黒い穴を潜り抜けた先は、
シルクハットのツバのおかげで頭を濡らさずに済んだものの、降りしきる雨は燕尾服を打つ。
だが、
コンクリートの足場には薄っすらと水が溜まり、膜のように表面を覆っていた。
人工物……。少なくとも魔法だの魔力だので生み出されたものには見えない。
「ここは……見滝原?」
この舗装された土手には見覚えがあった。
微妙に装飾のデザインが違う気もするが、この角度から見える川の景色は同じだ。
『微弱だけど、周囲に魔力の反応がある。周りを確認してみて』
無機物
「もう見つけてるよ」
僕の視界は雨の中、片足を引きずるように歩く少女の姿を
彼女の足に絡まっているのは、文字化けした言語らしきものが描かれた『のぼり旗』のような縦長の帯。
僅かに放たれる
『だったら、すぐに否定の魔法で……』
「待って。どこかに向かってる」
制服を着た中学生くらい背格好の少女は、傘も差さずに一心不乱にどこかへ向かって歩いている。
それは前に見た“魔女の口付け”によって洗脳された志筑さんを
『彼女はみたところ一般人だ』
「そうだね。だからこそ、彼女が引き寄せられた先に何かがある」
『……囮にする気なの? あの子は非日常に巻き込まれた哀れな被害者なんだよ? それが、どれだけ不条理な立場か“僕ら”なら分かるはずだ』
「今は少しでも情報がほしい。別に見殺しにしようって訳じゃないんだよ? ただ道案内をしてもらうだけさ。次の哀れな被害者が出ないようにね。分かるだろう? “僕ら”なら」
『…………』
スタンスの違い。いや、在り方の違いだ。
僕とこいつは、もう物事の優先順位の付け方が異なる。
僕は、何を置いてもほむらを優先する。あの日、彼女を選ぶと決めた時から変わらない。
こいつは違う。
昔の僕と同じように、大切な誰かが居ないからこそ、平等に他者の命を守ろうとする。
その正しい在り方に……“優しい世界”に
大変ご立派な思想だが、譲ってやる気は毛頭ない。
『……いいよ。譲歩しよう。その代わり、彼女が危険な目に
「必ず対処することをお約束するよ」
黒い宝石はそれ以上は、言葉を重ねることはしなかった。
僕は一定の距離を保持しながら、どこかを懸命に目指す少女の後を尾行する。
階段を上り、橋を渡り、通路を通る。随分と複雑な経路だが、少女は道に迷う素振りは一切なかった。
彼女の片足が引きずる帯は次第に数を増し、どんどん長くなっていく。
それは小船の
彼女を引き寄せているものへ距離に近付くほど変化しているのだろう。
やがて、少女は足を止めた。
「本当にあったんだ……トカゲさん電話」
彼女の視線の先には、白いカバーを被せられたレトロな回転式の電話。
電話ボックスすら珍しくなる昨今、街の中に設置されているにはあまりにも不自然な異物だった。
『道案内はもういいだろう。早く彼女を……』
「分かってるよ」
このまま、黙って見ていて、目の前であの少女だけ連れ去られるなんてことになったら、それこそ手掛かりを失ってしまう。
僕は彼女が電話を手に取る前に、近寄って声を掛けた。
「そこのお嬢さん」
「え……うわぁっ」
いきなり声を掛けたせいか、それとも全身黒ずくめの衣装のせいか、少女は驚いた拍子に足を滑らせる。
水浸しのコンクリートに横転しかける寸前、彼女の背中へ僕は手を伸ばして、抱き留めた。
「あ……」
「何だか驚かせちゃったみたいで、ごめんね」
「いや……大丈夫っ、です……」
何度も瞬きをした彼女は、目を逸らして身体を
無理もない。こんな人気のない場所で、黒ずくめの異性に接触されれば、恐怖に感じるのも当然だ。
彼女に体勢を整えてもらってから、速やかに距離を取った。
改めて見ると、茶髪のサイドテールの少女は中学生にしてはやや発育の良いスタイルをしていた。
遠目では同年代ぐらいに見えたが、ひょっとすると一つ、二つ歳上かもしれない。いや、巴さんや織莉子姉さんのような外れ値も居るといえば居るけども。
若干、敬語を使うべきか悩んでいると、少女の方から意を決したような表情で質問が来た。
「あの、あなたは……トカゲさんの遣いの人、だったりしますか?」
「いや、違うけど……その“トカゲさん”っていうのはあそこにある電話と何か関係してる?」
僕が指差したのは、
さっきの彼女の呟きから、その“トカゲさん”とやらが関係しているのは間違いない。
適当に肯定してボロが出るよりは、素直に何も知らない第三者として教えてもらった方がいいだろう。
「そうです。『トカゲさん電話』ってウワサがあって、何でも願いを叶えてくれるって……あっ」
唐突に話の途中で大きな声を上げて、彼女は黙り込む。
「どうしたの?」
「このウワサ……“大人の人にも男の子にも秘密”って前置きがあって」
「大丈夫。僕はこう見えて、口が固いから」
「いや、でも……男の子、ですよね?」
「安心して。僕はほら、男とか女である前にミステリアスな謎の存在枠だから。きっと許されるよ。ノーカンノーカン」
「そ、そうなんですか? それなら、大丈夫、なのかな……?」
自分で言っていて、謎の存在枠って何だろうと思ったが、少女は一応の納得してくれた。
妙なウワサを信じることといい、いい加減な言動に惑わされることといい、この子の将来に一抹の不安を覚えてしまう。保護者の方には、しっかりと見張ってあげてほしい。
彼女の話によれば、女の子だけの間で
