午前10時をやや過ぎたくらい時刻。数学の授業を受けている僕は焦燥感にも似た感情で、開いたノートをシャーペンの先でとんとんと突付く。
クソッ、こんなことをしている暇なんてないのに……。
心の中で悪態を吐きながら、僕は学校が終わるのをひたすら待ち望んでいた。
今日はほむらさんは学校に来ていない。今朝彼女から来たメールによると風邪に
ただ、それだけなら心配はするが、僕もここまで焦ってはいない。
しかし、ほむらさんの家には両親は不在なのだ。
何でも、仕事の都合でそもそもまた見滝原にすら来ていないのだという。
自分の恋人の親を悪く言うのは嫌だが、正直信じられない。心臓の弱い、ようやく退院したばかりの中学生の娘を二週間と少しの間だけとはいえ、一人で暮らさせるのか?
危機管理意識の欠如としか言いようがない。見滝原に来たら、一度その辺りのことをほむらさんも交えてじっくりと話したいところだ。
まあ、そんなことはこの際置いておこう。
重要なのは、今、ほむらさんの看病をする人物が彼女の傍に居ないということだ。
ほむらさんは独りで寂しい思いをしながら、熱に浮かされているかもしれないのだ。
なのに、僕はこんなところで数式と
彼氏として不甲斐なさを感じざるを得ない。
メールをした時、僕も学校をさぼって看病しようかと送ったのだが、『私は大丈夫だから、政夫くんは学校に行って』と返信が来たので、大人しく登校したのが間違いだった。慎ましい彼女がどう考えても僕に『学校を休んで看病して』なんていう訳ない。
彼女はそういう女の子だ。だからこそ、心から好きになったんだ。
僕がほむらさんのことで頭をいっぱいにしていると、教壇に立ってホワイトボードに計算式を書いていた教師に名前を呼ばれた。
「おい、夕田!」
「は、はい?」
「お前、さっきから真面目に授業聞いてないだろ!」
しまった。上の空でいたことがばれてしまった。
僕の席は前の方にあるために比較的先生の目に付きやすいことを失念していた。また不幸にも、この数学の担当は生徒に厳しいことで有名な小平先生だった。
小平先生は険しい顔付きで僕に怒声を上げる。
「俺は他の先生と違って、甘ったるい事は言わない。授業を真面目に聞く気がないならさっさと帰れ!」
その言葉は今の僕にとって、まさに天啓だった。
「……いいんですね?」
「は? 何を言って……」
「帰ってもいいんですね!? ありがとうございます! 小平先生、このご恩は忘れません!」
僕は机の上に広げていたノートと教科書、筆記用具を学生鞄の中に突っ込むと立ち上がり、小平先生に一礼すると教室をそそくさと出て行く。
クラスメイトは唖然としていたが、中沢君だけは僕の意図を理解してくれたらしく、小声で「ノート取って置くよ」と言ってくれた。持つべきものは友という言葉は本当だったとしみじみ感じた。
スターリン君は「エロゲー買いに行くのか? 俺も連れてって!」とアホなことをほざいていたので無視した。
「ちょ、ちょっと待て、夕田! 悪かった。先生が悪かった! だから――」
後ろで小平先生が静止を促すような声が聞こえたが気のせいだろう。あの先生は僕の心情を察して帰宅するように言ってくれたのだ。そうに違いない。
もし、仮に違ったとしても、「先生の言葉で大変傷付いたせいで教室から逃げてしまった」とでも屁理屈を捏ねて小平先生に責任を押し付けよう。何、先生は大人で且つ教員だ。子供であり、生徒の僕の責任くらいとってくれるさ。
小平先生が監督不行き届きで職員会議で吊るし上げられたとしても、僕はほむらさんの元へ行くだけだ。
廊下を早退した生徒のように装い、校門を颯爽と抜けると僕はほむらさんの住むマンションへと向かう。
途中でスーパーを見つけたので、レトルトおかゆパックとスポーツ飲料、フルーツゼリーを三つ、それと冷却ジェルシートを購入した。
レトルトじゃないおかゆにしようか悩んだが、まずはご飯から炊く手間とほむらさんが一度に食べる量のことを考えたらこちらの方がいいだろう。
マンションに着き、ほむらさんの家のドアの前までやって来た。
インターホンを押して、しばらく待つと咳の混じりの声が聞こえてきた。
『もしもし。どちら様ですか……』
「僕だよ。夕田政夫。看病しに来たよ」
『政夫くん!? 何で、学校は?』
「優しい先生が、そんなに心配事があるなら帰っていいよって言ってくれたから、早退しちゃった」
嘘は言ってはいない。数あるポピュラーな解釈の中の一つだ。
