――これは、夢なんだろうか。
人知れず呟いた少女が立つ場所は、様々な種類の草花が生い茂り、鈴虫のような羽音が鳴り響く自然豊かな丘の上。ふと首を上へと曲げれば、淡い幻想的な光を放つまあるい月を中心に、いくつもの星が雲一つない夜空でまたたいていた。
ただ、少女が普段住む場所とはかけ離れている。少女が普段住んでいる場所は、鉄筋コンクリートの無骨なビルが立ち並び、深夜でさえ明かりが消える事のない都会。そのためこの場に来るまでの最後の記憶がベッドの上だっただけに、少女が今の状態を夢の中だと思うのも無理はない。
少女は起きていると認識してる時に比べ、どこかふわふわとした心地。それも合わせてやはり夢だと改めて感じるのだろうが、目の前には日常では決して見る事のできない景色。
その景色を見る中で、大学生の少女はふと明日の朝からある授業を思い出す。だがそれも直ぐに忘れた。たとえ遅刻したとしても、むしろこの絶景なら御釣りがあると考えたのだ。
ただそう考えるのもつかの間、不意に少女の意志とは関係なく体が動き、夜空を見上げていた視線が右を向く。
まだ景色を見ていたかったという思いがなくもない。ただ夢だしな――と、そうも思いながら少女が視線へと意識を向ける。するとそこには、大根やネギ等の野菜を背負っている籠に入れ、どこを目指しているのか黙々と歩みを進める男が一人。
夜中というのもあり買い出し、もしくは仕事帰りの農民なのだろうか。夢のせいなのか、少女にはこの場所の気温が分からない。ただくたびれて古そうに見える着物の袖は、暑いのか左右両方とも
夢にしては凝った設定だな――そう若干失礼なことを考えながらも、変わらず少女の体は動いていく。それは自然に男の背後にまで移動したと思えば、すぐに男とほぼ変わらない速さで歩き出した。
あくまで夢とはいえ、自身が行っていることに思わず少女は呆れる。けれどそんな思いに変わらず、少女の体は視線以外の自由を失って歩き続けた。
対して急に背後を取られた男は、突然背後から足音がなり出したからだろう。誰の目から見ても明らかなほど、むしろ不憫に思えるほど震えている。少女が考えていた通り、虫の音や男の格好からして季節は夏なのだろう。ただそれにしても、男から流れ出る汗は暑さのせいだけだとは思えなかった。
明らかに自分の存在で怯えていることに、少女は少しの申し訳なさを感じる。けれど、それでもやはり少女の体は変わらず進んでいく。それはたとえ男がゆっくり歩こうが、速足になろうが変わらない。一定の距離を保ちながら、わざとらしく音を立てながら、ただひたすらに歩いていく。
そして男と少女のどちらにも不幸なことに、進んでいく道の先は闇に包まれ見る事が叶わない。その左右ですらも、木々がひたすらに立ち並ぶだけ。本当に自分たちが出口へ向かっているのかどうかさえ、彼らに分かる確かな術はなかった。
少女が視線を上にあげることで、瞳の中に飛び込んでくる景色は間違いなくいい。現実の世界も含め、今まで少女が見た中で五指に入るほどの絶景だろう。
ただ終わりのない夢と、意識しなければ常に見続ける事となる男の背中。それらに少女が、徐々に不安に思ってきたのもたしか。けれど都合のいいことに、男が急に立ち止まり少女もそれに合わせて止まる。そうしたこともまた、少女がそんな風に考えていたころだった。
今までにない展開であり、やっとこの夢も覚めるのだろうか。そう少女が思ってしまうのも無理はない。そのためそんな期待をのせながら、少女は男の背中をみやる。
だが男は中々振り向こうとはしない。いや、実際に振り向こうとはしている。してはいるのだが、やはり不気味に思うところがあるのだろう。男の首は錆び付いた鉄のようにギリギリと遅く、もう少しと思えばまた戻りもしている。
本当なら少女から声をかける事ができればいいのだが、男を見つけたときから動くのは視線のみ。そのため仕方ないと言えば仕方ないのだが、まるで少女は妖怪のような扱いになってしまっている。
そんな現状に少女は少しばかりの遺憾の意を持ちながら、それでもなお根気よく待ち続けて暫く。そうした後、ようやく男に決心がついたようだ。
