僕は今まで何のために生きてきたのだろう……。
少なくても一時間前の僕はその問いに胸を張って答えることができた。
でも、今はもうできない。分からなくなってしまった。まるでドラマの中の特に好きでもないキャラクターを
自分自身に感情移入ができない。共感ができない。理解ができない。
『家族や友達や周囲の人をを大切にする。そうすれば自分もやがて幸せになる』。その言葉をずっと信じて生きてきたのに……。
それを否定されてしまった。他ならぬ、その言葉を僕に与えてくれた織莉子姉さん本人に。
「政夫~。そんなところに座り込んでいたら服が汚れてしまうよ? ほら、立って立って」
呆然としたまま、地面に膝をつけてへたり込んでいる僕を横から呉先輩が引っ張り起こす。
顔を動かさずに目だけ動かして呉先輩を見ると、彼女は僕がショックを受けていることが理解できていないようで不思議な顔を向けている。
その様子はまるで死にかけの虫が苦しんでいるのを興味深そうに見つめる無邪気な子供のようで気持ちが悪かった。
「それよりもまー君。私に隠し事をしていたでしょう?」
織莉子姉さんは僕に詰め寄るようにそう言った。
僕の頬に手を当て、瞳の奥を覗き込むようにして聞いてくる。
「キュゥべえから聞いたわ。巴マミとまー君の関係について尋ねたら、他にも二人の魔法少女たちと面識があるみたいね。特に暁美ほむらというキュゥべえが契約した覚えのない魔法少女とは親密な間だそうね? 何故、黙っていたのかしら?」
責めるような台詞とは裏腹に、織莉子姉さんの表情は笑顔だった。
ただ、昨日会った時のような柔和で優しげな
「…………」
僕はその笑みを呆然と眺めていた。
答えたくないのではなく、言葉を紡ぐ気力すらなかった。鹿目さんの名前を出されても僕の心は凍てついたまま何も感じることはなかった。
映像として知覚することはできても、それが心に響かず、自分に話しかけられている実感がない。
「そう……何も答えてくれないのね。まあ、いいわ。それよりも場所を変えましょう。――キリカ」
僕から視線を外した織莉子姉さんは、呉先輩に呼びかけた。
「はいはい」
呉先輩の指輪が黒紫色に光り、見滝原中の制服から黒地の燕尾服のような裾が長く胸元の大きく開いた上着とミニスカの衣装に変わる。顔にはなぜか黒の眼帯を付けていていた。一見黒に覆われているように見えるが純白のブラウスとハイソックスとで綺麗に白と黒に分かれており、唯一タイだけが真っ赤な色をしていた。
これが呉先輩の魔法少女としての衣装なのだろう。
「じゃあ政夫、ちょっとだけ失礼するよ」
呉先輩は断りを一つ入れると僕の
中肉中背だが当然ながら普通の女の子が軽々と持ち上げられるほど僕の体重は軽くはない。もうこの人は人間じゃないのだと改めて思った。
糸の切れた操り人形のように脱力した僕は特に抵抗らしいことはせず、他人事のようにただぼんやりと成り行きを眺めていた。
そんな僕の顔を見て、呉先輩は笑みを一つ浮かべた。
「う~ん。
呉先輩に連れて行かれた僕は白く整頓された部屋の革張りのソファに座らされていた。
織莉子姉さんに聞かされた話によると、僕の支那モンから巴さんのことを尋ねた時にこの街には複数の魔法少女が居ることを知ったらしい。そして、その魔法少女たちと僕が親しいことも。
魔女になる可能性のある彼女たちは障害になる
口ぶりからいって、まだ鹿目さんのことは知らないようだった。
呉先輩は何度も暁美の名を口にしていたので、恐らく一番最初に襲われるのはあいつだ。
僕の携帯電話を取り上げると別に僕を縛るわけでもなく、部屋の一つに入れられて家から出ないよう言われただけだった。携帯電話を取り上げたのは暁美たちに連絡をさせないためと、僕を巻き込まないようにするためのものだろう。
昨日までの僕だったらすぐこの家から出て暁美や巴さんたちに連絡を取って危険を伝えていたと思う。
だが、彼女たちが出かけて行った後も、僕は身動きもせず天井を見上げて呆然としていた。
改めて思えば、僕が暁美や鹿目さんたちと出会って二週間と少ししか経っていない。本当に浅い間柄だ。
にも関わらず、僕は彼女たちのために命を懸けてまで頑張ってきた。
普通に考えれば明らかに異常だ。たかだかそんな僅かな付き合いで命が投げ出せるわけがない。
だったら、その理由は?
――義務感。
ただそれだけ。
仕方なく、嫌々、我慢しながらも、人として生きるためにしなければいけないことだと思っていたからやっていただけだ。
では、なぜ僕はそんなことをしていたのだろう?
倫理や道徳上、そうすることが当たり前だと教えられたから。そして、そうしていればやがて自分も幸せになれるとも。
ならば、それは誰から教えられたことだったか?