僕は小平先生を信じている。あの一見厳しい態度の中に生徒への慈愛があることを。
『本当?』
「本当だよ。僕が君に嘘を吐いたことが一度でもある?」
『一度もないよ。じゃあ、ドア開けるね』
扉が開くと、薄紫色のパジャマを着たほむらさんが疲れたような顔で立っていた。若干、頬が赤く、眼鏡の少しずれていて視線がぼんやりとしている。三つ編みも心なしか乱れているように思えた。
可愛い……。
本当に可愛い。何を着ても、何をしていても反則的なまでに可愛い。
この可憐さの前には天使すら裸足で逃げ出すだろう。
思わず、凝視しているとほむらさんは僕の視線に気付き、両手でパジャマを隠そうとする。けれど、どう足掻いても、その細く華奢な腕ではパジャマの面積は覆うことは不可能だ。
「その、あんまり、見ないで……」
恥ずかしげな表情を浮かべて僅かに斜めに逸らした。でも、眼鏡の奥の瞳だけは僕の方の様子をちらっと見ている。
「とっても可愛いよ……ほむらさん」
「でも、私、起きたばかりで髪も整えてないし……」
そのいじらしい姿は僕の心を穿つ。
最高に愛らしい女の子。この世で一番大切な、僕の彼女。
すぐに問答無用で抱きつきたい欲望を押し殺し、家に上がらせてもらう。
僕はビニール袋から冷却ジェルシートの箱をほむらさんに渡した。
「これ良かったら使って」
「あ、これ。家になくて困ってたんだ。ありがとう、政夫くん」
彼女の
「おでこに貼ってあげようか?」
「え? うん。じゃあ、お願いしようかな」
まさか、そうくるとは思わなかった。てっきり、それくらい自分でできるよと断られると思ったのに。
おずおずとしつつも僕は箱を開けて、一枚冷却ジェルシートを取り出す。
そして、ほむらさんを見た。
彼女は僕がシートを貼り付けるのを待っている。
これを貼り付けるということは、ほむらさんの額に触れるということだ。
心拍数が少しだけ上がる。
いや、何を緊張しているんだ、僕は。別に変なことをする訳じゃなんだ。普通にすればいい、普通に。
僕はほむらさんの前髪をそっとかき上げて、彼女の額に接着面を貼り付ける。その際にやはり僕の指先が額に触れた。
「ひゃっ!」
「ご、ごめん。おでこ触っちゃって」
「ううん。そうじゃなくて、ただ冷たくて声が出ちゃっただけだから」
「ああ。そ、そうなんだ……」
自分で言うのも何だが、僕はここまで初心だっただろうか。これでも二ヶ月前までは元彼女と付き合っていた恋愛経験があるのに……。
好きな相手の場合だとこうまで違うのか。
「えと、じゃあ、部屋に案内するね」
軽く咳をしながら、ほむらさんは僕を促した。
「ごめんね。風邪なのにわざわざ起こしちゃってさ」
「大丈夫だよ……それに一人で居るの寂しかったから、政夫くんが来てくれて嬉しいよ」
そう言うと恥ずかしくなったのか、「は、早く行こうよ」とすぐに顔を背けて歩いて行ってしまう。
その後に続く僕は、ほむらさんの愛くるしさに胸をときめかせていた。
どこまで僕の中の好感度を上げれば気が済むのだろう。もうメーターは当に振り切っているというのに。
ほむらさんの部屋に到着すると、ほむらさんにはベッドで入ってもらった。
「具合の方はどうなの? 熱はある? お腹空いてない?」
「熱は37度くらいに下がったよ。でも今日は食欲なくて、朝ご飯も抜いちゃった」
「駄目だよ! 風邪の時こそ、しっかり食べないと。ゼリーくらいなら食べられるんじゃない?」
熱が出ているのだからそれだけエネルギーが使われているのだ。それに何も食べないと活力が湧かない。
多少、無理にでも何か胃に入れておかないと早く治らないだろう。
ビニール袋から、桃のフルーツゼリーとプラスチックのスプーンを出して見せる。
「うん。じゃあ、もらおうかな……」
その言葉を聞き、僕は桃のゼリーのカップのふたを開けて、スプーンで掬う。
「はい。あーんして」
「あ、あーん……」
ぱくりとスプーンの先がほむらさんの口内に吸い込まれる。
若干、変態チックだが、この瞬間だけはスプーンが羨ましく思ってしまった。
そもそも、僕は誰かに食べさせてもらうのも、誰かに食べさせてあげるのにも抵抗があったのだが、本当に好きな子には別らしい。
カップの底が見えるまでゼリーを食べてくれた。
「ごちそうさま。ありがとう、政夫くん」
「お粗末様でした。スポーツ飲料もあるけどいる?」
「ううん。今はいいよ」
布団を首の辺りまですっぽりと被り、ほむらさんは首を横に振った。
