将棋は一人で強くなるものだ。
下手に他人と仲良くすると、勝負のときに余計なことを考えてしまうようになる。だから、友達なんてつくらない。私はずっと一人で生きていく。
そう決めていたはずなのに。
彼の言葉は、私の心を深くえぐった。
『今まで通り一人でこっちにいればいいんだ』
その言葉を聞いた瞬間、谷底に突き落とされたみたいな衝撃を受けた。
他の人間に言われたんだったら、こんなに傷つくことはなかったと思う。他の誰でもない、彼が言った言葉だからーー私を暗い孤独から救ってくれたその人に「一人でいろ」と言われたから、私はこんなにも傷ついているんだ。
物心つく前から、彼の名前を聞かされて育った。物心ついたときには、私は将来彼の弟子になるんだと確信していた。
彼の棋譜を数えきれないほど並べて、得意戦法も身に着けた。会ったこともないその人と、棋譜を通じて何度も会話をした。
一人で将棋を指していても、いつもその人がそばにいてくれるような気がして……お父様とお母様が亡くなったあとも、私は将棋盤に向かうことでさびしさを紛らわせた。将棋盤の前に座って将棋の研究をしていると、お父様とお母様の思い出が私を慰めてくれたし、一度も会ったことのないはずのその人が、どこからか颯爽と現れて私を優しく導いてくれる……そんな気がした。
四年生に上がってすぐ、葉桜の季節に、とうとう彼に会って弟子入りすることができた。私が思い描いていたほど颯爽とはしていなかったし、想像よりもちょっと厳しかったけど……でも、ものすごく強かった。そして、私のことをとても大切にしてくれた。
でも、彼には、私よりも先に入門した弟子がいた。私と同い年の女の子で、しかも内弟子。どさくさにまぎれて、「誰が一番なの?」と彼に訊いてみたときも、私だと言ってはくれなかった。私は彼にとって、二番目の存在に過ぎないーーだんだんと、そう思うようになった。
それでもいい。私は開き直ることにした。
離れていても、将棋を指してさえいれば、彼のことを身近に感じることができる。私は一人でも大丈夫。彼にとって何番目だっていい。私が世界で一番、彼のことを大切に思っているはずだから……
私には、それで充分。
それで充分だった、はずなのにーー
口の先では「一人でも大丈夫」とか、「将棋があれば、それでいい」と言ってはいたけれど……ふとしたときに、心の奥のほうで真っ黒な疑問が頭をもたげることが、何度もあった。
「どうして私以外の女性と、そんなに仲良さそうにしているの?」
「どうして私とは、レッスンのときにしか会ってくれないの?」
「…………どうして、私が一番じゃないの?」
私の心の中で、そんな気持ちが少しずつ少しずつふくらんでいって……
そして、今日。彼の言葉が引き金になって、私は自分自身を抑えることができなくなった。
『あんたなんかにーーあんたなんかに、入門するんじゃなかった!』
本当の気持ちとは似ても似つかない、いびつな言葉を投げつけて。彼が用意してくれた申請用紙を、むちゃくちゃに引き裂いて。私は部屋に閉じ籠った。
最低だ。
いくら彼でも、こんなひどいことをする私に愛想をつかしてしまうに違いない。女流棋士の申請書も破いてしまった。師弟関係を解消されてしまう可能性だって、充分にある。
もしそうなったらーー
私は、本当の独りぼっちになってしまう。
そんな恐怖に怯えて、私は今、薄暗い部屋のベッドで泣いている。自分の心の奥に潜んでいた真っ黒な気持ちと、ただひたすらに向き合いながら……
俺が事情を説明すると、晶さんは激怒した。
「せ……せ……お、お、……きっ……きっ……くぅ…………ッ!」
怒りでわなわなと震え、しゃべることすらままならない様子の晶さん。
「…………あッ!………………いッ!………………ぅッ!………………ぉッ!」
はたから見ると面白いかもしれないがーー
「…………ッ!…………ッ!…………ッッ!!!」
「わあああちょっとネクタイ締め上げないでぐるじいいいいいいっ!!」
猛烈な怒りの対象が他でもない俺自身だからまったく笑えない。
というか、俺のネクタイを締め上げる力から割と本気で生命の危機を感じる。晶さんこええ……!
「先生は! お嬢様の! 気持ちを! 少しも! 分かっていない!!」
「ーーーーーーーー」
晶さんはどうにか日本語をしゃべれるようになったようだが、ネクタイを締め上げる手をゆるめてくれないので、今度は俺がしゃべれない。というか、呼吸ができないッ……!!
「ゲホッゲホッ……どういうことですか? 天衣の、気持ち……?」
窒息死寸前で解放され、首をさすりながら尋ねる。
「いいか、お嬢様はなッ! 第四局の指し直し局が終わるまで、寝ないで対局を見守っていたんだぞ!」
え……? さっき、俺が「天衣はさっさと寝てたかもしれないけど」って言った、あの対局で!?