男は一度首を戻して真正面を向き、大きく一息をつく。そのお蔭なのかどうか、心なしか震えていた体が収まったような気もする。
そして、そのままゆっくりと首を動かし――。
振り向いた。
男の顔がすさまじい速さで変わっていく。始めはやはり怖かったのか青ざめており、次いで驚き、最後には心底ホッとしたような顔に。
男が怯えていたのはわざとではないが少女のせいであり、それは少女自身も自覚している。そのため男の震えが止まり、安心したような顔になるのは少女にとって間違いなく良いことだ。ただ、それに気になることがないわけでもない。
少女はてっきり、やっていたことがイタズラだと思われて怒られる。もしくは映画の予告編よろしく、男が振り向いたところでキリよくこの夢が終わるものかと思っていた。ただどういうわけか、夢が終わる気配は全くこれっぽっちもない。
さらにいえば少女の背丈は男よりも少し低い程度であるのにも関わらず、どうやら男には少女の姿が見えていない。まるで少女が、本当に妖怪扱いされているようであった。
男はやはり見えてはいないようで、そんな少女の考えなどお構いなし。心の底から安心した様子で元の道を歩こうとする。
対して少女は、そんな男の行動に若干ふてくされる。妖怪扱いされて喜ぶ者もそうはいないだろう。むしろこうなればとことん付き合おう――そう思いながらも、また夢が覚めるときを待とうと先ほど同様歩き出す。
いや、『少女』は歩こうとしていなかった。少女が歩くのだと勘違いし、先ほど同様勝手に行われたその動作。それは、ただ
ただ、勢いをつけるためだけに。少女の意思に反して突き出された右腕を、しっかりと目の前の男の背に
瞬間、少女の目の前が赤一色に染まる。
そして色の出どころである男の背から『少女』は右腕を引き抜き、男はその身から色を滴らせながら、ゆっくりと地面に吸い込まれていくかのように倒れていく。
少女はいきなりの出来事に何がどうなったのか理解できない。それでも、先ほどまで怯えながらも動いていた筈の男の手足が止まったところ。男の着物が穴の開いた背のあたりを中心に真っ赤に染まっていくところ。それらを見下ろすうちに、男が目の前で死んだという現実が、夢の中のくせに嫌でも実感していく。
もし少女に体の主導権があったならば、その時は耐えきれない現実を前に人目を気にせず吐いていただろう。けれど『少女』は吐くどころか、遂には目の前のそれらから視線を外すことすら許してくれない。
徐々に体温を失っていく男から。視界の端に見える、男の着物と同じくらい真っ赤に染まり、今は体の横に垂らされた右手から。
まるで、少女に見せつけるかのように。
しばらくの時間が経とうと、少女の体が動くことはない。けれどその動くことが出来ない間に、多少なりとも心を落ち着かせることは何とかできていた。
ただいくら夢とはいえとても鮮明に、目の前で、それも少女自身が殺したのだ。そうだというのに、今まで人の死体すら見た事のない少女が半時も経たず心を落ち着かせる。普通にしては、いささか早すぎはしないだろうか。
だからこそ次に、少女は心の底から不安を覚える。果たして自分という人間は、これほど冷徹に物事を捉えることのできるような人間だったのだろうか。人の死を目の当たりに、数分もかからず心を落ち着かせることができるほど器用な人間だったのだろうか。
それをしょせん夢の話だと割り切ることは出来ない。夢のような心地にも関わらず、どこまでもリアルなこの夢。それはさながら、誰かの記憶を覗いているかのように鮮明に過ぎた。
そして状況に反してやけに冷静な少女がそこまで思い至ったとき、何の前触れもなく、急に少女から『ナニカ』が抜け出て行った。目には見えない、音もたてない。ただそこに在ることのみ感じることのできる『ナニカ』が。
恐らく抜け出たという感覚さえなければ、現在の少女の心境からして知覚すらできなかっただろう。けれどそれは、先ほどの出来事が心の片隅にすら置いておけないほど。それほどの圧迫感を放ちながら、ただ少女の目の前で佇んでいた。
少女は、怯える。理由は分からない。けれどそんな理由など、最早どうだっていいほどのものをその『ナニカ』から感じていた。