それにしても思ったより元気そうで良かった。この調子なら明日は熱も下がるだろう。
「そっか。なら、冷蔵庫にレトルトのおかゆや残りのフルーツゼリーと一緒にしまっておくね」
「そんなに買ってきてくれたんだ」
「まあ、お腹が空いたらまた食べてよ」
僕はビニール袋を持って、冷蔵庫のあったダイニングの方へ向かうため、部屋を出ようとした。
「あ! 待って……!!」
しかし、急にほむらさんに呼び止められ、途中で足を止めた。
振り返ると、何やらもじもじとした様子で僕を見つめている。
「あ、あのね、政夫くん」
「寂しいから、私が眠るまでは一緒に居てほしいな、って……駄目かな?」
上目遣いで見るその瞳に僕は一瞬、くらっとしそうになった。
彼女はあれだ。きっと奇跡によって生まれた存在か何かだ。でなければ、この可愛さの説明が付かない。
多分、もう僕が帰ってしまうとでも思ったのだろう。愛するほむらさんを置いて帰るなんてある訳がない。
持っていたビニール袋を床に置くと、ベッドの傍まで行き、ほむらさんの手をぎゅっと握った。
「何言ってるんだ、ほむらさん。君が死ぬまで僕は傍に居るよ!」
「え? ね、眠るまででいいんだけど……」
苦笑いを一つ浮かべた後、ほむらさんは真剣な表情を作った。
「ねえ? 政夫くんは何でそんなに私なんかを愛してくれるの?」
「君の全てが大好きだから」
即答だった。
コンマ一秒の迷いもなかった。
何より、それ以外に言い表しようがない。この感情を言語化するには僕の語彙力はお粗末過ぎた。
ほむらさんは僕の言葉が信じられないようで不安そうに聞く。
「本当に?」
「本当だよ。何で急にそんなこと聞くの?」
そう尋ねるとほむらさんはポツリポツリと語りだしてくれた。
生まれつき身体が弱く、小学校も満足に通えず、今まで友達も居なかったこと。
両親が共働きで忙しく、会話らしい会話をもう何年もしていないこと。
中学生になってからはずっと入院してばかりでそもそも他人との交流がなかったこと。
そして、そんな自分は誰にも必要とされていないのかもしれないと思っていたこと。
「だから、私は誰かに好きになってもらえるような人間じゃないの……。お父さんとお母さんも私なんか生まれてきたせいで迷惑ばっかりで」
僕の予感は間違いではなかった。
ほむらさんは風邪で弱っていた。ただし、それは身体じゃなく、心の方だった。
病気の時に独りで居るとネガティブな思考が溢れてくることは、ままある。特にほむらさんは過去の経験から誰かに好意を持たれたことがなかったせいもあるだろう。
「ほむらさん」
「な、何?」
僕は彼女の顔をじっと見つめて言った。
「生まれてきてくれてありがとう」
「え?」
「僕ね。君に会えて、君を好きになって今凄く幸せだよ。ほむらさんに出会わなかったら、この幸せは味わえなかったと思う。だから、本当に生まれてきてくれてありがとう」
心の底からの言葉だった。
こんなに人を好きになったのは生まれて初めてのことだ。今までは義務感みたいな思いから誰かに親切をしたことはあっても、自分の意志で誰かに何かをしてあげたいと思ったことは一度もなかった。
僕はほむらさんに会えて、本当の意味で「人間」になったのだと思う。
「政夫くん……ありがとうは私の台詞だよ」
ほむらさんはその可愛い瞳から涙を流して、僕の手を握り締めた。
「私の事を好きになってくれてありがとう……私に出会った事を幸せだって言ってくれて、本当にありがとう」
「なら、どういたしまして……かな?」
僕はほむらさんに顔を近付けてキスをした。
彼女の柔らかい唇は、さっき食べていた桃のゼリーの
「政夫、くん」
「何? ファーストキスならもう返せないけど?」
ついキスをしてしまったが、僕の心臓は爆発寸前だった。
気合で抑え付けて、平然を装うが多分、顔はほむらさん以上に真っ赤だろう。
「……大好きだよ」
涙の残ったままでほむらさんは屈託のない笑顔を見せた。
測るまでもなく、僕の体温もほむらさん以上に上がっていくのが分かった。
なぜなら、握り締めたほむらさんの手が、
本編のほむらが見たら切れてもおかしくないくらい政夫の対応が違います。
それとIF政夫は若干本編よりも暴走気味ですけど、彼はほむらを中心にして世界が回っておりますので仕方ないです。
本編の政夫が見たら、「チェンジしてよ! そっちの天使とこっちのテロリストをチェンジしてよ!」と絶叫する事でしょう。