ザ・コクピット・オブ・コスモゼロ   作:島田イスケ

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ブラック・レイン

南の空がみるみる赤く変わっていく。その光景を眼にしながら、古代はつい先程に別れた兄に言われた言葉を思い出していた。(すすむ)、と兄は言ったのだった。父さんと母さんをよろしくな――。

 

よろしく?と思う。だがけれど――地響きが身を震わせる。遊星落下の瞬間に古代がいたのは横浜のベイエリア――二百年ばかり昔に海を埋め立てて造られた土地だ。その地面が液状化してゴムで出来ているかのように波打ち、上に建つものをグラつかせる。高層ビルがドミノ倒しにバタリバタリと崩れゆくのを古代は見た。

 

音はだいぶ後になってからやって来た。凄まじい轟音に近くの音はかき消された。〈コスモクロック23〉と呼ばれている観覧車が台から外れ、西部劇の転がり草のようになりながらひしゃげバラバラに倒壊する。その音すらかき消された。

 

チェスの駒の形をした古い塔がチェックメイトされたように倒れ伏した。海では吊り橋が揺れ橋となり、ケーブルをちぎらせながらよじれて柱を海に倒した。コンテナ船が色とりどりの箱を海にブチ撒けながら転覆し、客船もグラグラ揺れていたかと思うとボキリと真っ二つに折れた。

 

次いで熱波が襲ってきた。一万度の熱を持つ超高圧の空気が鎌倉の山を越え、木々を薙ぎ倒し葉を焼いて、人を消炭(けしずみ)に変えながら神奈川の半分を爆風で払い、燃やし尽くす。その炎の津波のひとつが、あらゆるものを押し流そうと横浜に飛び掛ってきたのだ。

 

家もクルマも、熱風に焼かれながら吹き飛んだ。空を火の鳥の群れが覆った。一億羽の炎のカラスやトビどもが街の上を埋め尽くし、人を見つけては急降下して襲い掛かる。その火の爪と(くちばし)で髪の毛であれ服であれ、焼き焦がして灰にさせ、脚で掴んで空の高くに(さら)おうとでもするかのように、灼熱の風が街を溶鉱炉に変えた。人間はその火の鳥どものエサのネズミに過ぎなかった。熱波が過ぎ去ったとき、港町は何もかも焼けた黒い火事跡になっていた。

 

そして、〈ブラック・レイン〉が降る。街が焼けた後に降ると言われる(すす)混じりの黒い雨だ。古代はビルが崩れて出来た瓦礫の山の中から這い出し、自分が生きていることが信じられない思いで身を起こした。まわりを見たが、最初は暗くてものがよく見えなかった。暗いのではなく、黒いのだと気づくまでにしばらくかかった。

 

黒かった。空も、地面も、何もかもだ。黒い煙と雨のせいでまるで見通しが利かないのだ。すぐ目の前に死体があった。それが黒く焼け焦げていて、まわりがみんな黒いから、それが死んでいる人間とわかるのにさえ時間がかかった。死体からは血が流れて広がっていたが、それも黒にしか見えなかった。黒い雨が血だまりに丸く波紋を浮かばせる。その輪がようやく眼に赤黒く感じられた。

 

そうして少しずつ目が慣れて、まわりのものが見えだした。死体はひとつだけではなかった。その横にも、その隣にも、その向こうにも転がっていた。そのもうひとつ向こうにあるのは、もはやなんだかわからなかった。手足も首もちぎれたものが折り重なって、黒い視界に黒いそれらがどこまでも続いているようだったが、黒い雨がすべて(かす)ませてしまっていた。

 

なかには生きてもがいている者もいた。瓦礫と死体の山の中から黒いものが身を起こし、(うめ)きを上げて歩こうとする。地面を這って動いている者もいた。ただピクピクと震えたり、のたうっている者もいた。

 

古代は近くに転がっていた焼けただれた肉のかたまりが急に眼を開け自分を見たのと目が合ったが、どうしていいかわからなかった。相手は口をパクパクさせ、何か言おうとしたようだが、しかし声は出せないらしい。その目と口から血を流してやがて動かなくなった。

 

何もできずにその顔をいつまで見ていたかわからない。雨は()まず、煤どころか、灰か土くれのようなものが混じった黒いみぞれのようなものに変わっていった。遊星落下で巻き上げられた土砂がここまで届いてきたのだろうか。

 

それでようやく立ち上がり、古代はあらためて周囲を見た。しばらく前には真っ平らで、まるで大きな碁か将棋の盤の上を歩いているかのようであった埋立地は、どこもかしこもヒビ割れデコボコになっていた。そこに瓦礫が散乱し、もはや道などわからない。

 

それでも足を踏み出して、どうにかこうにか歩いていくと海に出た。いや、かつては埠頭(ふとう)であったと呼ぶべき場所だ。海は赤く燃えていた。船という船が転覆し、海面に油を広げさせ、そこに火がついていたのだった。古代と同じく街から出てきたのであろう人々が、茫然として炎を見ていた。

 

海面にアリのように人が見える。火に焼かれてもがきながら、力尽きて沈んでいくのだ。その悲鳴が聞こえてきた。海には死体が浮かんでいた。何百、何千、とても数え切れはしない。人だけでなく、無数の魚が腹を見せて浮かんでいた。海鳥も羽を散らせた死骸となって浮いていた。

 

水は一面に泡立ったアクを浮かべたスープのようで、中がどうなっているかなどまったく覗き見ることができない。煮立ったようにゴボゴボと泡を噴き出している。そこに黒い空から降る黒いみぞれが波紋を立て、船が燃える炎に映えて赤い輪を広げていた。

 

近くで泣き声がする。見ると、小さな女の子が親を呼んで泣いていた。古代は何かしてやるべきかと思ったが、なんと言って寄ればいいのかわからずただ見下ろした。気づけば周囲のそこらじゅうで、親が子を呼び子供が親を呼んでいる。父さん母さんという声を聞いているうち、そう言えば、おれの親は一体どこにいるんだろうという考えが浮かんできた。ええと確か――。

 

思い出した。空をあの光が過ぎる光景を。南の空が赤く変わる光景を。あの方角にあるのは、三浦――。

 

最後に見た両親の姿が頭に浮かんだ。兄と一緒にタッドポールに乗る自分を見送りに出てきたふたり。古代は自分も母さんと叫んで駆け出そうとした。しかし振り返り見た光景が、古代にそれを許さなかった。

 

横浜の街は煙を上げて燃える瓦礫の山であり、視界すべてが暗黒の空に覆われていたのだ。黒いみぞれの中を人々がヨロヨロと、かつては公園であった場所へ歩いている。古代もその流れに乗る以外なかった。

 

せめてさっきの女の子くらい連れるべきであったかとしばらくして気づいたが、そのときにはもう遅かった。振り向いてももう誰があの子かもわからず、海で何かが爆発する炎が見えただけだった。


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