「指し直しになった第四局のときなんだけどさ」
「……何?」
「あいの友達から、応援メールが届いたんだよ」
「ふーん。で?」
「そのメールってのがみんなの自撮り写真だったんだけどさ、お風呂あがりに撮った写真らしくて、全員肌着姿だったんだよね。本人たちは何も意識してないんだろうけど、そばにあいと姉弟子もいてさあ、二人が怒りだしちゃって」
「死ねば?」
俺と天衣は今、指導対局の感想戦をしているところだ。
勝敗をわける局面の検討が終わったのでちょっと雑談をはさもうとしたら、また死ねと言われた。どうやら天衣は、俺の命を綿毛よりも軽いものと認識しているらしい。
まあ、天衣がいつも以上にツンツンしている理由もよくわかる。
普段の対局だったら、俺も天衣との呼吸を合わせながらじっくりと戦う。ただし今の俺は、過酷な防衛戦をくぐり抜けた直後ということもあって極限まで深く読んでしまうことを止められず、天衣が予想だにしなかったであろうタイミングで攻めを繰り出し、早々に天衣の玉を詰ませてしまった。
久しぶりのレッスンでこんな仕打ちを受けたんじゃあ、天衣もたまったもんじゃないだろう。
とわかってはいるものの、ついつい自分の読みを全力でぶつけてしまった。相手は小学四年生の弟子だというのに……。これじゃ悪の竜王とか言われても仕方ないよなあ……
「天衣、あんまりイライラするなよ? 今の対局は、俺にも悪かったとこがあるし」
「はあ? 何言ってるの?」
「実を言うとさ、防衛戦が終わってからずっと、頭の中の将棋盤が無意識に動き出して制御できないときがあるんだよ。だから今も、久しぶりの指導対局だってのに自分の読み手をゴリ押ししてーー」
「別にいいわよそんなこと」
声にますますトゲをふくませ、俺の言葉をさえぎる天衣。
「番勝負の途中からあなたの思考が異次元に飛んでたってことくらい、わかってるわ」
「いや、異次元は言いすぎ……てか、え? そんな違いがわかるもんなの?」
「わかるわよ。第三局までと第四局以降とでは、あなたの将棋が明らかに異質なものに変わった……真剣にあなたの棋譜を検討すれば、そう結論せざるをえないから」
へー、そこまでハッキリ違うのか。自分でも、あの指し直し局をきっかけに、読みの力が飛躍的に上がったような気はしていたけど……
「だから、あなたが指導対局でどれほど鬼畜な手を指してこようと驚きはしないわ。ただ、私が気に入らないのは……」
「……気に入らないのは……?」
「…………ッ! 何でもないわよ!」
肝心なところではぐらかされてしまった。一体俺の何が気に入らないんだろうね、このお嬢様は。
「…………………………」
天衣はそのまま一言もしゃべらず、じっと黙っている。なんだか気まずい……
「え、えーと、何話してたんだっけ? そうそう、あいの友達が写メを送ってくれたって話で、」
「ロリコン自慢もいい加減にしてちょうだい。耳が腐るわ」
「そう言わずに聞いてくれよ。だってさ、小学一年生まで深夜の対局を見守っててくれたんだぜ? それを知って、けっこう元気が出たんだよ。まあ、だいぶ遅い時間だったから、天衣はさっさと寝てたかもしれないけどさーー」
バンッ!!
大きな音が、部屋中に響いた。
天衣が将棋盤を両手で叩いた音だった。
「あ、天衣……!?」
「寝てたわよ! あなたが竜王として不甲斐ない戦いをするから! 愛想をつかせて寝てたのッ! 悪い!?」
「な、なに怒ってるんだよ……」
「怒ってないッ!!」
だ、だめだ会話にならねえ……
天衣は両目をキッとつり上げて、俺を睨んでいる。
どうしたんだ……? 俺、天衣の気に障るようなことでも言っちゃったの……?
「そ、そうだ! 今日は天衣に大事な話があるんだ!」
天衣の怒りをやわらげようと、俺は起死回生の一手を放つ。
「ほら、これ! 天衣へのプレゼント!!」
「申請……書……?」
そう、俺がサプライズで用意していたのは、女流棋士になるための申請書。これなら天衣も喜んでくれるはず!
「資格はあるけど、申請はまだだったろ? だから今日、その相談もしようと思ってさ」
「…………」
「申請書、いつ提出しようか? 今年中に提出した方が、年明けからスムーズに色んな活動ができるようになるけど……」
「……どうだっていいわよ、そんなの」
あれ? 反応がかんばしくないな。予想してたリアクションと全然違うぞ?
俺の予想だと、「う、嬉しくなんかないわ!」と言って大喜びするか、「私の実力からすると、遅すぎるくらいね!」と言って大喜びするか、どっちかだと思ってたんだけどなあ……
「これで天衣も、将棋指しとして一人立ちできるんだぞ? まあ、天衣は今までもずっと一人で強くなってきたわけだから、あんまり変わらないように感じるかもしれないけど」
「…………」
「あ、あれか? 正式な師弟関係になって、一門の人たちとの付き合いが増えるのがイヤなのか? それについては心配要らないよ。天衣は神戸に住んでるわけだし、大きなイベントがあるとき以外は、今まで通り一人でこっちにいればいいんだ」
「…………ッ!」
「別にこの申請書は、棋士の行動を縛るもんじゃない。一匹狼みたいな人は将棋界にけっこういるし、最新の研究に触れられるような環境さえ整えておけば、これまで通り一人で研究を重ねていってもいい。どんどん力をつけていければ、俺が教えることもなくなってくるし、そうしたらこのレッスンもする必要がなくなってーー」
そのとき突然、天衣が俺の手から申請書をむしりとった。
「天衣!?」
天衣のようすは明らかにおかしかった。目には涙をいっぱいためて、体は小刻みに震えている。
「どうしたんだ、天衣!? 一体何がーー」
「うるさいッ! うるさいうるさいうるさいッ!」
天衣が叫ぶたび、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
「あなたなんかにーーあなたなんかに、入門するんじゃなかった!!」
そう絶叫して。
天衣は、申請書を勢いよく引き裂いた。
俺があっけにとられている間に、申請書は細かい紙くずになって、将棋盤の上にはらはらと積み重なり、畳の上にも散らばっていく。
「あ、天衣…………!?」
「…………」
天衣は無言で踵を返し、俺に背を向けた。
「待ってくれ、天衣!」
俺が天衣の腕をつかもうとするとーー
「触らないで!!」
天衣は俺の手を乱暴に振り払い、襖を蹴倒さんばかりの勢いで部屋から出ていった。
「どうかなさいましたか、お嬢様!?」
天衣が部屋を出ていくのと入れ違いで、反対側の襖から晶さんが部屋に飛び込んできた。
撒き散らされた紙片。
ぐちゃぐちゃになった盤上の駒。
そして、将棋盤のそばで立ち尽くす俺。
晶さんの眼に映ったのは、たぶんそんな光景だったにちがいない。
「……どういうことか説明してくれ、先生」
晶さんは、低い声でそう言った。