今まで出会ったことのない、先ほどの出来事とはまた違う別種の恐怖。生物としての本能的なものといってもいいかもしれない。『ナニカ』は少女にとって、無意識にそう感じさせてしまうほどの存在だった。
そして恐らく少女に認識してもらう為に、敢えてそんな矛盾した在り方をしている『ナニカ』。ただそれは少女に対して、今まで感じたことがないほどの恐怖を与えるだけに過ぎない。
そんな『ナニカ』は不意に少女に対して何を思ったか、未だに動くことすら出来ず恐怖におびえている少女に語り掛ける。
『――――』
けれど、その言葉が少女に届くことはない。ただ何処かへと浮かび上がるような感覚が、待ち望んでいた夢の終わりをようやっと少女に告げていた。
味気なく広がる、先ほどとは違う白。それが夢から覚めた少女へと、真っ先に飛び込んできた色だった。
「知らない、天井だ」
あの悪夢を見た後での少女の第一声。たとえ今目が覚めたという感覚から本当に夢だと気づいたのだとしても、中々言える事ではないだろう。もしかしたら案外肝が据わっているのかもしれない。
少女は天井と同じく、真っ白な清潔感のあるベッドに横たわっている。ただその心地などから、少女の部屋に備え付けられている物とは違っていた。
そこで何故か少し気だるい上体を起こして周りを見渡せば、見えたのはまた変わらない白。ただよくあるような、神様が待ち構えている不思議空間ではないらしい。白は所々で波打ったようにうねっており、そこらに繋ぎ目も見てとれる。どうやら少女は白い布、カーテンで周りを覆われているらしかった。
そこから徐々に寝起きから動いてきた頭で考えれば、薬品などの匂いからもここは病院のよう。動きづらいと思っていれば案の状、右手には刺さっている点的。傍らにある机の上には、これまた定番のフルーツ盛り合わせが置かれている。
「ベッドから落ちて頭でも打っ――!?」
少女が自身の考えを確かめようと、おもむろに頭へと手を置けば突き刺さる強烈な痛み。さながら針を突き刺したようなそれは、暫く少女が悶絶するには十分すぎるほどのもの。
その後悶絶から立ち直った少女が思うに、頭の怪我は考えていたよりも深いらしい。一瞬だけれど触った感覚から、ご丁寧に包帯が何重にも巻かれているのが分かった。
自覚したからか、それとも触ってしまったからか。さらに痛みだした頭に音を上げて上体を戻す。加えてまた初めの状態、ベッドに横たわる形になった際にナースコールを見つけた少女はためらうことなく押した。そして今の状態について思いを巡らせるも、明確な答えが定まる以前に終わってしまう。
何故なら少女がナースコールを押し、今の状態を考え始めてから暫くも経っていない頃。遠くから走るような音が響き、近くで止まったと思えば勢いよく扉が開かれる音がカーテンの直ぐ向こう側で聞こえたのだ。
少女は内心で病院なのに――と呆れつつ、自身の現状を把握できることに喜ぶ。そしてまた勢いよく、少女のベッドを覆うカーテンが開かれた。
「起きたのか!?」
まず初めに、大きな声をあげながら少女の前に現れたのは男性。黒髪を短く切りそろえており、整った顔立ちに高い身長といったいかにもな好青年。
顔のパーツから普段は人の良さそうな顔をしているのだろうが、今は必死の表情で焦っているような、心配そうな表情になっている。
「大丈、夫……?」
次にどもりながら、けれど先ほどの男性を押しのけながらも少女の前に現れたのは女性。綺麗で艶めいた黒髪を腰辺りまで伸ばし、いわゆるモデル体型というやつなのだろう。服越しにも分かる体の曲線は相当なものだ。
男性の方とは違い、マスクをしているため顔や表情こそ分かりづらい。だが目じりに浮かぶ雫から、とても心配そうにしていることが分かる。
その二人はどちらも相当心配してくれているようで、痛くはないか、寝てなくていいの――と、口々に少女へ向かって声をかける。そのように心配されている少女は、怪我人として素直に嬉しく思う。――そう、確かに少女は嬉しく思うのだが。
「あの……どなた、ですか?」
少女はその心配してくる二人を、どちらも知ってはいなかった。故に、少女の口から出されたのは純粋な疑問。
