クリスマスは過ぎ去って、でも大晦日にはまだ間があって、何となくのんびりした空気がただよう年末のある日。俺は玉砂利を敷き詰めた広い前庭で、ずらりとならんだ黒服サングラスの集団に手厚くもてなされていた。
「九頭竜先生、お疲れ様です!」
黒服サングラスの皆様、一斉にお辞儀。
同時に鳴り響く陣太鼓。
一般のご家庭ではありえないような丁重なお出迎えである。こわい。
「ど、どうも、こんちは……」
おっかなびっくり挨拶を返す。しばらく来ていなかったとはいえ、毎週のように通っていたところなんだしこのお出迎えにも慣れてよさそうなものなんだが、何度経験してもこわいもんはこわい。
「先生、久しぶりだな」
「あ、晶さん! お久しぶりです」
これまたおそろいの黒服サングラスの女性、晶さんとにこやかに挨拶を交わす。晶さんとはしょっちゅう会ってるし、将棋連盟の道場に入り浸ってる常連客の一人だから緊張はしない。
「竜王防衛おめでとう。竜王戦の第二局で会ったのが最後だから……ちょうど二か月ぶりくらいか」
「そうなりますねぇ。タイトル戦でバタバタしてたんで、あっというまの二か月でしたけど」
そう、俺はこの二か月間ずっと竜王というタイトルを守るために戦っていた。
竜王決定戦の七番勝負は十月に始まり、最長で十二月の下旬まで続く。俺は緒戦から三連敗を喫したものの、粘り強く勝利を重ねてタイに持ち込み、数日前に行われた最終局でも激戦を制して、無事竜王の位を守りきったのだ!
ただ、それまでずっと続けていた弟子とのレッスンも、タイトル戦の間は中断せざるをえなかった。マスコミのみなさんの取材攻勢が一段落したので、やっと弟子の自宅がある神戸まで足を運ぶことができたというわけだ。
弟子の付き人である晶さんと話すのも二か月ぶりなんだけど、俺としてはあんまりごぶさたって感じがしない。前回ここに来たのが昨日のことのように感じられる。対局に極度に集中していたせいで、時間の感覚が麻痺しているのかもしれない。この二か月、本当にあっというまだった……
「ふうん、そんなものなのか。先生の前で言うのもなんだが、はたから見てると『いつ終わるんだ?』って感じだったぞ」
「あー、将棋のタイトル戦の決勝って期間が長いですから」
その長さを楽しむ、というのが通なんだろうけど、晶さんはまだ初心者(ルールをいまいち把握してないみたいでしょっちゅう反則する)だからな。
「しかし、七番勝負の決着がつくまで丸二ヶ月もかかる上に、他の対局もあるのだろう? 先生もよく体がもつな」
「うーん、プレッシャーというか緊張感はずっとありましたし、正直けっこうしんどかったですけど……でもまあ、俺も名人と盤を挟んで一皮むけたような気がしますね。今は心身ともに充実してますよ。充実しすぎて電車の中でもこないだの対局中の変化とか考えはじめて、何駅か乗り過ごしちゃうくらいで(笑)」
「ならいいんだが……」
晶さんは俺と会話しながら、前庭を横切って玄関まで案内してくれた。
下手すると俺の部屋(2DK)より広いんじゃないかってくらいひろびろとした玄関で脱いだ靴をそろえていると、
「そうそう、大事なことを言い忘れていた」
晶さんが唐突にそう言った。
「え、何ですか?」
「先生は果報者だな」
「……果報者?」
「お嬢様はこの二か月、先生のことをそれはそれは熱心に応援しておられた。先生が防衛に成功したときなんか、見たことのないようなはしゃぎっぷりでな。今日も、先生と会えるのを楽しみにしておられるんだぞ」
「え……天衣が、俺と会うのを? マジですか?」
「ああ。本当だ」
そう答えた晶さんは、少し羨ましそうな表情で。
「お嬢様は、強く深く先生のことを慕っておられる……たぶん、世界中の誰よりも、な」
と、つけ足した。
「気持ち悪いんだけど。死ねば?」
二か月ぶりに会った俺の弟子、夜叉神天衣が放った第一声がこれである。
激辛すぎてもはや暴力的というか自然に涙が目から溢れ出てくるというか俺今確実に泣いていいよね(泣)。
たしかに、晶さんの言葉を真に受けて、「待たせてごめんよ天衣! 天衣は竜王戦の間中ずっと、俺のために心の角道を開けて待っていてくれたんだね!!」なんて言っちゃったけどさぁ……。
「特に、『心の角道』ってフレーズは最高に気持ち悪いから金輪際使わないで」
氷のような天衣の視線が突き刺さる。俺的には、心の角道って結構いい比喩だと思うんだけどなあ……。あ、口ではイヤって言いながらも本当は気に入ってる、ってパターンかな?