電話を見つけて、トカゲさんに繋がれば、願いを叶えてくれるのだそうだ。
「それで、君は願いを叶えてもらいに来たの?」
彼女は首を横に振る。
「本当は私……もう何もかも嫌になって、自分を終わらせる場所を探してたんです」
自殺しようとしていたのか。
雨の中、傘も差さずに制服のままでうろついている時点で悩みを抱えている気はしたが……。
それにしては、あまりにも迷いなくこの場所に辿り着いたのは、無意識下で誘導されていたのか。
「でも、本当にトカゲさん電話があるなら……私にも願いがあります」
「へえ。どんな願いなの。聞かせてくれる?」
「世界を……変えたいんです。大切なものを守る勇気がほしくて……だからっ、トカゲさんに願いを叶えてもらえるなら、それをっ……」
言葉を発する内に、徐々に感情が
だが──。
「本当にそれでいいの?」
「……え?」
「願いを
僕は、その熱に冷や水を浴びせかける。
「願いを“叶える”ことと、願いを“叶えてもらう”ことには大きな
「そんな、事は……」
見下ろす少女の表情が青くなっていくのは、雨のせいで凍えているからではないだろう。
「仮に、それで本当に世界が変わったとして、君の求めていた認識と違っていたら? 願いを叶える手段が君の想像よりも取り返しの付かない方法だったら? そもそも、大切なものを守る勇気の定義って何? それは自分以外の誰かによって、もたらされて受け入れられるものなの?」
「そんなの……分からないでしょ!? どうなるかなんて誰にもっ!」
「そうだよ。分からない。どうなるかも分からないのに、大切な願いの決定権を差し出しているんだよ、君は」
少女の顔色が変わる。
ハッとして、目が
その視線は希望の象徴を見る歓喜から、得体の知れないものを見つめる恐怖に変わりつつあった。
「でも、叶えたいんだろう? 結果すら自分の意思の介在しない願望機に願いを
「代償……? 対価……?」
「ない、って断言できる? 願いを叶えた代償。その対価を要求されないって。……ああ、そうだ。参考まで聞きたいんだけど、トカゲさん電話に願いを叶えてもらった子の話はないの? 少なくてもウワサがある以上、願いを叶えてもらった最低一人くらい居るはずだよね?」
もはや、少女がトカゲさん電話を見る横顔は、不安と恐怖で満ちていた。
駄目押しとばかりに僕は続けた。
「ひょっとして居ないの? いや、居なくなっちゃったのかな? だったら……願いを叶えてくれるってそのウワサは、どこの誰が流してるんだろうね?」
「…………」
「どうしたの? ほら、願いを叶えてくれるトカゲさん電話はすぐそこだよ? 受話器を取って、願いを言うだけだ。その願いをどう叶えるかはトカゲさんが決めるし、願いを叶えてもらった後はどうなるかも分からないけど、きっと間違いなく君の世界は変わると思うよ。それが君にとって良い結果になるかも
少女はトカゲさん電話から、僕の方に顔を向ける。
彼女の瞳には
「じゃあっ……私は、どうすればいいんですかっ? 教えてくださいよっ。どうしたら……」
少女に近付いて、僕は手のひらから黒いハンカチを作り出す。
大きく目を見開いた彼女の濡れた目元を優しく拭った。
「君が今すべきことは、早く家に帰って、温かいシャワーを浴びて、お腹いっぱい夕食を食べることだと思うよ」
「……っ、うう」
感情が決壊したダムのように彼女は泣き出した。
降りしきる雨にも負けない
ハンカチ一枚ではとても足りそうもない悲しみを、彼女は今、吐き出していた。
彼女が泣き止んだ頃、僕は再度尋ねた。
「トカゲさん電話はどうするの?」
「……もう、大丈夫です。勇気って……誰かに与えてもらうものじゃないって、そう思えたから」
「そっか。そう思えたなら、もう君には必要ないかもね」
彼女には見えない角度で黒い布を生み出し、それをステッキ状に変形させる。
手首だけを動かして、少女の片足に絡み付いていた帯を突いた。
音もなく、帯は形を失い、消えていく。
それを見届けてから、僕は少女にステッキを見せた。
「ステッキ? いつの間に……手品ですか?」
「マジックだよ。もう遅いけど、これ以上濡れる必要もないだろう。いち、に、の、さんっ!」
ステッキを再び、黒い布へ戻して、少女の肩回りを中心に巻き付ける。
即席レインコートの出来上がり。
「わあ、すごい……どうやったんです?」
「
晴れやかな太陽よりも眩しく、彼女は笑みを浮かべた。
「ふふっ、変わっちゃうかもしれません」
「それは何より」
少女が小さく頭を下げて、その場から去っていくのを見送ってから僕は残されたトカゲさん電話に向き直る。
まったく、無為な時間を消費してしまった。
『やっぱり君も僕と同じだね。少し安心したよ』
「無機物に同類扱いされる
これ以上、タイムロスを増やす訳にはいかない。僕には時間がないのだ。
トカゲさん電話に歩み寄り、受話器を取る。
耳に当てた瞬間、嫌と言うほど聞き馴染みのある声音が
『あなたの骨を分けてくださいな』
なのに明確な差異を感じる少女の声音。
『あなたは危険と責任を引き受けられる? この世の呪いと戦える?』
……そういうことか。目的が大体、分かった。
ならば、僕は。
「すみません。退職代行サービスの者です。あなたが勧誘した方は業務をキャンセルされたいそうでして……」
つづく(のか……?)