自分は彼らのことを知らない。けれど少女の顔を見て言葉をかけてくるという事は、見間違いなどではなく彼らは少女のことを知っているという事。ならば失礼に当たるかもしれないが、少女がつっかえながらも尋ねるのは自然と言える。
「「ッ……」」
ただそれはあくまだ少女だけの考え。心配してくれていた二人は息を吞み、今にも泣きそうな、悲痛な表情を浮かべた。
「あ、その……すいません」
少女は勿論、心配してくれた二人にそんな顔をさせるつもりはなかった。というよりは、まさか名前を聞いただけでそんな表情を浮かべられるとは思いもよらなかった。そのため何故――と不思議に思いながらも急いで謝るも、二人の表情は沈み込むばかり。
「彼女が目を覚ましたというのは本当ですか!?」
そして墓穴を掘るばかりでどうしようもなかったからだろうか。また慌てるようにして入って来た病院の先生と看護師を視界に入れるなり、少女は思わずといったように安堵の表情を浮かべる。
対して先に来ていた二人は来たばかりの扉前にいる先生に詰め寄ると、頻りに少女の様子を窺いながらも話し出した。
少女は何を話してるのか――と、気になりながらもとりあえずは空気を読んで大人しくする。すると暫くもしない内に、先生が一人少女の前へと進み出た。逆に先に来ていた男女は動かず、扉前で看護師と一緒にことの成り行きを見守っている。
そして医師は少女が横たわる方へ寄り、落ち着いたのはベッド脇。何処からか椅子を取り出して座り、少女へと語り掛けるように話し始めた。
「やあ、初めまして。少しおじさんの質問に答えてもらっていいかな?」
目線を少女に合わせ、話し出した口調はとても穏やかに。所々に白髪が混じった髪の毛に、しわが入りながらも浮かべる笑顔などはまるで近所のお爺ちゃんのようだった。
そんな医師に少女は気持ちを落ち着かせる。夢の時ほどうろたえていた訳ではないのだが、それでも心無い自分の言葉で人を傷つけたかもしれなかった。そんな折にかけられた優しい言葉は少女の心に染み渡る。
「……はい」
ただ、歳の割に小柄なのを気にしてるのに――と、少し納得いかないながらも少女の返事を受けた医師の質問は重ねられていく。そうして質問が重ねられる度、段々と少女は何かおかしいと気づき始める。
質問の内容は少女の家族から年齢、生年月日、住所といったもの。途中怪我の具合も聞かれたが、それは少女が痛みに顔をしかめた時のみ。はじめから聞こうとしていた質問とは関係ないようだった。
現在の体の状態や自身の身に何があったのかを知りたい少女にとって、それらの質問には一見なんの意味もない。
けれど、遂には最後の質問を前に冷や汗をかき目に見えて焦り出す。先ほどまで冷静に考えていた少女の心の内だけにとどまらない。きっとそれは医師や扉前で様子を見ていた男女、看護師にまで分かるほどに目に見えていた。
「それじゃあ、これが最後の質問だ」
「……は、い」
ただそれもそのはずだった。
「君の名前は、何だい?」
何故なら少女は――。
「わか、りません……」
医師の出した質問に、何一つ答える事が出来なかったのだから。
遂に先に来ていた男女の内、女性の方は声をあげて泣き出した。そしてその女性を支えようと看護師や男性が慌てて動くも、先ほどまで気にかけていた少女が反応することは一切ない。
扉前の騒動にも、自身の名前すら答える事ができない事実にも、少女の体は一切反応せず動かない。ただ、その心は違う。自分が一体何なのか、何故か決して出てくる事のない答えを前に、一人意識の底で自問自答を続ける。
そして答えは、存外はやく出た。
「……先生、私からも質問していいですか」
「もちろんだとも」
最後の質問から少女が再び口を開くまで、少しも動くことなく待っていた医師は少女の問いに快く返事をする。
慣れているのか、それとも医師として己の役目だと認識しているのか。表情は硬くとも、結局自身では答えを出すことが出来なかった少女の為。そのために、自身が代わりに答えを出すことを引き受けた。
「わたしは、誰ですか」
家長カナ
少女は青ざめた顔をしている茶髪の