「私が何十回、部屋にもどってお休みになるように言っても……お嬢様は縁側でずっとタブレットを見ていた! 先生の指し手を確認して、考え込んで、画面の情報が更新されたらまたそれを見て考えて……一晩中ずっと、それを繰り返していたんだ!」
「…………!」
「明け方近くになって先生の勝ちが決まったとき、お嬢様がどれだけ喜んだか教えてやろうか!? お嬢様は泣いたんだ! タブレットの画面を私に見せながら……すごい勝負だった、感動したと言いながら、涙を流していたんだぞ! 先生がやっと勝った、これまでは負け続けていたけど、これが先生の本当の実力なんだ、先生は絶対に竜王を防衛するんだと言って、お嬢様は泣いていたんだぞ!!」
「あ…………」
「第四局だけじゃない! 第一局から第七局までずっと……お嬢様は先生の戦いを見守っていたんだ! 先生のことを信じて、先生の勝利を祈って……この二か月間ずっと、お嬢様は先生のことだけを想い続けていたんだぞッ!」
「あ……ああっ……」
思わず小さな悲鳴が口から漏れる。
俺は、なんてひどいことを言ってしまったんだろう。とてつもない後悔で、胸がつぶれそうだった。
「それなのに……それなのに、先生は……今まで通り一人でこっちにいろだの、一人立ちしたらこのレッスンは必要なくなるだの……あまりにも冷たい言い草じゃないか……!」
晶さんは顔をぐちゃぐちゃにして泣いている。
何一つ反論できなかった。タイトルを防衛していい気になって、天衣のことをわかったつもりになっていて、天衣がどれだけ俺を応援してくれていたのか、想像してやることすらできない自分が情けなかった。
後悔で頭が真っ白になっていた、そのとき。
バカみたいに突っ立っている俺の腕を、晶さんが強く引っ張った。
「ついて来い」
鬼のような泣き顔で、晶さんは言った。
「お嬢様のお部屋に案内してやる」
天衣の部屋は、長い階段を昇りきった先の、廊下の右手にあった。
晶さんがドアの前に立って、中の様子をうかがう。
「うん。やっぱりだ、このお部屋の中だ」
「物音ひとつ聞こえてきませんけど……本当に中にいるんですか? 別の場所にいる可能性も」
「いや、お嬢様はお部屋の中にいらっしゃる。私にはわかる」
「えっ、なんでわかるんですか?」
「匂いでわかる」
「に、匂いでわかるんですか!?」
「そうだ。お部屋の匂い、お洋服の匂い、シャンプーの匂い、それからお嬢様がお流しになる汗の匂い、どれも少しずつ違うからな。部屋の中にいらっしゃるかどうかもわかるんだ」
「…………」
さすが付き人と言いたいところだけど、気持ち悪くて若干引く。
「……あ、晶さんは天衣のことをものすごくよく知ってるんですね!」
「たしかに私は、天衣お嬢様のことを誰よりもよく知っている。でも、私はお嬢様を笑顔にすることができない」
晶さんはそう言いながら、悲しそうに首を振った。
「お嬢様のご両親が亡くなられたあと、お嬢様は滅多に笑うことがなくなった。私がどんなに励まそうとしても、駄目だった。お嬢様が少しずつ明るくなってきたのは、先生に入門なさってからのことなんだ」
「…………」
「先生、前にも同じようなことを言った気がするが……お嬢様の気持ちをよく考えて差し上げてくれ。私から言えることは、それだけだ」
「晶さん……」
「お嬢様を頼むぞ」
そう言い残して、晶さんは長い階段を下りていった。
晶さんの後ろ姿を見送ったあと、俺は部屋のドアを拳で叩きながら、天衣に向かって呼びかけた。
「天衣! 中にいるんだろ? このドアを開けてくれ!」
返事はかえってこなかった。
「……もし開けたくないんだったら、俺がここで勝手に大声でしゃべることにする。だから、話だけでも聴いてくれないか」
ドアにそっと触れながら、語りかける。
「竜王戦の間、ずっと俺の戦いを見守ってきてくれてたんだろ? 指し直し局も、勝負がつくまでずっと起きて応援してくれたんだよな? 晶さんから聞いた。さっきはひどいことを言ってしまって……本当にごめん」
相変わらず反応はない。俺はかまわず話し続ける。
「天衣、将棋は一人で戦うゲームだ。だから、頼りになる人がそばにいなくても気持ちを強く保てるようにならないといけない。……だけど……、俺は天衣のことを一人で放っておいたりはしない。ずっとそばにいることはできないかもしれないけど、天衣が一人で戦っていくための心の支えになれるように、俺ができることはなんでもさせてほしい。毎日会えなるわけじゃないけど、だからこそ、天衣と一緒に過ごせる時間を大切にしたい。これからもずっと、何度だって天衣と将棋を指したいと思うんだ。だから、天衣……」
息を大きく吸い込んで、あらんかぎりの声を出す。
「俺はもう二度と、お前のことを泣かせたりしない! さびしい思いをさせたりもしない! お前が心の涙を流したときは、俺の飛車で拭い去ってやる! 暗い気分のときには、俺の角で七色の虹を描いてみせる! だから……だから、これからもずっと
そう叫んでから、どれくらいの時間が経っただろうか……
ふいに、部屋の扉が開いた。
「天衣……」
部屋から出てきた天衣は、腕組みをして顎をツンと上げると、高らかに言い放った。
「相変わらず気持ちの悪いロリコンポエムね。通報されたいのかしら?」
いつも通りの憎まれ口をたたく天衣の目に、涙はもうなかった。