もちろん、他でもない織莉子姉さんに。
「クッ、アハハハハハハ!」
なるほど。そうか、そうか。そういうことか。
全てが理解できた。出会って間もない鹿目さんを命懸けで逃がしたのは、嫌っていた美樹にあそこまで世話を焼いたのは、誰にも頼らず一人で苦しんでいた暁美に手を貸していたのは、泣いている巴さんを慰めたのは全部織莉子姉さんの受け売り。
本当は彼女たちは別に好きでも大切でも何でもない。
彼女たちを助けていたのは織莉子姉さんの言葉があったからだ。その言葉を織莉子姉さんから否定された以上、もう彼女たちを助ける道理はない。
疲れた。今の僕の思考は本当にそれだけだった。
何もかもがどうでもいい。もう何もしたくない。どうなろうと知ったことじゃない。
目を
~暁美視点~
結局、政夫は待ち合わせ場所に来なかった。
後から来たさやかに『今日は他の人と登校するから先に行っておいて』という内容のメールが送られてきたので、仕方なく私たちは政夫抜きで学校へ向かった。
……せっかく、彼の好みの三つ編みにしたのに。それにメールを送るならさやかの前に私に送るのが筋なんじゃないかしら。
私ではなく、さやかにメールが来た事に軽い嫉妬を覚えつつも、まどかやさやかに三つ編みに結った髪の事に言及されてそれどころではなかった。
「ほむらちゃん。その髪型可愛いね。でも何で急に変えたの?」
「あ~、それ私も気になったわ。いきなり三つ編みとか……まさか、アンタ……」
「な、何でもないわ。ちょっとした気紛れよ。ねえ、志筑さん?」
まどかはともかく、さやかが
「ええ、そうですよ。さやかさん。ほむらさんたら政夫さ……」
「ちょっ!?」
誤魔化すどころか、嬉しそうにさやかに報告しようとする志筑さんの口を急いで押さえて止める。
口を押さえられた志筑さんは残念と言わんばかりに、
反省の「は」の字もない。むしろ、あっけらかんとしているその態度に私は怒るよりも先に呆れてしまう。
「今、政夫って言ったよね? ねえ?」
「聞き間違えじゃないかしら?」
志筑さんの口から手を離して、追求してくるさやかに素知らぬ顔でそう答えた。
内心は落ち着かせるために後ろ髪をかき上げようとするけれど、三つ編みに結った事を思い出して途中で止めた。
「最近、ほむらちゃん可愛いよね。そういうところ」
「ま、まどかにそう言われると照れるわね」
ふわっと花のような笑みをまどかは私に向ける。その笑みを見て、直視できずに顔を逸らして頬を
ずっと見たかった光景が今目の前にあるのにどこか私の心は浮かない。
楽しい事が起きた後は、嫌な事待っていた。そんな考えが私に染み付いてしまったのかもしれない。
四人で教室に行き、私は政夫の姿を探すがどこにも居ない。ひょっとしたら、まだ登校していないのかしら。
首を傾げていると、廊下の端から見覚えのある顔がこちらに来るのが見えた。こういう時、ガラス張りの壁は便利だと思う。
「マミ。どうしたの? 二年の教室まで来るなんて」
教室の扉まで歩いてきたのはマミだった。
三年の教室は一つ上の階なので、昼休みに屋上の時以外、校内で顔を見合わせる事はほとんどない。だから、マミがここに居るのが意外だった。
「あ。マミさんだ。おはようございます」
「どうしたんですか?」
まどかたちもマミの来訪に気付き、教室に出入り口に集まってくる。志筑さんは二人と違い、あまり面識がない事を気にしてか声を発さずに礼儀正しくお辞儀をしただけだった。
「おはよう、みんな。……夕田君はまだ来ていないかしら?」
「まだ来ていないわよ。どうかしたの?」
私が答えると、マミは少し困ったような顔をした。
「いえ、今日夕田君が相談したい事があるからメールが来てね。朝早くから教室でずっと待ってたんだけど全然来ないからどうしたのかなって」
相談事……? 何かしら? ひょっとして私と口論したのを気に病んで、マミに相談しようとしたのだろうか。
もし、そうなら政夫にも可愛げがあるのだけれど。
「内容については何か聞いてるんですか?」
まどかが質問するとマミは言い忘れていたらしく、付け足すように言った。
「私と同じ三年の呉キリカって子がクラスに馴染めないからどうしたらいいかって内容だったわ」
呉、キリカ……?
その名前をまさか学校で聞くとは思いもしなかった。そもそも、この学校の生徒だというのが初耳だ。
ふ、と頭の中で線と線が結びつく。
このタイミングで呉キリカの名前。未だに登校していない政夫。そして、政夫がメールで言っていた一緒に登校する『他の人』。
スカートのポケットから携帯を取り出すと、急いで政夫の携帯番号を入力する。
耳に当て、通話が通じるのをじっと待つ。
「ほむら。いきなりどうし……」
話しかけてくるさやかを横目で睨みつけて黙らせる。今は悠長に話している余裕はない。
この嫌な推測がどうか外れであってほしいと思う反面、間違いないと心のどこかで確信していた。
政夫が命を懸けて魔法少女たちを助けてきた理由が明かされました。
普通の人間だったら、日も浅い相手にここまで頑張りません。でも、政夫はそれをやってきた。
お人よしだからでしょうか? 違います。むしろ、政夫の心は狭い方です。
正義の味方ではなく、ごくごく普通の一般人な彼はただひたすら織莉子の言葉を信じてきただけでした。
すべてが義務感だと理解した政夫。彼に立ち直る術はあるのか?
次回―絶望の果て―
なお、タイトルは気分次第で変わると思います。