる状態にある。それは僕と君が……』
「
更に言えば、もっと根源的な部分でおかしい。
ほむらの時間遡行は並行世界の自分に記憶を転移させることで成り立っていた。
彼女が複数居ることになってしまう時点で、致命的な矛盾が生じる。
『その通りだ。だからこそ、僕と君が同時に存在する空間は』
「“否定の魔法”の対象になり得る、と。つまり、“こう”するのか」
ハンカチと呼ぶには
布が通過した後、何もなかったその場には大きな穴があった。
捻じれた空間にできた穴は出来の悪い図画工作のように、不自然なものだった。
『初めてにしては筋がいいね。どこかでやってた?』
「冗談にしても笑えないよ。それで? この先が、本当に目的地である保証はあるの?」
入った途端に宇宙空間に放り出されて、身体が破裂するなんて目にあったらそれこそ笑い話にもならない。
黒い宝石の言葉が頭に響く。
『あるよ』
「理由は?」
『この穴の先から、暁美ほむらの魔力の波長を感じるから』
「…………」
『それだけでは信用に値しない?』
この問答を続けていても意味はない。
ただ、いずれこいつも出し抜いて、必ず僕は帰ってくる。
……それまで待っていて。
胸の中で静かな誓いを立てて、僕は目の前の穴を潜り抜けた。
ナノカレコードが進まないので、ちょっと書いてみました。
続くかどうかは未定です。