ザ・コクピット・オブ・コスモゼロ   作:島田イスケ

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トリトン

HUD――ヘッド・アップ・ディスプレイの向こうに湾曲した地平。遠くに青い海王星が浮かんでいるのが大きく見える。

 

古代は〈ゼロ〉でその衛星トリトンの上を〈飛んで〉いた。むろん現実のそれではなく、シミュレーターが作り出す仮想のゲーム空間だ。しかしコクピットの〈窓〉に映る映像は本物と目で区別がつかず、機を操るごとに体にのしかかるGも人工重力によって完璧に再現される。〈視界〉に広がる(すす)けた大地。それはまさしく実際の天体のそれと変わらない。

 

トリトン――この星がヴァーチャル訓練の舞台に選ばれたのは、ガミラス基地の攻略を見据えてのことであるという。冥王星についてのデータは(とぼ)しく、いま現在の白夜圏を精査したものは存在しない。ゆえにシミュレートしようがない。

 

そこで、代わりにトリトンだ。この星はいくつかの点で冥王星と環境が似ている。まず大きさだ。冥王星が直径2300キロなのに対して、トリトンは2700キロ。少しばかり大きいだけ。

 

次に太陽からの距離。歪んだ楕円軌道を持つ冥王星は、三十年後に海王星より太陽系の内側に入る。そのため今はやはり少し遠いだけで、感覚的にほとんど変わらぬ距離にあると言うわけだった。

 

よって、太陽から届く光の量も同じ。今、古代が〈窓〉に見るトリトンに注ぐ太陽の光は、明るくないが暗くもない。地球で満月の夜に見る月光の百倍ほどであると言う。冥王星の白夜圏もとにかく丸みと明るさだけはこれと似ているはずだった。

 

ガミラス基地は冥王星の白夜に在る。だからそれを探せと言う。そしてまた、トリトンも、永い白夜の圏を広く持つ星なのだと言う。〈ゼロ〉の行く手に巨大な黒い噴煙が見える。トリトン名物の間欠泉だ。大地の氷が永い白夜の太陽光を受けて割れ、液体窒素の水煙を10キロの高さに吹き上がらせる。そして再び凍りつき、個体窒素の黒い雪となって降るのだ。

 

古代の〈ゼロ〉――〈アルファー・ワン〉はその中をくぐる。僚機を務める山本の機体〈アルファー・ツー〉がついてくる。二台並んだシミュレーターはこれをひとつの訓練として、同じ仮想空間の中に二機を描いていた。

 

トリトンの仮想の空に再現される海王星はかなり大きな円に眺めることができる。タイタンで見た土星よりそれは遥かに大きかった。海王星それ自体の直径は土星の半分くらいだが、距離がぐっと近いからだ。

 

海王星とトリトンの間は35万キロで、海王星はその直径が5万キロ。つまり今の古代の目には、5メートルの大玉を35メートル離れた場所から見るのと同じなのだった。

 

冥王星はどうだろう。カロンという連星がかなり大きく見えるはずだが、しかしあれよりは小さいだろうか。古代は視線を空から正面に向け直した。レーダーマップにトリトンの地表。古代の機体の斜め後ろにつけてくる山本機の指標がある。《A2》――〈アルファー・ツー〉を示す記号と合わせて《FRIEND》の文字。

 

フレンド。味方機を表すコードだ。

 

仮想とは言え、それが後からついてくる。僚機として自分の背中を護る任を負わされて――今は古代が敵の基地を探して地表を見ながら飛び、山本は敵の迎撃を警戒し周囲に気を配りつつ飛ぶ、その訓練となっている。エンジン音や細かな振動までも再現された〈機内〉にいる限りこれは現実としか思えず、古代は背中に山本の視線を感じるような気さえした。

 

山本のシミュレーターにも、こちらの機がわずかな動きも正確に描き映されているのだろう。山本はおれを見ながら飛んでいる。HUDの中の指標として眼で追いかけて、決して位置をズラさないよう機を操りながら。

 

それが僚機と言うものだ。しかし古代は落ち着かない気分だった。背中に視線を感じて飛ぶというのがなんとも居心地が悪い。

 

山本に護られながら飛ぶのは、同時に、山本の命を自分が預かることだ。トリトンの上を飛ぶのは、それだけで、すでにかなりの技倆を要するミッションだった。〈ゼロ〉は今、地上わずかに数百メートルの低空を時速五千キロ――地球で言えばマッハ5にもなる速度で飛んでいる。秒速なら1.5キロ。乗る人間の体感としてはまさに地面スレスレと呼ぶべきもので、実際、わずかに手元が狂えば即激突と言うことになる。

 

当然、自分に合わせて飛ぶ山本もまた墜落だ。ただ訓練の性質上、高度を上げるのは許されず、速度を落とすこともできない。

 

けれども〈ゼロ〉の翼はトリトンのあるかなしかの薄い大気を受けて機を高く上げようとする。星の重力を脱する速度をすでに超えている機体は、トリトンの丸みに沿って飛ぼうなどとはしてくれない。そのためひたすら舵を取り、前のめりに機首を下げつつ飛ばねばならない。

 

気を抜いたらそれでおしまい。フリーハンドで正確な円を描けとでも言われるような飛行だった。加えて、ひどく視界が悪い。白夜に黒い雪が舞う。窓に叩きつけてくる。翼にもそれが付着して、機の制御を奪おうとする。

 

トリトン。いずれ砕け散り、海王星の〈輪〉になるだろうとされる星。シミュレーターはどこまでもそれを細密に再現している。冥王星の白夜もまた、これに似た地獄であろう。同じように雪が舞っているかもしれない。黒い雪か、青い雪か、血の色をした赤かもしれない。

 

そこへおれが行くと言うのか。おれでいいのかと古代は思った。レーダーに映る山本機の指標を見る。《A2 FRIEND》。しかし、本当に味方だろうか。

 

山本か、と古代は思った。おれのことをどう見てるのかよくわからない女だ。今は仮想だからいい。しかし実際に飛んだとき、本当におれを護ってくれるのか。

 

山本は自機の後ろについてくる。もし、おれなどは航空隊の隊長にふさわしくないものとして、亡き者にしてしまった方が後のためだと考えたなら、照準の輪におれが乗るこの機を捉えて、引き金を――。

 

引く。それでおしまいだ。古来、無能な上官は、部下の手により戦場でそうして始末されてきた。山本がそれをしない保証があるか。

 

山本は違うとしても、加藤はどうだ。航空隊の他の者らは。隊長がおれではダメだと皆が考えているならば、冥王星に行くにあたってまず背中を撃っていこうという話になって不思議はないのじゃないか。

 

山本の機が後ろにいる。それは自分が隊長として試されていることでもあった。落ち着かないのはだからそのせいでもあった。山本は今、照準におれを定めているのじゃないか。おれを撃つための訓練を今しているのではないのか。

 

それでもいいさ、という気もした。戦闘機隊を率いるなんて柄でも器でもないのは、おれが自分でよく知っている。人類の運命を懸けた戦いでそれをわざわざ思い知らされて死ぬよりは、そうなる前に引導を渡してもらった方がいい。

 

だからその方が気が楽だ、と古代は思った。いっそこれが現実で、いま味方に後ろから撃たれて死んでしまえたらいいのに、と。


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