「そんなこと言って心の底ではーー」
「心の底から思ってるわよ。気持ち悪いから死ねばいいのにって」
「……」
天衣ちゃん、死ねってそんな気軽に使っちゃダメな言葉なんだよ? 師匠、本当に自殺したくなってきちゃったよ?
っていうか、JSに一分間で二回「死ね」と罵声を浴びせられるタイトル保持者って一体何なの……
「次に『心の角道』みたいな気持ち悪いことを口走ったら、死ぬまで扇子で叩くから」
「師匠を物理的に死に追いやるつもりかよ!」
天衣がいつになく物騒だ。姉弟子の棋譜とか並べてその影響を受けちゃったんだろうか。師匠、心配。
「相変わらずだなあ、天衣の憎まれ口は……」
「はあ? 相変わらずなのはそっちのほうでしょ? しかも何だか今日はテンションが高いし……気持ち悪さも倍増してる感じがするわ」
「あー、テンションはたしかに高めかも。防衛成功してからずっと頭が冴えすぎてる感じで寝つきも悪いからなあ」
「なにそれ」
呆れたようにフンと鼻をならしたあと、天衣は若干口調を改める。
「……ま、七番勝負の後半は見応えがあったわ。さすが私の師匠、ってところね」
「棋譜、見てくれたのか?」
「当然でしょ。あなたの将棋なんだもの」
髪を掻き上げながら、天衣は言う。
「そっか、ありがとな。天衣はちゃんと俺の将棋見ててくれてたんだなあ」
「なっ、……なに笑ってるのよ気持ち悪い! あなたは師匠だから、仕方なく見てやってるのよ! 別にそれ以上の意味なんかないんだから、変な勘違いしないで!!」
「はいはい、わかったわかった」
「ちょ……勝手に人の頭をなでないで! 変態!!」
何度も会って話をするうちに、だんだんとわかってきた。
天衣は自分の気持ちを素直に表現できない子だ。でも、人一倍研究熱心で、俺のことを気遣ってくれてもいる。本当は、俺の竜王戦の棋譜も繰り返し並べてくれているんだろう。憎まれ口は照れ隠しだ。
天の邪鬼な感情表現は、彼女の得意な戦型『角換わり』に似ている。一見複雑で、難解で、ちょっとひねくれていて……でも、いの一番に角道を開け、お互いの陣地の深いところまでさらけ出すことを要求する、これ以上ないまっすぐな将棋。それが『角換わり』だ。
角換わりの将棋では、自分の陣地の門を開いて相手と向かい合う必要がある。
だから俺は、天衣の眼をまっすぐに見つめて、言う。
「本当にありがとう、天衣。すごく嬉しいよ」
「べ、別に……」
天衣の顔はみるみるうちに赤く染まり、耳まで真っ赤になった。正座している自分の膝元に視線を落として、もじもじしながら蚊の鳴くような声で。
「別に……私はあなたにお礼を言われても嬉しくないし……ただ、事実を言っただけなんだから……」
真っ赤な顔で言い訳する天衣を見ていると、心がほんのり暖まる。そんな暖かい気持ちを伝えようと、頭に浮かんできた言葉を素直に口に出してみた。
「そんなこと言いながら、やっぱり天衣は開けてくれてるじゃないか……俺と天衣との間をつなぐ、心の角道を」
「……ッ! 死ねッッ!! このっ……ロリコンポエマーッッ!!」
激辛な言葉の暴力と同時に、扇子の連続攻撃が飛んできた。